ビブリスの糸


 顔色が悪いから休んだ方が良い、とレオンが言われたのは、体育の授業中の事だった。
いつも通りにしているつもりだったが、昨晩の寝不足が完全に表面化していたらしい。
実際、頭痛も時間を追うごとに酷くなっていたし、症状が軽くなる予感もしなかったので、途中から授業を見学させて貰う事にした。

 体育館の中にいるのは男子生徒だけで、女子生徒は別の体育カリキュラムで今日はグラウンドを使っている。
全校集会となれば、ガーデン中の生徒が此処に集められるので、体育館は相当な広さだ。
その片隅でぽつんと座っていると、妙に疎外感のようなものを感じられる事もあるのだが、今日ばかりはそれも仕方がない。
レオンは運動の為にと結っていた髪を解いて、立てた膝に額を押し付けて溜息を吐いた。


(眠い……)


 昨晩、まるで眠れなかったツケが、今になって襲い掛かって来る。
その癖、頭痛はまるで波が引かないから、これでは眠ろうにも眠れる気がしなかった。


(せめて頭痛が治まれば……)


 休むにしろ、気を紛らわせる為に何かをするにしろ、ともかく頭痛が鬱陶しい。
今のレオンの体力気力を根こそぎ持って行くのは、間違いなくこれだ。
体育館に響くホイッスルの音すら姦しく聞こえて、レオンは重い右手で片耳を塞いだ。

 ばらばらと生徒達が好きに散らばり始めて、どうやら今日の授業予定は終わったらしい、とレオンも知った。
授業時間はあと十分程度が残っており、時間一杯まで体育館内での自習となったようだ。
レオンは結局、殆ど見学しているだけで終わってしまった。

 好きに過ごすアイテムを求めて体育倉庫へと向かう生徒が多い中、レオンの方へと近付いて来る影が二つ。
エッジとロックだった。


「よう、レオン。調子はどうだ」
「あんまり良くなさそうだな」
「……ああ」


 二人はレオンの目の前まで来てしゃがみ、級友の覇気のない顔を覗き込む。
ロックがレオンの額に手を当てて熱を測ってみるが、


「熱はないんだな」
「ああ。多分、寝不足なんだ。昨日眠れなかったから」
「バイトが忙しかったか?」
「昨日はバイトは入ってなかった」
「じゃあチビ達がなんか駄々捏ねてたか?おにーちゃんと一緒に寝る〜、とかな」
「……いや」


 昨日のスコールとティーダは大人しいものだった。
二人ともそれ程手のかかる子ではないが、甘えたい盛りであるのは確かで、何かと兄姉にくっつきたがる。
それが昨日はレオンには殆ど甘えて来ず、勉強も自分でやっていたし、判らない所はエルオーネに聞いていた。
風呂はエルオーネに促されると直ぐに入ったし、寝かしつけにも時間はかからなかった。
良い事じゃないか───と他人なら言うのだろうが、レオンにとってはそうではない。

 スコールもティーダも、幼いなりに周りの事が良く見えており、人の空気の変化と言うものにも敏感だ。
彼らはきっと、レオンの様子がいつもと違う事を感じ取っていた。
二人が物言いたげな表情をしながらも、「どうした?」とレオンが訊くと、「なんでもない」と首を横に振ってしまったのも、きっとそれが原因だろう。

 エルオーネも同じ事だ。
姉として、レオンの妹として、気配りを絶やさない彼女だが、昨日は特にレオンに対して気を回していた。
早くレオンが休めるように、食器の片付けは自分がやると言って攫って行ったし、風呂にも先に入ってと言った。
朝食の仕込みも引き受け、レオンをキッチンから追い出した位だ。
姉のそうした行動もまた、弟達の聞き訳が良すぎる一面を誘ったのだろう。

 そして、朝もまた、妹弟達はしっかり者だった。
碌に眠れないまま朝を迎えたレオンが、重い体を起こしてキッチンに行くと、それから程無くエルオーネが起きて来た。
此処まではいつも通りだが、ティーダと朝に弱いスコールまでもが、姉を追うように速い時間にキッチンに顔を出したのである。
結局四人で朝食の準備をし、レオンもなんとか食べ物を胃に入れる事は出来たのだが、


(……腹が重い。大した量を食った訳じゃないのに)


 朝食を済ませて数時間が経っていると言うのに、レオンは胃凭れしているような気がしてならない。
摂取したものが真面に消化されないまま、いつまでも胃袋に残っている。
正直、今日は昼食を食べる気になれない。

 はああ、と深い溜息を吐くレオンに、エッジとロックは顔を見合わせた。
妹弟から離れている今だから、と言うのはあるだろうが、それでも此処まで疲労を隠さないレオンの姿は珍しい。


「お前、何かあったか?」


 レオンが此処まで困憊している時と言うのは、必ず何か理由がある時だ。
ガーデンと言うこの箱庭で知り合って以来、短くはない付き合いで、二人はそれをよく知っていた。

 レオンは一度顔を上げ、二人の顔を交互に見る。
蒼の瞳が何かを求めるように揺れているのを見て、こいつは重症だとエッジは思った。
その瞳はまたしばらく彷徨った後、レオンは躊躇を表す唇をぐっと噤んだ後、


「……エッジ。ロック」
「ん?」
「……相談があるんだ」


 はっきりとそう言ったレオンの顔が、悲痛に助けを求めているのを感じ取って、二人の友は一も二もなく頷いたのだった。



 人の気配がある場所ではどうにも口にし辛くて、レオンは場所を変えたいと言った。
体育教師には、調子の悪いレオンを風に当たらせる為と理由を話して、体育館から出る許可を貰った。
授業時間も残りは僅かであるし、チャイムが鳴ったらそのまま教室に戻って良いとのこと。

 レオン達は体育館の裏手へと回った。
其処にも建物への出入口はあるが、グラウンドや校舎と繋がっている渡り廊下とは反対の位置にあるので、普段は先ず人の気配がない。
此処なら誰かに聞かれる事もないだろうと、レオンは改めて友人たちに事の原因を話した。

 ────それを聞いたエッジが真っ先に顔を赤くしたのは、無理もない。


「お前!人があれだけ忠告したのに!」


 勢いの余りに胸倉を掴んで声を荒げるエッジに、レオンは返す言葉がない。
そんな二人の間にロックが入って、まあまあ、とエッジを宥める。


「向こうの方から寄って来るんじゃレオンの所為じゃないって」
「近寄って来た時点で逃げろってんだ」
「……今は自分でもそうするべきだったと思ってる」


 悠長に穏便な逃げ道を探している場合ではなかった───今更ながら、レオンは心の底からそう考えていた。
何度目かの溜息を吐いてそう言うレオンに、エッジは眉尻を吊り上げたまま、掴んでいたレオンの胸倉を放す。


「で?迫られたって、それだけか?他に何かされた訳じゃねえのか?」
「他……」


 昨日の事はあまり思い出したくなかったが、仔細を説明する為にもそう言う訳にはいかない。
何故か霞がかかるように明瞭さを欠く記憶を、レオンはどうにか掘り起こし、赤い唇がゆっくりと近付いて来る光景を思い出して、瞬間湯沸かし器のように顔が熱くなった。


「………」
「……おい。おい、おい!」


 赤い顔で固まるレオンに、エッジの眦が剣呑に尖る。
また食いかからんばかりのエッジを、ロックが肩を抑えて止めた。


「落ち着け、エッジ。レオン、ないよな?何もないんだろ?」
「まさかヤったんじゃねえだろうな!?」
「な……!馬鹿を言うな!ない!何もない!」


 オブラートを捨てたエッジの一声に、レオンは全力で否定した。
珍しく大にしたレオンの声が響き渡り、ロックは慌ててその口も塞ぐ。


「しーっ!お前が人に聞かれたくないって言ったんだろ、静かに。エッジも露骨な事でかい声で言うなよ!」
「……すまん」
「悪い。つい」


 叱るロックに、レオンとエッジは揃って詫びる。
ごほん、とレオンは咳払いをして、気持ちをリセットし直してから、


「お、押し倒された、けど、其処までだ。それ以上は、何もされてない」
「十分危ねえ事されてんじゃねえか、それ」
「ちゃんと逃げたんだよな?」
「ああ。突き飛ばしてしまったけど……」
「それ位、抵抗してりゃ当たり前だ。変に気を悪くなんてするなよ。あの先生、そう言うのに付け込んで来るぜ、きっと」


 厳しい顔つきのエッジの言葉に、レオンは小さく頷いた。
女性を強く突き飛ばした事は、後になって少し冷静になってから、手荒いことをしてしまった気にはなったが、しかしあの時のレオンには明らかな身の危険が迫っていた。
若しも彼女が怪我でもしていたらと思わないでもなかったが、ではあのまま大人しくしていたらどうなっていたか。
今のレオンには、考えるのも恐ろしい。


「…正直、また先生に会いそうで、ガーデンに来るのも少し億劫だったんだ。今日はオルフラクト先生の授業は入ってないけど、先生はガーデンにいるだろうし、会わない保証なんてないだろう。でも、休むのはエル達に心配させてしまうだろうし、寝不足は授業に集中すれば気が紛れるかと思って……」
「無理して来たけど、やっぱり駄目だった訳だ」
「……それに、俺が休んだら、またスコールに声をかけるんじゃないかと思うと…嫌で……」
「あの先生、チビ達にも目つけてんのか?」


 目を丸くするエッジの言葉に、レオンは頷いた。


「昨日、オルフラクト先生が言っていたんだ。俺の好きなものをスコールから聞いたって。どうもデタラメを答えたようだったけど……スコールはそう言う事は出来ないだろうから、多分、ティーダも一緒だったんだろう」
「獲物の情報集めってとこか。まさかチビ達にまで手ぇ出すつもりじゃないだろうけど……いや、判んねえな……」
「仮にも教師だぜ?流石に子供には───だよな?」
「俺もそう思いたいんだが……」
「寮であんな噂があって、教室で生徒を襲うような先生だぜ。信用なんて出来るかよ」


 きっぱりと言い切るエッジに、ロックとレオンも反論は出来なかった。
共にネヴィアから迫られた経験のある二人だ。
その時、ネヴィアのした事がただの揶揄であろうと、その被害にあった身としては、彼女の潔白を証明する気にはなれない。
寧ろ、そう言う人物であったとしても驚かない位には、ネヴィア・オルフラクトと言う女性について、危険人物であると言う認識は共有していた。

 レオンは俯いて、昨日から考え続けている不安を口にする。


「……昨日は確かに、怖かった。あんな事をする人がいるなんて思いもしなかったし、押し倒されるなんて……でもそれ以上に、あの人がスコール達に声をかけていたって言うのが怖いんだ。俺をなんとかしようと、スコールやティーダや、エルに何かしてくるかも知れない……」
「しないとは言えねえな。お前、家族の事になるとてんで弱いから」


 家族の存在は、レオンにとって自分の命よりも大切なものだ。
故に妹でも弟でも、簡単にアキレス腱にもなり得るもので、レオンを篭絡する為に利用する手段としては最も効果的だろう。
レオンもそれを自覚しているから、尚更、自分の所為で彼らに魔の手が伸びる事を恐れている。


「このままあの人が此処にいたら、いつかはスコール達の担任になる事もあるかも知れないし、その時スコール達があんな事をされたら……怖い思いをしたらって言うのも、不安なんだ」
「確かにな。チビ達だけじゃなくたって、あの先生は教育に悪過ぎる。なんだって教師なんてもんやってるのか不思議な位だ」


 教師は聖職者───等とエッジは考えてはいないが、そう言う文句が付きまとうものである。
若者を教え導く者として、立ち居振る舞いには品位が求められるものだ。
しかし、ネヴィア・オルフラクトのように、そう言った職に就きながら、堕落の悦びを与える事に愉しみを見出す者は存在する。


「……正直、あの先生には、ガーデンにいて欲しくない」
「……同感」


 レオンの呟きに、ロックが言った。
二人とも風紀との乱れと言うものに言及するつもりはないが、このまま彼女がガーデンに居続けていたら、良くない波及が起きるのは想像に難くなかった。
それは本来求められる“箱庭ガーデン”の姿ではない。

 ───とは言え、彼女に真っ向からガーデンを出て行ってくれと伝えた所で、通じる筈もないだろう。
寧ろ面白がって此方を更に揶揄うか、あちこちを巻き込みながら優位に立とうとするかも知れない。


「……大人に言ったら、なんとかなると思うか?」
「……どうだろうな。あの先生、あちこち唾つけてそうだ」


 ネヴィアに付きまとう噂について、眉を顰める教員がいる事は知っている。
しかし、ネヴィアは全くそれを意に介せず、噂も払拭しようとする様子もなく、話の出所たる男子寮にも出入りを続けている。
生徒からの支持も多いと言う事もあるし、悪戯に罰する事が出来ない雰囲気もあり、彼女の教師としての正当性を問う力が働いているとは思えなかった。


「レオンみたいな事されてる奴が他にいるとは思うんだよな。ロックも玩具にされてる訳だし」
「その言い方やめてくれよ。でも確かに、いない訳じゃないと思うぜ。なのに誰もそういう事を他の先生に言わないって事は───」
「……口止めされているか、言うに言えない状態にされているか……」
「レオンがこの話、他の奴等に聞かれたくないってのと同じな奴もいると思うぜ。真面目な奴ほど言い難い筈だ。お前みたいにな」


 レオンを指差してエッジは言った。
不純異性交遊、それも教師と───と言う状況は、余程口が軽いものではなければ、安易な吹聴は出来まい。
合意あろうと問題視されるであろうそれは、例え強いられた関係であったとしても、露見してしまう事そのものを恐ろしく考える者もいるだろう。


「それに、言うにしたって、誰に言うかだ。あの先生が好き勝手にしてる所を見ると、下手に誰かに相談しても握り潰されそうじゃないか?」
「でも俺達じゃどうにも出来ないだろ」
「となると……」


 エッジが俯き、口元に手を当てて考える。
レオンはそんな友人を、ただ見詰めて待っていた。
寝不足の頭と、昨日の出来事を思い出している内にどっと疲労感が蘇って来て、思考回路を働かせることが出来ないレオンには、それしか出来ることはなかったのだ。

 それから十数秒の沈黙の後、エッジがちらりとレオンの顔を見る。
じっと見つめるその瞳は、レオンの意思を確認しているようだった。


「……レオン。お前、この事話すのなら、学園長とイデア先生とどっちが良い?」
「な……」


 エッジの口から出て来た名前に、レオンは目を丸くした。


「どうしてあの人達に話さないといけないんだ」
「あの先生の息がかかってない確実な人間で、お前の言うことを絶対信じてくれるのは、あの人達しかいないだろ」
「それにしたって、急に……他の、ヤマザキ先生とかでも。生活指導もしているんだし」
「そのヤマザキが噂の事で注意してんのに、あの先生はお構いなしでお前を襲って来たんだぞ」
「仮面してる先生達は?あいつら、好きじゃないけど、何かとお堅いだろ」
「信用ないね。あいつら、生徒には口煩ぇけど、教師同士はどうだか。レオンが襲われたってのも、何処まで信用するか判らないぜ。勝手に色々決めつけてきやがるし」


 仮面の教師とは、このガーデンに数名確認する事が出来る、同じ被り物をしている教員の事だ。
バラムガーデンは高等部の生徒は社会的ルールを育むと言う目的で制服の着用を義務としているが、それ以外は大人も含めて基本は自由であった。
体育教師は動き易いジャージで、その他の教員はフォーマルに寄せた服である事が多いが、スーツの色やスカートスタイル、パンツスタイル等は個人の好みになっている。
そんな中、仮面の教師は、被り物だけでなく、赤を基調としたローブのような服で揃えている。
服装を統一させて、まるで何かグループを組んでいるような彼等を、不気味に思う生徒は少なくはない。

 この仮面の教師たちは、生徒に対して厳しい事に定評があった。
特に何かと悪戯を仕掛けて教師を翻弄するエッジは、判り易く目の仇にされており、テストの答案を盗んだと一方的に犯人扱いされた事もある。
「生徒に娯楽は必要ない」と言って、一時期流行していた小さな携帯型の育成ゲームも、校内でそれを触っている生徒を見付けると軒並み没収していた。
その後、没収された生徒の私物が持ち主の下へ戻ったのかと言えば、あまりその様な話は聞かない。
寧ろ、返して下さい、と陳情する生徒の姿が後を絶たない事を見ると、殆どは没収されたままになっているのだろう。
学生の本文は勉強する事にあり、ルールは確かに守るべきものであるが、其処に明確に明記されている訳でもないのに、大事な私物を没収されたままと言うのは、生徒にとっては辛い。

 それらの話だけでも、仮面の教師たちが生徒にとってあまり快くない者であるのは明らかであるが、最も生徒が反発を覚えるのは、居丈高な態度だろう。
「生徒は管理するべき未熟な存在」と言う思想めいた考え方を持っている者が多いようで、何かと高圧的な物言いをする為、レオンでも時には腹に据えかねる事もある。
その癖、生徒間で起きる問題───例えば喧嘩であるとか、いじめであるとか───には無関心なきらいが見られる者もいて、相談しても真面に取り合って貰えない事もあると言う。


「あんな連中に相談なんて出来るか」


 吐き捨てるように言うエッジに、ロックも口を噤むしかない。
ロックは余り彼等に捕まる事はないが、友人であるエッジが濡れ衣を着せられた件は覚えている。
確かに、エッジの日々の過ごし方にも問題があるのは事実だが、明確な証拠もないのに友人を犯人扱いしていた事は、ロックも気持ちの良いものではなかった。


「……ま、確かにそうだな。下手に相談なんてしたら、レオンの方が変な疑われ方しそうだ」
「其処までは……ないと思いたいが。でも、そうだな……信じて貰えるかと言われると……」


 仮面の教師たちが、自分の訴えをストレートに汲み取ってくれるかと言われると、レオンも其処は首を縦には振れなかった。
自分がされた事と、それに対する他者の目撃証言もない事を鑑みると、相談しても取り合って貰えない気がする。

 ───そう考えると、行き付く先は少なかった。


「だから学園長かイデア先生だ。あの人達なら、レオンが嘘なんて言わないって信じてくれるだろ?」


 バラムガーデンの学園長シド・クレイマーと、その妻イデア・クレイマー。
ガーデン創立以前は、孤児院を開いていた彼等の下に、レオンとその妹弟は籍を置いていた。
今でこそレオンハート家が早すぎる自立の為に直接の庇護元からは離れたものの、週末にはイデアが頻繁に兄妹弟の家に訪れている。
ガーデン内でも、挨拶も立ち話もするし、弟達はイデアを見付けると「ママ先生」と呼んで抱き着く。
シドもレオンと顔を合わせる度、何か困った事はないですか、と気にかけてくれていた。

 しかし、そんな人たちだからこそ、レオンはどうしても気後れしてしまう。


「でも、先生達に心配をかけるような事は……」
「それがネヴィアあの先生の思う壺ってもんだろ」


 躊躇うレオンに、エッジが言った。


「迷惑かけたくないって相談しなかったら、いつまでもこのままだ。あの先生はガーデンで好き放題して、お前もきっとまた襲われる。俺達でどうにか出来ないんなら、大人にどうにかしてもらうしかねえ。ちゃんと理解のある大人に、な」
「……そうだな。あの先生がいるって思うと、俺も気が休まらないのは確かだ。レオンはもっと不安になるんじゃないか。エルちゃん達もいるんだし」
「……ああ……」


 レオンに付き纏うのは、自分の身の不安だけではない。
既に接触していると思しき弟達は勿論、関係を邪推されたエルオーネの事も心配だった。
そうして不安を抱えていれば、妹弟はその気配を感じ取り、負の感情は移り広がって行くだろう。
家族の皆が不安で眠れなくなるのは、レオンは絶対に嫌だった。

 ふう、とレオンは一つ息を吐く。
それは心を落ち着かせる為でもあったし、プライドや矜持のような、自分自身の殻を守るものを手放す為でもあった。


「……話すなら……シド先生が良い」
「よし。じゃあ決まりだな。学園長室に行けば大体いるか?」
「判らない。最近は忙しいみたいで、ガーデンにいない事もあるんだ」
「こういうのは早い内に言った方が良いだろうからなあ。取り敢えず、今日の昼休憩か放課後に行ってみよう。俺達も一緒に行くからな」


 ぽん、とロックの手がレオンの背中を叩く。
気持ちは同じだと、エッジがレオンの肩を捕まえるように組んできた。
顔を見ればにやりと笑って見せるエッジに、レオンの引き結ばれていた唇がようやく緩んだ。




 昼休憩にレオン達が学園長室を尋ねると、イデアが出迎えてくれた。
シドはバラムの街に出ているようで、放課後には帰って来ている筈だと言う。
珍しいレオンからの訪問───それも友人たちが一緒だ───にイデアは「どうしたの?」と訊ねて来たが、やはり理由を話すのは憚られて、レオンは曖昧にして半ば逃げるようにその場を離れた。

 午後の授業はいつも通りに出席している。
ロックからは保健室で休ませて貰った方が良いんじゃないか、と言われたが、レオンは教室にいたかった。
其処なら、自分以外にも沢山の生徒が空間を共有しているからだ。
保健室には保険教諭のカドワキが常駐しているが、休む為のベッドルームは仕切られていて、外界からは少し切り離された形になっている。
それが今のレオンにとっては反って不安を誘い、あまり一人きりになりたくなかった。

 放課後を迎え、レオン達はもう一度、学園長室へと足を運んだ。
昼に続いてやって来た少年達を、イデアは快く迎え入れる。
先に聞いていた通り、シドはガーデンに帰ってきており、レオン達の為にコーヒーを淹れてくれた。


「───それで、私に何か用事があると聞いたのですが、なんでしょう」


 来客用のソファに並んで座った三人の少年を見て、シドが切り出した。
判ってはいたが俯いてしまうレオンに、彼を挟む形で並んでいるエッジとロックが目配せをする。


「折り入って相談と言うか。話したい事があるんです」
「それは皆さんからですか?」
「……ま、そーっスね。一番はレオンだけど、気持ち的には俺達も同じ事なんで」
「それで、その前に、ちょっと……えーと……」


 ちら、とロックの視線が備え付けのキッチンに向かっているイデアを見る。
レオンの妹弟への土産にと、手作りのクッキーをラッピングしている彼女。
少年達が気まずい表情でその背中を見ている事に気付いたシドは、彼等が言葉にし辛くも求めている事に気付き、


「イデア。少し席を外して貰っても良いですか」
「あら……ええ、判ったわ。中庭のお花が元気がないって聞いてるから、しばらく其処にいますね」
「はい」


 夫の申し出にイデアは珍しいことと目を丸くしたが、ソファに座っている少年達を見て、直ぐに表情を笑みに変えた。
今日だけで二度に渡って学園長室にやって来た少年達が、何か理由があって来ているのだと言うことは理解している。
自分がいる事で彼らが話し辛いのなら、とイデアは手早くキッチンを片付けて、学園長室を後にした。

 扉の閉じる音がして、数拍の後。
イデアの気配がすっかり消えた室内で、ふ、と息を吐いたのはレオンだった。
俯くレオンの表情が、少年達の中で一番鎮痛な色をしている事に、シドは気付いている。


「何かありましたか、レオン」
「……シド先生……」
「話すのが辛い事であれば、お友達からでも構いませんよ」
「どうする?」


 シドの気遣いに、ロックがレオンの意思を確認する。

 昨日の出来事は、思い出そうとすると頭痛が酷くなる。
まるで思い出す事そのものを拒否する事で、自分の心を守ろうとしているようだった。
それ程、レオンにとってショックな出来事でもあったと言うことだ。
それを自ら口に出すと言うのは酷くストレスのかかるもので、既に打ち明けているエッジやロックが代わりに説明してくれるのなら、随分と楽になるだろう。

 でも、とレオンは思う。
相談するのなら、ちゃんと自分から説明したい、と。


「……ネヴィア・オルフラクト先生の事なんです」


 ───レオンは、一連の出来事を、可能な限り詳細に話した。
昨日の放課後、教員に頼まれた手伝いを一人で熟している所にやって来た彼女。
頼み事がある、と言うからその説明を待っていたら、スコールと話をした事を聞かされた。
どうにも自分を嗅ぎまわっているようなその行動にレオンも訝しく感じていたが、事態はそれで終わらない。
あろう事か、レオンは押し倒されたのだ。
明らかに“そう言う目的”を持って迫って来た彼女から、どうにか逃げる事は出来たが、未だあの瞬間の恐怖が消えない。

 話せるだけの事を話し終えた時には、レオンの頭痛は酷いものになっていた。
痛む額に手を当てて口を噤んだレオンを、エッジがぐしゃぐしゃと髪を掻き撫ぜて労う。
少し休ませた方が良いと踏んだロックが、其処から先を引き継いだ。


「レオンがされた事も勿論だし、弟達にレオンの事を聞き回ってたって言うのも、レオンにとっては不安な事です。もしも次があったらレオンが逃げれるかも判らない。正直、かなり危ないと思うんです」
「チビ達だって目つけられてるかも知れねえ。教師だからってそのラインを越えないなんて、俺はちっとも信じてない。俺達も、レオンも、これ以上あの先生にガーデンにいて欲しくないんだ。学園長、どうにか出来ないか?」


 共に真っ直ぐに目を見て訴えるロックとエッジを、シドはじっと受け止めている。
少年達が此処に来た時には、目尻に皺を刻んでいた顔からは、いつしか見慣れた笑みが消えていた。
それが少年達の言葉の真偽を見量る為のものなのか、だとしたら最後まで目を逸らさずにいて欲しいとエッジは思う。
誰が信用し得る大人なのか、考えに考えて最後に残ったのがこの人だったのだ。
此処で梯子を外されてしまったら、エッジは教師と言うものに不信感しか残らない。

 重い沈黙が長く感じられて、ロックは喉を詰まらせていた。
だが、自分以上にこの空気に耐え難く思っているのは、恐らくレオンだろう。
嫌な記憶をそれでも掘り出し、心配や迷惑をかけたくないと思っている相手に、それでも助けを求めているのだ。
今目の前にいる人以上に、事を打開してくれる人はいないと信じて。

 カチ、カチ、カチ、と時計の音だけが響く中を過ごして、ようやく、シドは口を開いた。


「……オルフラクト教員の問題については、私も聞いています。男子寮を中心に流れている噂に関しても、把握しています」


 生徒の間で、あれ程に噂が吹聴されているのだ。
それ故にヤマザキがネヴィアに注意したと言う話もあるのだから、教員間でも彼女の行動が問題視されていない筈がない。


「なんとかしなければと思っていました。ですが、情けない事ですが、噂に対して確たる証拠がありませんでした。寮に入っている生徒に直接聞くには、やはり、デリケートな話ですからね。噂に基づいてオルフラクト先生が接触したと思われる生徒と話をした事もあったのですが……レオンがされた事と同じであるならば、“被害”と言うべきか。残念ながら、そう言った話を聞く事は出来なかった」


 本当に被害がなかったのか、生徒の方が打ち明ける事が出来なかったのかは判らない。
前者であるならば、噂に基づいて根も葉もない事を聞かれたと生徒は不快になる事もあるだろう。
後者ならばシドにとってはもっと悪い。
被害に遭っていながら、庇護してくれるべき筈の大人に頼る事が出来なくなっていると言うことだから。

 ひょっとしたら、噂そのものが火のない所から出た煙なのかも知れない。
日常的にガーデン内で散見されるようになった、男子生徒を揶揄って見せるネヴィアの振る舞いが、彼女が男子寮であたかも ───と言う妄想を呼んだのかも。

 しかし、仮にそうだったとしても、昨日彼女に襲われたと言うレオンの言葉は事実である。
シドはそれを理解していた。


「レオン」
「あ……はい」


 名前を呼ばれて、レオンは顔を上げる。
年齢を重ねた、少し重くも見える厚みのある瞼の下で、強い光を持つ瞳が嘗ての養い子を見ていた。


「怖かったでしょう。逃げたとさっきは言っていましたけれど、本当ですね?隠してはいませんか?貴方は、私やイデアに心配をかけたくないからと、怪我や病気を直ぐに隠してしまいますからねぇ」


 そう言ってシドは眉尻を下げて見せた。
まだ孤児院にいた頃、体調を崩しても直ぐにそれを打ち明けないレオンに、少年の精一杯の頑張りと気遣いを受け止めながらも、それは決して良い事ではないのだと叱っていた時と同じ顔。
それを見たレオンの胸の奥に、子供の頃に感じていた、張り詰めた糸が緩む感覚が蘇る。


「……ない、です。何も。さっき話した以上の事は、されていません。ちゃんと逃げたから」


 隠しているのではなく、これは本当の事だ。
そう言ったレオンに、シドは小さく頷いて、


「よく話してくれましたね」
「………はい」


 シドのその言葉で、レオンはようやく、これで良かったのだと思えた。
涙の膜で滲む視界を膝に落とせば、またエッジが頭を撫でる。
相談するべきだと、背を押したエッジや、付き添ってくれたロックにも感謝をしなければと思うが、今は胸の奥に詰まったものが苦しくて、レオンは顔を上げられそうになかった。

 微かに鼻を啜る音を鳴らすレオンに、エッジとロックの表情もまた和らぐ。
そして、自分達の話を信じてくれたシド・クレイマーと言う人物に、安堵のようなものを感じていた。

 そんな二人を、シドが交互に見回して言った。


「エドワード君、ロック君も、有難う御座います。それ以上に、不安にさせてしまった事、本当にすみません。君達の学び舎を守る者として、私が至らないばかりに、沢山嫌な思いをさせてしまいましたね」


 そう言って眉尻を下げるシドは、痛みを堪えるように、悲痛な面持ちだった。
シドにとって、孤児院の頃から顔を知っているレオンは勿論、このガーデンに在籍している生徒は、須く自分の子供のような存在だ。
彼等に少しでも伸び伸びと過ごし学べる場所を作りたくて、シドはガーデンと言う環境を作った。
その環境の中に、少しでも子供達を不安にさせるものがあるならば、それは大人である自分がしっかり防がなければならなかったものだ。

 シドがそんな人物であるとエッジも知っている。
だから一つ、疑問に思う事もあった。


「なあ、学園長。ネヴィア先生は、あんたがガーデンうちに呼んだのか?」


 教職員の雇用の仕方について、当然の事ながら、生徒は知らない。
しかし、ネヴィアが産休に入った教員の代わりのピンチヒッターである事は判っていた。
急ぎの代理ではあったのだろうが、だからと言って、生徒達の健全な育成を一番に考えている筈のシドが、あんな人物を起用するとはエッジも余り思いたくはない。

 シドはエッジの質問に、眉をハの字にして溜息を洩らした。
心労の滲むその表情を、少年達は見詰める。


「そうですね……雇用を決めたのは私ですから」
「前から知ってる人?」
「いいえ、面識はありませんでした。オルフラクト先生は、人からの紹介だったんです。ニーナ先生の産休の話は前々から聞いていましたから、その代理になってくれる人を探している時に話を貰いました。ガルバディアの私塾で教えていた経験を持つ方だと。その塾は、一身上の都合で辞められたと聞いていただけだったんです」


 シドの言葉に、エッジはこっそりと安堵する。
若しもシドとネヴィアが昔からの知り合いであったなら、色々と勘繰ってしまう。
レオンがそれを聞けば、シド先生に限ってそんな事、と言っただろうが、エッジは其処まで大人と言うものを真っ新に信じてはいなかった。

 エッジは頬杖をついた格好で、テーブルの向こうにいるシドを見詰めながら、先の彼の言葉を反芻させる。


「“一身上の都合”ねえ。なんとなく、理由が判る気がするぜ」


 顔を顰めるエッジの台詞に、シドはまた困ったように笑みを浮かべて顔を曇らせた。
彼もネヴィアが何故前の仕事を辞める事になったのか、エッジと同じ事を考えているのだろう。
それの是非を今確かめる事まではしないが、既に彼女は“そう言う行動”をこのバラムガーデンで取っているのだから、その信用を取り戻す事は難しい。

 ロックがソファの背凭れに背中を沈めて、高い天井を見上げる。


「確かに授業は判り易かったし、其処の所は悪い先生じゃないんだけど。でもなぁ……」
「ええ、そうなんです。オルフラクト先生の授業は判り易くて楽しいって、私も皆から聞いています。高等部の生徒たちの歴史の成績も上がっていますしね。でも、彼女はやってはいけない事をしている。レオンがこうして話をしてくれましたし、オルフラクト先生にどんな理由があったとしても、それを見逃してはいけません」


 どんなに教師として腕のある人物であるとしても、守るべき生徒にあられもない事をしようとしたのは、許される事ではない。
彼女の欲望の為に、レオンは嘗てない恐怖を味わったのだ。
もしもあの時、狼狽したまま動けずにいたら、何をされていたのか、考えるだけでもレオンは背筋が凍る。
レオンが寒気の奔る腕を摩って誤魔化していると、シドは続けて言った。


「授業ももう終わっていますし、後でオルフラクト先生を呼んで話をします。君達から話を聞いた事は、彼女には絶対に言いませんので、安心して下さいね」
「はい」


 にこりといつもの笑みを浮かべるシドに、レオンは小さく頷いた。
その隣で、エッジがシドに訊ねる。


「あの先生、ガーデン辞めるのか?」
「そうですねぇ。余りはっきりと言う訳にはいきませんが、噂の事もありますし、彼女がバラムガーデンにいる事が、生徒達にとって良い事ではないのは確かです。そう言う所も踏まえて、考える事になりますね」


 やんわりと包んだ言葉であったが、シドはエッジの言葉を否定しなかった。
暗に少年達がそれを望んでいる事も感じ取っているし、諸々の問題を含めて、ネヴィア・オルフラクトの存在が波及の中心となっている事は理解しているのだろう。
ただ、その結果の詳細を、今此処で軽率に発表する訳にもいかないのだと、シドの表情が告げていた。

 それでも、シドの言葉はレオンにとって有り難かった。
ネヴィア・オルフラクトの存在は、レオンにとって既に不安を呼ぶものでしかない。
シドが自分の話を信じてくれた事に心から感謝した。

 はあ、とレオンの唇から息が漏れた。
ずっと張り詰めていたものが抜け落ちて行くような、そんな溜息を漏らす少年に、シドの心がつきりと痛む。
普段、妹弟達の手前もあって、常に冷静を保とうとする彼が、そんな風に胸を撫で下ろす程、件はレオンの胸中に昏いものを作り出していたのだ。
それがよく判るからこそ、彼等の平穏な日常を預かる大人として、やるべき事をしなくてはいけない。

 すっかり冷めてしまったコーヒーを、それでもシドが折角淹れてくれたんだからと、三人は飲み干した。
そろそろ帰らないと、と時計を見たレオンが呟いた所で、折よくイデアが戻って来、少年達に「お土産ね」と言ってラッピングしたクッキーを持たせてくれた。
レオンは妹弟達の分も一緒だ。
幼い子供達に対するものと同じ笑顔を向けるイデアに、レオンは言葉にせずとも彼女もまた自分達の事を心配してくれていると感じ取った。

 レオンがカードリーダーを抜けるまで、エッジとロックは彼を見送った。
学園長室にいる間にそれなりに時間が過ぎていたようで、街へと向かうバスには乗客の姿は少ない。
レオンは憑き物が落ちたような気持ちで、ぼんやりと車窓の向こうの水平線を眺めていた。




 少し遅い帰宅になったレオンを、待っていた、とばかりに弟達が出迎えた。
抱き着いて来る二人を受け止め、キッチンで夕飯を作っていたエルオーネにも声をかける。
お帰り、といつもの笑顔を向けてくれる妹弟が、レオンには一番の癒しだった。

 夕飯を済ませ、弟達にお風呂に入っておいで、とエルオーネが促す。
風呂を出たらもう寝室に行って寝なくてはいけないと判っているから、ティーダが「まだ遊びたい」「テレビ見たい」と言って駄々を捏ねるので、レオンがティーダと、エルオーネがスコールと一緒に入る事にした。

 風呂から上がったレオンとティーダがテレビを見ている間に、エルオーネとスコールも湯を貰う。
二人がリビングに戻って来る頃には、ティーダは欠伸を漏らしていた。
眠い目を擦る弟達を寝室に連れて行き、ベッドに寝かせてやれば、直ぐに寝息が聞こえて来る。
すやすやと健やかな寝顔の弟達の頭を撫でて、レオンも隣の自分の部屋で眠ろうとしたのだが、


「ね、レオン」
「ん?」


 エルオーネに声をかけられて、レオンは妹弟の部屋の扉を閉める手を止めた。
閉めかけの扉をエルオーネが潜り、音を立てないように、そっと閉める。
弟達を起こさないように、潜めた声でエルオーネは言った。


「お風呂で聞いたんだけど───あのね。昨日の事、らしいんだけど」
「うん」
「スコールが言ってたの。知らない人に声をかけられたんだって」


 妹の言葉に、ぴく、とレオンの肩が揺れる。


「レオンの先生だって言う人に声をかけられて、好きなものとか、色々聞かれたみたいなの。本当は昨日、レオンに言いたかったらしいんだけど、昨日は……」
「……うん」


 言い辛そうに口籠って行くエルオーネに、弟がどうして口を噤んだのか、レオンは直ぐに理解した。
やはり幼い彼等にも、いつもそのクッションになってくれる妹にも、気を遣わせてしまう位に、自分は憔悴していたのだろう。


「すまなかったな、気を遣わせて」
「ううん」
「それで、スコールが声をかけられたのは、ガーデンで?」
「うん。昼休憩の時に、ティーダとゼルと遊んでる時に話しかけられたんだって。女の人だったんだけど、なんか、ちょっと怖ったみたい」


 スコールが他人を怖がることは珍しくない。
物心が付く前から人見知りの傾向が強かったスコールは、初めて見る人間に対し、相手がどう言った容姿をしているかに関わらず、興味よりも恐怖心の方が先に立つ。
その時はティーダとゼルが一緒だったので、彼等に隠れるようにして縮こまり、女性が訊いて来た事については、二人が代わりに答えてくれたと言うことだ。

 話を聞いて、やっぱり、と概ねの想像通りであった事をレオンは感じ取る。


「……そうか。やっぱりスコールに話しかけたって言うのは、あの人だったんだな」
「知ってる人?」
「…俺の学年で世界史を教えている人だ。休みに入った先生の代わりに来てくれた人だったんだが……ちょっと、色々と、な」


 言葉尻を濁らせたレオンの表情に、エルオーネが眉根を寄せる。


「なあに?レオン、ひょっとして何かあったの?」
「いや────」


 問い質すエルオーネに、レオンはいつものように「なんでもない」と堪えようとして、睨むように見つめる妹の表情に気付いて止める。
嘘を吐かないで欲しいと、真っ直ぐに訴える黒曜の瞳に、例え心配させたくないと言う思いからでも、誤魔化すのは良くないと思った。


「……うちの学年や寮生から、色々良くない噂が出ている人なんだ。昨日の放課後、俺も声をかけられた。その時は、何もなかったんだが……スコールと話をしたと、その時に聞いた」


 其処で自分が何をされたかと言うのは、レオンは言えなかった。
この件はシドに相談したからでもあるが、レオン自身の口から、妹にその仔細を伝えるのは躊躇いがあったからだ。
それでも、聡い妹は、レオンの苦い表情から感じ取るものがあったようで、


「声をかけられただけ?話をしただけなの?何かされたんじゃないの?」


 本当に?と問い詰めて来る妹に、レオンは頷いた。
何もなかったのは事実だからと、胸中で下手な言い訳をしながら続ける。


「大丈夫だ。でも、スコールと話をしていた事とか、色々聞き周られていたって言うのは、やっぱり気分が良くないと言うか……色んな噂もあるから、気になってな。今日の放課後、シド先生に相談して来た所だ」


 レオンの口から出て来た名前に、顰め面になっていたエルオーネがぱちりと目を丸くする。
育て親に心配や迷惑をかけたくない、と何かと口を噤む事が多いレオンにしては、珍しい行動だったからだろう。


「シド先生に話したの?」
「ああ」
「スコールがその人に会った事も?」


 確かめるエルオーネに、レオンは頷く。
それを見て、ようやくエルオーネの表情に和らぎが滲んだ。


「そっか……じゃあ、もう、大丈夫かな?」
「シド先生はちゃんと考えてくれると言っていた。だからきっと、大丈夫だろう」


 レオンの言葉に、エルオーネはほうっと安堵の息を吐いた。
スコールから話を聞き、“知らない人”に話しかけられたと言う彼の事は勿論、どうも知らない所で探られているらしい兄の事も、彼女は心配だったのだろう。
昨日のレオンの憔悴振りもあって、やはり何かあったのではと気を揉んでいたが、かと言って安易に聞くのも躊躇われる様子であったから、一晩やきもきしていたに違いない。

 胸を撫で下ろす妹に、レオンは眉尻を下げて苦笑を浮かべる。


「すまなかったな、心配をかけた」
「…良いよ。でも、出来れば昨日の内に言って欲しかったな。私も聞かなかったけど……」
「聞き辛かったんだろう?スコールもティーダも、言い難かったんだろうし」
「だって酷い顔してたんだもの。レオン、隠してるつもりだろうけど、判るんだからね」


 そう言って眉尻を吊り上げ、怒った表情を作って見せる妹に、レオンは「悪かった」と詫びた。
しっかり者の妹と、周りの事がよく見えている弟達に、下手な隠し事は反って皆の不安を煽るだけなのだと学ぶ。


「スコール達とは、明日、俺の方から話をしてみよう。話しかけて来た人の事は、シド先生に相談したって事も、伝えるよ」
「うん」


 一日遅れで姉に相談したスコールは、どんな思いで口に出す時を探していたのだろう。
見知らぬ人に声をかけられただけで、彼にとっては事件と言って良い事なのに、遅れて帰って来た兄の表情が曇っていたら、きっと色々考えてしまうに違いない。
だから早く誰かに相談しないと、と思っていても、頼りにしている兄が頼れないものだから、戸惑ったのではないだろうか。
一緒にいたティーダもきっと同じ気持ちだっただろう。

 同じ事を繰り返していれば、幼子達は、兄や姉の表情を伺うばかりになってしまう。
今回のように不安な事があった時や、それ所ではない、何か危険な事に巻き込まれてしまっても、誰にも相談できずに口を噤んでしまうかも知れない。
そんな事にならない為にも、何か不安があるならそれはきちんと言葉にして誰かに頼れるように、頼って良いのだと伝えて行かなくては。


(俺も、そうだな。つい自分でどうにかしようとするのは良くない癖だって、昔から言われているのに)


 未だに治らない自分の悪癖を再認識して、レオンは眉尻を下げる。
エルオーネはそんなレオンの表情に、肩を竦めて見せるのみだった。

 立ち話の間に、すっかり時間は過ぎてしまった。
もう寝るね、と部屋に戻るエルオーネを見送って、レオンも隣の自室へ向かう。
ベッドに入って深く呼吸をしてみると、直ぐに睡魔はやって来て、レオンは昨日の分まで取り戻すように、夢の中へと落ちて行った。





 レオンがシドに相談してから四日後、高等部の世界史の授業に、ネヴィア・オルフラクトの姿はなかった。
緊急の用事が出来た為、バラムガーデンを離れなくてはならない事になった───と言うのが公の話であったが、それが生徒に悪戯な詮索をさせない為の方便である事は明らかだ。
良い先生だったのに、と残念に思う生徒がいる傍ら、何処かほっとしたような表情を浮かべる男子生徒がいた事を、レオン達は気付いている。

 学科教員に穴が空いてしまった為、世界史の授業はしばし自習となる。
元々教科の担当であったニーナ女史が戻って来るのは当然無理な話であるから、急ぎ別の人を探しているそうだ。
それを誰かが何処かから聞き、ネヴィアが去った事と合わせ、話は生徒達の間であっという間に広まった。
レオン達も例に漏れずそれを聞き留め、


「今度はどう言う先生が良い?」


 ───と、これも誰かが振った話題であった。
そんな話題がある事を聞いたレオンは、


「……真面目な人ならなんでも良い」
「だよなぁ」


 そう呟いて学習パネルの上に突っ伏すレオンに、その背に寄り掛かって狭い椅子を共有していたロックが頷き、エッジも今回ばかりは友人たちに共感するのであった。




レオンの災難の巻。
ガーデン生時代のレオンは、生徒の間でも人気があって、中等部生の頃にも教師からアプローチをかけられた経験があったりしますが、その中でも一番危なかった出来事。
SEEDになってSランクになる頃には、先輩の指導やアドバイスもあってそう言う目的で近付いて来る人間にも危険センサーが働くようになりますが、ガーデン生の頃はまだまだ鈍かった。基本的には良い人達に恵まれて来たレオンなので、そんな事する人が身近にいると思ってたなかったんですね。その辺は実はエッジの方が結構大人で敏感だった。
大体の事は誰にも言わずにしているのですが、流石にこれはそうもいかなくて、周りを頼ったのでした。

散々な目に遭ったレオンですが、書いてる奴は楽しかったです。