慟哭の火


 全く、とんでもないものを拾った。
同じく嘗ては拾い物であった、灰白の狼の背に乗せた、気を失った青年を見てシドは思った。

 クライヴ・ロズフィールド────十三年前、ザンブレク皇国と鉄王国の侵入により、崩壊したロザリア公国の第一王子であった男。
シドが彼を拾ったのは、全く別の要件でニサ峡谷を訪れた時のことだ。

 ダルメキア共和国に進軍を行った鉄王国が、氷のドミナントを使役しているとの情報が入り、同時に鉄王国の軍隊が多数のベアラーを囲っていると分かった。
鉄王国はクリスタル正教を信仰し、マザークリスタルの齎す恩恵と、クリスタルの力によって利用できる魔法と言うものを神聖視している。
そんな国に囲われたベアラーは、他国同様に奴隷として扱われるのは勿論、クリスタルなくして魔法を使えることから、不浄の存在として忌されている。
ベアラー以上に強大な魔法を扱えるドミナントに対してもこれは同様で、戦争の兵器以上のものとしての身分はなかった。
斥候に行かせたガブの情報を聞く限り、やはり今回の戦場でも、氷のドミナントは一大兵器として投入されたようだが、その背景にはベアラー達の存在があった。
どうも氷のドミナントは、ベアラー達の命を盾に取られて、戦わざるを得ない状況にされているらしい。
ならば、常の活動として行っているベアラー保護の目的も合わせ、氷のドミナントを鉄王国から奪取することが出来るかも知れない。
危険は多かったが、人質を取られて無理やり戦わされているのなら、その状況から解放させれば、当人との対話の余地はあるかも知れない、と言う事だ。

 氷のドミナントは、両軍がぶつかる度に、戦線へと投入された。
その頻度は余りに多く、ドミナントに過剰な負荷がかかっている事は明らかだったが、鉄王国軍にとってそんな事はどうでも良いのだろう。
彼の国では、自国内でドミナントの発現が確認されれば、すぐに処刑されると言う。
彼等はダルメキア軍を攻め圧し、その先にある領土を獲得しようと躍起になっている。
その為に今は戦力として使っているだけだ。
ドミナントの力は大軍を片手で屠るほどに圧倒的な存在だから、彼等にとって利用しない手はない。

 となれば、ダルメキア軍も黙ってはいない。
ダルメキア軍もまた、土のドミナントを擁している。
繰り返し顕現し、戦場を蹂躙する氷の召喚獣シヴァに対し、ダルメキア軍も土の召喚獣タイタンが顕現した。
氷と土の真っ向からのぶつかり合いに、その足元でどれ程の兵士が死んだか知れない。
その様相の最中に近付くのは、雷のドミナントであるシドとて、命を捨てに行くようなものであった。
自身の目的の為、出来るだけ己の存在を知られたくないシドは、二体の召喚獣の闘いが終わるのをじっと待っていた。

 そして、タイタンの圧倒的な破壊力により、シヴァの顕現は解かれる。
二体の召喚獣の争いは、既に疲弊していたシヴァの敗北と言う形で終わった。
自軍の戦神の勝利に、ダルメキア軍は勢いを取り戻し、敗走する鉄王国軍を追う形が始まる。
あれだけ激しい戦闘を繰り広げた後なら、シヴァの消耗はかなりのものだし、直ぐに再顕現は無理だろう。
鉄王国の士気が下がっていることも含め、動くなら今だ、とシドは行動を始めた。

 そんな戦の最中、奇妙な動きをする者がいた事は知っている。
ニサ峡谷に聳える岩々の隙間で、人目から隠れて戦場に近付いて行く者たち。
遠目に確認した際、それらがザンブレク軍の兵装をしていることと、全員が頬に刻印を持っているのが見えた。
皇国ザンブレクによって使われている、ベアラー兵だ。
三国同盟が潰えて久しい今、ザンブレク軍がダルメキア軍に手を貸すとは思えないし、何よりベアラー兵は使い捨ての駒だ。
基本的に行って終わり、死ぬことが前提のような危険な任務を与えられる彼等を、まさか交渉や伝令のような、他国軍と接触させるような扱いはするまい。

 ベアラーは、シドにとっては保護すべき存在だ。
それはベアラー兵であっても同様だが、実戦的な力を持たないベアラーはともかく、ベアラー兵となると聊か難しいのも事実。
彼等は任務の達成により、底辺の中でもまともな扱いを得ることもあり、下手に逃げ出して居場所を失うよりはと、その状態に甘んじる者も少なくなかった。
兵士として使役する為、ある程度の自己意思がある者が多いので、会話自体はし易いのだが、ベアラーとしての不当な扱いに加え、非道な訓練、過酷な任務で心を摩耗させ、更に逃げ出したり自死することを相互監視することで抑止されている場合がある為、簡単に連れ出すことも出来ない。

 気にはなったが、シドは優先順位を変えなかった。
運が良ければ、彼等は今後も生きられる。
それよりもまずは、鉄王国に連れられている非戦闘員であるベアラーと、氷のドミナントの確保が先だ。
特に氷のドミナントとの接触は、他に狙えるタイミングがない。

 氷のドミナントと先に接触したのは、ベアラー兵の方だ。
鉄王国軍は、ドミナントに顕現するよう脅したが、当然、疲弊した状態で出来る筈がない。
それでもドミナント自身に剣を渡し、闘えと強要し、他に選択肢のない氷のドミナントはそれに従った。
通常、ドミナントが相手となれば、その魔法の力により人など容易く蹂躙できるものだが、ドミナント自身が激しく消耗していること、相手が魔法の使えるベアラー兵であったことで、結果は変わった。
特に、随分と器用な魔法の使い方をする一兵がいたのが、シドの目を引いた。
炎の魔法を扱うベアラーは珍しくないが、どうにもその使い方が、単純に“魔法を使う”と言う形に留まらないのだ。
兵士として訓練をされている以上に、魔法の力を使いこなしている。
そして、炎の魔法に押された氷のドミナントは、遂に地に伏した。

 ベアラー兵の目的は、鉄王国擁する氷のドミナントを、暗殺することだった。
気を失ったドミナントを、今まさに殺そうと、炎魔法使いのベアラーが剣を構えた時は、流石に介入するしかないと思ったシドだが、ふとその気配が変わる。
確かに殺意を持っていた筈のベアラー兵が、途端にその剣を下ろしたのだ。
挙句、殺す筈だったドミナントを大事そうに抱えあげ、同行していた他のベアラー兵から離すほど。

 その辺りだっただろうか。
何処に行くにも、常にシドを追うようについて来ていた灰白の狼が、激しく吠え始めた。
あまり吠えられると此方の場所が知れるので、シドは一瞬眉を潜めたが、はたと思い出す。
この灰白の狼は、自分の主人を探しているのだと言う事を。
それが、十三年前のロザリア公国崩壊の折、死亡したとされるクライヴ・ロズフィールドであるらしいと言う所までは、調べがついていた。

 とにもかくにも、ベアラー兵は仲間割れを始めている。
同時に、ベアラー兵の攻撃に散らばった鉄王国の兵達が、彼等を屠る為に集まっているのが見えた。
任務に逆らったベアラー兵は、仲間割れには辛くも勝利したが、一対軍勢の状態に陥ってしまう。
其処でシドは乱入した。
崖の上からベアラー兵を囲んでいた鉄王国軍を雷の魔法で一掃し、土煙の舞う中、ベアラー兵について来るように促した。
彼は氷のドミナントを抱き、離すまいとしていたから、下手に近付いて要らぬ刺激を与えるよりも、その方が無難だろうと思ったのだ。
ついて来なければ、男の方も気絶するなりさせて、強引にでも連れ出すかと思っていたが、存外と素直なのか、混乱しているのか、男は大人しくついて来た。

 それからは、隠れ家に連れ帰って、男────クライヴの話を聞いた。
フェニックスゲートの襲撃事件の後、辛くもその命は残されたが、ザンブレク皇国軍に捕えられ、ベアラーの印を刻まれた。
失われた国の王子など、そんな身分はないも同然のもので、彼はそれ以来の十三年間、ベアラー兵として生きて来た。
何処かの戦場で死を望まなかったのは、あの惨劇の夜、フェニックスのドミナントであった幼い弟を殺した、二体目の火の召喚獣のドミナントを見付け、仇を討つ為。
即ち、復讐だ。
なんとも後ろ向きな生に聞こえるが、十三年間と言う短くはない泥沼の底で、彼を動かし続けていた唯一の理由であった。

 折よくと言うべきか、シドの下には一つ情報があった。
ロストウィングの村に、火のドミナントと思しき者がいる、と言うものだ。
確たる証拠はなかったし、そもそも火のドミナント───ロザリア公国の第二王子であり、フェニックスのドミナントであったジョシュアは、件のフェニックスゲートの事件で兄と共に死亡したとされている。
その後、ジョシュアは勿論のこと、フェニックスの顕現が何処かで目撃されたこともなかった。

 火のドミナントは、ロザリア公国の由緒ある血筋の者から生まれると言われている。
しかし、その大公であったエルウィンの嫡男たるクライヴは、ドミナントの力を持たずに生まれて来た。
実際、クライヴが炎の魔法を扱えるのは、フェニックスのナイトとして、その祝福を授かったからであり、今現在もそれを使えるのは、祝福の名残があったからだろう。
彼の戦い方を見る限り、フェニックスの力そのものに目覚めているようには見えないし、仮にもその力があれば、ベアラー兵と言う身に窶し続けている必要もないだろう。

 単純に考えて、今このヴァリスゼアに、火のドミナントは存在していない。
ドミナントは、先代が死亡したからと、すぐに次が生まれるものではなかった。
いずれは、ロザリアで今なお生きるロザリア公国の血筋から、新たにその力を持つものが生まれてないとも限らないが、その時はザンブルク皇国が黙っていない筈だ。
まず間違いなく、判明した瞬間に神統政府の手下に置かれ、亡国に今も僅かに残る“炎の民”の万一の決起を避ける為にも、その存在が公になることはないだろう。
“炎の民”が心の支えとする不死鳥は、もう何処にもいないのだと、その事実が覆されてはならない。

 十三年前、二体目の火の召喚獣が、不死鳥フェニックスを屠ったと言う噂は、シドも聞いている。
しかし、ドミナントはヴァリスゼアで確認される8つの元素それぞれにつき、一人しかいない筈だ。
少なくとも、伝承と歴史が共にそれを記しており、シドも雷のドミナントを自分以外に見たことはない。
それを思えば、「火の召喚獣がもう一体いた」と言う話自体が、当時の惨劇をより悲劇に飾る為の、噂が呼んだ噂としか思えないのも確かだった。

 だが、あの惨劇から生き延びた男が、直に言うのだ。
その存在を一番近くで目撃していた筈の男は、嘘を吐く目をしていなかった。

 朧な噂にある“二体目の火の召喚獣のドミナント”が本当に存在するのなら、ロストウィングで目撃されたと言う人物にこそ、その疑いは濃くなる。
彼の地に集まっているベアラーの多くは、皇都オリフレムから逃れてきた者がほとんどだ。
十三年前の事件の時、“二体目の火の召喚獣”を既にザンブレク軍が取り込んでおり、当時の戦場に投入したとすれば。
理由は分からないが、今になってザンブレク軍の手から逃げたドミナントが、ベアラーの中に身を隠すことも、あるのかも知れない。

 だから、行ってみるかと促した。
放っておけば自ら野を彷徨い歩きそうであったが、そんなことをすれば、脱走したベアラー兵として軍に捕まり、極刑されるのが関の山だろう。
それは余りにも捨て鉢な話だ。
嘗てナイトになるべくして鍛えられ、長い間ベアラー兵として戦場を生きたのだから、腕は確かだ。
シドとしては戦力として惜しかったのもあったし、成り行きとは言え、拾った以上はもう少し生きて貰いたい。
ロストウィングへの誘いは、その命を長らえさせる理由を作るのに、丁度良かった。

 仇を見付けて、目的を果たして、それからクライヴがどうするかは本人すらも分かっていないようだったが、シドはともかく、この男には前に進む為の道案内が必要なのだと感じた。
仇討ちの後、また生きる道に迷うのなら、立て札くらいは用意してやっても良い。
何を選ぶにせよ、彼自身が自らの意志で歩き始めてくれるのなら、それで十分だとも思った。

 ────だと言うのに。

 暴走状態で顕現したガルーダに接近させたのは、危険であったと分かっている。
だが、其処に件の火のドミナントと思しき者がいたのだから、行かねばクライヴも納得はしなかっただろう。
しかし、その後のことは全く予想していなかった。
止むを得ない状況になれば、シド自身が顕現してガルーダを───ベネディクタを止めねばならないと思っていたが、その矛先をまさかクライヴに向けることになるとは。
剰え、クライヴ自身が探していた、弟の仇である“二体目の火の召喚獣”が、彼自身であった等とは。

 顕現と同時に暴走したクライヴは、目に映るもの全てを屠らんとしていた。
並大抵の衝撃では正気に戻るまいと、ラムウへと顕現したシドが撃ち落としたいかずちにより、ようやく彼は沈静化する。
そしてシドは、意識のないクライヴを連れて、竜巻の跡地を離れたのだった。

 疲労もあり、一足で隠れ家に戻るには、聊か無理があった。
事態を確かめるべく、程無く集まって来るであろうザンブルクの兵士から逃れる為、街道を離れ、魔物の気配が少ない場所で野営を決めた。
それから一夜が明けても、クライヴはまだ目を覚まさない。
主人を想って、片時も傍を離れまいとするトルガルに彼を預け、シドはいやに晴れた空の下、改めて隠れ家への帰路を辿っていた。


(探していた仇が自分だったと───こいつは、それに気付いているか?)


 森の中を歩きながら、シドは眠る青年を見て思う。

 雷はそれなりに加減して撃ったつもりだが、普通の人間なら塵芥の火力であった事は事実。
召喚獣の頑健さでその身は守られたようだが、目に見えない場所がどうなっているのかは、シドには分からない。
顕現したあの状態で、自分が何をしているか、自分が何者なのか、彼が理解していたかすらも。

 もしも理解していたとすれば、クライヴは何よりも受け入れがたい現実を知ることになる───そう考えてから、いや、と思い直す。


(こいつ自身が、弟の仇であったと決めるには、まだ早い)


 シドの脳裏には、ガルーダへの道の途中に見た、火のドミナントと思しきフードローブの人物がある。
あれが幻であると言うには、随分と実体がはっきりしていたし、クライヴも間違いなく目撃していた。
だからシドは、あれを追えと言ったのだ。


(あれの正体がはっきりしない限り、クライヴが十三年前に現れた“二体目の火の召喚獣”そのものとは言い切れない。あの時、火の召喚獣がフェニックスの他にいたなら、今もまた、他にも同じこよが起きているとしても、否定できる根拠はない)


 同属性の召喚獣が複数体存在するなど、前例のないことだが、まず十三年前の時点で、歴史上に類のない出来事が起こっている。
今再び、それが起きたとしても、不自然とは言い切れないのだ。
既に前提が覆っている話なのだから。


(それに、二体目の火の召喚獣が存在する理由って言うのも、分からない。こいつ自身も自覚のないことだろうし、何にせよ、調べて見ないことにはな)


 とにもかくにも、件の火のドミナントについて、情報を集めなくてはならない。
一先ずは、それを追った筈のガブが戻って来るのを待つしかないだろう。
問題は────


「……大人しく待ってるかね、こいつは。なあ、トルガル」


 長い間離れていたとは言え、主の本質はよくよく知っているだろう、賢い狼に訊ねてみる。
トルガルはと言うと、クゥーン……と哀しそうに鳴いたのだった。




 自室の定位置である椅子に座って、シドは深い溜息を吐いた。

 隠れ家に戻って三日が経つが、クライヴは未だ目覚めていない。
タルヤに診せた瞬間、何をさせたの、何をしたのと詰め寄られて、シドは仕方なく経緯を話した。
クライヴの過去も、ドラゴニエール平原での一件も、人に話すには聊か抵抗はあったが、説明するまでタルヤは離してくれなかっただろうし、致し方ない。
そして全てを聞いた上で、タルヤはクライヴの介抱をしている。

 タルヤが診る限り、クライヴの外傷はそれ程重くはなかった。
包帯を巻いた箇所はあるものの、目覚めないのは、どちらかと言えば肉体全体の疲労ではないかと言う。


(まあ、無理もない。顕現するってのは、相当なものだからな。それもあれだけ暴走してりゃ、数日目覚めないのも仕方ないか)


 長年、ドミナントとして生きて来たシドは、その強大な力の代償と言うものをよく分かっている。
先日保護した氷のドミナント然り、一度の顕現でも相当な疲労を伴う上、後先考えずにその力を全力で行使していれば、人間の体など幾らも持たない。

 クライヴの状態に関しては、意識を取り戻すのを待つしかない。
それまでシドは、“同属性の二体の召喚獣”というものについて、調べようとしていた。
しかし、長く生きて歴史の生き字引となりつつあるハルポクラテスを以てしても、そのような話は聞いた事がないと言う。
せめて、クライヴが顕現した召喚獣の名でも分かれば、調べる手がかりにもなりそうだが、今の所、あれについて分かっているのは、その姿形だけだ。
持ち得る書で当たりそうなものを片っ端から開いたとて、簡単に見つかる訳もなかった。


(火の召喚獣の事と言えば、やはりそれが生まれていたロザリアで調べるのが良さそうだが、あそこは今───……)


 クライヴが生まれ、嘗て火のドミナントを擁していた、今は亡きロザリア公国。
その大公が住んでいた城に行けば、何か見付かるかも知れないが、現在彼の地はザンブレク皇国の属領だ。
協力者からの情報や、シド自身もその地方へと赴くことは少なくないのだが、そこで聞く話から考えるに、城などとても近付けたものではない。


「……やっぱり、情報が足りんな」


 呟いて、シドは机の端に置いていたゴブレットを取った。
しかし中身は対して残っておらず、思考に浸っている内に、いつの間にか消費していたらしい。
折角良いワインだったと言うのに、勿体無い事をした気分を感じながら、少ない中身を胃へと流し込んだ。

 ゴンゴン、と部屋のドアをノックする音が聞こえた。
鍵などかけていないもので、「なんだ」と返事を投げると、オットーが扉を開けた。


「例の───クライヴと言ったか。あいつが目を覚ましたとタルヤから」
「ああ、分かった。すぐ行く」


 空になったゴブレットを机の端に置き、席を立つ。


やっこさん、様子はどうだ。頭しっかりしてるか?」
「いや、今はまだ。酷くぼんやりしていて、タルヤの声かけにも反応がないらしい」
「仕方ないな。取り敢えず様子を見るか」


 医務室に近付くに連れ、トルガルの鳴き声が聞こえて来る。
ずっと主の目覚めを待ち続け、傍を離れようとしなかったのだから、無理もあるまい。

 ノックをしてから医務室へと入ると、蝋燭の灯りが届くか届かないかと言う、部屋の奥に彼はいた。
ベッドに座ったまま、ぼんやりと壁を見つめる彼の目は、まだ夢現の中にいるようだった。
タルヤはその傍らに膝をつき、一先ずは自身の仕事として、クライヴの体の具合を診ている。


「タルヤ」
「ああ、シド。体の方は、一先ずは大丈夫みたいよ」


 膝を伸ばしたタルヤが場所を譲ってくれたので、シドは其処に立った。
小さな蝋燭の火を背にしたシドの影が、クライヴの横顔に落ちている。


「クライヴ」


 名前を呼ぶと、クライヴはゆっくりと此方を見た。
少年の内にザンブルク軍に囚われ、十三年の歳月を、ベアラー兵として明日の命もない場所で生きて来た青年は、その年齢の割に酷く幼い瞳をしている。
ゆらゆらと彷徨うように揺れる瞳に映し出された壮年の男は、少しの間考えた後、回りくどい言葉を捨てて問うた。


「お前、何処まで覚えてるんだ?」


 問いに対し、クライヴは長く沈黙していた。
問われた言葉の意味を図っていた……と言うよりは、言語の理解が追い付いていない様子だった。
雷の影響がなければ良いんだが、と加減の難しかった一撃を思い出しながら、シドはクライヴの反応を待つ。

 クゥン、とトルガルが小さく鳴くと、クライヴの視線が其方へと向いた。


「……トルガル……、……無事で……」


 ハ、ハ、と息を漏らして覗き込んで来る愛狼に、クライヴの口元が微かに緩む。
賢いもので、ベッドに乗り上げようとはしないトルガルに、撫でようとしたのだろう、クライヴが右腕を持ち上げた時。


「………」


 ぴた、と中途半端な場所でその腕が止まる。
クライヴは、じっとその腕を見つめ、掌を見た。
揺れていた瞳が急速に彩度を取り戻して行き、同時に彼の呼吸が逸って行く。
おい、と危険を感じたオットーに、タルヤがクライヴの下へ駆け寄ろうとするが、


「あ……あ……!う……!」


 かたかたと震えるクライヴの両手が、彼の顔を覆う。
指の間から覗く眼は、飛び出さんばかりに見開かれ、瞳孔が一気に開いた。


「うわああああああああああああ!!!」


 慟哭の声が小さな洞穴の中に響き渡る。
すぐ隣に、自分が助け出した女性が眠っていることも気付かず、クライヴは喉を破らんばかりの悲鳴を上げた。


「う、俺、あ、あ、あああああああ!」
「クライヴ!」
「俺が、俺、俺が……!そん、な、なんで、何、どうして、」
「クライヴ、落ち着け。おい!」


 眼球を抉り出しそうな程、顔に爪を立てているクライヴに、シドはその手を離させねば危険だと思った。
タルヤもそれは同じで、患者の体を守る為、咄嗟に腕を伸ばしたが、


「うわああああああっっ!!」
「あっ!」


 クライヴは腕を振り回して、タルヤとシドの手を振り払った。
そして自身の手で自らの首を掴み、爪を立てる。


「馬鹿、何してやがる!」
「俺が!俺が俺が俺が!俺がジョシュアをぉぉぉおお!!」
「この……!」


 シドはクライヴの腕を掴み、首に突き立た爪を其処から離すが、クライヴはその手もまた振り払う。
戦う為の知識として、人体の急所を知っているのだろう、クライヴは自分で自分の首を締めようとしている。
呼吸器官のある場所に食い込む指は、明確な殺意と意思を持って、自分自身を崩壊に向かわせようとしていた。

 そんなことをさせる訳にはいかない。
シドが彼を隠れ家へと連れ帰ったのは、こんな形で死なせる為ではないのだ。

 シドはクライヴの腕を掴み、力任せにベッドへと押さえ付けた。
足をばたつかせ、ベッドを壊さんばかりに暴れるクライヴに、オットーも駆け寄ってその体を押さええ込む。
トルガルが吠えているのは、主人の混乱に焦っているのか、複数人がかりで押さえ付けられる主人を護ろうとしてなのか。
何れにしろ、その激しい吠え方すら、錯乱したクライヴには届いていなかった。


「放せ!殺せ!俺が、俺がジョシュアを、あ、あ、あああああああああ!」
「くそ……!」
「放せ!触るな!殺せ……俺を殺してくれえええええええ!」
「うぉわっ!」
「オットー!」


 遮二無二暴れる人間を抑えつけるのは、簡単な事ではない。
振り上げた足がオットーを蹴り飛ばし、オットーは床に腰を打って呻く。
駆け寄るタルヤに、オットーは「大丈夫だ」と宥めた。

 どう暴れても、腕を拘束するシドが離れないと悟ったか、クライヴは途端に静かになった。
ようやく落ち着いたかと顔を見れば、口の端から赤いものが垂れている。
その正体と理由に気付いて、シドの首筋から血の気が引いた。


「くそったれ!!」


 シドは左手でクライヴの両手を抑え付け、右手で彼の口を掴む。
分かり易い抵抗の力と、喉の奥から唸り声に似た音が聞こえたが、強引に開けさせた。
指を捻じ込んで舌を捉えると、直ぐに歯がありったけの力で噛み付いて来る。
手袋ごしに伝わる、噛み千切らんばかりの力に、シドは舌を打った。


「ぐ、うぐ……ぐぅううう!!」
「この馬鹿が……!タルヤ、なんでも良い、噛ませるものはあるか!」
「え、ええ!すぐに!」


 タルヤが治療に必要なものを置いている棚に駆け寄り、使えるものを探す。
急ぎ取り出して持ってきたのは、未使用の血止め用の布だった。

 オットーがクライヴの腕を抑えに来てくれたので、シドは空いた手で布を受け取る。
握り丸めた布を、開かせたクライヴの口に捻じ込んで、吐き出さないように口元を抑えた。
これで舌を噛めはしないが、彼は相変わらず唸りながら自身を痛めつけんとして、全身で暴れている。


「鎮静剤!」
「今準備してるわ!」


 言われるまでもないと、優秀な医者は次の仕事にとりかかっていた。
だが、それの準備が出来ても、こうも暴れられてはまともに効かないだろう。

 苦悶と慟哭と絶望に染まったクライヴの瞳が、シドを捉える。
塞がれた口で声は形にならなかったが、シドはその眼が訴えているものを確かに聞いた。
殺してくれ────と。


「だから、そんな事する為に、連れて来たんじゃねえってんだよ……!」


 シドは拳を握り、加減のない力でクライヴの腹を殴りつけた。
おぐ、と布の奥で苦痛の声が零れたが、こればかりは容赦する訳にはいかなかった。


「シド!」


 叱るタルヤの声が飛んだが、シドは詫びない。
こうでもしなくては、絶望に憑りつかれたこの男は止まらなかっただろう。

 そしてようやく、クライヴの体から力が抜ける。
暴れていた手脚がぐたりと沈んで、オットーが恐る恐るに抑えつけていた手を離した。
しん、と動かなくなった青年の様子に、オットーがふらりと足元を崩して、その場に座り込む。

 タルヤが灯りを手にすぐに駆け寄って、シドをベッド傍から押し退けた。
クライヴの首に手を当て、脈を確認し、頬を叩いても反応しないのを見て、口を開けさせる。
乱暴に捻じ込んだ布を放り捨てると、タルヤはクライヴの口の中をじっと確認した。
それから棚に置いてある水瓶を持って来ると、血に濡れたクライヴの咥内を洗浄し、もう一度状態を確かめる。


「……大丈夫。少し切れてはいるけど、呼吸は正常よ」
「……ふぅ……」


 医者からの言葉に、一先ずの安堵の息を漏らしたのはオットーだ。
タルヤは患者の命が守られたことに、ようやっと胸を撫で下ろした。
シドもベッドの傍らで、顔に手を当てて深い溜息を吐く。

 クゥン、と言う鳴き声に見れば、トルガルがベッドの縁に顎を乗せ、心配そうに主を見ている。
タルヤが調合した鎮静剤をクライヴに飲ませるその様子を、トルガルは邪魔をすることなく、大人しく見守った。

 オットーがぶつけた腰を宥めながら、シドに声をかける。


「シド、どうするんだ。また暴れられちゃ、話も出来んぞ」
「……ああ、そうだな……」


 今回は強引に落ち着かせたが、何度もこれを繰り返していれば、いずれクライヴは死に至るだろう。
それは困る、とシドは呟いた。

 どうやらクライヴは、自身に起こった出来事の顛末を理解しているらしい。
それを確認できたのは良いが、余りにも戦慄の事実を突きつけられた彼の心は、十三年間、自分を動かし続けた復讐と言う炎に、焼き焦がされようとしている。
記憶の反芻と共に真っ先に己の死を望む程、その炎は激しく、仇と憎む己自身を灰にするまで消えないだろう。


(だが、まだ早いぞ。クライヴ・ロズフィールド)


 ベッドで再び眠りに就いた男を見下ろし、シドは独り言ちた。
あの地で目撃した、もう一人の火のドミナントと思しき者の正体も、目的も、何も分かっていないのだ。
十三年前の出来事も含め、調べなければならない事は多い。

 それらを全て明らかにする為にも、クライヴを此処で死なせる訳にはいかなかった。

 とは言え、もう一度目覚めたら、クライヴはまた自分を傷付けようとするだろう。
救った女も、主を待ち続けていた狼の事も忘れ、宿願を果たそうとする程だ。
一先ずは、その死への衝動が鎮まるまで、その行動を阻んでおかなければ。


「……オットー。牢屋が一つ空いていたな?」


 この隠れ家には、牢屋を誂えてあった。
然程必要なものではないのだが、隠れ家を探りに来たどこぞの斥候であったり、野盗であったりを捕えることもあったし、時にはこの隠れ家のルールを破る者への懲罰用にも使っている。
鉄で作った頑丈な拘束具もあるし、暴れようとする者を安全に閉じ込めておけるのは、其処くらいしかない。

 シドの意図をオットーも汲んだようで、「ああ」と返事が返る。
しかし、この医務室を預かる医者は、苦い表情を浮かべていた。


「シド……」
「分かってる、こいつはちゃんとした所で休ませるべきだ。だが、この有様だからな」
「……」


 医者としては、地下牢などと言う場所に置かず、きちんと診ておきたいものだろう。
責任感の強いタルヤのその気持ちは、仲間として、シドも有り難いものだった。
だが、あれだけ暴れる大の男を、毎回タルヤが無事に抑えられる訳がない。


「悪いがタルヤ、地下牢にこいつを繋いだら、定期的に診に行ってくれ。ガルーダとやり合った傷もまだ残ってる訳だし、鎮静剤を使えば、少しは大人しく寝ていてくれるだろう。……暴れてるようだったら、その時は近付かないようにな」
「……分かったわ。でも、さっき貴方がお腹を強く殴った所為で、脇腹の傷が開いてる。牢に運ぶなら、その手当てが終わってからよ」


 じろりと睨んで言ったタルヤに、シドは眉尻を下げて肩を竦めた。

 治療をするから出て行って、と言われたので、シドとオットーは医務室を後にした。
一先ず、地下牢の状態を確認して、クライヴを留めて置けるように整えておかなくては。
決して劣悪な環境に放置したい訳ではないし、不衛生はタルヤの激が飛ぶだろうから、出来る事はしなくてはなるまい。

 地下牢へと向かうシドに、オットーが訊ねる。


「腕を拘束しておけば、自分を痛めつけるようなことは出来ないだろうが、また舌を噛むかも知れないぞ」
「しばらくは何か噛ませておくしかないだろう。飲み込ませないようにしないとな。服も着せてると危ないか……」


 某か口に含めるものが身の回りにあれば、それを飲み込んで窒息することは可能だ。
衿周りなど手軽なもので、それを避ける為には、衣服は脱がしてしまうのが無難だ。
裸になると人は頼りなさからか心細くなるもので、激情に囚われた彼に水を浴びせる程度の働きにはなるかも知れない。


「男の裸を見る趣味はないんだがな」
「……安全の為だ。出来る事はしておこう」


 溜息交じりに呟いたシドに、オットーが言った。
彼とて、あの年若い青年を喪うのは惜しいと思っているのだろう。
共感者がいてくれるのは助かるもので、シドはまだ痛んでいるらしいオットーの腰をぽんと叩いて労わった。

 牢番に話を通して、シドは通路奥の牢屋の扉を開ける。
暗く、じめじめとした湿気が滞留している其処で、クライヴはまた当分の間、眠ることになるだろう。
灯りもないこの場所は、彼の心に巣食った絶望と、どちらの方が暗いだろうか。
分かる筈もない人の心の内を思いながら、シドは呟いた。


「……全く、手のかかる……」


 頭の痛い種を抱え込んだものだ。
それでも、彼の為にと情報集めに行かせたガブが戻って来るまでは、死なせる訳にはいかないと、古い手枷の具合を確認するのだった。




初出 2023/07/03(Privater)

ガルーダ戦後〜『重い枷』の間にあった出来事を妄想したものでした。
あとクライヴの口に指突っ込んでるシドが書きたかった。

シーン切り替わって突然の肌色で当時びっくりした訳ですが、色々と深堀すれば、まあそれ位頑丈な拘束をしておかないと何しでかすか判らないよねと。
特にシドに対するクライヴの台詞は、何よりも自分自身を罰さなければいられない程、きつい精神状態だったことを表している気がしたので、多分放って置いたら自殺する位したんじゃないかと思った訳です。
ムービーシーンでは猿轡はしてなかったんですが、自殺の衝動と気力が失せるまではしていたりしたのかなとか。
今にして考えると、他者に断罪して貰う事が当時のクライヴにとっては何よりも救いになったのではないかと思いますが、シドは結局それをする事は赦さなかっただろうなとも思います。