思い出を日向に


 甥子と言うのは、バイロンにとって、可愛くて可愛くて仕方のないものだった。
尊敬する兄エルウィンが初めて儲けた子供は、その持つ色も兄とよく似て、それもまたバイロンにとっては可愛がる理由の一つであった。
そもそもが兄を敬愛して已まないのだから、その面影を持つ子供の事が、可愛くない訳がない。

 その子供はすくすくと健康に育ち、読書を好んで頭の回転も早い。
少しやんちゃな所もあるが、男児なのだからその位の気概はあって良いだろう。
木剣を片手に、毎日のように身近で見ている、騎士兵士の特訓の様子を真似ている姿は、微笑ましくも勇ましく、バイロンは彼の将来を楽しみにして已まなかった。

 ただ、可哀想に思う事もあった。

 ロザリア公国を治める大公エルウィン・ロズフィールドの嫡男として生まれた彼には、無邪気に過ごしながらも、その双肩に国の未来がかかっている。
ロザリア公国では、代々、召喚獣フェニックスのドミナントが大公を継ぐことが定められているが、現大公であるエルウィンは、その力を有していない。
ドミナントは先代が逝去したからと、直ぐに次代が発現する訳ではないもので、こうした時期は歴史上、少なからず起きるものだった。
次のドミナントがいつ生まれると分かるものでもないから、只人である大公は、その繋ぎとして、次のドミナントが目覚めるまで、その座と国を守るのが使命である。
そして、大公の下に生まれた子供も、必然的にそれを受け継ぎ、自身がドミナントとして目覚めないのであれば、いずれはその玉座を明け渡すべき宗主が現れるまで、国を支え盛り立てて行く義務があった。

 バイロンは、無邪気な子供の笑顔を見る度に、その将来の逞しさを思い描きながら、なんと重い未来を背負わせた事だろう、と思った事もある。
だが同時に、この子なら大丈夫だ、とも信じていた。
民を想い、国を想う心と言うものを、その子供は確かに抱き育んでいたから、バイロンは、自分はそれを支え援けるのが己の使命であると思っていた。
だから、子供が敬愛する兄の嫡子として生を受けたことを、否定するつもりは一つだってない。

 それよりも────それよりも。
その子供が、フェニックスのドミナントとして期待されている事が、何よりもバイロンには苦いものがあった。

 受け継ぐ血筋からそれを期待されるのは無理もなく、不死鳥の存在はロザリア公国では、その地を治める大公よりも重畳されるものだ。
信仰にも似たその想いがあるからこそ、ロザリア公国は“炎の民”としての誇りを持ち、清廉潔白に危機に立ち向かい、国民を守る為に戦うことが出来る。
とは言え、フェニックスのドミナントが存在しない治世と言うのも、歴史上珍しくはなかったから、今いないからと国が直ぐに荒れることもなかった。
代わりに、大公の嫡男として生まれた子供に、いつかはその力が目覚めることを期待する目が向けられるのも、仕方のない事だったと言えるだろう。

 バイロンが子供を憐れに思うのは、その最も深く重い期待の眼が、子供の実母から常に向けられていたことだ。
大公の嫡子の母であるから、それは当然、大公妃である。
その持つ立場により、彼女自身も周囲からドミナントの力を持つ子の誕生を期待され、重圧があったことは想像に難くない。
だが、その重責の圧を、母から子供に与えてはいけない、とバイロンは思う。
子供が最も無心に甘えることを許される筈の人が、誰より重い重圧を与え、冷たい眼差しで子供を見下ろすのだ。
バイロンは、子供が母親の前で無邪気に笑っているのを見た事がない。
いつもどこか緊張した面持ちで、繰り返される「お前は、いつ───」と言う言葉に、力なく項垂れるしかないその姿に、何度怒鳴り付けたくなったか分からない。
だが、バイロンが怒ろうとすると、子供はだいじょうぶ、と言って笑うのだ。
泣き出したいのを精一杯に堪えた顔で。
どうか母を責めないで欲しいと言うその顔に、バイロンは握った拳を解くしかなかった。

 ぼくは、いつになったらドミナントになれるんだろう。
兄の面差しを受け継ぐ子供が、まだまだ幼かった頃、そんなことをぽつりと漏らした事がある。
人をよく思い遣る彼は、いつも自分に向けられる期待の眼を知っていて、それに応えようと懸命だった。
だから当然、母から向けられる、ドミナントとしての力の覚醒を期待する言葉にも、応えなければと思っていた。
ドミナントは、生まれ持ってその力を有する者もいるが、後天的に目覚めることもある。
だがそれは自ら選んで目覚めることが出来るものではなく、その力を有しているか否かすら分からないまま、長い年月を過ごす事も多かった。

 生まれた時に只人であった子供は、一分一秒でも早く、皆が、母が望む力が目覚めることを願っていた。
しかし願えど祈れど、子供がその力に目覚めることはなく。

 子供が五歳の時、弟が誕生する。
このもう一人の甥子も、バイロンにとっては可愛らしいものであった。
バイロンが敬愛する兄の嫡男は、弟を大層可愛がる兄となり、弟は少々体が弱いものの、兄を尊敬して已まない子供に育ち、その兄弟仲の良さは、城仕えの誰もが知る所となっていた。

 そしてある日、弟がフェニックスのドミナントとしてその力を目覚めさせる。
国は喜びに沸き、大公たる兄が、一つ安堵の息を吐いたのを、バイロンは覚えている。
只人の身で抱いた玉座を、返すべき先が見つかったことに、肩の荷が一つ下りたのかも知れない。
とは言え、目覚めた子供はまだ十にもならない年齢で、その幼さを幾らも脱しないままに、玉座に座らせる訳にはいかない。
ロザリア公国の裏側────建国より続く血筋が絡み合う、ロザリアの社交界は、権謀術数が常に渦巻いている。
国を、子供たちを想うが故に、エルウィンは今しばらく、大公の座を守らねばならなかった。

 国はドミナントの誕生を祝福した。
バイロンもそうだ。
だがその傍ら、ずっとずっと可愛がってきた甥子が一人、ぽつんとその喜びの輪から取り残されていたことを、バイロンは知っている。

 生まれてからずっと、ドミナントとしての覚醒を期待され、それに応えねばならないと努力していた子供。
弟がその力を有し、自分は決して皆々の期待に応えられないと知った時、彼は幼いその身で何を思ったのだろうか。
彼は、弟が覚醒した時には、もうそれを外には出すことはなかった。
弟はドミナントだけれど、体が弱いから、自分が守ってやらなくちゃ。
そう言って甘えん坊の弟をあやし、咳き込むその姿に心を痛め、体の痛みだけでも変わってやりたい、と呟く少年に、バイロンは目頭が熱くなるのを感じた。

 そして、待望の存在が生まれて尚、彼に辛辣に当たり続ける母に、バイロンは苦いものを幾つも飲み込む。
ドミナントの力は選んで得ることが出来るものではないのだから、彼がその力に目覚めなかったことは、彼自身の責任ではない。
だと言うのに、母はドミナントとして目覚めた弟に愛情を注ぐ一方で、只人として生まれた長男の事は、まるでないもののように扱う。
重圧を与えていた頃と、子と思う事すら辞めたような態度は、甥子を可愛がって已まないバイロンにとって、それは腸が煮えるものであった。
夫であるエルウィンから見ても、時に窘められる事はあったと言うのに、彼女の態度は一貫して変わらなかった。

 子供は、とても良い子だったのだ。
父を尊敬し、弟を大切にし、国を想い、自己への研鑽を怠らない。
ドミナントとして目覚めることへの期待も、その後、フェニックスのナイトになる事への期待も、彼は逃げなかった。
木剣を手に、将軍を相手に何度も何度も打ち込んでは、容赦なく負かされて悔しさに歯を噛んでいた。
それでも彼は立ち上がり、いずれは大公となる弟を、その一番近くで支える者として相応しくなるべく、自分自身と戦い続けていたのだ。

 ────そして、そんな子供であるからこそ、彼が無邪気に笑っていた幼い一時が、バイロンにとってかけがえのない記憶として刻まれている。
お気に入りの《騎士と聖女》の一場面を、二人で演劇にして遊んだのも、忘れられない思い出だ。
彼は決まって騎士をやるから、バイロンはそれに斃される悪役を引き受けることになる。
たまには他の役もやりたいぞ、と頼んでみたけれど、結局最後は、いつもの役を演じた。
それが彼が一番喜んでいたのだから仕方がない。
バイロンにとっては、子供が楽しみ喜ぶことが、何より大事だったのだから。

 だからバイロンは、ずっとずっと、その記憶を繰り返し思い出していた。
十八年前、迫る大戦に備えて、兄が古来からの習わしを行おうとしていたあの日。
バイロンにとっては忌々しい、大公妃の悪しき導きによって、敬愛していた兄エルウィンは死んだ。
フェニックスゲートでは、幼いドミナントであった弟が、フェニックスとして顕現したと言うが、詳しい事を知る者は殆どない。
彼の地からは、長らく、誰も生きて戻って来なかったからだ。
彼等と共に一夜を過ごしていた筈の、バイロンが愛して已まなかった、あの子供さえも。

 ザンブレク皇国の侵略と、直後に起こった鉄王国の侵略の混乱で、ロザリア公国は落ちた。
それからしばらく、ザンブレク軍と鉄王国軍の衝突が繰り返されたが、最終的にロザリアの地がザンブレクの属領とされるまで、それ程時間はかからなかった。
それから十八年と言う長い年月のうちに、世代も入れ替わって行き、後に生まれた子供は嘗ての“炎の民”の志も知らず育ち行く。
兄が時間をかけて目指していた、国内にいるベアラーに対する処遇改善の方策も、すっかり打ち捨てられて久しい。
兄の志を敬愛していたバイロンにとって、ベアラーを排斥し、兄を尊ぶ人々を弾圧する、属領総督府───国を売った嘗ての大公妃の存在は、以前以上に憎しみを募らせるものとなっていた。
しかし、バイロンから彼女に対して出来ることはない。
兄との関係上、睨まれているのは分かり切っていることだったから、己が粛清の身に合わない為にも、形だけでも従属する必要があった。
そしてその傍ら、商売で築いた財産を、密かに“種火”に送り続けることを、静かな反乱として続けていた。

 忌まわしいあの日から、十八年間、バイロンは片時も、喪われた家族のことを忘れたことはなかった。
若き日に兄と共に旅をした日々、可愛い甥子たちと過ごした暖かき日々。
生き続ける内に彼等を忘れて行く人々が増える中、バイロンは何度も何度もその思い出を繰り返していた。
そして、寄る年波に重くなる体に反し、記憶の中ですっかり成長を止めた子供たちの姿に、何度涙を飲んだか知れない。

 だから許せなかった。
愛する甥の名を堂々と騙り、屋敷へとやって来た痴れ者を、我が手で成敗せねばならぬと。
“種火”すら信じ込ませてやって来るような切れ者でも、自分は絶対に、間違えないと言う自信があった。

 だから言葉を失った。
何度もねだられ、繰り返し、すっかり覚えてしまった台詞を諳んじる、雄々しく成長した甥子の姿に。
言葉の抑揚、見栄の切り方、何もかもがバイロンが記憶の中で反芻し続けた姿そのもの。
身長が伸び、嘗て兄が纏っていた装束を身に着け、髭を蓄える年齢になっても、バイロンはその姿が、瞼の裏に焼き付いた少年のそれとそっくり綺麗に重なった。
理解と共に、駆け寄りたい衝動に駆られて、寸での所でそれを飲み込む。
何度も聞いた台詞を最後まで聞いてから、自分の番になって、忘れぬ台詞を口にしたけれど、最後は上手く読めていたか分からない。
堪らず抱き締めれば、確かに感じる体温があって、夢幻ではないのだという事がようやく現実として落ちて来たように思えた。

 立派に成長した甥子は、辛い日々を過ごしただろうに、彼はそれを口にする事はしなかった。
その苦しみの日々の中、自分自身が貫くべきと定めた道を行く為に、彼は信頼できる人として叔父を頼ったと言う。
そんな事を言われて、バイロンが応えられない訳がない。
確かに彼の話は俄かに信じ難くあり、五年前から轟く大罪人の名が、彼を指していたことには驚いた。
しかしバイロンは知っている。
彼は昔から、嘘を吐く時には必ず決まった癖があるのだ。
信じて欲しいと真っ直ぐに見詰める瞳然り、幼い頃から消えず残ったその癖然り、バイロンに愛する甥子を疑う理由は何処にもない。
十八年前、最も辛い思いをした彼を助けられなかった代わりに、今こそ何でもしてやろう────そう思ったのだ。




 商売で得た利益と言うものは、回すべき所に回せば、また上手く利益を生んでくれるものだ。
バイロンにはそれを見極める才があり、お陰で今でもロザリア領で一の財産を有していると言って良い。

 バイロンは、その持った財産の一部を、すっかり甥の為に使う事を決めた。
勿論、投じるそれは全て私財であるから、バイロンが何にどう使うか、口を出せる者はない。
気掛かりと言えば属領総督府の動きであったが、ロザリア領から西にあったマザークリスタル・ドレイクブレスの消滅を期に、かの地を境に睨み合っていた鉄王国が混乱を始めた事もあり、ロザリア領に駐屯していたザンブレク兵の睨みは減っていた。
そして“種火の守り手”からの「行って下さい。この地は我らが守ります」と言う心強い言葉にも背を押され、バイロンは自ら甥子の下へと向かう決意をしたのだった。

 ザンブレク兵には散々に辛酸を舐めさせられているから、少々痛い目を見せるのに躊躇はない。
クリスタル自治領に持っていた屋敷を、相場を越えた値段でザンブレクの貴族に売ったとて、やってやったと清々しい程のものだ。
それで得た金を、人里離れて生きる甥子の下へと運び込んだ。
金貨は重く、小さな渡し船が聊か悲鳴を上げていた───加えて、バイロン自身の重みも───が、無事に船は甥子の隠れ家へと到着した。

 嘗ては洗練された歴史ある城に暮らしていた甥は、今は黒の一帯の只中にある湖の中で暮らしている。
色々不便も多かろう、と思ったが、存外と甥子は此処での生活を気に入っているらしかった。
彼を囲む人々は、いつも彼に笑顔を向けており、小さな子供が懐き飛び付いて来る程。
シド───と、巷では大罪人と呼ばれる名を、誇らしげに嬉しそうに呼ぶ人々と、それに応える甥子の姿に、バイロンは在りし日の兄の面影を見た。
彼もまた、沢山の人に愛されている人だった。
甥子は立派にその志を継ぎ、生来から人に好かれて已まないその人となりを失わない。
これが誇らしくない訳がなかった。

 ────お陰で、今日は酒が美味い。

 隠れ家で、信頼できる人だから大丈夫だと人々に紹介され、バイロンは歓待を受けた。
物資に余裕があるような環境ではないから、舌の肥えた御仁には物足りないと思うけれどと、提供されたワインと肉の美味い事。
聞けば大陸でも有名なワインの産地と付き合いが長いらしく、数が多い訳ではないが、仕入先に当てがあるのだとか。
商売人としては羨ましい話であったが、それを利益云々でなく、人同士の信頼関係の繋がりで得た人脈だと言うのが、甥子らしいと思った。

 其処に、自分の話を聞いてくれる者がいると言うのが、また良い相乗効果を齎す。
酒を傾けるバイロンの前には、甥子と付き合いが長いと言う男が一人、座っていた。
バイロンがこの隠れ家に来た時、甥と一緒に出迎えてくれた、ガブと言う名の男だ。
彼は五年前、甥子と出逢ってから、その片腕として信頼を寄せられていると言う。
そんな人物を捕まえてから、バイロンは専ら甥の話を酒の肴に愉しんでいた。


「────と、言う事があってだな。全く、子供の頃からあれはよくよく無茶をするものだった」
「へーえ。いや今でも変わりませんて、あいつの無茶な所は。俺も何回ヒヤヒヤさせられたか」


 ガブは椅子に逆向きに座り、背凭れに寄り掛かる格好で、バイロンの話を聞いている。
頬杖をした口元が分かり易く楽しそうにしているものだから、バイロンも話をするのが楽しくて仕方がなかった。

 こうも堂々と、甥のことを話せる相手は、全く何年ぶりだろうか。
屋敷のことを預けている執事たちのことは信頼しているが、その中にも嘗ての公国を知らない者が増えている。
十八年の歳月が経っているのだから、世代交代があるのも無理はないのだ。
表向きは属領総督府に平伏するしかなかった事や、大公派への過激を通り越した粛清もあり、嘗てのロザリア公国の思い出と言うのは、誰も彼もが口にするのを躊躇うものになっていた。
そんな息苦しさから解放された気持ちで、今日のバイロンの口はよく回る。

 ガブは今現在の隠れ家で、甥と一番長い付き合いがあると言う。
他にもそう言う者はいるのだが、斥候と言う役割を持っている事から、リーダーとの連携連絡を密に取る事が多いそうだ。
時には揃って出ることもあると言い、その際、よくよく無茶を押し通してくれる甥に振り回されていると言う。


「なあバイロン様。あいつ、直ぐに自分が前に出るでしょう。あれは昔っからの奴ですか?」
「ああ、そうだな。フェニックスのナイトとしての誇りや、人々の為にあれと教えた兄の───父親の方針もあるとは思うが、元々思い遣りの強い子だ。誰かを危険に晒すくらいなら、自分が前に出る、と言う気概を持っておったな」
「そりゃあ助かるし、実際それで一杯援けて貰った奴もいるけど、無茶しすぎなんだよなぁ。バイロン様から叱っちゃくれません?あいつがいなくなったら、此処は大変なんだから、もちょっと自分に慎重になってくれって」
「そうだな。あやつが傷つくのを見るのは、儂とて忍びない。言うだけ言ってみるとしよう」
「助かりますよ。俺やジルが言ったって、返事はするけどまるで聞きゃしねえんだから」


 唇を尖らせるガブに、バイロンは声を上げて笑う。
甥を大事に思ってくれる仲間の存在を知れたのは、こんな僻地までやって来た甲斐があったと言うものだ。


「まあ、そんな事よりだ。あれが十二の頃だったか、儂の所に商売のいろはを学びにきたことがあったんだがな」


 新たに浮かんだ思い出を早速話そうとすると、ガブは興味津々の顔で乗り出してきた。


「あいつが商売の勉強?商人じゃなくて、王子が?」
「うむ。国を動かすと言うのは、人の心を集めることも重要だが、それには国を豊かする為の財産がなくてはいかん。食うものがなくては、民草も干上がってしまうからな。それに、王と言えども、自分一人で勝手に国の金を回すのは良くない。何の手段に使うにしろ、臣下は勿論、民にも納得の行くように、その恩恵が行き渡るように心を配らねばいかんのだ。あの頃から難民は多くてなあ、国庫をどう回していくかの問題は、よくよく儂も相談されていた。当時の大公である兄上も頭を悩ませていてな、となると次代にもその問題はどうしても引き継がれていくものだ。国の未来を守る為にも、その知識が必要だと、預かった時期があったのよ」
「へえ、お偉いさんってのも大変だ。でもまあ、分かる気はするな。うちの家計はいつだって火の車だからよ。バイロン様のお陰で、ちょっと余裕が出来そうだけど!」


 感謝してますよ、と言ってくれるガブに、バイロンは腹を揺らして笑った。
言葉を隠さず伝えてくれる、全く心地の良い男だと思う。

 そして意気揚々と、バイロンが話の続きを再開させようとした時、


「随分楽しそうですね、叔父さん」
「ガブもね」


 足音と声に二人が顔を上げると、昇降場から入って来た所だったのだろう、バイロンの大事な甥子───クライヴと、ジル、トルガルの姿があった。
トルガルがふんふんと鼻を鳴らしてガブの足元にやって来ると、ガブは灰白狼の喉を擽ってやる。
トルガルの尻尾がぱたぱたと嬉しそうに振られた。

 この隠れ家を率いる頭の帰宅に、あちこちで「お帰りなさい」と言う声がかけられる。
クライヴはそれに「ああ」と片手を上げながら返事をして、このラウンジを預かるメイヴの下へ向かった。

 ジルがトルガルの背中を撫でながら、空いている椅子に腰を下ろす。


「お邪魔しますね。楽しそうな笑い声が聞こえていたんですけど、一体何のお話をしていたんですか?」
「おお、少しばかり昔話をな。積もる話が多くて、幾ら喋っても尽きんよ」


 ジルの質問にバイロンが答えると、続けてガブも言った。


「色々面白い話が聞けたぜ、ジル。あいつが五歳の時の話とか。あ、ジルは幼馴染だから、知ってる話だったか?」
「いや、それはなかろう。彼女が兄上の下に来たのは、確か────十は数えておったよな」
「ええ」


 バイロンはジルのことを詳しくは知らないが、大陸北部を出身とする有力者の娘であったことは覚えている。
当時から既に広範囲を黒の一帯に覆われていた北部の民は、ロザリア公国と領土争いの戦争の後、敗退した。
その後も食糧不足等に喘ぐ民の為、ロザリア公国からの援助の手を作ろうと、政略結婚の目的もあり、ジルを差し出したのだ。
それは確かに子供たちが幼い頃の事ではあったが、そう極端に昔の話でもなかった筈。
バイロンの言う通りだと、ジルもこれには頷いた。


「だから私、クライヴの小さい頃と言うのは、あまり知らないの」
「そうだったのか。じゃあ、バイロン様の話は面白いと思うぜ。あいつがこんな小さい頃からのことを知ってるんだから」


 手をテーブルの天板の高さにして、クライヴの身長を示して見せるガブに、ジルの眼がぱちりと丸くなる。
ジルは口元に手を当て、ううん、と唸るように考える仕草を見せた。


「クライヴの、小さい頃のこと……」
「うむ。聞きたければ幾らでも聞かせてやるぞ。《騎士と聖女》の話は、お前さんはもう知っていると思うが、どうだ?」
「俺もそれは気になるけど、バイロン様、さっきの話の続きも聞かせてくれよ」
「おお、そうだった、そうだった」


 話したいことが渋滞を起こして、さてどれからにしよう、とバイロンは腕を組んで考える。
───両手にエールの入ったタンカードを手に、クライヴが席に立ってきたのはそのタイミングだ。

 クライヴはジルの前にタンカードを一つ置いて、空いた席に座る。
トルガルがすぐにその足元に来て、ゆったりと丸くなった。


「皆、何の話をしてるんだ?俺も入って大丈夫かな」
「おっ。いいぜ、入れ入れ。折角だし、面白いもんも見れそうだ」


 にやにやと笑うガブに、クライヴは潜めるように片眉を寄せる。


「お前がそんな顔をしていると、どうも嫌な予感がするんだが……」
「ひでえな、別に悪だくみしてる訳じゃないんだぜ。ただ、お前も一緒にいれば、色々話が掘り下げられるんじゃないかと思ってさ」
「だからそもそも、一体何の話をしているんだ。叔父さんは随分楽しそうにしているけど」


 クライヴは眉間に皺を刻みつつ、伺うようにバイロンを見た。
じっと見つめる瞳は、「何を話していたんだろう」と問うていて、その瞳の色が幼いあの頃によく見上げてくれたものと変わらない事に、バイロンは胸が一杯になる。

 バイロンは手元のジョッキを口に運んで、上質のワインをごくごくと飲んだ。
気の良い若人に、可愛い甥、こんなにも美味い酒の肴は、後にも先にもありはすまい。
そんな心地良さの中で、バイロンは早速話の続きを始めた。


「あれはクライヴが十二の頃だ。兄上からの相談を受けて、商売の勉強をさせてやってくれと言われてな。十日ほど、ポートイゾルデの儂の屋敷で、クライヴを預かったのだ。その時の事なのだが────」
「お、叔父さん!?話ってまさか、俺の……!」


 意気揚々を話し始めたバイロンに、クライヴががたりと音を立てて椅子を蹴る。
思わずテーブルに前のめりになったクライヴを、ガブがまあまあとその肩を押して席へと戻した。


「お前は頭が良かったからな。教えたことはなんでもすぐに覚えたが、商売は頭の良さだけでは上手くはいかん。皆腹に一物持って手ぐすね引いておるもんだと教えたが、その意味は実践してみねば分からん事だ。それで一つ、課題を出したのだ」
「課題ですか?」
「ジ、ジル……!」


 ジルが話題に食い付いているのを見て、クライヴは彼女を止めようとするが、それもまたガブに抑えられる。
まあまあまあ、とひたすら宥める格好で阻んで来る兄弟分に、じろりと睨んでやった所で、ガブはけろりとしたものであった。

 更にバイロンの昔話は続く。


「ナイフを一本、売ってみろと言ったのだ。そのナイフは、装飾は良いのだが、誂えられた宝石は大したものではない。だが見た目は凝っていると言うものだ。武具としては鈍らだが、飾りとしては使える、そんな所だな」
「そりゃお高かったんで?」
「儂にしてみれば二束三文だ。だが課題は厳しくせねばとも思ってな、ただ売るのではなく、その品の元値を上回る額で売るように、とな。方法は、罪になる事がないものなら、自由だ」
「元値と言うのは、どれくらいのものだったんですか?」
「実の所、ナイフ自体は2500ギルと言うのが妥当な所でな。後は付加価値と言う所だ。誰それの鍛冶屋が作っただの、宝石に謂れがあるだのと、そんなものよ」


 バイロンの話を聞きながら、ガブはにやりと笑って隣の男を見る。
クライヴは額に手を当て、頭痛を抱えたような表情で、物言わぬ床を見つめていた。


クライヴお前が商売ねえ。ナイフ一本、果たして売れたのかな?」
「……叔父さん、この話はもう……」


 結末が分かっているクライヴにとって、遠い思い出の話は、中々に羞恥を誘うものらしい。
請うように語りを止めたがるクライヴであったが、今日のバイロンはすっかり酒が進んでいる。
長い間、自分の思い出の中で反芻するしかなかった出来事を、今ようやく解き放つことが出来たのだ。
思い出話の当人がどんなに頼んでも、今日ばかりは止まるまい。

 バイロンはかっかっと笑い、


「ナイフはな、しっかりと売れたぞ。ポートイゾルデの市場で、武具屋や宝石屋を一つ一つ巡って、相場も考えておった。だが商売人は口が上手いものだからな。売ろうとしていた値段から、あれよあれよと値を下げられてしまった」
「あら……」
「……」
「黙って下げられていた訳でもない、きちんと交渉をしようと努力もしていた。だが、何せ初めての商売だ。お前は素直でもあったからなぁ、百戦錬磨の商人あきんどを相手に、そう上手く勝てる筈もない。初めに売値5000ギルと出したのが、さて、幾らにされたかな」


 ふむと考える仕草を見せるバイロンに、ガブはすかさず、クライヴに問う。


「幾らだ?クライヴ」
「………2800ギルだ」


 黙っていても、バイロンが思い出せば言うと思ったのだろう。
クライヴは諦めた表情で、深い溜息を共に答えた。
数字を聞いたバイロンは、はっはっはと豪快に笑い、ジルが眉尻を下げてくすりと笑う。


「半分近くも値切られてしまったのね」
「……努力はしたんだ」


 ───バイロンから渡された、ナイフを一本、売ると言う課題。
それがどれ程の値打ちものなのか、当時のクライヴにはまだ分からず、ただ凝っている割には重さもなく、武器として携帯しても、あまり抑止力にはなりそうにないなと思っていた。
とは言え、宝石は嵌っていたから、単純な安物でもなさそうだと、それでクライヴは5000ギルの値をつけた。
バイロンの言う通り、市場の店も一通り巡り、あの場で売るなら、この位だろう、とも。

 それから買い取ってくれる人を探し、幼いクライヴは市場を歩き回った。
まず色の良い返事をくれた人と話をすると、ここでいの一番に値切られた。
1000ギルなら買う、と言われて、流石にそれは了承する訳にいかないと、直ぐに話を切り上げている。
だが、その後も人を捕まえど似たような数字を出されるばかりで、真面に売れる気配がない。

 其処でクライヴは、交渉を続けることを選んだ。
何と言えば相手が商品に食い付くか、どう見せれば商品の価値が相手にとって上がるか。
四苦八苦をしてクライヴは交渉に挑んだが、十二の子供の初めての商売は、中々辛い結果に終わる。


「……何が一番悔しかったって、次の日、売ったナイフが5000ギルで店に出してあって、おまけにそれが買われていたんだ」
「そいつは、お前から買った奴は儲けだったろうなあ」


 苦い記憶に顔を顰めて言ったクライヴに、ガブが笑いながら、その肩をぽんぽんと叩いている。
足元では、主人の落ち込みに気付いたトルガルが、慰めるようにすりすりと身を寄せていた。

 バイロンはメイヴが「お代わりです」と運んできてくれた肉を受け取り、はぐりと齧りつく。
じゅわっと染み出す肉汁を零さぬように、ワインと一緒に飲み込んだ。


「ふう。まあ値段はどうあれ、ナイフを元値以上で売れと言うのは合格だった。しかし、交渉が思うように進まなかったのが、余程悔しかったのだろうな」
「叔父さん!この話はもうその辺で……!」


 平時の落ち着きや、静かな声色も何処へやら、珍しく声を大きくしたクライヴに、ラウンジに集まっていた人々が振り返る。
なんだなんだと視線が集まるが、バイロンは気にする訳もなく、クライヴもそれ所ではない。


「屋敷に帰ってから、すぐにぼろぼろと泣き出したのだ。褒めても宥めても泣くものだから、儂もすっかり参ってなあ」
「へえ〜」
「クライヴが、そんなに」


 にやにやと楽しそうなガブと、驚いたように呟きながらも何処か楽しそうなジルに見詰められ、クライヴは居た堪れなくなっていた。

 幼い日、バイロンの下に預けられた時、クライヴは一人きりだったのだ。
世話はバイロンの執事たちに引き受けられ、城に帰るまでの間、商売に精を出す叔父の傍で、その仕事ぶりを見ていた。
それは勉強の為の日々ではあったが、普段と違う環境は、常に期待と緊張に背を伸ばしていた少年を、ほんの少し年相応にもさせていた。
現実が自分の思うようにいかない事なんて、その頃には十分に分かっていたし、泣きたくても歯を噛んで強くなろうと自分自身に決意をして久しかった。
だと言うのに、どうにも悔しさが止まらなくて、叔父の前でしゃくりあげて泣いたことを、クライヴも記憶の底から今改めて思い出したのであった。

 赤い顔を手のひらで隠し、何度目かの深い溜息を吐くクライヴ。
バイロンはそんな甥子の様子を見つめながら、昔の思い出を恥じるその姿すら、愛おしく感じていた。
十八年前のあの日から、バイロンは、そんな甥子の姿を思い描く事すら出来なかったのだ。
もう小さな子供ではないクライヴにとって、こんな思い出話は恥ずかしくて仕方がないのだろうが、バイロンはどうしても語らずにはいられない。
この十八年間、思い出を語るのも、それに甥子が反応を見せてくれる事も、バイロンにとっては夢でしか出来ない事だったのだから。

 それに加えて、今日のバイロンには、更に嬉しい事がある。
語る話を、もっともっとと聞きたがる者がいてくれる事だ。


「なあ、バイロン様。他にもまだあるよな?可愛い可愛い甥っ子の話」
「おい、ガブ!」
「おお、幾らでもあるわい。なら、八つの時の話はどうだ。背は、そうだな、この位で」


 掌で思い出の子供の身長を表すバイロン。
全く止まる気配のないバイロンに、クライヴは怒った顔をして見せた。


「叔父さん、飲み過ぎです。今日はもう此処までに」
「なーにを言うか、クライヴ。今夜の儂は幾らでも飲めるぞ。いやしかし、此処では酒も貴重なのだったな」
「そうです、だから……」
「お酒なら、明日にはエールもワインも届くから、大丈夫だよ!」


 強引にでもこの場をお開きにさせようとしたクライヴだったが、厨房を預かるモリーから飛んできた声に、あえなく失敗した。
「それなら安心だな!」とからからと笑うバイロンの勢いは、全く止まる気配がない。

 クライヴは、結局溜息を吐いて、椅子の背凭れに寄り掛かった。


「明日に響いても知りませんよ、叔父さん」
「はは、問題ない、問題ない。今日の酒は良い酒だからな。悪酔いなんぞする訳がない」
「………」


 はあ、とクライヴはもう一度溜息を吐いた。
すっかり存在も忘れていた、タンカードの中のエールを、渦巻く胸中を飲み下すように傾ける。

 その隣で、ジルは小さく笑みを浮かべていた。
微笑ましいものを見つめるようなその眼差しに、クライヴは自分の唇が子供のように尖るのを自覚する。


「……楽しそうだな。君も、ガブも。叔父さんも」
「ふふ。だって、貴方の小さい頃の事なんて、聞いた事なかったもの」
「俺の子供の頃のことは、君だって知っているだろう」
「会う前のことは知らないわ。貴方も話してはくれないし。私も、そんなに自分のことを言った事もないけれど、ね」


 お互いの関係を、幼馴染とは言うけれど、クライヴとジルが出会ったのは、少年少女と呼べる歳だった。
それより以前の事は、確かに詳しくはなく、離れていた時間も長かった所為か、お互いの昔話は余りした事がない。
ジルにしてみれば、こんな機会────叔父の来訪と言う出来事でもなければ、幼い頃のクライヴのことを知る機会もなかった訳だ。


「でも、貴方が子供の頃のことを話したがらないのは、少し分かるわ。ちょっと恥ずかしいもの」
「……そう思うなら、叔父さんを止めるのに協力して貰えないか」
「あら、それは難しいわ。バイロン様、とても楽しそうだし、邪魔をしてしまうのは申し訳ないもの。貴方の可愛い話を聞けるのは、私も嬉しいし」


 もっと聞きたい、と言う気持ちを隠さないジルの言葉に、クライヴはもう成す術もない。
勘弁してほしい、と赤らむ顔に手を当てるクライヴを慰めてくれるのは、足元から覗き込んで来る愛狼のみ。

 いつまでも宴の明けないバイロンの声と、分かり易く項垂れるクライヴの様子に、隠れ家の人々が集まり始めるまで、時間はかからなかった。
どうしてそんなにも人が集まって来るのか────いつも凛と皆を率いるクライヴが、いつになく幼い表情をしているからなどと、当の本人は知る由もないだろう。





初出 2023/07/24(Privater)

バイロン叔父さんのあけっぴろげな豪快さは見ていて健康に良い。
そんな叔父さんと一緒にいる時のクライヴが、時々子供の頃に戻ったような顔を見せてくれる瞬間で寿命が延びる。
アルティマニア発売前に書いたものなので、叔父さんの本編中の発言の意図などは目を瞑って頂けると幸いです。

子供の頃のクライヴが、本編中に演劇遊びをしていたように、折々に叔父さんの世話になってると良いなと。
ドレイクブレス潜入前、その手段を求めて真っ先にバイロンの名前を上げ、18年逢えていない上、体外的にはポートイゾルデに引き籠っている状態の彼を頼ることを決める辺り、叔父に対する信頼が表れているような気がしました。
その後も折々に「叔父さんならそうだろう」って言う安心感のようなものがあるのがとても好き。