縺れ糸を解きながら


 その日一日、クライヴはシドに連れ回される形になった。

 腹ごなしを終えた後は、オットーとゴーチェを交えて、各地から寄せられた情報の整理。
その隙間にシドは、兵装を身に着けている者達に、何処其処へ行くようにと指示を出している。
クライヴは専らその横にいただけのようなものだが、時折、「お前はどう思う?」と話を振られた。
自分に聞いてどうしようというのだろう、とは思ったクライヴは、初めこそ眉根を寄せて沈黙していたが、オットーから「第三者の意見って言うのも必要なんだ」と言われて、半ば仕方なしに口を開いた。

 ────この隠れ家に来てから、喋ることが増えた。
ベアラー兵として暗殺部隊にいた頃は、必要となる物事の報告以外で、碌に喋った覚えはない。
それでも雑兵として扱われていた頃よりは、口を動かす機会は多い方だった。
ベアラーには目も耳も、利く口さえもない、と言うのがザンブレク皇国での扱いであるから、その環境の中にいれば、必然的に口を利く機会など減るものだ。

 しかしこの隠れ家では、誰も彼もが平等に口を利く。
クライヴに対しても、一方的に命令を投げたり、言ったきりで終わりにする事はなく、必ず某かの反応を待たれていた。
それが今のクライヴには時に戸惑いを誘うのだが、手伝いでも何でも、終わった後に「助かったよ」と笑い掛けられるのは、厭な気分にはならないものだった。

 情報の整理が終わると、次にシドが向かったのは、《語り部》と呼ばれる老人の下だった。
いつもラウンジの奥の決まった場所で本を開いている彼の下には、シドの他にも様々な人が訪れるらしい。
希少な本を集めながら、多方面から見た歴史の研究をしている為、隠れ家の書架を預かっている一面もある。

 シドが《語り部》と話をしている間、クライヴは手持無沙汰にしていた。
俺が此処にいる意味はあるのだろうか、と何をするでもなく暇を持て余し、かと言って待機姿勢と言う程背筋を伸ばす必要もないので、より時間が余る。


「例の本なんだがな、やっぱりここいらじゃ難しそうだ」
「ふむ、仕方があるまい。現存しているのかすら確かではないからのう」
「代わりと言っちゃなんだが、この間軒替わりに行った廃村で、幾つか本があるのが見付かった。建物全体を見た訳じゃないから、また調査に行こうと思う。魔物もいるから回収には時間がかかるが、どうにか持ち帰れるようにしておく」
「ああ、それは有り難い」
「ま、家も随分朽ちていたから、読めるものが幾ら残ってるかは分からないけどな」
「構わんよ。書はどれも貴重なものだ、完全に失われてしまう前に、一部分だけでもあれば物事を知る援けとなってくれる」


 新たな書物の目途が見えたからか、《語り部》は嬉しそうに言った。
クライヴはその会話を横に聞きながら、壁際に添えられて作られた本棚に目を向ける。


(……本か。昔はよく読んだものもあったな)


 ロザリス城には書庫があり、其処には様々な本が並んでいた。
誰もが知るような伝説や物語を綴ったものから、ロザリア公国の成り立ちを記録した歴史書、兵法や戦術について解説されたもの等、幼い頃のクライヴはそれらを繰り返し読んでいた。

 あの書庫を《語り部》が見たら、どんな反応をするのだろう。
いや、長く生きて本を見つめ続けていたこの老爺ならば、ロザリス城の書庫に置かれていた本すら、実はよく知るものであるのかも知れない。
彼の生い立ちをクライヴは全く知らないが、白髭を蓄えている今尚、様々な見識を吸収する事を厭わないのだから、その知識の広さは驚くほどに裾野が広い。
十五までロザリア公国で暮らし、外に出た機会と言えば数える程しかなく、十三年間をベアラー兵として戦場でのみ生きて来たクライヴとは、比べるべくもないだろう。

 そう言えば、とクライヴは書架をじっと眺めながら、長らくその指が書と言うものに触れていない事を思い出した。
こうして隙間なく埋まった本棚を見るのも久しぶりだ。
だから何と言う訳でもなく、懐かしむものを見るように本棚を見つめていたクライヴだったが、


「クライヴ。お前、字は読めるよな?」


 急に名前を呼ばれて、クライヴはぱちりと目を丸くしながら振り返った。
其処には、まるで子供を見るように目を細める《語り部》と、何処か面白そうに此方を眺めるシドがいる。


「ベアラーに限らず、字を読めるのはそう多くはないが、お前は元王子だ。お勉強もしてたとは思うが、どうだ?」
「……字は読める。書くのも───出来ると思うが、長いことしていなかったから、覚えているかどうか」
「ああ、まあお前の環境じゃ無理もない。だが、読めるのなら其処らにある本も大体いけるだろう。何か読んでみるか?」


 シドは顎で本棚を指して言った。
クライヴの視線がもう一度本棚へと向けられると、それを興味と受け取ったか、《語り部》が嬉しそうに目を細める。


「うむ、それならば是非とも親しんでみると良い。さて、それなら何が良いか。兵法を記したものが、確かこの辺りにあった筈だが、どうかな」


 曲がった腰を椅子からゆっくりと持ち上げて、《語り部》は本棚へ近付く。
読むなど一言も言っていないのだが、とクライヴは眉根を寄せたが、老爺の背中が何処か楽しそうで、それを口に出すのはなんとなく憚られた。
とは言え表情には出ていたらしく、それを見たシドが、


「真面目な勉強も悪くはないが、もうちょっと優しいものにしてやってくれ。そうだな、子供でも読めるような奴だ」
「は?あんた、何を言って」


 子供が読むような本など、大の男が好んで読むものか。
それともあんたは楽しんで読むのか、と青眼がシドを睨んだが、あちらは意に介さない。
どころか、シドの言葉を聞いて《語り部》までもが楽しそうに笑う。


「ほっほ、それは良い。ではこれなどどうかな。内容が少々古いもので、隠れ家の子供達からはあまり人気はない本なのだが、お主ならよくよく読み取れるものもあるだろう。とは言え、まあ絵本のようなものだ、余り気負わずに読むと良い」


 そう言って《語り部》が本棚から取り出したのは、ドラゴンの絵が描かれた表紙の本だった。
表紙は随分と痛んでおり、年季が入っているのが分かるが、冊子を束ねる紐はまだしっかりとしている。

 にこにこと嬉しそうに本を差し出す《語り部》に、クライヴは未だ眉間に強い皺を寄せていたが、突き返す気にもなれなくて結局は受け取った。
それで《語り部》は満足してくれたようで、いつもの位置へと戻って行く。
よっこらせ、と椅子に深く腰掛けた彼に、シドもまた面白がるように笑いながら、「良い趣味だ」と言った。
それがしっかり絵本を選んで渡して来た事を指していると分かって、クライヴはじろりとそれを睨み付ける。
視線を受けたシドは、悪戯が成功した子供のように、歯を見せてにやりとした。


「お堅い本の方が好きだったか?」
「……どれでも良い」
「じゃあそれでも良いな」


 それ、とクライヴの手に納まっている本を指して、シドは笑いながら言った。
クライヴは、見るからに子供向けの表紙だと分かるそれを見て、何に対してか分からないままに溜息を一つ吐いたのだった。




 隠れ家の灯火が半分になる頃、クライヴはシドの私室のソファに座って、《語り部》から渡された本を開いた。
綴られる文字も数は多くはなく、1ページには絵が大きく描かれている。
物語の語り口調も柔らかい口語で書かれ、確かに子供向けの絵本だと分かった。
その割に内容は少々硬く、何かの教義か戒律めいたものがあるように感じられる。
成程、夢物語を求める子供には、聊か受けが悪い訳だと思った。

 それでも、久しぶりに本と言うものを開いたからだろうか。
連なる文字列を読み、それをなんとなく指でなぞるように辿っていると、意外と時間が過ぎていた。

 読み終えた本を閉じた所で、キ、と木材の軋む音が聞こえて顔を上げる。
いつもと同じ、デスクの椅子に座っているシドが、背凭れに寄り掛かった音だった。
協力者から寄せられた手紙や、情報の確認が一通り終わった、と言う事だろう。
燻らせていた葉巻煙草を口に運び、吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出す横顔は、多少なり疲労感を滲ませていた。


「……さて、と」


 がた、と椅子が音を立てて動き、シドが立ち上がる。
欠伸混じりに寝床に向かおうとするその足を、クライヴは本を傍のローテーブルに置いて呼び止める。


「シド。あんた、俺にして欲しい事があるって、昨日言ってただろう」
「あ?……ああ、そんな話してたな」


 シドはクライヴの言葉に、一瞬考える仕草をしたものの、記憶は直ぐに呼び出せたらしい。
それなら、とクライヴはシドの傍へと近付いて、


「それで、俺は何をすれば良いんだ」
「あー……そうだな……つっても、お前にやらせたい事は、今日一通りやらせた所だし」
「……なんの事だ?」


 クライヴ自身が覚えのないことを言うシドに、太い眉が怪訝に潜められる。
シドはまだ煙を細く立ち昇らせている煙草を手に持って、ほらアレだ、と言った。


「今日一日、俺に付き合わせただろう」
「……そうだな」


 確かに今日は、ずっとシドの傍にいて、その後をついて行く格好になっていた。
獲物の調達、オットー達との話し合い、《語り部》と話をする時もそうだ。
チョコボの世話をしている時は一人だったが、あれもする事になったのは、シドに任せられたからである。

 あれらが、シドがクライヴに『して欲しかった事』なのだろうか。
だとすると、昨夜の話をした際に、何やら認識の齟齬があったような気がして、クライヴは益々眉根を寄せる。


「俺は、セックスの話をしていたつもりで……」
「ああ、まあ───そうだろうな」
「……だから、あんたから俺に、何かないかと……」


 元々がクライヴの懇願から始まった事もあり、最中は何をするにもクライヴが自分の遣り易いように主導を取っている。
それはクライヴも楽だし、自分の負担が減らせるので良いのだが、余りに自分に都合が良過ぎるような気がしてならないのだ。
そんな気持ちを半ば誤魔化したいと言う心理もあって、“シドからの要求”を欲していたのだが、シドの方は性的な事は全く意に介していないと言う事だろうか。
シドがそれで良いなら、良いのだが────と、なんとなく腑に落ちないものを覚えながらも、それを正直に言うのも結局は自分本位であるような気がして、宙に浮いたような気持ちで口を噤む。

 そんな俯き勝ちに立ち尽くす青年を前に、シドもまた煙草を噛む口元を手で隠しながら、どうしたもんかねと考えていた。

 昨晩の遣り取りからして、クライヴが自分とセックスをする事について、聊かの後ろ暗さを抱いている事は分かっている。
健全な精神状態とは言えない男が、可惜に徘徊でもしないように、見張る目的も含めて彼の要望に応える事を選んだ。
だから、基本的にシドからクライヴに対し、性的なことで何かを強く求めるような気持ちは殆どない。
その反面、肌を重ねる度に、伝染するようにじわじわと伝わってくる、この男の不安定な危うさも感じていた。

 何かをしろと言って欲しい、と地面を見つめる瞳が呟いているのを、シドは聞いていた。
十三年間、命令と従属の中で生きるしかなかった青年の闇は、決して浅いものではないのだ。
自由を許される都度に募る不安が、彼の夜と言うものを否応なく長引かせていく。

 ────やれやれ、とシドは漏れそうになる溜息を寸での所で堪えた。
居心地の悪い表情で立ち尽くす青年に、そうだな、と呟いてから、


「じゃあ、其処に座ってくれ」


 其処、と指差したのは、つい今しがたまでクライヴが座っていたソファだ。
クライヴはそれを受けて、心なしかようやく安心したと言う表情を浮かべ、言われた場所に腰を戻す。

 シドは咥えていた煙草をデスクの灰皿に押し付けた。
クライヴの隣にどかりと腰を下ろすと、そのまま体を横に傾ける。
どすっ、と落とすように頭を降ろしたのは、クライヴの膝の上だった。


「……」
「………」
「…………!?」


 数秒の沈黙の後、ようやく事態に理解が追い付いたクライヴの目が、驚きと困惑に見開かれる。
なんだこれ、何してるんだ、と青い瞳が見下ろす先には、自分の膝に頭を乗せて目を閉じているシドがいた。
シドはソファに横になって、いつの間にかブーツも脱いだ足も乗せ、完全に休息用の体勢になっている。


「シド、あんた、何を」
「見りゃ分かるだろう」
「分かる訳ないだろ」
「膝枕だ、膝枕」
「それは分かる。そうじゃなくて、なんでこんな事をしてるんだって聞いてるんだ」


 どうにも噛み合わない遣り取りに、クライヴは眉を吊り上げて言った。
はぐらかされているような気にもなって、クライヴの声には若干の険が籠ったが、シドは気にする様子もなく、頭の位置や角度を調整しようとごそごそと動いている。


「俺は、あんたのして欲しい事を聞いてたのに」
「ああ。だから、これで良い」
「セックスは……」
「今日はナシだ。毎日は無理だよ、お前と違って若くない」
「……」


 シドの年齢などクライヴは知らないが、しかし顔に刻まれた年輪であったり、日々過ごして見る言動を見れば、それなりに人生経験を重ねている事は分かる。
老体なんだから無理をさせてくれるな、と折々に釘を刺される事もあって、クライヴは自分の言う事が子供の我儘のようにも思え、納得のいかない表情のまま口を噤んだ。

 シドは何度も頭を角度を変えてみるが、どうにもしっくりとは来ないようで、ううむと唸る。


「お前、固いな」
「当たり前だろう、男だぞ。況してやベアラー兵の膝なんて……」


 兵装はこの部屋に入った時に脱いだから、鎧装具を身に着けている時に比べればマシだろうが、とは言え兵士の足である。
山野も荒れ地も歩いて来た男の足は、当然それらしく逞しくなっている。
性別が違えばまだしも、嫋やかな娼婦のような柔らかさなど、クライヴに期待するだけ無駄と言うものだ。

 そんな事は分かり切っているだろうに、シドは寝転んだまま動かない。
クライヴが立ち上がれば、その頭も膝から転がるのだろうが、これがシドの“クライヴにして欲しかった事”だと言われると、どうにも落としてしまうのは憚られた。
かと言って、このままでいろと言うのも落ち着かなくて、クライヴは足だけは動かさないように努めつつも、そわそわとしてしまう。


「こんな事、他の誰かでも良いだろう。どうして俺に」
「お前が、何かして欲しい事はないかって聞いて来たからだろ」
「それは……こういうつもりで言った訳じゃない。昼間だって、あんたに付き合わされたけど、それも別に……」
「お前にとっちゃそうだろうが、お陰で俺は助かった。罠を仕掛ける苦労が省けたし、厩のことは気になっても俺が中々時間が取れなかったもんでな。お前もチョコボに気に入られていたし、良かったじゃないか」
「……オットー達との話は、なんだったんだ。あの場に俺がいる必要はあったのか?いつもあんた達だけで話はまとまってたんだろう」
「新しい意見が欲しかったんだよ。ゴーチェは最近ようやく気が回るようになったが、隠れ家の外に直に行ける訳じゃない。外に出回れる奴の視点ってのが欲しかった」
「…外に出ている奴は、俺以外にもいるじゃないか。印持ちではないようだが、あいつらもベアラーなんだろう」
「ああ。だが、お前のように長いこと戦場の真っ只中で生きて来たベアラーってのは少ない。視野が広い奴が増えてくれるのは助かる。貴重な意見が聞けるからな」
「……そんな大した事を言った覚えはないぞ」
「お前はそう言うつもりでも良いんだよ。こっちが勝手に参考にしてるだけだ」


 深く気にするな、と言うようにシドは言った。
クライヴは、益々シドの行動の意図が読めずに眉根を寄せたが、膝の上にある顔は、含みのある笑みを浮かべているだけだ。
これは深く問うようなことをしても無駄だ、と思って、クライヴは溜息一つを零すのみとした。

 それにしても、シドは全く動く気配がないが、ひょっとしてこのまま眠るつもりなのだろうか。
部屋の奥にはちゃんとした寝床があるのだし、寝るならその方が良いに決まっている。
満足したら退いてくれるとして、いつになるのか、それまで暇潰しでもした方が良いだろうかと、クライヴの視線はテーブルに置いた本へと向いた。
手に届く所にあるものと言ったら、今の所これしかない。

 その視線を追うように、シドの首も傾いた。
丁度目線の高さから見える表紙を見付けて、


「本は気に入ったか?」


 問う声に、クライヴは肩を竦める。


「別に。絵本に夢中になる年でもない……」
「その割には、じっくり眺めてたように見えたが」
「……久しぶりではあったからな。本そのものが」
「ま、そうだろうな」


 ベアラーの多くは、教養を身に着けられる立場にない。
奴隷商人や主人となった者の意向によっては、ベアラー兵として生きる為、ある程度の知識を与えられる機会もあるものの、文字の読み書きまで出来る者は稀である。
そもそも、庶民ですら文字を解せない者は少なくないから、本があっても、それを嗜める者は限られる。
それを思えば、この隠れ家で過ごす者達は、外の世界で生きる人々よりも、ずっと深い教養に触れている事になるのかも知れない。

 クライヴもまた、ベアラー兵として過ごす間、本など読む暇もなければ、そもそも与えられる事もなかった。
文字を読むなど、任務で手に入れた敵国の書簡の宛先を確認するような必要でもない限り、活かせる機会もない能力だ。

 しかし元々はと言えば、クライヴにとって読書は身近なものだった。
幼年期には次期の大公となる為に、弟が生まれドミナントとして発現してからは、彼を傍らで守り支える為に、知識の源となるものは何でも手を出した。
その中で、兵法や戦術を学ぶ以外の熱で、夢中になって繰り返し読んだ本もある。

 あの頃に読んでいた本は、此処にはないのだろうか。
ふと記憶から掘り起こされた思い出に、そんな事を考えていると、


「何か読みたいものでもあるなら、探してみても良いぞ」


 シドの言葉に、クライヴの記憶から浮かぶ本の表紙が鮮やかになる。
其処に記されている文字の一言一句を諳んじてしまえる程に繰り返し読んだものだったが、最後にそれを読んだのはいつだっただろう。
書架から取り出したのが随分と昔の事だったように思うのは、強ち記憶違いではない筈だ。

 俄かに懐かしさのような、遠い記憶に旅愁めいたものが浮かんだ気がしたが、クライヴは結局、その本の名前を言う事はなかった。
テーブルの上に置いた本の表紙をじっと見つめるのみのクライヴに、シドの手が伸ばされる。
無精に伸びた髭のある頬に、シドの指が擽るように滑って、何をされたのかと視線を落とせば、細められた双眸と目が合った。


「欲しい本があったら、まあ言うだけ言ってみろ。うちにあるかは分からんが、《語り部》に聞けば、見付かるものもあるだろう」
「……ああ。分かった」


 今はそう返す以上の興味が沸かないクライヴの返事に、シドは微かに眉尻を下げて、クライヴの額にかかる髪をかき上げるようにして頭を撫ぜる。
それを甘受しながら、所で、とクライヴは言った。


「……俺はいつまでこのままでいれば良いんだ。あんたはこのまま寝るつもりなのか」
「さて、どうしようかと思ってる所だ。枕にするには固いが、案外と悪くはないんだよな」
「…変な趣味してるな、あんた」


 硬い筋肉しかない男の膝なんて、良いも悪いもないだろうに。
クライヴは呆れた表情でそう言ったが、シドは「そうでもないぞ」と言って、


「お前も試してみるか?」
「……はあ?」


 シドの言葉に、また変な事を言い出したな、とクライヴの顔が顰められる。
呆れも多分に含んだそれを、シドは特に気を咎める様子もなく、ひょいと起き上がってソファに座り直した。
ソファの座面に乗せていた足を降ろして、クライヴの隣で普段の通りに座ったポーズで、シドは自分の膝をぽんと叩く。


「俺の膝を貸してやる奴なんて、早々いないぞ。有り難く使え」
「……いや、良い。遠慮する」


 そんなものが必要だなんて微塵も思っていないのに、使えも何もない。
クライヴはそんな気持ちで、丁重に断りを述べたが、ぬっと伸びて来た手がクライヴの頭を掴んで、


「良いから来い。人の厚意は無碍にするもんじゃないぞ」
「うわ、」


 ぐっと頭を抑えつけるように力を入れられて、重心が傾いた。
バランスを取ろうとするクライヴに構わず、シドはその立派な体躯をソファへと倒すように横たえる。

 どす、と重い筋肉が肩から落ちたと思ったら、側頭部が少し弾力のあるものに当たった。
目まぐるしい視界の変化に目を閉じていたから、それの正体を知ったのは、体勢が落ち着いてようやく目を開けた時だ。
眉根を寄せながら瞼を持ち上げると、本を置いたローテーブルが縦になっている。
自分が横になっているからだと気付いてから、頭を乗せているのがシドの膝だと分かった。


「おい、」


 何をしているんだ、と体を起こそうとして、くしゃりと頭を撫でる手に柔く抑え付けられたのを感じた。
起きるな、とでも言っているかのようなそれに、何故か体の力が抜けて、元の場所に戻ってしまう。

 頭を撫でる手は、存外と優しい手付きをしていた。
子供をあやしているようにも思えるそれに、幾ら年齢が離れているらしいとは言え、此方も良い大人である。
一体何がしたいのか、と眉根を寄せるクライヴに、シドは指先に絡む髪の毛を梳くように撫でながら、


「どうだ、クライヴ」
「……どうって……」


 何の感想を求められているのかも、クライヴには分からない。
膝の感触なら、やはり硬いし、身動ぎすればそれが筋肉の動きと共に伝わってくるから、枕にするには落ち着かない。
第一、こんな事を求めている訳でもないのに、勝手に膝枕をされる側に回されても、持て余すような戸惑いしか沸かないのだ。

 しかし、シドはクライヴに起き上がる事を許そうとしない。
動くなと言われている訳でもなかったが、撫でる手がどうにもクライヴから抵抗の力を奪っていた。
そんな感覚になるのも奇妙だと自分で思う。
だが、ちらと横目に膝の持ち主を見上げれば、年齢を感じさせる皺を目尻に刻んだ眼が、酷く柔い光を抱いて此方を見下ろしている。
それが、このままでいろ、と強制ではなく願うように言っているような気がしてならなかった。


(……これが、シドが俺にして欲しい事、なのか?)


 だとしたら、随分と変わっている。
する側、される側があべこべではないか。
まだ自分が膝枕をする側にいる方が、彼のしたい事に応じているように考えられる気もする。

 髪を撫でていた手が、無秩序にも見えるその流れを探るように、丁寧にクライヴの頭の形をなぞる。
イヤーカフスをした耳にかかる髪の毛を、指先が酷く優しい動きで払ったのが分かった。

 じっと動けずにいる内に、体がだんだんと覚醒状態を手放そうとし始めた。
日中にシドに連れられてあちらこちらへと出向いた事や、厩で働いたお陰なのか、激しい戦闘があった訳でもないのに、体は存外と疲れていたらしい。
段々と瞼が重くなって行くのが分かって、本気でこの状態で寝る訳には───と思いはすれども、相変わらず体は動かない。
ぼんやりとした視界に入る自分自身の指先にも、段々と焦点が合わなくなって来た。

 そんなクライヴに、傍らの男は気付いているのだろうか。


「眠いのか」
「……」
「良いぞ、このまま寝ても」


 耳に心地の良い声にそう言われて、とろりと睡魔が深みを増す。
頬を撫でた手が、そっとクライヴの目元を覆って、部屋の片隅でゆらゆらと揺れる燈火の光を遠ざける。
瞼の回りに触れた手のひらから、じんわりと渡される体温が心地良い。

 遠くデスクの上で揺らめく煙と同じ匂いを直ぐ傍に感じながら、クライヴの意識はゆっくりと夢路へと傾くのだった。




初出 2023/09/19(Pixiv)

クライヴの情緒を育ててるシドが好きだなあ〜って言う何回目かの呟き。
自分で考えて決めることだったり、アニマルセラピーだったり、長らく触れることのなかった書にもう一度親しむ喜びだったり。
クライヴの方も、ツンツンしたりするけど、なんだかんだとシドを信頼しているので、一緒にいると安心してたりしたら良いなあ。無自覚だけど。

シドはベアラーたちをそれまでの過酷な環境から救いこそすれ、その後の事は割と自主性に任せてるような気がする。
ジルの保護に対して何を指せるのかと言うクライヴに、「どうもしない。自分の力で生きてくれれば良い」なので。
恐らくそれを選ぶまでの標くらいは見せてくれるけど、選び取るのも、その後のことも、自分次第だと言う事なのかなと。
あくまで本人の望みを尊重したい人なのかも知れないなあ〜と思いつつ、其処に至れるまでのケアは、結構丁寧にやってくれる人なんじゃないかなと思います。物事を知る、察する能力が高い人だと思うので。
それ故に相手が自分の願いと違うことを望んでいると悟ったら、強引には行かない人なんじゃないかなと思ったり。その辺はまた妄想出来たら良いなと思ってます。