ミッドナイト・トリック


 フリオニールは、特に目立った名産品もないような、片田舎に暮らしている。
あたりを見れば一面の麦畑、少し山を登れば緑豊かな森。
街道からも遠く離れているので、旅人なんてものも滅多にない。
あるのはひたすら、自然の恵み───そんな場所だ。

 其処がフリオニールの生まれ故郷かと言われると、少し違う。
フリオニールは幼い頃、戦禍に巻き込まれて孤児となった。
戦の爪痕によって人のいなくなった寒村で縮こまっていた所を、義父に拾われ、その家まで連れ帰られた。
その人の家では既に二人の子供がいたが、幸いにも畑が豊かな土地であったから、そのまま引き取られている。
以後、十五を迎えるまで其処で食わせて貰い、狩りの仕方を覚えた頃に、いつまでも世話になっている訳にはいかないと、一人立ちをした。
だからフリオニールは、この土地の生まれではないのだが、育ててくれた家族の家があることを思えば、育ちの故郷である事は間違いないだろう。

 一人立ちしたフリオニールは、山の麓にあった東屋を貰って、其処で生活している。
手前で竈を作り、水は森の入り口の沢から汲み、冬の暖は薪で取った。
生活の元手は殆どが狩りで賄える。
食料を始めとし、それを得る際に穫れる獣皮は、町へ持って行けばそこそこの値段で売れた。
それで金物であったり、パンであったり、薬であったりを購入した。

 家から町までは、歩いて二日の距離だ。
この辺りの感覚で言えば遠いと言うものでもないが、やはり、気軽に行けるものでもない。
だからフリオニールは、売り物とする獣皮や干し肉が十分に蓄えられてから、一挙にそれを持って町へ下りることにしていた。
そして町に着いたら、知り合いの革細工師に獣皮を卸し、代金を貰って、一晩だけ宿に泊まってから帰る。
そう言う生活をしていた。

 約二週間ぶりに訪れた町は、いつになく浮ついた空気がある。
何か祭りでもあっただろうか、と辺りを見ると、なにやらカボチャがあちこちに鎮座している。
それらには一様に、顔らしき彫り込みが作られており、道行く人々を時に睨み、時に悲しみ、時に笑って見送っていた。

 あれは一体なんだろう、と思って、フリオニールが革細工師の匠に訊ねてみると、


「なんだ、知らなかったか。今日はカボチャ祭りだよ」
「カボチャ祭り?」
「毎年やってるだろう。見てないか?」
「うーん……」


 恒例行事だ、と言う匠の言葉に、フリオニールは頭を掻いて首を傾げる。
何せフリオニールが町に下りて来るのは、二週間に一度である。
一日二日で終わる祭りにかち合わないのは珍しくなく、最寄りの町であるとは言っても、フリオニールが知らない習慣と言うのは少なくなかった。

 革細工師の匠は、フリオニールが渡した布袋の中身を確かめながら続ける。


「直に冬になるだろう。カボチャは冬の大事な食料だから、此処らじゃ一杯作ってるんだが、まあ、そのカボチャの恩恵に感謝して……って所かな」
「あの顔のついたカボチャの飾りも、その一環なのか?」
「今はそう言われてるな。そもそも誰が始めたんだか知らないが、ああしてカボチャを精霊に見立てて、食べ物を備えるんだ。冬の食料になってくれるカボチャに感謝と、カボチャを肥えさせて、冬を乗り越えられる大きさになってくれってね。それから、冬の夜ってのは暗いだろう。それが少しでも短く済むように、大きなカボチャの中には蝋燭が立ててあって、夜になると火を燈す。だから今日明日は、夜になっても町は明るいよ。雨になるとおじゃんになっちまうけど」
「ふぅん」


 初めて聞いた風習だ、とフリオニールは思った。
その後ろを、うきうきとした子供たちが駆けて行く。


「子供が随分楽しそうだな。祭りで何か催しでもあるのか?」
「ああ、子供にとっちゃメインの楽しみみたいなものだな。夜になったら子供が仮装して、あちこち家を回るんだ。“イタズラかお菓子か(トリック・オア・トリート)”って言って、悪魔にイタズラされたくないなら菓子をくれ、ってねだって回るのさ」
「それは───楽しい、のか?大人にとっては困るだろう」
「本当にイタズラされたら困りものだが、大人も判って準備してる。砂糖菓子を渡して、“これでイタズラはなしね”ってことになるんだよ」
「つまり、子供たちにしてみれば、お菓子が貰えるお祭りってことになるんだな」


 要約したフリオニールの言葉に、匠は「そう言うことだなあ」と笑った。
きっと老齢にかかるこの匠も、子供の頃はそうして、家々に菓子をねだって巡ったのだろう。

 それからフリオニールは、もうひとつ、話の種に気になったことを聞いてみる。


「子供たちは仮装して家を巡るって言ってたけど、なんで仮装するんだ?」
「カボチャがランタンになるんで真っ暗にはならないが、子供が家を巡り出すのは、夜の遅い時間だ。夜となりゃ魔物や魔獣、悪魔の時間と言われるだろう。子供がそう言う危ないものに攫われないよう、敢えて化け物の格好をさせて、目晦ましにするんだよ。ま、実際の所、子供が通る道と行く家は決められてて、危ないことにならないように、町の大人みんなで見守ってるんだけど」


 日が暮れれば逢魔の時間であることは、誰もが知っている。
それが事実か御伽噺かはともかくとして、子供の躾にはよくよく利用される文言であった。
だからこの辺りの子供と言うのは、夕暮れから向こうの時間に家を出ないように言いつけられている。

 そんな子供たちにとって、カボチャ祭りのこの時期だけは、日暮れの後に外に出ても良い。
それも甘くて美味しい砂糖菓子を貰う為だ。
いつもと違う装いをして、宵の空の下、カボチャのランタンに照らされた通りを歩き、知らない家のドアを叩いて、お菓子をねだる。
普段はやってはいけないと言われていることを、今日だけは町ぐるみで目溢しして貰って楽しめると言う訳だ。

 町から離れた場所で育ったフリオニールには、触れる機会のなかった話だ。
フリオニールからすれば、幼い内から山野に籠って狩りの練習をした経験があるから、夜まで家の外にいるなんてことは日常的だった。
しかし、里山と違い、塀に囲まれ、警備の為の人員も並べることが出来る町の中では、やはり生活そのものが違うのだろう。

 砂糖菓子が貰えるなんて羨ましい───フリオニールも子供だったらそう思うことがあったかも知れない。
しかし、流石にもう十八だ。
夜を楽しみにしている子供たちに、楽しそうだな、と微笑ましさを覚えこそすれ、羨む程の幼さはなかった。

 革細工師の店の棚にも、くりぬき顔を作ったカボチャが飾られている。
怒っているようにも、笑っているようにも見える顔だ。
それを眺めている内に、匠は獣皮の代金を用意してくれていた。


「はいよ、今日はこんな所だな。質の良いのが多くて助かるよ」
「ありがとう。じゃあ、俺はこれで」


 渡された麻の小袋は、フリオニールが思っていたよりも重かった。
色を乗せてくれたのかも知れない。
これなら、冬用の支度を諸々済ませても、少し余裕が出来るだろう。

 それからフリオニールは市場に向かい、当分の生活に必要となるものを買い揃えた。
フリオニールの生活と言うのは質素なもので、食糧や薪は森で調達できるが、金物や衣服、趣向品は町で手に入れるしかない。
先日、使い古した狩猟用のナイフが遂に折れてしまったので、それを新調した。
少し高いものを購入したが、収入が多かったお陰で悩まなくて済んだのが幸いだ。

 一通りのものを買い揃えたら、フリオニールは宿を取ることにした。
決して裕福な暮らしをしている訳でもないフリオニールにとって、町の宿代と言うのは案外と馬鹿に出来ないのだが、流石に夕方以降に町を出る気にはなれない。
狩りの為に夜の山野で過ごすことに慣れているとは言っても、休む時には真面な寝床で眠りたいものだ。
どのみち、明日から一日二日は歩き通さなければ家には帰れない。
山には獣もいれば、物騒な連中も息を潜めているものだから、一晩しっかりと休み、明るくなってから出発した方が安全だ。

 しかし、今夜の宿は何処も混んでいた。
四軒目に入った宿で、女将が困り顔で「ごめんなさいねえ」と詫びる。


「部屋が全部埋まってしまっていて。屋根裏もこれ以上はちょっと」
「そうか……仕方ない、他を当たるよ」


 フリオニールが振り返れば、宿受付を兼ねた食堂に沢山の人が過ごしている。
普段は寂れる程ではなくとも、一部屋二部屋は空いているものだが、カボチャ祭りと言う行事のお陰だろうか。
旅人や商人が多く来訪しているらしく、通りにある宿は埋まっているようだ。

 この町は全体的に治安が良いとは言われているが、大きな通りに面した場所の方が、安全と言う意味では安牌である。
しかし、こうも埋まっていては仕方がない。
フリオニールは表通りは諦めて、中道にひっそりと構えられている宿を回ってみることにした。

 早い者勝ちの宿探しは少々難航したが、最後に門を叩いた宿で、小太りの店主が悩む表情を浮かべつつ、


(うまや)なら空いてるんだがなぁ……」
「じゃあ、其処で頼むよ」
「良いのかい?」


 即決したフリオニールに、店主は困り眉をしつつも、埋まってくれるなら幸いだと言う表情を浮かべていた。
部屋に比べればうんと安い値段でも、実入りになるなら良いと思ったのだろう。

 出来ればベッドで寝たかった、と言う気持ちはフリオニールも真実あるが、そも部屋が空いてないのなら仕方がない。
路地裏や山の中で野宿をすることに比べたら、軒があって風除けの壁もある、厩舎の中でも十分だ。

 案内して貰った厩舎には、仕切られたスペースの中にロバが三頭入っており、一番奥の場所が空いている。
枯藁を敷き詰められた其処に入ると、店主が「泊まって貰うんだからせめて」と厚手の毛布を貸してくれた。
その毛布も少々草臥れたものではあったが、あるとないとでは大違いだ。
安値でこれが借りられたのなら運が良い、とフリオニールは思った。

 良い所で生まれ育った令息令嬢なら、動物と同じ厩で寝るなどとんでもない、とでも言ったかも知れないが、フリオニールは気にしなかった。
地べたに転がることを思えば、藁のお陰で背中は痛くないし、湿り気もない。
屋根もあるので、夜半に雨が降っても気にしなくて良い。
ついでに、予定以上の安値で泊まることが出来たので、懐が温かかった。
明日、帰る前にもう一度市場に行って、世話になっている人たちへの土産を買っても良いかも知れない。

 藁の布団の上に寝転がって、フリオニールは毛布を被った。
厩舎の壁の向こうで、時折不揃いな足音が聞こえては、子供の声が聞こえる。
成程、これがカボチャ祭りか、と思いつつ、フリオニールは目を閉じた。




 夜は魔物の時間───それはこの地域では当たり前に語り継がれる逸話だった。
遠い昔、まだ人々が灯りと言うものを手に入れるまで、夜は魔物や悪魔の食事の時間で、獲物を求めて彷徨ったと言う。
それらは暗闇に紛れて人の背後にやって来て、己の巣へと持ち帰ったり、その場でばくりと食らいつく。
魔物や悪魔の種類は様々と言われているが、総じて人を騙して夜の帳へと連れ去ってしまうとか。
中でも彼らは、騙し易く、肉の柔らかい子供を好んで狙う為、この地域の子供たちは、宵の口から先の時間は外に出ないように言いつけられる。

 フリオニールも同様の話は聞かせられて育ったが、あまり気にしていなかった。
育ててくれた家族からして、この手の逸話をあまり本気にはしていなかったと言うのもある。
女性の夜の一人歩きは危ないとは言われているが、男であるフリオニールには関係なかったし、夜は夜行性の獣がよく活動しているから、それを狙った狩り仕事が向いていた。

 第一、フリオニールは、悪魔や魔物と言うものに遭遇したことがなかった。
夜の山野で獲物を追って息を潜めている時は、向き合う獣の方が現実的に恐ろしく感じていた。
教会にでも通って信心を高めていれば、悪魔や魔物が如何に恐ろしいかを習ったかも知れないが、フリオニールにそうした縁はない。
悪魔も魔物も、なんとなく空想上の生物のようで、出くわしたことのないものに、フリオニールは恐怖を煽られなかったのだ。

 だが、魔物はともかく、悪魔と言うのは、人の多い場所に紛れ込む性質があると言う。
人の少ない村の外れに家を構え、一日の殆どを森山の中で過ごしているフリオニールは、その環境からして悪魔とは聊か交じり難い場所にいたのだ。
それが今日この時に限っては、祭りに乗じて多くの人々が集まる町に滞在したのである。

 そうとは知らず、フリオニールは藁のベッドで健やかに眠っていた。
荷物は全てまとめて藁の下に隠している。
万が一にも泥棒でもやって来て、荷を漁ろうとしても、藁の擦れ合う音が教えてくれる。
他の部屋を埋めているロバたちも、何か怪しいヒトの気配があれば、目を覚まして落ち着きを失くすだろう。

 実際、ロバは目を覚ましていた。

 厩舎の扉は、上下に隙間のあるスイングドアで、外から棒板を閂錠にして閉じられている。
人間ならドアの下部にある隙間を潜って出入りが可能だが、ロバがその下を這って潜れと言うのは聊か難しいだろう。
だから厩舎の施錠としてはそれで十分なのだが、人間が寝床として使うとすると、安全上の問題が浮上する。
だからフリオニールは安値で泊まれたのだ。

 そのスイングドア上の隙間から、すぅと音なく入ってきたものがあった。
ロバは異質な気配にいち早く気付き、耳を立ててその正体を探っていたが、其処へひたりと鼻先を擽るものが触れる。
宥めるように鼻先を擽られ、喉元を優しく撫でられたロバは、やがてうとうとと舟をこぎ始め、元の体勢に戻って眠ってしまった。
特に敏感な気質をしていた一頭がそうして寝に戻ったからか、他の二頭も、それぞれ同じように宥められて、やがて何事もなかったかのように眠りを再開させた。

 四つに分かれた小部屋の一番奥が、フリオニールの寝床だ。
音のない侵入者は、其処をちらりと覗き込むと、やはり物音を立てずにフリオニールの頭上までやってきた。
暗闇の中で泳ぐように漂いやってきたそれが、遂にフリオニールの頬に触れた段になって、フリオニールはようやくその存在に気が付いた。


「───誰だ!?」


 其処にあるものを突き飛ばしに跳ね起きて、フリオニールは枕下に隠していたナイフを掴む。
こんな環境でも、万が一があってはいけないと、念の為に仕込んでいた武器を使う機会があるとは思わなかった。

 フリオニールが突き飛ばしたものは、藁の上に落ち伏せていた。
灯りのない厩舎は暗かったが、フリオニールは夜目に優れている。
厩舎の格子窓の隙間から差し込む月明かりが、其処に伏せた人物の形をフリオニールに見せつけた。

 それは人の形をしていた。
長く細い手足に、肉の薄い腹。
頭部は丸く人間と同じ形をしており、一見すると異形ではない。
体毛はなくつるりとした肌をしていて、零れ落ちる月明かりも相俟って、白磁のよう。
腕から伸びる手の指は五本、足先も肉球の類がある訳ではなくヒトの裸足だった。


(泥棒───いや)


 厩舎に泊まる人間の荷物を狙う泥棒は珍しくない。
だからそれかと思ったフリオニールだったが、暗闇の中でゆらりと揺らめく細いものを見付けて、気を引き締めた。

 藁の上に伏せたヒトの形をしたその腰の後ろあたりから、細く長いものが伸びている。
その先端は鏃のように三角形に尖っていた。
そして、肌を殆ど隠さない、薄っぺらい布地を辛うじて着ているその背中に、蝙蝠の羽根とよく似たものが生えているのを見付ける。

 幼い頃、寝物語のように躾を含んで聞かされた、悪魔の特徴と一致する。


(まさか、悪魔?本当にいたのか)


 何処か空想上の産物のように思っていたフリオニールにとって、俄かには信じられないことだった。
ナイフを構えた姿勢のまま、フリオニールはじっと藁の上に伏せているものを睨む。


(今日は子供が仮装して家を巡ると言っていた。けど、流石に子供には見えないし、こんな所に菓子を貰いに来るなんてこともない筈だ)


 其処にいる人物は、祭りの行事に興じる子供にしては、サイズが大きい。
蹲るように俯せているので身長は判らないが、手足はひょろりと長く、頭と体の比重サイズで見ても、十五は数えているだろう。

 じり、とフリオニールが藁を踏みながら距離を取ろうとした時、同じタイミングで俯せていた人物も起き上った。


「……どんくさそうに見えたのに、案外警戒心が強いんだな。少し見誤ったか」


 感心したようにも、独り言にも聞こえる声だった。
フリオニールは、その声がきちんと肉声として聞こえてくることを確かめる。


(悪魔は人語を解して、人を惑わせる。こいつが本物の悪魔かはともかく、人の寝込みを襲う輩なのは確かだ。油断しないようにしないと)


 眦を釣り上げて睨むフリオニールは、其処にいるモノの動きの一切を見逃すまいと神経を研ぎ澄ませていた。

 起き上がった人物の体が、ふわりと揺れるように浮かぶ。
背中の小さな羽根を微かに動かして、空中に浮遊しているその体に、トリックの類は見当たらない。
何もないのに人間が宙に浮くなんて事は有り得ない。
奇術師だって種がいるのだから、それがないのにこんな真似が出来るのは、目の前にあるものが“人間”ではないことの証左であった。


「悪魔がなんの用だ」
「悪魔?」


 ナイフを構えたまま、フリオニールが問うと、悪魔はことんと首を傾げる仕草をした。
それから、悪魔はしばらく考えるように沈黙した後、


「ああ、あんたたちの大体は、魔族の区別がつかないんだったか。詳しいのだって教会の狸くらいだろうし、聖職者でもない奴ならそんなものか」


 そう呟いて、悪魔は納得したようだった。
最後に零れる溜息は、呆れたものに聞こえる。

 悪魔が空中で足を組み、空気椅子に座る。
格子窓から差し込む微かな光が、細く耽美に整えられたそのシルエットを映し出していた。
ほっそりとした足はともすれば女性の嫋やかさを感じさせるが、肉付は丸みよりも引き締まっている。
肌を隠しているのはほぼ局部だけで、酒場にいる踊り子の方がもっと布をまとっているだろう。
陶器のように滑らかな肌は、蠱惑的な匂いを漂わせ、そこはかとなく性の誘いを漂わせている。
その手首や足首には、入れ墨のような模様があり、凝った意匠のアクセサリーのようにも見えた。

 形の良い頭部は濃い茶色で、今は暗闇の中にいる所為だろう、黒髪にも見紛う。
前髪の隙間から閃くのは、宝石のように透明度の高い、蒼灰色のラピスラズリだった。
その蒼色の狭間には、刃傷のような斜めに走る傷痕がある。
貌はすっきりと高い鼻筋に、小さな唇は薄桃色をしており、フリオニールを挑発するようにちろりと舌を覗かせた。


「判りやすいように、あんたたち人間の区分で言ってやる。俺は淫魔だ。あんたの精気を貰いに来た」
「……!」


 淫魔───インキュバス、或いはサキュバス。

 悪魔と言うのは、人間から生命エネルギーを奪い、それを食糧として取り込む性質を持つ。
種類は何であれ、人間から生命エネルギーを搾取していくものを、教会では総じて“悪魔”と定義している。
フリオニールは教会に通うような信心はなく、その類が本当にいるとも思っていなかったが、この地域一帯に定着している常識として、その程度の知識はあった。
エネルギーのもとは個々の悪魔によって好みがあり、人間の肉体の一部であったり、血液であったり、魂であったりと様々だ。
悪魔はそれを効率的に手に入れる為、脆弱な人間を襲う他、甘言を囁いてそそのかし、なんらかの願いの代償としてそれを喰らう。
それは一過性のことである場合もあれば、長期にわたる契約で縛って取り憑き、契約者が死ぬまで搾取し続ける類もあると言う。

 淫魔も例に漏れず、人間から生命エネルギーを搾取する悪魔だ。
その方法として、好んで性的な煽動を行い、人間と交尾することで相手の生命力を吸収する。
そのまぐわいは、人同士で行うそれよりも遥かに心地良く、天にも昇るようであると言う逸話もあるが、それが文字通りの意味であるとすれば、それは即ち死ぬと言う事だ。
依存性の強い性的快楽によって理性を失い、自ら生命エネルギーを捧げた人間は、翌朝には干乾びた状態で発見されるのである。

 フリオニールはナイフを真っ直ぐ、向かい合う相手に向けた。
淫魔を自称するその言葉が事実かは分からないが、この青年とも少年ともつかない容姿をした人物が、人を害する存在であることは確かだろう。
こんなものが本当にいるなんて、と言う気持ちと、面倒なものに目を付けられた、と言う気持ちで、背中に冷たい汗が滲む。

 警戒露わに睨み付けるフリオニールを、淫魔は酷薄な笑みを浮かべた表情で見つめている。


「田舎くんだりまで来てみて良かった。あんたは随分、美味そうだ」
「……今直ぐ消えろ。そうすれば、危害は加えない」
「強気なもんだな。あんた、魔族と遭うのは初めてか」


 淫魔が動けば、すぐに対処できるよう、ナイフを握る手に力がこもる。
フリオニールのその様子を眺めながら、淫魔はくすくすと笑っていた。


「ナイフは───銀でもなさそうだな。まあ、切られれば俺たちだって痛い。最近ろくな食事も出来なかったし、傷がついたら治るのは多少遅いだろうな。痛いのも別に好きじゃないし」


 淫魔はふわふわと宙に浮きながら、悠々とした様子で喋っている。
フリオニールのナイフなど、まるで怖くもないと言う態度だ。

 淫魔はすいと宙を泳いで、フリオニールに近付いた。
フリオニールの瞳が剣呑に閃き、藁を踏んで前進して、ナイフを振り被る。
どんな手段を用いて来るか分からない相手に、その出方を見極め待つほど、フリオニールは悠長ではない。
先手必勝、相手よりも早く動いて、その身に刃を刻むことを狙った。

 だが、淫魔はひらりと翻るように空中で体を回転させて、その刃を避ける。
淫魔はフリオニールの背後に回り、後ろから細い腕を伸ばして、フリオニールの首に巻き付けた。
しまった、とフリオニールが返す刃に腕を振り被るが、


「ン、」
「んん……っ!?」


 姿を追って肩越しに振り返ったフリオニールの頸が、頬に添えた手に捕まると同時に、呼吸が塞がれる。

 フリオニールの視界には、月明かりを柔く反射させて輝く、蒼灰色の瞳があった。
まるで海の底にある純度の高い蒼色は、真逆の色を持ったフリオニールの瞳をしかと捉え、微かに微笑む。
暗闇の中にいるからか、それとも元々なのか、大きな瞳孔の奥で何かが輝いていた。

 フリオニールの咥内で、舌が何かに絡め取られる。
ちゅるり、と言う音が耳の奥で鳴った。
混乱に強張るフリオニールの体を宥めるように、頬に添えられた淫魔の手がゆったりと滑る。
その手は段々と耳元へ、そして首筋へと滑って行き、鎖骨を辿って、やがてフリオニールの厚みのある胸板をまさぐるように撫でまわした。


「ん、ん……んちゅる……んふぅ……」


 ちゅく、ちゅぷ、とフリオニールの咥内で、生暖かい液体が流れ込んでくる。
更には、滑りと弾力のあるものが滑り込んできて、液体を咥内の奥へ奥へと送りこんだ。
喉へと流れて行く液体に、食道器官が濡れて行く内に、フリオニールはそれを我知らず嚥下していた。


「ん、ぐ……う、う……!?」
「んちゅ……んれ、んふ……っ」


 蒼の瞳がうっそりと細められ、とろりと溶けたように柔らかくなって行く。
砂糖を塗し、たっぷりと煮詰めた、蜂蜜がけの林檎のようだった。
それと同じ甘くて濡れた感触が、フリオニールの口の中をいっぱいに詰め、胃の中へと落ちて行く。

 混乱していた頭が、段々と落ち着いて来た───否、思考そのものが鈍って、パニックすらも失せていく。
咥内に広がる甘い感触に囚われて、自分が何をされているのか、何が起こっているのかも、考えることが出来ない。


(これは、きっと、まずい───)


 自分がまともな状態ではなくなっていることを、フリオニールは辛うじて認識していた。
微かに残った理性が、早くこれを振り払え、今すぐここから逃げろと警鐘するが、体はろくな力が入らない。
からん、と言う音は、握っていたナイフが地面に落ちた音だった。

 一分か、二分か、ひょっとして十分は経ったのではないだろうか。
そう思えるほどに、フリオニールにとっては長く濃密な時間だった。


「……っはぁ……ふぅ」


 蒼灰色がようやくフリオニールの眼前から離れる。
淫魔は濡れた唇を指先で触れながら、名残の味を堪能するかのように、唇を舌で舐めた。
青白くも見えていた頬は薄らと紅潮し、青の瞳は爛々と楽しそうに輝いている。

 一方でフリオニールはと言うと、ようやく戻ってきた呼吸を肩で繰り返しながら、ふらふらとよろめいて、藁の上に尻もちをつく。
今のは、と手の甲で自分の唇を抑えてみる。
其処にはついさっきまで、柔らかくて温かいものが重ねられ、何度も舐るように擽られていた。
それが、口吸いを───キスをされていたのだと言う事にようやく気付いて、フリオニールの顔が沸騰する。


「お前、何……を……っ!」
「ん?」


 言葉もまともに出ない程に狼狽したフリオニールの姿に、淫魔はきょとんと瞬きをひとつ。
それから、先程は警戒に睨みつけていた赤い瞳が、挙動不審に彷徨っているのを見て、


「なんだ、あんた。ひょっとして、初めてだったか?」
「……!!」


 小さな唇を突きだして、嘲笑するように言った淫魔に、フリオニールは返す言葉を失った。
それが真実を吐露したも同然で、淫魔は声を上げて笑った。


「く、ははは!あんたみたいに顔が良い奴、大体は遊んでるか、女が引っ掛けてるものだと思ってたけど。珍しい。運が良いな、初物なんて滅多に食えるもんじゃない」
「く……!」


 淫魔は如何にも楽しそうで、意外な獲物にありつけたと喜んでいた。
確かにフリオニールは、色事には全く無縁に生きて来た。
淫魔にとっては、まだ誰の手垢もない、極めて新鮮な肉に出会えた───とでも言った所だろうか。

 フリオニールの中で警鐘は益々強くなる。
今すぐこの淫魔から逃げなければ、と思うのに、座り込んだ体は碌に動かなかった。
手足の力が中途半端に解けたように、立ち上がることも出来ない。
そんなフリオニールの下に、淫魔はすいっと近付いて、フリオニールの胸にひたりと片手を置いた。


「……何をしたんだ……っ!」
「ただのキスだ。ちょっと深めの。知らないか?淫魔の唾液を飲むと、興奮作用があるんだって」


 濡れた舌を見せつけるように晒して、淫魔は微笑む。
てらりと唾液をまとった舌を見ているだけで、フリオニールは心臓がどくどくと逸るのを感じた。
体中の血潮が一気に流れ出し、体の中心へと集まって行く。


「耐性もそんなにある訳じゃなさそうだ。でも若いし、体力もありそうだし、一気に吸い取るのは俺も得意じゃないから、殺したりはしないよ。多分な」
「そんな、言葉が……信用できる訳……っ」
「ふふ、まあ悪魔の言う事だものな。信じない方が良いのは確かだ。だから俺も、あんたがうっかり死んでも、責任は持たないぞ」


 無責任な言葉は、悪魔にとって当たり前の価値観だ。
彼らにとって人間は食料であり、食べている内に死んでしまっても、なんら惜しいことはない。
何せ、この世界に人間と言うものは、数えきれない程に溢れているのだ。
何万と言う人間が、食事の為に一人二人と死んだ所で、代わりは幾らでもいる。

 淫魔はフリオニールの体に跨るように乗ってきた。
細い腰が足を割って、フリオニールの腹の上に乗る。
体重でもないかのように宙に浮かんでいた淫魔だったが、しっかりとした重みの感触があった。

 近くなった距離を、淫魔は更に顔を近付け、フリオニールの鼻先まで寄せる。
蒼灰色の瞳は蠱惑的に弧を浮かべ、くすくすと楽しそうな音を漏らしながら、フリオニールを誘惑している。


「あんた、キスが初めてだったみたいだけど、セックスは?」
「……」


 答えてやるものか、とフリオニールは睨む。
しかし淫魔は、微かに赤らみ、苦々し気に唇を噛むフリオニールの表情を、しっかりと見抜いていた。


「そっちも初めて」
「……煩いっ」
「安心しろ。こっちはそこそこ経験してるからな。初めての奴でも、ちゃんと優しく、食べてやる」


 言いながら淫魔は、フリオニールの体に身を預けるように寄せていく。
体の力が入らないフリオニールは、そのまま押されるようにして、藁の上に横たわることになった。

 淫魔は更に笑う。


「折角の始めてだ。相手は好みの方が良いだろう。あんたの好きな女になってやるよ」


 そう言って淫魔は、フリオニールには読み取れない何某かの言語を唱えた。
直後、淫魔の体を覆うようにヴェールのような光が浮かび、光が淫魔の体の中へと吸収されていく。
その間、「んん……」「うん……?」と小さくむずかるような声と共に、淫魔の体がもぞり、くねり、と怪しく踊る。
腹の上でもどかしい声を零して身動ぎするシルエットは、まるで淫らな踊りを見せつけているようだった。

 やがて光は収縮していき、淫魔の体から薄桃色の塵に似た靄を漂わせながら消え去った。
ふう、と淫魔が一息ついて、さてどうなった───と自分の体を見下ろして、


「……ん?」


 眉根を寄せた淫魔の体は、光のヴェールに包まれる前と、なんら変わっていなかった。
当人も不思議そうに、ぺたぺたと平らな胸や細い腰、尻尾の生えた尻を見て、自分の体が最初の状態と聊かも変わっていないことを確かめる。

 淫魔は数秒、考える仕草をしてから、組み敷いている青年を見て、


「なんだ、あんた。俺の姿が好みだったのか?」


 揶揄うネタを見付けたとばかりに、淫魔は笑っている。
ずいと近付いてくるその顔に、フリオニールは顔を顰めた。


「そんな訳があるか。淫魔の顔格好なんて……」
「だって今の変身魔法は、あんたの頭の中からイメージを借りて来るものだぞ。だからどんなものでも───別に具体的じゃなくてもいい。乳のでかい女でも、未通の小娘でも、あんたが苛めてやりたくなるような、何処ぞの生意気な領主の娘みたいなのでも。でもそう言うものが全然なくて、おまけに……」


 淫魔は自身の手を、自らの股間に持って行く。
そこにあるものの感触を確かめて、


「女じゃなくて、男のままだ。あんた、好みのタイプが女じゃなくて、男だったのか?」
「出鱈目を言うな。セッ……クスするのに、男同士なんて」
「別にそんなの幾らでもいるぞ」
「……そう、なのか……!?」


 けろりと返された言葉に、フリオニールは絶句する。

 性的な歓楽と無縁な生活をしているフリオニールだが、知識は一応、人並程度には持っている。
性行為と言うのは、男女が愛し合い、次世代へと命を繋ぐ為に必要なものだ。
それは信頼関係を楔とし、夫婦の契りを交わすと同義で、これをもって互いを生涯添い遂げる相手として定める儀式───と、いうのがフリオニールが知識として持つ、性行為と言うものへの認識だ。

 フリオニールが持つ性への意識と言うのが、その程度であることを、淫魔も読み取ったらしい。
淫魔はそれを一笑に伏して言った。


「初心だな、あんた。信心深いのか?教会でご高説を垂れてる狸が、稚児趣味で何人子供を囲って食い散らかしてるか知ってるか?」
「そ、そんな、ことが……」
「まあ誰も彼もじゃないし、まともな頭の聖職者も偶にはいるが。不貞だって何も相手が異性とは限らない。女が女に惚れることだってあるし、男が男に入れ込むことだって。そう言うのをウリにしてる娼館もあるぞ。こんな小さい田舎町には、其処までのものはないだろうけど」
「……」


 知らない世界の深淵をいきなり覗かされたような気がして、フリオニールの思考回路は許容量を超えていた。
呆然とするフリオニールに、「ま、そんな事はどうでも良いんだ」と淫魔は言った。


「下らない講釈に時間を取るのは馬鹿らしい。俺は腹が減ってるんだ。当分、まともなのが食えなかったからな」
「ちょ……!」


 ずい、とまた近付いて来た顔に、フリオニールは背一杯に頭を引いた。
しかし淫魔は構わず更に近付いてきて、フリオニールの頬を両手で包み込んで捕まえる。


「逃げるなよ。あんたの顔は気に入ってるんだ。その顔を見ながら、キスしてやる」


 目を反らすなよ、と淫魔は言った。
それに従う道理などフリオニールにある筈もなかったが、どう言う訳か、体が言う事を聞かない。
見ろ、と言った淫魔の蒼灰色の宝玉を、フリオニールは瞬きすらも忘れて、じっと見つめてしまっていた。