続く縁の交錯点


 遺跡の規模はそれ程大きくはない、とロックは言った。
とは言え、それは開けた野外にあるガガゼト山周辺の遺跡と比較しての話だ。
所々が崩れた土で覆われ、建材が其処に埋もれているところを見るに、地形の変化で洞窟内の空間が潰れた箇所はあるのだろう、とロックは見ている。

 徐々に奥へと近付くにつれ、レオンは漂う空気が酷く冴えた冷気を持っているのを感じていた。
頭の中でざわざわとノイズに似た感覚が囁いている。
それが何を言っているのか、明確に感じ取るのは少し難しかったが、其処にいる彼らが酷く落ち着かないことは判った。


(やっぱり、何かあるのか)


 声なく内側に向けて問えば、幾体かの鳴き声が聞こえた気がした。

 ───ふと、レオンの隣を歩いていた少女の足が、ぴたりと止まる。
レオンと後衛についていたロックが足を止めて少女を見遣ると、リディアは両手で自身を抱くようにして立ち尽くしていた。
先行していたエッジが、後ろの様子に気付いて振り返り、リディアに駆け寄る。


「どうした、リディア」
「うん……何か、ちょっと。寒いと言うか……なんだろう」


 リディアは眉根を寄せ、二の腕を摩る。
冷えたのか、とエッジは言ったが、リディアは首を横に振った。

 レオンは努めて目を凝らし、進む先の暗闇を見る。
物言わぬ闇の向こうから、重く昏く冷たい気配が滲んでくるのが感じられた。


「エッジ、ロック。この先、注意した方が良い」


 前方を睨んだまま言ったレオンに、二人の眦が引き締められる。
エッジは腰の短刀を抜き、双眸を細めて前方を睨んだ。


「何かいるか」
「判らない。だが、此処までの道と違って、酷く重い魔力エネルギーが滞留しているようだ。幽霊(レイス)たちはこの魔力から逃げていたのか……?」


 奥に進むほどに、幽霊(レイス)の気配は遠退いていった。
影に隠れるように潜んでいるものもあったが、それも見かけなくなっている。

 レオンがガンブレード、ロックもダガーを手に、リディアを庇いながら更に進む。
遺跡の奥行が深くなるにつれ、道幅は狭くなって行く。
朽ちかけた石造りの階段を進む様は、神殿造りの最奥に控える祭壇へと上っているかのようだった。

 その階段を上り切った先には、ぽっかりと開けた空洞の空間があった。
奇妙なのは、中央に不自然に空いた穴があると言うことだ。
そしてレオンが感じ取る重く淀んだ魔力の感触は、その穴から這い出るように漏れてきている。


「……エッジ、ロック。この場所の詳細は?」


 レオンが穴を睨みながら訊ねると、エッジは首を横に振った。


「詳しいことはうちにも伝わってない。ただ、この場所と穴はずっと昔からあるそうだ」
「穴の中を調べれば何か判るかも知れないけど、ずっと深くて真っ暗なだけなんだ。石を落としただけじゃ何も判らなかった。中に入るには、流石に俺も怖くてさ。こういう遺跡に開いてる穴って言うのは、何処に繋がってるか判ったもんじゃないから」


 この世界の各地に点在する古い遺跡と言うものは、それぞれの土地歴史によって文化的な差はあれど、当時の特殊な建築技術を用いて造られているものが多い。
その技術と言うのは、現代で言えば魔法的なものも多分に含んでいた。
魔石を機械技術のエネルギーとして主流とするイヴァリースはこれが顕著で、魔石を埋め込んだオブジェクトを利用し、大掛かりな仕掛けは勿論、遺跡に出入りする転用装置として設置していることが多い。
その他、遺跡泥棒を警戒した魔法トラップとしても使われており、うっかり踏んだ瞬間、針山の真上に転送される、ということも少なくないのだ。

 スピラ大陸は機械戦争の時代には、機械技術が大きく発展した。
しかし、その前時代には、召喚獣を崇める信仰の下、魔法に頼った技術も定着していたのだ。
だから現代に残るスピラ大陸の遺跡で、G.Fを祀ったと思われるものは、魔法的な加護が何らかの形で付与されていることがある。
元々が魔力の強い土地柄と言うこともあり、大地から自然な形でエネルギーが供給され続けている間は、その力は失われることは滅多にない。

 つまり、この空洞の中央に空いた穴も、何か理由があって作られたものだとすれば、其処には古代の仕掛けがあるかも知れない、と言うことだ。
好奇心に任せて覗き込んだものが、うっかり落ちて、次元の穴に飲み込まれると言う事故も起きうる。
遺跡史跡を渡り歩くロックが警戒強く近付かなかったのは、当然のことだった。


「サイトロやライブラで効果があるかどうか……」
「探索魔法の類か。やっぱりあそこが異常の原因か?」
「此処まで何もなかったからな。消去法で考えても、あれくらいしか残るものがない。妙な魔力エネルギーも、あそこが出元のようだ」
「取り合えず、あの穴を調べてみるか?三人いれば色々対策も取れるし」
「そうだな。じゃあまず……」


 今の所、件の異常の原因として、可能性が高いのが中央に空いた穴だ。
それを調べることと平行して、この空間の状態も確認しておきたい。
その為に何処から手を付けていくかを、レオンが考えていた時だった。

 随行していた少女の足が、ふらり、と前に進む。
それに気付いたのは、エッジだった。


「───リディア?」


 この場所に近付くにつれ、口数がなくなっていったリディア。
エッジはその気配を常に意識して感じ取っていたが、今の彼女の気配は酷く希薄に感じられた。
姿が目の前にあると言うのに、まるで暗闇の中に溶けて消えそうな程、存在感が薄いのだ。
だからエッジは尚の事彼女のことが気になって、必ず視界の中に留めるように意識していた。

 リディアの瞳は、じっと中央の穴に向けられている。
そのまま彼女が一歩、二歩と歩き出すのを見て、エッジは首の後ろにぞっと冷たいものが奔るのを感じた。


「おい、リディア!」
「!」


 エッジがリディアの手を掴むのと、穴の奥から濃い魔力が噴き出したのは同時だった。
級友の声とそのエネルギーの波に、レオンは咄嗟に防護魔法(ウォール)を展開させる。

 光り輝く障壁がリディアとエッジの前に出現し、穴から噴き上がった魔力波がぶつかる。
どろりとしたものが障壁を包み込むように覆い、まとわりついている間に、エッジはリディアを自分の後ろへと引っ張った。


「っえ?」


 は、とリディアの目が瞠られ、銀髪の後ろ姿を見る。


「な、に?」
「リディアちゃん、こっちだ!」
「わ、きゃあっ」


 エッジに庇われている状況に、戸惑い立ち尽くすリディアを、今度はロックが手を引いた。
障壁を最前に、二本の短刀を構えたエッジ、レオン、ロックと並び、リディアを危険から遠ざける。

 障壁にまとわりつく泥の魔力エネルギーが、穴からの接続が途切れると、洗われるように地面に流れ落ちていく。
それでもレオンは魔法を展開させたまま、障壁越しに中央の穴を睨んでいた。

 穴から重油がごぽごぽと泡を吹いて溢れ出す。
それは液体ではなく、鬱々とした魔力の渦で、レオンたちの目には、酷く嫌なものを煮溶かして何百年と腐らせたものに見えた。
魔力には特有のにおいがあるが、それも酷い腐臭を思わせる。

 重油は高さ二メートルに及ぶまで立ち上がると、ぐにゃぐにゃとアメーバのように蠢いた。
いつそれが飛び掛かって来るかも判らないと、青年たちは息を詰まらせてじっと睨み続ける。

 真っ黒な魔力の塊が、徐々に形を成していく。
ぼたぼたと余分な墨が落ちていくに連れて、それは一般的な人間の大きさよりも、二回りほど大きなサイズになっていた。
すると、それはスピラ大陸の古くから伝わる衣装の形とよく似た、裾の長い衣をまとった人型を象っていることが見えて来る。


「なんだ……?」
「新手の死霊(アンデッド)……って訳でもなさそうだな。実体があるのかも判らねえけど」


 突如として現れた、正体不明の怪異。
ロックとエッジから見ればそう受け取れたが、レオンは肌身でその正体を感じ取った。


「……G.F……!」
「───はあ!?」


 額に珠粒の汗を滲ませて言ったレオンに、エッジが驚愕の声を上げる。


「そんなもんが此処に!?前に此処まで調査にきた時は、こんな奴出て来なかったぞ!」
「だよな。俺がそこの穴を確認した時も、こんな事にはならなかった。なんだって急に沸いて出たんだ」
「それは判らないが……まずいぞ。明らかに敵意がある」


 四人の前で、G.Fと思しき怪異の腕がゆっくりと動く。
重油の裾の奥から、細く長く研ぎ澄まされたものが抜き身にされるのを見て、レオンは唇を噛んだ。

 G.Fとは『意思を持った独立したエネルギー生命体』と定義されている。
生きた生物と同様に個々の人格や性格、思考力を持ち、己の思うままに行動することが出来る。
肉体としては物理的なものよりも魔力そのものの集合体として形が造られている。
魔力が人間の視界に留められるだけでも、それは濃い魔力エネルギーが滞留していることを示しているが、それが物質的な存在感を有するともなれば、尚の事。
自然界に空気のように散らばっている魔力が、何万何億と集まって形成されるのだから、その身体はとてつもない魔力量に満ちているものが殆どである。

 そんなG.Fと敵として対峙すると言うのは、酷く運の悪いことだ。
まず人間の持つ戦闘力が、自然現象に勝てる訳がない。


(こちらもG.Fを出せば幾らか抵抗は出来るが、こんな場所で大きなエネルギー同士をぶつける訳にはいかない。下手をすれば、洞窟が崩落する)


 此処が開けた外界ならば、レオンも身の内に宿すG.Fの力を借りて、対抗策が取れただろう。
しかし、此処に至るまでの道程に比べれば広いとは言え、天井の高さは五メートルもなく、四方幅も見渡せばすぐに壁がある。
古い遺跡を擁するこの洞窟そのものの耐久性も判らないから、大きな衝撃は自分たちを生き埋めにし兼ねない。

 怪異が細く長い刃の切っ先を向ける。
刀だ、とエッジが小さく呟いた。
怪異がそれをゆらりと上段へ構えたかと思うと、ひゅう、と風を切る音と共に、すぱん、と何かが断ち斬れる感覚がレオンを襲った。


「っ……!」


 障壁の維持の為、魔力を集め突き出していた両の手のひらに、熱いものが走る。
じんわりと広がる感覚に、斬られた、とレオンは悟った。

 エッジの前に侵入を阻むごとく立ちふさがっていた防護魔法(ウォール)の障壁が、右斜めの線を作り、ずる、と崩れ落ちる。
まるで固まり始めたばかりの飴細工を切るように、怪異は魔力を練り上げた障壁を寸断したのだ。


「……冗談じゃねえぞ」


 罅もなく、あまりに乱れのない綺麗な切り口に、エッジが苦い表情を浮かべた。
今の一撃は、魔法障壁がなければ、エッジの胴体をすっぱりと切り分けていたに違いない。


「こんなの、どうしろってんだ。斃せばいいのか?どうやって?」
「判らない……そもそも、本当にG.Fなのか?ロック、お前、神話や民話にも詳しいだろう。この類のG.Fの逸話は?」
「……駄目だ、思い付くものがない。少なくとも、俺が知ってるスピラの伝承で、これに繋がるようなものが浮かばない」


 ロックの言葉に、レオンとエッジは苦虫を噛み潰した。
目の前にいる怪異が本当にG.Fだったとして、古い時代にいたものなら、伝説や伝承として伝えられるものは多い。
そこから謂れや正体が判れば、対策も取れるかと思ったが、そう簡単には行かないようだ。


「一旦退くか。こんなのがいるって分かっただけで、今日は十分だ」
「そうだな。とにかく戻って、別口で情報を───」


 無理をするべきではない、と全員が退避に踵を返そうとした時だった。


「あっ!」


 リディアの悲鳴にロックが振り返れば、彼女は此処へ来る道を見て硬直している。
どうした、とロックが駆け寄ると、リディアは道を指差して、


「み、道、塞がれてる」
「なんだって」


 ロックが暗闇に目を凝らすと、この空間と遺跡の道中を繋ぐ階段の前に、人の身長の半分はあろうかと言う大きさの黒い塊が、うごうごと蠢いていた。
明らかに退路を阻む位置を占拠している塊に、ロックが舌を打つ。


「押し通しちゃくれなさそうだな……」


 塊は此方に近付いて来る様子はなかったが、階段前から動かない。
四人の足がじわりと後退すると、真っ黒な泥を撒き散らしながら、不定形な動きを見せる。
寄らば食らいつかんと言うその仕草に、ロックはリディアを壁際へと下がらせた。

 リディアの足元が、ふらりと揺れる。
覚束ない足取りで壁にもたれかかる彼女の顔色は、暗がりでも判るほど、憔悴している。


「大丈夫か、リディアちゃん」
「……はい。なんとか……でもさっきから、凄く頭の中が痛くて」


 リディアの言葉に、レオンは彼女に障壁魔法(シェル)をかける。


「───魔力酔いだろう。魔力感応への感度が高いと、慣れていない場合に起きる症状だ。召喚士として、召喚獣との親和性もあるなら、……あれが召喚獣であるとすれば、感応している可能性もある」
「そう、なんですね。これが……」
障壁魔法(シェル)では気休めにしかならないが、一先ず、これで堪えてくれ」
「はい……う……」


 リディアはがんがんと痛む頭に手を当てた。
皮膚表面が酷く肌寒く、心臓が握り潰されそうな程に息苦しい。
それは、中央の穴から重油が噴き出した瞬間から始まり、時間を追うごとに酷くなっていた。

 怪異はじっと穴の中心に佇んでいる。
刀は障壁を断ち切ってから、切っ先が地面に向けられている。
まるで無防備な格好に見えたが、エッジは気を抜く事は出来なかった。
指先一本を動かした瞬間に、あの真っ黒な刀が距離を無視して切り裂いて来るのが判るからだ。

 眼前には異形のG.F、退路は謎の塊に塞がれている。
どうすれば、とエッジ、レオン、ロックが息を詰まらせていた時、


「……契約、を……」
「───……リディア?」


 零れた声にレオンが振り返ると、リディアは壁際に座り込んでいる。
頭を抱え、蹲っている彼女は、固く目を閉じて、唇だけを小さく震わせていた。


「……強き……敵、を……」
「……?」
「……ものの、ふ……の……つとめ……に……」


 零れる声は言の葉の断片だ。
レオンはその横顔をじっと見つめ、は、と思い出す。


「そうか。G.Fからの干渉───」
「あ?なんだって?」


 レオンの呟きに、エッジは前を睨んだまま、どういう意味だと問う。


「G.Fは親和性の高い者が近くにいると、あちらから呼び掛けて来る事がある。或いは、G.Fからの何らかの訴えや意思の主張がある際に、こちら側がそれを意図せず拾うこともあるんだ」
「……で、リディアは召喚士の卵だから、あいつの声を聞きとってるってことか?」
「恐らくは」
「ってことは、やっぱあいつはG.Fで決まりってことか」


 嫌な情報が正確になったな、とエッジは呟いた。
自然現象の集合体とも言えるG.Fと、完全に敵対している状態だ。

 ロックがリディアを背に庇いながら、ダガーを構え直す。
視線はエッジ同様に前へと向けたまま、可能な限り、背にした少女にも意識を配る。


「こんな姿のG.F、伝承に聞いたことがないぞ。新しいG.Fか?」
「そうかも知れない。近代に発生したG.Fなら、古い伝説の類はなくても可笑しくはない」
「もしくは、エボンが隠してるだけかもな。あいつら、色々と隠し事も得意だからよ」


 苦い声でエッジが言う。
レオンは、それについてはノーコメントだ、と返した。

 とにかく、目の前のG.Fと思しき怪異の正体について、今は探っている暇はない。
動かば切り捨てんと冷たい殺意を向ける怪異から、逃げ果せる方法はあるのか。
ないのならば戦うしかないが、G.Fと正面切って戦って、まともに勝てるとは思えない。
階段を塞ぐ黒い塊は、一同の足が後ろに下がるだけで、酷く不愉快そうに蠢いている。
退がるな、戦え、と命じているかのようだった。

 怪異の刀を持つ手はそのまま、逆の手が広く開いた袖口の中で動く。
その腕が流れ動くように縦に挙げられた瞬間、エッジは風を切る気配を頼りに、右腕を振るった。
ぎぃん、と甲高い音が響き、エッジが持つ小刀と同程度の大きさをした黒い刃が宙を掻く。

 ガンブレードを握ったレオンが地を蹴り、怪異へと肉薄する。
袈裟懸けに振り下ろした刃は、怪異の刀に容易く防御された。
レオンはグリップを握る両手に力を籠め、一合、二合と打ち合う。
怪異は皮膚表面にまとわりつく重油の泥を撒き散らしながら、腕一本でレオンの剣を捌き続けた。

 ロックは黒い塊がその場から動かないこと、リディアもまた座り込んだまま動く様子がないことを確認し、エッジに目配せした。
エッジが頷くのを確かめ、ロックは走り出す。
レオンと打ち合う怪異の後ろ側に回り込み、タイミングを見定めて一気に距離を詰めた。

 ガンブレードとダガーが前後から怪異を強襲する。
しかし、怪異はガンブレードを刀で、ダガーを着物の袖で受け止めた。


「ダメか……!」


 通じるとも思っていなかったが、あわよくば、と狙いに行ったロックが苦く零す。

 怪異の開いた袖口の隙間から腕が伸びる。
其処からもう一つ、細く鋭い黒の刃が閃き、ロックは咄嗟に重油の腕を蹴って飛びのいた。
ひゅおう、と振り薙いだのは、ガンブレードと噛み合っているものよりも、僅かに短い刀だ。

 エッジと同じ、二刀の使い手。
より厄介になった、とレオンとロックは歯を噛んだ。

 二人がかりで怪異と打ち合う隙に、エッジは体内で練り上げた魔力を両手へと集める。
組み合わせた両手を、法則に従って更に形状を変え、手印を結ぶ。


「───火遁・火炎迅!!」


 手印に燈った炎が、鳥の姿へと変幻し、怪異へと迫る。
切り結ぶレオンとロックが飛び退くと同時に、炎の鳥はその翼を大きく広げ、怪異の影が周囲を囲む壁にくっきりと映し出された。

 怪異を炎が包み込み、ごうごうと渦を作り出す。
闇の中に佇んでいた怪異の形が、炎によって明るみに見えていた。
その姿形を覆うように垂れるタールのような黒墨が、炎の魔力と交じり合って溶け堕ちていく。

 このまま焼き尽くせるか。
エッジが額に汗を滲ませ、炎を形成する魔力との繋がりに今一度エネルギーを注ごうとした時、


「……違う……!」


 背に庇う少女の呟きが零れた直後、怪異は両の腕を大きく広げ、巻き付く炎を打ち払った。
突風のようにぶつかってくる魔力エネルギーの圧に、レオンたちは咄嗟に身を庇う。

 G.Fから干渉を受けていると言うリディアの声に、どういうことだ、とエッジが後ろを見遣ろうとした瞬間だった。


「エッジ!」


 レオンの声に、エッジの視界の端で、黒い刃が閃く。
まずい、と本能的に悟った体は、どう動いても間に合わない、と理解していた。

 しかし、その刃が体を貫くと思った瞬間、がぎん、と重く固い音が響く。
数舜と言う時間が、酷くゆっくりと過ぎた感覚の中で、エッジは自分と怪異の間に割り込んだ、巨大な太刀を目にする。

 傍らから放たれる重く厳めしい気配に、エッジは息を飲む。
動かない黒と鈍銀の刃が交差するその先を見ると、無骨な体躯を持った六足の馬が鼻を鳴らしている。
その馬の背には、重厚な鎧兜を身に纏った、赤目の武人が騎乗していた。


「こいつは……」
「オーディン!」


 武人を呼ぶレオンの声に、エッジだけでなく、ロックも目を瞠る。

 神話の時代から存在が確認されているG.Fとして、オーディンは伝承も逸話も事欠かない。
その傍ら、古い時代から存在が確認されていたにも関わらず、オーディンが主───契約者を得たと言う話も滅多に伝えられていなかった。
そんな生ける伝説とも言われる程のG.Fが、嘗ての級友と契約を交わしていたなど、思いも寄らなかったのだ。

 オーディンは噤んだその唇を開くことなく、馬上から怪異の持つ刀を抑えつけている。
交差した刃が、きちりと金属の鍔鳴りを立てていた。
怪異の首がゆっくりとオーディンの頭へと向き、数秒の後、エッジの眼前から刀が退かれる。

 オーディンの分厚い太刀は、変わらずエッジの前にあった。
まるで侵入を阻む結界であるかのように、怪異との境界線を引く其処から、エッジはじわりと歩を下げる。
物言わぬ太刀が、下がれ、と命じているのが感じ取れた。

 ロックがエッジとリディアの下へ、レオンがオーディンの傍へと駆け寄る。


「オーディン、一体これは───」


 まるでレオンたちと怪異との戦いに割って入るように現れたオーディン。
契約者の呼びかけを伴わず、G.Fが次元を開いて出現することは、起こり得ることではあったが、オーディンはレオンが契約してこの方、こうやって突に顕現することはなかった。

 どうして、何故、と問うレオンだが、オーディンはもとより言葉を語らない。
赤い眼が契約者を見た後、その愛馬スレイプニルが歩を動かし、レオンに背を向けた。
相対するのは、刀を手に佇む、怪異だ。

 レオンの頭に、ノイズ混じりの耳鳴りが響く。


「……仕合い……?」


 微かに読み取ることが出来た言葉を反芻すると、それきり、ノイズは途絶えた。

 空間の中央に空いた穴がぼこりぼこりと真っ黒な泡を吹いている。
這い出た泥が怪異の躰に巻き付き、エッジの炎に洗われた体が、また重油のまとわりに塗り潰された。
階段前に佇んでいる黒い塊がうごうごと蠢き、はしゃぐように跳ねている。

 スレイプニルの蹄が地面を踏む。
分厚い鎧兜と太刀を持つ主に、重さひとつも感じさせない足取りで、スレイプニルは立ち位置を探すように歩いていた。
やがてその足は円形の空間に対して沿うように進み、オーディンの太刀の切っ先が持ち上げられ、怪異へと向けられる。
同じくして怪異の刀も持ち上がり、刃がオーディンへと向けられた。

 オーディンの背から発せられる圧力を感じて、レオンは足を後ろへと踏む。
後退の兆しを見せる度、批難するように跳ねまわっていた黒い塊は、此方のことなど最早感知もしていないように大人しくなっていた。
じっと静かに佇む塊は、立ち会うオーディンと怪異だけを見詰めている。


「───レオン」


 呼ぶ声にレオンが視線を向ければ、ロックが此方を見ていた。

 壁際にリディアを庇う形で囲む級友たちの下へと急ぐ。
それを迎えたロックは、退治するオーディンと怪異を見遣りながら、


「何がどうなってるんだ。あれはオーディンだよな?神話にある───」
「ああ。俺と契約してくれている」


 レオンの言葉に、ロックの息が詰まる。
オーディンと言えば、神話に触れる者なら知らない者のいない大物だ。
それについて詳しく聞きたいことは幾らでもあったが、今はそれよりも優先せねばならないことがある。


「あいつの相手を引き受けてくれるのか」
「恐らく。あちらの方も、俺たちよりもオーディンの方が良いらしい」


 怪異は最早レオンたちのことを目にも入れていなかった。
黒い刀はじっとオーディンへと向けられており、獲物をそれと定めたようだ。


「それなら、俺たちはどうすれば良い?今のうちに引いた方が良いか?」
「……俺は此処にいる必要があるだろう。オーディンが戦うつもりなら、魔力の供給として契約者は近い場所にいた方が良い。だが、お前たちはともかく、リディアは───」


 レオンは、壁際に寄り掛かって目を閉じている少女を見た。
リディアは眉根を寄せ、痛む頭を抱えるようにして、蹲って動かない。
G.Fと思しき怪異からの干渉が見られることを考えると、彼女の躰には少なくない負担が罹っているだろう。
出来れば、この場から逃がした方が良いとは思うのだが、


「……あいつ、退きそうにねえな」


 視線だけを投げるエッジの目には、依然としてこの空間と遺跡内部を繋ぐ道を塞ぐ、黒い塊がある。
それは既に此方に興味を失っていたが、かと言って、あの脇を大人しく通してくれるとは思えなかった。

 ───ぎぃん、と重く固い金属音が鳴り響く。
見れば、オーディンの太刀と、怪異の刀が切り結んでいた。
馬上にあって鎧の重みと共に振り下ろされる太刀を、怪異は一歩と退くことなく捌き凌いでいる。

 刀同士がぶつかり響く度に、小規模な爆発を起こした風圧が拡がった。
それが小さな破片のように、レオンたちの肌身を削いでいく。
痛みがある訳でもない、血が出る訳でもなかったが、見えない小さな棘が幾百本も飛んで来るようだった。

 幾合と切り結ぶ刃の度に、リディアの額には汗が滲む。


「う、う……!」
「リディア」
「……は……しあ、う……けずり……んん……っ」


 覚束ない舌使いで言の葉を零すリディアの手を、エッジが握る。
少女はそれを微かに開いた眼で見付けると、ぎゅうと唇を噛んで、エッジの手を握り返した。

 レオンは短い詠唱を唱えて、リディアにもう一度障壁魔法(シェル)を施す。
柔く輝く光のベールに包み込まれ、リディアの呼吸の波がほんの僅かに本来のリズムを取り戻す。


「はあ……はあ……ごめん、なさい……足手まといで……」


 微かに目を開けたリディアの言葉に、レオンは首を横に振る。


「こんなことになるとは俺たちも思っていなかった。調査の為の指示とは言え、此方が君を巻き込んだようなものだ。苦しい思いをさせてすまない。でも、お陰であれが召喚獣だと言うことも判った。同行してくれてありがとう」
「……はい」


 レオンの言葉に、リディアの表情が微かに和らぐ。
それを見詰めながら、レオンは続けた。


「…召喚獣からの干渉は、あちら側からの何某かの訴えである事が多い。リディア、俺が誘導するから、あの召喚獣の声を聞いてくれるか?」
「おい、レオン」


 遮りに割り込んだ声は、エッジのものだった。
紫雷の瞳が、静かな怒りを滲ませて此方を見ていたが、レオンはそれを真っ直ぐに見返す。


「G.Fから訴えていることがあるなら、聞いた方が良い。意思があるんだ、それを聞き留めることが出来れば、何を望んでいるのか判る。あのG.Fの正体や、抑える方法が判るかも知れない」
「それをリディアがやる必要があるのかよ。お前もG.Fと親和性は高いんだろ?出来ないのか?」


 エッジは、リディアにこれ以上の負担をかけることを反対しているのだ。
その気持ちはレオンも同様ではあるが、しかし。


「俺にあのG.Fの声は聞こえてこない。俺はオーディンの他にもG.Fと契約しているから、それが阻んでいるのかも知れないし、あのG.Fが俺との干渉そのものを望んでいない可能性もある。だから、既に干渉として繋がりが出来ているリディアにしか頼めない」


 レオンの魔力は、G.Fに対して高い親和性を持ち、故にこそ例を見ない程の数のG.Fとの契約を交わしている。
しかし、それも全ては、G.F側からレオンに対して寛容な節があるからだ。
だからG.Fがレオンとの接続を拒否しているなら、どんなに親和性の高い魔力を持つとしても、G.Fと契約を交わすことは難しい。
それでも無理に干渉しようとすれば、G.Fからの激しい抵抗により、それらを宿す場所とされている脳を破壊される事例があることは、歴史と研究の面から確かとされている。

 G.Fからの干渉と、慣れない濃い魔力の気配による魔力酔いに陥っているリディアに、これ以上の負担をかけることは、レオンとて抵抗がある。
しかし、エッジやロックの魔力ではG.Fと繋がることは難しいだろうし、何より、リディアは既に干渉されているのだ。
怪異の正体と目的を掴む為の入り口は、其処しかない───レオンはそう考えている。

 SEEDとして、G.Fに関して触れる機会の多いレオンの言葉に、エッジは苦々しく眉を顰める。
握った少女の手は小さく、じっとりと汗が滲んでいた。
そんな彼女により苦しい思いをさせる訳には行かない、そうは思うが、レオンの言葉に反する意を唱えることも難しいのは判っていた。

 エッジの手を握るリディアの手が、ぎゅう、と強く力を籠める。


「……大丈夫、エッジ。私も……召喚士だから」


 正式に認められた訳ではなくとも、その力を有していることについて、リディアは誇りを持っている。
自分を愛し育ててくれた母と同じ力を持つこと、その役目をいつか引き継げる可能性があることも、リディアはきちんと受け止めていた。

 そんな自分にしか出来ないと言うのなら、とリディアはレオンを見上げて、しっかりと頷く。
それを受けて、レオンも心を決めた。


「ありがとう。出来るだけ、君に負担がかからないように善処する」
「はい。お願いします」


 リディアは壁に寄り掛からせていた体を起こし、レオンと向かい合う。
レオンはエッジとロックを見て、


「悪いが、此方に集中するから、戦いの方で何かあっても、俺は反応できない」
「判った。礫でも飛んでくりゃ俺たちがどうにかするしかない訳だ」
「オーディンへの魔力の方は大丈夫なのか?」
「それも維持する。少し消費が大きくはなるが、あちらも止める訳にはいかないから」
「……ぶっ倒れんなよ」
「それについては祈ってくれ。リディア、両手を」


 レオンは両手を天井に向けて、リディアの前に差し出した。
リディアはエッジの手を握っていた手を解き、両手をレオンの手のひらに重ね合わせる。

 剣戟の音は、時間を追うごとにその激しさを増している。
既に生あるものが迂闊に飛び込める領域ではなくなっていた。

 スレイプニルが強く地を蹴り、重い蹄の音を鳴らしながら、怪異へと迫る。
怪馬と評すに相応しい巨躯の嘶きに、怪異が静かに腰を下げる。
重心を下げたその姿勢から、昏く冷たい怨気が膨れ上がった。
オーディンの太刀が真横に持ち上げられたかと思うと、返す手首と共に横一線の閃きが走る。
同時に怪異が奥に据えた手が音速と共に奔り、縦横の剣閃がぶつかりあって、二頭を中心に真空波が弾け飛ぶ。

 荒れ狂う暴風に、エッジとロックは、リディアとレオンを庇いながら両足で踏ん張る。
強烈な圧力のぶつかり合いに、岩肌の壁が削れ、石礫が地面に転がっていた。
それもまた圧力の衝突によってはじけ飛び、空気を通じて伝わる強烈な振動によって粉塵へと砕けた。



 ───長く時間をかけている暇はない。
レオンはそう判断して、重ねた手のひらから伝わる少女の魔力を辿る。
自分が“あちら側”でG.Fたちと繋がる時の感覚を思い出しながら、それと同じ場所にリディアの意識を手繰り寄せていく。

 普段、レオンが“あちら側”に降りる時は、危険がない場所であることを確認してから行っている。
意識が自分の内側に閉じこもる為、体が完全に無防備になるからだ。
だが、今はそんなことを言っている暇はない。
現実の状況から起こり得る危険については、友人たちを信じることを選んだ。

 レオンが目を閉じ、ゆっくりと開けると、どんよりとした重い空気が充満していた。
遠くに小波の音が聞こえるのを確かめながら、レオンは辺りを見回す。
直ぐ近くにぼんやりとした光の塊があるのを見付け、其方へと駆け寄って行けば、不安げに佇む少女の輪郭が確認できた。


「リディア」
「……レオンさん?」


 名前を呼ぶと、きょろ、と少女は辺りを見回す仕草をする。
傍にレオンがいることが見えない様子に、努めて優しい声で告げる。


「召喚獣と契約すると、彼らと対話をする時、こうやって自分の殻の中に閉じこもる。慣れていないと、何があるのかよく見えないと思うが……一先ず、ゆっくり息をするんだ。落ち着いて」
「は、はい」


 不安な表情を浮かべつつも、リディアはレオンに言われた通り、大きく息を吸って深呼吸を試みる。
すう、はあ、と三回に分けて心臓を宥めると、彼女の躰にまとわりついていた薄靄が晴れて、レオンからはよりはっきりとリディアの姿が見えるようになった。


「俺が見えるか?」
「……何か、誰かいるっていう感じは、あります」
「十分だ。手を出して。感覚を安定させよう、俺の方から少しずつ触るから、そのままで」


 リディアが右手を出し、レオンはその手のひらに指先を当てる。
ぴく、と触れた感触にリディアの指先が反応したのを確かめてから、そっと手のひらを重ね合わせて握った。


「分かるか」
「……はい」
「俺以外に、誰かと繋がっている感覚は、あるか?」


 触れているもの以外に、気配があるか。
尋ねるレオンに、リディアは首を巡らせて辺りを見回した後、ひた、と一点を見詰めて、


「───あっちに、何かいます。すごく重い感じがする」


 リディアの言葉に、それだ、とレオンは頷いた。


「怖いと思うが、君の感覚が頼りだ。近付けるか?」
「……はい。大丈夫です」
「何かあれば、俺が対処する。出来るだけゆっくり行こう」
「はい」


 警戒することは、少女の不安に繋がるとは思ったが、相手の出方と影響が判らない内は、慎重に行くしかない。
レオンの言葉に、リディアは頷くと、そろりと体の向きを変えて歩き出した。

 リディアの目から見て、視界は不安定な澱みに似た黒一色で、何処に何があるのか全く判らない。
だが、手を繋いでいるレオンと思しき存在の気配は確かに感じられた。
それを縁にしながら、澱みが生まれる元となっている流れを辿って進んで行く。
足元は泥のように黒いものがまとわりつき、進むほどに重くなって行くが、まだ足を絡め取られるまでにはならない。
このまま、辿るものの根源まで、出来るだけ近付くことを考えた。

 一歩、一歩と進むうちに、段々と、リディアの頭の中に、重い鈍痛のようなものが拡がって行く。
眉根を寄せてそれに耐えながら進むと、徐々に鈍痛の中に雑音めいたものが感じ取れるようになった。


『……契約を……』


 鼓膜ではなく、頭の中で響く声が形になって来る。
これが、召喚獣からの呼びかけなのだろうか。


『武人として』
『戦を』
『為に───契約を』


 断片的なそれを繋ぎ合わせても、文章にはならなかった。
何を言いたいのか、何度聞いてもリディアには理解できないが、ともかくその意思の元まで辿り着かねばならない。

 暗闇の中を手探りで歩いているようで、リディアは一歩一歩が酷く重くて長いものに感じられた。
声はノイズの中に溺れているような音も混じっている。


『咎とて然り』
『此の身は武を』
『極めん為に』
『獣を斬りて』
『魔を斬りて』
『人を斬りて』
『為に契りを』


 近付くごとに声の形が読み取れるにつれ、リディアは息苦しさが増すのを感じていた。
酸素が酷く薄い、高山を歩いているような気がする。
それを、手を繋いだ先にある気配から流れ込んでくる温もりが、僅かずつに和らげてくれるのが判った。

 真っ暗な世界の中で、一際重く淀んだものがあった。
高熱炉の中でどろどろに溶けた黒鉄のようなそれに、リディアは意を決して手を伸ばす。
指先が触れると、中から吹きこぼれるように泥が溢れ出して、リディアに向かって触手を伸ばした。


「っ!」


 目を瞠るリディアの前で、触手が弾かれるように飛び散る。
傍らの気配が俄かに気を張り詰めている気配を感じ、彼───レオンが庇ってくれたのだと判った。

 ほう、とリディアは息を吐き、もう一度、目の前の黒い塊を見た。
傍らの気配から、止める声がないことに、これに触れるべきなのだと改めて理性で理解する。

 リディアは心を静かに意識しながら、そっと塊に両手を伸ばす。
直に触れるには余りにおどろおどろしいそれを、リディアは手のひらの中で包み込むようにそっと抱いた。
どろりとしたものが皮膚にまとわりつくのを感じたが、体内に温かい熱が燈り、泥の進入を防いでいるのが判る。
その防御が途切れない内に、リディアは腕に抱いた黒鉄に意識を向けた。


『───為に契りを』
『武を』
『咎とて然り』
『武を』
『為に契りを』


 言の葉の断片が頭の中に流れ込んでくると同時に、遠い世界の剣戟の音が聞こえてくる。
それはひとつではなく、幾つも幾つも重なり合っては、次を呼んで繰り返された。


(……戦っている。このひとは、戦うことを求めている)


 閃く刃が金属と打ち合う度に、泥の奥底にある真っ直ぐな歓びが聲を上げる。
始めは交じり合うようにして絡みつき、重く淀んだ泥に埋もれていたそれは、次第に強く輝き出していく。
ただひたすら、高みへと上り詰めようとする、その過程にある剣戟が齎す歓びを、この鉄は求めている。

 だから戦場を渡り歩いた。
渡り歩く術の為、契りを交わす者が現れる事を臨んでいた。
それだけが、自分自身を磨き上げ、一本の刀として極めを知る道だった。

 次にリディアが瞬きの目を開けた時、其処には一人の男が立っていた。
知らない顔だ、と立ち尽くす少女を前に、男の躰はゆらりと煙のように霞んで消える。
リディアの腕には、泥を灌ぎ落とした一本の刀だけが残されていた。



 G.F同士の斬り合いなど、滅多に見られるものではない。
それも、剣圧が直撃に来るような距離なんて。

 剥がれた石壁の礫が飛んで来るのなら、可愛いものだった。
打ち合いの斬撃の残滓が容赦なく襲ってくるのだから、とんだ飛び火だ。
しかし、リディアとレオンが意識の中から戻って来ない内は、その場を動く事も出来ない。
とにかく飛んで来る衝撃は捌き切らねばならないと、ロックの防壁魔法(プロテス)を緩衝材に、潜り抜けて来るエネルギーをエッジの忍術で散り掃う。

 その最中に、変化は徐々に起きていた。


「エッジ、あいつの体───」
「ああ。まともな形が見えて来た」


 重油を頭から被り、身の底からもそれを溢れ出していた怪異が、徐々に油を削ぎ落していく。
ひとつ、ふたつ、みっつと、振るう刀が向き合う剣豪と鍔迫り合いを繰り返す都度に、まるで洗われるようにして、刃が冴え冴えとした白い閃きを蘇らせていた。

 藁編みの平たい笠を被り、貌には鋭い目元を彩る爛々とした隈取が施されている。
スピラ大陸の古い伝承禄に見ることのある形をした被服に、肩は唐草の装飾を羽織りにし、濃墨に染まっていたとは思えない程、派手な色使いをしていた。
如何にも歌舞いたその井出達とは裏腹に、指先まで覆う爪籠手に握られた刀は、踊る柳のように滑らかに走る。

 オーディンの振るう太刀が豪剣ならば、怪異のそれは柔の剣。
それでいてオーディンの振り落とす剣の重みを、真正面から受け止めて、刃を滑らせ攻勢に転じる。


「……オーディンと渡り合うような奴がいるなんて、神話の時代の奴ならともかく、こんな所にいるとは思わなかったな。エッジ、あのG.F、知ってるか?」
「お前が知らないG.Fを、俺が知ってるもんかよ」
「エブラーナの人しか知らない伝承って言うのもあるだろ」
「かも知れないが、あんな姿の召喚獣の伝承は、うちにはないな」


 G.Fの姿かたちは判るほどになったが、その正体については、依然として何も判らない。
二頭のG.Fの剣戟も、まだ続いている。
それを下手に止めに入ろうとは最早思わないが、しかし、G.F同士の戦いの現場など、人間からすれば危険極まりない現象だ。
いつまでも此処に留まっていたくはないが、どうすれば解放して貰えるものか。

 身を守る為の体力も、いい加減に底を着いてしまう。
その現実にエッジが苦い表情を浮かべていた時だった。


「────っは……、はあ、はあ……っ」
「く……っ、流石に……きついか……っ」


 リディアが水の中で目いっぱいに溜めた息を吐き出すように口を開け、同時にレオンの体がぐらりと揺れる。
G.F同士の争いの中、ぴくりとも動かずに静止していた二人が、現実に戻ってきたのだ。


「リディア!」
「レオン、大丈夫か。何か判ったのか?」


 エッジがリディアを支える傍ら、ロックがレオンに問い詰める。
レオンは頭の奥に響く鈍痛を堪えながら、顔を上げる。


「経緯までは判らないが、あれの目的は判った。強者との戦い───今の状況そのものが、あのG.Fの望みなんだ」
「オーディンと戦うことがか?」
「対象がオーディンかどうかは、別のような気もするが……元々、戦場を渡り歩いていたG.Fなんだろう。戦うこと、自己研鑽、武の真髄を見る───そう言う目的の為に、戦い続けていた」


 そんなものが何故、ナギ平原の地下の遺跡にいるのか。
疑問はあったが、レオンはそれよりも先に、今するべきことを優先する。


「鎮める為には、とにかく戦うしかないんだ。あのG.Fの切り札を下せる位じゃないと、黙って帰らせてはくれないだろうな」
「G.F相手にそんなこと出来るような奴がいる訳ないだろ」
「勿論だ。だから、オーディンが引き受けてくれたんだろう」


 金属の噛み合う音が響く。
それは始めに二頭が向き合い、打ち合い始めた頃よりも、澄んだ音に変わっていた。
研ぎ澄まされた刃同士が鳴らす音は、強く鋭く、幾重にも重なって更に刃を鋭くしていく。

 ガカッ、と馬の蹄が強く地面を踏みつける。
ブルル……とスレイプニルが勇むように鼻を鳴らし、馬上の主が剣を上げる。
それを見た怪異の体がゆぅらりと揺れて、半身に腰を低く取った。
白刃の刀が腰の鞘へと納められ、鯉口を鳴らす。
両者から冷たく静かな氣が膨れ上がるのを感じて、レオンたちの首筋に汗が滲む。


「なんだ……?」
「……判んねえけど、やべえ予感だけはするぜ」


 眉根を寄せるロックに、エッジは覆面の内で舌を噛んで言った。

 オーディンの腕がゆっくりと振り上げられ、一気に撃ち落とされる。
巨大な太刀が地面を抉り、轟音と共に衝撃波が怪異へと迫った。
怪異は逃げる事もなく、右足を一歩踏み込んだかと思うと、音速の抜刀から横一線に白刃が奔る。
剣閃は衝撃波を断ち割り、更に怪異は低く下ろした刃を地面に滑らせるように走り出した。

 間合いを一気に詰めた怪異の両手が刀の柄を握る。
牡丹色の羽織が、鳥の翼のように広がったかと思うと、刀が弧を描いて舞い踊った。

 目には見えない剣圧が、空間そのものを斬り掃う───瞬間に、オーディンの剣がそれを打ち払うが如く、斬り上げた。
背に控える形のレオンたちの左右の壁に、石崖をえぐり取らんばかりの深々とした太刀傷が刻まれる。
その威力の大きさに、青年たちがぞくりと背中を粟立たせた時、


「ヒヒィィーーーーッン!!」


 六つ足の白馬が嘶きを上げ、走る。
強く踏みしめた地面を強く蹴り、飛ぶように走るスレイプニルの背上で、太刀が三度目、大きく振り被られた。

 両者の位置が前後に入れ替わり、数舜、静寂が支配する。
どうなった、と誰も問う事の出来ないまま、長いようでごく僅かな時間の後、怪異の体がぐらりと大きく傾いた。


「バオゥッ」


 吠える声にレオンがその元を探せば、遺跡への道を塞ぐ位置に、一頭の獣がいる。
動物にしても魔物にしても奇妙な、風変りな井出達をしたその獣は、怪異の羽織った唐草模様の意匠とよく似た文様を持っていた。

 片膝をついた怪異の下へ、獣が駆け寄る。
その様子は、まるで主人を慕う忠犬のようだった。

 息を詰まらせてその光景を見詰めているレオンの前に、馬の蹄の音が近付く。
見れば、刃を下ろしたオーディンが佇んでいた。
黙して語らぬ言葉の代わりに、じっと見つめる赤い瞳と、頭の中のさざめきが、彼が役割を終えた事を告げる。


「……ありがとう、オーディン。お陰で助かった」


 感謝を述べれば、オーディンはついと顔を背ける。
代わりにスレイプニルが鼻頭を寄せて来たので、レオンはその顔を撫でてやった。

 二位一体のG.Fの姿が露と消え、後に残ったのは、片膝をつき蹲った怪異と、その膝元に縋って離れない獣。
それを見たリディアが、ふらつく膝を叱咤しながら立ち上がる。


「おい、リディア。無理すんな」
「……うん。大丈夫」


 叱るエッジを宥めて、リディアは彼の手を借りた。
エッジは嘆息しながら、リディアの望むに任せる。


「どうするんだ」
「異界送りをするの。此処に留まっている人たちを送ることが出来れば、多分、あの召喚獣に影響を与えていた、この辺り一帯の……死んだ人の思いの力も、薄めることが出来ると思うから」


 リディアの言葉に、エッジは眉根を寄せつつも、改めて彼女の手を取った。
召喚士として才を持ち、今回の件でも遺跡内への同行者として役を引き受けたリディアだ。
蹲っている怪異の様子を注視しながら、エッジはリディアの役割を見守ることに決めた。

 怪異と獣の蹲る場所から、数メートルの所で、リディアはゆっくりと深呼吸をする。
息と鼓動を整えて、目を閉じれば、辺りを漂う魔力の匂いが不安定に揺らいでいることが感じられた。
その中にひとつ、小さな波があるのを捕まえて、それを起点に流れを紡ぎ上げていく。

 暗く澱み、地底深くに埋もれるようにして籠っていた空気が、透明な水底に変わるまでは、まだ幾年と長い時間が必要となる。
その水滴のひとつになればと、静かに舞い始める少女を、エッジは固唾を飲むように見つめていた。