ワンナイト・ミラージュ


 同行のパートナーと喧嘩をした、と言う体で、一人ホールへと戻ったスコールは、先ずは先ほど確認したターゲットをもう一度探した。
ゲストのスピーチは既に終わり、主催直々に呼ばれた面々も、あちこちの歓談の輪に加わっている。
ターゲットも、上等なスーツに身を包んだ男達のグループに入り、何やらにこやかな顔でやり取りをしていた。

 先ずは、気を引く所から。
スコールは料理の並ぶテーブルから、食前酒のグラスを手に取る。
一口で飲み干してしまえるそれを、スコールは思い切って一気に流し込んだ。
先のサイファーに平手を打った場面が、何人の目に留まったかは判らないが、パートナーの喧嘩の後の行動としては、やけ酒か、冷静を求めての行動には見えるだろう。


(……ふぅ)


 空になったグラスを指定の位置に置いて、スコールは顔に手を当てる。

 アルコールの類は決して得意ではない。
幸いにも即酩酊する程に弱い訳ではなかったが、どうやら直ぐに顔が火照ってしまう質らしい。
お陰で、酔っている、と見られることは出来る筈だ。
これでガードも緩く見られる。

 スコールは事前に確認した、この建物の見取り図を頭の中で確認しながら、ターゲットへと足を向けた。
と、そんなスコールに、聞き覚えのある声がかかる。


「おや、君。パートナーはどうしたんだい」
(……さっきの男か)


 スコールが横目に声のした方を見れば、サイファーが情報収集に話しかけ、色々とお喋りをしてくれた小太りの男が立っている。
さて、喋る訳にはいかないのにどうやって誤魔化そうかと、スコールが眉根を寄せて黙っていると、


「ひょっとして喧嘩でもしたのかな。いけないねえ、こんな華やかな場所で、可愛い恋人を怒らせてしまうなんて。いやはや、若いと言うことかな」


 スコールがサイファーを打った場面を見た訳ではなさそうだが、男は勝手に想像して納得したらしい。
スコールは特に否定する理由もなかったので、黙したままでやり過ごした。
それが男にとっては、想像の理由の裏付けになったようだ。


「こんな所で女性が一人と言うのは寂しいものだ。どうかな、私と一緒に回らないかい?」
(そういう訳にはいかない。身動きがとり難くなる)
「こう言ったパーティには初めて参加するんだったね。それなら、私が色々と教えてあげよう」


 お節介を焼いてくれると言う男に、暇なのか、こいつこそパートナーはどうしたんだ、とスコールは思うが、問は口にしない。
黙したままのスコールに、男性は促すように左腕を差し出して見せるが、スコールはそれに捕まる気にはならなかった。


(下手に付き合うとタイミングを逃す。どうにか……)


 この男から離れられないか、と思案を巡らせていると、ひたりとスコールの手に男の手が重ねられる。
場所に合うようにと仕立てられた肌触りの良いグローブの上から、ゆっくりと滑る手に、スコールは眉根を寄せた。

 ちらりと男の顔を見れば、脂の下がった目がスコールを見ている。
正確には、マーメイドドレスに着飾った、くびれのある細身の肢体を。
その視線が意味する所、期待しているものを読み取って、スコールはストールに隠した背中にぞわりと悪寒を感じ取っていた。


「さあ、行こう。悪いようにはしないよ」
(行くって言ってないだろ、一言も。この忙しい時に)


 余計な目をつけられた、とスコールは務めた無表情の下で毒吐いた。
やんわりと拒否して距離を置くのが無難だろうが、手に触れる男の力は存外と強い。
逃がしてたまるか、と言わんばかりだ。
振り払うのは簡単だが、淑女然としなくてはならない今、あまり手荒なことは出来ない……と、思ったスコールだが、


(いや、今なら多少は平気だ。ついでに、ちょっと利用させて貰おう)


 酒を飲んだお陰で、身体が少し火照っている。
恐らく、顔も赤くなっている筈だ。


「っ」


 スコールは掴まれた手に力を込めて、重ねられている男の手を振り払った。
スコールの行動に、紳士を装った男は驚いたように目を丸くする。
ずっと大人しく、パートナーである青年に寄り添うようにして過ごしていたスコールが、まさかこうも露骨に拒否を示すとは思わなかったのだろう。

 スコールは、パートナーと喧嘩をしたばかりで気が立っている、と言う顔で、じろりと男を睨みつけた。
存外と強気な光を宿した蒼灰色の眼光に、男は一瞬たじろいだが、その視線は相変わらず、スコールの身体をちらちらと盗み見ている。
鼻の下が分かり易く伸びてきていることを、この男は果たして気付いているだろうか。

 ともかく、そんな顔をしてくれるのなら、この場は利用させて貰おう。
スコールはくるりと踵を返して、当初の目標へと速足に歩き出した。
 


 ロイエンタールが事業を成功させたのは、ごくごく最近の話になる。
ざっと数字で言えば十年ほどになるが、彼が起業してから既に三十年余りが経っていると言えば、人生の半分は失敗続きであったことになる。
それがようやく上向きに行き始めたのが十年前だ。
そして、ロイエンタールがドールで事業を捏ねる傍ら、デリングシティの裏社会と繋がりを持ったのも、同じ頃であった。

 デリングシティは、先達て死亡した、終身名誉大統領ビンザー・デリングの名を冠したに相応しく、ガルバディア大陸で最も大きな都市である。
北部に向かえば地続きの国境を越え、ドール国その都市があり、其方も大きなものではあるが、単純な都市規模で言っても、デリングシティに勝るものはない。

 それだけ大きな都市であるから、きな臭いものも相応に根を張っている。
それらはデリングシティの警察機構の目の届かない所で網を張り巡らせており、それにより得た富を、政府官僚や軍部のお偉方への賄賂として流し、独自の権力を有するまでに至っていた。
デリング政権下のうちにそれは益々膨らんで行き、現在では、都市の一部はそんなアウトローたちの居住区と化し、治外法権も同然の有様。
そうやって力を肥やしてきた男達の手は、街の根深い部分でじわじわと広がり続けており、一部は表通りにある有名なビルの土地所有者となって、更に私腹と権力を手にしていた。

 ドールの街にも、裏カジノなど、法を逸脱した手段で懐を温めている者は少なくない。
ロイエンタールも、そういった、いわば酸いも甘いも啜り、泥水をかき分けて生きて来た商売人だった。
そんな彼にとって、デリングシティと言う場所は、ドール以上に肌身に合っていたのかも知れない。

 十年前に作った縁を元に、デリングシティの一等地を手に入れた。
其処で先ずは中流階級向けのホテルサービスを始め、上手く集客できたのを皮切りに、じわじわと手を広げていく。
近場に同業者、競争相手がいれば、伝手を使って少々“退場”して頂くこともあった。
その間に自分は運の良いことに(ヽヽヽヽヽヽヽ) 客が増え、サービスの質の向上にも成功し、支店舗を増やしたり、新たな形を試してみたりと、かくして努力は報われ、今に至る。
気付けば本拠地としているつもりのドールよりも、ガルバディアで名が売れていた。
そしてガルバディアでの収入を元手に、ドールの各方面へと多額の資金投資を行ったことで、ドールでも彼の名は立ちどころに知られるようになった。
お陰様で、今ではドールとガルバディアで、ロイエンタールの名を知らぬ者はいない程の知名度だ。

 こうなってくると、逆に裏社会との繋がりが鬱陶しくなってくる事もある。
特に、最近のガルバディアでは、こうした社会の“膿”とも言える存在を排除し、世界的な信用を取り戻さねばならないと躍起になっている。
もしもロイエンタールがガルバディアの裏社会と蜜月同然の関係を持っていると知れたら、間違いなく槍玉にされるに違いない。

 今現在のデリングシティで円滑な商売をしていくにあたり、裏社会を牛耳る者との繋がりは、持っていた方が良い。
彼らも後ろ暗い人間なので、告発のような真似は迂闊に出来ない筈だが、裏切り者への報復は地の果てまで追って成し遂げる連中だ。
ガルバディアの上層部と繋がりのある者もいるし、下手なトカゲの尻尾きりなんて真似をすれば、尻尾から頭が生えて噛みついて来るに違いない。

 だから此処しばらくのロイエンタールは、拠点であるドールからなるべく離れないように努め、デリングシティの各経営に関しては、数字の上から指示を出すようにしていた。
裏社会との繋がりは切れてはおらず、これまでの働きの報酬と、“顧問料”としての金額を渡している。
用は過去から今現在を含めての口止め料だ。
その支出は面倒なものではあるが、現在、ロイエンタールと繋がりのある一派が凋落するまでは、必要経費と見做すしかないだろう。

 そういう訳で、出来るだけ裏社会との繋がりを探られないよう、ドールに腰を据えていたロイエンタールであったが、デリングシティで開かれる今回のパーティには出席せざるを得なかった。
主催者がガルバディア政府の高官であり、“魔女戦争”の戦後処理と言える諸々が終わった暁には、次期大統領として出馬するつもりなのだとか。
長い人生で懇意にあった事も確かな人物であったし、直接に招待状を寄越されては、無視する訳にもいかない。

 “魔女戦争”の終結以降、何かと慌ただしいガルバディアであるが、それでも大陸一の規模を誇る大国である事は変わらない。
今後はどうなるにせよ、今現在は、その座を他国に譲ることもないだろう。
デリングシティの街も久しぶりに訪れたが、相変わらず高層ビルの主張が激しい大都市であった。
その中心地にある大ホールで催されたパーティは、これもまたデリングシティに似合いの、中々に華やかで煌びやかなものだ。

 頼まれていたゲストのスピーチも終えて、ロイエンタールはやれやれと息を吐く。
これで今日、公人としてするべき仕事は終わった。
あとはダンスタイムが設けられていると聞いているが、踊りは昔から得意ではない。
若いうちはそれでも女を誘ってステップを踏まねばならなかったが、もう良い歳だ。
特定のパートナーを連れている訳でもなかったし、適当な所に腰かけていても問題あるまい。

 とは言え、このままパーティの終了まで、ただただ眺めているだけと言うのも退屈だ。
美味そうなつまみ(ヽヽヽ) でも見付けて、邪魔の入らない場所でゆっくりと味わえないものかと、白ワインの入ったグラスを片手に、他の参加者と腹の探り合いをしていた時。

 ───どん、と背中に何かがぶつかって、持っていたワインが少し零れた。
上等なタキシードの胸元に僅かに飛沫がかかり、ああ、と向かいで話をしていた男が声を上げる。


「ロイエンタールさん、大丈夫ですか」
「ええ、問題ありません。少し零れただけですから。それよりも───」


 心配する顔見知り達を宥めながら、ロイエンタールは背中に寄り掛かっている重みを見遣った。
其処には、濃茶色の髪をした女性が立っていた。

 女は縋るようにロイエンタールの背中に身を寄せている。
さて知り合いか、名も知らぬ女が粉でもかけにきたかと考えていると、蒼灰色の宝玉が此方を見た。
憂いと、微かに雫を孕んでいるようにも見える、澄んだ海の底を彷彿とさせる深いブルー。
それが何処かとろんと蕩けたように、ロイエンタールを見詰めている。


「ああ……失礼しました」


 女性の声は少し掠れているように聞こえた。
聊か不自然な音の響き方はあったが、その足元が覚束ないステップを踏むのを見て、成程酔っているなと悟る。

 女性はロイエンタールの背に触れていた手を離す。
すると、ふらりとまた細い身体が揺れるものだから、ロイエンタールは反射的にその腰に腕を回して支えた。


「おやおや。大丈夫かな、レディ」


 長年、社交界で積み重ねて来た経験を活かし、丁寧な手付きで女性の体を支える。
しかし女性の方は、体に上手く力が入らないようで、くてんとしどけなくロイエンタールにしな垂れかかっていた。

 と、人ごみの向こうから、小太りの中年紳士がやって来る。


「ああ、そんな所に。ロイエンタールさん、これは失礼しました」


 じんわりと汗を掻いた額をハンカチで拭う男を、ロイエンタールは見覚えていなかった。
名前も顔も一方的に知られているのは珍しくなかった。
ひょっとしたら、何処かで逢ったのかも知れないが、少なくとも、はっきりと思い出せる程の琴線はない。

 ロイエンタールは無難に、名前を呼ぶのは避けておいて、先ずは腕に捕まえた女性について尋ねてみる。


「いや、構いませんよ。彼女は貴方のパートナーですか?」
「いえ、ああ、いや───ええ、そうなんです。少し離れた筋の姪っ子に当たりましてね、今回は社会勉強をさせてあげようと。ですが、ちょっと目を離した隙に、アルコールで目を回してしまったようで」


 男の言葉に、ロイエンタールも納得する。
千鳥足とまでは言わないが、覚束ない足取りや、力を失った体、首元まで火照った肌など、酒に目を回していると言われれば納得できる。

 女性はロイエンタールに抱き着くようにして身を寄せていた。
体に力が入らないから、転ばないようにしがみついているのだろう、とロイエンタールは思ったのだが、


「さ、さあ、ロイエンタールさんに迷惑をかけてはいけない。向こうのバルコニーにでも行って、ちょっと風に当たろうか」


 そう言って手を差し出す男を、女性はちらりと見たが、すぐについとそっぽを向いた。
ロイエンタールの体に縋る手に力が籠り、零したワインで胸元が濡れているのも構わず、身を押し付けてくる。
柔らかな感触がロイエンタールの胸に押し付けられ、肩口に押し付けられた鼻先が、ロイエンタールのワイシャツの隙間から覗く首を擽っていた。

 男はなんとか女性を手元に引き戻そうとしているが、女性は全く聞こうとしない。
それ所か、蒼の瞳がちらと男を見遣る時、明らかに嫌悪が滲んでいるのが見て取れた。
そして、ロイエンタールを見上げる時、その赤らんだ眦には、薄らとした雫が浮かび、


(たすけて)


 女性は口を動かして、音にせずにそう言った。

 ロイエンタールは、縋る女性と、それに縋るように声をかけている男を交互に見て、


(唾をつけようとして逃げられた、そんな所か)


 男は、女性のことを姪だ等と言ったが、似ても似つかない容姿は勿論のこと、名前のひとつも呼ぶ様子がない。
パートナーでなくとも、身内であると言うのなら、愛称のひとつくらい呼んでも可笑しくはないだろうに。
つまり、男はこの女性の名前を知らないのだ。

 ロイエンタールは、寄りかかる女性の腰に腕を回した。
さりげなくもしっかりと捕まえると、女性がぱちりと目を丸くする。
化粧の色味と、醸し出す雰囲気から妙齢かと思っていたが、よくよく見ると顔の輪郭はまだ幼さが残っている。
ひょっとしたら、保護者同伴の年齢を脱していない“少女”なのかも知れない。

 そんな彼女の肩を抱くように支えながら、ロイエンタールは中年紳士を見て言った。


「お酒に当てられてしまったのだな。それじゃあ、私が彼女を休める場所まで連れて行こう。どうやら伯父さんよりも、私の方が頼られているようだ」
「い、いや、そんなことは。貴方の手を煩わさせる訳にも」
「問題ないよ。レディが助けを求めてきてくれたのだ、答えなくては失礼というもの。少し休ませたら、後できちんと、貴方の元までお送りしますよ」


 だからさっさと諦めろ、とロイエンタールの目が冷ややかに中年紳士を見る。
嘘がばれていることを彼が悟ったかは判らないが、獲物を横取りされたのは明らかで、且つ取り戻すことも出来ないのは理解したのだろう。
男はすごすごと、恨めしそうな眼をしながら、人込みの中へと戻って行った。

 さて、とロイエンタールは寄り掛かったままの女性を見る。


「では、次は君だね。お酒に酔ってしまったのなら、何処かで休んだ方が良い」
「……」
「此処は少々賑やかだ。静かな場所の方が良いかな?」


 ロイエンタールが静かな声で言うと、女性は少し迷うように沈黙した後、小さく頷いた。

 縋る女性の手を、自身の腕に絡めて捕まるようにと誘導する。
グローブに包まれた手が、存外としっかりとした力で捕まったのを感じながら、ロイエンタールは女性を連れて大ホールを後にした。

 シャンデリアが輝く大ホールに比べると、廊下はシンプルな造りをしているように見えるが、床に敷かれた絨毯や、窓辺を飾るランプなどは、やはりガルバディアらしく豪奢だ。
其処でささやかな立ち話をしている人々の隙間を縫うように、スタッフも忙しく歩き回っている。


(さて、ゆっくりと休める場所は────)


 手近な場所であるだろうかと、適当に辺りを見回していると、ふ、とグローブの手が頬に触れた。
寄る年波で皺の刻まれた顔を、女の手がゆっくりと滑って行き、蓄えられた豊かな口髭をふさりと撫でる。
戯れめいたその仕草に、ロイエンタールは酔いがいよいよ回っているのだろうと、寄りかかる女性を見遣った。


「何かな」
「……」
「髭が珍しいかい?」


 冗談めかして言うと、女性はその言葉を肯定するように、指先で口髭を遊ばせている。
酔った人間の行動に意味なんてないものだ。
そう思いつつ、見目の良い女にこうして戯れに触れられるのは、悪い気はしなかった。

 と、その戯れの指先が、つ、とロイエンタールの唇に触れる。
肌ざわりの良い上質なグローブの指先が、下唇の膨らみをすりすりと摩るものだから、ロイエンタールは意識して意地の悪い顔をして見せる。


「お嬢さん、それはお誘いかな?」
「……?」


 ロイエンタールの言葉に、ことん、と女性の首が傾げられる。
やはりただの戯れか、とロイエンタールは思ったが、女性は男の唇に触れていたその指先を、自分の口元へと持ってゆく。

 艶やかな色をした小さな唇に、女性自身の指が触れる。
ちゅ、とごくごく小さな音を鳴らしたリップに、ロイエンタールはその意味を読み取った。
深く澄んだ蒼の瞳に、薄らと熱が燈っているようにも見えるのが、尚更それを見る男を誘おうとしているように見える。

 ロイエンタールは、女性が千鳥足に転ばないように支えるのみにとどめて手に力を込めた。
腰をぐっと抱き寄せられて、二人の体の距離がなくなり、お互いの腰骨が当たる。


「叔父さんをダシにでもしたのかな。悪い子だ」


 あの中年紳士が、この女性の本当の身内等とは思っていなかったが、此方も戯れの気持ちでそう言った。
女性は「なんの話?」とばかりに首を傾げたが、


「────」


 とん、と女性の手がロイエンタールの胸を押した。
腕に絡みついていた女性の手も離れ、自由になった手がひらりと踊る。

 女性はふらついた足取りで、不規則なステップを踏むように廊下を歩いて行く。
幾らか進むとちらと此方を振り返り、蒼の双眸が柔く細められてロイエンタールを見た。
ロイエンタールは、それを彼女からの誘いと受け取った。

 何処の馬の骨とも知れぬ女と遊ぶと言うのは、独身と言えど、それなりの地位と権力を持つ者にとっては、火遊びのようなものだ。
ハニートラップと言うのはいつの時代、何処の世界でもあるもので、うっかり寝た女に身包みを剥がされて、名誉も財産も失うと言うのは珍しい話ではない。
身につまされる話は幾らでも聞いていた。
だが、時代が変遷して尚このやり方が漫然と通用してしまう位には、男も女も、生物の本能と言う軛から逃れられずにいるのだろう。

 しかしながら、こんな時にしか味わえない旨味と言うのも、確かにある。
既婚者ならば許されないような油断も、妻子を持たないロイエンタールにとっては、気にする必要もない。
そんな慢心の裏には、多少吹っ掛けられる程度の手切れ金なら安いもの、と言う意識もあった。
実際にそうやって、一晩限りの甘い夜に酔い痴れたのは、一度や二度ではないのだ。
年齢を考えれば落ち着いても良さそうなものだが、その点、ロイエンタールはまだまだ現役であった。

 離れてはロイエンタールが近付くのを待ち、近付けばまた逃げるように離れていく女性。
マーメイドドレスの裾がふわふわと翻って、ヒールを履いたすっきりとした足元が気まぐれに覗く。
肩に羽織ったストールもふわりと浮かび、その下に隠れていた、大胆に晒された背中も見え隠れしては男の目を誘った。


「あまりホールを離れると、伯父さんが心配するんじゃないのかい」


 ロイエンタールはそんなことを言ってみたが、心にも思っていない。
前を歩く女性を追う男の足取りは、随分と悠長な追いかけっこを楽しんでいた。

 女性の足が階段を上がって行く。
足取りはアルコールの作用もあってか、相変わらず危なっかしく、うっかり転んでしまいそうだったが、結局は何事もなく一番上まで登り切った。
ロイエンタールもそれを追って二階へ上がり、階段横の欄干に寄り掛かっていた女を捕まえる。


「さあ、捕まえたぞ」


 しっかりと強い力で腕の中に閉じ込めると、女性は身を捩って其処から逃げようと試みる。
しかし、本気で暴れていると言う程のものでもなく、やはり戯れの域を出ない。

 ロイエンタールは確信した。
目的が何であるにせよ、この女は自分を誘っている。
この細くしなやかな肢体を差し出し、一晩の甘い甘い夢をねだっている。

 ロイエンタールが女を抱く腕を解くと、彼女はととっと踏鞴を踏みながら、すぐ横にあった部屋の扉に寄り掛かる。
ドアノブに手を引っかけながら、女は濡れた瞳で、目の前にいる男を見た。
ノブがキィ、と小さな音を立てて、ドアの隙間が作られる。
その隙間にするりと滑りこんでいった女を追って、ロイエンタールもドアを開けた。

 パーティが開かれている一階フロアと違い、二階フロアは静かなものだ。
個室が幾つも並んでおり、大荷物の令嬢だとか、パーティの主催だとかがバックヤードとして使う事もあるのだろうが、入ったこの部屋は使われていないようだ。
使う者がいないとは言え、鍵も開けっ放しとは不用心なものだが、ロイエンタールにはどうでも良い。
特に、これから始まる秘蜜の宴を思えば、都合の良いことであった。

 部屋の中には、テーブルとイスが一セット、クローゼットが一台、そして布張りのソファと、ベッドがある。
これもまた、お誂え向きの調度品が揃っていた。


「逃げ場はなくなったよ。それとも、窓から飛んでみるかい?お転婆さん」


 ロイエンタールは、こっそりとドアに鍵をかけながら、部屋の奥で佇んでいる女性にそう声をかけると、蒼の瞳がゆっくりと此方へ振り返った。


「……」


 きょろ、と女性は部屋を見回す。
逃げ場を探している、と言う程の必死さはなく、行き場がなくなったことを確認しているようだった。

 ロイエンタールは、そんな彼女の腕を掴むと、傍にあったベッドへと押し倒す。


「っ」
「案外楽しい追いかけっこだったよ」
「……」
「此処から先は、私が楽しませてあげるとしよう」


 そう言ってネクタイを緩めるロイエンタールの目は、年齢に似つかわしくない程ぎらついて、欲の高ぶりを隠しもしない。
ベッドに沈んだ体が、それまでの戯れとは裏腹に冷ややかに見上げる青灰色の瞳が、どんなに淫らに乱れるのかを想像しながら、男は一匹の獣の本性を剥き出しにしていった。



 パートナーに張られた頬を赤くしながら、サイファーは先ずは二階フロアへと上がった。
指定された部屋のドアを押してみると、案の定、其処には鍵がかかっていたので、ジャケットの二重ポケットの下に仕込んでおいた針金でロックを外す。
部屋の中が無人であること、監視カメラの類がないことを確認して、ついでに物騒な代物がないことも確かめた。
下手に掴めるようなものが部屋にあるのは、ターゲットの反撃の手を増やすことにも成りかねない。
秘密裏に任務を済ませる為にも、厄介の可能性があるものは、出来るだけ排除して置くのが無難だ。

 必要な準備を終えて部屋を出たサイファーは、一旦大ホールへと戻った。
先に其処にいた筈のパートナーの姿を探してみると、ターゲットであるロイエンタール氏に寄り掛かっているのを見付ける。
近くに何やら手ぶりで話す、見覚えのある小太りの中年男性の姿がもあったが、あれは放っておいても問題ないだろう。

 視線だけでターゲットの動きを随時確認しながら、サイファーはボーイの運んできたグラスを受け取った。
これから始まることを思えばアルコールはこれ以上入れない方が良いが、無手のままで棒立ちしていると言うのも目立つものだ。
パートナーは忙しい所だし、いっそ壁の花でもしてやるかと思っていると、


「こんばんは、ミスター。初めまして」


 通りの良い、しかし聞いたことのない声だった。
作戦の真っ最中に赤の他人に声を掛けられるとは、面倒だな、と思いつつ、この場限りのマナーで無難な表情を張り付けて振り返る。


「初めまして、マダム。綺麗なイヤリングをお召ですね」
「ありがとう、お気に入りなのよ」


 知らない人間が相手だと、無難にアクセサリーを褒めてやれば、ブロンド髪の女性はにこりと微笑む。

 人好きの良い笑顔を浮かべた女性は、見た限りではガーデンでよく見る教師と同じ年の頃───三十代半ば、と言った所か───で、やはり見覚えはなかった。
華やかなスパンコールをふんだんに使ったドレスは、このガルバディアの夜によく似合うのだろう。
サイファーには聊か、眩しい位で目に痛かったが。

 女性は右手に持ったカクテルグラスを揺らしながら言った。


「不愉快にさせたらごめんなさい。さっき、バルコニーで貴方がお連れさんと話をしている所を見てしまったの」


 眉尻を下げて言った女性に、ああ、とサイファーは苦笑する。
あの時遠慮なく張られた頬は、もう痛みもなかったが、ひょっとするとまだ赤みが残っているかも知れない。


「お見苦しい所を見せたようで。失礼しました」
「ふふ、良いのよ。お陰でこんなに良い男がフリーになってるんだもの」


 心にもなく詫びて見せるサイファーに、女性は悪びれる様子もなく言った。
堂々と狙いに来たと言わんばかりのその言葉に、大胆と言うか豪胆と言うか、とサイファーは肩を竦める。


「素敵な女性にお声がけ頂いて恐縮ですが、生憎、パートナーが大変やきもち焼きな性分でして。でも、お話くらいなら大丈夫ですよ」


 今は余計な面倒に時間と労力を割きたくないと、サイファーは先んじて牽制した。
女は拗ねたように唇を尖らせつつ、


「若いのに身持ちが固いのね。誠実な人は好きよ。でも、ひょっとしてちょっとワガママなくらいの方が貴方の好みになれるのかしら」
「さあ、どうですかね」


 あれをワガママの範疇で納めて良いものか。
女の戯れの言葉に、サイファーは脳裏に浮かぶ恋人の日々の様子を思い出しながら、また苦笑した。


「パートナーの子は、随分怒っていたようだったけれど、探しに行かなくても良いのかしら?」
「お互い、少し頭を冷やしてからの方が良いかと思って。目を離さないようにはしていますよ」
「さっきから私の方を碌に見てくれないのは、その所為なのね」
「これは失礼」


 女性の言う通り、確かに、碌に視線を合わせてはいなかった。
今のサイファーにとって重要なのは、作戦の進行状況であり、目標ターゲットの動きだ。
他のことは、明らかな不自然にならない程度に、意図的に意識から外している。

 そんなサイファーの視線の動きをしっかりと見抜いた女性に、女ってのは怖い、とこっそりと独り言ちる。
養い親にしろ、幼馴染の面々にしろ、急に核心を突いて来るのだから。

 それでも変わらず、ターゲットがいる方へと視線を向けたままのサイファーに、女性はグラスを持つサイファーの手を柔く撫でながら、


「貴方みたいな良い男に、そんなに熱烈に見詰められるなんて、連れの子が羨ましいわ」


 サイファーが見ているのはターゲットであって、パートナー役であるスコールではないのだが、そんなことは傍目には知らぬ話だ。


「ねえ、ほんの少しで良いから、こっちを見て貰えないかしら。この後、ダンスタイムがあるでしょう。一曲いかが?」
「それは大変、魅力的な誘いではあるのですが」


 女性の方からダンスの誘いとは、中々に大胆で、男はそれを上手く立てるスマートさが求められる所だろう。
女性に恥をかかせない為にも、誘われたならば、応じるのも紳士のマナーのひとつと言える。

 だが、サイファーの視界の端で、動きがあった。
壁に寄り掛かっていた物騒な気配が、壁沿いを沿ってホールの出入り口へと移動している。
その眼が見ている方向へ、サイファーも目を向けてみれば、予想した通り、件の人物がマーメイドドレスの女性と寄り添ってホールを出ていくのが見えた。

 サイファーはグラスを持っていた手を退き、右手で女性の手を取った。
普段は専ら無骨な鉄を握っている、大きく節のある手が、女性の滑らかな手を努めて優しく柔らかく握り、


「生憎、長居できない事情があるもので───今宵はこれにて失礼させて頂きます、マドモアゼル」


 そう言って、手の甲に触れるか触れないか、唇を寄せる。
そしてするりと手を離すと、サイファーは背中を真っ直ぐに伸ばして踵を返した。
その柔く微笑んだ翠の瞳に、囚われることになった女の顔など知らぬままに。

 行き交うパーティ客の隙間を縫うように、サイファーはホールを出た。


(此処からは迅速に、だ)


 ターゲットと一緒にホールを出たのは、間違いなくスコールだ。
天井からくまなく監視されている大ホールから、無事にターゲットを連れて脱出し、打ち合わせ通り、二階の個室に向かう算段だろう。
其処からは少しばかり時間稼ぎをして貰って、ターゲット引き渡しの為に建物の外で待機している筈のガルバディア兵を呼び込む為、庭の警備の目を誤魔化さなくてはならない。

 が、その前に、サイファーの仕事はもうひとつ。
スコールに誘われながら階段を上って行ったターゲットを追っている人影がある。
恐らく、ターゲットであるロイエンタール氏が私的に雇い、今回のパーティに連れて来た護衛の用心棒だろう。
用心深いと言う事前情報の通り、自分の身に何かあればすぐに護衛が来れるように言いつけてあるのだ。


(それにしちゃ、雑な警備だがな。後ろを全く気にしてない)


 用心棒と思しき男は、見た目は小奇麗にしているが、スーツの下に頑健な体格が浮き出ている。
しかし、やはり軍人や警察機構の人間と違い、正規の訓練を受けていないからだろうか。
それとも余程に腕に自信があるのか、男は前を行く護衛対象ばかりに気を取られているようで、距離を空けて後ろを追うサイファーには気付いていない。

 二階へ向かったターゲットを追って、護衛の男も階段を上がるのを確認して、サイファーは追う足を速める。

 階段回りから既に人の気配は少なかったが、何処で誰が見ているのかは判らない。
サイファーはごく自然な歩調で階段を上った。
そろそろ息苦しさに面倒になってきたネクタイの結び目を指先で緩めながら、辺りを見回してみると、護衛と思しき男が退屈そうに壁に寄り掛かっているのを見付ける。

 同じくして、男もサイファーを見付け、太い眉が分かり易く顰められた。
怪しんでいる。
人気のない二階に、目的もなく上がって来る訳もないから、当然の反応だ。

 サイファーは「失礼」と断りを入れて、


「こっちで女性を一人、見なかったか。会場でパートナーと逸れてしまって、探しているんだ。方向音痴なものだから、とんでもない所に行くことがあって困ってる」


 参っているんだ、とばかりに髪をくしゃりと掻き乱してやると、護衛の男は傍のドアをちらりと見た。
其処にターゲットと一緒に“女”が一人いるのだろう。
しかし、雇い主が何の為にそんな所にしけ込んだのか重々判っている男は、


「さあね。どんな女だい」
「良い女だ。我儘も多いけど」
「中身の話じゃねえ、見た目だよ」
「茶髪に青目だ」
「そんなもん、幾らでもいるだろ。ともかく、こっちには誰も来てないぜ」
「そうか」


 しっしっ、と男の手がサイファーを追い払う仕草をする。
だが、サイファーは構わずにつかつかと男に近付いた。

 男は、自分が明らかに無頼漢然とした容姿であることを判っているのだろう。
髪を整え、濃くて固い無精髭も剃り、綺麗なスーツに身を包んだ所で、身から出る錆まで一朝一夕で消えはしない。
こびりついたものである程、それはどんなに姿格好を整えた所で、素人であろうと感じ取るものだ。

 それにも関わらず、真っ直ぐに近付いて来るサイファーに、男も決して愚鈍ではなかった。
スーツの下に忍ばせた重い鉄の塊に手を伸ばし、下手な動きがあれば直ぐに撃ってやろうと、荒事に慣れ過ぎた男が考えた直後、サイファーの手が素早く男の喉を鷲掴んだ。


「ごっ……っ!」


 喉輪を取られた瞬間、呼吸器官を塞がれる衝撃に上がりかけた声は、続けざまに伸びて来た手で塞がれた。
更に腹に膝がめり込み、背後の壁に背中を押し付けられ、逃げ場を失った衝撃が内臓にダイレクトに響き、


「サイレス。スリプル」


 唱えた魔法は、抵抗力を持たない人間の体を、あっという間に侵食する。
SeeDならジャンクションでそれを退ける方法を持つが、それは決して一般的なことではない。
軍属のガルバディアの兵士とて、訓練によってある程度の耐性を養うのが精々で、精神干渉系の魔法への対抗手段と言うのは、非常に限定されたものしかない。
どんなに暴力に慣れた荒くれ者でも、この垣根は簡単に越えられるものではなく、案の定、目の前の男もあっという間に意識を手放すに至った。

 壁伝いにずるりと座り込み、ぐうぐうと寝息を立て始めた男は、身長体重はサイファーのそれと大して変わりはなさそうだった。
これを抱えて移動するのは手間だ。
サイファーは周囲に変わらず人の気配がないことを確認すると、男の足を引きずって、近くにあったトイレへと運び込んだ。

 一番奥の個室トイレに座らせると、男が着ている服を脱がし、手足を拘束して置く。
ポケットには適当に折ったハンカチがあったので、それで猿轡をしておいた。
サイレスが効いている内は必要ないことだが、魔法への耐性と言うのは個人差もあるから、いつ目が覚めて声を取り戻すかも判らない。
出来るだけ長い間、此処に留まっていて貰う為の措置だ。

 仕事をしている間に、かちゃん、と言う小さな音が聞こえた。
サイファーが足元を見ると、使いこまれたヴィンテージ風の凝った衣装が彫られたライターが落ちている。
男の私物なのだろう。


「羽振りの良いことで。ま、それも此処までだろうな」


 呟いて、サイファーはライターを自分のスラックスのポケットに入れる。
ついで、これがあるなら多分、ともう少し男の持ち物を探ってみると、思った通り、煙草も見つかった。

 必要な道具を揃えて、サイファーは個室トイレの鍵をかける。
自身は便器のタンクに足をかけ、ドア上部の隙間から外へと脱出した。

 サイファーは、ターゲットがいる部屋から離れ、建物の構造として反対側になる場所へと向かう。
長く伸びた廊下を真っ直ぐに進むと、程なく突き当たりに行き付いた。
其処には採光の為に設けられていると思しき、細長い小窓が二枚ある。
幅が三十センチもない片開きのそれは、開けた所で人が通るには余りに狭いこと、二階と言う高さもあってか、セキュリティの類は設置されていない。


(……位置からして、この辺りだな)


 間取り図を頭の中で巡らせながら、サイファーは煙草とライターを取り出した。
煙草の中身は一本のみだが、これだけあれば目的は十分果たせる。

 サイファーは煙草を口に咥え、ライターの火をつける。
ジジ、と揺れた炎で煙草の先端に火が付くと、サイファーは直ぐに煙草を口から離した。
微かに口の中に入った煙を吐き出して、煙草の火が直ぐに消えてしまわないことを確認すると、窓を開けてその隙間から下へと落とす。
ゆらりと一本の紫煙を燻らせながら、煙草は夜の深みの奥へと消えていった。


(……これだけだと時間がかかるだろうな)


 サイファーは、空になった煙草のパッケージを見る。
これの持ち主がもっと洒落た人間なら、細工の良いシガレットケースでも使っていたかも知れないが、幸いにも何処にでもある紙製の煙草箱だ。
サイファーはそれを適当に分解すると、ぶちぶちと千切って小さく割き、束にしてライターの火に当てた。

 じりじりと炙られた紙が黒く焦げ付きを広げて行き、オレンジ色の灯が燈る。
サイファーはそれを窓の外へとばらまき投げた。
人が集まることを想定していない場所には、街灯になるようなものもなく、庭は暗く闇色に閉ざされている。
其処にひらひらと舞い散っていく灯たちは、整えられた庭の草木を燃料にして、程なく煙を上げるだろう。


(さて。後は────)


 窓の下でちらちらと揺れるオレンジ色の粒を確認して、サイファーの意識は次へ。
残る仕事は、ボヤ騒ぎに紛れてガルバディア兵が侵入して来るまで、ターゲットを秘密裏に確保し続けることだ。

 サイファーは廊下を戻り、階段横の部屋の前へ。
ドアノブに手をかけてみると、予想通り、鍵がかかっていたが、一度は開けた鍵である。
サイファーは一回目の半分の時間でロックを外すと、蝶番の音すら鳴らないように、努めて静かにドアを開けた。



 興奮しきった男に伸し掛かられると言うのは、存外と悍ましいことなのだと、スコールは初めて知った。
相手が多少なりと好意を持っている者なら、恐らく印象は変わるのだろうが、なんとも思っていない異性が相手だと、こうも気持ちが悪いとは。
今すぐにでも伸し掛かる腹を蹴り上げてやりたい所だが、もうしばらく時間稼ぎは必要だ。

 資産家で豪商のロイエンタールが、それだけの富と名声を得ていながら、未だ妻子を持たずにいることについては、色々と噂があるらしい。
ロマンチックなもので言えば、古くに亡くした恋人を今も想い続けているだとか、昔から結ばれない恋を続けているとか。
だったら好色家の謂れはどうするんだ、とスコールは思うが、何にせよ根も葉もない噂でしかなく、未だに当人が独身を貫いていることもあって、噂好き詮索好きには丁度良い話題なのだろう。

 こうして伸し掛かられているスコールとしては、ロマンチックな話はまるで夢物語の幻想で、ただのスケベ親父なんだろうな、と思う。
裾を広げたドレスの上から、コルセットで締め付けた腰骨を撫でる手は、如何にも女慣れしたものだった。
肝心な所には触れる事はなく、腰や腹、太腿などを柔く撫でていくばかりで、焦らしているよう。
恐らくは、此処まで誘ってきたスコールに、更にもう一押しのおねだりを要求しているのだろう。


(絶対嫌だ)


 スコールの本音はその一言に尽きる。
しかし、状況はそうも言ってはいられない。
何せこれは任務がかかっていて、迫る男を引き留める為にも、必要な作戦なのだ。

 変声期を終えたスコールの喉では、どう頑張っても女のような高い声は出ないから、言葉は極力封じることになる。
代わりに腕を伸ばして男の首に絡めると、男はうんうんと嬉しそうな笑みを浮かべて、スコールの首元に唇を寄せた。


「……っ…」


 生温いものが喉を擽る。
チョーカーで喉仏を隠しているとは言っても、こうまで接近すれば、流石にその凹凸も目につくのではないだろうか。
追及されるまでは自らそれに触れはすまいと、スコールはロイエンタールの齎す愛撫に身を委ねるよう、自分自身に言い聞かせる。

 ドレスの上から体を撫で回していた男の手が、するりと胸元へと伸びる。
が、スコールはその手をやんわりと捕まえると、自分の頬へと持って行った。


「焦らしているのかい?それとも、甘えているのかな」


 胸への愛撫を嫌ったようにも見える、スコールの仕草。
それも無理もないことで、其処にあるのは偽物の膨らみである。
体型に合わせてそれ程大きなものを入れている訳ではないが、直に触ればやはり気付かれるだろう。
それを避けてのスコールの行動に、ロイエンタールは別の思惑を想像したらしく、


「順序を重視するタイプかな?なら、君に合わせてあげよう」


 ロイエンタールはにやりと笑うと、指先でスコールの顎を捉えた。
逃がすまいと固定するその指の力に、スコールは唇を真一文字に噤んで、迫って来る顔への嫌悪感を耐える。

 唇が押し重ねられ、厚みのある舌がスコールの唇を舐る。
慣れた様子で唇をしゃぶられて、スコールの背中で肌が粟立つ。
反射的に振り上げたくなる拳や、蹴り上げようとする脚を堪え、シーツの波を作るスコールを、ロイエンタールはにやついた眼で見つめていた。

 たっぷりとスコールの唇を味わってから、ロイエンタールはまた細い体に手を這わせ始める。


「誘ったかと思えば、初心な顔をする。君はよく判らない子だな。不思議な女性と言うのは、なんとも、興味をそそられる。……君が一番感じるのは、何処だろうね」


 耳元で囁かれる度に、耳朶に口髭が擽る。
それをスコールが嫌って首を揺らせば、覆いかぶさる男には、初心な少女が感じ入っているようにも見えた。
実際の所は、


(気持ち悪い。鬱陶しい。暑苦しい)


 スコールの胸中はそんな言葉で占められており、とてもこれから甘い時間を過ごせるようなものではない。
男はそんな事は露とも知らず、スコールの仕草を殊更に行為を焦らしているものと見て、楽しんでいる節があった。

 ロイエンタールの手が、スコールのドレスの裾の中へと滑りこんでいく。
淑やかなマーメイドドレスで隠されていた下肢は、華奢かと思いきや、存外としっかりと逞しい肉付きの感触があった。
何かスポーツでもしているのか、例えばガルバディアガーデンではアイスホッケーが盛んであると聞く。
と言う事は、やはり“少女”であったか、とそれはそれで滅多に味わえない代物にありつけたことに、舌なめずりもしようと言うもの。

 ロイエンタールの手が、更に際どい場所へと昇って行く。
スコールはその気配を感じながら、ゆるりと足を開いて見せた。
それはほんの少しの仕草ではあったが、覆いかぶさる男が気付くには十分で、ぎらついた眼が伺うようにスコールの顔を見る。


「────……」


 スコールは相変わらず黙したまま、一言も喋らない。
その代わりに、スコールの手がドレスの裾を掴み、ゆっくりと持ち上げていく。
ストッキングを履いた、すらりと長い脚がじわじわと男の目に晒されて行き、遂には太腿の上まで。

 大胆な行動に反し、スコールの視線は男から逸らされている。
赤らんだ顔で秘めた場所を差し出そうとする“少女”に、男は釘付けになっていた。

 だが、それも此処まで。
ロイエンタールの背後から伸びて来た腕が、その首をがしりと囲いロックしたかと思った瞬間、ぐっと呼吸軌道を塞いだ。


「!?」


 突然のことにロイエンタールが目を丸くし、咄嗟に護衛を呼ぶ為に口を開く。
が、今度は正面からそれを塞ぐ手があった。
見れば、ドレスの裾を大胆に開いたままの“少女”───スコールがロイエンタールの口を塞いでいる。
その目尻は先ほどまでの初心な様子とは打って変わり、蒼灰色の瞳は冷酷に、目的達成の手段を行使した。


「サイレス。ブライン。スリプル」


 唱えた魔法は、順にロイエンタールの体を侵食した。
声を失い、視界を奪われ、パニックに陥る暇もなく、強烈な睡魔に意識を飛ばされる。

 突然の背後からのヘッドロック状態に、焦りに抵抗していたロイエンタールの体が、ぐたりと力を失う。
そのまま五秒程度、男の体が再び動き出さないこと、完全に意識がなくなったのを確認して、その首を捉えていた腕はようやく離れた。


「楽しいダンスが踊れたか?マイ・ハニー」
「お陰様で刺激的な時間だったさ、マイ・ダーリン」


 口端を上げて笑うサイファーの言葉に、スコールは露骨に舌打ちしながら返した。
唇に未だに残る感触を、イブニンググローブに色が付くのも気にせず、ごしごしと手の甲で拭き取る。

 油断を誘う為、たくし上げていたドレスの裾をスコールが直している間に、サイファーはターゲットの上着を脱がせて、両腕を背中にまとめて縛り上げた。
ワイシャツのポケット、ネクタイの裏、ベルト回りにスラックス、靴も脱がせて、持ち物を全てチェックして取り上げる。


「こんなモンだな。あとはガ兵に任せるか」
「ああ。通信機」
「ほらよ」


 スコールの端的な指示に、サイファーはネクタイピンを外して投げる。
今回の潜入に辺り、ガルバディア兵にターゲット捕縛と回収の合図を送る為に用意されたものだ。

 スコールが窓の鍵を外して微かに開けると、外から人の話し声が聞こえてくる。
消火器を持って来い、と言う指示があった事から、サイファーが仕組んだボヤ騒ぎが上手く機能していることを確認する。
スコールは外の様子を逐次伺いながら、近辺で待機している筈のガルバディア兵に向けて、通信回線を開いた。