夢見た幸福はかたちを変えて
スコール誕生日記念(2024)


 ゆっくりと意識が浮上するのを感じていた。
閉じた瞼の向こうがとても眩く感じられて、目を開けるのが難しい。
ぼやけたような視界が段々と認識できるようになったけれど、それ以上にクリアにはならなかった。
まるで水の中で目を開けようとしている感覚に似ていたけれど、息苦しい訳ではなかったから、水の中にいる訳でもないらしい。

 妙に体が不自由だ、と思った。
体を動かそうとすると、頭で思うよりも全く腕が持ち上がらないし、目を擦る事も出来ない。
手指の握り開きは出来た……ような気がするが、それを視認する事は難しかった。
視界の靄はまだはっきりと明けておらず、まるで視力そのものが弱ってしまったかのようで、何か化学薬品でも被ってしまっただろうかと不安になった。
昨夜は何かあったか、と思い出そうとしても、混乱しているのだろう、どうにも頭の中は思考の紐が絡まり合ったようにごちゃついていて、眠る前のことがはっきりと思い出せない。

 その内に、言葉にならない声が聞こえ始めた。
ふやああ、ああああ、と殆ど母音しかない声だ。
それが随分と近くから聞こえてきて、定まらない視界の中で、益々困惑に意識を白黒とさせていると、


「はいはい、どうしたの。よいしょ」


 優しい春の風を思わせるような声が聞こえて、ぱたぱたと近付いて来る足音があった。
それから、ふわっと浮遊感に持ち上げられて、ゆらゆら揺れながらもしっかりとした支えに包み込まれる。


「お乳はさっき飲んだし、おむつも違うし────何かしら。寂しかった?」


 ぼんやりとしていた視界の中に、人の顔のようなものが段々と見えるようになって来る。
長い髪をヘアバンドで持ち上げて、綺麗な額と、飾り気のない自然な形をした眉が見える。
それからくっきりと見えたのは、深く澄んだ蒼灰色の瞳が、窓から差し込む光を受けてきらきらと輝いている様子だった。
すっきりとした高い鼻に、小さな唇は柔らかな弧を描き、仕方がなさそうに笑んでいるようにも見える。


「もう少し眠っていてくれるかなと思っていたんだけど。ちょっとお散歩に行く?」


 声には少しばかり疲れた色も滲んでいるけれど、かけられる声はずっと優しかった。

 よいしょ、と支え直す揺れの後、一定間隔の揺れと共に、景色が動いて行く。
いや、自分が移動しているのだと、ようやく視界が晴れてきて理解した。
立派な梁を一本通して、その向こうに木目板の天井があり、一角には天窓が設けられている。
薄いレースのカーテンがかけられた其処は微かに隙間を空けていて、滑り込んできた風がカーテンの裾をふわりふわりと躍らせていた。

 トン、トン、トン、とゆっくりとした足音が鳴っている。
天井が遠くなっていくのを見て、階段を下りているのだと理解した。

 揺れの感覚が変わると、また天井の景色が変わる。
規則的に格子を区切る木の梁の間で、吊るされたシンプルなランプが静かに佇んでいた。
ランプはまだ灯りは灯されていないが、辺りは明るい。
あけ放たれた窓の向こうでは、燦燦とした太陽の光が降り注ぎ、少しばかり暑そうなくらいに眩しかった。

 小さな声でメロディを口遊むのが聞こえてくる。
視界の半分を埋めている顔が、時折此方を見詰めながら、緩やかに唇を動かしていた。
それが何処か懐かしい歌だと気付いた頃に、キィイ、と古いものが軋んだような音を立てる。


「レイン、お花の水やり、終わったよ」


 聞こえて来たのは、鈴のような可愛らしい声だ。
此方を見ていた蒼灰色が逸らされて、何処かを見つめる。


「ありがとう。暑かったでしょ」
「ううん、平気。あっ!」


 ぱたぱたと駆け寄る音がして、ランプを吊るした天井が少し遠くなる。
傍にあったテーブルの裏側が見える、と思っていたら、ひょっこりと栗色の丸い瞳が現れた。
天使の輪を携えた黒髪に麦わら帽子をかぶり、興味津々の目がしげしげと覗き込んでくる。


「起きたの?お腹空いたの?」
「どうかな。ちょっと散歩に行こうと思ったんだけど、エルも行く?」
「行く!」


 そう言って、栗色の瞳の少女は、麦わら帽子をかぶり直した。
お出かけの準備をしておいで、と言われた少女が何処かに駆けて行くのを視界の端に見ながら、彼女の名前を悟る───エルオーネ、と。

 少女は、いくつも並んでいるテーブルのひとつに置いていた、花柄の水筒を取った。
駆けて戻って来ながら、水筒に取り付けられたベルトを肩にかけて、お出かけの準備を整える。

 その間に、此方もいそいそと物の準備は揃えられていた。
忙しない様子の揺れが続いた後に、「行くよ」「はーい!」と言う声が聞こえて、見える天井の景色が横へとスライドしていく。
木製の使い古された扉が開けられると、抜けるように遠く高い青空が其処にはあった。

 眩しい。
光が直接目に入った訳ではないけれど、天井を見つめていた時と違って、世界に光が溢れているような気がした。
うぅ、と唸る気持ちでいると、あうあうと覚束ない音のようなものが聞こえてきて、


「ほら、お外に出た。木陰をゆっくり行きましょうか」
「はーい。えへへ」


 たたっと少女が駆けていく。
無邪気なその背中を見て、頭の隅に何か浮かんだような気がするけれど、その形を上手く捕まえることは出来なかった。
ただなんとなく、走る後ろ姿を無性に追い駆けたくなったけれど、相変わらず体は思うように───と言うよりも、全く、ちっとも動かない。
この不自由さは、一体どういう訳なのだか。

 全く何も判らないし、混乱も困惑も晴れてはいないのだけれど、不思議と心の中は落ち着いていた。
安定した浮遊感と、規則正しい揺れと、視界の半分を常に埋めている、柔らかな表情を浮かべた人の貌。
背中を支える力は決して逞しいものではない筈なのに、どうしてか、身を委ねていて良いのだと思える。

 雲一つない青い空の中に、小さな鳥が飛んでいる。
降り注ぐ日差しに伴う熱線の感覚は、辺りに茂る木々の葉が遮り、柔らかな木漏れ日を作り出していた。
小高い丘の向こうから吹く風は、夏と言うにはそれ程暑くはなくて、秋と言うにはもう少し温かい。
夏と秋の間、季節が移り変わっていく丁度その隙間にいるようだ。
だから青空を飾るように茂る木の葉もまだまだ青く、若く瑞々しい色をしている。


「もうすぐひと月かぁ……」


 独り言なのだろう、小さな呟きが聞こえた。
声のした方を見ると、蒼灰色の瞳が此方を見ていて、にこりと笑う。


「あんなに小さかったのにね。……今も小さいけど、でも、大きくなった」


 良かった、とまた小さな呟きがあった。
それは祈りにも似て、願いにも似て、安堵も含んでいるように聞こえた。

 おーい、とよく通る声が響いて、蒼灰色が声の方を見る。
同じようにその方向へと視界が動いてみると、坂道の上、青々とした一本の木の下で、栗色がきらきらと輝きながら手を振っている。


「ここ気持ち良いよ!ここでおやつ食べようよ」


 無邪気な少女に誘われて、はいはい、と言う返事。
よいしょ、と支える力が一度整え直されて、緩やかな坂道を歩き出した。

 途切れる事のない青空を見ている内に、また折り重なる木の枝々が自然のレースカーテンを作る。
足元には可愛らしい猫のイラストが描かれたピクニックシートが敷かれ、少女は一足先に其処に座っていた。
待ちきれない様子だった少女に、大きくて白い手が伸ばされて、まるまるとした頬を撫でる。

 木陰に入ったのだからもう良いだろうと、少女は麦わら帽子を脱いで、持ってきていたトートバッグの中から、プラスチックの箱を取り出す。
ぱかりと蓋を開ければ、綺麗な焼き色のついたマフィンが二個。


「はい、レインの分」
「ありがとう」


 少女が口にしたその名を聞いて、あ、と思った。
ずっと、ぼうっとした心地で見上げていたその貌は、確かに見覚えのあるものだ。

 レイン、とその名を呼ぼうとするけれど、やはり音にはならなかった。
う、う、と耳に聞こえてくるのは母音のものばかりで、其処から先が出てこない。
上手く舌が動いていないような気がしたが、喉が痛い訳でもないから、反ってどうすれば良いのか判らなかった。

 戸惑いのままに、せめて体くらいは動いてくれないかと試行錯誤していると、


「おっとっと。なあに、暑いかな」


 そう言った後、柔らかな温もりがすっと遠退いた。
それまで安定した浮遊感の中にいたのに、背中がしっかりとした固さに触れて、重さの感覚と言うものを初めて感じ取る。
まるで宇宙から帰ってきた時のような違和感だ。

 またどういう訳だか、途端に不安な感覚が募ってきて、背中の固い感触が不快感を誘う。
それをどうにか払拭したくて手足を動かしてみるけれど、見上げる視界は青空を零す木漏れ日が見えるばかりで、寝返りすらも出来そうにない。
怪我のような痛みや、熱に膿んでいる感覚もないのに、体中の動かし方が判らなくなってしまったかのようだ。

 うぁ、ああん、あああん、と高い音が響く。
耳元で聞こえる大きなそれに、頭の中がわんわんと共鳴するように揺れているような気がした。
すると、細くて白い腕が伸びてきて、


「よいしょ。抱っこじゃなきゃ嫌?」


 また体が浮遊感に攫われる。
ぽん、ぽん、ぽん、と規則正しいリズムで背中を柔らかく叩く感触があって、ゆらゆらと優しい揺らぎが復活した。
耳元でとくん、とくん、とゆっくりと動く鼓動が聞こえ、それを聞いている内に、頭の中の不協和音めいた振動が静かに凪いで行く。

 ひっく、と喉が勝手にしゃっくりを上げて、視界はよく判らない形に溶けていた。
木漏れ日の葉の形もよく掴めないし、その隙間から降り注ぐ陽光は、まるで泡のように不安定な形をしている。


「どうしたの?いやなものあった?怖いの見付けた?大丈夫だよ、私とレインだけだよ」


 怖いものはいないよ、と少女の声が聞こえる。
小さな手が視界の端から伸びてきて、頬に触れるのが判った。
温かくて柔らかい手が、何度も頬を撫でて、だいじょうぶ、だいじょうぶと声がする。


「怖いことがあったらね、私が守ってあげるからね」
「あら、頼もしいわね、エル」
「うん。だって私、お姉ちゃんだもん」


 少女の言葉に、ふふ、と笑う気配が伝わってきた。
蒼灰色が眩しそうに細められて、此方を覗き込んでくる少女を見詰めて笑っている。
嬉しそうに、誇らしそうに。

 頬を撫でる小さな手は離れずに、ずっと其処を撫でていた。


「すべすべしてる」
「赤ちゃんの肌って綺麗よね。羨ましいな」
「レインの手もすべすべだよ」
「そう?なら良かった」
「おじちゃんの手は、いつもカサカサだったなあ」
「無頓着だったからね。皆の為に、パトロールもしてたし」
「また一緒にパトロールしたいなあ」
「危ないことはダメよ、エル」
「わかってる。でもこの子を守らなくちゃ。ぶんぶんとぶちゅぶちゅは、まだいっぱいいるんだもん」
「守るって言うのは、危ない事と戦うことだけじゃないのよ。色々方法はあるから、一緒に勉強しましょうね」
「うん」


 利発な返事を聞いて、蒼の瞳がほっと安堵する。

 少女は此方をじぃっと覗き込んでいた。
頬をくすぐっている手に向かって手を伸ばすと、視界に酷く小さな手が映る。
まるで子供を模した人形のような、指も短い小さな手だ。
少女がその手を指先でツンとつつくと、その指先を小さな手がきゅうっと捕まえた。


「あ」
「……ふふ」


 捕まった、と言いながら、少女はされるがままに指を与えている。
柔らかいその指を、小さな手指はきゅうう……と握って、決して話そうとはしなかった。


「どうしよう。おやつ食べれない」
「ほら、あーん」


 すっかり困った顔で言った少女に、くすくすと笑う気配と共に、マフィンが差し出される。
食べかけのそれに、少女は首だけを伸ばして、ぱくんと齧りつく。
おいしい、と言う少女の頬に、小さな食べかすがついていた。

 おやつの時間が終わると、少女はピクニックシートの上でころんころんと転がりながら、うららかな午後の一時を満喫する。
時々起き上がっては此方を覗き込んできて、いないないばあ、と顔を覆って隠しては現れる。
う、う、と拙い音が漏れる度に、少女は嬉しそうに笑っていた。


「えへへ。かわいい」
「そうね。可愛いわね」


 少女の拙くて真っ直ぐな言葉に、蒼灰色の瞳が緩やかに細められ、


「……早く見せたいな、ラグナに。こんなに可愛いんだもの」


 零れたように呟いたその言葉は、静かな木漏れ日の中で、透き通るように溶けていく。
それを聞いているのは、一人の少女と、腕に抱かれている存在だけ。

 少女はころんと寝返りをして俯せになって、じいっと此方を見詰めながら、


「ラグナおじちゃん、いつ帰ってくるのかなあ」
「……さあ……いつかなあ」
「明日かなあ」
「……どうかしらね」


 少女の言葉に、ブルーグレイの瞳が寂しげに揺れる。
整えられた眉がハの字になって、何処か諦めている気配が滲んでいた。

 それを見ていた少女が、弾んだ声をあげる。


「大丈夫だよ、レイン。おじちゃん、絶対帰ってくるよ。約束したもん」


 幼い言葉は何の根拠も持たないけれど、自信だけは確かにあった。
それは小さな子供特有の、経験の少なさから来る、証拠を必要としない自信でもあったし、そう信じていれば必ずその約束は果たされると願っているからでもあった。

 小さな少女の励ましに、蒼の瞳が眩しいものを見付けたように伏せられる。
大丈夫だよ、うん、大丈夫、と少女の声と柔らかな声が交互に聞こえた。
それを見詰めている内に、背中を支える腕に力が籠められるのが判って、柔らかな体温に身を寄せられる。


「……そう。そうね」
「おじちゃん、約束、守ってくれるよ」
「うん。エルと約束したものね。破ったら大変だもの」


 いつかの悲劇を思い出すわ、とくすくすと笑う声。
それを聞いた少女が、少し恥ずかしそうに頬を赤らめた。


「もうしないよ、あんなこと。ジャムが勿体ないもん」
「そうしてくれると助かるわ。しばらくジャムも足りなかったし、洗うのも大変だったしね」


 その言葉に、少女は赤い顔で、ぷうっと頬を膨らませる。
リスの頬袋のように膨らんだ少女のそれを、白い指がつんつんとつついて遊ぶのを見て、それを追うように小さな手も伸びた。
求めるものへ一所懸命に伸ばされる手を、栗色と蒼灰色が見付け、眩しそうに笑う。

 白い指に絡む手は、捕まえた手指とは比べ物にならない程に小さい。
こんなに小さな手があるのかと思う程に小さいのに、しっかりと握る力は強く、離すまいと懸命だった。
背を支えるものが少し揺れて、温かな鼓動と体温に包み込まれる。
温かくて、柔らかくて、良い匂いだと、何処か懐かしささえも感じられて、知らない筈なのに知っていると思った。

 木漏れ日の向こうで、小さな鳥の鳴き声が聞こえる。
心地良い風が何処からともなく流れて行って、丘の向こうにある花畑の匂いを運んできた。
太陽が枝葉の向こうできらきらと輝いているのが眩しくて、それから逃げるように視界が閉じられるけれど、それでもまだ明るい。
うう、と小さくむずがる声の後、光を遮るように、覗き込む瞳が二対。


「ねむたい?」
「そうかもね」
「おうた歌ってあげる」
「小さい声でお願いね」
「うん」


 少女はピクニックシートに頬杖をついて寝転んで、鈴のような声色で歌い始めた。
所々に調子はずれな音が混じるけれど、ゆっくりとしたリズムとメロディは、静かな木漏れ日の下で透き通るように意識の底へと沁み込んでいく。
この歌は、きっと何処かで聞いたことがあると、思い出せないけれど理解した。

 ゆら、ゆら、と体が揺れている。
波に揺られている時に、これと似た感覚があったような気がするけれど、匂いや温もりや、その奥から届く鼓動はそれにはなかった。
今、此処にだけ感じられるその気配が、ゆっくりと意識を心地の良い水面に揺蕩えて行く。

 歌声が段々と小さくなって、やがて止まる。
その時には、もう世界は柔らかな暗闇に覆われていて見えなかった。
耳だけが、最後の意識を残している。


「おじちゃん、早く帰ってくると良いねえ」
「そうね」
「帰ってきたら、おじちゃん、きっとびっくりするよ。だってさ、だって────」


 ……そこから先、少女が何を言ったのかは、よく聞こえなかった。