籠ノ鳥 1-4


 瞼の裏まで届く眩しさに、目が覚めた。
のろのろと瞼を持ち上げると、暗い天井が見えたが、網膜に感じる眩しさは変わらなかった。
窓の方へと視線を傾ければ、遮光性の高いカーテンが微かに隙間を開けていて、其処から太陽の光が真っ直ぐに此方を突き刺していたのだ。

 起きないと。
そう思いながら、スコールは陽光から体ごと目を背けた。
寝返りを打って、柔らかな枕に顔を埋めて丸くなる。
全身が重い倦怠感に包まれていて、起き上がる事さえスコールには困難だった。
どうして目覚めてしまったのだろう、と思う程だ。

 陽光の眩しさに背き、丸くなって目を閉じてしまえば、世界は再び暗闇に包まれる。
拭えない睡魔が手招きして、スコールは誘われるままにとろとろと二度寝に入ろうとしていた。

 しかし、枕元で携帯電話の音が響いて、眉根を寄せる。
演奏されるメロディはメールの着信に設定したものだったから、起きて操作をしなくても、直に音楽は止まるだろう。
そう思って放置していると、思った通り、音楽は五秒ほどで停止する。

 静かになった部屋の中で、スコールは再度睡魔に身を委ねようとしたが、二度目の着信音がそれを妨げた。
それも五秒で止まったが、更にもう一度音が鳴ったので、流石に辟易して目を開ける。
俯せになって枕に顎を埋め、ベッドヘッドを見ると、携帯電話の液晶画面がチカチカと光っていた。
渋々と言う表情でそれを手にし、スリープモードから起動させる。

 メールの送信元は、先着から順にティーダ、ジタン、ヴァンだった。
中身を確認する事に少々面倒臭さを感じつつも、早い内に変身をしなければ、後できっと煩くなるに違いない。
取り敢えず、最初にティーダからのメールを開く。


『スコール、風邪、大丈夫か? 寝冷えしたって聞いたけど。スコールって割と直ぐに体調崩すんだから、腹出して寝るとか駄目っスよ〜。
今日の授業で出された課題のメモとかプリントとかは、まとめてレオンに渡しといた。あと、貸すって言ってた漫画も一緒に渡してあるから。
早く治して学校来てよ。スコールがいないと、昼休憩も放課後もつまんないっスよ〜』

『風邪、大丈夫か? 皆でお前の顔見に行こうって行ったんだけど、寝てたみたいだからメールだけ送ろうって事になった。
ティーダが心配だ心配だって煩かったよ。本当にあいつってお前の事が好きなのな。ティーダもお前も普段ほとんど一人暮らしみたいなモンだし、そう言うのって風邪引いた時とか辛いもんだよな。まあ、今日はお前の兄貴がいたみたいだから、ちょっとはマシだったかも知れないけど。
ちゃんとしたもの食べて、暖かくして寝ろよ。お大事に』

『腹出して寝て風邪引いんだって、ティーダから聞いた。スコールは寒がりなんだから、ちゃんと服着ないと駄目だぞ。
今日は購買でパンが買えたから、スコールと一緒に食べようと思ってたのに、いないんだもんな。スコールの分は、スコールの兄ちゃんに渡した。レンジで温めて食うのがオススメな。美味いもの食べると早く元気になるから、パン食べて、明日は学校来いよ』


 何故腹を出して寝ていた事が決定事項になっているのだろう。
スコールは眉根を寄せつつ、三人が"スコールが風邪を引いている"と書いている事にも、顔を顰めた。

 全身の倦怠感はまだ消えていないが、風邪を引いた覚えはない。
それがどうして───と思ってから、スコールはメールの着信時間を見た。
ついさっき着信した其処には、午後6時と表示されていた。
学校はとっくの昔に就学時間を終えている時間だ。

 寝坊した、とか言う程度の問題ではない。
スコールは丸一日を眠り続けていたのだ。
どういう事だ、と跳ね起きたスコールの肩から、するりとシーツが滑り落ち、冷えた外気が露わになったスコールの肌を撫でた。


「っ……!?」


 寒さに身を震わせたスコールは、自分が裸身である事に気付いた。

 世の中には、裸でなければ眠れない、と言う人がいる。
就寝時は体を締め付けるものを一切捨てて、それこそ下着さえ履かずに床に就く者もいる。
しかし、スコールはそうではない。
今でこそ普通の生活を問題なく送る事が出来るスコールだが、幼年の頃は些細な事で直ぐに体調を崩し、病床に伏している事が多かった。
成長するにつれて免疫力も付いた為、幼い頃のように直ぐに熱を出したりする事はなくなったが、冷えや急激な温度変化には敏感だった。
スコールはそんな自分の体質を理解しているし、そもそも裸で寝る等と言う無防備な事が出来る性格でもなかったので、就寝時はいつもジャージなどのラフな服を着ている。

 それが今は、ない。
第一、昨晩は自分でベッドに入った記憶もなければ、風呂に入って就寝用のジャージに着替えた覚えもなかった。
昨夜の出来事で最後に覚えている事と言ったら────


「……!」


 記憶の深淵から浮かび上がったヴィジョンに、スコールは悍ましさを感じて、寒さとは違う理由で体を震わせた。


(俺……レオンに……)


 レオンに、兄に、犯された。
その出来事を思い出した途端、ずくり、と下腹部が異様な痛みを訴えて、声にならない悲鳴を上げて蹲る。


(夢? ───違う。夢じゃない。夢なら、こんな痛み、ない)


 性質の悪い夢か幻だと思いたくても、己の体が何よりも真実を知っている。
腰回りを覆う鈍痛や、下腹部の引き攣ったような痛み、閉じている筈なのに押し広げられたままでいるような錯覚に襲われる秘孔。
どれもこれも、夢ならば起こり得ない筈のものだ。

 カーテンの隙間から差し込む眩しい光に、目を向ける。
朝日だとばかり思っていたそれは、大きく傾いた夕日だった。
昨夜の出来事から、丸一日近く、スコールは眠っていたのだ。
いや、あれは気絶と言うべきだろう。
男として知る筈のなかった痛みと苦しみ、絶望感に落とされて、現実を拒否するようにスコールは意識を手放したのだ。
そして目覚めて、また絶望を突き付けられている。

 喉奥から何かが競り上がって来るのを感じて、スコールは両手で口を抑えた。
しかし、丸一日を眠って過ごした彼の意の中は空っぽで、吐き出せるものなどない。


「え…あ……がはっ…けほっ、げほっ……!」


 がくがくと全身を震わせて、出て来たのは僅かな胃液と咳のみ。
口を押えた手の中に、唾液混じりの胃液が吐き出されて、スコールは気持ち悪さに顔を顰めた。
ベッドヘッドのティッシュを乱暴に取り出して、力任せに手を拭い、ゴミ箱に投げる。


「は…はーっ…はぁっ……!」


 全身から脂汗が噴き出していた。
眦に浮かぶ雫は、もう何が原因なのか、思い当たるものしかなくて、反って判らなくなっていた。

 ともすれば詰まってしまいそうな呼吸を、スコールは意識して掃出し、リズムを正そうと試みる。
薄暗い部屋の中で、部屋主の苦しげな呼吸音だけが延々と繰り返される。
一分、二分と続けて、ようやくスコールの呼吸は落ち着きを取り戻した。

 ベッド横の壁に凭れ掛かって、天井を見上げる。
汗で濡れた額や頬に、髪がぺっとりと張り付いたのが鬱陶しかったが、スコールは払う気力もなかった。

 ───キィ、と蝶番の軋む音が鳴った。
ぼんやりとした顔でスコールが部屋の出入口を見れば、蒼い目の男が立っている。
その男の顔を見た瞬間、スコールは全身の血が沸騰するのを感じた。


「レオン……!」


 この時間から家にいると言う事は、相対するような人間ではないから、出社していないのだろうか。
その証左のように、入室して来た男は、見慣れたスーツ姿ではなく、ジーンズとカジュアルシャツを着て、スコールが日常的に見る彼とは違い、ラフな格好だ。

 ベッドシーツを握り締め、スコールは今にも噛み付かんばかりの眼で、兄を睨んだ。
般若のように面を歪める弟に、レオンは柔らかく笑い掛ける。


「ようやく起きたのか? 学校ならとっくに終わったぞ。ティーダ達が見舞いに来ていたが、起きる様子がないから代わりに受け取って置いた」


 そう言って、レオンは手に持っていたクリアファイルと漫画雑誌を机に置いた。
ファイルに挿められているのは、ティーダ達のメールに書いてあったプリント諸々だろう。

 だが、今のスコールは、そんなものよりも目の前の兄の態度が酷く癪に障った。


「出て行け。俺の部屋に入るな」
「家族に対して、随分な言い方だな。思春期だから仕方がないが、余り度が過ぎると、見過ごせなくなるぞ」
「自分の家族に、あんなふざけた真似が出来るような奴に言われたくない」


 顔も見たくないと、男から目を逸らして吐き捨てるスコール。
ベッドシーツを手繰り寄せて、裸身の体を隠した。
布一枚の柔らかい壁は酷く頼りなかったが、なけなしの抵抗であった。

 部屋の中に、沈黙が落ちた。
じっと向けられる視線から、スコールは顔を背けたまま、動かない。
ひしひしと感じられる視線の圧に、スコールは震えそうになる体を、両腕で掻き抱いて押さえつけた。

 フローリングの床が小さく軋む音を鳴らして、ゆっくりと男が近付いて来る気配がする。
スコールは背にしていた壁に縋るように、半身を押し付けて、逃げる場所を探した。
弱腰どころか、完全に心が折れている事が悔しかったが、あれだけの事をされて、屹然としていろと言うのが無理な話だ。

 ベッドの前で、男は立ち止まった。


「お前の言う、"ふざけた真似"って言うのは────こういう事か?」


 ばさっ、とスコールが縋っていた布が取り上げられる。
文字通り、一糸まとわぬ姿を曝け出されて、スコールは顔から火が出る思いだった。

 全裸など、幾ら家族とは言え、人前に晒す格好ではない。
スコールは手足を縮こまらせて、男から己の体を隠そうとする。


「……っ!」
「あのままじゃ可哀想だろうと思って、綺麗にしてやったのにな。感謝されても良いのに、そんな言い草をされるとは、思ってもいなかった」
「嘘吐け……!」


 レオンの言う通り、スコールの体は確かに清められていた。
己が吐き出して、下肢をしとどに濡らしていた蜜も、秘部から流れ出していた鮮血の痕跡すら見当たらない。
脂汗が滲んでいるのは、目覚めて全てを思い出した後、急激な吐き気に見舞われた所為だ。
躯自体は、昨晩の名残すら感じさせないほど、綺麗にされている。

 しかし、それが昨夜の出来事への贖罪にはならない。
スコールをそんなあられもない姿にさせたのは、他でもないレオンなのだ。
彼は自分で招いた惨状を、自分で処理したに過ぎない。

 レオンは床にシーツを投げ捨て、生まれたままの姿で蹲るスコールを、感情のない眼で見下ろしていた。


「感謝の言葉ぐらいはくれても良いんじゃないか?」
「誰が言うか。さっさと出て行け。あんたの顔なんか見たくない」


 顔を背けたままで言ったスコールの顎が、男の指に捉えられる。
いつの間にか、レオンはベッドに乗ってスコールの眼前に来ていた。
捉えた顎を上向かされて、無理やり目を合わせられる。


「人と話をする時は、目を見て話せって言われなかったか」
「あんたと話すような事なんかない! 放せ、この人でなし!」
「誰が人でなしだって?」


 顎を捉える手に力が篭った。
痛みにスコールが顔を顰めると、唇の隙間から親指が滑り込んで、スコールの舌ごと下顎を捉まえる。


「が…あっ……!」
「ああ、俺の事か。そうだな。お前にしてみれば、いきなり縛られて犯されて、そんな事した相手を人でなしだと言うのは当然だ。俺も同じ事をされたらそう思うだろうし、自分を犯した相手の事は殺したい程憎むだろうな」


 骨を砕く気か、と思う程に強い圧迫が、下顎を襲う。
痛みに顔を顰めていたスコールだったが、咥内に潜り込んでいる指に構わず、思い切って歯を閉じた。
がちっ、と歯が強くぶつかる音が響く。

 スコールが噛み損ねた指を見て、怖い事をするな、とレオンは呟いた。
もっと酷い事をした癖に、とスコールは思う。

 レオンは、スコールの唾液がついた親指をぺろりと舐めた。
その横顔が、猛獣か猛禽類か、獲物を定めた凶暴な動物のようで、スコールの本能が身の危険を訴える。
此処にいては行けない、と訴える心に反し、スコールの体は凍り付いたように動かない。
まるで蛇に睨まれた蛙になった気分だった。

 スコールは奥歯を噛んで、震える歯の根を押さえつけた。
ぎろりと目の前の男を睨み付け、地の底から這うような声で低く叫ぶ。


「殺してやる。あんたなんか、殺してやる」
「そうか」


 スコールの言葉に、レオンは平然とした表情を崩さない。
スコールがそのような蛮行に及ぶと、彼は欠片も思っていない。
その上、レオンは歯を噛むスコールを見下ろしながら、感情の篭らない声で言った。


「判っているだろうが、頭が沸騰し切る前に言って置こうか。この場で今直ぐ俺を殺すのは勝手だが、その後、お前はどうする気だ? 俺が明日明後日と出社しない状態が続けば、秘書が不審に思ってうちを尋ねて来るだろう。お前がどうにか俺の死体を処理しても、行方不明で片付けるには不審過ぎるし、警察が来れば直にバレる。押し込み強盗の仕業に見せかけてみるか? このマンションの防犯システムを考えるに、無理だろうな。此処が地上からどれ程離れた場所かは、お前も知っているだろう。ベランダからの侵入なんて先ず無理だし、玄関は特定の方法で開けなければ直ぐに防犯会社に連絡が入る。此処に来客が来る事は滅多にないから、容疑は真っ先にお前に向くだろう。自分で警察に通報して、自首する手段もあるだろうが、兄に殺されかけたから正当防衛の末にうっかり───なんて話も、俺がお前に抵抗でもしない限り、成り立たない。俺がお前に攻撃しなければ、俺の防御痕だけが残って、お前が俺を殺した正当性は成立しないだろう。自首する事で、多少刑は軽減できるだろうが、お前が殺人罪になるのは変わらないだろうな」
「あんただって、俺を犯した癖に! あれも犯罪だ!」
「男がアナルセックスで犯されても、この国の法律では、強姦罪は適用されない。暴行と強制猥褻が関の山だな。家族が相手なら、DVと受け取る事も出来るが───そもそも、俺がお前を犯したと言う証拠が何処にある? お前が昨日、俺が犯した直後にそのまま警察にでも逃げ込めば立件できたかも知れないが、その状態じゃ無理だろうな」


 スコールの体は、綺麗に清められており、昨晩のレオンの無体の痕跡すら残っていなかった。
拘束されていた両腕にも、何かで圧迫したような僅かな赤みが残っているだけで、明らかに縛られて体の自由を奪われたとは証明し難い。


「大体、お前に言えるのか? 実の兄に強姦されたなんて話、どの面を下げて、赤の他人に相談するんだ?」
「……っ」


 レオンに犯された事で、スコールの男としてのプライドは砕かれた。
それを、正当に保障されている権利だとは言え、自ら他者の口に話して聞かせる事が出来るほど、スコールは形振り構わない行動が出来るような、大胆な性格ではない。
自分のプライドに関わる事なら、尚更、秘匿にして隠してしまいたい。

 そもそも、男が男に強姦された等と言う話を、誰が信じてくれるのだろう。
兄に犯された事は事実でも、レオンの言う通り、証拠がなければ、寝言と思われて門前払いが関の山だ。


「こんな話に食い付くのは、精々ネタ切れ気味の々ゴシップ誌くらいだろうな。適当に何処かにリークしてみるか? 最も、そんな所を頼ったら、俺だけじゃなくお前も晒し者になると思うが」


 ゴシップ誌の過剰な程の噂好きは、スコールもよく知っている。
芸能人から政治家まで、彼等にとっては全て自分達の飯の種であって、特大のスクープの為なら、人権など軽く蹴る事も少なくない。
二十代で新進気鋭の若社長として持ち上げられるレオンも、ゴシップ誌から度々狙われており、某企業の社長令嬢がどうのと槍玉に挙げられる事も多い。
実際には、どれも単なる噂話に過ぎない上、彼等は直ぐに次のネタへと飛び付くので、スコールは無責任なゴシップ誌の安記事には呆れるばかりだった。

 彼らにこのネタを掴ませれば、"有名企業の若社長の裏の顔"などと大層なタイトルをつけて、大きく取り上げる事だろう。
だが、その際、スコールの存在は見逃して貰えない。
スコールがレオンの弟である事は、学校関係者や周辺住民に知られている。
レオンの弟はスコール一人だ。
噂の真偽がどうであれ、奇異の目はスコールにも向けられるに違いない。
クラスメイトの女子のレオンへの熱狂振りを思えば、低俗なゴシップ話ですら、彼女達のような学生レベルまで広まるのは想像に容易い。
そうなれば、スコールは針の莚だ。

 レオンは誰にどんな目を向けられても、きっと痛くも痒くもない。
有名人のゴシップネタは有名税のようなものだ。
レオンはそれも全て含んで、誠実な対応をして見せるし、今までの噂も全て根も葉もない嘘だったのだ。
加えて、レオンは世間一般に対し"理想の兄"として振る舞っており、通用している。
溺愛している弟を自分の手で暴行、剰え強姦した等、飛ばし記事だとしても行き過ぎだろう。
話題にはなるかも知れないが、それこそ一過性のものだ。
新たなゴシップネタが出てくれば、直に風化するだろう。

 だが、一般人のスコールはそうではない。
"理想の兄"を演じきっているレオンとは反対に、スコールは彼のような社交性も持っていないし、優秀過ぎる兄を持っている所為か、僻んでいると勝手に吹聴する者もいた。
其処へ、レオンがスコールを強姦した等と言う噂が出回ったら───その上、それを出版社へリークしたのがスコールだと知られたら───、矢面に宛てられるのはスコールだ。

 唇を噛んで俯いたスコールに、レオンが笑う。


「少しは冷静になったか?」


 俯くスコールの唇が、皮膚を食い破らんばかりに強く噛まれている事など、レオンにはどうでも良い事だった。
沈黙し、戦慄くように肩を震わせているスコールを見ながら、レオンはジーンズのポケットから煙草を取り出す。
口に咥えると、レオンは火を点け、ゆらりと煙を燻らせた。

 ぎし、とベッドのスプリングが鳴った。
スコールが顔を上げると、レオンは弟に背を向けて、ベッドの端に座っている。
その背中は、一見無防備に見えるが、スコールはその背に一矢報う事が出来るとは思えなかった。

 此処は自分の部屋だと言うのに、スコールは肩身を縮こまらせていた。
この空間を支配しているのは、間違いなく、目の前の男だった。
スコールは一糸まとわぬ姿で、ベッドから逃げる事さえ出来ずにいる。

 スコールは、目の前の背中から放たれる、明らかな威圧感に押し潰されそうになっていた。
既に呼吸が自由に出来ない気がして、意識しなければ呼気のリズムから崩れそうだ。
喉奥はからからに乾き、引き攣りそうになっている。
それを、殆どない唾を強引に飲み込み、スコールはレオンの背中に向かって口を開いた。


「あんたは、俺を、どうしたんだ」


 元々、互いの事を好きでもない、憎んですらいるだろうと思う間柄だったのだ。
それを面と向かって言い合った事はないが、同じ家に住んでいながら、碌に顔を合わせず、有りもしない"理想の兄弟"を飾り続けているだけなのだから、どちらも心象に良くないのは確信していた。

 だからスコールは、レオンが自分にこんな仕打ちをしたのは、嫌悪感と憎悪の暴走なのだろうと思った。
あれは過度な嫌がらせのようなもので、顔も見たくないと、スコールからこの家を出て行く口実にさせようとしたのだろうと───しかし、レオンはスコールに出て行けとは言わないし、平然とした顔でスコールと空間を共有している。
スコールは、完全にレオンの思惑が判らなくなっていた。

 ゆらゆらと紫煙が揺れて、部屋の空気を曇らせる。
窓を開けていないので、煙は蓄積される一方だった。
こほ、とスコールの喉が咳き込む。


「どうしたい、か。一言で言うなら、壊してやりたいって所だな」


 煙草を口に咥え、肩越しに背後の少年を見遣って言った男の目は、明らかに常軌を逸していた。
まるで真新しい玩具を前にした無邪気な子供のようで、スコールには、反って目の前の男の異常性を際立たせるように映る。


「壊す……?」
「ああ」


 レオンが向きを変えて、ベッドに片膝を乗せる。
スプリングの軋む音に、スコールの肩が震えた。
近付いて来る男から逃げなければと思うのに、已然として躯は動かない。
昨夜、暴行を受けた下腹部が内側から引き攣ったような鈍痛を訴え始め、スコールは顔を顰めて裸身の体を抱き締める。

 スコールの体は、壁とレオンの間に挟まれていた。
顔の横にレオンの腕が突かれて、人間の檻の中に閉じ込められる。


「学校。友達。未来。お前はずっと自由に選んできた。それがどれだけ俺にとって得難いものだったかも知らずに。全部雁字搦めで、引かれたレールを歩くしかなかった俺の前で、お前はいつでも自由に、何でも選ぶことが出来たんだ」
「…あんたが、引かれたレールに大人しく従っていただけだろう。俺の所為じゃない」
「ああ、そうだ。お前の所為じゃない。従っていたのは俺の意思、俺が自分で選んだ事だ。だが、他に選べる道がなかったのも事実だ。お前と違って、俺は拒否の自由すら与えられなかった」


 ごく近い距離で、煙草の火が燃えている。
レオンがもう少し顔を近付ければ、火のついたフィルターがスコールの顔を焼くだろう。
危険性が判らない男ではないだろうに、レオンは煙草を口から離そうとはしない。
スコールの目が口元のそれを追っている事が判っているのか、彼の唇は微かに笑みに歪んでいる。


「言っただろう。自分の思う通りに出来ない事が、どんなに苦しいのか教えてやると」


 昨夜、確かにレオンはそう言っていた。
悍ましい記憶の一番最初に、彼がそんな言葉を呟いていた事を、スコールは辛うじて思い出す。

 壁を押していたレオンの手が、スコールの頬を捉える。
両の頬を包み込むその手は、優しくて余計な力など入っていない筈なのに、スコールには重い枷を嵌めようとしているように感じられた。


「これから先、俺の言葉に対して、お前の拒否権はないと思え。此処から出て行く事も、死ぬ事も、俺が赦さない。お前がこの家を捨てて逃げても、何処に行こうと見つけ出して連れ戻してやる。お前の未来も、お前の体も、全部俺が壊してやる。それまで絶対に離さない」


 同じ言葉を女に言えば、壊すと言う単語さえ使わなければ、熱烈な愛の告白にも聞こえただろう。
しかし、彼がその言葉を紡ぐ相手は、自分自身の家族であり、同じ血を分け合った弟だ。

 スコールは、詰まりかける喉をなんとか開いて、言った。


「あんた、狂ってる」


 辛うじてそれだけの言葉をぶつけると、レオンは恍惚とした笑みを浮かべる。


「そうだな。俺は狂っている。それで良い。俺がお前を狂わせたんだ」
「俺は関係ない」
「お前の主観ではそうだろうな。だが、俺はお前に狂わされたと思っている。お前が俺と同じように、雁字搦めのレールの上で生きているなら、きっとこうはならなかった。お互いに無関心のままでいられただろう」


 今までだって無関心だったのだから、これからも無関心を貫けば良かったじゃないか。
スコールの反論は、声にならなかった。
今はどんな言葉をぶつけても、レオンの神経を緩やかに逆撫でするだけだろう。
スコールは見えない鎖に絡め取られて行くのを感じながら、じっと縮こまっているしか出来なかった。


「スコール。お前が俺を狂わせた。お前が俺を可笑しくしたんだ。だから今度は、俺がお前を狂わせてやる」


 壊れたくなかったら、精々足掻いてみろ。
そう言って、レオンはスコールから離れた。

 ベッドを下り、部屋を出て行く兄の背中を、スコールは見なかった。
じくじくと古傷のように痛む下腹部を抱えて蹲り、立てた膝に顔を押し付けて、ひく、としゃくり上げる喉を堪える。

 父に相談してみようか。
無理だ、と直ぐにスコールは頭を振った。
父親ラグナは、良くも悪くも、人を疑う事を知らない。
レオンは兄弟仲を理想の形に繕っているし、何より、彼はレオンを酷く信頼しているから、反抗期を迎え、扱いの難しいもう一人の息子の言う事など信じてくれないだろう。
友人に相談できるような話でもない。
ティーダもヴァンもジタンも、相談すればきっと親身になってくれるだろう。
彼らはそう言う人間だ。
レオンの本性を知らなくとも、スコールの言う事を「嘘だ」と頭ごなしに否定する事はあるまい。
しかし、だからこそスコールは彼等を頼れなかった。
行き過ぎた兄弟喧嘩に彼等を撒き込む事は出来ないし、それでレオンの怒りを買えば、彼等にも危険が及ぶかも知れない。
第一、スコール自身が、他人に自分の汚れた体の顛末を知られたくなかった。

 顔を押し付けた膝に、熱いものがじわじわと滲んで行く。
涙だった。
自分の部屋にいる筈なのに、あの男の作った牢獄に閉じ込められているような気がするのは、煙草の残り香の所為だ。

 一人きりになった部屋の中で、スコールは声を殺して泣いた。



◇◆◇◆   ◇◆◇◆



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