籠ノ鳥 3-1
レオン×女性の描写


 一度屈服する事を覚えた体は、その絶望すらも快感に塗り替えるようにして、スコールの躯と意識を何度も陥落せしめた。
レオンの手に触れられ、犯され、彼の雄で貫かれると、どんなに激しく抵抗していても、反応するまいと声を堪えていても、呆気なく堕ちてしまう。

 苦痛を感じなくなった事を悔しいと思う事さえも、スコールは次第に忘れて行った。
快楽に堕ちた躯に引き摺られるように、性交の最中は思考能力が切り落とされたように働かなくなり、与えられるままの快楽に従う。
卑猥な道具で陰部を掻き回され、蕩け切った状態で彼の雄を口に咥え込まされた。
口淫を強要されて、上手く愛撫出来るまで何度も教えられた。
初めてレオンの一物を咥えさせられた時、スコールは見知らぬ男達に強姦された時の事を思い出し、遮二無二暴れて嫌がったが、それも快楽に堕とされてしまえば従うしかなかった。

 レオンのスコールへの仕打ちは日に日にエスカレートし、スコールの躯で彼が触れていない場所は無い。
性器のような剥き出しの性感帯や秘孔内以外にも、胸、背中、足裏なども開発され、レオンに触れられるだけで官能を感じてしまう。

 彼との性交の間、スコールは常に拘束された。
ベルトで作られた手枷が外されるのは、疲れ果てたスコールが気を失ってからの事。
以前はレオンの気が済めば、スコールの意識の有無とは関係なく、セックスも終わり、スコールの自由を戒める枷も外された。
しかしスコールが初めて快楽に堕ちた日から、レオンはスコールが気を失うまで彼を解放しなくなった。
その所為か、彼に犯された晩の翌日は、碌に起き上がる事が出来ない。
真実を誰にも知られまいと、スコールは平静を装って学校に向かうが、疲労と睡眠不足で集中力を欠いたスコールは、いつもなら問題なく埋められる筈のテストを半分も解く事が出来ず、友人達は勿論の事、担任教師からも呼び出され、「何かあったのか」と聞かれた。
だが、スコールは貝のように口を噤み、兄と性交を重ねている事は誰にも話していない。
男が男を、それも兄が弟をと言う、常識や倫理の観点は当然、スコール自身が自分の躯が男を咥えて悦ぶ躯に作り変えられている事を、誰にも知られたくなかった。
手首に残る手枷の痕は、制服が長袖、体育授業も上着のジャージが許されたので、まだ見つかっていない。
着替える時は見付かる事がないよう、友人との会話に付き合う事もせず、直ぐに上着を羽織って教室を出ていた。
せっかち、とティーダとヴァンに言われたが、スコールは悪い、とだけ詫びて、彼等に疑われていない事に安堵するのが精一杯だった。

 以前は、周囲に気付かれる事を厄介に思ってだろう、性交の痕は殆ど残されていなかった。
スコールの身に不審な点があれば、自分が弟に対して行っている所業が明るみになる可能性は否めない。
レオンがどんなに対外的に"理想の兄"の仮面を被っていても、話題性があればゴシップ誌は飛びつき、根も葉もない噂話も交えて大騒ぎするだろう。
その話は、いずれ父の耳にも届くかも知れない。
レオンは父ラグナだけは裏切るまいとしている。
それが表面的なものであるとしても、父を鎹として"家族"の体裁を保ち続けようとしている事は、スコールにも判った。

 そんな彼が、何故、スコールの躯に痕を残すようになったのか。
明らかな暴行の傷とは違うものであるが、両の手首に残された手枷の痕は、普通に生活していて残されるものではない。
だから手枷足枷なども、頑丈そうな金属よりも、ベルトのように一見して明らかな痕が残り難いものにしたのではないのか。

 隠す為に気を回すのが、面倒になったのだろうか。
ぼんやりと瞼を持ち上げ、眼前に力なく放られた自分の両腕を見ながら、スコールは思った。

 煙草の匂いが、鼻と喉をつく。
スコールは出来るだけ空気を吸い込まないように、シーツで口元を覆っていた。
呼吸がし辛く、暑苦しさも感じたが、スコールはそのまま動かないように勤めていた。
身動ぎ一つ、大きな呼吸をほんの少しでも漏らせば、傍らにいる人間に、自分が起きている事を気付かれてしまう。

 此処は、スコールの部屋ではない。
ベッドに蹲るスコールの傍ら───床に座ってベッドに背を預けている、レオンの部屋だ。
兄弟が同居生活を初めて数年が経つが、彼の部屋に入った記憶は、片手で数えられる程度であった気がする。

 久しぶりに見たレオンの部屋は、スコールが微かに記憶しているものと、何も変わっていない。
ベッド、デスク、本棚、クローゼット……殺風景だ、とスコールは自分の事を棚上げして思う。
基本的に寝に帰るだけであるからか、スコールのようにカードゲームや借り物の漫画雑誌等と言う趣味に纏わるものも置かれていない。
とは言え、物が少ないのは兄弟で共通しており、その所為かスコールは、目覚めてしばらくの間、此処が自分の部屋ではないと気付かなかった。

 視線だけで、デスクに置かれている置時計を見ると、暗い部屋の中で針の先端が微かに光っているのが見えた。
短針は円の頂上を過ぎたばかりで、まだ夜中である事が判る。
レオンに犯された後は、いつも朝になるまで───酷い時には昼か、ティーダ達の着信があるまで───目を覚まさなかったのに、珍しい事もあるものだ。
他人事のように、スコールはそんな事を考えていた。

 音を立てないように、緩い力でベッドシーツを握る。
布団の中で、細く静かに息を吐いた。
その時、高い電子音が鳴り響き、スコールは思わず跳ねそうになった身体を歯を噛んで制御する。

 床に座っていたレオンが腰を上げた。
デスクの椅子にかけていた背広のポケットから携帯電話を取り出す彼は、上半身は裸のまま、ジーンズだけを履いている。
完成された体のラインが、暗い部屋の中でシルエットを作っているのを、スコールは微かに開いた眼でじっと見詰める。

 携帯電話の液晶が光って、レオンの横顔が照らされる。
煙草を燻らせながら、彼は睫毛の長い眦を細めていた。
着信音は長い時間を鳴り続けており、どうやらメールではなく、電話の着信らしい。
レオンは目元を隠す前髪を掻き上げると、溜息を吐いて、着信音を止めて携帯電話を耳に当てた。


「はい、レオンです。すみません、少し転寝していたもので」
『あら、そうなの? ごめんなさいね。でもどうしても貴方と話がしたくなって。この時間なら、貴方ならまだ起きてるとばっかり思ったものだから』


 携帯電話の通話ボリュームが大きいのか、通話相手の声が大きいのか。
女の声と思しきものが、機械を通して、スコールの下へも朧気に届いた。

 ごめんなさいね、ともう一度謝る声の後、気にしないで下さい、とレオンは言った。


『ねえ、レオン。明日は逢える? 早く貴方に逢いたいの』


 猫撫で声とでも言えば良いだろうか。
明らかに甘えていると言う声で、女はレオンに逢瀬を強請っている。


(……恋人?)


 いたのか、そんなもの。
思いながら、スコールはじっと煙草を燻らせるレオンの横顔を見詰める。


「貴方に求めて貰えるのは光栄ですが、明日は其方のお父上とディナーの約束があります。俺はお父上に少々嫌われているようですから、申し訳ありませんが、もう少し日をずらしては貰えませんか」
『お父さんの事なんて気にしなくて良いのに。そうだ、私がお父さんにお願いして、ディナーに一緒に行くわ』
「私も父上も、大事な仕事の話をしないと……貴女にはきっと退屈なだけですよ」


 暗にレオンが「来ない方が良い」と言っている事を、スコールは理解していた。
しかし、電話相手の女は、レオンの言葉をまるで気にも留めていない様子で、


『退屈なんて、貴方がいてくれるだけで吹っ飛んじゃうわ。私がいた方が、お父さんだって機嫌が良いし、貴方のお願いも聞いてくれると思うの。ね、だから……』


 何が、だから、なのだろう。
スコールには会話が成立していないような気がしたのだが、二人の会話はスコールの疑問を無視して続いている。

 レオンは吸い込んだ煙草の煙を吐き出して、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。
デスクの上に残っていた煙草の箱を開け、新しい一本を取り出し、口に咥えて火を点ける。
橙色の光に照らされたレオンの口元が、煙草のフィルターを噛んでいた。


「お気持ちは有難いのですが……貴女とは、仕事とは全く関係のない所で、プライベートでお逢いしたいのです。貴女との関係を、仕事上の策略のように思われたくないので…」
『そんな事、好きに思わせて置けば良いじゃない。私は貴方を信じているから、大丈夫。疑ったりなんてしないわ』
「ありがとうございます。でも、その所為で、俺だけならともかく、貴女まで謂れのない非難を向けられたらと思うと、それだけで胸が苦しくなります。俺は、貴女を傷付けたくないのです」
『……そう。判ったわ。仕方ないわね、今日は貴方の声も聞けた事だし、我慢するわ。でも、次の約束の時にはちゃんと逢ってね。貴方の貌を見たいから』
「判りました。その時には、俺の方から誘わせて下さい。今日のお詫びに、貴女の為に店を予約しますから」


 機嫌の良い女の声を最後に、通話は終わったらしく、レオンは携帯電話をデスクに投げる。

 レオンが此方に向き直る気配を感じて、スコールは目を閉じた。
ベッド傍に戻ったレオンは、先と同じように、床に座ってベッド縁に背中を預ける。

 そのままスコールの意識は、夢へと落ちて行った。


◇◆◇◆   ◇◆◇◆


 煙草が吸いたい。
朝靄の光が差し込むカーテンの隙間を見詰めながら、レオンは思った。
これは、ニコチン切れもあるのだろうが、根本的な理由は違う。
部屋全体に充満するように蔓延する、強い芳香剤の匂いの所為だ。

 煙草の匂いと芳香剤の匂いと、どちらが良いかと言われれば、十中八九、芳香剤の匂いだろう。
煙草は元より百害あって一利なしだ。
一時的なストレス緩和剤になるが、過度に頼れば反って依存症を引き起こす上、本人だけでなく周囲へも悪影響を与える。
しかも、主流煙より副流煙の方がより害悪になると来た。
そんな代物に比べれば、心身の緊張緩和などのセラピーにも利用される芳香成分の方が遥かに良い。

 しかし、今部屋に充満している芳香は、幾らなんでも強過ぎる。

 消臭剤も十分に効いているようなホテルに、わざわざ真新しいリキッドを買って持ち込んで来た女は、良い匂いだと賛美している───好きで持ち込んでいるのだから当然だ───が、レオンは油断すると眉間に皺が寄りそうになる。
ハーブ系のリラックス作用がある匂いだと女は言うが、レオンはリラックス所ではない。
しかし女はうっとりとした貌で匂いに酔っているので、彼女にとってはこれ位強いのが丁度良いのだろう。
きっと匂いに近付き過ぎて、嗅覚が麻痺しているのだ。
そうでなければ、レオンが匂いに敏感すぎると言う話になるが、レオンは自分の嗅覚は平均並みだと思う。
となると、やはり部屋に充満している芳香の匂いは、強過ぎる、と言う結論に至る。

 煙草を吸う事が出来れば、この匂いへの苛立ちも誤魔化す事が出来るのと思うのだが、生憎、煙草は手元にない。
ハンガーにかけた背広か、椅子に置いたままにしている鞄か、入っているのはそのどちらかだ。
取りに行くのが面倒だし、そもそも、レオンは今この場を動く事も出来ない。

 ヘッドボードに背を預けているレオンは、裸身だった。
下肢はシーツで隠れており、傍らには裸身の女がいる。
女はうっとりとした表情でレオンの胸に頭を預け、乱れのない心臓の鼓動に聞き入っていた。
爪の長い女の手がレオンの腹を撫で、時折悪戯を臭わせるようにシーツの中へと潜り込む。
女の手は、レオンの反応を求めるように、彼の中心部で遊んでいたが、レオンは天井の仄暗い照明をじっと見詰めているだけだった。

 レオン、と甘えるように女が名を呼んだ。
レオンが視線を落とすと、嬉しそうに女が笑う。


「私、とっても幸せよ、レオン」
「それは良かった」
「貴方は、どう?」


 夢現に浸っているかのような女の問いに、レオンは答えなかった。
代わりに微笑みを浮かべてやれば、女は喜び、レオンの首に腕を絡めて身を寄せる。
柔らかな乳房が腕に当たったのが判った。
シーツの隙間から覗く腰を抱き寄せてやれば、女は一瞬驚いたように目を丸くした後、くすくすと笑い出す。


「今日は機嫌が良いのね」
「そう見えますか?」


 ええ、と女は頷いた。
それなら上々だ、とレオンは胸中で呟く。

 女は、『エスタ』と同じ商社───つまり同業者である、会社社長の娘だ。
元々は『エスタ』に対して強いライバル意識を持っていた会社だったのだが、此処の社長が一人娘に滅法弱く、娘の我儘はなんでも聞くと言う、典型的な親馬鹿であった。
親馬鹿と言えば、レオンの父も同じ呼び方になるのだが、彼は流石に息子達の望み通りに何もかも買い与えるほど節度がない訳ではない。
同性同士の親子とあって、父娘と言う関係と比べると違いが生まれるのは当然の話なので、此処を比べても余り参考にはならないが、それを差し引いても、娘は父に甘やかされて育てられたらしい。
何せ、レオンに懸想した娘の我儘一つで、ライバル企業として『エスタ』と競争する事を止め、事業提携を交わす事を検討し始める程だ。
今はまだ『エスタ』と彼女の父の会社が競合している状態だが、彼女の希望如何では、父の会社は『エスタ』へ提携契約される可能性も高い。
父は娘の溺愛振りを除けば、経営の手腕も人を見る目もあるから、今後の伸び率も考えると、『エスタ』としては操縦する方法を握って置いた方が好ましい。
その為にも、娘の機嫌取りはレオンの重要な仕事であった。

 レオンが仕事の延長上で褥を共にしている事を、女は知らない。
幸か不幸か、彼女はレオンに妄信的であった。
レオンが遠回しに願う事を正確に悟る事が出来るので、頭の回転は速いのだが、感情で先走る所がある。
その為、父が支える自社の利益よりも、ライバル会社である『エスタ』の支社長であるレオンの望みを優先してしまっており、これを上手く利用されているのだが、彼女は自分の想いに何処までも率直だ。
それが良いか悪いかは、レオンには興味のない話だった。


「ねえ、レオン。次はいつ逢えるのかしら。私、いつも待ってるのよ? それなのに貴方ったら、ちっとも誘ってくれなくて。今日だって、この間私が電話していなかったら、誘ってくれなかったでしょう?」
「すみません。若輩ですから、出来るだけ社員の示しになるようにと、会社を優先しているものですから……」
「出来る男って言うのは、仕事もプライベートも両立させるものよ。貴方なら出来るわ」


 だからもっと構って、と女が甘える。


「善処しましょう。俺も、貴女に逢えると思うと仕事に張りが出ますから」
「本当かしら」
「勿論です」
「判った、信じてあげる」


 真っ直ぐに目を見詰めて行ったレオンの言葉に、女は満足そうに言った。
長い髪が女の背を滑り、腰を抱くレオンの腕を撫でる。

 勿体ないな、とレオンは思った。
彼女は決して馬鹿ではない。
会社経営については余り理解してはいないようだが、自分が携わっていると言う何某の分野に関しては、実に研究熱心だ。
父親が自分に甘い事もあり、その影響力も熟知している。
研究に関してはそれを大いに利用し、研究分野に貢献しているようだが───恋する女は愚かとでも言うのか。
彼女は今、その影響力を、全てレオンに貢ぐ事に心血を注いでいる。

 女の唇がレオンの頬に触れた。
ちゅ、と音を立てて女の顔が離れる。


「ねえ、レオン。もう一回しましょうよ。時間、あるでしょう?」


 女はレオンの言葉を待たなかった。
細い足がレオンの脚に絡み付き、柔らかな乳房がレオンの胸板に押し付けられる。
レオンの両頬に女の手が添えられ、女はゆっくりと顔を近づけて行く。

 二人の唇が重なろうかと言う直前、電子音が鳴り響いた。


「───失礼」


 レオンの腕をやんわりと解かせると、ベッドを抜け出した。
女は不満げな声を漏らしつつも、離れて行く男に追い縋ろうとはしない。

 レオンは、背広に入れていた携帯電話を取り出して、耳に当てた。


「俺だ。……ああ、判った。直ぐ行く。そのまま待機していてくれ」


 機械の向こうから聞こえた声に、端的な命令をした後、レオンは通話を切った。
チェストの上に畳んでいた服を広げると、シーツの衣擦れの音がして、レオンは眉尻を下げて振り返る。


「すみません。今日は此処までのようです」
「良いわ。ディナーも美味しかったし、今日は貴方から誘ってくれたんだもの」
「気に入っていただけて幸いです」


 スラックスを履いて、ワイシャツの袖に腕を通し、ネクタイを締める。
女は、仕事着に身を包む男を、嬉しそうな貌で見ていた。
構ってくれないと不満を呈しつつも、やはり、"出来る男"のその姿は女を魅了して止まないのだ。

 背広の上に黒のロングコートを羽織り、レオンは鞄を持って、ベッドに寝転んでいる女へ振り返る。


「部屋はこのままにして行きますから、ご自由に使って下さい。ルームサービスもありますから、食事でもどうぞ」
「ありがとう。そうさせて貰うわ」


 ホテル代や食事代について、女が聞いて来る事はない。
こう言うものは、男が負担して当然だ。
レオンもそのつもりで考えている。

 お仕事頑張って、と言って手を振る女に、レオンは目を伏せて小さく頷いた。



 エレベーターで地下駐車場に下りたレオンを出迎えたのは、クラウドだった。
クラウドはレオンの貌を確認すると、指先で遊ばせていたキーを握り、駐車場の奥へと誘導する。

 前を歩いていたクラウドが、ポケットから取り出したものを見せた。
レオンが愛用している銘柄の煙草だ。


「吸うか」
「ああ。だが、まだこっちのが残っている。それは後で寄越してくれれば良い」


 レオンは胸ポケットから煙草を取り出した。
じゃあこっち、とクラウドの手から煙草の代わりに放られたライターをキャッチして、レオンは咥えた煙草に火を点ける。

 エレベーターから百メートル弱の距離に置かれた黒のスポーツセダンが、レオンが自家用として使用している車だ。
遠隔操作でロックが外されると、レオンは後部座席に乗り込んだ。
運転席にクラウドが座り、エンジンがかかる。

 取り出した煙草に火を点けると、ウィンドウが開いた。
煙が逃げて行くのを視線で追っていると、


「良いタイミングで来たと思ったんだが。どうだった?」


 ハンドルを切りながら言ったクラウドに、まあな、とレオンは頷いた。

 自分に懸想している女には悪いが、レオンはいつまでも彼女に付き合うつもりはない。
彼女の我儘を聞きつつ、適度な所で切り上げて、また次の約束をする。
彼女の好意を利用して、彼女の父の会社が此方のコントロール下に入るまで、釣りを続けるだけだ。
だから適当な所で退室する切っ掛けに、秘書であるクラウドからの連絡を理由にしていた。


「今日はこのまま出勤か?」
「ああ。必要なものは手元にあるし、家に帰る必要もない」
「了解」


 車体が傾いて、進行方向から強い光が差している。
地下駐車場から抜け出すと、強い光がレオンの網膜に痛みを起こした。

 低血圧の体質の所為か、早朝はいつも気が重いものであったが、今日は特に倦怠感が酷い。
睡眠が足りていないのもあるのだろう。
会社に着くまでに少し眠ってしまえば楽になるかも知れないが、今は眠るよりも煙草を吸いたい気分だった。


†† ††   †† ††


 何故、冬になるとマラソンが始まるのだろう。
寒さが嫌いなスコールにとって、これ程納得の行かない体育のカリキュラムはない。

 夏にマラソンなんて行おうものなら、日射病なり熱射病なりで生徒がバタバタと倒れるのは間違いない。
その代わりに、スコールの学校ではプール授業が行われる。
スコールはプール授業もそれ程好きではないのだが、地獄の釜茹でのように熱くなったグラウンドで野球などするよりは、水の恩恵に与れる分、プール授業の方が良い。
とは言え、それは夏の話。
真冬にプールなんてものに入ったら、凍え死ぬのが目に見えている。

 寒い時こそ体を動かし、健康的に温まれと言う事なのか。
心頭滅却すれば火もまた涼しの逆バージョンとでも言いたいのか。
はたまた、厳しい環境でこそ根性精神が育まれると思われているのか。
理由は判らないが、とにかく、スコールの学校では、冬の体育は必ずマラソン授業が行われるようになっていた。


「寒っ! なんでこんな寒い日までマラソンやらなきゃいけないんだよ! 走って暖まるような寒さじゃないっスよ!」


 がちがちと寒さで固まりそうになる体を、ティーダは一所懸命に動かしながら叫んだ。
その隣をヴァンが鼻水を啜りながら走り、並ぶ二人を風除けにするように、スコールがぴったりとティーダとヴァンの後ろをついて走る。

 スコール達は現在、体育授業の校外マラソンの真っ最中だ。
去年の冬の体育授業で何度も走ったコースを、体育委員の先導に従って走る。
生徒達は皆で団子になって走っており、ペンギンのようにポジションを入れ替わりながら、寒さを凌いで必死に走っていた。

 ちなみに、校外マラソン授業は男子生徒のみのカリキュラムであり、女子生徒は体育館で球技をしているらしい。
昨今は体育館の中も空気が冷え切って寒いものだが、建物の中にいれば、常に吹き付けて来る風に当たる事もない。
偶には変わって欲しい、と言うのが男子の切なる願いだが、女子は断固として拒む事だろう。


「良いよなぁ、女子は。こんな寒いのに外出なくて良いし、夏のプールの時だって更衣室があるし」
「更衣室って凄く狭いらしいぞ。パンネロが言ってた。それで皆で一気に着替えないと間に合わないから、ごった返してて凄く暑苦しいって。あれなら教室で着替える方がマシだってさ」
「へー……────っくしゅ!」
「うわ汚ねっ。唾飛ばすなよ」
「あー、ごめんごめん」


 ずび、とティーダが鼻を啜る。

 ティーダは元々熱量が高く、新陳代謝が良い所為か、寒さに強い体質だ。
サッカー部の朝練習も苦も無く過ごすティーダだが、今日の寒さは流石に応えるようだった。

 ティーダが応える寒さなのだから、元々寒さに弱いスコールなど尚更辛い。
ヴァンは、自分達の背中を追うように走っていたスコールの姿が見えなくなっている事に気付く。
あれ? と呟いたヴァンに釣られ、ティーダも後ろを見て、友人の姿を探す。
見付けた時には、彼は団子になって走る集団から離れ、随分と遅れた場所にいた。

 ティーダとヴァンは走る速度を落とし、スコールが追い付いて来るのを待った。


「スコール、大丈夫か?」
「……ああ」
「ジャージの前、閉めれば良いんじゃないか。ちょっとはマシになるだろ」


 ヴァンに言われて、スコールは開けていたジャージの前ジッパーを上げた。
寒がりなんだから防寒はしっかりしろよ、と言われ、スコールも小さく頷く。

 前方の集団が、信号に引っ掛かって止まっている。
いつもなら束の間の休憩時間だ、等と言っていられるのだが、今日はそうも行かない。
吹き付ける風が、運動で微かに上昇しかけた体温を、あっと言う間に奪って行く。


「スコール、前に来いよ。其処、寒いだろ」


 ティーダがスコールの手を引いて、自分の前に立たせる。
その前には寒い寒いと凍えながら、信号が変わるのを待つ集団。
前の人垣と、背中はティーダとヴァンが風除けになってくれるお陰で、スコールはほっと息を吐いた。
それでも寒い事には代わりないが、風が直接当たらない分、気分的にも楽になれる。

 ヴァンはジャージのポケットに手を入れ、背中を丸める。
ティーダはその場で足踏みを続けていた。


「先生もさあ、マラソンコース、もうちょっと考えてくれれば良いのにな」
「っスねー。学校の周りだけじゃ短いからって、通りの方までコース伸ばさなくて良いっての。此処の信号なんか、いつも長いんだから、引っ掛かったら寒いったらありゃしないんだし」
「先生は、自分でこの道走って決めたのかな」
「どうなんスかね。チャリでぐるーっと周るくらいはしてると思うけど」


 信号の点滅が赤から青に代わり、集団が動き出す。
生徒達は、早く帰りたいが、寒風の中を全力疾走する気概のある者もいないので、皆ダラダラと喋りながら走っている。

 寒さを嫌ってか、集団の塊から離れる者はいなかったが、少しずつスコールのペースが遅れ始める。
後ろを走っていたティーダとヴァンが気付き、彼の背中を押しながら前進する。


「頑張れ、スコール。もーちょっとで学校っスよ」
「……ん」


 友人へのスコールの反応は、余り芳しくない。
ヴァンは俯き気味のスコールの顔を覗き込んだ。


「顔色悪いぞ。学校着いたら、後はもう見学した方が良いんじゃないか」
「………」
「なあ、ティーダ」
「俺もそう思うっス。スコール、今からリタイアでも良いっスよ。俺が負ぶって行ってやるから」
「…大丈夫だ」


 そうは見えないけど、と思いつつ、ティーダとヴァンは肩を竦めるだけに留めた。
スコールが、自分の事で他人の手を煩わせる事を嫌う事を知っているからだ。

 じゃあ、せめて走るペースを落とそう、と言うティーダに、スコールは頷いた。
殆ど歩いている時と変わらない速度で、スコール達は学校へと続く直線の道を走る。
他の生徒達とは随分と距離が開いており、スコール達が遅れている事には気付いていないようだ。


「スコールさあ、今日は俺達のクラスと合同だったから良いけど、合同じゃない時はどうしてるんだ? 後ろで一人で倒れたりしたら、誰も気付かないかも知れないぞ」
「…其処まで、調子が悪い時は、…最初から見学、してる。ただ、…あまり見学、すると…単位が……」
「あー、それかぁ……」
「レポート、出してるから…多少は大丈夫、だと、思うんだが…」


 言いながら、ふらふらと覚束ない足取りになるスコールを、ティーダとヴァンが肩を支えて止める。
ちょっと深呼吸しよう、と言われ、スコールはその場で両腕を膝に置いて、はあはあと短い呼吸を繰り返した。
しばらくその状態を続けてから、ゆっくりと深呼吸する。


「レポート出してるんなら、大丈夫じゃないスか? スコールって真面目だって思われてるし、最近本当に調子悪そうな日も多いし。ジタンと違って、サボりって思われる事もないと思うよ」
「……なら、良いんだが……」


 一年生であった去年と、今年の前期授業と、スコールは真面目に体育授業をこなしている。
その間、スコールは文武両道で通っており、筆記テストも運動テストも学年でトップクラスを維持していた。
それがこの数ヶ月で急落しており、先月の体力測定では数値が著しく低下して、教員からも何かあったのかと心配された。
スコールも自分の体力が落ちている事には自覚があったが、その原因として思い当たる事を他人に話す事は出来なかった。
周囲はそんなスコールに対し、優等生の挫折、一時的なスランプと受け取ったらしく、次第に心配の声も減った。
そっとして置いた方が良い、と思われたのだろう。
スコールには、その方が有難かった。

 スコールの呼吸が整った所で、行こう、とヴァンが促した。


「スコール、しばらく体育は見学した方が良いんじゃないか。夏休みの後から学校休む事も増えたし、無理って体に良くないぞ」
「そっスねー。先週も休んだし、その前も。病院とか行った?」
「……一応」


 二人の言葉に頷いてから、嘘だ、とスコールは胸中で呟いた。
体調不良の原因は判っているし、それが病院に行ったからと言って改善されない事も判っている。
けれど、気の良い友達に余計な心配をかけない為にも、本当の事は言えない。
医者の診断結果について聞いて来る二人に、スコールは当たり障りのない返答で誤魔化した。

 他の生徒から大分遅れて、校門を潜る。
教師がスコール達を急かすように呼んだので、最後の一踏ん張りと、スコール達はグラウンドまで走り切った。



 クラウドが運転席に座るようになってから、レオンの定位置は後部座席となった。
クラウドがボディガード兼秘書、レオンが社長───正確には、支社長であるが───と言う立場を考えれば、これが普通の事である。

 社用車であるセダンの後部座席で、レオンは煙草を吸っていた。
冬に車で煙草を吸うと、煙を逃がす為の窓の隙間から冷気が滑り込んでくる為、車内は一向に温まらない。
クラウドは言及する事を既に諦めているらしく、自分に当たる温風を強める事と、車の中でも厚着する事で防寒している。

 今日何本目かの煙草を吸い終えて、短くなった煙草を携帯灰皿に押し付ける。
携帯缶の中はすっかり灰だらけになっており、帰った時の後片付けが面倒だと思いつつ、レオンは次の煙草を取り出そうとした。
しかし、煙草の箱の中は空だ。

 舌打ちして箱を握り潰す。
その音を聞いたクラウドが、バックミラー越しにレオンを見た。
眉間に深い皺を寄せている男を見て、クラウドは嘆息する。


「今日は随分、機嫌が悪いな」
「いつも通りだ」
「煙草の本数を減らしてから言ってくれ」


 車が信号で止まると、クラウドは助手席のグローブボックスを開け、封の切っていない煙草を取出し、後部座席に差し出した。
受け取ったレオンが封を切り、一本取り出して、早速火を点ける。


「まあ、下らない連中の相手ばかりでストレスが溜まるのも無理はないと思うが、健康診断には引っ掛からないようにしてくれ」
「週の殆どの食事を、カップラーメンで済ませる奴に言われたくはないが……気を付けるとだけ言っておく」


 煙を吐き出して、レオンは秘書の言葉におざなりに返した。
アクセルが踏まれ、車が発信する。
ウィンカーが点滅して、ハンドルが大きく切られた。


「少し道を変えるぞ。事故で渋滞してるって言ってた」
「事故? 交通事故か」
「トラックと乗用車が正面衝突。原因は、突然飛び出してきたバイク。で、そいつはついさっき銀行強盗をやらかした犯人だそうだ。金を持って逃げる最中だったんだろうな」
「そいつは捕まったのか?」
「俺がラジオを聞いてる間は、其処まで言ってなかった。まだ逃げてるんじゃないか? あちこち警察が立ってるしな」


 確かにクラウドの指摘通り、街の随所に警察官らしき人間の姿がある。
妙に物々しい雰囲気を感じていたのは、その所為か。

 幾つかの道を曲がって、大きな通りに出ると、クラウドは前方に見えた集団を見て嘆息する。


「高校生のマラソン授業か。暢気だな。学校にはまだ連絡が通ってないのか?」


 レオンが顔を上げると、進行方向先で屯しているジャージ姿の高校生がいる。
ジャージの色には見覚えがあった。
スコールが通っている高校で、運動用に指定されているものだ。

 学生達は足踏みしたり両腕を摩ったりしながら、信号が変わるのを待っている。
車が集団の隣で停止すると、レオンは集団の最後尾に立っている少年を見付ける。
弟のスコールだった。

 スコールは長袖長ズボンのジャージを着用し、上着の前ジッパーを首下まで上げ、完全防寒のスタイルだった。
それでも今日の気温は低さは答えるらしく、細い肩を震わせている。
数日前に彼の腕に刻んだ性交の痕跡は、ジャージの袖にすっぽりと隠れて見えない。
着替える時に見付かっているかも知れないが、スコールの担当教員だけでなく、彼と親しいティーダ、ヴァン、ジタンすら何も言って来ないので、やはりスコールは自分の身に起きている事を誰にも相談していないようだ。

 信号の色が赤から青に代わり、スコールはティーダとヴァンに背を押されて走り出した。
疲労が濃い所為か、走るフォームはお世辞にも綺麗とは言えない。
ティーダとヴァンはそんなスコールに付き添うように、先頭集団から離れて行く事も気にせず、のんびりとした速度で走っている。

 寒さの所為か、走り続けて少しは体温が上昇しているのか、スコールの顔は赤い。
汗を滲ませた横顔が一瞬だけ見えて、直ぐに遠ざかって行く。
精根尽きかけているのか、喘ぐように口を開いたままで走るスコールの姿が、数秒間、バックミラーに映っていた。


(そう言えば───昨日はイかなかったな)


 昨日───昨晩、自分に懸想している女を抱いた。
女が強請るので避妊をして挿入したが、悦ぶように快楽を貪る女に対し、レオンは終始冷めていた。
刺激を与えれば反応するのが男の体と言うものなので、勃起はしたし、挿入にも難はなかった。
しかし、それだけだ。
彼女の要求に応えて熱の共有はしたものの、レオンが昂ぶりに上り詰める事はなく、お開きとなった。

 最近、女を抱いても、絶頂まで行き付かない事が増えている。
勃起したのだから、女に対して不能になった訳ではないだろう。
ただ、何かが足りない気がしてならない。
それが満たされなければ、人工的に高められた熱ばかりが体内で燻って、その先へ進みそうにない。

 バックミラーを見ても、もう彼の姿を見る事は出来ない。
しかし、レオンの脳裏には、頬を赤らめて走る弟の姿が甦っていた。

 決して健康的とは言い難い肌を桜色に染め、目尻に涙を浮かべて睨む蒼。
濡れた唇からあられもない声を漏らし、淫靡に細腰を揺らしながら、無自覚に男を誘う躯。
生意気な光を宿した瞳は、秘奥を突き上げてやる内に少しずつ溶けて行き、最後には助けを請うように支配者を見上げる。
何度犯しても、彼は悪あがきを止めない。
それすらも打ち砕いて、躯諸共に屈服させてやる事に、レオンは昏い喜びを抱いていた。

 体に熱が浮かぶのを感じて、レオンはくつりと笑む。
加えていた煙草を手に取ると、まだ随分と長かったそれを、携帯灰皿に捨てた。


「───今日は、夕方以降の予定は何もなかった筈だな」
「スケジュールはあんたの方が把握してるだろ。あー……ああ、確かなかった。帰ったらもう一度確認するが、俺が覚えてる限りじゃ何もないな」
「なら、今日は夕方には上がれる訳だ」


 レオンは煙が逃げ切るのを確認して、窓を閉めた。


「クラウド。今日はお前が先に帰れ。俺は自分で運転して帰る」
「社長が運転すると危機管理云々って言ってなかったか。それで俺に車の免許を取らせたんだろ」
「それは仕事上の話だ。プライベートは別。それともお前、俺のプライベートに上がり込みたいのか?」
「遠慮する。迂闊にあんたの逆鱗に触って、抹殺されるのは御免だ」


 きっぱりと言ったクラウドに、賢明な判断だ、とレオンは言った。


†† ††   †† ††



≫[籠ノ鳥 3-2]