籠ノ鳥 4-1
レオン×女性の描写


 秋風が更に冷たい北の気配を含み、木枯らしが吹くようになった頃、スコールの足は家から遠退いていた。

 学校にいる間が一番気が休まるのは相変わらずで、放課後が近付くと憂鬱になる。
授業中の集中力については、以前と変わらず散漫気味だった。
週に一度の頻度で学校を休むようになり、ティーダ達から頻繁に心配の言葉を貰う。
去年は、皆勤賞とはいかずとも、特に大きな病気をする事はなく、休みも頻繁ではなかったので、去年から続く担任教師からも心配されていた。
スコールは成績には特に大きな問題はないし、取り戻そうと思えば後から幾らでも可能だからと、一週間ほどまとめてゆっくり休んではどうかとも言われたが、それこそスコールにとっては地獄に放られるようなものだ。
今のスコールにとって、家にいる事こそがストレスなのだから。

 休めば心配をかけるし、学校に行っても心配をかけてしまう。
何も言わない自分が悪いのだと、スコールは自覚していた。
遠く離れて暮らす父にも、毎日のように顔を合わせる友人にも、スコールは何一つ伝えていない。
言える訳がないのだ。
世間で人格者と評判の兄に、無理やり性交を強要されている等、男が男に犯されている等、その現実を自分自身ですら受け入れ難いのだから、他人に聞かせる事が出来る筈がなかった。
───その結果、周りに酷く心配をかけていると判っていても、スコールは口を噤むしかない。

 だが、暦が冬になって間もなく、スコールに当たる風当りは微かに向きを変えた。
切っ掛けは、父と喧嘩をしたと言うティーダだ。

 ティーダの父親は、海外のプロサッカーチームに所属している。
その為、平時は専ら留守にしており、ティーダは実質一人暮らしの状態で生活していた。
シーズンオフになると帰って来て父子で数日間を過ごすのだが、お世辞にもその時間は穏やかとは言い難い。
息子に対して素直になれず、天邪鬼な事ばかりを言ってしまう父に対し、ティーダも反抗期真っ最中で、毎日のように親子喧嘩が勃発する。

 今年も、所属チームが参加する試合のレギュラーシーズンを終え、トレーニングが本格化する前のしばしの休暇として、父は息子の下に帰って来た。
普段、離れて暮らさなければならない家族なのだから、多少の蟠りはあっても静かに過ごせば良いものを、と言うのは、家族間の蟠りが如何に複雑になっているかを知らない者の言う言葉だろう。
父子間の意地の張り合いが拗れ続け、現在の父子の形となっているのだ。
母を早くに亡くして以来、拗れ続けた父子関係は、謝れば済むと言う単純な話ではなくなっていた。
それを知っているから、ティーダの周りの友人達は、無闇に彼の前で父の話題を出さない事が暗黙の了解となっている。

 そんな難しい父子関係ではあるが、ティーダとて可惜に父と揉めたい訳ではない。
父が居ようと居まいと、自分の帰る場所は一つしかない。
それを思えば、無闇に気まずい空気になるような真似は、しない方が良い。

 其処でティーダは、スコールに「家に来て欲しい」と頼むようになった。
緩衝剤で誰かが一緒にいてくれれば、矢鱈と父と揉める事も減る。
白羽の矢がスコールに立ったのは、彼も同居している兄が遅くまで帰らない日が続けば、ティーダ同様、一人暮らし同然の生活を送る事になるからだ。
冬───年末も近くなれば、世間は師走で、大手商社の国内業務を支えるレオンも忙しくなる。
週の殆どを家に帰らない事もざらとなる為、ヴァンやジタンよりも頼み易かった、と言うのが、ティーダがスコールを頼った所以であった。
そして出来れば、時々でも良いから、家に泊まって欲しい、とティーダは言った。

 家に帰りたくないと思っていたスコールにとっては、これは願ったり叶ったりだ。
自分から誰かを頼る事で逃げ道を作る事が出来なかったスコールは、ティーダの頼みに直ぐに応じた。
ティーダさえ良ければ、時々と言わず、しばらく泊まっても構わない、と言えば、ティーダは諸手をあげて喜んだ。

 友達からの立っての頼みを利用しているようで、罪悪感がなかった訳ではない。
自分は彼等に何も話さず、彼等の好意に甘えてばかりだ。
それでも、スコールも限界が近かった。
家にいれば、いつ帰って来るか判らない兄の気配に怯えて過ごさなければならない。
家にいる限り、小さな物音一つにさえ安心して過ごす事が出来ないのだ。
疲弊した心は、外側に安寧を求めた。
其処へ来てのティーダからの頼みは、スコールには救いの手も同然であった。

 一日の授業が終わり、いつものようにスコール、ティーダ、ヴァン、ジタンの四人組で放課後を過ごし、ヴァンとジタンと別れた後、スコールはティーダと共に彼の家へと向かう。
木枯らしの吹きすさぶ街の中で、巻いたマフラーで首と口元を守りながら、二人は帰宅前に最寄のスーパーへと立ち寄った。


「寒いと鍋が食いたくなるよな〜」
「……三日前にチゲ鍋食べたばかりだろ」


 いそいそと鍋の出汁パックを吟味しているティーダに、買い物カゴを持ったスコールが呆れながら言った。


「良いじゃないっスか。楽だしさ」
「栄養バランスを考えろ。ジェクトもいるんだから」


 ジェクトとは、ティーダの父親の名だ。

 海外サッカーチームで活躍する選手なのだから、シーズンオフとは言え、怠けて良い訳ではない。
日々のコンディションの管理は必要不可欠で、休暇中だからと言って好きなものを好きなだけ食べて良い事にはならない。
シーズン中ならチーム専属の栄養士やトレーナーが指示し、外食についても細々とした指定が入るので、それに則って節制した生活をすれば良いのだが、シーズンオフで実家に帰っているとなると、そうも行かない。
本人はサッカー以外はからっきし、と公言している程なので、シーズンオフのジェクトの体調管理は、家族が担う事になる。
ジェクトの来期の活躍の為にも、ティーダがきちんと食事メニューを考えなければならない───と、スコールは思っているのだが、ティーダは違うらしい。


「親父の事は気にしなくって良いんスよ。スコールも見ただろ? 親父の奴、こっちに帰って来てから、毎日ゴロゴロしてビールばっか飲んでるんだから、今更栄養管理とかしなくて良いって」


 言いながら、ティーダは買い物カゴに鍋の出汁を入れた。
今日は豆乳鍋で決定らしい。


「今日は寒いし、スコールだって温まる方が良いだろ?」
「……それはそうだが…」
「だったら決まり! 肉買いに行こ。牛肉が良いなー」
「鶏が良い」
「えー」
「牛肉はチゲの時に食べただろう。今日は鶏が良い」


 スコールの主張に、ティーダは拗ねるように唇を尖らせたが、肉コーナーに着くと、鶏肉のパックを手に取る。


「どれにしよっか。俺は肉団子か、腿肉が好きなんだけど、スコールは?」
「俺はササミが良い……けど、ティーダの好きにして良い。ジェクトもいるから、量は多い方が良いだろうし」


 今日は牛肉ではなく鶏肉を使うと言う主張は通して貰ったので、後はティーダの好きにさせようとスコールは思っていた。

 鶏肉選びはティーダに任せ、スコールは他の鍋の具を集めに向かう。
白菜、水菜、春菊、椎茸、帆立、生鮭と、締めのうどんをカゴに入れて行き、昨晩見たティーダの家の冷蔵庫の中身を思い出し、なくなっていた牛乳をカゴに入れた。
それからジェクトのビールの摘まみになるものを探す。

 ジェクトが好んで食べると言う摘まみを幾つか選び、カゴに入れていると、鶏肉のパックを持ったティーダが追い付いてきた。
パックをカゴに入れたティーダは、鍋の具の上に重ねられている摘まみを見て、顔をしかめた。


「こんなに一杯買わなくて良いっスよ。この間買った奴もまだ残ってるし」
「…そうか?」
「そうそう。それより、お菓子買いに行こう」
「菓子も昨日買っただろ」
「じゃあ、一個だけ。ポテトチップの新しい味が出てるから、それだけ。な?」


 両手を会わせて「お願い」と言うティーダに、スコールは溜め息を一つ。
持って来い、と顎で指してやれば、ティーダは子犬宜しく、軽い足取りでお菓子コーナーへ駆けて行った。

 戻ってきたティーダが持って来たポテトチップスを買い物カゴに入れ、レジへと向かう。
食費は菓子等の個人的な趣向品を除いて、ティーダの生活費から賄われる事になっていた。
スコールは半分出すと言ったのだが、ティーダだけでなく、ジェクトからも「うちの息子のダチなら、うちにとっては客だ。客で、それも高校生に金を出させる訳にはいかねえ」と言われ、大人しく甘える事になった。

 ティーダとジェクトはよく食べる。
大きな土鍋で、具沢山に作った鍋でも、二人の手にかかればあっという間に消えてしまう。
お陰で作り置きなど出来る筈もなく、スコールは父子宅に上がらせて貰う度、夕飯のメニューに頭を悩ませていた。
基本的に食にこだわりや執着がある訳ではないので、毎日メニューを考えるのは面倒だが、旨い旨いと言いながら奪い合うように料理を掻き込む父子の姿は、スコールの心を密かに和ませてくれるので、決して悪い気はしなかった。

 一杯に詰まった買い物袋をそれぞれ両手に下げて、スコールとティーダは家へと向かう。
以前は分かれ道だった道を二人で曲がり、まだ新築の気配を残すアパートが見えて来ると、ティーダが溜め息を漏らす。
家にいる父と顔を合わせるのが嫌なのだろう。


「なんで帰ってくるかなぁ……」
「此処がジェクトの家なんだから、帰ってくるのは当然だろう」


 スコールの言葉に、それはそうだけど、とティーダはもう一度溜め息を吐く。
その後、ふと思い出したように顔を上げ、


「そういや、スコールは本当に帰らなくて良いんスか? レオンが心配してるんじゃないの? メールとかも送ってないみたいだけど」


 訪ねるティーダの言葉に、スコールの心臓が跳ねた。
自分の挙動がおかしな所はないか意識しながら、スコールは息苦しさの中で、なんとか口を開く。


「……いいんだ」
「でもさあ」
「今は、顔を合わせたくない。言っただろ、喧嘩したんだって」


 時々で良いから泊まりに来て、と言ったティーダであったが、スコールは此処しばらく、ティーダの家に連泊している。
既に一週間、スコールは自分の家に帰っていなかった。
携帯電話には数日置きに兄から着信が入っていたが、全て無視し、今では電話番号もメールも着信拒否に設定している。

 スコールの行動に、良いの、とティーダは何度も聞いた。
その都度スコールは、良いんだ、と言い、その理由を喧嘩したから、と説明している。
そう言えば、日頃父と親子喧嘩を繰り返し、顔を合わせては気まずい雰囲気に苦い思いをしているティーダが口を出す事はない。
"理想の兄弟"であるスコールとレオンなら、偶の喧嘩ともなれば、気まずさもより一層のものだろうと思うからだ。

 ティーダの下には何度かレオンから着信が届いている。
スコールの行方を探す彼のメールに、ティーダは「知らない」と嘘をついていた。
スコールの気が済むまで、彼が自分で面と向かって兄と仲直りする気分になるまでは、今しばらく彼の味方をしようと決めたのだ。
そんな気持ちの裏側には、父ともうしばらくは二人きりになりたくない、と言う私情もあった。


「何が原因で喧嘩したのかは聞かないけど。仲直りするなら、早い内の方が楽っスよ。後引くと面倒になるからさ」
「……そうだな」


 経験者は語る、か。
そう言いかけて、スコールは言葉を飲み込んだ。

 仲直りして丸く収まるような仲なら、まだ楽だったのに。
鼻孔の奥で香る臭いを思い出し、スコールは唇を噛んで思った。



†† ††   †† ††


 ねえ、と手を引く女の手が、酷く鬱陶しいものに思うようになったのは、いつからだったか。
自己主張の強い赤色のマニキュアを塗り、化粧水や様々な軟膏薬で保水された肌は、人工的に時間を止めているとは言え、女に生まれた自分自身を磨く努力をしている証と言って良いだろう。
レオンはそんな彼女達の努力を、下らないと切り捨てるつもりはない。
しかし今この時に限っては、赤い色も粉や液体を塗りたくった手も、甘えるようにすがる猫撫で声も、レオンにとって不快でしかなかった。

 女の相手をする事に関しては、相手の気持ちが何処に向かっているにせよ、ビジネスの延長であると考え、割り切っていた。
自分の行動に自分自身の心や感情が伴わないのはいつもの事で、それこそ、今更気にする必要のない事だ。
『エスタ』の支社長であるレオンが第一に優先すべきは、自社の利益である。
それを得る為には、レオン個人の私情は表に出してはならない。
それが"支社長"であるレオンの成すべき事であった。

 だが、それが最近、全くと言って良い程抑制できていない。
逢瀬をねだる女の為に時間を割くのが酷く馬鹿らしく、意味のない事としか思えない。
プライベート用の番号だと教えた携帯電話には、毎日のように女から着信が入り、逢って欲しい、声を聞かせて欲しい、抱いて欲しいとせがまれる。
一度でも応じてやれば、しばらく静かになるかと思えば、そうではない。
もっと見て、もっと、もっとと彼女の希望はエスカレートし、酷い時には毎日のように彼女に逢わなければならなかった。
だが、レオンが逢うと約束すれば機嫌を良くし、レオンに逢う為の準備として、自分に甘い父にあれこれとレオンのスケジュールがスムーズに運ぶようにと便宜を図る。
彼女の機嫌一つで、彼女の父のレオンに対する態度は激変する為、レオンは彼女とは親密に見える距離で一定を間隔を保つように務めていた。
以前は、自社の利益の為に必要な事と思えば、幾らでも割り切って応じていたのだが、それすら、今は煩わしい。

 今日、女と逢う約束を取り付けたのも、余りにも彼女が煩かったからだ。
クラウドからも「逢ってくれなきゃ死んでやる、とか言い出しそうだな」と言われ、一先ず彼女を宥めるつもりで、彼女の要望に答えようと言う事になった。

 だが、やはり駄目だった。
恋人───と思い込んでいる相手───に逢えた女は嬉しそうにしていたが、レオンの心は冷め切っていた。
ディナーの間は、逢えなくて寂しかったと批難なのか甘えたいのか判らない彼女の話を聞き続け、その後は買い物と称してデートに行きたがる彼女をホテルへ連れて行き、会話もそこそこに彼女を抱いた。
性急なレオンに、自分が求められていると思ったのか、女は終始光悦とした表情を浮かべていた。
それを見つめるレオンの視線が、一切の熱を抱いていないとは思いもせず。

 レオンが一度も絶頂を迎えなかった事に、女は気付いていなかった。
気付かないまま、女はベッドを抜け出そうとするレオンの手を捕まえ、その手に頬を擦り寄せる。


「ねえ、レオン。もう帰るの? 折角なんだから、もう少し一緒に過ごしましょうよ」
「貴女と語らいたいのは山々ですが────」


 仕事が、と言おうとしたレオンの腕が強く引かれ、ベッドへと引き倒される。
仰向けに倒れたレオンの躯の上に女が覆い被さり、胸元を女の長い髪がくすぐる。
感情とは無関係に振り払おうと持ち上げた手を、寸での所で止めて、レオンは女の肩を宥めるように撫でた。


「放ったらかしにしないで。今日だって、私、貴方に逢えるまで凄く我慢してたんだから。きちんと責任取ってよ」


 レオンの首に腕を絡める女は、まるで獲物を捕らえた蛇のようだ。
見付けた獲物を逃がすまいと、腕の中へ囲うようにレオンに抱き縋り、女はレオンの唇に己のそれを重ね合わせた。
咥内に侵入するものを好きにさせると、女は感じ入るようにうっとりとした目を浮かべ、レオンの両頬を掌で包み込む。

 レオンの鼻腔を、甘ったるい匂いが掠めた。
数種類の強い花の匂いを混ぜ合わせたような匂いで、音楽でいうなれば不協和音と言えば当て嵌まるだろうか、混ざり合わさった匂いはレオンに酷い不快感を与えた。


「────あ、」


 レオンの腕が、女の肩を押し退ける。
口付けに夢中になっていた女は、拒絶されるとは思っていなかったのだろう、何の抵抗もなく躯が離れた。

 起き上がったレオンを、直ぐに女の腕が追う。
レオンの背中に、豊満な乳房が押し付けられた。


「どうしてそんなに冷たくするの? 私に飽きたの?」


 私はこんなに貴方が好きなのに───と呟く女に、知った事か、とレオンは胸中で吐き捨てた。
飽きるも飽きないも、最初からレオンの心は彼女の方向を向いていない。

 だが、それは思っていても表に出してはいけない事だ。
彼女の父親がレオンの傘下に入る事を良しとするまで、この女はレオンの手綱で繋ぎ止めておく必要がある。


「そんな事はありません。ただ、しばらく徹夜続きで、今日は少し気分が優れなくて。貴女には本当に申し訳ないのですが、少し休みたいのです」
「嘘。さっき仕事があるって言ったじゃない。休む気なんてないんでしょう?」


 仕事に時間を費やすのなら、自分にも構えと、女は言った。
レオンは先に口にした自分の言い訳を、さっぱり忘れていた事に胸中で舌を打つ。
こう言う場面での矛盾した言動は、男よりも女の方が遥かに目敏い。
言動には気を付けなければならないのに、余計な失敗をした。

 ───煙草が吸いたい。
背中から香る匂いに、レオンは思う。
殊更に身体を摺り寄せて来る女に、まるでマーキングをされているような気分になって、レオンは漂う匂いを丸ごと消したくなった。
以前、同じように酷く匂いの強い芳香剤を持ち込まれた事もあったし、マーキングされていると言うのは、強ち冗談でもないのかも知れない。
そう思うと、今まで深く気に留めていなかった強い花の香りが、酷く鬱陶しいものに思えて来た。

 女の指がレオンの髪の毛先を弄ぶ。
赤いマニキュアを塗った爪に、濃茶色の髪が絡まった。


「ねえ、レオン。レオンの弟って、可愛いのね」


 レオンの耳元で、女が囁いた。
思いも寄らぬ言葉が出て来た事に、レオンが眉根を寄せて振り返れば、マニキュアのように赤い唇が弧を描いている。


「弟とお逢いした事がありましたか」
「ううん。偶々、私が見かけただけよ。高校の近くを通りかかった時、男の子達と一緒にいたわ。貴方によく似た子がいたから、きっとあの子だろうなって」


 レオンと弟であるスコールは、よく似ている。
年齢が離れている事や、体格的にはレオンの方が恵まれている事、スコールが幼年の頃から人見知りが激しく、今でもそれが尾を引いている所為もあってか、雰囲気は全く違うと言う者は多いが、顔のパーツはよくよく似通っているらしい。
濃茶色の髪と青灰色の瞳など、父曰く、どちらも母親に似たのだろうとの事だ。
その為か、レオンとスコールを初めて見た人間でも、二人が兄弟である事は直ぐに気付く。
年齢がもっと近ければ、双子と間違われる事もあったのかも知れない。

 レオンの眉間に深い皺が寄せられるのを見て、女は楽しそうにくすくすと笑う。
女はレオンの首に唇を寄せ、ちゅ、と吸い付いた。
皮膚が小さな痛みを感じたが、レオンは表情を変えない。
赤い模様がぽつりと咲いたのを見て、女はまた満足げに笑った。


「あの子、見た目は貴方とよく似ているけど、やっぱりまだ子供ね」
「まだ高校生ですから」
「それで、あんなに初心なのね」


 見かけただけだと言うのなら、会話をした訳でもあるまいに、女はまるで以前からスコールを知っていたかのような口調で言った。

 レオンの耳に柔らかく歯が当てられた。
熱の篭った呼吸がかかって、耳朶を舌でなぞられる。


「ねえ、レオン。私、仕事熱心な人って好きよ。出来る人はもっと好き。でも、前にも言ったでしょう。本当に出来る男って言うのは、仕事もプライベートも両立出来るものよ」
「ええ、覚えています」
「忙しそうにしている貴方を見るのは嫌いじゃないわ。でも、あんまり放ったらかしにされてしまうと、私、寂しくてどうにかなってしまいそう」
「……それと、先の弟の話と、何か関係が?」


 焦らすような口振りの女に、レオンは暗に「手短に」と促した。
女の手がレオンの首から背筋へと撫で下りて、広い背中で指先が遊ぶ。


「ちゃんと捕まえておいてくれないと、貴方が気付いた時には、私はもう貴方の傍にはいないかもって事」
「では、その時、貴方は何処に行ってしまっているのでしょうか」
「ふふ。さあ、何処かしら」


 レオンの反応を見るのが楽しくて堪らないのだろう、女の声は喜色で溢れている。


「貴方みたいな素敵な男(ひと)は、きっと何処にもいないわね。でも私、若い燕も嫌いじゃないの」


 ────だから、如何、と女は言わなかった。
頭の回転が速く、聡いレオンであれば、皆まで言わずとも判るだろうと、黒々とした眼がレオンの横顔を見詰める。

 蒼い瞳が鋭さを増しても、女は嬉しそうに見つめていた。
瞳の奥にある感情が何を示しているかなど、彼女にはどうでも良い。
海の深淵から取り出したような蒼玉が、自分へと向けられていれば、それだけで満足なのだ。


「手放したくないのなら、ちゃんと見ておかなくちゃ駄目。ちょっと目を離したら、その隙に逃げちゃうかも知れないわよ? 逃げた先で美味しい水を見付けたら、そっちに夢中になるかもね」


 女の自由な片手怪しく揺れ、レオンの腹を撫で、中心部へと下りて行く。
女は酔いしれるような貌でレオンを見上げながら、中心部を愛撫して、雄の反応を待っている。

 しかし、女の望み通りに動いたのは、其処までだった。

 レオンは、背中を撫でる女の手を払い除けた。
縋るように追う手から離れ、ベッドを下りる。


「レオン?」


 床に落ちていた衣服を拾い、身支度を整えて行くレオンに、女の表情が焦燥に変わる。


「レオン、どうしたの」


 怒ったの、と訊ねる女に、レオンは答えなかった。
背広に袖を通し、コートを羽織った男の立ち姿は、情事の余韻すら一切感じさせない。
蒼灰色の瞳が女を射抜けば、その冷たい色の奥底に燃えるような激情を宿しているのを見て、女は自分の躯が熟れたように濡れるのを感じた。
その蒼い瞳に自分を求めて欲しくて、女は背を向ける男を追ってベッドを離れる。


「冗談よ、レオン。そんなに怒らないで」
「性質の悪い冗談ですね」
「ごめんなさい。貴方が其処まで嫉妬してくれるなんて思わなかった。もう言わないわ。私が愛しているのは貴方だけよ。だからお願い、待って」


 嫉妬───女の言葉に、レオンは根本的に勘違いしているな、と思った。
彼女をそんな思考で繋いだのは他でもない自分だが、今の彼女はレオンの思惑を越えて、自分の思考に酔っている。

 レオンは追い縋る女の手を解かせて、部屋を後にした。
裸身の女が部屋を飛び出して追って来る事はないだろう。
オートロックで閉じた扉の向こうで、女が仕切りにレオンの名を呼んでいたが、レオンは無視してエレベーターホールへと向かった。



 地下駐車場に置いていた車を発進させて間もなく、女から携帯電話に着信が入った。
無視して車を走らせ続けている間、着信音は鳴っては切れ、切れては鳴ってを繰り返す。
留守番電話サービスに繋がった所で呼び出しを切り、一からコールし直しているのだろう。
話がしたいと言う訴えである事は明白だったが、レオンは拒否した。
終いには、鳴り続ける着信音に辟易し、携帯電話の電源を落とした。

 ホテルから離れた路端に車を止めたレオンは、静かになったプライベート用の携帯電話を後部座席に放り投げ、仕事の連絡用に使っている携帯電話を取り出した。
記憶しているダイヤルを押して発信すると、三十秒程のコール音の後、通話が繋がる。


『もしもし……』
「起きろ、クラウド。仕事だ」


 電話越しに聞こえた虚ろな声に、レオンは言った。
「はあ?」と言う間の抜けた声が聞こえたのは無理もあるまい。
時刻は深夜二時であるから、通話相手───クラウドも流石に眠っていたのだろう。

 ごそごそと電話の向こうで物音が続いた後、先程よりは幾らか目の覚めた声が聞こえて来た。


『仕事って……迎えはまだ早いんじゃないのか』
「迎えは必要ない。ホテルにはいないからな」
『はあ? 何考えてるんだ、あんた。ご機嫌取りしてたんじゃないのか?』


 彼女の父親の会社と『エスタ』を事業提携させ、『エスタ』の利益を確保する為にも、彼女との繋がりは必要なものだった。
彼女の機嫌如何で、父親の会社の舵を取る事が出来るからだ。

 現在、彼女の父親は、『エスタ』との事業提携の是にかなり傾いており、あと一押し二押しもあれば提携契約に応じる姿勢を見せていた。
このタイミングで彼女に逢うとなれば、彼女の不興を買う真似はするべきではない。
彼女の機嫌で父親の態度は一変するのだから、レオンは今日は私情を殺して彼女の要望に応えるべきであった。

 それを放り投げて来たと聞けば、流石に会社の経営に殆ど手を付ける事のないクラウドでも、慌てるのは当然だ。


『我儘に振り回されて面倒だったんだろうとは思うが、それに付き合うのも後少しだからって自分で言ったじゃないか。親父が怒鳴り込んで来たら、また面倒になるぞ』
「今回は問題ない。向こうがまだ俺に入れ込んでいるからな」
『だからって放置して帰るか? 明日からまた煩くなるぞ』


 彼女と今日の逢瀬の約束をしたのも、そもそもは彼女の「レオンに逢いたい」と言う我儘からだった。
毎日のように電話をかけてはしつこく強請り、仕事の合間にも、レオンが応えるまで着信を寄越すので、それを鎮静化させるつもりだったのだ。
だが、それを途中放棄して来たとなれば、明日からまた彼女の我儘が再開されるのではないか、とクラウドは言う。

 クラウドの言葉は、概ね当たっているだろう。
今頃彼女は、レオンの不興を買ったと恐れ慄いているに違いない。
レオンに対し、偶像崇拝にも似た情を寄せいている彼女は、基本的にレオンを糾弾する事はない。
今回もホテルを後にする直前の会話からして、自分の不用意な発言がレオンを怒らせたと思っている筈だ。
しつこく着信を寄越すのも、レオンに嫌われまいと、謝ろうとしているからだ。

 彼女の手綱は、まだレオンが握っている。
手放しても、今の時点では彼女がレオンを忘れる事は出来ないだろう。
『エスタ』の"支社長"と恋人関係である、と言う事が、彼女には大きなステータスでもあったのだ。
今の彼女は、レオンが手綱を捨てた瞬間、その手綱を拾って自ら献上の為に追って来るに違いない。

 ───とは言え、人間の感情とは何処で歯車が狂うか判らないものである。
彼女が今日の出来事を父に話せば、娘に甘い父はレオンを批難するに違いない。
そうなれば業務提携の話など、あっと言う間に立ち消えるだろう。


「父親には連絡させない。適当に折り合いを見付けて、俺から彼女に連絡する。それで良いだろう」


 語尾が強くなったレオンの言葉を聞いて、電話の向こうでクラウドが溜息を吐く。


『最近、やけに苛々してないか』
「誰が」
『あんた以外に誰がいる。何が原因だか知らないが、仕事に影響は出さない程度にしてくれよ。あんたの稼ぎが、俺の稼ぎにも影響するんだから』


 国内企業の本営であるレオンの行動は、本社の利益に直結する。
頼むから下手を打ってくれるな、と言う部下の言葉は、雇用されている側の人間の切実な願いと言って良いだろう。
社長の私情による暴走の所為で、飯が食えなくなる等、笑えない話でしかない。


『まあ、女の事はあんたに任せている事だから、あんたが下手をしない限りは、扱いはあんたの自由だが───……で、こんな時間から仕事ってのは?』


 ふあ、と欠伸を漏らしながら、クラウドは話を強引に軌道修正させた。

 レオンは背広の胸ポケットに入れていた煙草を取り出し、火を点けた。
車窓を開けて煙を吐き出す。


「彼女の父親の会社、うちとは業務提携の予定だったが、方針変更だ。資本提携して、後に買収する」
『子会社にするのか』
「最終的には完全子会社にするのが理想だな。其処に行くまではしばらく時間が必要になるから、急ぐ必要はない。だが、介入は早期だ。社長のコントロールは俺がするから、お前は根回しの準備を済ませて置け」
『本社に報告は。そこそこでかい買い物だろう、あんたの独断だけで走るのは不味いんじゃないか』
「俺がする」
『了解。あんたが其処までその気なら、俺は従うまでだ』
「序にきな臭い所も総浚いしてチェック、リストアップしておけ。後で確認する」
『判った。で、こんな時間に叩き起こされた件についてだが』
「深夜手当は出す。それと、今日は昼まで出勤しなくて良い。ただし、午後二時には会合があるから、一時までには会社に来るようにしろ」
『了解。……これで終わりか』
「ああ」
『じゃあ俺はまた寝る』


 突然の安眠妨害からさっさと解放されたかったのだろう。
クラウドは「じゃあな」とおざなりな挨拶をした後、通話を切った。
ツー、ツー、と味気ない電子音を鳴らす携帯電話。
レオンも通信を終了させて、車のドアポケットに携帯を入れる。

 車のエンジンを再始動させる。
車道には人の気配もなければ、車も走っていない。
時折、帰社のタクシーや搬送トラックが通りかかる程度だ。
後方から丁度走って来たタクシーが通り過ぎたのを確認してから、レオンはアクセルを踏む。

 咥えていた煙草を指で挟んで、口から放す。
吐き出した煙が窓の外へ逃げ出し、名残の匂いだけが車内に残った。
ようやくまともな呼吸が出来たような気がしたレオンだったが、風が流れて匂いが消えた後、ふと鼻腔をくすぐった花の匂いに気付いて、眉根を寄せる。

 強い香水や芳香剤は、やはり、マーキングのつもりだったのかも知れない。
若輩ながら社長を務めるレオンと懇意になりたがる女は少なくなく、隙あらばレオンを籠絡しようと近付いて来る。
先程まで褥を共にしていた彼女も、元々はそんな女達の一人だった。
自分の同類が山ほどいると知っている彼女は、レオンに自分と同じ匂いを移す事で、他者への牽制を狙っていたのかも知れない。
肉体関係を持った事、レオンが彼女に対して睦言めいた言葉を囁いている事を、周囲に対して仄めかし、レオンの心は自分の下にあるのだと吹聴して自尊心を満たしている。
そうすればライバルである女達は、レオンが既に他人の物になっていると思い、誠実である事で知られている彼の事、浮気や一夜の夢をねだる女はきっと嫌うだろうと、自ら身を引くのだ。

 ───とんだ偶像崇拝だ、とレオンはいつも思う。
レオンのイメージはそのまま会社のイメージに繋がるから、ゴシップ誌のネタになるような真似はしないレオンだが、己が清廉潔白であるとは思っていない。
父親であり、『エスタ』の社長であるラグナが、良くも悪くも人を疑わない人物であるから、このイメージが息子のレオンに引き継がれているのも無理はないが、現実は違う。
女と肉体関係を持ったのは、彼女を利用して父親である某社長をコントロールする為の手段であるし、理想や信頼だけで会社経営が成り立たない事も、レオンは重々理解している。
それを知らない者が多過ぎる。

 実際の所、何度体を重ねても、レオンの心が彼女に対して開かれる事はない。
彼女との関係は、最初からビジネスの延長上にある、営業と同義でしかない。

 それでも、今しばらくは、彼女の茶番に付き合うつもりだ。
そもそもの目的である、彼女の父親が現社長を務める某会社のコントロールが可能になってしまえば、彼女と密接した関係を保つ必要もなくなる。
それまでの辛抱だ。
それさえ終われば、彼女との関係は切って良い。
無論、後腐れのないように、十分な根回しをして置かなければ、背中を刺される羽目になるので、それだけは留意せねばなるまいが。

 十字路の赤信号でブレーキを踏む。
チッ、チッ、チッ、とウィンカーの音が、静かな車内で妙に大きく聞こえた。
それを耳にしながら何気なく無人の助手席に視線を移して、レオンの口元が何時間ぶりかの笑みに歪む。

 彼女が若い燕に興味を示していたのは、半分はレオンの意識を自分に向けたい為だろうが、もう半分は明らかに本気を仄めかしていた。
出来た理想の男を得た彼女だが、それだけでは満足できず、今度はレオンとは正反対の、何も知らない子供を欲しがった。
レオンは良くも悪くも自分の想い通りになる人間ではないと判ったから、何も知らない子供を自分好みにすっかり染めて、自分を一番に優先してくれる者が欲しくなったのだろう。
その時、子供が大人しく彼女の色に染まるかどうかは判らないが、籠の中に辟易した燕は、今が好機とばかりに飛び立っていくに違いない。

 女の言葉が脳裏に蘇った。
手放したくないのなら、それは自分の目の届く所で繋いで置く方が良い。
そうしなければ、ほんの少し目を離した隙に、何処へ逃げてしまうか判らない。
逃げてしまったら、解放された自由の味を知ったら、もう二度と同じ場所には戻って来ないだろう。

 ならば、更に強固な鎖で繋ぎ止めるしかあるまい。
飛び立とうと広げた鳥の翼を毟り折り、何処にも行けないようにしてしまおう。


(あんたなんかには、触らせるのも勿体ない。あいつは俺が壊すんだ。あんたの所にも、何処にだって、行かせやしない)


 もう何日も顔を見ていない、声すら聞いていない少年の泣き顔を思い出し、レオンはくく、と喉を震わせた。



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≫[籠ノ鳥 4-2]