籠ノ鳥 4-2


 間仕切り代わりのカーテンの向こうから、テレビの音が聞こえる。
初めは煩く感じる程だった音量だが、今はぼんやりと出演者の声が聞こえて来る程度だ。
それでもティーダとジタンは日曜の夕方に再放送されているシリーズ物のドラマの内容が気になるようで、それぞれの課題のプリントを追う傍ら、耳を欹ててドラマの展開を追っていた。


「…そんなに気になるのなら、見てくれば良いだろ」
「だよなー。どうせ後一時間で終わっちゃうんだし」


 皆で集まって課題を片付けようと、勉強会と称して集合したにも関わらず、いまいち課題に集中し切らないティーダとジタンに、スコールは呆れた眼差しで言った。
その隣で、ドラマには余り興味を持たないヴァンが、マイペースに課題をこなしながら呟く。

 判らないから教えてくれと強請られ、自分の課題も先に済ませていたので応じていたスコールだったが、頼んできた本人がこの調子では、いつまで経ってもティーダ達の課題は終わらない。
と言う事は、スコールもいつまで経っても解放されないと言う事だ。

 ティーダとジタンが毎週見ている再放送ドラマは、今日はスペシャル枠で作られたものを放送している為、二時間の枠になっている。
始まってから既に一時間が経過しているので、残りは半分。
その半分が終わるまで、二人の意識はプリントへ戻って来る事はないだろう。
それならいっその事、全部見てスッキリしてから課題に取り組んでくれる方が良い。
何せ、教えている傍から二人の意識はドラマに浚われ、「もう一回説明して」と何度も言うものだから、スコールは二度手間どころの面倒ではない。

 しかし、ティーダはぶんぶんと首を横に振った。


「いいっス」
「気になるんだろ。見て来い」
「録画してるから」
「なんだ、それならそうと早く言えよ」


 ティーダの言葉に、ジタンが怒ったように眉根を寄せて言った。
それが判っていれば、こんなに意識を散らせなくて済んだのに、と。


「さっさと済ませて、録画した奴で鑑賞会やろうぜ」
「俺もそうしようと思ってたとこっス」


 だったら気にしないで、課題に集中しろ、とスコールは思った。
言葉の代わりに深々と溜息を吐いてやれば、流石にティーダも溜息の意味を理解したらしく、しょんぼりとした顔で机に向き直る。

 ティーダがドラマを見たくて見たくて堪らないのに我慢しているのは、課題と言う敵を倒す為でもあるが、父親であるジェクトがテレビを見ているからだ。
いつもは開かれている間仕切りのカーテンが閉められているのも、この為。
お互いに顔を見れば憎まれ口を叩き合い、漏れなく喧嘩に発展してしまう為、防止装置としてカーテンが引かれた。
そんな親子の生活を見たヴァンとジタンは、其処までするか、と呆れていたが、スコールは彼の気持ちが判らないでもなかった。
好んで喧嘩をしたい訳でもないが、何故か顔を合わせると不和を生むと言う負の連鎖を抑止する為には、お互いに顔を合わせないように努めるのが手っ取り早い。
だからスコールも、兄とは深い溝の対岸で、背中を向け合う生活を続けていた。
同じ空間を共有する事さえ避けていたのだから、ある意味、その根幹の捻れは、ティーダとジェクトの父子よりも深いかも知れない。

 今、スコールは、兄弟の溝の対岸から離れている。
父子生活のクッションになって欲しいと言うティーダの頼みを聞いて、彼の家に半ば居候状態で厄介になっている。
その間、ティーダはジェクトよりもスコールに構い付ける事で、親子不和の機会をやや強引に回避していた。
ジェクトは時折ティーダを揶揄うが、客人の手前か、ヒートアップする前に息子の前から退散していた。
ついでに、スコールと一緒にいる事で、ティーダの課題の忘れ物率は大幅に低下し、朝に弱いスコールが寝坊しかけると言う事も少なくなり、父子の旺盛な食欲に感化されてか、スコールも長らく拒食気味であった食事を、少しずつ元の食事量に戻していた(それでも大食漢な二人に比べると、微々たる量であるが)。


(……自分の家にいる時より、ずっと楽だな)


 計算式を書いては消してと繰り返しているティーダを見ながら、スコールは思った。
何気なく腕時計を嵌めた手首に視線を遣れば、日焼けを嫌う白い肌がある。
家にいた頃は、数日置きに新しく塗り直されるように痣が残されていたが、今はそれもなかった。

 ティーダの家に来る時、スコールは着替えの類を持って来なかった。
下着はコンビニエンスストアで買い、夜着はティーダのジャージを借りている。
部屋着も全てティーダからの借り物だ。
スコールの方がやや身長が高いが、それも数センチの差なので、サイズは問題ない。
教科書類は、始めはティーダのものを借りながら登校していたが、四日目には不便を感じて家に取りに行った。
幸い、その時は誰も家にいなかったので、スコールはこの二週間、兄と顔を合わせる事はなかった。
それから今日まで、スコールは決して家に帰る事はせず、稀にかかって来る兄からのメールや電話の着信にも応じなかった。


(逃がさないって言われたけど……案外、簡単に逃げられるものだったんだな)


 家に帰らない、兄からの連絡にも応じない理由を、喧嘩をしたからだとティーダに説明した。
だが、兄弟の間で喧嘩など起こる訳がない。
レオンはスコールに反論や抵抗など許しはしなかったし、そんな素振りを少しでも見せれば、彼は弟を組み敷いて無理やり性行為に及んで屈服させていた。
繰り返される性交渉にスコールの心は疲弊し、自分は彼から逃げられないのだと思った。
完全に支配と被支配の構図が成り立ってしまった兄弟の間で、互いの意思を主張し合うような"喧嘩"は成立しない。

 兄弟が外で顔を合わせれば、レオンは"理想の兄"になる。
しかし、家と言う閉鎖空間に一歩でも入ると、彼は仮面を棄てた暴君となり、スコールを自分の気が済むまで甚振った。
その度にレオンはスコールに対し「逃がさない」「壊してやる」と嘯いた。
四肢を拘束されて蹂躙する度、スコールは彼の狂気を感じ、本当に自分は自我が崩壊するまで解放される事はないのだと感じていた。

 しかし、ティーダの頼みを切っ掛けに彼の家に居候になってからは、頗る穏やかである。
思い出したように震える携帯電話に怯える事もあるが、喧嘩をしたと言う理由付けのお陰で、応答せずともティーダは不審には思わなかった。
放課後、学校を出る時に、以前のように待ち伏せされてはいないかと警戒したが、幸い、それもない。

 逃がさない、と何度も呪詛のように囁かれたから、逃げられないのだと思い込んでいたのかも知れない。
同性である兄に犯され、男としての矜持すら奪われて、無気力になっていた。
散々この身を蹂躙されたスコールは、従う以外で存える方法は無いのだと、知らず知らずの内に洗脳されていたと言える。

 だが、思い切って見れば、意外と簡単に出来てしまった。
変に生真面目になって、家出すら出来ずにいた頃が嘘のようだ。

 手首の痣が消えてから、ティーダに借りた半袖の服も着れるようになった。
体育授業の着替えの時、手首や体を不自然に庇わなくても良い。
落ちた体力は易々と戻ってはくれなかったが、食欲が湧いてまともな食事が出来るようになってきたお陰か、日中に眩暈を起こす事も減った。
夜はぐっすり眠れる(ジェクトの鼾とティーダの寝相の悪さで目が覚める事はあるが、家にいた頃は眠る事さえ困難だったのだ。鼾は耳栓を、寝相の悪さは離れてしまえば気にならない)から、授業中に居眠りする事もない。
何より、顔色が良くなった、と友人達から言われ、不用意な心配の種を振り撒く事がなくなったのが、スコールには嬉しかった。

 ────だが、何故だろうか。
手首に残されていた赤い痣が薄れて行く度に、スコールは不思議な感覚に囚われている。
今では、痣があった事さえ判らない程に消えてしまった。
見えない枷から自由になった事を喜んでも良い筈なのに、何故か、心が酷く揺れている気がする。


「スコール、スコール」


 肩を揺さぶられて名を呼ばれ、スコールははっと顔を上げた。
揺さぶっていたのは、隣に座っていたヴァンだ。


「なんだ?」
「鳴ってるの、スコールの携帯じゃないか?」


 言われて、携帯電話のバイブレーションの音が響いている事に気付く。
一瞬、体が強張ったスコールだったが、平静を装って鞄を手繰り寄せた。

 取り出した携帯電話に表示されている文字を見て、密かに詰めていた息を漏らす。
着信はメール、送り主はラグナだった。
メール画面を開いてみると、年末年始は家に帰れそうにないと言う旨が書かれていた。


「誰から?」
「……ラグナ」
「ラグナって───あ、親父さんか」


 ヴァンの確認に頷いて、スコールはメール画面を閉じた。
と思ったら、もう一度携帯電話が震えて、ラグナからのメールが到着する。
操作ミスか、何か書き忘れた事があったのか、もう一度メール画面を開いてみると、「来月半ばには帰れそう」と書いてあった。


(来月……)


 一月の半ば。
今から約一ヶ月後。
それまで、何処でどう過ごしていれば良いだろう。
一ヶ月以上も友人宅に厄介になっている訳には行かない。

 ぼんやりと迷い考えていると、携帯電話を覗き込んでいたヴァンが言った。


「来月に親父さんが帰って来るんなら、今の内にレオンと仲直りしといた方が良いんじゃないか」
「それもそうっスね。ラグナさんの前でギクシャクしてると、やっぱり気不味くなりそうだし」


 二人の言葉は、"仲の良い家族"として知られているスコールに対しての気遣いだ。
滅多にしない兄弟喧嘩で、お互いに引っ込みが付かない程に意地を張り合っているとしても、兄弟喧嘩に父は関係ない。
父は二人の息子を溺愛しているし、きっと「皆で一緒に食事に行こう」等と誘う事だろう。
その時になっても、兄弟がギクシャクしていたら、父に心配をかけるのは目に見えている。
そうなる前に、これを理由にして和解を試みてはどうかと言うのだ。


「取り敢えず、次にレオンのメールが来たら、返事してみたらどうだ? 向こうからはしょっちゅう連絡来てるんだろ」


 口下手なスコールでは自分から打診するのは難しいだろうと、課題プリントから顔を上げてジタンが言った。
それを聞いて、スコールはこの数日間で携帯電話が鳴らなかった事を思い出す。


「……レオンからのメールなら、しばらく来ていない」
「え? マジ?」
「ほんとか? ティーダ」


 目を丸くして訊ねるジタンとヴァンに、ティーダが頷いた。


「マジっス。今週の頭からかな? メールも電話も来なくなったみたい」
「ティーダの所には?」
「俺の所にもないっスよ。って言うか、レオンはスコールがうちにいるって事も知らないんじゃないかな。俺がうちに泊まってって言った日の前に、丁度レオンとスコールが喧嘩したみたいでさ。スコール、何も言わずにうちに来てるから」
「それってヤバくないか? 余計に喧嘩が拗れてるんじゃね?」


 ティーダは、レオンが頻繁にスコールに電話をかけていたのを、喧嘩したとは言えやはり弟が心配なのだろうと受け取っていた。
それがぱったりと止んだと言う事は、答えない弟に愛想が尽きたと言う事ではないか。
小声でティーダに囁くジタンだが、ティーダは「俺もそうは思うけど、スコールが…」と弱り切った声で呟く。

 スコールは、暗くなった携帯画面をじっと見下ろした。
ほんの数日前まで、これがいつ鳴るかと戦々恐々としていたのに、今はそんな感情は欠片も沸いて来ない。


(……飽きたのかもな)


 スコールの脳裏に、歪んだ感情で己に執着する兄の貌が浮かんだ。

 スコールを壊すまで離さない、と彼は言った。
しかし、今現在、スコールは逃亡し自由の身である。
逃げるのならば何処までも追い掛け、捕まえ、連れ戻すと言ったのに、彼の下から逃げて二週間と言う時間が経った今でも、スコールはティーダの下で居候をしている。
てっきり、一週間も経たない内に見付かると思ったのだが、自由は思いの外長く続いていた。


(良い事だ)


 他に執着するものを見付けたのか、単に飽きたのか。
どちらにせよ、あの苛烈な程の凶悪な感情の矛先が変わったのなら、スコールにとっては良い事だ。


(良い、事───なのに)


 暗い携帯画面は、どれだけ見詰めていた所で、バックライトすら点灯しない。
しん、と物言わぬ通信機に、胸の奥がずきずきと痛み出すのを感じて、スコールは唇を噛む。


(……なんで……)


 兄が家に帰って来る度、繰り返される凌辱から、逃げたいと思っていた。
生産性のない意味のない行為に、早く兄が飽いてくれる事を願っていた。
鎖で繋がれ、逃げられない以上、スコールに出来る事はそれしかなかったから。

 それなのに、鳴らない携帯電話を見て、胸が痛くなるのは何故だろう。
兄が自分を忘れたのだと思うと、喉奥が詰まるように苦しくなって、呼吸の仕方が判らなくなりそうだった。

 同じ感覚を、スコールは何度か感じた覚えがある。
彼の躯から甘い雌の匂いがした時も、同じように喉奥が詰まった。
胸の痛みを隠すように、胸元のシャツを握り締める。


「スコール? どうした?」


 呼ぶ声に我に返ると、ヴァンが顔を覗き込んで来た。
思わず仰け反って逃げるスコールを、三対の瞳が追う。


「スコール、なんかまた顔色悪くないか」
「…悪くない」
「でも、変な顔してるぞ」


 変な顔って、どういう顔だ。
ヴァンの言葉に、スコールは眉間に深い皺を寄せた。
その様子をジタンがじっと見詰め、


「なんか泣きそうな顔してるように見えるぜ」
「なんで俺が泣かなくちゃいけないんだ」
「そう見えるってだけだよ。我慢してると言うか、辛いの堪えてるって感じ」


 そんな顔をしているつもりはなかったし、そんな顔をするような理由もない。
スコールは眉間の皺を更に深め、不機嫌な表情でジタンを睨んだ。
ジタンとティーダは、スコールの尖る眦とは正反対に、何処か不安定に揺らめく青灰色を見詰め、


「スコールはさ、本当はレオンと仲直りしたいんじゃないっスか」
「……どうしてそうなる」
「だって、レオンから連絡がないって話になってから、今みたいな泣きそうな顔してるんだもん」
「そうだな。オレもそんな気がした。本当は、レオンと早く仲直りしたかったんじゃないのか? 元々仲が良いし、長引いちゃって気まずくなって、タイミング外した事、後悔してるんじゃないか?」
「違う。そんなの、有り得ない」
「いや────」
「違う!」


 声を荒げたスコールに、スコールがこうまで激昂するとは思っていなかったのだろう、三人が目を丸くする。
その場がしんと静まり返り、カーテンの向こうでテレビドラマの台詞だけが滔々と読まれている。

 数秒の間を置いて、スコールは我に返った。
携帯電話を握り締めて俯けば、濃茶色の前髪がスコールの目元を隠す。


「……悪かった」
「う、うん……その、俺も、ごめん」


 詫びるスコールの言葉を聞いて、ティーダもしどろもどろに謝った。

 スコールな喉奥の詰まりを無理やり吐き出すように、細く長く呼吸する。


「……良いんだ、レオンからの連絡がなくたって。不思議でもなんでもない。きっと、俺に構うのに飽きたんだ」
「そんな事ないだろ。お前ら、あんなに仲が良いのに」


 ジタンの言葉に、仲良くなんかない、と言う言葉が口を付いて出そうになった。
彼等が見ている"優しい兄"は、彼の外面を守る為だけに作られた偽物だ。
しかし、スコールがそれを暴露した所で、ティーダ達でさえ信じないのは目に見えている。
増して、今スコールは"兄と喧嘩をしている"のだから、一時の感情で一方的にレオンを批難しているようにしか聞こえないだろう。

 スコールは立てた膝に額を押し当てた。
隣に座っているヴァンが顔を覗き込もうとしていたが、足の所為で見る事が出来ない。
慰めるようにぽんぽんと背中を叩かれた。


「…俺より構いたい奴が出来たんだろ」
「スコールより構いたい奴? 親父さん?」
「あいつは放って置いても構って来る。そうじゃなくて……多分、恋人が出来たから、俺よりそっちを優先するようになったんだ」
「あー……恋人……成る程なぁ」
「何が成る程?」


 スコールの言葉に一人納得したように呟いたジタンに、ティーダとヴァンが首を傾げて訊ねた。


「だって恋人だぜ。家族も大切だけど、それとはまた違う、自分の手で一生大切にしたいって思える人が見付かったんだ。っつーか、レオンの年とか環境とか考えたら、今までそう言うのがいなかった方が不思議な位」
「ふぅん……でもレオンなら、家族も恋人もどっちも大事にって出来そうだけどなあ」
「いやいや、恋は人を変えるものなんだぜ、ヴァン君。後は、恋人がどう言うタイプかにも因るよな。束縛が強いタイプだったりすると、家族や仕事より私を優先してって言う子もいるし」


 ジタンの言葉に、スコールは、深夜にレオンが恋人らしき女性と電話で話していた事を思い出した。
逢いたい、と甘えたがる女性の声をやんわりと嗜めて、逢瀬の約束していた兄。
要らぬ噂で彼女を傷付けないように、優しい声で今は無理だと言った後、次に逢える時は自分から誘うと言っていた。
仕事一辺倒だとばかり思っていた兄に、そんな約束をする人物がいると、スコールはあの時初めて知った。

 スコールの脳裏に、顔のない女の姿が浮かんだ。
なんとなく、兄と並んでも見劣りしないような美女なのだろうと、漠然と考える。
女は手足は細く長く均整が取れていて、細い腰を兄の腕が抱く。
今頃は褥で絡み合っているのかも知れない。
そうして女に睦言を囁いた後で、彼は同じ手で、声で、スコールを犯していた。

 自分を組み敷く男から香る、雌の匂いを思い出して、スコールは奥歯を噛んだ。
じりじりと、胸の奥で鈍い痛みが生まれる。


(……だからなんだよ、これ)


 レオンがどんな匂いを漂わせていようと、スコールには関係のない話だ。
同じように、レオンがこのままスコールの存在に飽き、忘れ、恋人と愛情を育んでも、スコールには関係ない。

 互いの存在を忘れるように、干渉する事のない、無関係な間柄に戻れるのなら、それはスコールにとって願ってもない事だ。
いつぞやは復讐してやると彼を憎んだ事もあったが、折れた心でそんな気迫が生まれる訳もない。
ただ、彼に蹂躙される日々に終わりが来れば、それで十分だ。
その切っ掛けはどんな事でも構わない。
彼が自分以外の何かに執着し、傍を離れてくれるのなら、それだけでスコールの苦惨は終わる。

 それなのに、何故、性交の度に彼が残した痣が、体の痛みが消えて行く度に、得も言われぬ虚しさを感じるのだろう。
甘ったるい匂いの彼の躯を、記憶から消し去る事が出来ないのだろう。


「───スコール?」


 名を呼ぶ友人達の声に、スコールは顔を上げる事が出来なかった。
今なら、自分が可笑しな顔をしているのが判る。
目頭の熱さが消えるまで、誰にも自分の顔を見られたくない。

 ぽん、ぽん、と頭を撫でられた。
恐らく、隣に座っているヴァンだろう。


「俺はなんとなくスコールの気持ちが判るかな。俺も兄さんにいきなり恋人が出来たってなったら、びっくりするだろうし」
「そういや、ヴァンのとこも兄貴と二人暮らしだっけ」
「うん。だから、兄さんに恋人とか出来て、俺は邪魔になるかなあとか思ったら、正直、結構淋しいな。好きな人が出来たらそっちを優先するようになるって言うのが本当なら、兄さんも俺じゃなくて好きな人を優先するようになって……別に、それで兄さんが俺の事を忘れる訳じゃないだろうし、兄さんが俺の事をどうでも良いって思うようになる訳じゃないだろうけど、そういう変化がいきなり出て来たら、ちょっと複雑だな。知らない奴に横から急に兄さんを取られたみたいでさ、寂しくなるかも」


 ヴァンの言葉に、スコールは伏せたままで目を開ける。
ぼやけた視界に、自分の足の形が見えた。


(……寂しい?)


 レオンの執着が、自分から離れた事が、寂しいとでも言うのだろうか。
有り得ない、とスコールは直ぐに否定した。
彼に束縛され、蹂躙され、自分がどれ程傷付いたのか忘れた訳ではあるまい。
それなのに、彼の興味が自分から逸れたと思った瞬間に寂しさを感じるなんて、まるで彼に求められて喜んでいたような言い草だ。

 足の傍に落ちていた自分の腕を見る。
白い手首を見て、また強い虚しさに襲われる。
忌々しくさえ感じていた痣を懐かしんでいるような気がして、スコールは、違う、と目を閉じた。

 ヴァンの手がずっとスコールの頭を撫でている。
スコールは、その手を振り払う気にはならなかった。
ティーダとジタンも、蹲ったスコールを心配そうに見詰めている。
兄弟仲に関して根本的な勘違いがあるとは言え、彼等がスコールを気遣っているのは事実だ。
もう少しだけ彼等の好意に甘えて、目頭の熱が引いたら、今日の此の会話の事は忘れてしまおう。
そのまま、兄の事も忘れてしまえば良い、と思った時だった。

 インターフォンの音が鳴って、カーテンの向こうで人が動く気配がする。
カーテンの向こうで重苦しい空気に包まれている息子達に代わり、ジェクトが玄関に出たのだろう。

 スコールは二度、三度とゆっくりと呼吸してから、腕で目を擦りながら顔を上げた。


「……悪い」
「謝んなくて良いっスよ」
「何なら、気が済むまで泣いちまえば?」
「別に泣いてない」
「ほい、ティッシュ」
「だから……」


 泣いていない、と言いながら、スコールはヴァンが差し出したティッシュボックスを受け取った。
取り出した三枚のティッシュを重ねて、濡れた目許に押し当て、


「もう俺の事は良いから。あんた達は、課題をやれよ」
「おー」
「さっさと済ませて、ドラマ鑑賞会っスね」
「そんじゃ、三十分で終わらせちまおうぜ!」


 スコールの言葉にいつものように不満を呈する事もなく、ヴァン、ティーダ、ジタンの三人は殊更に明るい声で言った。
自分のやる気を奮い立たせるような弾む声は、気にしないでくれ、と言うスコールの気持ちを汲んだものだろう。

 ティッシュをゴミ箱に捨てて、赤らんだ顔を洗ってすっきりさせようと立ち上がると、間仕切りのカーテンが開かれ、色黒で髭を蓄えた男が顔を出した。
ティーダの父親のジェクトだ。


「おい、スコール。迎えが来てんぞ」
「……迎え?」


 ジェクトの言葉に、何の事だ、とスコールが首を傾げると、ジェクトの影から若い男が現れた。


「やっぱり此処にいたか」


 聞こえた声に、スコールの躯が強張った。
一人立ち尽くしたままで固まったスコールに代わり、ティーダが振り返って破顔する。


「レオン! スコールの事、迎えに来たんスか?」
「ああ。連絡しても出ないし、家にも帰った様子がないから、何処に行ったのかと思ったんだが……此処にいてくれて良かった。随分探したぞ」


 そう言って、男は綺麗な顔で笑った。
あたかも、行方不明の弟を探し続け、ようやく見付けた事を安堵し、無事を喜ぶかのように。

 警鐘を鳴らすかのように、スコールの心臓の鼓動が早くなる。
束の間の平穏が続く日々の中、忘れかけていた恐怖が甦って来るのが判った。

 カーテンの敷居を潜ったレオンは、真っ直ぐにスコールへと近付いて、くしゃり、と柔らかな髪を撫でる。


「放ったらかしにして悪かった。さあ、帰ろう。今までの事、きちんと話をしないとな」


 頭を撫でる手が離れると、今度は手首を掴まれた。
ぎくん、とスコールの肩が跳ねた事に、気付いていない訳ではないだろうに、レオンは笑顔を崩さない。

 凍り付いたように動こうとしないスコールに、ティーダ達は顔を見合わせた後、


「レオン、ちょっとごめん」
「スコール、こっちこっち」


 ティーダがレオンの手を解かせ、ヴァンとジタンがスコールの手を引く。
ちょっと待ってて、と言って、ティーダ達はスコールを部屋の隅へと連れて行った。

 掴まれていた手が自由になった事に安堵したスコールだったが、囲む友人達の言葉に息を飲む。


「スコール、今の内に帰って仲直りした方が良いと思うぞ。レオンもちゃんと話しなきゃって言ってるし」
「そうそう。このタイミング逃したら、もう仲直り出来なくなるかも知れないぜ」
「いつまでも意地張ってないでさ。折角迎えに来てくれたんだし、服とか今度返してくれれば良いから、今晩の内に帰った方が良いっスよ。レオンは親父みたいに性格悪くないから、変に拗れるような事にはならないって。大丈夫、大丈夫」


 ティーダの自虐混じりの励ましに、「俺がなんだって?」と言うジェクトの声が飛んだが、ティーダは「あんたは出てくんな!」と一喝して終わった。
けんもほろろな息子の態度に、ジェクトが溜息を吐いている事に、ティーダは気付いていない。

 帰りたくない、と言ったら、ティーダは許してくれるだろうか。
自分が帰れば、ティーダは父親と二人きりになる。
それでも良いのか、と脅し染みた言い方を吐きかけて、スコールは唇を噛んだ。


(ティーダとジェクトだって、俺達とは違う)


 同じ空間を共有する事さえ厭っていたスコールとレオンとは違い、ティーダとジェクトは、喧嘩をしないように過ごしたい、と思う程には互いの存在を赦している。
ジェクトがティーダを揶揄したり、手が出る程の派手な喧嘩をする事はあっても、ジェクトが本気でティーダを傷付ける事もないだろう。
ティーダとて、理由もなく父と喧嘩をしたい訳ではない。

 囲みを解いて、ほら、と三人がスコールの背中を押す。
蹈鞴を踏んだスコールの肩を、レオンが受け止めるように柔らかく掴む。


「ジェクト、ティーダ、世話になったな。こっちのゴタゴタに巻き込んで悪かった。スコールが着ている服は───ティーダの服だな。クリーニングに出してからちゃんと返すよ」
「あー、其処までしなくて良いって。適当に洗って適当に返しゃ十分。だろ?」
「そっスね。ホント、ただのTシャツとGパンだし」
「こっちこそ、うちのクソガキの我儘に付き合わせたようだからな。お陰で美味い飯も食わせて貰ったし、世話になったのはこっちの方だ」
「なんで俺の所為だけになってるんだよ。……確かに、スコールにうちに泊まりに来てくれって頼んだのは俺だけど。だからレオン、心配かけたのは俺が原因だから、スコールの事、あんまり叱ったりしないで欲しいっス」


 頼み込むように言うティーダに、レオンは柔らかい笑みを浮かべて頷いた。

 ヴァンとジタンが、教材類の入ったスコールの鞄を差し出した。
スコールが受け取る前に、レオンの手がそれを浚い、彼は空いている手で再びスコールの腕を掴んで、玄関へと向かう。

 靴を足に引っ掛けたまま、スコールは外へと連れ出された。
冬になって吹き付ける木枯らしが、温かな部屋の中で過ごしていたスコールの身体から、一気に体温を奪う。
玄関先に顔を出したティーダが、ちょっと待ってて、と言って部屋に戻る。
入れ違いにヴァンとジタンが玄関先へやって来た。


「うおっ、寒! スコール、風邪引かないようにしろよ」
「レオン、車で来た?」
「ああ」
「じゃあ帰り道、寒くないんだな。良かったな、スコール」
「スコール、スコール! これ貸すっスよ」


 奥の部屋から戻って来たティーダが、スコールにジップフロントのパーカーを羽織らせる。
スコールは自由な手で開いているフロントを抓み合わせ、「…ありがとう」と小さな声で言った。

 玄関先で固まっている少年達の頭を、固い拳が軽く小突く。


「おら、お前等もいつまでも其処にいるんじゃねえよ。玄関開けっ放しで寒ぃだろうが。風邪引く前に、さっさと中に入れ」
「親父が寒いのは、タンクトップ一枚しか着てないからだろ」
「これが一番楽なんだよ。レオン、お前もさっさと帰んな。スコールが風邪引くぞ」
「ああ、そうだな。行くぞ、スコール」


 レオンはスコールの返事を待たず、掴んでいた腕を引いて歩き出した。
覚束ない足取りで兄について行くスコールに、「また明日な」と友人達の声がかかる。

 アパートの外階段を下り、裏手にある駐車場へ向かうと、リビングの窓からティーダ達が此方を見ていた。
迎えに来た兄に対し、ぎこちない態度のスコールが心配だったのだろう。
レオンがひらりと手を振ると、三人も手を振って答えた。

 レオンがスポーツセダンの助手席のドアを開け、乗れ、と無言で促す。
その車で以前、何が行われたのかを思い出し、スコールの顔から血の気が引いた。
立ち尽くすスコールがどんな表情をしているのか、窓から見ているティーダ達には見えない。
何も知らない彼等には、スコールが兄弟喧嘩を引き摺って躊躇しているようにしか見えないだろう。

 掴まれていた腕が強く引かれて、有無を言わさずに車に乗せられる。
閉じたドアを内側から開けて逃げる事は簡単だが、無駄な抵抗だろう。
スコールの身体は、寒さとは違う理由で震えていた。
ティーダが貸してくれたパーカーを握り締めて、詰まりかける呼吸を必死で正常なリズムへ保たせる。

 運転席にレオンが座り、車のエンジンがかけられた。
動き出した車に、ティーダ達が手を振る。
安堵したような表情を浮かべている彼等を見て、レオンがくすりと笑った。


「良い友達だな」


 その言葉は、傍目に聞けば、弟が友達思いの友人に恵まれた事を喜んでいるものだった。
しかし、続く言葉に、スコールは直ぐにそんな意味の台詞ではないと理解する。


「兄弟喧嘩なんて言うお前の嘘を、疑いもしない。迎えに来たっていう俺の事も疑わない。お前を思うからこそ、仲直りさせるのが一番だと信じている」
「………」
「本当に、良い友達を持ったな」


 レオンの言う通り、ティーダもヴァンもジタンも、本当に良い友達だ。
特にティーダは、不自然なスコールの言動も深く追求する事なく、スコールの好きにさせてくれた。
ヴァンとジタンも、学校で度々体調を崩しながら、理由を打ち明けようとしないスコールに、強くは聞かずに付き合ってくれた。

 帰った方が良い、と言った三人を、スコールが責める事は出来ない。
スコールとレオンの兄弟が、本当はどんな間柄なのか、レオンが弟に対しどんな仕打ちを行っているのか、知っているのは自分達だけだ。
初めて兄弟の均衡が崩れた日から、いつだってスコールが打ち明ける事は出来た筈なのに、スコールはそうしなかった。
ティーダの家で過ごした二週間ですら、スコールは彼に何も話していない。
そんな状態で、スコールを本当の意味で救ってくれる人物など、いる筈がなかった。

 結局の所、スコールは自分で自分の首を絞めている。
誰にも真実を打ち明けなかった結果が、これだ。

 レオンに捉まれていた腕に、赤い手形が残っている。
手首周りを包む手形は、数日前まで其処に残っていた痣とよく似ていた。



≫[籠ノ鳥 4-3]