籠ノ鳥 5-3


 クリスマスから年末にかけて、スコールの生活はのんびりとしたものだった。
大きな理由として、レオンが会社の年末決算やら忘年会やらに駆り出され、家にいる時間が少なかったからだ。
宴会シーズンが本格化するまで、スコールは毎夜のようにレオンに抱かれたが、苦手な酒を場の雰囲気で半ば無理やり飲んで帰った時は、彼も流石にスコールを構う気にはならないようだった。

 父親であるラグナは、スコールの冬休みが終わる頃にならないと帰れないらしい。
彼と年末年始を一緒に過ごしたのは、もう何年前の事になるだろう。
大手企業の社長なのだから仕方がない、とスコールは思っているのだが、当の父親本人が寂しくて仕方がないようで、年を越したら新年挨拶の言葉だけでも寄越してやってくれ、と父を拘束せざるを得ない立場にいる秘書官である友人二名───キロスとウォードから頼まれてしまった。
その言葉通り、スコールはやや素っ気ない「あけましておめでとう。今年もよろしく」と言うシンプルなメールを、年明けと同時に父へ送った。
直後に電話がかかって来て、電話口で聞いた父の声は号泣していたのだが、あれは喜んでいるからと受け取って良いのだろう。

 スコールは、年末までに課題の殆どを終わらせた。
年を越した課題も大した量はなく、元旦の間に済ませる事が出来た。
合間にティーダ達に「遊ぼう」と誘い出され、大晦日の夜も、レオンがいなかったのでティーダの家で過ごし、初詣にも行った。

 課題も全て終わらせた後、スコールは年末までに出来なかった大掃除を始める事にした。
生活感などないような家なので、改めて大掃除が必要なのかと言われると首を傾げるが、やる事がなくて暇だったのだ。
ティーダは、ようやく課題に手を付けた所らしく、度々電話で「助けて!」と言う泣き声を聞く。
掃除が全て終わったら助けてやると約束し、それまで頑張ってみろと発奮させた。

 スコールが大掃除をしたのは、キッチンとリビング、そして自分の部屋のみ。
レオンの部屋に入る気にはならなかった。
どうせ殆ど寝る為だけに帰っている部屋なのだから、わざわざスコールが片付けをする必要もあるまい。
何より、迂闊に入った事を気付かれて、レオンの不興を買う羽目になるのも嫌だった。

 キッチン周りのこびり付いた油汚れや水垢を落とし、リビングのカーペットやクッションも天日干しにした後、スコールは自分の部屋の片付けに取りかかった。
本棚に入っていた、読み飽きた、若しくは読まずに埃を被っていた本を整理し、新しい隙間を作った。
要らない本は古本屋に回収して貰う事にする。
次に衣服も整頓し、クローゼットやチェストの奥で眠っていた服は、もう着ないものとして捨てる。
物欲は少ない方なので、それ程大した量にはならないだろうと思っていたのだが、まとめてみると2リットルのゴミ袋が二つ出来上がっていた。

 生活区域はこの位で良しとして、スコールは机周りを片付ける事にした。


(夏休みの時のプリントとか、もう要らないな)


 引出の中から、夏休みの諸注意プリント、課題プリントなどが出てきた。
課題のプリントは復習に使えるので残していたが、もう必要ないだろう。
諸注意プリントとまとめてゴミ袋に投げる。

 四段の引き出しの三段目を開けて、スコールは顔を顰めた。
其処には、夜毎にスコールを拘束する手枷足枷の他、卑猥な形をした淫具が納められていた。


(……捨ててやりたい)


 毎夜、自分を辱め、蹂躙する道具。
捨てられるものなら捨ててしまいたかったが、捨てればレオンが気付くだろう。
勝手に触って藪蛇を出す気はない。
スコールは唇を噛んで、引き出しを閉じた。

 四段目は、底の深い引き出しになっていた。
入っていたのは、小・中学生の頃に使っていた教科書や問題集だ。
皆、立てて整然と並べれられている。
これらも全て、夏休みのプリントと同じように、復習勉強の為に残していたものだ。


(流石に、もう要らないか)


 中学生の時の教科書はともかく、小学生の教科書は、高校生になったスコールには、もう見る必要もないものだ。
生真面目にも、ノートや算数、国語ドリル等も残っていたが、スコールはそれを開いた覚えがない。
寧ろ、そんな物を未だに残していた事さえ、スコールは引き出しを開けるまで忘れていた程だ。

 中学生の時のものは、使えそうなものと必要のないものと分けて、小学生の時のものは全て棄ててしまおう。
そして、空いたスペースに、本棚に入れている高校の教科書を入れれば、課題中に教科書を読み返す時、わざわざ席を立つ必要もなくなる。
全教科の教科書全てが入るかは判らないが、余り開く機会のないものと区別して納めれば、それなりに収納できる筈だ。

 取り敢えず、引出の中に入っているものを、全て取り出す事にする。
先ず、並べられた教科書の中に一つだけ紛れ込んでいる、薄い箱に手をかける。
小学校と中学校と年代を分ける為に、仕切りの代わりに使っていたものだ。

 取り出した箱の蓋を開けてみる。
中にも教科書か資料集か入っているかもと思ったからだ。
しかし、中に入っていたのは、子供が描いたと判る下手くそな落書きの絵ばかりだった。


(……俺が描いたのか?)


 一番上にあるものを手に取って、画用紙を裏返して見る。
スコールの名前と、タイトルらしきものが描いてあった。
そのタイトルを見て、眉根を寄せる。


(…"ぼくとおにいちゃん"……なんでこんなもの描いたんだ?)


 自分の事ながら、こんなタイトルをつけた幼い自分の思考がまるで判らない。
表替えして絵を見ると、人と思しきものが二つ並んでおり、茶色で頭を塗ってあるので、確かに自分と兄を描いているのだろうと思う。
だが、時折帰って来ては構い倒してくれた父ならともかく、何故、碌に傍にいてくれなかった兄の絵を描いているのか。

 他の絵も見てみると、描かれているのは、同じモデル───兄ばかりだった。
父や父の友人の絵もあるが、兄の絵が圧倒的に多い。


(……変な子供だ)


 見ているのが馬鹿馬鹿しくなってきて、スコールは絵を元に戻した。
後で、他のゴミと一緒に捨ててしまう事にして、絵の入った箱を脇に退ける。

 中学の教科書を全て出すと、引き出しの中身が半分になって、支えのなくなった教科書がばたばたと倒れた。
その一番上に倒れた教科書の裏表紙を見て、スコールは目を瞠る。


(……"レオン"?)


 裏表紙の名前欄に、兄の名前が書いてある。


(なんでレオンの教科書を、俺が持っているんだ?)


 手に取って開いてみると、四年生の理科の教科書だった。
あちこちに波線や二重線が書かれており、注意するべき点、要点となるポイント、暗記しなければならない単語などに印が振ってある。

 ひょっとして全てレオンの教科書なのだろうか───と、確認してみると、二年生から六年生までは殆ど全てがレオンの教科書だった。
一年生のみ、スコールの名前が書いてある。
本の発行時期を確認すると、一年生のものはスコールの在籍時の年数と合致するが、レオンの名前が書いてあるものは、スコールの年齢から八年前に発行されたものとなっている。


(…やっぱり、レオンが使っていた教科書だ)


 レオンとスコールの年齢差は八歳。
教科書が発行された年数は、レオンが小学生だった時期と合致する。

 問題集や算数ドリルは、全てスコールの名前が書かれていた。
教科書だけがレオンの時代のものなのだ。
譲られたのか、と思ったが、スコールは違和感を感じて首を捻った。


(譲って貰った覚えなんか、ない。大体、俺が小学生になった時には、レオンはもう……)


 レオンは愚か、レオンの教育係をしていた人物も、父も、スコールの傍にはいなかった。
スコールはこのマンションに移り住む以前に住んでいた、広い邸宅の中で、ずっと一人で過ごしていた。


(でも……この教科書には、見覚えがある)


 丁寧な使われ方をし、保存環境も良かったお陰で、教科書の劣化は少ない。
しかし、使われていたと言う形跡として、あちこちに記されたマークや波線、ページの角の折り目は、スコールが辛うじて思い出した教科書の様子と重なった。
所々に記された文字には、スコールが自分で書いたと判る文字もある。
ミミズがのたくったような子供の字だったが、確かに自分が書いたものだ。
───その隣に、スコールの字よりも幾らか綺麗な字が書いてある。


(……レオンの、字?)


 レオンの持ち物だったのなら、レオンの字が書いてあっても可笑しくない。
その字をなぞるように、二重に書かれた線もあった。

 スコールの脳裏に、記憶の奥底に封じ込めていた、幼い頃の情景が浮かんだ。
教科書を開く度に見る文字、波線、手書きのメモ記号の一つ一つに、自分は喜びを抱いていた。
これは兄の書いたものだと確認するように眺め、兄の背中を追うように、兄の字をなぞっていた。

 どうしてそんな事をしていたのだろう。
スコールは、床に散らばった沢山の教科書を見詰め、思考の海に沈む。
ティーダに言われるまでずっと忘れていた幼い頃の記憶を、もう一度、もっと深い場所まで掘り返して行く。


(レオンから譲られた訳じゃなかった。使って良いって、レオンが言った訳でもない)


 なら何処で、と考えて、ゴミ袋に入った教科書が思い浮かぶ。


(そうだ。貰ったんじゃない。捨てるなら頂戴って、俺が言ったんだ。レオンが使っていたものだから、捨てないでって───)


 一体誰に、そんな事を頼んだのだろう。
それは、幾ら考えても、思い出す事は出来なかった。
その代わり、教科書の入ったゴミ袋を渡されて、一所懸命に入っているものを探っていた事を思い出す。

 捨てないで。
僕が使うから、捨てないで。
幼いスコールはそう言って、掻き集めた教科書を全て持って行った。
学校で配布された新しい教科書もあったのに、古びた教科書を使って、ボロボロの本を殊更に大事にしていた事を揶揄われた。


(なんでそんな事……)


 幼い頃、誰も自分の傍にいてくれない事に、何度泣いたか判らない。
だから、きっと、誰かの温もりが欲しかったのだろうとは思うけれど、何故、自分の事など気にもかけてくれない、冷たい兄の面影に縋ろうとしたのかが判らない。
小学生になる前、傍にいてくれた"誰か"に縋るのなら、まだともかく────


(───"誰か"って、誰だ?)


 ふと浮かんだ疑問に、スコールは眩暈に似た感覚に襲われる。

 幼い頃の記憶の大部分が、虫食いになっている気がした。
あちこちに大きな穴が開いて、全容がまるで見えない。
幼い頃、自分の身に何が起こったのか、その周りでどんな事があったのか、スコールは思い出す事が出来なかった。

 その事に気付いた途端、沢山の疑問が次から次へ浮かんでくる。

 使い古された、兄の教科書。
それを棄てる事なく、大事に大事に仕舞っていた自分。
それさえ忘れてしまっていた事。

 一人ぼっちで過ごした日々。
その時、父は仕事に忙しく、では兄は何処にいたのだろう。
同じ家に住んでいたのなら、顔を合わせる位の機会はあった筈なのに、そんな光景は記憶にない。
自分の傍にいてくれない兄の幻影を、いつまでも追い駆けていたのは何故。

 誰かの言葉が、頭の中で蘇る。


『君が良い子にしていないと、お兄さんの大切な勉強の邪魔になるんだよ。だから良い子で待っていようね』


 小さな子供に言い聞かせるような、優しい声音だった。
しかし、スコールはその声の主を思い出す事が出来ない。
だが、言葉だけははっきりと思い出す事が出来た。
何度も何度も、刷り込むように繰り返し聞かされた言葉だと言う事も。


(誰だ。何だ、一体。さっきから。どうしたんだ、俺)


 胸の奥がずきずきと痛み、喉奥に蓋をされたように息苦しくなって、スコールは胸元を握り締めて蹲った。
呼吸のリズムが短くなり、一定間隔ではなくなって行く。

 頭の中で、朧気にピントの合わない光景が、幾つも浮かんでは消えて行く。
それは全て、スコールが嘗て住んでいた、あの広い邸宅で起きた出来事だった。

 一人で寝起きをして、一人で食事をして、一人で学校に行く。
学校で苛められて、怪我を作って泣きながら帰っても、「お帰り」と言ってくれる人はいなかった。
けれどスコールは、いつか「お帰り」と言ってくれる人が帰って来てくれると信じていた。


(帰って……────?)


 まるで、それ以前は誰かがいてくれたような言い方ではないか。
父もいない、兄もいないのに、誰がスコールを出迎えてくれたと言うのだろう。

 時々、父が「お帰り」と言ってくれた事を覚えている。
けれど、それは電話口での話で、スコールは幼い頃に父から直接その言葉を貰った事はない。

 その言葉を貰った時も、寂しい気持ちは消えていなかった。
何かが足りない、誰かがいない、そんな感覚に囚われていて、スコールは笑っていても寂しかった。
父はそんな息子の様子を感じ取ったのか、"誰か"を「呼んで来てくれないか?」と言ったのだけれど、


(駄目って、俺が言った)


 呼んだら駄目。
邪魔しちゃ駄目。
幼いスコールは、そう言いなさいと言われて、幼いスコールは言われるままに父を止めた。


(邪魔しちゃ駄目って────)


 誰の、と考えてから、もう一度あの言葉が蘇る。


『君が良い子にしていないと、お兄さんの大切な勉強の邪魔になるんだよ』


 お兄さん。
兄。
レオン。
レオンの邪魔をしてはいけない。
大事な勉強をしているのだから、自分は我儘を言わないで、良い子で待っていなければいけない。
スコールは、その言葉を信じて、良い子で誰にも迷惑をかけずに待っていれば、兄が帰って来てくれるのだと信じていた。

 小さな頃、いつでも手を引いてくれた優しい兄が、帰って来てくれるのだと────


(……あ……)


 ずっと思い出せずにいた、幼い自分の手を引いてくれた"誰か"。
優しく笑う少年の貌が思い浮かんで、スコールは頭の靄が一気に晴れたような気がした。



◇◆◇◆   ◇◆◇◆


 三箇日も末尾となれば、冬休みも後残り僅か。
指折りカウントダウンをするまでもなく、学生達が皆嫌う新学期が目の前に迫っている。
其処まで至っても、冬休みの課題が終わっていない生徒と言うのはいつの時代もいるものであった。

 スコールは年末年始までに全ての課題を終わらせたので何も心配は要らないが、ティーダはそうではなかった。
一月二日に父が海外へ戻ってしまった為、一人で課題に齧りつく。
しかし、元々勉強が好きではないティーダの集中力が長続きする訳もなく、彼は年始の内からスコールに度々救援要請をしていた。
仕方のない奴、と冬休み終了まで残り数日となって、スコールもティーダの要請に応じる事にした。

 行ってみると、ティーダとヴァンとジタンと言った、いつもの面子が揃っていた。
まさか三人揃って終わっていないのかと問うと、ヴァンとジタンは残り僅かで、あと一日あれば終わると言う。
それぞれ兄に手伝って貰ってなんとか片付けられた、と言うと、頼る者が身近にいなかったティーダがこれでもかと嘆き悲しんだ。


「親父さんに教えて貰えば良かっただろ」


 最後の一枚だと言う数学プリントと向き合いながら、ヴァンがティーダに向かって言った。
その言葉に、蒼い顔で問題集を埋める作業をしていたティーダが、恨めしそうな瞳でヴァンを睨み、


「それが出来る頭じゃないんスよ、親父は」
「……確かに。こう言っちゃ悪いけど、ティーダの親父さんって、勉強とか苦手そうだよな」
「苦手そうじゃなくって、マジで駄目っス」


 シャーペンを遊ばせながら言ったジタンに、ティーダは深々と溜息を吐いて訂正した。


「その癖、俺には偉そうに……」
「文句言ってる暇があったら、早く解け。終わらないぞ」


 ティーダの父親への愚痴が始まる前に、スコールが遮った。
虚ろな瞳がスコールを見上げ、もう無理、と訴える。


「…今やってるページと、次のページが終わらなかったら、土産に持って来たケーキはなしだ」
「げっ! そりゃないっスよ〜!」
「だったらやれ。判らない所は教えてやるから」
「……全部判んないんスけど」


 ティーダの言葉に、スコールは眩暈を覚えた。
だが、此処で自分が放棄すれば、ティーダは課題が終わらないまま新学期を迎える事になる。
後で恨み言を言われる位なら、とスコールは一念発起する事にして、ティーダと共に問題集と向き合った。

 一つ一つ教えながら解かせて行くスコールと、うんうん唸りながら問題を一つずつ処理して行くティーダ。
そんな二人を、ヴァンとジタンがしばし見詰め、


「なー、スコール。スコールってさ、頭良いけど、判らない問題とかってあったりするのか?」


 ヴァンの問いに、スコールは眉間に皺を寄せて顔を上げた。


「あるに決まってるだろ」
「苦手な教科もある?」
「当たり前だ」


 スコールは、テストでも高得点を取り、成績優秀で知られているが、決して天才などと言う人間ではない。
スコールの成績は、全て自分自身の努力で賄われているものだ。
だから当然、苦手な分野と言うものは存在する。

 何を当たり前の事を聞くんだ、とスコールは思うのだが、ヴァンは少々意外そうな顔をしていた。


「じゃあ、判らない問題を誰かに教わるって事もあるのか? 学校の先生とかじゃなくて、例えば家にいる時、レオンとか」


 ヴァンもジタンも、勉強で判らない所があれば、先ず兄に聞く。
家にいる時、一番身近にいる、頼れる存在だからだ。
スコールの場合は、レオンがそれに当たるだろう。

 頭をがしがし掻いて首を捻るティーダの傍らで、スコールは口を引き結ぶ。
思い出すように数拍の間を置いて、スコールは首を横に振った。


「レオンに勉強を教えて貰った事はない。レオンも自分の勉強とかで忙しかったからな」


 スコールとレオンの年齢差は八歳───スコールが小学生になった時、レオンは既に中学生になっており、高校受験を控えていた。
弟に甘い兄とは言え、人生の分岐点にも成り得る時期に、弟に構ってばかりはいられないだろう。

 スコールの言葉に、ああそうか、とヴァンも納得し、


「今も? 教えて貰ったりとか、してない?」
「今の方がレオンは忙しい」
「あ、そっか。社長だもんな」


 今度もヴァンは納得した。
ジタンも、そりゃそうだな、とスコールの言葉にこれ以上疑問を呈する事はなかった。

 学校以外で、スコールは誰かに勉強を教わった事はない。
教育係として兄弟の傍にいた人物にさえ、スコールは教えて貰った覚えはなかった。
教育係は、専ら兄の教育にのみ熱を注いでおり、弟のスコールには干渉さえする事なく、スコールは存在すら忘れられたように放置されていた。
スコールにとって勉強とは、自力で全てこなさなければならないもので、誰かに、増して兄に教えて貰う事など出来ないものだった。


「誰にも教わらないで勉強できるなんて、凄いな。俺、判らない所があると、もうやる気にならないよ」
「オレもだなー。クジャはこんなものも判らないのかって馬鹿にして来るけど、教えて欲しい事は、一応教えてくれるんだよな。あれがなかったら、オレもティーダと同じ感じになってそう」


 次のページの問題を必死で解いているティーダを眺めながら、ジタンが言った。
ヴァンもその言葉に、俺も兄さんがいなかったら、と呟いている。

 二人の言葉を聞きながら、違う、とスコールは思った。
スコールとて、何の理由もなく、一人で勉強して来た訳ではない。
判らない問題、どうしても解けない問題にぶつかった時、もう勉強なんかやりたくない、と思った事だってある。
それでも止める事なく、習慣になるまで勉強を続けられたのは、その根底に"兄に逢いたい"と言う思いがあったからだ。


(……昨日まで忘れてたけど)


 何が理由だったのかは判らないが、逢えなくなってしまった兄を追って、彼に逢いたい一心で、幼いスコールは勉強していた。
きちんと勉強して、良い成績を取って、誰にも迷惑をかけず、皆に褒められる"良い子"になれば、いなくなってしまった兄と再会できると信じていた。
それが、幼いスコールの唯一の支えであり、全ての原動力だった。

 昨日、大掃除の最中に見付けたもののお陰で、スコールは幼少の頃の自分を取り戻した。
だが、やはり多くの記憶は未だに虫食いになっており、思い出せない部分も多い。
どうして兄が突然いなくなったのか、兄がいない間どうやって自分が過ごしていたのかも判らない。


(…でも、思い出さない方が良いかもな。もう昔の俺達じゃないんだから)


 今現在の兄弟の関係は、酷く歪で、噛み合わない歯車を重ね合わせて無理やり回しているような状態だ。
幼い頃に思い描いていたような関係には、どう足掻いても戻れまい。


(大体、レオンは俺の事が嫌いなんだ)


 そう思うと、ずきり、と胸の奥が強く痛む。
歯の根を噛んでそれを殺し、自分の心の揺らぎから目を逸らして、スコールは小休止用の飲み物を入れて来ようと席を立った。



 夕方までティーダの課題に付き合い、ヴァンとジタンが帰宅した後、スコールはついでにとティーダ宅で夕飯を作った。
何故か料理だけは壊滅的なティーダにとって、夕飯とは総じて外食、若しくはコンビニ弁当を指す言葉である。
父親であるジェクトも料理(と言うか、彼の場合はそれに限った話ではないが)がまるで駄目なので、家出していたスコールが帰った後は、親子揃って外食とコンビニ弁当で食い繋いでいたそうだ。
親子揃って料理が出来ないので、仕方がない事とは言え、やはり外食続きとコンビニ弁当ばかりでは栄養が偏ってしまうもの。
特に、ティーダもジェクトも肉好き野菜嫌いなので、著しい野菜不足に陥っていた。
「野菜ジュースを飲んでいるから大丈夫」と言う理屈は、スコールには通じない。
通じて溜まるか、とスコールは思う。
スコールも食が細いので、年齢で見る平均的な栄養素を全て摂取しているかと言われれば口を閉ざすしかないが、少なくとも、ティーダとジェクトのように、肉と炭水化物のみしか食べない、と言う事はない。
彼の家に居候している間、差し出がましいと思いつつも、「バランスを考えろ」と親子を一喝したスコールに非はあるまい。

 ティーダの分の食事だけを作り、家に帰っても良かったのだが、スコールは彼と夕食を共にする事にした。
ティーダは、平時は殆ど一人暮らし同然であるが、静かな家の中で一人で食事をするのを嫌った。
スコールは、家に帰った所で、兄と夕食を共にする事もないし、兄は兄で会社の付き合いやら何やらで食べて帰る事も多い。
家で食事を採るとしても、スコールと一緒にテーブルを囲む事はない。
そんな家で一人で食事を採る位なら、気心の知れた友人の家で、テレビのバラエティ番組にツッコミを入れる声をBGMにしていた方が、余程食事も進むと言うものだ。

 夕飯の残りは冷蔵庫に入れ、多めに作った味噌汁は朝食に食べるように言って、スコールはティーダの家を後にした。
冬の夜は寒く、遠くはないが近いとは少々言い難い距離を歩くのは億劫だったので、スコールは大きな通りに出た所で、タクシーを捉まえた。
暖房の効いたタクシーの中で、スコールはぼんやりと外を眺めながら、今日の友人達との遣り取りを思い出していた。


(……やっぱり普通、兄って言うものは、弟の面倒を見るものなんだろうな)


 課題で判らない所があると、兄に教えて貰うヴァン。
同じように教えて貰う事もあれば、喧嘩もするし、仲直りもすると言うジタン。

 "兄弟"と一言で括っても、その在り方は様々だ。
ヴァンのように誰の眼から見ても親しかったり、ジタンのように一見喧嘩ばかりしているように見えたり───どれが正しい、と言う事はないのだろう。
兄弟が今の形に至るまでには、それぞれの過程があり、どれも一概に同じになる事はあるまい。
年月が経つ内に、少しずつ人間の性格は変化して行くから、それに合わせて、兄弟の距離感や付き合い方も変わって行くものだろう。
例えば、幼い頃はとても仲良くしていたのに、大人になったら顔を合わせる事さえ厭うようになるとか───……


(……俺達も、そうだった───気がする)


 昨日から少しずつ、少しずつ、思い出されて行く幼少の記憶。

 幼い頃のスコールは、よく泣いていた。
転んで怪我をした、怖い夢を見た、お気に入りのクレヨンがない、そんな些細な事で直ぐに助けを求めては泣いていた。
その度、年の離れた兄が飛んできて、大丈夫、と言って慰めてくれた。


(今じゃ考えられない事だな)


 年の離れた兄は、幼かったスコールにとって、何でも出来るヒーローのような存在だった。
彼がいてくれれば、怖い事など何もない。
逆に言えば、彼がいなければ、スコールは世界の全てが怖かった。
だから無心に兄を追い駆け、どんな時でも彼の手を求めていたのだろう。
求められる兄が、どんな気持ちでいたのか知りもせずに。

 ずきずきと胸の奥が痛んで、スコールは眉根を寄せた。
呼吸が苦しくなった気がして、首のマフラーを解く。
意識してゆっくりと息を吐き、吸って、スコールは呼吸を詰まらせないように努めた。


(最近、多いな……昨日も同じ感じがあったし。ひょっとして、喘息か? もう治ったと思ってたのに)


 幼い頃に自分が喘息を患っていた事は、忘れてはいなかった。
広い邸宅の中で、一人で息苦しさを必死で耐えていた事を覚えている。
持っていた薬を使えば楽になる事は、幼いながら判っていたので、それを使ってやり過ごしていた。
使っていたのは自分の力で吸い込むタイプの吸入薬で、幼いスコールはいつもそれを持ち歩いていた。
だが、小学六年生になる頃には、喘息の発作もほぼなくなり、体育の授業も普通に出来るようになっていた。

 幼児期に患う喘息の多くは、小児喘息として、六歳から十二歳頃には治っている事が多いと言う。
とは言え、それは症状が表に出ていないだけで、喘息そのものが治る事はない。
体質として付き合って行かなければならないのだと、中学生になった時、世話になっていた医者から説明を受けた。
それでも一年、二年と経って症状が出ない事が確認され、常備するように努めていた薬も必要なくなり、スコールも表面的とは言え"治った"ものとして認識していた。


(再発したのか? こんな時に、面倒だな……)


 ようやく、ストレスによる食欲不振や体調不良が回復していたのに、今度は喘息再発の可能性。
面倒だが、成人喘息と言う言葉もあり、子供の頃に治ったと思った喘息が成長してから再発症と言うケースは珍しくない。
スコールにも十分有り得る話だった。

 タクシーが高級住宅街に入り、程無く、タワーマンションの前で停まった。
料金を支払い、マフラーを持ってタクシーを下りる。
零下の気温が肌を突き刺し、スコールは早足でマンションの玄関を潜った。

 エレベーターに乗り込み、こほ、と咳払いを一つ。

 取り敢えず、一度病院に行った方が良いだろう。
可能性はあるのだから、早目に受診して、貰えるのなら薬も貰って置こう。
それでただの杞憂で済むなら、それでも良い。


(ティーダ達には心配かけたくないし。レオンも、面倒は嫌がるだろうからな…)


 また友人達に心配させるのも、兄の不興を買うのも、スコールは嫌だった。
前者については以前から変わらない事だ。
しかし、兄の不興を買う事を避ける理由については、以前とは理由が違う。

 レオンを不機嫌にさせれば、その夜の性交が激しくなり、翌朝はしばらく起き上がれなくなる。
それもスコールには避けたい事だったが、最近のスコールは、無体をされると言う理由とは別に、レオンの不興を買う事を恐れていた。

 その恐怖を生み出したのは、幼い頃に抱いていた感情を、記憶と共に蘇らせたからだ。

 夢中で兄を追い駆けていた幼いスコールにとって、兄に叱られる事はこの世の終わりも同然だった。
彼に嫌われる事が、スコールにとって何より恐ろしい事だったのだ。


(……馬鹿だな。もうとっくに嫌われてるのに。若しかしたら、子供の時から、レオンは俺の事が嫌いだったかも知れないのに)


 今更、彼に嫌われる事を恐れて何になると言うのだろう。
レオンは、自由な環境で育った───と思っている───弟を疎んでいる。
躯を蹂躙され、心まで壊されようとしている今、彼から「離れたくない」と思っている自分の方が、どう考えても可笑しいのだ。
あれだけの事をされているのに、幼い頃の記憶と感情を取り戻した途端、彼を失いたくない、彼に捨てられたくないと思うなど、普通は有り得ない。
変わり果てた今の兄を見て、幻滅しない自分が、我が事ながら不思議だった。

 ずきずきとした胸の痛みを感じながら、スコールはエレベーターを降りた。
一番奥の玄関扉にカードキーを当てて、ロックを解除する。

 リビングの電気が点いている。
レオンが帰っているのか、と思って足元を見ると、見慣れないハイヒールパンプスが一足、揃えられていた。


(……女?)


 客人だろうか、それとも───と考えて、スコールの眉間の皺が深くなる。
いつまでも引かない胸の奥の痛みが、心なしか強くなったような気がした。

 スコールは靴を脱ぐと、下駄箱に入れて、足早に自分の部屋へ入ろうとした。
しかし、先にリビングの扉が開き、レオンと鉢合わせする。
蒼灰色の瞳がスコールを捉え、笑みを作った。


「お帰り、スコール」
「……ただ、いま」


 柔らかな笑顔に、一瞬、幼い頃の兄の笑顔が重なった。
客がいるから体裁を繕っているだけの笑顔だと判っているのに、優しかった昔の彼が戻って来たような錯覚に陥っている自分に気付く。

 有り得ない、とスコールは頭を振る。
そんな弟に肩を、ぽん、とレオンが叩き、


「客が来ている。ちゃんと挨拶しておけ」


 擦れ違い様に小さな声で言うと、レオンは自分の部屋へ入ってしまった。

 リビングのドアも、レオンの部屋のドアも閉じて、スコールは立ち尽くす。
自分の部屋に引っ込んでしまうのは、簡単だった。
正面にある、行き止まりのドアを開ければ良い。
だが、レオンが「挨拶しておけ」と言ったのだから、従った方が彼の心象を保つには良いのだろう。

 スコールは一つ溜息を漏らして、自分の部屋のドアを開けた。
鞄を投げるように放って、直ぐに出ると、リビングに入る。

 リビングを見渡すと、ソファには銀髪に赤いスーツを着た女が座っていた。
真っ赤な紅を引いた唇に、紅茶のカップが添えられる。
きらきらと光を反射させる紫色のアイシャドウに、長い睫。
閉じていた瞼が持ち上がり、金色の瞳が覗いた。
その金色はじっとカップを見詰めていたが、しばらくすると、スコールへと向けられる。


「あら、失礼。お邪魔していますよ」
「……あ……どう、も…」


 冷たい印象すら思わせる整った顔を、女は微かに和らげ、微笑んで見せた。
スコールは慌ててぺこりと頭を下げる。

 挨拶しておけと言われたものの、何を言えば良いのだろう。
スコールはリビングのドア前に佇んだまま、困惑していた。
何せ、この家に客が来る事は滅多にない。
以前、レオンの秘書であるクラウドが何度か尋ねて来た事があったが、その時は「挨拶しろ」とは言われなかった。
偶然、顔を合わせた時には、会釈程度の挨拶はしたものの、直ぐに自室に戻ってしまったので、会話など殆どしていない。

 困惑していると、女性はカップをテーブルに置き、ソファから腰を上げた。
ゆっくりとした足取りで近付いて来る彼女に、スコールの足が逃げようと後ずさりする。
そんなスコールを見て、女はくすくすと笑った。


「そんなに怖がらなくても、取って食べたりしませんよ」


 そう言って、女はスコールが腕を伸ばしても届かない距離で足を止めた。


「アパレルメーカーの社長を務めています、アルティミシアと申します。お父様とお兄様とは、長い付き合いをさせて頂いています」
「……は、あ……此方こそ、父と兄がお世話になっています」


 なんとか定型に則る形の挨拶を返すスコールを、女───アルティミシアは双眸を細めて見詰める。
握手を求めるように右手を差し出されて、スコールは一瞬困惑したが、おずおずと右手を差し出すと、アルティミシアは笑みを深めてスコールの手を取った。
直ぐに手は離れたが、じっと見詰める金色に、スコールは居心地の悪さを感じて、目を逸らす。

 背後でドアが開く音がして、スコールは慌てて立っていた場所から退いた。
リビングに入って来たレオンは、角隅で隠れるように縮こまっているスコールを見付けると、柔らかな笑みを浮かべた。


「ちゃんと挨拶したか?」


 スコールは小さく頷いた後、足早にキッチンへと逃げ込んだ。
それを見たレオンは微かに眉根を寄せたが、


「可愛い弟さんだこと」


 アルティミシアの言葉を受けて、直ぐに眉尻を下げて笑んで見せる。


「すみません。昔から人見知りが激しい子で」
「構いませんよ。目を見て判りました、とても良い子だと。貴方やお父様が可愛がるのも判るわ」


 キッチンでアルティミシアの声を聞きながら、スコールは密かに自嘲した。
父はともかく、兄に可愛がられていたのは、物心ついて間もない頃までだ。
若しかしたらその頃から、本当はレオンに嫌われていたのではないか、とさえ思う。


(俺、甘えてばかりだったからな……)


 今でこそ、勉強は勿論、食事の用意も掃除洗濯も一人で出来るけれど、昔は自分一人では何一つ出来なかった。
夜も一人で眠れなかったし、トイレに行くのも怖かった。
何かあると直ぐにレオンを呼んで、レオンに手を引いて貰わなければ行けなかった。
手がかかるばかりの弟だったのだ。
レオンだって自分の勉強や生活があったのに、幼い子供はそんな事とは露知らず、自分の願いを叶えてくれる兄にべったりになっていた。
そんな弟を、レオンが内心、鬱陶しいと思っていても、無理はない。

 スコールがキッチンからリビングを覗くと、レオンとアルティミシアは、ソファに座って向かい合っていた。
レオンはスコールに背を向けている為、彼の貌を見る事は出来ない。
アルティミシアは、終始口元に笑みを浮かべており、機嫌が良さそうだった。

 十日前だろうか───スコールは、マンションの玄関先で見た光景を思い出していた。
アルティミシアの車で家まで送られたレオンは、彼女と挨拶のキスをしていた。
レオンが言うには、あれはキスではなく、外国式の単なる挨拶で、口付けもしていないと言っていたが、スコールはその言葉を、そのまま真に受ける気にはならなかった。
スコールが見ていたのはレオンの後頭部だけだし、キスをしたとも、していないとも言える。
だから本当は……と、勝手に想像が働いてしまう。

 じりじりと、胸の奥の痛みに、焼けるような感覚が追加された。
レオンとアルティミシアが口付け合う光景を想像して、唇を噛む。


(……何考えてるんだ、俺)


 冷蔵庫からペットボトルに入ったリキッドコーヒーを取り出しながら、スコールは自嘲を浮かべる。
グラスに黒い液体を注いだ後、牛乳パックを取り出して、コーヒーの中に少しだけ加える。
ブラックのままでも飲めるのだが、なんとなく、そんな気分にならなかった。

 リビングに出る気になれなくて、スコールはキッチンに立ったまま、グラスに口を付けた。
牛乳を少し加えただけなので、コーヒーの苦味は殆ど薄れていない。
その苦味と、胸の内の苦い気持ちが綯交ぜになって行く。

 スコールの脳裏に、以前、ヴァンから聞いた言葉が浮かんだ。


『兄さんに恋人とか出来て、俺は邪魔になるかなあとか思ったら、正直、結構淋しいな』
『知らない奴に横から急に兄さんを取られたみたいでさ、寂しくなるかも』


 つい先日まで、それで自分に飽きてくれるなら、結構な事だと思っていた。
今は、レオンの興味が自分から他へ向いてしまう事が怖い。
性欲処理の道具としてさえ必要なくなったら、レオンは躊躇なくスコールを切り捨てるだろう。
それを考えるだけで、寂しいとか悲しいと言う感情を通り越して、スコールは足下が冷たくなって行く感覚に襲われる。

 それだけではない。
捨てられたくない、飽きられたくない、取られたくない、と言う感情が、スコールの心を支配している。
ただの道具としてでも良いから、レオンにとっての唯一無二でいたい、と思っている。

 そんな事を考える度、馬鹿だな、と言う思考に落ちる。


(俺が今更、レオンにどんな感情を持ったって、レオンは鬱陶しいって思うに決まってる。レオンは俺を自分の物にしたいんじゃなくて、壊したいって思ってるんだから)


 ずきずき、ずきずきと絶え間なく痛みを発する胸の奥。
思考の海に沈んで行く程に、その痛みは強く大きくなって行く。


(目も合わせない、顔も合わせない……そんな生活してても、レオンは俺を邪魔だと思ってた。なのに、もっと俺を見て欲しいとか、他の奴とか、女とか、誰も見ないで欲しいとか、面倒臭いに決まってるじゃないか)


 スコールにとって、現状が続く事が、一番望みに近いのかも知れない。
兄に嫌われ続けながら、壊される為に凌辱され続ける。
なんとも不毛な話だ。
それも、レオンが飽きてしまえば一方的に切り捨てられるのは、想像に難くない。

 子供の頃からやり直す事が出来たら、どんなに良いか。
なんでも願いを叶えてくれるからと、兄に無心に甘えたりしなければ、こんなにも彼に嫌われる事はなかったのではないか。
"もしも"と考えた所で、現実が何も変わらない事は判っている。
しかし、そんな儚い願いを考えてしまう程、スコールにとって、今現在の現実は辛く重いものであった。

 グラスを握り締めた手から、仄かに嗅ぎ慣れない匂いがする。
微かに記憶の琴線を揺らしたその匂いは、いつであったか、レオンのコートから香ったものと同じだった。
匂いは右手、アルティミシアと握手を交わした手から香っている。
ハンドクリームか香水か、何れにしろ、彼女の手から移った匂いには違いない。


(……嫌な匂いだ)


 いつかの不協和音のような強い花の匂いに比べれば、不快感は少なかった。
しかし、他人の匂いが自分の手に沁みついているのだと思うと、自分のパーソナルスペースを侵害されたようで、スコールは眉根を寄せる。

 リビングの様子を覗いてみると、レオンとアルティミシアが顔を近付け合っていた。
アルティミシアの手が、テーブルを挟んだレオンの顔に伸びている。
レオンは振り払おうとしない。
そのまま口付け合うのが思い浮かんで、スコールは目を逸らした。


(恋人じゃないって、レオンは言ってた)


 数日前、アルティミシアとの遣り取りを見たスコールは、レオンに「恋人に誤解されるのではないか」と言った。
その時レオンは、「恋人はいない」と言った。


(────でも、)


 だが、"恋人"関係はなくとも、"愛人"と言う間柄の相手はいるかも知れない。
アルティミシアは、ラグナの代から『エスタ』と長い付き合いを持っていると言っていた。
その関係をより強固なものにする為に、レオンが自らの体を代価として差し出す事は、十分考えられる。
実際にレオンも、会社の利益を得る為、恋愛感情を持っていない女性と肉体関係を持っていたと言っていた。

 思い出した途端に、スコールは一瞬、呼吸を失った。
ブレザーの胸元を握り締め、呼吸器官を広げようと、意識して深呼吸を繰り返す。
ひゅー、ひゅー、と小さな音が喉奥から漏れた。

 頭の中で、レオンとアルティミシアが並び立つ光景が浮かぶ。
妙齢の女と、二十代半ばの青年が並ぶ姿は、正しく絵になる。
打算計算の上で成り立っている間柄だとしても、レオンは彼女の触れる手を払う事はしていないから、心の底では満更でもないのではないだろうか。
アルティミシアの方も、若い燕を気に入っている様子がある。

 スコールの頭には、レオンが以前肉体関係を持っていた女性に対し、大切そうに優しく言い聞かせていた時の事は、残っていなかった。
今のスコールは、眼前の光景と、いつか来るかもしれない兄弟の離別の瞬間への恐怖だけで、思考を埋め尽くされている。

 思い返してみれば、レオンが"客人"を家に上げたのは、これが初めてではないだろうか。
元々、この家に来る人間と言ったら、スコールの学友であるティーダ達や、レオンの秘書を務めているクラウド位のものであったが、女性は先ず家まで連れて来られる事はなかった筈だ。
それを思うと、アルティミシアと言う人物が、レオンにとって如何に特別な人物であるかを示唆しているように思える。

 グラスを持つ手がカタカタと震え、中身の液体が揺れている。
手には、グラスを割らんばかりの力が込められていたが、スコール自身にその意識はない。


(嫌だ)


 降って沸いた女に、兄の全てを持って行かれる。
この身を全て暴かれ、彼の思う通りに作り変えられ、いつの間にか心まで彼のものにと堕ち果てたのに、棄てられる。
その時こそ、自分が壊れる瞬間なのではないか、とスコールは思った。


(嫌だ。嫌だ)


 ひょっとして、この為にレオンはスコールを抱いていたのではないだろうか。
躯を作り変え、心を堕落させてから、打ち捨てる。
レオンは、スコールを壊すのだと言っていた。
彼の言葉が、彼がスコールを棄てる事で、成就されるのだとしたら、今こそがレオンが望んでいた瞬間と言える。


(嫌だ。嫌だ。嫌だ)


 意識して繰り返していた呼吸すら、出来なくなって行く。
自分がどうやって息を吸って吐いていたのかさえ、スコールは判らなくなっていた。
酸素を取り込もうと口を開いても、ろくに息を吸い込む事が出来ず、微かに取り込んだ空気さえも肺まで送られてこない。

 喉からの掠れた音が大きくなって行く。
覚えのある感覚だった。
幼い頃に何度も何度も体験した、喘息の症状だ。

 目の前がぐるりと空転して、ガラスの割れた音が響く。
キッチンの調理台にしがみ付いたが、腕の力も幾許もない。
ずるずると座り込んで、スコールは胸元を抑えて、その場に蹲った。

 息苦しさで朦朧とする意識の中で、スコールは幼い頃にも同じように蹲って過ごしていた事を思い出す。
苦しくて苦しくて、声をあげる事も出来なくなり、立っていられず、かと言って横になっても楽にはなれない。
昔は薬を使って、落ち着くまでしばらく耐えていれば良かったが、今手元に薬は無い。
だが、このまま此処で蹲っている訳には行かない。

 レオンに迷惑になる事、面倒をかける事───それは、幼い頃に禁じられた事だった。
レオンの勉強の邪魔にならないように、彼の手を煩わせてはいけない。
幼いスコールはそれを順守する為に、一人で喘息の苦しみに耐え続けていた。

 自分の喉で鳴る掠れた音すら、聞こえなくなって行く。
死ぬかも知れない、とスコールは思った。
視界がぼんやりと霞み、床に飛び散ったガラスの破片がきらきらと光っている。
大きな透明の破片に兄の貌が映り込んだのが見えた。
蒼灰色の瞳を大きく開かせた兄の貌を見て、幼い頃にも同じ表情を何度か見たのを思い出す。


(また、迷惑かけた)


 幼い頃も、こんな風に、喘息の発作を起こしては、レオンが大急ぎで薬を持って来てくれた。
勉強をしていても、テレビを見ていても、レオンは自分の時間を投げ出して、スコールが落ち着くまで傍にいてくれた。

 幼い頃は、兄はとても優しかった。
スコールはそんな兄の事が好きで、大好きで、少しだけ申し訳なかった。
自分の所為でレオンの大事な時間を奪ってしまう事に、幼いながらに罪悪感を感じていた。
けれど、兄が他の何よりも自分を優先してくれる事は、嬉しかった。


(罰が当たったんだ)


 きっと、甘えてばかりだった自分のツケが回って来たのだと、スコールは思った。
兄に嫌われたのも、兄に酷い事をされたのも、全てスコール自身が招いた事。
嫌われたまま死んでしまうのも、きっと、過去の自分の行いへの罰なのだ。


(ごめん、レオン)


 最後の最後まで、自分は彼の時間を奪っている。
嫌われて当然だ───そう思いながら、スコールは目を閉じた。




≫[籠ノ鳥 5-4]