籠ノ鳥 5-4


 アルティミシアは、ラグナがエスタの社長に就任した時から付き合いのある、アパレルメーカーの社長だ。
扱うブランドは多岐に渡り、女性向けの衣服からアクセサリー、化粧品まで幅広く扱っている。
顧客対象は女性だけではなく、男性向けのものも発信される。
特にアルティミシアが重用しているのは、男性向けのシルバーアクセサリーブランド『グリーヴァ』であった。
今年は『グリーヴァ』をより強く押し出して行く方針らしく、そのモデルとしてレオンを起用したいと言う。
レオンは『エスタ』の支社長であり、モデルではないので、一度は件の話は断ったのだが、ラグナの方から「一度で良いから、モデルをやってる息子が見てみたい」と言われ、半ば渋々了承する事となった。

 レオンとアルティミシアの間は、明確な信頼で結ばれている。
少年期のレオンが社交界にデビューした時、必要な知識や弁えるべき所作を教えたのは、アルティミシアだった。
父であるラグナは、元々一般庶民の出身であった為、そうした知識に疎く、社長就任後にビジネスを通して親しくなったアルティミシアが代わりに教育する事になったのだ。
二人の間柄はその時から続いており、その関係を一言で表すならば、義理の親子か師弟と言うのが近いだろう。

 以前、スコールがレオンとアルティミシアの仲を疑うような口振りをしたが、現実にそのような事は起きないと言って良いだろう。
レオンとアルティミシアの間にあるのは、親子に近しい師弟関係だ。
今でもレオンはアルティミシアの助言を仰ぐ事もあるし、アルティミシアはレオンを見守る立場を崩さない。
男女の関係になる事はない、と言うのが、互いの認識である。
同時に、父ラグナとアルティミシアの仲を疑う者もいるが、これも当事者たちは有り得ない事だと笑い話のネタにしている。
ラグナもまた、アルティミシアに企業経営の本質を教わり、此方も師弟と近しい関係であると言える。
アルティミシアが独身である事、ラグナが妻を亡くして長い事もある為に吹聴される、単なる噂に過ぎない。

 また、レオンとアルティミシアの関係が噂されるに当たって、アルティミシアの一歩踏み込んだスキンシップも原因と言えるだろう。
仕事もあり、一年の半分近くを海外で過ごす事のあるアルティミシアは、海外で沁みついた習慣が癖になっている節がある。
頬を寄せ合わせる挨拶も、その一つだ。
要するに、親しい者とは抱擁(ハグ)をして挨拶をするのが彼女流なのである。
彼女にとってスキンシップは、親愛の情の篭ったサインであって、恋愛とは別のもの───と言う事だ。
それを知っていても、スクープが欲しい新聞記者は、ネタがなければ作れば良いとばかりに、レオンとアルティミシアの仲を勘繰るように取り沙汰する。

 だが、アルティミシアはハグ習慣やスキンシップを自重するつもりはないらしい。
レオンも何度か言及した事があったが、無駄だと悟った。
実際の所、今も頬に触れるアルティミシアの手は、彼女の見た目の妖艶さとは少々ギャップがあり、色事を連想させるものはない。
だからレオンも、彼女に触れられる事は、決して嫌いではなかった。

 ───とは言え、いつまでも触れられていると、流石に些か気まずくなってくる。
ゆったりと頬を撫でるアルティミシアの手に、レオンの眉間に皺が寄せられたのは、致し方のない事だ。
アルティミシアの方はと言えば、レオンの不機嫌を滲ませた表情を気にする事なく、揃えた指でレオンの頬を撫でて、呟いた。


「肌が荒れていますね。ストレスが多いのかしら」
「……ないとは言えませんね。ついこの間まで、師走でしたから」
「良いクリームがありますよ。後で渡しましょう。モデルになって頂くのだから、それ位の補助はしなくてはね」
「モデルの件は、アクセサリーがメインでしょう。俺の肌のケアなんて必要ないのでは?」
「では、貴方は雑誌に掲載されているモデルが、シミやそばかすをそのままにしているのを見た事がありますか?」
「……確かに、あまり見ませんね」


 雑誌の傾向や購読者層、タレントによってはそのままにしているものもあるが、大抵、モデルは見目の良い体格と肌をしている。
モデルを読者の理想像として魅せる為、マイナス要因になり得るものは極力修正されるものだ。

 しかし、彼女が言う程、自分の肌は荒れているものだろうか。
マスメディアの露出もレオンの仕事の一つなので、適度に気を遣っているつもりだが、やはり女性の眼は厳しいものなのか。

 零れかけた溜息を飲み込んで、レオンはテーブルに並べた資料に視線を落とした。
印刷されているのは、アクセサリー店や雑誌等から集めた、ブランド愛好者からのアンケート調査の結果だ。
性別、年代別、季節毎に分けて、新作がどのような評価を得ているか、次にどんなデザインを期待するか、商品と値段の兼ね合いは満足できるものか等々、多岐に渡る項目で細かく調査されている。


「確か、今年度中に若年層向けのアクセサリーの販売を考えていると仰っていましたね」


 資料の一枚を手に取って、レオンは言った。
アルティミシアは紅茶を一口飲んで、ええ、と頷く。


「スポットは十代から二十代後半。だから、貴方を広告モデルに起用したいのですよ」
「今のままでも、二十代に"グリーヴァ"を好んでいる人は多い。顧客が増えるのは、此方としても嬉しい事ですが、元々三十代、四十代以上をターゲットにしているブランドですし、下手に幅を広げると品質の低下が騒がれる可能性もあると思いますが。増して、十代まで幅を広げるとなると、価格を相当下げて、ブランド箔を付与しないと、学生は手を出せませんよ」
「判っています。だからこそ、ですよ。今時の若いサラリーマンだけでなく、高校生や大学生にとっても、貴方は憧れであり成功した男の象徴。でも、貴方は決して、遠い存在ではない。多くの若者から憧れと親近感を抱かれている貴方だから、彼等の目を引き付ける事が出来るのです。更に、三十代、四十代からも一目を置かれている貴方が持つブランドとなれば、信頼性も損なわれません」


 自信を持って言い切るアルティミシアに、レオンは眉尻を下げて溜息を漏らす。


「……貴女は、俺を買い被り過ぎです」
「貴方は、自分の影響力を知らないのですよ。もう少し、視野を広げなさい。力は自覚してコントロールしなければ、いつ足元救われるか判らない、諸刃の剣にもなるのですから」


 はっきりと言い返され、レオンはぐうの音も出ない気分で、肩を落とした。


「協力はしますが……うちはあくまで商社ですし、ただでさえ俺は露出が多いので、これ以上は"出たがり"と思われて、逆効果にもなり兼ねないのでは…」
「何も、新しいメディア媒体に出る事を奨めている訳ではありませんよ。貴方が身に付けているスーツやネクタイ、靴一つとっても、マスメディアに載れば十分広告の役割を果たしてくれます。その時、"グリーヴァ"のピアスやリングを身に付けてくれていれば、十分ですよ」


 アルティミシアの言う通り、雑誌のインタビューを受ける時、どのような服を着ているのかと言う点は非常に重要な事で、着用している服のブランドからすれば、有名人が愛用していると言う箔がつく事で宣伝に一役買う事になる。
判る者には一目で判る良質のブランド、と言うお墨付きを得れば、そのブランドへの購買欲も高まるものだ。

 その点については、レオンも納得しているし、みすぼらしい格好でマスメディアに露出すれば、企業のイメージダウンにも繋がるので、気を付けている。
この手の話題にはついて行けず、家ではあっと言う間に着崩してしまう父も、メディアに露出する時位はしっかりしなければ、と友人達が気を遣っている(彼の本質はまるでそんなタイプではないのだが、これは後に、社員に対して、良い意味でのギャップに受け取られているようだ。彼の場合はそれで通っているので良しとされているが、あれは特殊な例なのだろう)。

 だが、レオンが気になるのは、ターゲットに十代が含まれている事。
曲りなりにも、レオンは大手企業『エスタ』の国内事業を取り仕切る支社長だ。
そんな男が、学生が気軽に手に入れるようなアクセサリーを身に付けると言うのは、企業家のステータスとして、目の肥えた人間に対してはマイナス印象になる可能性もある。

 渋い表情の消えないレオンに、アルティミシアはくすりと小さく笑みを零す。


「貴方に学生向けのアクセサリーを身に付けろとは言いませんよ。貴方には現行の"グリーヴァ"の新作か、規格が上になるものをお願いしようと思っていますから。学生向けには、やはり学生を広告にした方が良いものですからね」
「学生を……」


 アルティミシアの言葉を反芻したレオンは、彼女が何を考えているのか、直ぐに思い当たる事が出来た。


「……それで突然、俺の家に来たいと仰ったんですね」


 溜息を吐いて言えば、アルティミシアの唇が笑みを深めた。

 今から二時間も前になるだろうか。
打ち合わせと会食として、都内のフレンチレストランで食事をした後、アルティミシアはレオンの家に行きたいと言い出した。
突然の申し出に流石にレオンも当惑したのだが、"グリーヴァ"ブランドのモデルの案件について話がしたいと言われ、今はまだ内々の話として進めていた件だったので、人目のない所へ行く事になった。
レオンとアルティミシアの間で下世話な想像を働かせる人間は少なくない為、レオンとしては人払いの出来る場所で済ませたかったのだが、どうにも"師"に対しては、まだまだ頭が上がらない所が多い。
結局、押し切られてしまい、クラウドの運転で家まで彼女を連れて来る事になった。

 アルティミシアをリビングに通した後、彼女は弟の行方について訊ねた。
友達の所に行っていると答えると、弟が帰って来るまでのんびり待ちましょう、と言った。
それだけでレオンは十分腑に落ちない点を拾っていたのだが、今のアルティミシアの言葉で、全て納得が行った。


「スコールをモデルとして使うつもりですか?」
「一目見て気に入りました。無理にとは言いませんよ。貴方とお父様が許して頂けるのであれば、起用させて頂こうと思っています」
「高校生でも大学生でも、読者モデルはいるでしょう。プロの高校生モデルもいた筈です。何も、素人のスコールを使わなくても」
「"グリーヴァ"のアクセサリーに食われない、存在感がある子がいないのです。その点、貴方の弟は良いですね。上手くいけば、かなり化けますよ」
「過大評価です」
「あら。随分と厳しいのですね」


 短く斬り捨てるように言ったレオンに、アルティミシアは意外そうに言ったが、直ぐに笑みを取り戻す。


「私があの子を誑かさないか、心配しているのかしら」
「……貴女がそんな冗談を言うとは思いませんでした」
「ふふ、ありがとう。貴方の言う通り、これは冗談です。でも、モデルの件は冗談ではなく、本気ですよ」


 金色の瞳は、確かに本気を臭わせていた。
アルティミシアの見る目も確かである。
そうでなければ、少年期に社交界デビューしたレオンや、威厳等と言う言葉とは程遠いであろうラグナを気に入り、今まで手を貸してくる事もなかっただろう。

 レオンもアルティミシアの真贋を見極める目は信用している。
だからこそ、レオンが頷く事は出来なかった。


(スコールがモデル? ……冗談じゃない)


 つまり、今まで一切、舞台上に上がる事のなかったスコールが、衆目の前に立つのだ。
そんな事になれば、レオンが彼にしてきた事の全てが露見し兼ねない。
自由を奪い、狭い世界に閉じ込め続けてきたスコールが、レオンの手を離れて行く可能性もある。
認められる訳がなかった。


(スコールは、何処にも行かせない)


 その為には、外の世界の事など、何一つ知らないままにさせなければならない。
今までの人生で歩んできた、自由な道筋は、此処で終わったのだと思わせ、鎖で繋いで何処にも行けないようにしなければ。
家出していた時のように、逃げる事など出来ないのだと、確りと覚え込ませる必要がある。

 眉根を寄せ、唇を噛んで俯くレオンの顔を見て、アルティミシアは首を傾げた。
それ程気を揉ませるような話だっただろうか、と。
決定事項ではないのだし、スコールがごく普通に育ってきた一般人である事は、アルティミシアも理解している。
それを突然、有名ブランドのモデルに起用したい、等と言う話は、家族にそう簡単に受け入れられる事ではあるまい。
アルティミシアとて、一言二言で諦めるつもりはなかったが、斯様にレオンに苦々しい顔をさせる事になるとは思っていなかった。

 家族を巻き込む話を持ち込むには、流石に性急であったかと、アルティミシアは考え直す。
これがもっと他人の間柄であれば、アルティミシアは構わずスコールの獲得に乗り出したのだが、レオンとラグナとは、今後も長い付き合いを続けたいと思っている。
この件は保留ですね、と胸の内で蓋をする事にした。

 苦い顔をするレオンを、アルティミシアが宥めようとした時だった。
キッチンからガラスの割れる音が聞こえ、二人同時に顔を上げる。
キッチンには、アルティミシアと顔を合わせた直後、逃げるように其処に入って行ったスコールがいる筈だ。


「スコール?」


 レオンが呼びかけても、スコールは答えなかった。
自分達の間柄を思えば、無視は当然だろうと、レオンは腰を上げる。
客人の手前、"兄"として、弟の無事を確かめない訳にはいかない。

 キッチンに入ったレオンは、其処に広がる光景に目を見開いた。
ガラスの破片と茶色の液体が飛び散り、弟が調理台の傍に蹲っている。
ひゅー、ひゅー、と言う音が聞こえた。
それは微かに聞き覚えのある音で、レオンの記憶の琴線を激し揺らす。


(……なんだ)


 レオンは、この光景に見覚えがあった。
強い既視感に襲われて、ずきずきと頭の中が激しく痛む。

 蹲る弟と、喘ぐように掠れる呼吸音。
小さな子供の姿がその光景と重なって、レオンは眩暈を起こしていた。
足下に散らばった硝子の破片を踏んだが、痛みは感じない。
それよりも、頭の中で響く痛みが酷く、まるで脳を直接鷲掴みにされて揺さぶられているような気がした。


「レオン、何かあったのですか。レオン?」


 アルティミシアの呼ぶ声が、遠くから聞こえて来る。
レオンはそれに反応する事なく、鈍痛を訴える頭を抑えてよろめく。
キッチン台に捉まって、頽れそうになる体を支えながら、レオンは弟へと近付く。


「スコール。スコール」


 繰り返し呼びかけながら、蹲る少年の肩を揺らす。
スコールは顔を上げる事もしなかった。
スコールは胸元を強く握り締め、苦しげに喘いでいる。

 弟のこの様子には見覚えがある。
幼い頃、喘息を患っていたスコールが、発作を起こした時に見られるものだった。


「レオン────スコール君? どうしたのです?」


 戻って来ないレオンを心配してか、アルティミシアがキッチンに入って来た。
蹲るスコールを見付けたアルティミシアは、目を丸くして兄弟に駆け寄る。


「スコール君。スコール君、聞こえる?」


 アルティミシアがスコールに呼びかけるが、やはりスコールの反応はない。
喘鳴は少しずつ小さくなっていたが、それは安定を意味しているのではなく、彼の呼吸そのものが弱まっているからだろう。


「過呼吸かしら。レオン、お医者様に連絡を────レオン?」


 顔を上げたアルティミシアは、呆然とした表情でその場に座り込んでいるレオンに気付いた。
青灰色の瞳は、蹲って動かない弟をじっと見詰めながら、ゆらゆらと頼りない光を揺らしている。
顔色は世辞にも良いとは言えず、今にも倒れてしまいそうに見えた。

 弟の異変に動揺しているのか。
無理もないとは思ったが、このままレオンまで倒れたら、アルティミシア一人の手に余る。
アルティミシアは、レオンの肩を掴んで強い声で指示を飛ばした。


「今直ぐ、お医者様に連絡をしなさい。主治医がいるなら其処に。呆けている暇はありません。急いで!」
「……っ!」


 我に返ったように、レオンは急いで立ち上がった。
ふらつく身体をキッチン台を支えにして、携帯電話を取りに行く為にリビングへ戻ろうとする。

 その間際、小さく零れた声を聞く。


「……ご、…め、ん……レオ、ン………」


 振り返ると、スコールは蹲ったままだった。
喘鳴は殆ど消えており、呼吸に合わせて微かに上下していた肩も静まっている。
レオンは、その身体がゆっくりと持ち上がって、丸く大きな蒼い瞳が自分を見上げる幻を見た。

 ────ごめんね、おにいちゃん。

 幼い頃、何度も聞いては慰めていたその言葉を、どうして忘れていたのだろうか。



◇◆◇◆   ◇◆◇◆


 ひゅー、ひゅー、と苦しげに繰り返されていた音が消えて行くにつれ、辛そうに強張っていた小さな手足から緊張が抜ける。
助けを求めて、兄のシャツを握り締めて縋っていた体が、少しずつ苦しみから解放されるのを見て、レオンはほっと安堵した。

 膝上に乗せて抱いていた小さな弟───スコールは、生まれつき喘息を患っていた。
母からの遺伝なのだろう。
レオンが知る限りでは、母はとても健康な人に見えたのだが、父の話では違っていたと言う。
気丈な人だったので、夫や息子に自分の心配をさせまいと振る舞っていたのだろう、と彼女が亡くなった後、父から聞いた。
彼女が亡くなる直前に生んだ弟は、その体質をそっくり受け継いでしまったと言う事だ。
赤ん坊の頃から、苦しげに喘いで助けを求める弟の姿を見る度に、母はどんなに辛い思いをしていたのだろう、どんな気持ちでそれを隠していたのだろうと、レオンは今は亡き母に思いを馳せる。
そして、弟には決してそんな辛い思いはさせるまいと誓うのだ。

 とは言え、免疫不全や生まれついての体質を思うが儘に改善できるものではない。
特に気管支が弱いスコールは、ハウスダウトや花粉と言った粒子物を吸い込んでは咳き込み、それが喘息を併発させる。
レオンが出来る事は、可能な限り弟の傍にいて、喘息の発作が起きたら直ぐに薬を用意してやる事くらいだ。

 ふぅ、ふぅ、とスコールの呼吸が落ち付いて行く。
もう大丈夫そうだな、と判断して、レオンはスコールを膝上から下ろし、ベッドに横たわらせた。
柔らかい毛布を引っ張って、スコールの肩まで覆ってやる。
其処でスコールの瞼が持ち上がり、零れそうな大きな瞳が兄を見上げた。


「…お、にい、ちゃ……」


 呼吸のタイミングを乱さないように、スコールは恐る恐る、兄を呼んだ。
レオンはスコールの枕元に座って、見上げる弟の頭をぽんぽんと撫でてやる。


「もう苦しくないか?」
「…うん……だいじょうぶ…」


 苦しいの、なくなった。
小さな声でそう言ったスコールを、レオンは注意深く観察し、何かを我慢している節がない事を確認して、もう一度濃茶色の頭を撫でる。
スコールは、自分を見下ろす柔らかい蒼の瞳をじっと見詰めると、もそもそと毛布を持ち上げて口元を隠し、眉尻を下げて言った。


「……ごめんね、お兄ちゃん……」


 消え入りそうな声だったが、兄にはちゃんと届いていた。
突然の謝罪の言葉に、レオンはきょとんと首を傾げる。


「ごめんって……何がだ?」
「……だって……また僕の所為で、お兄ちゃんに迷惑かけちゃったもん……」


 毛布で顔の下半分を隠しながら、スコールはぼそぼそと小さな声で言った。
レオンはそんな弟に苦笑を漏らし、スコールの隣で横になって、小さな体を抱き締める。


「迷惑なんて思った事はないよ。だからスコール、苦しかったり辛い事があったら、我慢しないで、直ぐに俺に言って良いんだぞ」
「でも……」
「誰かの迷惑になるとか、スコールはそんな事は気にしなくて良いんだ。誰も迷惑なんて思ってないし、皆スコールの事が大事なんだから。誰かの迷惑になるかもって、スコールが辛いのを我慢している所を見る方が、俺にはもっと辛いよ」


 自分と同じ、母の面影を強く受け継いだ、柔らかい濃茶色の髪を手櫛で撫でながら、レオンは言った。
柔らかく優しい兄の声は、抱き締めてくれる彼の体温と一緒に、スコールの心にじんわりと温もりを分けてくれる。

 スコールは、すり、とレオンの肩に頬を寄せた。
背中を抱くレオンの腕から伝わる温もりが、とても心地良い。


「だから、スコールが謝る事なんてないんだぞ」


 兄の優しい言葉に、スコールの蒼い瞳から、少しずつ不安の色が消えて行く。

 ドアを開ける音がして、レオンは体を起こした。
ドアの影から、大きな巨体の男が顔を出す。


「スコールの様子は落ち着いたか?」


 男は二メートル越えの身長で、腕や脚も丸太のように太く、巨漢と言う言葉がよく似合う。
不精髭を生やした顔は、一見すると強面に見えるが、笑うと中々愛嬌があった。
頭に巻かれたバンダナは、彼のトレードマークだ。
その中身がどうなっているのかは、レオンもスコールも知らない。

 男の名は、ウォードと言った。
レオンとスコールの父親であるラグナと旧知の仲であり、現在はラグナが社長として就任している大手商社『エスタ』で社長補佐の秘書を務めている。
が、実際の秘書の仕事と言うのは、もう一人の父の友人であるキロスと言う人物が専ら引き受けており、ウォードの役目は、まだ幼い息子二人の世話が主となっていた。

 ベッドに仲良く並んでいる兄弟を見て、ウォードの口元が綻ぶ。


「発作は治まったようだな」
「うん」
「…心配かけてごめんなさい、ウォードさん」


 しょんぼりとした顔で謝るスコールに、ウォードはベッド縁に腰を下ろすと、大きな手でぽんぽんとスコールの頭を撫でた。


「心配はしたが、それはスコールを大事に思うから、当然の事だ。スコールが謝る事はないんだぞ」
「ほら、な。気にしなくて良いんだよ、スコール」


 ウォードの言葉に、皆同じ事を言うだろう、とレオンが微笑めば、スコールは少し安心したように頷いた。
が、「でも」と呟く。


「でも、お父さんのお見送り、出来なくなっちゃった……」


 レオンとスコールの父ラグナは、今日から海外へ発つ事になっている。
海外に手を広げた事業が上手く捗っているか、直接自分達の眼で見て、現場がどのように機能しているかを確かめる為だ。
日程は長期に渡って組まれている為、向こう数ヶ月は此方に帰って来れないだろうと言う話だ。
幼い息子達を連れて行く事も考えたが、レオンは小学校に親しい友人もいるし、スコールは環境の変化に敏感だ。
海外の会社の拠点は大都市の真ん中にある為、体が丈夫ではないスコールに万が一の事があったら───そもそも喘息を抱えているので、飛行機に耐えられるか、それ自体が難しい。
考慮した結果、ラグナとキロスだけが海外へ渡り、息子達とその世話役としてウォードが国内に残る事となった。

 父の出発の日は前々から判っていた事で、二人の息子は空港まで父を見送りに行く予定だった。
しかし、先達ての雨続きに祟られ、スコールが風邪を引いてしまった。
それでも玄関先まで見送りたいと思っていたのだが、タイミングの悪い事は重なるものなのか、喘息の発作が起こってしまい、部屋でレオンと共に落ち着くまで静かに過ごすしかなかった。
代わりにラグナは、出発の時間ぎりぎりまで兄弟に付き添い、スコールに「苦しいの、早くなくなるように神様にお願いしてるからな」と言って、父として息子を思う気持ちを真っ直ぐに伝えてくれた。

 傍にいてくれた兄の温もりと、父がくれた言葉は、スコールを安心させてくれた。
けれど、自分の所為で父の出発が遅れそうになった事と、レオンまで父の見送りが出来なくなってしまった事に、スコールは落ち込んでいた。

 気にしなくて良いって言っただろう、と弟を抱き締め、慰めるレオン。
ウォードは、そんな兄弟を穏やかな目で見詰めた後、ズボンのポケットから携帯電話を取り出した。


「お見送り、今ならまだ、間に合うと思うぞ。電話してみるか?」
「……ほんと?」


 ウォードの言葉に、スコールが起き上がって目を輝かせた。
レオンも、仕方のない事と判っていたとは言え、やはり父の見送りもしたかったのだろう、同じように蒼い瞳が輝く。

 ウォードは二人の頭をくしゃくしゃと撫でて、押し慣れた番号を並べて、テレビ電話機能でダイヤル発信した。
呼び出しの電子音がしばらく鳴った後、液晶画面に父の顔が映る。


『もしもしー、ウォードか? どした? ひょっとして、レオン達に何かあったか?』


 心なしか心配そうに画面を覗き込んでくる友人に、ウォードはくつくつと笑って、携帯電話を息子達に差し出した。


「もしもし、父さん。見えてる?」
「お父さーん」
『おっ?』


 二人で液晶画面を覗き込むレオンとスコール。
画面に映った父の緑の瞳が丸く見開かれた後、きらきらと輝き出した。


『おおお! レオン、スコール! スコール、元気になったかあ!』
「うん!」
『そっかあ、良かった良かった。あっ、元気になったのは良かったけど、無理しちゃ駄目だぞ。お兄ちゃんの言う事聞いて、風邪が治るまで良い子にしてなきゃ駄目だぞ』
「うん。僕、良い子にしてるよ。ね、お兄ちゃん」
「そうだな。父さん、スコールはもう心配ないよ。発作はちゃんと落ち付いたから」
『そっかそっか。うん。良かったあ』


 安心した、と言うラグナの目尻には、涙が滲んでいる。
大袈裟だな、とレオンは苦笑したが、父が自分達を愛してくれる事がよく判るから、嬉しいとも思う。

 フライトの時間が迫っていた為、止むに止まれず家を出たラグナだったが、過保護で知られたラグナの事、息子達が心配にならない訳がない。
スコールの喘息の発作については、レオンもウォードも処置をよくよく心得ているので信頼してはいるものの、体調を崩した息子を置いて行く事は、やはり親心が痛むものであった。
出発間際に元気になった息子達の姿を見て、ようやく胸を撫で下ろす。


『スコール君が落ち付いた事を教えてくれたのかい? レオン君』


 画面外から別の男の声が聞こえた。
ラグナに付き添って出発する予定の、キロスだろう。
レオンは彼の言葉に、それもあるけど、と言って、


「今日の父さんの見送り、きちんと出来なかったってスコールが落ち込んでたんだ。そうしたらウォードさんが、今ならまだ間に合うかもって、電話してくれた」
「だって、行ってらっしゃいするって、約束してたもん。約束してたのに、出来なかったんだもん…」
『スコールぅううう! その気持ちだけでパパ嬉しいぞ! 本当にスコールは良い子だなぁ。レオンもスコールも、俺の自慢の息子だよ』


 うんうんと頷いて、ラグナの手が液晶画面の上を撫でている。
きっと画面に映っている息子達の頭を撫でているつもりなのだろう。

 息子達を褒めちぎる父に、レオンの頬が照れて赤くなる。
スコールは父に「良い子」と褒めて貰ったのが嬉しくて、にこにこと上機嫌だ。


『うーん、やっぱり海外視察、また今度にしちゃ駄目かな? なあ、キロスぅ』
『此処まで来てキャンセルしては、双方の信用に関わるよ。君の気持ちも判らないではないが、この場は我慢したまえ。その代わり、出来るだけ早く帰国できるように努めよう。スコール君とレオン君が心配なのは、私も同じだからな』


 出発を止める事は出来ないからこそ、するべき仕事は計画的に済ませ、早い帰国を。
そうすれば、また息子達と下へ戻る事が出来るのだ。

 キロスの言葉に、ラグナはがしがしと頭を掻いて「しゃあねっかー」と呟く。


『さて、搭乗手続きも終わっているし、我々はそろそろゲートへ向かった方が良いな。国際線の検査は時間がかかるものだ』
「スコール、父さん、出発だって」


 キロスの声を聞いて、レオンはスコールに言った。
スコールは待って待ってと電話の向こうに呼びかける。


「お父さん、お父さん」
『おっ、なんだなんだ?』
「んとね、えっとね。お仕事、頑張ってね。行ってらっしゃい」
『おう! パパ、頑張って仕事して、早くスコールのとこに帰って来るからな!』


 活き活きとした父の返事に、スコールが嬉しそうに笑った。
レオンはスコールの頭を撫でて、自分も液晶画面を覗き込む。


「行ってらっしゃい、父さん。気を付けて」
『ああ。レオンも、病気とか怪我とか、気を付けるんだぞ。スコールの事、頼むな。でも、レオンも無理しちゃ駄目だからな。何か大変な事があったら、直ぐに言うんだぞ』
「うん、判ってる」


 レオンが頷いて、兄弟はもう一度「行ってらっしゃい」と声を揃えて言った。
ウォードが電話を引き取る。


「キロス、ラグナを頼んだぞ。こっちの事は任せておけ」
『心得ているよ』
『こっちこそ、二人を頼んだぜ、ウォード。レオン、スコール、行って来まーす!』


 父の張り切った声を最後に、通信がオフになる。

 ぽふん、とスコールがベッドに横になった。
疲れたか、とレオンが弟を見遣ると、スコールはくすくすと楽しそうに笑っている。
約束した「行ってらっしゃい」が出来て嬉しいのだろう。
レオンも口元を緩めて、ベッドに横になって、スコールを抱き締めた。
レオンの長い横髪がスコールの頬や首をくすぐり、むずむずとした感覚にスコールが身を捩る。


「お兄ちゃん、くすぐったい」
「嫌か?」
「んーん」


 レオンが身体を離そうとすると、スコールの方からレオンに抱き着いた。
ぎゅう、と甘えてくる弟を、レオンも抱き返す。

 ベッドでじゃれあう兄弟の姿に、ウォードも眉尻を下げて和んでいた。
しばらく父と離れて過ごさなければならないと聞いた時、寂しがり屋の弟が泣いて大変だった。
出発の時にも寂しがるのではないかと思っていたのだが、レオンも傍にいるし、この分なら大丈夫だろう、と胸を撫で下ろす。
しばらくしたら、いる筈の父がいない事を思い出し、寂しく感じる事もあるかも知れないが、そうなったらその時に宥めてやれば良い。

 ドアをノックする音が聞こえて、ウォードが振り返る。
兄弟はじゃれ合っていて、音には気付いていないようだった。
代わりにウォードが腰を上げ、ドアを開けに行く。

 ドアを開けると、其処にはレオンとスコールの教育係を務めている人物が立っていた。
真っ直ぐに背中を伸ばし、縁のない眼鏡をしている。
面立ちは少し冷たい印象があり、ウォードは少しこの人物が苦手だったのだが、指導力は確かなものであった。
この人物が教育係として付いて以来、レオンも順調に成績を伸ばしているし、彼が家での勉強時間に苦痛を感じている様子もない。
ウォードも何度か授業風景を見学したが、授業は淡々と進められるのが常で、レオンも無駄話などは一切せずに黙々と勉強に励んでいた。

 この人物が来たと言う事は、レオンの勉強時間になったと言う事だ。
ウォードの予想に違わず、教育係は静かな声で言った。


「レオン様のお勉強の時間だ。お部屋に戻るよう、伝えてくれ」
「ああ、判った。少し待っていてくれ」


 低くハスキーな声で告げられ、ウォードは頷いて、部屋に戻る。
ベッドでは、レオンが起き上がっていた。


「レオン、勉強の時間だそうだが───どうする?」


 ウォードの言葉に、レオンは傍らの弟を見た。

 此処はスコールの寝室で、レオンの部屋は隣にある。
壁一枚を隔てているだけなので、距離で言えば大した事はないのだが、レオンはスコールの傍から離れる気にはならなかった。
スコールは風邪を引いており、咳き込みが続けば喘息も併発させてしまう。
発作を宥める薬は常備しているが、酷い時には薬を取る為に動く事も出来なくなってしまうので、誰かが傍にいるべきだ。
世話役であるウォードもスコールを見守ってくれると判ってはいるが、やはり兄として、体調を崩した弟を放って置く気にはなれない。

 じっと見詰める兄の傍で横になるスコールは、ウォードとレオンの会話の意味を理解していた。
勉強時間はいつも決まった時間に行われており、レオンもその時間は勉強に集中するように努めている。
だから邪魔をしてはいけないと判ってはいるのだが、レオンが傍にいてくれないと、スコールはどうしようもなく不安になってしまう。

 小さな手が、きゅ、とレオンの服の端を握った。
枕に顔を埋め、何も言わないスコールは、自分の我儘と、兄に迷惑をかけたくないと言う思いで板挟みになっている。
そんな弟を見て、レオンはくすりと笑んで、スコールの頭を撫でる。


「今日はこっちで勉強するよ。ウォードさん、俺の学校の鞄、持って来てくれる? 筆記用具とか、全部入ってるから」
「ああ、判った。他に必要なものはあるか?」
「えーと……ああ、社会の教科書と資料集が机に出てる。ノートもあると思うから、それも」


 了解、と言って、ウォードは部屋を出た。
教育係は、先程と同じ場所に表情を変えずに佇んでいる。


「今日はこっちで勉強をするそうだ」
「勉強は自分の部屋でするものだ」
「そう言わずに、今日は大目に見てくれ。スコール様が体調を崩しているから、心配しているんだ。姿が見えないと、それはそれでレオン様の方が落ち付かないだろうから、お二人の為にも、今日はスコール様の部屋で勉強。スコール様も静かに待っていられるだろうから、問題は起きないだろ?」


 ウォードの言葉に、教育係は納得行かないと言うように渋い表情を見せたが、ウォードは撤回しなかった。
レオンが如何にスコールを溺愛しているのか、ウォードもその部下も───勿論、この教育係も───よく知っている。
まだ三歳のスコールは勿論の事、十一歳になったばかりのレオンにとっても、お互いの存在はなくてはならない存在なのだ。
父親が遠い地に出立したばかりと言う事もあって、兄弟一緒にいる方が、精神的にも落ち付くだろう。

 ウォードは、隣のレオンの部屋から、ランドセルと、机の上に出ていた社会の勉強道具をまとめて持って、スコールの寝室へと戻った。
教育係は既に入室しており、レオンと共にテーブルと椅子を用意して、授業の準備を始めている。
スコールはベッドに横になり、兄の代わりに大きなうさぎのぬいぐるみを抱き締めていた。

 レオンにランドセルと教科書類を渡し、ウォードはベッドへ近付いた。
小さな椅子をベッド横に寄せて座ると、丸い蒼い瞳がウォードを見上げ、


「お兄ちゃんのお勉強、いつ終わるの?」


 兄の邪魔をしないように、声を潜めてスコールは尋ねた。
ウォードはウッドシェルフに置かれたデジタル時計を見て、スコールと同じように声を潜め、


「今、お昼の二時だ。あの時計の、前にある数字が3、後ろにある数字が4と5になったら、お勉強は終わる」
「じゃあ僕、それまで良い子で待ってる」
「ああ。そうだ、その前に着替えておこう。さっき、沢山汗をかいただろう」


 ウォードは、ベッド横のチェストの引き出しを開けた。
小さな服が詰め込まれた中から、柔らかく軽い生地の服を選ぶ。
その間に、スコールは起き上がり、もぞもぞと服を脱ごうと奮闘を始めた。

 着替えを始めた弟を、レオンがちらりと見遣る。
衿元から頭を潜らせる事が出来ず、あれ? あれ? ともがいている弟に、手を貸そうか、でも、と迷う兄の代わりに、ウォードがスコールを手伝った。
裾を摘んで上に引っ張ると、すぽん、と頭が抜ける。
子犬のようにぷるぷると頭を振るうスコールに、レオンはくすりと笑みを漏らして、勉強に意識を戻した。



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≫[籠ノ鳥 6-1]