籠ノ鳥 6-1


 元々は、誰の眼から見ても、正しく"理想の兄弟"だったのだ。
兄は弟を大切に愛し、弟は兄に深い憧れと尊敬の念を抱いていた。
兄の過保護と、弟の甘えたがりが少々心配所ではあったが、互いを唯一無二と思い合う幼い兄弟の姿は、誰が見ても心安らぐものであった。

 レオン自身、そうだったと言う自覚がある。
"理想"云々はさて置いて考えるとしても、自分はスコールの事を心から大切に想っていた。
弟を生んで間もなく逝去した母に代わり、彼女の分まで弟に愛を注ぐのだと、父と共に誓った記憶もある。
その時の想いに、嘘偽りもなかった。

 スコールはとても甘えん坊で、人見知りが激しかった。
兄と父、父の友人で物心つく以前から傍にいてくれたキロスとウォード以外には、中々懐く事がなかった。
ラグナの私宅には、庭師やハウスキーパー等が多く住んでいたのだが、そんな人々にも、スコールは滅多に近付かず、専ら兄と父の傍にいた。
レオンが小学校、ラグナが仕事で出払っている時は、世話役のウォードの傍にいるのがお決まりだった。
そして、兄が、父が帰って来たら、いの一番に出迎えて、大好きな家族の腕に抱っこ、抱っことせがむのだ。

 甘えん坊な弟だが、レオンに似て頭の回転は早く、無用な我儘で周りを振り回す子供ではなかった。
赤ん坊の時は自分が世界の中心であるのは、先ず当然の事として───二歳、三歳と、少しずつ周りが見えるようになって来ると、スコールは甘えるのを我慢する様子を見せ始めていた。
兄が勉強、父が仕事をしている時は、邪魔してはいけない、と思い、遊んで構ってとまとわりつく事はしない。
しかし、一人でいるのは苦手なので、誰かの傍にいたい、いて欲しいと思う。
スコールのそんな気持ちを反映した結果、レオンはスコールの部屋で勉強をする事が増えた。
スコールがいつ喘息の発作を起こすか判らず、心配だったので、レオンとしても、その方が安心出来た。
何せ、我慢する事を覚えたスコールは、喘息の発作が起きても、兄や父の迷惑にならないようにと我慢する事を覚えてしまったからだ。

 スコールの喘息は中程度から重度になるもので、酷い時には動く事も、声を出す事すらも出来なくなる。
対処が遅れれば、死んでしまうかも知れない可能性もある程の大発作が起こる可能性もある。
発作予防の薬も利用しているが、それだけで全てが解決するのならば、喘息患者も苦労するまい。
だから、誰かが常にスコールの傍にいて、発作が起きたら直ぐに対処できるようにしなければならなかった。
レオンとラグナはそれが難しかった為、平時はウォードがスコールの様子を監督している。
そして、兄が学校から帰って来たり、休日になる場合は、レオンがスコールの傍に付いているのが習慣となっていた。

 レオンが「弟の様子が気になるから」と、何度クラスメイトからの遊びの誘いを断ったかは判らない。
放課後も急くように帰宅し、友人達は付き合いの悪いレオンに渋い顔を見せる事もあったが、何人かのクラスメイトは理解を示してくれた。
喘息と言う事は、あまり外で遊ぶことも出来ないだろうと、玩具や絵本を譲ってくれた友人には、いつも感謝していた。

 小さな弟がいる為に、自分の時間が奪われているとは、思わなかった。
八歳も年が離れていて、赤子の時から見守っているからか、レオンはスコールの存在を、殆ど無条件に庇護対象として受け入れていた。
時折、外で自由に遊びたいと思う事がない訳ではなかったが、幼い頃のレオンは、学校で自由に過ごしていた。
学校でもスコールの事は心配だったが、まさか授業の途中で抜け出して帰る訳にも行かない。
ウォードも傍にいるし、何かあったら直ぐに学校に連絡が来る筈だと精一杯割り切って、レオンは学校では自分の時間を最大限に楽しんでいた。

 レオンが家で過ごす時間に殆どストレスを感じなかったのは、自分の時間が縛られる原因でもある、スコールのお陰だ。
レオンは、スコールの笑った顔を見る事が、何よりの楽しみだった。
発作を起こし、苦しげな顔をしているスコールを見ている時は、出来る事なら変わってやりたいと、何度思ったか知れない。
その後、苦しみが和らいで、兄の貌を見てほっと安心したように眠りにつくスコールが、小さな手でレオンの手を握るのを見て、この子の兄で良かったと思う。

 スコールもまた、レオンを心から尊敬し、兄のようになりたいと願っていた。
体が弱い自分と違い、丈夫で健康で、頭も良く、優しくて格好良いレオン。
スコールにとって、正しく自分の憧れだった。

 保育園に行く事すら出来なかったスコールの世界は、とても狭かった。
時折、レオンとラグナに手を引かれ、近所の公園に連れて行って貰う事があったが、スコールはずっとレオンの傍から離れなかった。
公園で遊んでいる他の子供達に近付く事もなく、レオンの腰に抱き着いて、駆け回る子供達を遠くから眺めているだけ。
レオンとラグナから、「一緒に遊んでおいで」と何度も促されたけれど、スコールは行かなかった。
兄が子供達に「一緒に遊んでくれる?」と頼んだ時だけ、輪の中に加わっていたけれど、その時もスコールはレオンの後を一所懸命に追い駆けていて、他の子供達の事は、殆ど見えていなかった。
スコールの世界は、兄と、父と、父の友人と言う、ごくごく限定された世界で完結していたのである。

 長男と違い、中々能動的にならない次男に、ラグナはこれで良いんだろうかと悩む事もあったが、だからと言って、外で家族以外の人間と遊んで来いと強制は出来ない。
喘息の心配もあったし、遊んでいる子供達を遠くから見ているだけでも不満そうな様子は見受けられなかったので、この子は大人しい位で丁度良いんだ、とあるがままの息子を受け入れる事にした。
その代わり、スコールが寂しい思いをしないように、目一杯の愛情を注ごうと決めた。
レオンもそれは同様であった。

 生まれつき体が弱い事、喘息を抱えている事など、父兄の心配事は尽きなかった。
二人がスコールに対し過保護になったのも、無理からぬ事と言えるだろう。
何せ、スコールは母の温もりも碌に知らないのだ。
そんなスコールに、レオンとラグナは溢れんばかりの愛情を注いだ。
行き過ぎた点については、キロスとウォード、他にも『エスタ』で社長の家族事情を知っている面々から、育児とはどんなものか、どんな点に気を遣うべきかと、様々なアドバイスを貰い、参考にした。
その甲斐あって、スコールはゆっくりと、けれど順調に、その命を育んで行った。

 スコールの傍で一番長い時間を過ごしたのは、世話役を任されていたウォードだが、スコールが一番懐いていたのは兄だった。
やはり血が呼ぶのかな、とウォードは二人を和やかな目で見ているのが常だ。

 スコールは、学校に行ったレオンが帰って来るのが待ち遠しかった。
ウォードの太い腕に抱かれ、あやされて一日を過ごし、夕方になると玄関へ行きたがる。
其処にいれば、レオンが帰って来た時、一番に「おかえりなさい」と言う事が出来るからだ。
それは物心がつく以前から始まっていて、まだ言葉も覚束ない頃から、まるで本能で悟るかのように、兄の帰宅が近付くと、ウォードに玄関に連れて行ってと急かしていた。
そして、玄関のドアが開くと同時に、「おかえりなさい」と言って、レオンを求めるように、小さな手を背一杯兄に向って伸ばすのだ。

 レオンは、いつも息を切らせて帰って来て、幾らも呼吸が整わない内に、出迎えたスコールを抱き締めた。
夏場の少し上がった兄の体温や、逆に冬の冷たい兄の体温も、スコールは好きだった。

 スコールが喘息の発作を起こすと、レオンはいつも真っ先に気付いた。
彼が勉強していて傍にいない時は、ウォードが面倒を見てくれるのだが、そんな時でもスコールの異変を察知すると、レオンは自分のするべき事を投げ出して、スコールの下へ駆けつける。
スコールが発作の苦しさを我慢する事を覚えてからも、それは同じだった。
我慢してしまうと、余計に発作を悪化させてしまうのだが、幼いスコールにはそれが判らなかった。
とにかくこの場は我慢して、レオンやウォードの迷惑にならないようにしようと、子供の精一杯の気遣いだった。
それでも、スコールが息苦しさを堪えようとしていると、レオンは僅かに変わった顔色や、咳を耐える仕草に気付いて、大急ぎで薬を用意する。
その度にスコールは、また迷惑をかけた、と落ち込んでしまうのだが、気にしなくて良いと言われ、仄かに安堵を感じていた。

 兄弟は、いつも同じベッドで眠っていた。
レオンの部屋も、スコールの部屋も、それぞれ設えられていたのだが、幼いスコールを一人で眠らせるのは心配だ。
発作は夜間や明け方にも起こる。
誰も傍にいない状態で発作が起きたら、スコールはそのまま何も出来ずに死んでしまうかも知れない。
だからレオンは、眠る時もスコールの傍にいる事にし、自分の部屋は勉強用にして、寝る時はスコールの部屋でと決めていた。
スコールも一人寝は寂しくて嫌いだったから、大好きな兄が一緒に寝てくれる事は、とても嬉しかった。

 レオンにとって、スコールは、愛すべき存在だった。
自分の身の全てで以て、守り通すと心に誓った。

 スコールにとって、レオンは、憧れの存在だった。
自分を守ってくれる人、だからいつかは、自分がレオンを守れるように、彼のように強くなりたいと願っていた。

 ───そんな兄弟が、一体、何処から憎み合うように歪んでしまったのだろう。
何か切っ掛けがあった筈なのに、記憶の深淵に沈んだピースは、どれだけ探しても見付からなかった。



 突然の過呼吸、呼吸困難から始まって、数年振りに喘息の発作を再発させたスコールは、その日の内に病院に入院する事になった。
過呼吸に関しては、精神的な要因から発症する"過換気症候群"と診断され、救急車を呼んだ時点で既に意識不明に陥っていた事もあり、しばらくの入院は当然の処置だろう。

 レオンは病院までスコールに付き添い、その間にアルティミシアが海外にいるラグナに連絡をした。
スコールは病院に運ばれた時、呼吸停止状態まで陥っていたが、幸い、無事に処置を終え、一命を取り留めた。
肺には大量の痰が詰まり、以前から喘息の症状が出ていたのではないかと予測された。
レオンはこれについて医者に問われたが、平時、弟とは擦れ違いの生活をしていると良い、殆ど関与していなかったと説明した。
スコールが既に十七歳と言う、ある程度自己判断の出来る年齢に達していた為か、レオンが医者から強く叱責される事はなかったものの、幼少期に患った喘息は一生治る事はなく、あくまで発作や症状が落ち付くだけで、何が切っ掛けで再発作を起こすか判らないものであると口酸っぱく説明された。

 峠を越えたスコールの入院が決まり、必要な手続きを済ませた後、レオンは病院で一夜を明かした。
翌朝、アルティミシアからの連絡を受けたのだろうクラウドが病院に来て、待合室のロビーに座っていたレオンを見付けると、彼は目を丸くした。
「あんた、死にそうな顔してるぞ」と言うクラウドの言葉には、「そうか」と返しただけで、レオンはそのまま出社する事にした。
クラウドには「仕事馬鹿」と呆れられたが、気にしなかった。

 しかし、出社してもレオンの気は漫ろになっており、クラウドから「やっぱり帰れ」と強引に帰宅させられた。
会議やら会合やらとやる事があったのだが、スコールの事はラグナにも話が届いているし、家族の大事に野暮な事を言う奴は蹴飛ばしておけ、とクラウドに一蹴されてしまった。

 マンションに帰宅したレオンは、しばらくの間、無気力だった。
自分の部屋のベッドに倒れ込んで、眠る訳でもなく、ただじっと天井を見詰める。
そうしている内に、窓からは西日が差し込む時間帯になっていた。

 橙色の光を反射させる天井を見詰めながら、レオンは昨夜の出来事と、其処で見た幻を思い出していた。


(あれは……昔のスコールだ)


 何も知らない、自由も不自由も知らない、小さな子供だった弟。
レオンが長らく忘れていた、無心に兄を慕っていた弟の姿だ。

 喘息の発作を起こす度に、彼は「ごめんね」と謝っていた。
口癖のように何度も告げる弟に、レオンは眉尻を下げて、「謝らなくて良い」と何度も言った。
そうして抱き締めると、スコールは安心したように綻んで、嬉しそうに笑う。
レオンは、弟のそんな顔を見るのが好きだった。

 ごろり、と寝返りを打って、ベッドシーツに顔を埋める。
じくじくと痛む胸の奥と、頭の中をコツコツと小突かれているような違和感を感じながら、レオンはシーツの端を握り締めた。


(今更、昔の事なんて思い出してどうする)


 無邪気に兄を慕い、一所懸命に後ろをついて来た幼い弟は、もう何処にもいない。
今のスコールは、レオンを幾ら憎んでも憎み切れない筈だ。
何も知らない体を暴き、有ろう事か食われる悦びをその体に無理やり覚え込ませたのは、他でもないレオンである。
最近のスコールは、性行為に対して抵抗する事を止めていたが、彼の心が躯同様に服従を受け入れていない事は、目を見れば判った。
蒼い瞳には常に悲しみと畏怖、そして拭い切れない憎悪があって、レオンを睨み付けていた。

 憎まれこそすれ、今更、彼に慕われる訳がない。
それはレオンも判っていた事だし、だからこそ彼を犯した。
彼の心も体もズタズタに引き裂いて、壊れてしまえば良いと思っていたから、彼を雌に仕立てて抱いて来たのだ。
いつか崩壊する彼を見る為に。

 それなのに、何故だろうか。
重度のストレスで過呼吸に陥り、大発作を起こして緊急搬送されたスコールを見て、レオンの心は喜ぶ所か凍り付いた。
呼吸を失い、唇を紫色に変色させ、何度呼び掛けても、睨むことさえしないスコールを見て、レオンは自分の足元が崩れて行くのを感じていた。


(……何故……)


 何故、そんな感覚を覚えたのだろう。
何故、失いたくないと思ったのだろう。

 彼に、自分の傍から逃げる事は愚か、死ぬ事さえ許さないと言った。
スコールの未来も、命も、全て自分が掌握し、彼の自由を奪うのだと言った。
そんな言葉を告げたのだから、今のスコールは"自分の許可なく死のうとした"のだ。
勝手な事をするなと、理不尽な怒りをぶつけてやりたい気持ちもある。
しかし、それ以上に、兄弟だから、支配しているからと言う理由とは無関係に、死なないでくれ、と思った。

 幼い頃の事を、唐突に思い出したからだろうか。
自分を無邪気に慕っていた小さな弟が、スコールが死ぬ事で、永遠に失われる事を恐れたのか。
いや、そもそも幼い弟はもう何処にもいないのだ。
彼は成長し、自分で善悪を判断し、自分の敵が誰であるか判っている。
スコールが無事に回復したとしても、レオンを無心に慕っていた弟は、決して帰って来る事はない。


(…今になって、愛着でも湧いたのか?)


 気に入っていた玩具を失くしかけて、悲しんでいるのだろうか。
それだけで、こんなにも無気力になるものだろうか。

 レオンは、何かに執着した事がなかった。
自分の自由になるものなど何一つなかったレオンは、心から欲しいと思ったものを、自分の手で手に入れた事もない。
求める事が出来る物は限定され、必要と判断された物のみ、他者の手から与えられる。
必要と認められなければ、決して手に入らない。

 それを思えば、レオンがスコールに対して抱く憎しみにも似た感情は、生まれて初めて抱いた"執着"だったのかも知れない。
スコールが他人の手によって辱められた時、レオンの下から逃げようと家出した時、レオンの苛立ちは容易く臨界点を超えた。
赦さない、と怒りと共に似た感情に翻弄され、彼を捕え、押さえ付け、これ以上ない程の恥辱に貶めた。
そうして、逃げ場がない事を痛感し、少しずつ従順になって行くスコールを見て、レオンの渇きと苛立ちは消えて行った。

 カチ、カチ、カチ、と時計の音が静かな部屋の中に反響する。
どれ程時間が経ったのかと起き上がってみると、空はまだ夕焼けのままだった。
冬の夕空は変化が早いと言うのに、今日はやけにゆっくりと時間が過ぎている気がする。

 ワイシャツの胸ポケットに入れていた煙草を取り出すと、箱ごと潰れていた。
ベッドに俯せになった時に潰したのだろう。
中身が無事なら良い、と蓋を開けると、空になっていた。
帰りの車の中で吸い切ったのだと思い出し、ゴミ箱に向かって投げる。
煙草はゴミ箱の縁に当たって、ぽとり、と外に落ちた。

 ターゲットを外した煙草を拾いに行くのが面倒で、レオンはベッドの上に座ったまま、ぼんやりとゴミ箱の傍らで潰れている煙草を見詰める。


(……もっと前から、喘息の症状は出ていたんじゃないかって言ってたな……)


 医者にそう言われた時、レオンは知らぬ存ぜぬを通した。
だが、内心では判っていた。
いつからか、性交の後、レオンは眠るスコールの傍らで煙草を吸うようになった。
スコールが家に帰っていない間に、彼の部屋が白く煙る程に燻らせていた事もある。

 煙草など百害あって一利なし、喘息を患っている人間には尚更だ。
確実に、自分が原因で、スコールは喘息を再発させた。

 レオンはクラウドからヘビースモーカーと言われている。
自分でもその自覚は薄々感じていたが、好んで煙草を愛用している訳でもない。
幼い頃から抱え続けてきた、原因不明の苛立ちや焦燥が、煙草を吸っていると落ち着いたのだ。
単なる一時的な効果で、長い目で見ればニコチン中毒になって反って悪循環になるのだが、判っていても止められなかった。
常に胸の内で煮える苛立ちは、原因が判らない分、レオンを余計に苛立たせ、いつ爆発するか判らない状態だった。
それを平静に宥める方法として、煙草以外の手段が見付からず、止める事が出来なかった。

 クラウドが言うには、一時は本数が激減していた事があったらしい。
いつの間にか元の量に戻ったけどな、と彼は言った。
その話をしたのはいつだったか、と思い出して、初めてスコールを抱いた後、スコールが見知らぬ男達に犯される事件に遭うまでだと気付く。

 レオン宛ての会社用メールに直接送られてきた、凄惨な写真の数々は、既にデータも印刷した写真も廃棄した。
自分以外の誰かがスコールを穢した痕跡など、残しておくのも腹立たしかった。
スコールの躯を、その全てを、自分以外の人間が知った事が、レオンの逆鱗に触れたのだ。

 思えば、あれも奇妙なものだ。
憎らしくて妬ましくて仕方のない相手が、この上なく悲惨な目に遭ったのだから、嘲ってやるだけでも十分だっただろうに、それだけでは気が済まなかった。
見知らぬ男達が触れた痕跡を、あの躯から全て抹消して、自分のものに塗り替えなければならないと思ったのは、殆ど脊髄反射の衝動のようなものだった。
それを衝動のままに実行して、ようやく、レオンの苛立ちは幾らか和らいだ。

 あの時の感情を例えるのなら、己のテリトリーを他人に侵食された怒り、と言えば近いだろうか。
自分の手で壊すのだと決めた玩具を、勝手に横から浚われて、好き勝手に弄られた事が業腹だった。
スコールを壊して良いのは、傷付けて良いのは自分だけだと、レオンは心の底から考えていた。

 スコールがティーダの家に家出していると知った時も、自分の下から逃げた彼の事は勿論、彼が自分ではなくティーダの傍にいると思った瞬間、其処に在るのが純粋な友情だと判っていても、腸が煮えた気分だった。

 ────もっと単純な言葉が頭に浮かぶ。
"独占欲"だ。
レオンのスコールに対する歪んだ執着は、明らかな独占欲から来ている。


(……だからどうしたって言うんだ……)


 自分が不毛で無意味な事を考えている気がして、レオンは溜息を吐いた。
自分の感情の在処や出所など、気にしてどうするのだろう。
それで、今までの自分の行いを悔いて反省し、真っ当な兄に戻ろうとでも言うのか。
それが人間としては正しいのだろうとは思うが、生憎、そんな気分にもならなかった。

 思考の区切りを読んだように、携帯電話が着信音を鳴らした。
面倒に思いながら取り上げると、発信元にアルティミシアの名前が表示されている。
通話ボタンを押して耳に当てた。


「……もしもし。レオンです。アルティミシアさん?」
『もしもし。はい。今、大丈夫かしら』
「……はい」


 個人的な気分で言えば、相手にするのも億劫だったのだが、なんとか体裁は繕えた。


『会社の方に電話をしたら、貴方はもう帰ったって聞きましたから、此方に連絡させて貰いました。貴方は今、家にいるのですね?』
「……はい」
『丁度良かった。今、病院でスコール君の容体について聞いていたのですが、しばらくは急な発作が再発する可能性が高いので、一週間から二週間程度、入院させて様子を見た方が良いとお医者様から伺いました。それで、保険証やタオル等、入院に必要になるものを教えて頂いたので、一通り用意して持って来て頂けますか』


 アルティミシアの声を、レオンはぼんやりと聞いていた。
頭の中はぐるぐると目まぐるしく動いているのだが、まとまりがない。

 沈黙を訝しんで、アルティミシアがレオンを呼んだ。


『レオン、大丈夫ですか?』
「───あ……はい。入院に必要なもの、ですよね」
『はい』
「教えて下さい。メモしますから」


 判りました、とアルティミシアが言って、入院用に必要になる道具をゆっくりと告げて行く。
レオンは鞄から取り出したスケージュール帳の白紙ページにメモを残し、最後に上から順に読んで確認した。


『早目に持って来てくれると助かりますが、無理にとは言いません。明日になっても構いませんから』
「……はい。あの、スコールの容体は…」


 レオンの問いに、アルティミシアは一拍置いて、大丈夫、と言った。


『まだ意識は戻っていませんが、落ち着いていますよ。後遺症については、目を覚まさなければ判らないとしか言いようがありませんが……自発呼吸は出来ていますし、脳へのダメージも今の所は見受けられないと言っていました』


 今の所は、悪化している事もなく、平衡状態と言う事か。
レオンはほっと胸を撫で下ろした。
気が抜けたように、ベッドに倒れ込む。


『レオン?』
「……すいません。大丈夫です」


 投げ出してしまった携帯電話を取って、不安げに呼ぶ師に返事をした。
無理はしないで、と宥められ、はい、と短く返事を返す。


『貴方も、余り長々と話をしない方が良さそうですね。今日はゆっくりお休みなさい』
「……はい。そうします。ご心配をおかけして、すみません」
『構いませんよ。ああ、お父様は明後日の便で此方に戻って来られるそうです。その時までに、貴方まで倒れないよう、気を付けるのですよ』
「はい。色々ありがとうございました」


 感謝と詫びを込めて言った後、通話は終わった。
ぱたりと腕をベッドに落とすと、また携帯電話がベッド隅へ放られる。

 このまま眠ってしまおうか、と思ったが、風呂くらい入った方が良いと思い直して、起き上がる。
風呂場の用意をするついでに、病院に持って行くフェイスタオルやバスタオルを取り出して置こう。
バスタブに湯を溜めるまで時間もあるし、その間にスコールの保険証も探す事にする。

 バスルームは冷え込んでいた。
湯を張れば湯気で暖まりそうだが、念の為にバスルーム用の暖房のスイッチを入れる。
そのままにして、レオンは脱衣所の鏡台に納めていたタオルの束を取り出した。

 タオルと歯ブラシ等をリビングのローテーブルに置いて、キッチンの食器棚から箸やマグカップを取り出す。
アルティミシアに伝えて貰った、入院に必要となる道具を一通り取り出すと、レオンはスコールの部屋に入った。

 保険証は、スコールが自分で持ち歩いている。
財布か学生証ケース、定期入れ───入っているのはその辺りだろう。
鞄が机の上に置いてあった。
昨日、ティーダの家から帰って来た時に置いて、そのままになっていたのだろう。
口を開けて中を探ると、シンプルな革製の財布があった。

 財布を取り出し、デスクライトの明かりを点け、机の真ん中を占拠していた鞄を床に降ろす。
其処でレオンは、鞄の下にA4サイズの箱が置いてあった事に気付く。


「……?」


 スコールの机に置いてあると言う事は、彼の私物だろう。
それだけ判れば十分だったし、レオンはスコールの持ち物には興味がない。
だから気にする必要もなかったのだが、箱の隅にクレヨンで描かれたと思しき線の端々が散らばっているのが、レオンの目を引いた。

 蓋を開けたレオンは、目に飛び込んで来たものを見て驚いた。


(───これは、俺?)


 箱の中には、沢山の紙が納められており、トップの紙には、人間らしきものが二人並んで描かれている。
大小の大きさで描かれたそれは、頭部を茶色で塗り潰されており、笑顔を浮かべ、同じように茶色の頭を持った小さな人間と手を繋いでいた。
見覚えのない絵だ。

 幼い頃、スコールはお絵描きが好きで、毎日のようにレオンとラグナをモデルにして絵を描いていた事は知っている。
満足の行くものが描き上がると、必ずレオンに見せに来て、レオンはそれを上手とよく褒めたものだった。
しかし、レオンが覚えている限り、一目見て"人間"の形をしている絵は、殆ど見た事がない。
絵のイロハや知識もない、自由な子供が描いたと思えるような、奔放な絵を、レオンは覚えていた。

 だが、目の前にある絵は、記憶にあるものとは違う。
もう少し成長して、目で見えるものや、絵本やアニメで見た形や色を模倣する事を覚え、大人が一目見て判る絵を描くようになった頃───だろうか。

 二枚目には、三人の人間が描かれていた。
茶色頭の大小に挟まれて、黒頭の大きな人間が立っている。
大きく口を開けた人間の頭の後ろから、馬の尻尾のように生えている線束があった。


(…父さんか?)


 父が息子達と遊ぶ時、邪魔になると言って、不精に伸ばしていた長い髪を括っていた事を思い出す。

 ならばやはり、茶色頭の大小の人間は、レオンとスコールなのだろう。
誰が描いたんだ、と一枚目の画用紙を裏返すと、クレヨンで拙く"スコール"と名前が描かれ、傍らに"おにいちゃんとぼく"とタイトルらしきものが記されている。

 紙を捲って行くと、レオンとラグナの他にも、肌の茶色い人間や、体の大きな人間が描かれていた。
恐らく、キロスとウォードだろう。
しかし、数にすると圧倒的に、レオンと思しき人物をモデルに描いたものが多かった。

 クレヨンだけで描かれている絵の中で、別の画材を使っているものがあった。
油性ペンで絵の縁をなぞり、水彩絵の具で色を塗っている。
絵は遊園地を模しているのか、観覧車やジェットコースターと思しきものが描かれ、真ん中には笑顔を浮かべたレオンとスコールが手を繋いでいる。
裏返して見ると、スコールの名前と、"夏休みの思い出"と枠と共に印字が記されている。

 画用紙の隅に、小さく数字が書き記されていた。
鉛筆で走り書きするように残されているそれは、年数月日を表している。
逆算すると、スコールが小学二年生の時のものだと判った。
学校の図画工作の授業で書いたのだろうか。


(───スコールが、七歳の時……?)


 違和感を感じて、レオンは眉根を寄せた。
スコールが七歳の時と言ったら、レオンは十五歳になっている。
そんな頃に、幼いスコールと一緒に、遊園地に行った事などあっただろうか。


(有り得ない)


 レオンは直ぐに否定した。
何故ならその頃、レオンはスコールと逢う事すら叶えられなかったからだ。

 箱の中に入っている絵を全て取り出してみる。
一枚、また一枚と捲る度、絵の成長の過程が見られた。
描かれているものは、家族の思い出を記す日記のように楽しげな光景だったが、レオンはその光景に合致する記憶がない。

 幼いスコールが、その自分よりも遥かに幼い頃の記憶を掘り出して描いたのか。
では、何故幼いスコールは、そんな事をしたのだろうか。
楽しい思い出を描くのなら、当時の自分の思い出を描けば良い筈だ。
全ての自由を奪われていたレオンと違い、スコールには自由が許されていたのだから、レオンがいなくても楽しい思い出はある筈だ。


(ちょっと待て。大体、なんで俺は、スコールに逢えなくなっていたんだ? 逢えないのに、なんでスコールは楽しく過ごしているなんて思った?)


 当たり前のように沁みついていた自分の思考に、降って沸いたように不和を感じて、レオンは狼狽した。

 スコールは、生来から酷い人見知りだ。
レオンが知る限り、幼いスコールは、家族以外の人間には滅多に懐かなかった。
小学校に入って環境が変われば、友達も出来るかも知れないが、レオンはスコールからそんな話を聞いた事がない。
逢えなかったのだから当然だ、と考えて、もう一度、何故会えなかったのか、と言う疑問にぶつかる。

 過去を思い出そうとする程に、レオンの違和感は強くなって行く。

 幼い頃、どんな時でも、いつまでも傍にいようと心に誓う程に愛していた弟と、何故逢う事も叶わなくなったのか。
顔を合わせる事もなかったのに、スコールが自分と違い、自由を謳歌していると思ったのは何故か。
そもそも、何故、自分は自由がなかったのか。
全てを奪われ、強制された選択肢を拒否する道すらなかったのは、何故なのか。

 ずきずきと頭の芯が痛みを訴える。
ぼんやりと脳裏に浮かぶ光景の中に、見覚えのある人物の顔が浮かび、レオンは蒼の双眸を見開いた。



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