籠ノ鳥 6-2


 仕事の為とは言え、元来から子煩悩で知られたラグナである。
幼い息子二人を置いたまま、長く続く海外出張は、残された息子達以上に、ラグナに多大なストレスを強いた。
物事を進める為には、頭たる人物のストレスはある程度やむを得ないものではあるが、ラグナの奔放さや、家族に対する有り余る愛情深さに惹かれる者は少なくない。
キロスとしても、友が深く落ち込む様を見続けるのは、胸が痛むものがある。

 と言った事情により、ラグナは隔月で一度、数日間を帰国して過ごす事となった。
これには幼い次男は勿論、確り者の長男も喜んだ。
共に頭の良い子供達で、父の仕事の事情を幼いながら理解しているとは言え、まだまだ親の愛情が欲しい年頃である。
親子が揃う機会が増える事は、何よりも嬉しい事だった。

 子供の成長は早いもので、一ヶ月、二ヶ月と言う、大人にとっては短く思える時間の内に、驚く程の変化を遂げている事もある。
ラグナが家を離れた時、スコールはまだ字も書けなかったのに、三ヶ月後に帰って来た時には、家族の名前を字で書けるようになっていた。
レオンは身長が伸びて、ラグナの腹程に留まっていた頭の位置が、胸まで届いていた。
ラグナは、それぞれ成長期真っ盛りの子供達の変化に喜びつつ、仕事の所為で二人の変化を真横で見届けられない事を、泣きながら悔やんでいた。

 ラグナが家に帰って来ると、親子は三人揃って一緒に眠る。
甘えん坊のスコールを真ん中に挟んで、ラグナとレオンに左右に並んで眠るのだが、時々、ラグナを真ん中にして、息子二人で父に抱き着いて眠る事もあった。

 キロスとウォードは、息子二人に挟まれて幸せそうに笑う旧友に頬を緩め、のんびりと酒を酌み交わすのが定着した。
ウォードは子供達と使用人の手前、余り飲む訳には行かないだろうと自粛しており、キロスはラグナが早々に酔い潰れてしまう───パターンとしては、泥酔で眠るか、マシンガンのようにお喋りになるかのどちらかだ───ので、帰って来た時でなければ、のんびりと酒を飲み交わす相手がいない。
旧友であり、ラグナの秘書を務める二人にとっても、たまのラグナ達の帰国は、丁度良い休息であった。

 ラグナの仕事は、順調だった。
母国とは勝手の違うビジネスの運びに四苦八苦する事はあったものの、彼の天性のカリスマ性と、飾らない人柄は、何処に行っても人徳を集め、このまま事業拡大も視野に入れられるかも知れない、と言う範囲まで来ていた。

 だが、不幸はやって来た。
ラグナの下にではない。
父の帰国を心待ちにしている、幼い息子達の下に、それは密かに忍び寄り、機会を伺っていたのである。

 ある日、外出していたウォードが、交通事故に巻き込まれた。
スコールの喘息の経過を看る為、訪問診療として邸宅に招いた主治医を、病院に送り届けた帰りの事だ。
勤務先として緊急連絡先となっていた邸宅に、病院から連絡が入ったのは事故から数時間後の事で、一報を受け取ったのはハウスキーパーのカドワキだった。
そのハウスキーパーから、ウォードが事故に遭ったと聞いたレオンは、直ぐにスコールを連れ、雇いの運転手に頼んで搬送先の病院へ向かった。

 ウォードは個室の病室を宛がわれていた。
ナースセンターでウォードの家族として面会許可を貰ったレオンは、教えて貰った病室に入って、目を丸くした。


「ウォードさん!」
「ウォードおじちゃん!」


 駆け寄った兄弟を、ウォードはベッドに横たわったまま、視線だけで受け止めた。

 ウォードは右腕と右足を圧迫骨折しており、顔にも切り傷の痕が残っていた。
首にも分厚い包帯が巻かれており、動かさないようにコルセットが装備されていた。
左腕にも青紫色になった皮膚が覗き、痛々しい姿だ。

 だが、レオンとスコールを見る目には、確りとした意思の光が灯っている。


「ウォードさん、大丈夫か?」


 恐る恐る訊ねるレオンに、ウォードはひらりと左手を上げた。
大丈夫、と言うように、ウォードの口元が笑みを作る。


「おじちゃん、痛い? 大丈夫?」


 重ねて、スコールがベッド端のシーツを握って訊ねた。
ウォードはもう一度左手を上げて、笑って見せる。
その行動の意味が組み取れず、幼いスコールはことんと首を傾げ、困惑した表情で兄を見上げた。

 レオンも、何故ウォードが何も答えてくれないのか判らなかった。
手を上げてくれた事、笑顔を浮かべてくれた事で、彼が「大丈夫」と言っている事は何となく判ったが、何故言葉で返してくれないのだろう。

 揃って心配そうに見詰める兄弟に、ウォードは眉尻を下げて、左手で自分の首を指差した。


「首? ……違う? ……喉?」


 レオンがウォードの言おうとしている事を探っていると、喉、と言った所で、ウォードが微かに頷いた。
コルセットが嵌められている為、首も自由には動かせないのだが、頭が少しだけ上下するのが判った。

 ウォードは口を開けた。
スコールが真似をするように、ぱかりと口を開ける。
ウォードは、ぱくぱくと何度か口を開閉させた。
魚が水面で呼吸するような仕草を、レオンはじっと観察し、


「……ひょっとして、声が出ないのか?」


 レオンの言葉に、ウォードは口を閉じ、眉尻を下げた。
参った、と言うようなその表情に、レオンは狼狽する。
そんな兄とウォードを交互に見て、スコールが泣き出しそうに顔を歪ませた。


「おじちゃん、お喋り、出来ないの?」
「……」
「ほんとに出来ないの? 本、もう読めないの?」


 スコールは、レオンが学校に行っている間、ウォードに沢山の絵本を読み聞かせて貰うのが日課だった。
大きな巨体に似合う、低くよく通る声は、スコールの耳に心地良いものだったのだが、それがもう聞けなくなってしまうのか。
そんなにも大きな怪我をしたのかと、スコールの瞳にじわじわと大粒の雫が浮かぶ。

 ウォードはスコールの頭を撫でようとして、出来なかった。
レオンとスコールは、ベッドの右側に立っている。
ウォードの右手は包帯が巻かれており、肩が痛む為、持ち上げる事も難しい。
今は体を起こす事も、寝返りを打つ事も難しい為、左手はスコールに届かない。

 ぐすん、と鼻を啜るスコールを、レオンが抱き上げる。
スコールは兄に縋り付いて、ひっく、ひっく、と泣き始めた。


(ウォードさんが喋れないなら、看護師さんか、先生に話を聞かないと。でも、大人の人が聞いた方が良いよな……でも、大人って言ったって……)


 自分達だけで来てしまったし───と考えて、レオンは駐車場に待たせている運転手の事を思い出す。


「ウォードさん、俺、ピエットさんを呼んでくる。先生と話をするの、俺よりピエットさんの方が良いと思うから」


 長年、ラグナの私宅で運転手を務めている人物だ。
彼なら信頼できると、レオンもよく知っている。
ウォードもレオンの言葉に頷いた。

 スコールはどうしよう、と一瞬迷ったレオンだったが、スコールはしがみ付いて離れようとしない。
痛々しい姿のウォードと二人きりにさせても、きっとスコールは悲しむだけだろう。
少しでも落ち着かせる為にも、一度この部屋から離れた方が良い。

 レオンはスコールを抱え直して、早足で病室を出て行った。



 ウォードは、短くても半年は入院が必要だと診断された。
レオン達が目の当たりにした怪我だけでも相当な重傷だったのだから、当然の診断だろう。
それだけの大怪我をして、一日足らずで意識を回復させ、意思の疎通も可能になっていたのだから、奇蹟である。
だが、彼の喉の怪我は声帯にも及んでおり、これはリハビリを繰り返しても、以前のように喋る事は出来ないと言われた。
これにショックを受けたのはスコールで、ウォードともうお喋りが出来ない、絵本を一緒に読めない事を悲しんで泣いた。
レオンはそんなスコールをなんとか宥め、スコールが字を読めるようになって、今度はスコールがウォードに絵本を読んであげると良い、と慰めた。

 ウォードが事故に遭った日、スコールは泣きながら眠った。
まだ物心ついて間もないスコールにとって、親しい人間の悲惨な姿は、トラウマになるものだったかも知れない。
家に一人で置いて行く訳にも行かないと思って連れて行ったのだが、レオンは少し後悔していた。
いても立ってもいられずに自分の足で病院に向かったが、運転手のピエットや、ハウスキーパーのカドワキに任せた方が良かったのかも知れない───と、涙の痕を残して眠る弟を見て、ぼんやりと考えていた。

 それからしばらくの間、レオンは学校を休んだ。
ウォードの事故のショックから、スコールは勿論、レオン自身も落ち付くまで時間が必要だった。
学校には、カドワキから身内が事故に遭った旨が伝えられ、担任からは登校について「落ち付いてからで良いですよ」と言う言葉を貰った。

 レオンが学校を休んだのは、一週間だった。
本人の気持ちはそれよりも早く落ち着きを取り戻していたのだが、スコールの傍を離れる気にならなかったのだ。
ウォードの事故以来、スコールは遠く離れた地にいる父やキロスが、学校に行く途中でレオンが、ウォードのように事故に遭うのでは、と言う不安を抱くようになり、大好きな兄が傷だらけになる夢を見ては、怯えて泣いていた。
不安が呼び水になったのだろう、喘息の発作も何度も起きた。
世話役で、レオン以外に唯一懐いていたウォードが傍にいられなくなったと言う事も、レオンが弟から離れ難かった理由の一端でもある。
何かと不安に苛まれて泣きじゃくる弟を、一人にする事は出来なかった。

 レオンはゆっくりとスコールを宥め、事故なんて滅多に遭うものではないし、今までだって遭った事はないから大丈夫だと言った。
するとスコールは、滅多に遭うものではない事故にウォードが遭った事を口にして、また泣き出した。
二人の会話は堂々巡りだったが、レオンは根気強く、スコールに「大丈夫」と言い聞かせ続けた。
それ以外に、レオンが思い付く言葉もなかった。

 レオンに慰められ、一日置きにウォードの様子を見に行き、その度にウォードが笑顔を見せてくれた事で、スコールも少しずつ落ち着いて行った。
募る不安は中々消えなかったが、夜中に泣いて兄を起こす事も減った。
今までスコールがあまり話をしていなかったピエットやカドワキとも、顔を合わせる機会が増え、彼等に対しても心を開いて行くのを見て、レオンは復学を決めた。
ウォードが帰って来るまで、学校にいる間、ピエットとカドワキにスコールの世話を任せる事にしたのだ。
二人も快く了承してくれた。

 一週間ぶりに、玄関先でランドセルを背負った兄を見て、スコールはまた不安そうな顔を見せた。
じぃ、と見詰める蒼い瞳が、泣き出しそうに歪んでいる事に気付いて、レオンは膝を折って弟と目線を合わせ、柔らかい髪を撫でてやる。


「大丈夫だ、スコール。事故になんか遭わないよ」
「………」
「今までだって遭った事はなかっただろ? 大丈夫、学校が終わったら、直ぐに帰って来るよ」


 ぽんぽんと頭を軽く叩いてやると、スコールはうさぎのぬいぐるみを抱き締めて、こくんと小さく頷いた。


「じゃあ、行ってくる。スコールは、ピエットさんとカドワキさんの言う事をちゃんと聞いて、良い子で待ってるんだぞ」
「……うん。行ってらっしゃい、お兄ちゃん」
「行って来ます、スコール」


 ばいばい、と手を振るスコールに、同じように手を振って、レオンは玄関扉を開けようとした。

 しかし、


「お待ち下さい、レオン様。今日も学校はお休み下さい」
「───え?」


 割り込んだ声に振り返ると、教育係が立っていた。
教育係は厳しい顔付きをしており、レオンは眉根を寄せて向き直る。


「休めって……どうしてだ? これ以上休んだら、勉強も判らない所が増えるし、休み過ぎは良くないって、お前も行ってたじゃないか」


 学校には出来るだけ早く復学した方が良いと、教育係はレオンに言い聞かせていた。
小学校で休学日数が進級に影響する事は先ずないが、休んでいても勉強は変わらぬペースで進んで行く為、クラスの授業から置いてけぼりにされてしまう事は否めない。
少しの遅れなら自ら積極的に学ぶ事で取り戻せるが、余りにも距離が開いてしまうと、追い付くのも難しくなる。

 それなのに、まだ休めとは、一体どういう事だろう。
首を傾げるレオンに代わり、スコールが恐る恐る教育係を見上げ、


「…お兄ちゃん、学校、行かないの?」
「はい」


 スコールの問いに、教育係は間を置かずに頷いた。
それを見た弟の瞳が、きらきらと輝く。


「レオン様は、もうしばらく学校をお休みして頂きます」
「明日もお休みするの?」
「はい」
「ちょっ……ちょっと待ってくれ。勉強はどうするんだ?」


 今日だけでなく、明日も休めなど、勝手に決められても困る。
慌てて割り込んだレオンに、教育係は能面のような顔を向けて、淡々とした口調で言った。


「お勉強は、レオン様のお部屋で行います」
「やった! お兄ちゃん、早くお部屋に行こう」
「お、おい、スコール」


 スコールはレオンの手を捉まえて、ぐいぐいと引っ張った。

 まだ学校に行く年齢でもなく、幼稚園や保育園にも行った事がないスコールには、学校と言う機関の重要性が判らない。
レオンが外に出る事で、事故と言う悲惨な出来事が起こる可能性を知り、その可能性から兄を守りたいと思うあまり、レオンが学校に行かない=外に出ない=事故にも遭わない、と言う幼い発想に至ったのは、無理もないかも知れない。

 スコールに手を引かれ、レオンは慌てて靴を脱いだ。
嬉しそうに兄の手を引くスコールの顔を見て、レオンはどうしよう、と迷う。
その間に、二人はレオンの部屋まで戻って来ていた。

 スコールが背伸びして、部屋のドアを開ける。
くいくいと手を引く弟に連れられ、自室に入ったレオンは、仕方ない、と今日の所は諦める事にした。
嬉しそうにしているスコールを、もう一度泣かせてしまうのは忍びない。
背負っていたランドセルを下ろして、勉強机に乗せると、スコールが後ろから抱き着いて来た。
ぎゅ、と腰に巻き付いた腕に苦笑して、レオンは小さな弟の頭を撫でる。


「えへへ」


 一週間かけてスコールを宥め、ようやく復学できそうだと思った矢先、出鼻を挫かれたような気分はあったが、嬉しそうに笑うスコールを見ていると、もう良いか、とレオンは開き直る事にした。

 ───とは言え、教育係に突然復学を止められた事は、少し引っ掛かりを感じる。
兄の手の大きさと、自分の手の大きさを比べる弟を好きにさせながら、レオンは首を傾げていた。

 コンコン、とドアをノックする音が聞こえて、レオンは返事を投げる。
ドアが開かれ、教育係が顔を見せた。
ドアを開けたまま、入って来る事もせず、部屋の出入口で立ち尽くす教育係を見て、レオンは眉根を寄せる。


「……スコール。俺はちょっと先生を話をするから、此処で待っていられるな?」
「お話?」
「ああ」
「判った。待ってる」


 こくんと大きく頷いて、スコールはレオンのベッドに駆け寄った。
よいしょ、とベッドによじ登って、抱き締めていたぬいぐるみで一人芝居をして遊び始める。

 レオンが部屋を出ると、廊下には教育係以外の使用人の姿が見られなかった。
邸宅の中が嫌に静まり返っている気がして、不気味さを感じ、レオンは二の腕を摩る。


「……え、と……その、何かあったのか?」


 じっと自分を見下ろす教育係から、ちらちらと視線を外しつつ、レオンは尋ねた。

 教育係がゆっくりと顔を寄せて来た。
いつにない教育係の行動に、レオンは思わず後ずさりしかけたが、寸での所で踏み止まる。
教育係は、耳元で潜めた声で言った。


「先日のウォード様の事故の件で、警察から報告を頂きました。事故は偶然ではなく、意図的に起こったものと思われるとの事です」
「……!?」


 レオンの青灰色の瞳が見開かれ、教育係を見上げる。
どういう事だ、と困惑した瞳で問う少年に、教育係は苦味のある表情を浮かべて続ける。


「事故を起こした後、逃亡していた犯人は直ぐに検挙されたのですが、人から頼まれてやったと自供したそうです」
「誰かって……誰に? ウォードさんは誰かに狙われてるのか?」
「いえ───ウォード様が狙われていなかった、と言う可能性がない訳ではありませんが、本当の狙いは、恐らくレオン様とスコール様のどちらか、或いは両方ではないかと思われます。普段、お二人のお出かけの際、車の運転手をしているのはウォード様ですから」


 教育係の言葉に、レオンの血の気が引いた。
ウォードの事故が人為的に起こされたものだと言う話も驚いたが、若しかしたら自分やスコールも巻き込まれていたのだと思うと、恐ろしくて堪らない。
レオンは事故現場を見た訳ではないが、ウォードの凄惨な有様を見れば、どれ程激しい事故だったのか、想像に尽くし難いものである事は間違いあるまい。
逞しい体つきのウォードがあの様である事を考えると、子供であるレオン、まだ幼児のスコールなど、命があったかも怪しい。

 ふらり、とレオンの脚元が揺れた。
壁に凭れ掛かる事で、倒れる事はなかったものの、そのままずるずると座り込んだ。


「大丈夫ですか」
「ん……ちょっと驚いて…だから、大丈夫」


 血の気が引いて蒼くなった頭を抱えつつ、レオンは教育係の言葉に頷いた。
スコールには見せられない姿である。
ちょっと情けないな、と思いつつ、レオンは教育係を見上げ、話の続きを促した。
教育係もそれを察し、変わらず潜めた声で続ける。


「件の大本が解決したと思われるまで、レオン様もスコール様も、外出は控えて頂きます。ウォード様だけでなく、お二人にまで危険が及べば、使用人一同、ラグナ様に合わせる顔がありません」
「……うん。でも、学校は……」
「勉強につきましては、私がより一層の指導を致します。学校へは私から説明しますが、件の詳細については伏せる事にします」
「…そうか。先生、教員免許を持ってるんだっけ。なら、しばらくは心配ないんだな」


 学校に行けない事は少し淋しいが、物騒な気配が滲んでいる以上、無防備な行動は出来ない。
レオンは、大会社の社長を務める父の影響力を幼いながら理解していた。
俗に言う"金持ち"の家に生まれた以上、誘拐だの何だのと言う話は付きまとう。
事が落ち着くまでは、子供である自分や弟は、大人の指示に従うのが正しい。

 壁を支えに立ち上がって、寄り掛かったまま、レオンはゆっくりと深呼吸した。
弟の下に戻った時、自分が動揺したままは良くない。
スコールを安心させる為にも、自分は平常心を保たなければ。

 何度か深呼吸を繰り返した後、レオンはようやく、自分の足で確りと立つ事とが出来た。


「そう言えば───色々、一杯一杯になって忘れていたけど、父さんへの連絡は……」
「まだ、していません」
「どうして?」


 ウォードはラグナの旧知の友だ。
同時に、社長を務めるラグナの秘書であり、息子達の世話役=ボディガードも兼ねている。
事故に巻き込まれた事も、出来るだけ早く連絡するべきではないのかと詰め寄るレオンに、教育係は声を潜めたまま、言った。


「ウォード様の事故と、レオン様とスコール様が何者かに狙われていると聞けば、きっとラグナ様は急ぎお戻りになるでしょう。若しかしたら、それこそが犯人の狙いかも知れません」
「犯人の狙い…?」


 鸚鵡返しに呟いたレオンに、教育係は頷いた。


「ラグナ様がご家族を大切にしている方だと言う事は、よく知られております。ですから、レオン様とスコール様の身に危険が迫っていると知ったら、何が何でも、帰国しようと考えるでしょう。行動の予測が明確になるのです。それを狙って、何か危険な計画を仕掛けられたら、まんまと罠に嵌められに行くようなものです」


 ラグナは天性のカリスマ性と、飾らない人柄で、沢山の人に信頼されている。
しかし、それを喜ばしく思う人間ばかりではない。
元は一企業の社員に過ぎなかった彼を、疎ましく思う者はあちこちにいる。
ラグナを亡き者にし、大手商社の『エスタ』を潰す、或いは丸ごと買収して手に入れようと考えている人間もいるのだ。

 教育係の言葉の意味を、レオンも理解する事は出来た。
父の安全の為にも、件は知らせない方が良い───でも、とレオンは思う。
事故に遭ったウォードは勿論、レオンやスコールの為にも、父に一度で良いから戻って来て欲しいと思う。
それは、十一歳のレオンの我儘であったが、突然の不穏な気配に不安を抱く少年の心境としては、当たり前に考える事だろう。

 家族の安全の為と言う言葉と、自分の気持ちの板挟みにされて、レオンは戸惑った。
教育係は、そんなレオンの両肩に手を置いて、言い聞かせるように努めて静かな声で言った。


「件の事故については、警察が詳しく調べています。事故を起こした者の背後に誰がいるのかも、直に判るでしょう。そうなれば時間の問題です。犯人が逮捕出来れば、もう危険はありません。ラグナ様へは、それからご連絡しようと思っています」
「……その……先生の言う事とか、警察の言う事とか、信じていない訳じゃないんだけど……危険とか、狙われてるとか、そう言うのがただの嘘───今回捕まった奴の狂言だって判ったら、その時は……」
「直ぐにラグナ様にご連絡します」


 視線を彷徨わせながら訊ねるレオンに、教育係はきっぱりと言った。

 レオンが顔を上げると、教育係は真っ直ぐにレオンを見下ろしている。
逸らされる事のない瞳に、レオンは小さく頷いた。


「……判った。警察から何か事件の事で連絡があったら、俺にも教えてくれ。何も知らないままって言うのは、正直、怖いから」
「判りました」


 畏まったように硬い表情で返事を寄越した教育係に、レオンはほっと息を吐いた。
唐突に大きな物事に襲われた気がして、少し眩暈がするが、一先ず、必要な話はこれで終わったのだ。


「勉強、昼からで良いかな。なんだか、どっと疲れたから」
「構いません。ごゆっくり、お休み下さい」


 深々と頭を下げる教育係を振り返る事なく、レオンは部屋に戻った。
頭の芯がくらくらと揺れているような気がする。
普通の顔をしなくちゃ、と思いつつ、しばらく使っていないベッドを見遣ると、待ち草臥れたのだろう、ぬいぐるみを抱えたスコールがすやすやと眠っている。

 ベッドに登ったレオンは、ぬいぐるみごとスコールを抱き締めて横になった。


(スコールは、何も知らない)


 ウォードの事故の裏側に暗躍する影。
それが自分達を狙っているかも知れないと言う事。
その食指が、父まで及ぶかも知れないと言う事。

 どれも知らせる訳には行かない。
気付かせる訳には行かない。
幼い弟を、これ以上不安にさせてはいけない。


(……俺が守らないと)


 父とキロスは戻って来れない。
ウォードは半年の入院。
邸宅には沢山の使用人がいて、レオンは彼等を信用していない訳ではなかったが、スコールを正体不明の不安から守る事が出来るのは、兄であるレオンだけだ。
レオンが傍にいなければ、スコールは忽ち不安に捕まってしまう。

 レオンは、小さな弟を抱き締めて、目を閉じた。
何があっても、この子の傍にいよう。
絶対に守ろう、と心に誓った。



†† ††   †† ††


 直ぐに学校に復学できるものだと思っていたのに、一ヶ月、二ヶ月と時間が経つ内に、レオンの不安は膨らんで行った。
スコールでさえ、学校に行かない兄を、次第に気にし始める程だ。
初めは兄とずっと一緒にいられる、事故のような危険な目に遭う心配がないと喜んでいたスコールだが、レオンの不安が伝播したように、スコールも不安を膨らませて行った。

 教育係のお陰で、いつでも復学できるように、勉強は続けている。
定められていた小学校の時間割に倣って、午前、午後に分けて、休憩時間も入れて、約六時間の勉強だ。
スコールはそれを大人しく見守り、休憩になるとレオンに駆け寄る。
その内、レオンが毎日勉強している姿を見て感化されたのか、三歳の誕生日に父にプレゼントして貰ったクレヨンで、毎日絵を描くようになった。
幾何学模様が重なり合うような意図不明の絵だが、それを見せられる度、レオンはスコールを褒めた。
スコールは兄に褒められる事が嬉しくて、また絵を描く。
次第に、二人並んで、レオンは勉強、スコールはお絵描きをするのが日課になった。

 邸宅に閉じ籠るように、弟と過ごす日々は、レオンの心に安らぎを齎すと共に、焦燥も抱かせる。
クラスメイト達は、今頃何をしているだろう。
学校には何と説明しているのだろうか。
教育係に聞いても「問題のないように」としか釈明されず、詳しい話は聞かされない。
密かに楽しみにしていた、運動会や音楽会にも参加できなかった。
長い休みになると、担任教師が様子を見に来ても良さそうなのに、そんな様子もない。
レオンは、ひょっとして、学校から自分と言う存在が忘れられてしまったのではないか、と思うようになった。
学校で過ごす時間が決して嫌いではなかったレオンにとって、これはショックな事だった。

 しかし、何度学校に行きたいと頼んでも、教育係は首を縦に振ってくれなかった。

 もやもやとした気持ちを抱えている内に、レオンの生活を一変させたウォードの事故から、二年以上が経っていた。
結局、五年生の後期、六年生に至っては一年間の間、一度も学校に行く事は出来なかった。
中学校には、区内の公立中学校に入学した事になったが、入学式すら参加しないまま、季節は巡る。

 事故に遭ったウォードは、半年の入院で帰って来る筈だったのに、一向に帰って来ない。
小学校に行かなくなった日を境に、レオンとスコールは、ウォードの見舞いも出来なくなった。
電話で話をすると言うのは、事故の怪我で声が出せなくなったウォードには、無理な事。
逢って様子を見る事が出来れば、レオンもスコールも安心したのだが、外出は禁じられている。
彼はもう退院したのだろうか、怪我は無事に治ったのだろうか。
退院したのなら、どうして帰って来ないのだろう。
レオンの疑問は尽きなかったが、答えてくれる人はいなかった。

 仕事で海外に渡ったラグナとキロスとも、連絡が取れない。
二人は、ウォードが事故に遭った頃と同時期に、帰国して来なくなった。
物騒な影が蠢いていると聞いていたから、安全の為には仕方がないと思ったレオンであったが、それも長い間続いていれば、不審感が募って来る。
ひょっとして、海外で既に危険な目に遭っているのではないだろうか。
そう考えない方が可笑しい、とも思った。
何故なら、ラグナは子煩悩で知られており、息子のレオンから見ても、所謂"親バカ"である。
毎日だって息子達の顔が見たい、声が聞きたいと言っているのに、一ヶ月、二ヶ月、一年、二年と、父から息子達への連絡が何もないのは、明らかに不自然だ。

 だが、レオンに確かめる術は何もない。
父の仕事用の電話番号が入った携帯電話は、ウォードが持っていたものだけ。
それは事故で粉砕同然に壊れてしまい、データも消えた。
プライベート用の番号に電話をかけようとしたら、繋がらなくなっていた。
困惑して教育係に詰め寄ると、連絡傾倒があちこち混乱していると言う。
"誰か"が悪意を持って、親子を分断しようとしているのではないか、と教育係は言った。
その上、その"誰か"は、若しかしたら邸宅、或いはラグナの会社内部に潜り込んでいる可能性もあると言う。

 レオンは、自分が陸の孤島に閉じ込められるのを感じていた。
安全の為に殆どの外出が許されず、家族との連絡も取れない。
中学一年生───十三歳になっていたレオンだが、やはり、まだ大人の庇護下から抜け出す事は出来ない、子供である事は変わらない。
不安は日に日に強くなって行った。

 唯一の救いは、弟の存在だ。
何も知らない弟を不安にさせるまいと、彼の前でだけは笑顔を努めた。
それでも、鈍感に見えて他人の機微に聡い幼子は、兄の不安を漠然と感じ取り、夜になると感じ取った不安が自分の中で肥大化し、泣き出す事も増えて行った。
喘息の発作も頻繁に起こる。
主治医の定期的な訪問は続いており、薬も常備されていたが、使用頻度は日に日に増え、レオンは片時もスコールの傍を離れる事が出来なかった。

 ある夜、レオンが目を覚ますと、ゼイ、ゼイ、と喘鳴が聞こえた。
抱き締めて眠っていた弟が、苦しげに胸を抑えて蹲っている。
レオンは跳ね起きて、ベッド横のサイドボードに置いていた吸入器の薬と、吸入補助器を取った。


「スコール、口、開けられるか」


 レオンは、手足を縮めて丸くなっているスコールを抱き起こした。
吸入器の蓋を開け、吸入補助器に取り込み、補助器のマウスピースをスコールの口に宛がう。

 スコールがぼんやりと目を開ける。
眉根を寄せ、苦しげな色をした瞳に、吸入器が映った。
習慣を覚えているのだろう、スコールは精一杯の努力で、補助器に取り込まれた薬を吸入する。
ひゅー、ひゅー、と掠れた音を聞きながら、レオンはスコールが慌てないように、ぽんぽんと背中を撫でてやる。

 補助器に入った薬がなくなると、そっとマウスピースを取り上げて、レオンはスコールを膝上に乗せ、自分の胸に寄り掛からせる。


「よし、よし。吸って、吐いて、吐いて…」


 スコールの薄い腹を呼吸のタイミングに合わせて押して、腹式呼吸を促す。
スコールは朦朧とした意識で、レオンの言葉に従った。

 ひゅー、ひゅー、と言う喘鳴はしばらく続いたが、少しずつ治まって行く。
苦しげに歪んでいた弟の表情が和らいで行くのを見て、レオンもほっと安堵の息を吐いた。

 膝に抱いたスコールの背中を摩り、ぽんぽんと頭を撫でながら、レオンは部屋を見回した。
室内は暗く、時計の針の蛍光灯は、短い方が横を向いている。
午前三時、と言った所だろうか。

 ベッドのヘッドボードに寄り掛かる。
腕の中の弟の呼吸は、落ち着いていた。
ぼんやりと開いたスコールの瞳には、眠たげな色が滲んでいる。
レオンは、緊張していた体から、力が抜けて行くのを感じた。


「……お兄ちゃん……」


 小さく呼ぶ声が聞こえて、視線を落とすと、スコールが涙を浮かべている。
「うん?」と眦を下げてやると、スコールはぐす、ぐす、とベソをかき始め、


「ごめん…ごめんなさい……また、迷惑、かけちゃった……」


 ぽろぽろと涙を零しながら言うスコールに、レオンは小さく首を横に振る。
サイドボードのティッシュを取って、溢れる涙を優しく拭う。


「スコールが謝る事はないよ。もう苦しくないか?」
「うん……」
「なら、良かった」


 落ち付いたのなら、それで十分だと、レオンはスコールの額に唇を寄せて言った。
スコールは、すん、と鼻を啜り、兄の肩に顎を乗せて抱き着く。


「でも…昨日も、一昨日も、迷惑、かけちゃった……」


 昨日、一昨日と、スコールは夜に発作を起こした。
それだけではない。
日中、レオンが勉強している最中にも発作が起こり、レオンは勉強を中断して、スコールが落ち着くまで寄り添った。

 以前は数日に一度の頻度だった発作が、今は毎日のように、それも一日何度も起きる。
発作予防に内服薬も利用するようになったのだが、どうにも効果が薄い。

 喘息の発作の切っ掛けは様々で、埃やダニと言った環境の問題の他に、心理的なストレスも作用すると医者が言っていた。
今のスコールには、後者が大きく影響しているのは間違いない。
帰って来ない父やキロス、ウォードと、レオンが抱える漠然とした不安を感じ取り、それら全てが幼い子供に心理的重圧を与えている。
その上、五歳になったスコールは、兄に心配をかけまいと、発作の発症を我慢して隠すようになった。
喘息は、無理に抑えようとすると、喘鳴を抑える呼吸方法を覚えてしまい、気付かれ難いまま重篤な症状へと進行してしまう場合があると言う。
何もかもが悪循環であった。

 レオンは、声を殺して泣きじゃくるスコールを抱き締め、柔らかい声で囁いた。


「迷惑なんかじゃないから、気にしなくて良いよ」
「……ひっく…えっく……でも、お兄ちゃん…お勉強も、お休みも、僕、いっぱい、じゃまして……めいわく……」


 最後は蚊の泣くような声で、終わりまで聞き取る事が出来なかった。
小さな体を縮こまらせて泣くスコールを、レオンは強く抱き締める。


「大丈夫。勉強なんて、後から幾らでも出来るし。お休みだって、これからもう一度寝れば良い。それだけの事なんだ。スコールが悪いなんて思う必要は、これっぽっちもないんだぞ」


 兄の言葉に、スコールは恐る恐る顔を上げた。
涙で濡れた蒼い瞳に、優しく笑う兄の貌が映り込む。
ぐすん、とスコールが鼻を啜った。
レオンは新しいティッシュで、スコールの涙や鼻水を拭いてやる。


「ちょっと顔を洗いに行くか」


 レオンはスコールを抱き上げて、部屋を出た。

 五歳になったスコールの体は、平均と比べると小柄だ。
肌も白く、手足も細い。
体幹が出来上がるのはこれから先の事なので無理もないが、レオンには、どうにも病弱な印象が拭えない。
喘息を患っており、保育園や幼稚園に行く事も出来ないから、運動能力や体格の成長が遅く見えるのは、無理もない事であった。

 喘息だけでも、早く落ち着いてくれると良いのに。
そうすれば、スコールが苦しむ事も少なくなるだろう。
そんな未来を祈るしか出来ない自分に、歯痒さを感じながら、レオンは洗面所へと歩いた。

 その背中を、じっと見詰める視線には、気付かないまま。



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≫[籠ノ鳥 6-3]