籠ノ鳥 6-3


 中学生に上がった年から、レオンには各教科に個別に教師が就く事になった。
人選は教育係が選び、午前中に現国、午後に数学と言うように、一日に二科目を集中講義する事になった。
授業の際には必ず教育係が監督となり、授業の間に雑談や脱線を好む教師は、直ぐに解雇されて別の者が雇用された。

 一体、いつまでこの生活が続くのだろう───とレオンが半ばうんざりし始めた頃、邸宅内の違和感が増え始めた。
邸宅で共同生活をしていた使用人が、一人、また一人と、ぽつりぽつりと姿を消し始めていたのだ。
教育係に尋ねてみると、折を見てそれぞれ暇を出していると言う。
ハウスキーパーも、運転手も、庭師も、レオンが生まれた頃から雇っている人々も、次々といなくなって行く。
教育係が言うには、退院した筈のウォード、海外にいるレオンやキロスが帰って来ない理由が、使用人の中にあると言う。
使用人の誰かが暗躍し、親子を引き裂こうとしているのだ、と。

 小学生の頃は、付き合いも長く、父からの信頼も厚いと信じていた教育係であったが、中学生になると、レオンは少しずつ彼の言葉に違和感を抱き始めていた。
人を疑う事は決して気分の良いものではないが、一度感じた違和感は、あっと言う間にレオンの心に根を張り、疑心暗鬼に陥らせた。

 しかし、その時には既に遅く、邸宅にはレオンとスコールの兄弟と、教育係と、教育係が採用した二名のハウスキーパーがいるのみ。
主治医も長い付き合いだった人物から、いつの間にか変わっていた。

いつも穏やかな雰囲気に包まれていた邸宅は、すっかり静まり返り、レオンはまるで廃墟か幽霊屋敷の様だと感じていた。

 こっそり外に出て、警察か何処かに施設に保護を求めてみようか。
何度か考えた事だったが、レオンは実行に移せなかった。
虐待をされている訳でもないし、教育係はあくまで教育係として、レオンの世話に従事している。
そんな状態で警察に保護を求めても、果たして動いてくれるかどうか。
父を頼る事が出来れば良かったのだが、電話は以前、繋がらないままだった。
邸宅に連絡されれば、直ぐに教育係が迎えに来るだろうし、ふりだしに戻るだけだろう───レオンのその想像は、強ち外れてはいなかった。

 でも、いつまでも家に閉じ籠っている訳には行かない。
スコールが小学生になった時がチャンスだと、レオンは考えていた。

 幼稚園や保育園に行く事が出来なかったスコールだが、小学校に入学する事は楽しみにしていた。
レオンが辿った道でもあるし、外で遊ぶ性格ではなくとも、家に閉じこもりきりの生活にも飽きていたのだろう。
六歳になったスコールは、春の小学校の入学式を、今か今かと待ち侘びていた。
本来、入学式には保護者が付き添うものだが、レオンとスコールに母はいないし、父は海外から戻って来ない。
両親の代わりに、レオンがスコールの保護者として付き添うのだ。

 ウォードの事故を起こした真相については、未だに首謀者と思しき者は捕まえられていない。
それを理由に、未だ外に出ては駄目だと言われても、レオンは無視するつもりだった。
折角、スコールが楽しみにしていた小学校の入学式なのだ。
スコールが喜ぶ事は叶えてやりたかったし、レオン自身、何でも良いから理由をつけて、家の外に出たかった。
毎日毎日、庭に出る事すら出来ず、机に齧り突くようにして勉強するだけの日々には、嫌気が差していたのだ。

 スコールの入学式を控えた四月初め───レオンとスコールの下に、小学校の入学式の案内プリントと共に、真新しいランドセルが届けられた。
教育係は、宅配便から受け取ったそれを、レオンの部屋で過ごしていた兄弟の下へ届けた。

 光沢のある新品のランドセルを見て、スコールがきらきらと目を輝かせる。


「見て見て、お兄ちゃん。ランドセル!」


 見て判る事を、きらきらと目を輝かせて兄に報告するスコールの頬は、興奮で上気している。
これが用意されたと言う事は、スコールは小学校に通う事が出来ると言う事だ。
スコールがはしゃぐのも、無理のない事だろう。


「ねえ、これ、僕のランドセルだよね」
「ああ。ほら、此処に名前も書いてある」


 レオンはランドセルを横にして、側面に縫い付けられた名札入れを見せた。
名札用の紙に、油性ペンで自分で書かれているのを見付け、スコールが万歳をして跳ねる。


「やった、やった! 僕、小学生になるんだ! ね、ね、これ、背負ってみても良い?」


 興奮冷めやらないと言う様子で、スコールがレオンにおねだりする。
自分の物なんだから、許可なんて求めなくて良いのに、と思いつつ、無邪気な弟が愛らしくて、レオンはくすくすと笑いながら頷いた。
ぱああ、とスコールが破顔する。

 レオンがランドセルの背中を持って、背当てをスコールの方に向ける。
スコールは背中を向けて、肩ベルトに腕を通す。
見えないので迷うように四苦八苦している弟に口元を綻ばせつつ、レオンはスコールがきちんとランドセルを背負えるように誘導する。

 レオンの手が、ランドセルから離れた。
ランドセルは、小柄なスコールの背中よりもまだ大きく、後ろから見ると背中がすっぽり隠れてしまう。
ランドセルを背負っていると言うよりも、背負わされている、と言う風に見えた。

 しかしスコールはそんな事は知る由もなく、初めて体験した背中の重みに、嬉しそうにはしゃいでいる。


「お兄ちゃん、お兄ちゃん。変じゃない? 似合う?」


 くるくると兄の前でファッションショーのように回りながら言うスコールに、レオンは目を細めて頷いた。
スコールは嬉しい気持ちが堪らなくなったのか、ランドセルを背負ったまま、勢いよく兄に抱き着いた。


「僕、小学生になるんだ。入学式、行っても良いよね」
「勿論だ」


 入学式の案内と、ランドセルを届けてくれたのだ。
教育係も、きっと許してくれる筈。
そのつもりでなければ、きっと部屋まで持って来る事はないだろう───とレオンは思っていた。

 くい、くい、と小さな手がレオンの服を引っ張る。
見下ろすと、スコールはおずおずとレオンを見上げ、


「あの、ね……僕ね、お兄ちゃんと一緒に学校に行きたかったの。お兄ちゃんと一緒に、お家を出て、お手て繋いで、並んで学校に行くの。出来る? お兄ちゃんも、僕と一緒に学校、行く?」


 レオンが長らく学校に行っていない事を、六歳のスコールは理解していた。
その理由までは判っていないが、兄がずっと学校に行けずにいる事は判っている。

 ひょっとして、学校に行くのは自分だけなのだろうか。
スコールは、入学式は勿論、毎日の登下校も、レオンと一緒に行きたかった。
これはレオンが小学生の頃から、スコールが願い続けてきた事だ。
レオンは中学生、スコールは小学生になって、同じ学校に並んで入る事は出来ないけれど、途中までは一緒にいられる筈だと、スコールは思っていた。
でも、兄が今までと同じように学校に行かないのなら、スコールは一人で、誰も知り合いのいない小学校に行かなければならない。
引っ込み思案で、人見知りが激しいスコールには、この壁は高かった。

 不安げに見詰める弟を、レオンはぎゅっと抱き締めた。
柔らかい濃茶色の髪が、レオンの頬をくすぐる。


「一緒に行くよ、スコール。入学式も、その後も。一緒に学校に通おうな」


 幸い、小学校は、レオンが在籍登録されている中学校の通り道にある。
放課後は一緒に帰れるかは判らないが、一緒に登校する事は可能だ。
毎日、レオンがスコールを小学校まで送り届けてから、中学校に行けば良い。

 気掛かりがあるとすれば、レオンが教育係の許可を貰えるかどうか。
いや、何としてでも許可を取る、とレオンは思っていた。
もしも駄目でも、レオンはもう、教育係の言葉の半分を信用していなかったから、彼が駄目だと言っても聞くつもりはなかった。

 一緒に学校に行く、と言うレオンの言葉に、スコールはわあい、と全身で喜びを表した。
抱き締めてくれる兄に抱き着いて、胸に頬を寄せる。
とくとくと優しい心音を聞きながら、スコールは入学式の日を楽しみにしていた。



 レオンがスコールの入学式に付き添う事について、教育係からは安全の為にと反対されたが、ならばどうしてスコールを一人で外に行かせるのか、とレオンは反論した。
教育係は、自分が代わりにスコールに付き添うと言ったが、レオンは「信用できない」ときっぱりと口にした。
父と連絡がつかない事も、ウォードが帰って来ない事も、長く雇用していた使用人達がいなくなった事も、教育係の差し金だとレオンは思っていた。
半ば確信を持っていたと言っても良い。
そんな人間に、大切な弟を預ける気にはなれない。

 結局、教育係は許可してくれなかったが、レオンは無視する事にした。
レオンに勉強を教える事だけに厭に熱心な人間の言う事など、最早聞く価値もない。
レオンは既に十四歳で、自分で物事を判断できる年齢になっていた。
その末に、レオンは長年信じ続けていた教育係が、既にその信頼に値しない人間であると感じた。

 レオンと教育係の確執を、スコールは知らない。
レオンは、スコールの前でだけは笑顔を絶やさないように努めていた。
自分が笑顔を浮かべている事が、スコールの心の一番の安定剤なのだ。
教育係は専らレオンにかかりきりで、スコールの事は碌に気に留める様子がなかった。
スコールへのこうした温度差も、レオンが教育係に不信感を募らせる理由の一つだ。

 教育係との意思の疎通は、最後まで平行線のまま、スコールの入学式前夜となった。

 思い返せば、ほぼ三年振りに外に出られるのだと思うと、レオンとて興奮しない訳には行かない。
スコールは、まるでピクニックに行くかのように、明日になるのを首を長くして待っていた。
それを宥めて寝かしつけようとしたのだが、スコールは勿論、レオンも中々寝付けない。
スコールの入学式が終わったら、スコールを連れて、中学校にも行ってみよう。
生徒として在籍登録はされているのだから、出入りするのに制限はない。
それから───その後はどうしよう。
教育係が血眼になって追って来るのを想像して、レオンは家には帰りたくない、と思った。
以前雇っていた誰かを頼る事が出来れば、この家の異変について、話を聞いてくれる人もいると思うのだが、果たして皆は何処に行ったのか。

 段々と興奮と不安が綯い交ぜになったレオンを見て、はしゃいでいたスコールが心配そうな表情を浮かべた。
そんな弟に気付いて、レオンは慌てて表情を繕い直し、眠る為にホットミルクを飲もうと、スコールを連れてキッチンへ向かった。

 教育係が雇い直したハウスキーパーの女性は、カドワキのように兄弟とお喋りをする事もなく、黙々と自分の仕事だけをこなす。
その日も、彼女はキッチンの掃除を淡々と行っていた。
人形かロボットかを思わせる無表情な彼女に、スコールは勿論、レオンも不気味さを感じていたが、ホットミルクを飲みたいと言うと、彼女は直ぐに用意すると言ってくれた。

 作って貰ったホットミルクは、部屋に持って帰って飲んだ。
ホットミルクは、カドワキが作っていたものに比べて、随分と砂糖が多くて甘かったが、スコールは全て飲み切った。
成長に伴う味覚の変化で、レオンはあまり甘い物が得意ではなくなっていたので、飲んだのは半分までだ。

 先に眠ったスコールを抱き締めて、レオンも眠った。
この軟禁状態も、明日になれば終わる。
終わらせる。
そして、スコールと一緒に自由になるんだと、レオンは心に決めていた。

 ────兄弟が一緒に眠ったのは、その日が最後の事になる。



 レオンの目覚めは、緩やかなものだった。
連夜のように続いていた、夜半のスコールの喘息で目を覚ます事もなく、久しぶりに朝までゆっくりと眠れたのではないだろうか。

 しかし、レオンが目を覚ました時、一緒に眠った筈のスコールは、傍らにいなかった。
いたと言う形跡さえ残っていない。


「……スコール?」


 入学式をとても楽しみにしていたから、先に目を覚ましたのだろうか。
起き上がったレオンは、きょろきょろと部屋を見回した。
しかし、何処にも弟の姿はない。
スコールが脱いだパジャマも、今日の日の為に用意されたランドセルも、なかった。

 寝惚け眼を擦りながら、レオンはベッドを抜け出した。
取り敢えず、着替えてスコールを探しに行こう。
早く目が覚めてお腹が空いて、キッチンに行ったのかも知れない。
見当たらないランドセルは、待ち遠しくなったスコールが今から背負っているのかも。

 入学式に連れ添うのに私服は良くないだろうと、レオンは中学校に入学して間もなく渡されていた制服を探した。
一度も袖を通していない制服は、クローゼットの中にきちんと保管してある───筈だった。


「……?」


 あるとばかり思っていた場所に、探し物はなかった。
シェルフやベッド下の収納も探ってみたが、制服は何処にも見当たらない。
可笑しいな、と思いつつも、見当たらないのなら仕方がないと、派手にはならないように私服を選んで着る事にした。

 着替えた後、部屋を出ようとして、レオンの足は止まった。
部屋のドアが、押しても引いても開かない。
外から鍵がかけられている。
内側のネジ式の錠前を回そうとしても、何かに引っ掛かったように途中で詰まってしまう。


「……え……?」


 スコールの悪戯、とは思わなかった。
こんな性質の悪い悪戯をスコールがする訳もない、思い付く筈もない。

 ドンドンドン、とドアを叩く。
以前のように沢山の使用人がいれば、この音に気付いて飛んで来ただろう。
しかし今は、兄弟を除けば、教育係とハウスキーパーが二名のみ。
廊下の向こうはしんと静まり返り、人の気配も感じられない。

 レオンは舌打ちして、ドアを破ろうと体当たりした。
だが、ドアはびくともしない。
後の事は後で考えようと、形振り構わず、椅子をドアに叩き付けた。
ドアの表面に傷は出来たものの、それだけだ。
何度も椅子をぶつけると、椅子の足が先に折れた。


「くそっ」


 閉じ込められているのだと悟って、レオンは苛立つ感情のままにドアを殴る。
じん、とした痛みが拳に響いた。


(そうだ────窓)


 部屋には三つの窓があり、全て中庭に向いている。
それにも外側から錠前のような鍵が取り付けられており、開ける事は出来ない。

 レオンは、既に足が一本壊れているのだから遠慮も要らないと、窓に向かって椅子を投げた。
ドアと違い、ガラスならば容易く割れるだろうと思ったのだが、窓にも僅かな傷がついだだけで、椅子の方が砕けた。
拳で叩くと、ガラスとは違う弾力が帰って来る。


(強化ガラス!?)


 三つの窓を、代わる代わる何度も叩く。
道具になりそうな硬度のあるものを探しては投げつけたが、窓は壊れなかった。

 ドアは開かない。
窓も開かない。
壊せない。
部屋の外に出る事が出来ない。
この異常な空間にレオンは困惑したが、何よりもレオンを焦燥に駆り立てたのは、弟の姿が何処にもない事だ。
自分が閉じ込められているのだから、弟も同じように閉じ込められているのかも知れない。
外にいるのだとしても、彼を一人にしたら、いつ何が起こるか。
喘息の発作は何が原因で起こるか判らないし、危険な人間が近付いていたら、このままでは守る事も出来ない。

 脱出しようと奮闘し、それが全て空回りしたレオンは、疲れ切っていた。
机の上に充電器に挿して置いていた携帯電話は、充電器ごと消えていた。
しかし、諦める訳には行かない。
自分はスコールを守らなければならないのだから、何としても、弟の下へ行かなければ────だが、何をしても、ドアの向こうに何度呼び掛けても、外に出る事は出来なかった。

 レオンが目を覚ました時、既に時刻が正午を過ぎていた事に気付いたのは、起床から何時間も経ってからの事。
八方塞がりに無気力になり、部屋の真ん中で床に座り込んでいた時、勉強机に置いていた時計が目についた。
それを見て、初めて時間を知ったのだ。

 昼過ぎに目を覚ますなんて、寝坊どころの話ではない。
確かに昨日は遅くまで起きていたが、それでも、こんなに遅い時間まで眠る程ではなかった。


(……どうなってるんだ)


 不可解な事ばかりに囚われて、レオンは辟易した。
何より、弟の姿が見えないのが、不安を募らせる。
何処にいるのか、泣いていないか、発作は大丈夫か、怖い思いはしていないか───レオンの心は逸るばかりだった。
スコールにとって、レオンの存在は何よりの安定剤だが、レオンにとっても、スコールの存在は、唯一無二の安定剤なのだ。
彼が無事でいる事が判らない状態になると、レオンの憔悴は一気に加速する。

 座り込んだまま、スコールの事ばかりを考えて過ごす。
外に出なくちゃ、と思っては、ふらふらとドアに近付き、あれこれと思い付く限りの事を試したが、徒労に終わった。

 そうして時間だけが過ぎ、窓から差し込む光が夕闇に変わった頃、ドアは開いた。


「スコール!」


 レオンが真っ先に呼んだのは、他でもない、弟の名前だ。
しかし、現れたのは愛する弟でもなければ、帰りを待ち望んでいた父でもない。
増してや、その友人達でもなく、一人この屋敷に残り続けていた教育係であった。

 教育係の顔を見た瞬間、レオンの頭は沸騰した。
昨日、スコールの入学式に行ってはいけない、と最後まで反対されていた事で燻っていたものが、爆発したのだ。


「スコールは何処だ? 何処に連れて行った!?」


 叫んだレオンを、教育係は静かな目で見詰め返し、言った。


「何処にも連れて行ってはいない。連れて来たのは、レオン、お前の方だ」


 長い付き合いの中で、いつもレオンの前では丁寧な態度を崩さないこの人物からは、一度も聞いた事のない、強い口調だった。

 教育係の言葉の意味を、レオンは理解できなかった。
その言葉そのものが、レオンにとってはどうでも良いものだ。
レオンが求めていたのは弟の所在だけだ。


「スコールは何処だ」
「入学式は終わった。今は自分の部屋にいる」
「其処を退け」
「いいや。お前はこの部屋から出てはいけない。弟に逢う事は許可出来ない」


 強い口調で命令したレオンを、教育係は表情を変えずに拒否した。
レオンの米神に青筋が浮かぶ。


「お前の許可なんか必要ない。退け!」


 声を荒げても、教育係は動かない。
苛立ちと焦燥で、レオンは自分の行動も感情もコントロール出来なくなっていた。
早く弟に逢いたい、その一心で拳を握る。

 退かないのなら、力尽くで退かせるまで。
鍵が外れたドア前を塞いでいる教育係さえ退かしてしまえば、レオンは外に出られる、スコールの下に行けるのだ。

 拳を振り上げたレオンを、次の瞬間に襲ったのは、腹への強い衝撃だった。
呼吸を失い、唾液を吐いて後ろに吹き飛ぶ。
床に落ちたレオンは、内臓から競り上がって来る痛みの嗚咽で、腹を抱えて蹲った。


「あ……っう……!」


 何が起こったのか、一瞬判らなかった。
鳩尾を蹴られたと悟った時、視界に翳が挿した。
痛みで虚ろになる視界で見上げると、教育係が無表情のまま傍らに立って見下ろしている。


「お前が成すべき事を成せば、弟に逢わせてやろう」
「……な…ん、だと……」


 痛む腹部を抑えて置き上がったレオンは、教育係の言葉に顔を顰めた。
完全な上位目線の言い方は、雇用された"教育係"には不適当な態度だ。
そもそも、雇用主のラグナの息子であるレオンに対し、暴行を振るった時点で可笑しい。

 げほ、げほ、とレオンは咽返った。
目覚めてから何も食べていないから、吐き出すものはない。
胃液だけが競り上がって来るのが、反って気持ちが悪かった。

 床に蹲るレオンを、教育係はじっと見下ろし、淡々とした口調で続ける。


「お前は、『エスタ』の次期社長となる人間だ。だから、その器に相応しい人間になって貰わなければ困る」


 レオンが『エスタ』の次期社長───そんな話は、邸宅内でも実しやかに囁かれる噂であった。レオンも何度か耳にした事がある。しかし、それが決定された未来であるかと言うと、「否」だ。元々『エスタ』は小さな民間企業から始まり、先代の社長が少しずつ事業を拡大させ、現在に至るまでの基盤を築いた。
一気に大きくなったのは、ラグナが社長に就任してからだと言う。
信用第一、人との絆・繋がり第一をモットーとし、ラグナの天性のカリスマで、様々な会社からの信頼を得て、急成長した。
ラグナと先代社長の間には、古くから付き合いのある友人と言うコネクションがあったが、血縁親族のような繋がりはない。
ラグナが社長を任されたのは、あくまで、先代社長の眼鏡に純粋な意味で敵ったからだ。

 血縁が代々社長を受け継ぐと言う会社、財閥があるのは知っている。
しかし、先代社長は勿論、ラグナにもそのつもりはなかった。
会社は適材適所、やりたい者がやるのが一番だと、ラグナは言う。
だから、息子である事を理由に、レオンを後継にと思った事もない。
幾らラグナが子煩悩でも、息子の将来を自分の希望で勝手に定める事はしなかった。


「父さんは、そんな事、一度も言ってない」
「社長には、後々、推薦しておこう。お前が次期社長として優れた器を持っている事も、お前こそが『エスタ』の未来を統べるに相応しい人間である事も、私から伝えておく」
「馬鹿な事を言うな。大体、あんたの勝手な希望で、俺の未来を決めるな!」


 レオンは、まだ十四歳───中学二年生になったばかりだ。
進学校では将来の進路希望云々の話が持ち上がる事もあるが、現実には高校受験の話題さえも一年先の年齢である。
時期尚早にも程がある話だった。


「それに、俺の将来がどうのなんて話と、スコールが此処にいない事と、どう言う関係があるんだ」


 教育係が語る勝手な理想図など、レオンにはどうでも良かった。
レオンが一番気掛かりなのは、今現在、弟が何をしているのか。
何故、弟と逢ってはいけないのか。
それだけだ。

 教育係は、座り込んだままのレオンを見下ろし、定められた文章を読むかのように澱みのない、感情のない声で続けた。


「弟が傍にいると、お前は勉強に身が入らないようだからな」
「そんな事はない。あんたも見ていただろう。スコールと一緒にいる時でも、そうでない時でも、俺はちゃんと勉強した。あんたが指定した課題だって、期日までに全部終わらせていた筈だ」
「確かに、それは確認している。だが、勉強の時間の間、お前は常に弟の気配を確かめていた。勉強に身が入っていない証拠だ」
「言い掛かりだ。スコールは喘息があるし、弟なんだから、気になるのは当然だろう。それで俺が勉強を放ったらかしにしたって言うならともかく、そうじゃないじゃないか」
「いいや。弟が喘息の発作を起こすと、お前は勉強を放り出して、弟にかかりきりになった。弟が傍にいると、お前は成すべき事を簡単に投げ出す」
「発作を起こしたスコールを放って、勉強だけしていろって言うのか? そんなの、スコールに死ねって言っているのと同じじゃないか!」


 スコールの発作は、時に重症なものになる事がある。
呼吸が出来なくなり、自分で体を動かす事も儘ならなくなる為、自分で薬を用意するのも難しい。
酷い時には呼吸困難に陥り、意識不明になって病院に緊急搬送された経験もあった。

 いつでも気掛かりで、手のかかる弟であった事は事実だ。
だが、スコールも好きで喘息を患っている訳ではない。
一番辛い思いをしているのは、スコール本人なのだ。
家族である自分が、そんなスコールを一番に支えてやらなくてどうするのか。
父がいない今だからこそ、兄である自分がスコールを守ってやらなければならないのに。

 レオンの叫びを、教育係はまるで興味のない素振りで聞き流していた。
その態度が、レオンの怒りを更に煽る。


「あんたは、スコールが死んでも良いって言うのか!?」
「いいや」


 間を開けずに帰って来た言葉に、レオンは一瞬、虚を突かれた。
目の前の人物が何を考えているのか読めず、目を見開いて立ち尽くす。


「弟の存在が失われる事は、あってはならない事だ」
「……さっきまで、スコールが邪魔みたいな事を言っていた癖に、何を言い出すんだ」
「邪魔とは言っていない。今のお前の傍に弟がいる事が好ましくないのだ。弟は、今のお前の傍にいてはならない」
「邪魔だって言ってるのと同じじゃないか」
「いいや」


 教育係は、きっぱりと首を横に振った。
自分が思い描いているものが、レオンにとって甚だ迷惑でしかなく、己一人が勝手に思い描いている独り善がりな理想像である等、思ってもいないのだろう。
無表情を崩さないその貌は、レオンには根拠が判らない、絶対の自信によって作られたものだった。


「しばらく、距離を開けるべきだと言っているのだ。弟はこれから初等教育を学ぶ為、学校へ通って貰う。だが、お前は今、とても大切な時期だ。今、お前が何をして過ごすか、それが将来の形を決めるだろう。次期社長としての器になる為にも、それに相応しい勉学に励んで貰わなければ困る。他の刺激は、全て毒だ。だからお前は、これからは学ぶべき事を正しく学び、それ以外の余計な事には拘る事なく───」
「余計な事ってなんだ! スコールは俺の弟だ。兄が弟を守る事の、何が余計なんだ!」


 叫ぶレオンを見て、教育係は初めて表情を崩した。
眉尻を下げて、呆れるように溜息を漏らす。

 レオンは一度呼吸して、早鐘を打つ心臓を宥める。
頭が再び沸騰して行くのを感じながら、冷静になれ、と自分に言い聞かせる。


「お前にとって、スコールはどうでも良い存在なのかも知れないが、俺にとってはそうじゃない。スコールは俺が守るって決めたんだ」


 レオンのその誓いは、誰に対するものでもない。
レオン自身と、何より、弟に向かって誓った事だ。
赤の他人に突然割り込まれて、好き勝手に破られて良いものではない。


「とにかく、スコールに逢わせろ。そうしたら、お前が言う次期社長の為の勉強とか言う奴も、大人しく受けてやる」
「逢えば、弟を連れて逃げるだろう」
「お前がこれ以上、俺とスコールを引き離したりしなければ、逃げたりしない」


 次期社長の話など、レオンはまるで興味がなかったが、それさえ受け入れれば弟を取り戻す事が出来るのなら、引き受ける事は吝かではない。
スコールが傍にいてくれれば、レオンにはそれで十分だった。

 しかし、教育係は首を横に振った。


「駄目だな」
「どうして!」
「何としても、駄目だ。お前の為にならない」
「何が俺の為になるかなんて、俺が決める。お前に決める権利なんか───」
「私は、お前の教育係を任されている。お前を次期社長に相応しい人間に育てる事が、私の役目だ」
「そんな事で納得できるか。何が教育係だ。皆に勝手に暇を出したり、俺をこんな所に閉じ込めたり───ひょっとして、父さんやウォードさんが帰って来ないのも、お前の差し金なんじゃないのか。ウォードさんが事故に遭った時、真犯人がどうのと言っていたけど、それってお前の事なんじゃないのか。皆と俺達をバラバラにして、俺達を家の中に閉じ込めて、お前の都合の良いように出来るように図ったんじゃないのか」


 眦を尖らせ、矢継ぎ早に詰め寄るレオンの言葉に、教育係は何も言わない。
しかし、その表情は薄暗い笑みを浮かべていた。
レオンを見る目は恍惚としており、彼の言葉を否定する所か、正解に辿り着いた事を褒めているかのような表情だ。

 レオンは、目の前の人物の、底知れない狂気を感じていた。
こんな人間が身近にいるなど、思った事もなかった。
父やキロスやウォードが信頼していたのも、全て偽りの仮面だったのか。
長い間、確かな指導力で的確に勉強を教えてくれたのも、狂人の勝手極まりない願望を叶える為だけに積み上げられた布石だったのか。
そんな人間を、幼かったとは言え、半ば無条件に信頼していたのかと思うと、背筋が凍る。


「───こんなのが教育係のやる事か!? それにお前は、俺だけじゃなくて、スコールの教育係も任されている筈だ。なのに、なんで俺にばかり固執して、スコールがどうでもいいような事を言うんだ。俺に次期社長としての勉強をしろって言うなら、スコールも同じように教育するべきじゃないのか!?」


 今までスコールは就学年齢に達していなかった為、教育係が目を光らせて指導する事は、殆どないも同然であった。
教育係が主導となって指導していたのは、小学生の学習範囲だったからだ。

 そして、スコールは今日、小学校に入学した。

 ウォードの事故の直後、教育係は、レオンを学校に行かせなくなり、今もそれは続いている。
中学生になった年の春、レオンは小学校の卒業式も、中学校の入学式も出席できなかった。
あれも"余計な刺激"を避ける為か。

 だが、スコールは今日、入学式に行ったと言う。
この方針の違いはどういう事なのか。
確かに、レオンも小学一年から五年生の前期まで、普通の子供と同じように学校に通っていたが、"次期社長の器"として相応の勉強をさせると言うのなら、早い内───それこそ、スコールにも今の内から同様の方針で勉強をさせるものではないのか。

 息を荒げ、感情を吐き出すままに叫んだレオンは、喉奥が詰まって呼吸の仕方を忘れそうだった。

 よろめきながら立ち上がり、教育係を睨み付ける。
教育係は、真っ直ぐに己を見詰める少年を、眩しいものと向き合うように目を細めた。
かと思うと、幻滅したように瞼を伏せて溜息を零し、


「あれは駄目だ」


 生まれ付いての体の弱さ、喘息と言う重い枷。
引っ込み思案で、人見知りも激しく、家族以外には懐かず、同じ年頃の子供が集まる場所にも近付いて行く事が出来ない為、社交性は一向に身に付かない。
物事の習得に関しては、兄であるレオンは勿論、同年代の子供と比べても、遥かに遅い。
これでは、"次期社長"になど到底なれない。

 教育係は滔々と並べ立てたが、レオンは一切聞いていなかった。
最初の一言で、彼の頭は一瞬で沸騰した。

 レオンの手が、教育係の胸倉を掴んでいた。
怒りに満ちた蒼の眼光が、教育係を至近距離から射抜く。


「今の言葉、撤回しろ」


 家族への侮辱の言葉は、レオンの逆鱗であった。
それが愛する弟に向けられたものなら、尚更だ。

 今にも絞殺さんばかりの力で、レオンは教育係の胸倉を締め付ける。
今なら躊躇せずに人を殺せるかも知れない。
危険な思考に囚われ、感情のままに締め付けるレオンを見上げ、教育係は尚もうっとりと笑みを浮かべていた。


「やはりお前が最も相応しい。排除すべきと判断した時、躊躇わずに排除する事が出来る眼。それがなくては、大成する事は出来ても、生き残っていく事は出来ない」
「黙れ。余計な口を挟むな。さっきの言葉だけ、撤回しろ」
「情に流されてはいけない。例え家族であろうと、愛する女であろうと、切り捨てなければならない時、迷わず切り捨てられる非情さがなければならない」
「黙れ。喋るな。お前の話は吐き気がする」
「ラグナは天性のカリスマを持っている。先代社長の名もよく聞いている。人情味の溢れる人だったと。それも良いだろう。だが、『エスタ』は昔のような小さな会社ではない。世界に影響を及ぼす一大企業だ。今までと同じではいけない。守り、更なる高みへ昇る為には、非情さが必要なのだ」
「黙れと言っている!」


 レオンが声を荒げても、教育係は全く動じなかった。
恐ろしい程に、彼は自分の頭の中で描いた"レオンの未来像"を妄信している。
そして、それを実現する為に、ありとあらゆる手段を行使するだろう。
ウォードが交通事故に遭った時から、その異常性は既に現実化していたのだ。

 レオンはぞっとした。
この人間を、このまま生かして置いたら、きっと将来、スコールに害を成す。
それを赦してはいけない。
レオンの手が、教育係の胸倉から首へと移ったのは、本能が"やらなければならない"と突き動かした事だった。

 しかし、指に力を込める直前、腹を蹴り上げられる。
無防備だった腹部への二度目の衝撃に、レオンの指は力を失い、膝が崩れた。


「うあ…っは、げほっ……!」


 レオンは腹を抱えて蹲った。
その肩を教育係の手が掴み、強引に起き上がらせる。
痛みに顔を顰めるレオンの腕を取ると、懐から取り出した手錠で左右の手首を繋いだ。


「な……」


 何を、とレオンが顔を上げると、薄い笑みを浮かべた唇が見えた。

 繋がれた腕を引かれ、勉強机まで連れて行かれる。
無理やり椅子に座らされると、左右の手錠を繋ぐ鎖に、新たな鎖が絡められ、その端は机の足へと繋げられた。


「なんだよ。何なんだよ、これは! お前、何考えてるんだ!」


 がちゃがちゃと手錠を外そうともがくレオンだが、金属が手首に食い込むばかりで、びくともしない。
玩具にしては頑丈で、銀色の光も強く、鉄金属の重みがある。
レオンが暴れた位では、到底壊れはしないだろう。

 椅子を蹴倒して立ち上がろうとして、背後から肩を押さえつけられる。
ぎし、と肩の骨が痛む程に強い力に、レオンは顔を顰めた。


「お前には、今後、私が指定した勉強を全て終えるまで、机から離れる事は許さない」
「ふざけるな! お前に教えて貰う事なんか何もない。教育係なんてクビだ。手錠(これ)を外して、今直ぐこの家から出て行け」


 背後の男を睨んで、レオンはあらん限りの怒気で以て言った。
こんな狂った人間と、一分一秒とて、同じ空間にいたくない。
スコールに害を成そうとする人間ならば、尚更だ。
殺す事が出来ないのなら、永久追放して出入り禁止にして───それでもやはり、レオンは自分の気が収まる気がしなかった。

 視線で人を殺す事が出来るのならば、教育係は既に死んでいただろう。
それ程の強い眼光で睨むレオンを、教育係は笑みを崩さずに見下ろしていた。


「今、お前の弟は自分の部屋にいる。喘息の発作の処置の為、一人ではない」
「……何?」
「だが、お前がお勉強が出来ないと言うのであれば、弟の身に関して、一切の保証をし兼ねる」
「………!」


 完全な脅しだった。
レオンが言う通りに"勉強"をしなければ、スコールに危害を加えると言う事だ。

 スコールは明日から小学校に通う。
暴行などの痕を残せば、学校に行った時に直ぐに見付かり、不審に思われるだろう。
だが、見付からなければ問題はない。
それにスコールには、暴行されなくとも、常に命の危険が付きまとっている。
一人で過ごしている時に大きな喘息の発作が起こったら、誰かがいても応急処置に応じてくれなかったら、そのまま呼吸困難になって死んでしまうかも知れない。

 レオンは、手錠に繋がれた腕を見下ろした。
一瞬の油断で拘束され、全ての自由を奪われた。
いや、ずっと前から、レオンの自由は奪われていた。
ただ気付いていなかっただけなのだ。

 肩を掴んでいた手が離れる。
レオンは振り向かなかった。
鎖を映す視界が、じわじわと歪んで行く。

 どうしてもっと早く気付けなかったのか。
何も知らない子供だったからと、赦される話ではない。
自分だけならともかく、スコールも危険な目に遭わせている。
どうして昨夜、スコールの傍から離された時、目覚める事が出来なかったのだろう。
その時に目を覚ましていれば、こんな事にはならなかったかも知れないのに。

 ドアを開ける音が聞こえた。
出て行こうとする人間を突き飛ばして、飛び出して行きたいと思う。
しかし、机の脚に繋がれた鎖は、ドアまでは届かない。


「食事と、課題に使うものを持って来よう。其処で待っていると良い」


 教育係の声に、レオンはもう反応しなかった。
声を聞くのも嫌で、机に俯せになって顔を隠す。

 スコールに逢いたい。
スコールが無事でいると確かめたい。
レオンの頭の中には、それしか残っていなかった。
そんなレオンの心を読んだ訳でもあるまいに、教育係はドアを閉じる間際に言った。


「お前が成すべき事を成せば、弟にも逢わせてやろう。───ああ、始めに言ったか」


 重複したな、と呟く声に、どうでも良い、とレオンは思った。



 スコールが心待ちにしていた入学式は、少しも楽しくなかった。
父に代わり、保護者として一緒に出席してくれる筈だったレオンが、式が終わるまでに来てくれなかったからだ。

 今朝、スコールが目を覚ました時、兄の姿は其処になかった。
あれ、と首を傾げ、ぬいぐるみを片手に邸宅を歩いて探し回ったが、何処にも見付からなかった。
入学式が始まる時間が迫り、どうしよう、と焦っていると、教育係がやって来て、今まで見た事のなかった笑顔を浮かべて、言った。


「お兄さんに急ぎ大切な話が出来てしまった。残念だが、先に学校に行きなさい。話が終われば直ぐにお兄さんも後を追うから」


 登校も一緒だと約束したのに、とは言えなかった。
笑っていると言うのに、その瞳の奥は、ちっとも笑っているように見えなくて、反論するのが怖かった。

 常に無機質、無表情で喋る教育係が、スコールはずっと苦手だった。
自分がこの教育係に教わる事はなかったので、以前は特に存在を意識した事はなかったが、改めて向き合った時は、酷く冷たい印象が残って、少し怖いとさえ思った程だ。
そんな教育係が、まるで別人のように朗らかに笑っていたので、スコールはその変貌ぶりに反って強い違和感を感じていた。

 小学校までの道はおろか、外の世界そのものが三年振りのスコールである。
一人で家の外に出るのは不安だった。
途方に暮れて玄関口で立ち尽くしていると、ハウスキーパーの女性が一緒について来てくれる事になった。
入学案内プリントに書かれていた地図に従い、なんとか入学式が開始する前に到着する事が出来たのだが、スコールの表情はずっと暗いままだった。

 "大事な話"が終われば、レオンは入学式に駆けつけてくれるものだと思っていた。
しかし、結局、レオンは最後まで来なかった。
代わりにハウスキーパーが保護者席に列席してくれた。
レオンの代わりに参列してくれた事は感謝するべきなのだろうが、幼いスコールは、どうしても表情を繕う事が出来なかった。
そんなスコールを見ても、ハウスキーパーは何も言わない。
入学式が終わり、初めての校舎、初めての教室へと案内され、教科書やノートなどを配られ、初めての学校生活が終わるまで、スコールは笑う事も出来なかった。
春の陽気に浮かれた真昼の帰り道は、往路と同じく、ただ黙々と歩いて、家に着いた。

 入学式には間に合わなかったけれど、家に帰れば、兄が出迎えてくれるのではと思っていた。
しかし、出迎えたのは教育係だけで、"大事な話"はまだ終わってないと言う。
良い子にしているから、お兄ちゃんと一緒にいたい、と言ったが、駄目だと言われた。


「お兄さんは、とても大切な話をしている最中だ。邪魔をしてはいけない」


 教育係は、淡々とした口調で言った。
兄の邪魔をするなと言われれば、スコールは口を噤むしかない。

 自分の部屋に入ったスコールは、学校で配られた教科書やノートに名前を書いて行った。
お絵描きばかりをしていた机が、勉強机に変わった瞬間だったが、スコールはちっとも楽しくなかった。

 部屋にいたのは、スコール一人ではなく、今日一日を一緒に過ごしてくれたハウスキーパーがいる。
彼女は、部屋に入って一番に、仕事の一環なのだろう、部屋の中ををてきぱきと掃除した。
埃が少し被っている程度で、特に散らかっている訳でもないので、それは直ぐに終わった。
その後は、以前、ウォードが座っていた椅子に座り、じっとスコールの背中を見詰めている。
たまたま視線が此方を向いているだけだと思いつつも、スコールは、なんだか監視されているような居心地の悪さを感じていた。


(お兄ちゃんなら……こんな事、ないのに……)


 ハウスキーパーの彼女を悪い人とは思わない。
怖い人、とも思わなかった。
だが、お喋りをする訳でもなく、微笑んでくれる訳でもない彼女に、スコールは近付き難さを感じていた。

 スコールは、とにかく、兄の"大事な話"が早く終わる事を願った。
ベッドで寝ていたぬいぐるみを抱えて、勉強机に着席し、絵本代わりに国語の教科書を開いて眺めながら、じっと時間が過ぎるのを待つ。

 ぐう、とスコールの腹が鳴った。
お腹空いた、と鳴く腹を撫でて宥めていると、ハウスキーパーがすっくと立ち上がった。
動く気配に、思わずスコールは緊張する。

 ハウスキーパーが出て行くと、入れ違いで、教育係が入って来た。
スコールはその背中に兄の姿を探したが、見当たらない。
ぬいぐるみに顔を埋めて、しゅん、と落ち込んだスコールの下へ、教育係が近付いて、膝を折って目線を下げる。


「レオンとの話が終わったぞ」
「ほんと?」


 教育係の言葉に、スコールの顔が俄かに明るくなる。
やっと逢える、と表情を綻ばせたスコールは、教育係がレオンへの呼称を"レオン様"ではなく"レオン"と呼び捨てした事に気付かなかった。

 いそいそと兄の下へ向かおうとするスコールに対し、教育係は表情を変えないまま、続けた。


「レオンは、学校には行かない事になった」
「……え?」


 ぱちり、とスコールの大きな瞳が瞬きを一つ。
ことり、と小さな頭が右に傾いた。


「お兄ちゃん、学校に行かないの? どうして? 僕と一緒に学校に行くって、約束したのに」


 入学式も、その後も、一緒に通おうと言ったのはレオンだった。
あれは嘘だったのだろうか───スコールは、その考えを直ぐに振り払った。
兄が自分に嘘を吐くなんて有り得ない、と。

 しかし、教育係は繰り返す。


「レオンは学校には行かない。スコールには、約束を守れなくてすまなかった、と伝えるように頼まれた」
「なんで…どうして?」


 兄と同じ蒼灰色の瞳が、今にも泣き出さんばかりに揺れている。
困惑と不安で、スコールは胸の奥がぎゅうぎゅうと苦しくなるのを感じていた。

 教育係は、淡々とした声で説明する。


「レオンは、今、とても大切な時期なのだ。勉学により一層の精進を持って取りかからねばならない」
「じゃあ、学校、行った方が良いんじゃないの?」
「学校の授業では足りないだ。ホームスクールと言う学習環境を知っているかな。学校ではなく、自宅で勉強、学習する方法だ。レオンはこれから、学校で学ぶ教科書通りの内容だけではなく、様々な専門分野について、より深く学んでいかなければならない。その為にも、各教科の専任講師を招き、指導時間を増やす必要がある。だから、学校に通われる暇がないのだ」


 学習環境、専任講師、指導時間と、小学一年生のスコールには、何が何だか判らない単語が並ぶ。
どういう事、と説明を求める事は出来なかった。
教育係の冷たい瞳に射抜かれて、気の弱いスコールに何某かを言い返せと言うのが無理な話だ。

 ただ、レオンと一緒に学校に通うと言う夢が叶わない事だけは、理解できた。


「……でも…じゃあ……おうちで、お兄ちゃんとお話しするのは、良いよね…?」


 勉強の時間を増やさなければならない、と言われても、休憩時間くらいはある筈だ。
その時、ほんの少しで良いから、スコールはレオンに逢いたかった。

 しかし、教育係は首を横に振る。


「駄目だ」
「お勉強の邪魔、しないよ」
「駄目だ」
「ほんのちょっとだけで良いから、お願い。僕、お兄ちゃんとお話ししたい」
「駄目だ」
「………」


 録音された言葉を繰り返すように、一言一句、同じ音で告げられ、スコールは口を噤んだ。

 教育係が、曲げていた膝を伸ばす。
俯くスコールを見下ろして、抑揚のない声で言った。


「良いかな、スコール。レオンはこれから大切な時期だ。難しい勉強を、確りとこなして行かなければならない」
「……うん……」


 大切な時期って、何が大切なんだろう。
いつでも一緒にいてくれると約束してくれたのに、その約束よりも大切な事が出来たのだろうか。
ラグナが、家族とはまた別の意味で、仕事を大切にしている事は知っている。
それと同じ事で、どうしても家族より優先しなければならないのだろうか。

 ずきずき、ずきずき、とスコールの胸が痛む。
心なしか息苦しさを感じて、発作かな、とスコールは思った。
急いでランドセルの中に入れていた薬を取り出して、吸入の準備をしようとするが、吸入補助器の使い方が判らない。
いつもレオンがしてくれていたから、スコールは覚えていなかったのだ。

 結局、補助器を使わずに、スコールは薬を吸入した。
なんとなく胸の苦しさが消えた気がしたので、多分、効いてくれたのだろう。

 はふ、はふ、と意識して呼吸スコールを、教育係が冷たい瞳で見下ろしている。
スコールがその視線に気付かなかったのは、不幸中の幸いだったのかも知れない。


「君が良い子にしていないと、お兄さんの大切な勉強の邪魔になるんだ。だから良い子で待っていよう」
「……うん。判った」


 レオンが自分との約束より、勉強を優先した事。
一緒に学校に通えない事。
家でも顔を合わせる事が出来ない事。
どれもこれも、兄を慕うスコールにとって、堪らなく辛い事だった。

 しかし、それ以上に、大好きな兄の大事な時間を邪魔して、彼に嫌われるのが怖かった。

 スコールが小さく頷くと、教育係はくるりと踵を返し、部屋を出て行った。
代わりにハウスキーパーが戻ってきて、手には夕食を載せたトレイがある。
どうぞ、と言うように目の前に置かれた。

 生まれて初めて、一人ぼっちで食べた夕食は、塩辛かった。



◇◆◇◆   ◇◆◇◆



≫[籠ノ鳥 6-4]