籠ノ鳥 6-5


 教育係による監禁生活は、五年目を迎えようとしていた。
今年中にレオンは十八歳になり、来年度には大学へ進学する事になっている。
進学先は既に海外の大学と決定されており、勉強内容は其処に入学する為の受験対策が主となっていた。
学校に通っていない為、推薦の類は勿論の事、学校側が受験する為に準備してくれるようなサポートなど何もない。
その代わり、必要な手続き等は教育係が全て整え、レオンは勉強だけに集中する事となった。

 レオンの口数は、以前に比べて格段に少なくなっていた。
元々、この点について父に似る事はなく、どちらかと言えば物静かな少年だったが、それに拍車がかかっていた。
勉強中は無駄話も一切なく、必要な質問以外に喋る事はないのだから、自然と喋る機会も減って行く。
監禁生活が始まった頃、度々教育係に噛み付いていたが、それも無駄だと悟ってからは形を潜めた。
外国語や国語の授業で音読、会話をする他、音楽では発声練習も行うので、声帯が衰退する事はないが、レオンはそうなっても構わないとさえ思っていた。
それ程、レオンは喋る機会が奪われていたのだ。
これに伴い、感情の起伏の幅も狭まって行き、表情を変える事も減った。

 だが、社交界に定期的に出席しなければならない為、人前で表情を変える事は出来た。
作った笑顔は完璧なもので、出逢う人々は愛想の良い少年に好感触を持った。
元々、ラグナの息子として、その存在は知られていたのだ。
父の顔に泥を塗る事は出来ない。
それはレオンが父に対して敬愛の念を抱いていた事も理由の一つだが、最大の理由は、レオンが周囲に対して捗々しくない態度を取った途端、教育係が父に何らかの危害を加える可能性があったからだ。
誰にでも裏表のない態度で接し、掴み所のない雲のようでありながら、暖かな春の太陽を思わせる笑顔を浮かべる父───レオンは精一杯の努力で、彼を模倣した。
不思議な事に、偽物の笑顔を見破る者はいなかった。
お陰で父の顔に泥を塗らずに済んだが、レオンは大人達の"上辺の付き合い"と言うものを知り、本当の自分など見せない方が物事は円滑に進むのだと学んだ。

 社交界では様々な人物と知り合った。
経済界の親玉と呼ばれる様な大物から、国民の誰もが知っているような大財閥、大会社の一族、成り上がりと言われる様な人物、阿漕(あこぎ)な商売をしているハリボテ塗れの小者……等々、数知れない。
それらは、レオンが自ら近付かずとも、相手の方から寄って来た。
大会社『エスタ』社長の息子と言う肩書が呼び水になったのだろう。

 集まって来た人々からは、家族について度々聞かれた。
ラグナは、こういう場所に来ると、必ず家族の話をしていたと言う。
亡き妻、長男、次男は、ラグナにとって何事にも代えがたい宝であった。
家族の話をしている時、ラグナはすっかり頬の筋肉が緩んだ。
仕事が忙しい所為で、碌々旅行にすら連れて行ってやれない事を、彼は酷く悔やんでいたと言う。
人々は、そんなラグナの温かい人柄に惹かれていた。

 父と会話なんて、もう何年もしていない。
スコールの下には時折電話がかかってくるようだが、レオンにそれが取り次ぎされる事はなかった。
教育係が許可しないのだ。
若しも電話をする事が出来ても、きっとレオンが喋れる内容は決まっている。
現状、レオンがどんな生活をしているのか、伝える事は出来ないだろう。

 弟とも、会話は愚か、逢ってもいない。
五年間の空白の間に、彼がどんな風に成長しているのかも判らない。
成長の形は手紙となって届けられるが、彼の貌を映した写真などが同封された事はない。
レオンが知っている弟の顔は、五年前、小学校一年生の入学式を待ち侘びていた頃のまま、時間を止めていた。

 それでも、家族の話を求められると、レオンはそれに応じた。
父の事は、離れて暮らしているから詳しい事は判らない、と前置きして、まだ普通の生活をしていた頃、電話で話した内容を少しずつ改変して語った。
弟の事は、彼の手紙を元にして、自分が嘗て体験した小学生の頃の記憶と噛み合わせた。
それで会話は円滑に進む。
話している事は、全くの嘘ではない。
けれど、真実など幾許あった事か。
すらすらと嘘が出て来る自分の舌を、噛み千切ってやりたいと思った。

 家で勉強している間、手錠は未だに外されない。
もう外そうと奮闘するのも止めていた。
体育、音楽などの授業の時や、外出時に外された時、逃げようと思う事もなくなった。
彼は、現状を変える手段を探す事を、完全に放棄した。
どれだけもがいてみても、何一つ変える事が出来ないのだから、無理もない。
誰も頼る事が出来ず、限られた空間で限られた人間とだけ接触する監禁生活を、一年、二年と抗い続けていただけでも、彼の精神力がどれだけ強固だったか判るだろう。
だが、それも完全に潰えていた。

 レオンは考え方を変えた。
どう足掻いても現状が変わらないのなら、受け入れてしまった方が楽になる。
いつまでこの監禁が続くのかは判らない。
だが、教育係は『成すべき事を成せば解放する』と言う。
レオンが『エスタ』の"次期社長"として相応しい器として完成されれば、レオンはあの妄信の眼から解放されるのだ。
その時まで、自分は狂った歯車の世界で生きて行くしかない。

 だが、思考と感情は別物だった。
長い監禁生活と、嘘を平然と吐き続ける事が出来る自分の思考は、思春期を脱し切らない少年には大きな苦痛を呼んだ。
社交界で人と出会った時、その人の人生について話を聞く事がある。
其処には、自分がレオンと同じ年齢だった学生時代の話もあれば、子供が丁度レオンと同じ年頃で───と言う話題も上って来る。
その度、レオンは自分の環境が可笑しい事を再認識した。


(何故だ? 何故俺だけがこんな目に遭う? 何もかも我慢して、何もかも諦めて、他人の願望を叶える為だけに生きてる。どうして俺だけが? 皆、自分の好きなように生きてるのに、嘘のない自分だけの時間を生きてるのに、どうして俺は他人の為に生きて、勉強して、自分の人生に嘘を吐かなきゃいけないんだ?)


 一人きりの部屋の中で、そんな事を考える時間が増えた。
情緒不安定になり、睡眠時間も減り、勉強への集中力も落ちた。
大学受験を控えているのに、と教育係からは呆れられたが、レオンは反発こそしないものの、誰の所為だ、と無言の怒りをぶつけ続けていた。

 小学生の時から監禁されて、父と弟と引き裂かれ、勉強だけを続ける毎日。
病気になると医者が来て、事務的に診断し、薬を置いて行くだけ。
傍にいて「大丈夫?」と心配してくれる人もいない。
テストで一問でも間違えれば叱咤され、圧政に我慢できずに反発すれば、折檻を食らう。
これがドラマのようなフィクション世界の話なら、何処で展開が変わるのかと他人事のように楽しめるが、自分が物語の主人公になると、そんな都合の良い事は起きないのだと否応なく実感する。
逃げ道も外堀も、全て塞がれているのに、展開の変化などある筈もない。


(どうして俺なんだよ。俺じゃなくても良いだろう? 『エスタ』の"次期社長"だって、俺がならなきゃいけない訳じゃなかった。あいつが勝手に俺に目を付けただけだ。俺が父さんの息子で、お誂え向きだったってだけで、本当は俺じゃなくても良かったんだ。じゃあ、なんで俺なんだよ。なんで俺が、こんなに苦しい思いをしなくちゃいけない? 俺が何かしたって言うのか? こんな事しなくちゃいけないような事を、俺がしたのか?)


 レオンの思考はまとまらず、ぐるぐると同じ場所を巡り続ける。
それは次第に勉強時間にも及び、目の前の問題が読めなくなる程に精神に異常を来し始めていた。
鬱病なのは明らかで、これを見た精神科医は、しばらくの療養が必要だと言ったが、受験は目前に迫っている。
安定剤を服用しての授業が続けられた。
服用する薬の種類が増えて行くのを見て、レオンは薬漬けにされるのではないかと思った。
向精神薬での服毒自殺、と言うものも考えたが、薬は決まった時間に教育係から渡され、教育係の前で飲むように指定された。
レオンが過度の苦痛からの解放を求めて死を選ぼうとしている事を、教育係は察知していたらしい。
其処まで判っているのなら、この状況がレオンの精神状態を悪化させている事も判りそうなものだろうに、教育係は"器"を作る事に夢中で、その中身については問わなくなっていた。


(なんで俺が、俺だけが、こんな────……)


 一日の勉強時間を終えて、シャワーを浴びて、ベッドに俯せになる。
以前は、この瞬間に束の間の解放を感じていたが、今ではそれもない。
ずっと意識を手放していられたら楽なのに、それも叶わないから、レオンの安息の時間は皆無となっていた。

 ドアがノックされて、教育係が入って来る。
レオンは起き上がらなかった。


「薬だ」
「寄越せ」


 レオンは腕だけを持ち上げて、言った。
横柄にも思える投げやりな言葉を、教育係は咎めない。
社交界のような場で、心象を悪くするような態度さえ取らなければ、教育係はレオンの言葉遣いについて注意する事はなかった。

 持ち上げた腕にかけられた手錠が、ちゃり、と音を鳴らす。
鎖に繋がった片腕が浮くだけで、レオンは邪魔だ、と苛立った。

 PTPシートに入った薬を渡されると、レオンは取り出して直ぐに飲み込んだ。
グラスに入った水を差し出されて、半分まで飲み干すと、後は突き返して再びベッドに俯せになった。


「手紙だ」


 教育係が言った。
レオンが微かに首を傾けると、教育係の手に、可愛らしいスタンプ絵が描かれた封筒があった。
"お兄ちゃんへ"と書かれた宛名を見た後、レオンは何も言わずに顔を伏せた。


「置いておくぞ」


 そう言った後、教育係は部屋を出て行った。

 しん、と静寂が落ちる。
薬の効果が早く出てくれれば良いのに、レオンは一向に睡魔を感じなかった。
初めの頃は間もなく眠れていたのに、最近は効きが悪い。
薬に対して対抗が出来て来たのかも知れない。
かと言って、服用する薬の量を増やせば、薬に対する依存度が今以上に強くなる為、教育係は許可しないだろう。

 くそ、と口の中で毒づいて、レオンは寝返りを打った。
衣擦れの音と、手首の金属がぶつかる音が聞こえる。
体を横にすると、ベッド端に置かれた封筒が視界に入った。

 スコールからの手紙は、四年前に初めて届けられて以来、週に一度の頻度で届けられていた。
始まりは必ず"お兄ちゃんへ。お元気ですか"から始まる。
今日もきっと同じなのだろう。


「………」


 もう一度、レオンは俯せになった。

 もぞ、と脚を引き寄せて丸くなる。
部屋の中は寒くないし、暑くもない。
室内は常に適温で保たれており、若しも体育の授業や外出する機会がなければ、季節は愚か、今が何月なのかも判らなくなっていただろう。

 しばらくの間、レオンは丸くなって目を閉じ、睡魔が来るのを待っていた。
しかし、一向にそれはやって来ない。

 寝転んでいる事に飽きて、レオンは起き上がった。
ベッド端の封筒を見て、のろのろと近付いて、手に取る。
イルカのシールを剥がして封を解き、沢山の動物が描かれた便箋を取り出して、開く。


『お兄ちゃんへ。
お元気ですか。
ぼくは元気です。

学校の家庭科の授業で、調理実習をやりました。
みんなでカレーを作りました。
ぼくの班は、ニンジンがきらいな子がいっぱいいて、なくてもいいじゃんって言ってた子がいたけど、先生におこられたので、小さく切ってきちんと入れました。
ぼくもニンジンはきらいだけど、きちんと食べたよ。
好ききらいでお残しするのはダメだもんね。

もうすぐ音楽発表会があります。
ぼくは木きんがやってみたかったけど、やりたいって言う子がたくさんいて、ジャンケンで負けちゃって、リコーダーになりました。
今、みんなで一生けん命練習しています。

それから、今日、遊園地に連れて行ってもらいました。
色んな乗り物があって楽しかったです。
お弁当も作って持って行きました。
ぼくもお弁当を作るの手伝ったんだよ。
おにぎりが上手ににぎれなかったけど、食べた時はとってもおいしかったです。
お兄ちゃんにも、いつか食べさせてあげるね。

                  スコールより』


 ───くしゃり、とレオンの手が手紙を握り潰した。
握った指の中で、紙の端が皺だらけになっている。


「くそっ!」


 潰れた手紙を床に投げつけて、レオンは苛立ちを露わにした。
瞳には怒りに似た激情が浮き上がり、唇が戦慄く。

 くしゃくしゃに折れて丸まった手紙が、床に転がった。
それから目を逸らして、レオンはベッドに倒れ込む。
その勢いでスプリングが抗議の音を上げたが、レオンは構わずに、ベッドシーツを両手で強く握り締める。


(調理実習? 音楽発表会? 遊園地? 別の世界の言葉みたいだ)


 家庭科の授業も、音楽発表会も、レオンも小学校に通っていた頃に体験していた事だ。
何も特別な事ではない。
遊園地も、就学年齢に入る前だが、父に連れて行って貰った事がある。
手紙には、何も特別な事は書かれていなかった。
ただ元気に過ごしていると、弟の真っ直ぐなメッセージが綴られているだけだ。

 初めてスコールからの手紙を貰った時、レオンは嬉しかった。
何をして過ごしているのか、元気にしているのか、何も判らない状態が続いて不安が膨らんでいた時だったから、尚更だ。
教育係との確執も、何も知らない筈の弟が、危ない目に遭っていない事が判れば十分だった。

 それからもレオンは、スコールからの手紙を心待ちにしていた。
週に一度の手紙が時折遅れる事があると、何かあったのか、喘息の発作で病院に運ばれたのだろうか、と心配になった。
けれど、また手紙が届けられると、レオンは安心した。
心配は杞憂に過ぎず、スコールは体育の授業や運動会にも参加できるようになり、逞しく成長している。
同封されたドングリの玩具や、折り紙の動物達は、手紙と一緒に全て大切に保管してある。
勉強に疲れた時、それを見るだけで、レオンは心が安らぐのを感じた。
早くこの監禁生活を終わらせて、スコールの下に帰ろう。
そして、思い切り抱き締めてあげよう。
スコールからの手紙は、そんな気持ちを新たにさせてくれた。

 しかし、いつからだろうか。
安らぎを与えてくれた筈の弟からの手紙は、次第にレオンに苛立ちを抱かせるようになった。


(俺がこんな目に遭っている時に、遊園地だって?)


 手紙に書かれた"楽しかった"と言う文字が、レオンの荒んだ心を抉る。
楽しい思いなんて、もう何年の間、経験していないだろう。
友達とゲームで遊んだ、と言う手紙もあった。
友達も、ゲームも、今のレオンにはない。
小学校の頃に一緒に遊んでいた友達は、今頃は何をしているだろう。
レオンの事を覚えている者はいるだろうか。
それさえも怪しい。

 スコールは何も知らない。
だから、"楽しい"生活を送っているのなら、彼が今も何も知らされないまま、狂気の歯車に巻き込まれている事にも気付いていないと言う事になる。
それで良いのだと、レオンは思っていた。
幼い弟を無限地獄のような狂気に巻き込む位なら、あの子は何も知らないままで良いと、思っていた筈だった。

 手紙には、楽しく過ごしているであろうスコールの日常が綴られる。
これをした、あれをした、褒めて貰った、遊びに行った。
普通の子供がごく当たり前に過ごす日々だ。
何も可笑しい事はない。
───だからこそ、レオンの苛立ちは募る。

 朝から晩まで勉強漬けで、その所為で薬まで飲むようになった。
どう考えても普通ではない。
だが、レオンにはこの生活以外の選択肢はない。


(自由になりたい)


 手錠に繋がれた自分の腕を見て、レオンは思った。

 自由になりたい。
自由に外で遊びたい。
勉強は必要だ。
でも、こんなに沢山じゃなくても良い筈だ。
音楽だとか美術だって、もっと好きなようにやっても良いんじゃないのか。
点数を取る為だけに磨いた技術なんて、要らなかった。
そんなものより、何でもない話をして、何でもない事で笑い合えるような友達が欲しい。
褒めてくれる人もいない。
どれだけ努力しても、まだ足りない、もっと出来る筈だと尻を叩かれる。

 楽しい事も、嬉しい事も、レオンには何もなかった。
あるのは伸し掛かって来る一方のプレッシャーだけ。

 ようやく睡魔が手招きを始めた。
しかし、休もうとする体とは裏腹に、胸の内は酷い煮え方をしている。


(もう読まない。もう要らない。あんなもの)


 一切の余裕を失って歪んだ少年の心は、"守る"と誓った過去さえも深い深淵に沈み、あんなにも抱いていた弟への愛情すらも、見失わせてしまったのだ。



 レオンの下に手紙が届けられる、数時間前の事────スコールは、書き終った兄への手紙を教育係に見せていた。

 レオンへ手紙を書き始めてから、何度か自分で兄に渡しに行きたい、と頼んだのだが、許して貰えなかった。
兄弟で同じ場所に住んでいるのだから、わざわざ人に頼んで渡すのも可笑しな話だと、小学四年生になったスコールも違和感を感じていたのだが、教育係は断固としてスコールを兄に逢わせてくれない。

 レオンの部屋は、以前はスコールの部屋の隣室にあったのだが、今は違う。
邸宅には沢山の部屋があり、その何処かに兄はいる。
何処なのか、スコールは教えて貰えなかった。
自分の足で邸宅を歩き回ってみたが、使用人が殆どいなくなった今、使われている部屋はごく僅かで、スコールが自由に出入りが出来るのは、自分の部屋とキッチンと風呂くらいのものだった。
他の部屋には全て鍵がかかっており、鍵は全て、教育係が常に持ち歩いていた。
この為スコールは、教育係の目を盗んで兄を探す事も出来ない。

 だからスコールにとって、教育係に手紙を渡す事は、自分と兄を繋ぐ唯一の手段だった。

 教育係は、スコールが渡した手紙を、厳しい貌で読んでいる。
これで教育係が「良し」と言ってくれれば、レオンに手紙を届けて貰える。
だが、教育係は中々「良し」と言ってくれない。
スコールは、緊張した面持ちで教育係の反応を待っていた。


「────駄目だ」


 冷たい声が落ちて来て、ビリビリッ、と破く音が鳴る。
あ、とスコールが声を上げる暇もなかった。

 紙片がスコールの足下に散らばって、スコールは涙の滲んだ目でそれを見下ろす。


「逢いたいとか、寂しいとか、書いたら駄目だと言っただろう」
「…で、でも……」


 高い位置から見下ろす教育係に、スコールは服の端を掴んで、震える声で言った。


「手紙は、自分の気持ちを伝えるものだって、学校の先生が…」
「つまり君は、お兄さんの大切な勉強の邪魔をしたいと思っているのか?」
「ち、違うよぅ……」


 教育係の言葉に、スコールはふるふると首を横に振った。
兄が大事な勉強をしている事も、その為にスコールに逢う事が出来ない事も、スコールは理解しているつもりだ。
父が仕事で中々家に帰って来れない事と同じで、仕方のない事だとも思っている。
そして、兄にとって必要な勉強だと言う事も、教育係に何度も何度も諭されていた。

 だから、兄の邪魔をしよう等とは思っていない。
ただ自分の気持ちを素直に手紙に書いただけで、これを読んだ兄が、少しでも自分の気持ちを知っていてくれたらそれで十分だった。

 だが、それが駄目なのだと、教育係は言う。


「君が逢いたいと手紙に書いたら、お兄さんは優しいから、大事な勉強を投げ出して君の下に来るだろう。でも、それではお兄さんの将来が駄目になってしまう。困るのはお兄さんだよ。それでも良いのかい?」
「………」


 ふるふる、とスコールはもう一度首を横に振った。
兄が困る事、兄の迷惑になる事は、絶対にしたくない。
それは昔からずっと変わらない、スコールの正直な気持ちだった。


「お兄ちゃんが、困るのは……やだ……」


 蚊の泣くような声で、スコールは呟いた。
すん、と鼻を啜る。


「じゃあ、逢いたいとか、寂しいとか、書いてはいけないよ。楽しい事を書くんだ。そうだ、遊園地に行った事を書くと良い」
「ゆ、遊園地なんて、ぼく、行ってない……」


 遊園地なんてものに、スコールは縁がなかった。
春休み、夏休み、冬休みと、長期休暇になると、クラスメイトの子供達は旅行に出掛けたり、テーマパークに遊びに行ったりしているようだが、スコールは休みの日はいつも一人で家の中で過ごしていた。
何処かに連れて行ってくれるような人もいないし、喘息の発作がいつ起こるかも判らないので、外で過ごす事も少ない。

 手紙を書くのにウソは駄目だよ、とスコールは言った。
すると教育係は、高い位置にあった頭を、圧し掛かろうとでもするかのように近付けた。


「楽しい事を書かなくちゃ、お兄さんが君を心配するだろう。君が楽しく過ごしているって、お兄さんに伝える事が大事なんだ」
「で、でも」
「大体、ウソが駄目だなんて、今更言うのかい? 運動会も、音楽発表会も、一度も参加した事がないのに、参加できて楽しかったって書いたじゃないか」
「……それは……」


 書けって言うから、と言うスコールの声は、小さくなって誰にも聞き取れなかった。
蒼い瞳に一杯に溜めた涙が、ぽろぽろと零れ落ちる。
すん、と鼻を啜って、服の袖で涙を拭う。

 今までレオンに送った手紙の中で、本当の事なんて幾ら書いたか判らない。
多くて判らないのではない。
送った手紙の数に反して、少な過ぎて判らないのだ。

 運動会は、一度も医者の許可が下りなくて、かけっこ一つも参加出来なかった。
だからスコールは、運動会の開会式と閉会式を除いて、待機テントの下で待っているだけ。
音楽発表会も、本番前の緊張の所為か、直前でいつも発作を起こしてしまい、本番の舞台に立つ事が出来なかった。

 スコールがレオンに送った手紙には、沢山の嘘が書かれていた。
仕方がないのだ。
本当の事を書くと、教育係に怒られて、書き直しなさいと言われる。
寂しかった事、辛かった事を書くと、これも駄目だと言われる。
楽しい事、頑張った事、上手く出来た事……それがなければ、嘘でも良いからこう書け、と強要されるのだ。
書けなければレオンに手紙を届けないと言われるので、スコールは従うしかなかった。

 ひっく、ひっく、とスコールはその場で泣き始めた。
教育係が舌打ちするのが聞こえて、スコールはびくっと肩を竦める。


(この人、こんなに怖い人じゃなかったのに)


 スコールがレオンと逢えなくなって以来、教育係のスコールに対する態度は、日に日に厳しくなって行った。
レオンに手紙を届けてくれると言った時、本当は優しい人なんだと思ったのに、その印象も今は微塵も残っていない。

 教育係が膝を折り、スコールと目線の高さを合わせる。
父や、父の友人がそうしてくれた時は、自分の話を聞いてくれるのだと思って安心できたのに、目の前の人物がいると、スコールは蛇に睨まれた蛙のように身動きが出来なくなった。

 怯えたように身を竦めているスコールの肩に、教育係の手が置かれる。
ぽん、と軽く乗せられただけなのに、スコールは酷く重くて冷たいものが触れているような気がした。


「スコール、遊園地の事を書きなさい。色んな乗り物に乗って楽しかった、お弁当を作って持って行ったと書けばいい。ああ、もう直ぐ音楽発表会の時期じゃないか。木琴を演奏すると書きなさい。色んな事が出来るようになったよとお兄さんに伝えるんだ」


 音楽発表会は確かに近付き、先日、ピアニカとリコーダー以外の楽器を誰がやるのか決める話し合いをした。
その時、スコールは他の楽器をやりたいと手を上げる事もしなかった。
触ってみたい楽器は沢山あるけれど、沢山の子供達があれをやりたい、これをやってみたいと沸き上がる中、気が弱いスコールは、それを主張する事が出来なかったのだ。

 手紙には、自分の正直な気持ちを書くように、と学校で教わった。
読んだ人に自分の気持ちを伝える為に書くものなのだから、自分の気持ちで書くものなのだと習った。

 でも、教育係の言う通りに書かないと、レオンに手紙を届けて貰えない。
手紙は、スコールと兄を繋ぐ唯一の糸だ。
これを断ち切られてしまったら、スコールは何を拠り所にすれば良いのか判らない。


「言った通りに書いてくれるね。お兄さんの為に」
「………はい……」


 お兄さんの為。
兄の為。
レオンの為。
それを言われてしまえば、スコールにはもう他の選択肢はなかった。

 床に落ちていた手紙の破片を掻き集めている内に、教育係は邸宅の奥へと行ってしまった。
一人残ったスコールは、ぐす、ぐす、と床に座り込んだままで泣き始めた。

 ビリビリに破かれてしまった手紙には、ずっと離れ離れで寂しい、逢いたい、お兄ちゃんと一緒に学校に行きたい、と書いていた。
この言葉を書いたのは初めてではない。
最初に手紙を書き始めた時から、スコールは度々その言葉を書いては、破り捨てられていた。
何度も破られ、書いては駄目だと言われ続けて、しばらく書かないように気を付けていた。
しかし、学校の授業で「自分の正直な気持ちを」と教わったから、やっぱり書いて良いんだ、間違ってなかったんだと思って、もう一度書いた。
学校で習ったんだから、と言う気持ちが後押しになって書けたのだが、結局、また破られて、書いては駄目だと怒られてしまった。


「ひっく…ひっく……えっ、ふぇっ、ふえ、う、んぅう……」


 声を上げて泣きそうになって、スコールは口を押えた。
家の中では極力静かに過ごすように、教育係に言い付けられていた。
大きな物音をさせると、兄の勉強の邪魔になるからだ。

 広い邸宅の中で、何処にいるかも判らない兄に、些細な物音一つでも邪魔になると言うのは、可笑しな話だ。
実は意外と近くにいるのかも知れない、と思う事もあったが、見付からないのでは意味がない。

 スコールが声を抑えて泣いていると、視界が暗くなった。
顔を上げると、ハウスキーパーが心配そうな顔で覗き込んでいる。


「ひっく…んく……」


 ハウスキーパーがスコールの頭を撫でた。
彼女は、教育係の前では素っ気ない態度だが、スコールと二人きりの時だけ、少しだけ表情を変える。
会話をした事はない。
ウォードのように声が出せないのか、喋る事を禁じられているのかは判らなかったが、頭を撫でてくれる手が兄と似て優しい事だけは判った。

 ハウスキーパーは、床に散らばっていた紙片を全て集めてくれた。
スコールは涙を拭うと、立ち上がって、部屋に帰る、と言った。
集めた手紙を部屋まで持って行って欲しいと頼むと、ハウスキーパーは、何も言わずにスコールの後をついて来てくれた。

 自分の部屋に帰ると、スコールはベッドに上って、ウサギのぬいぐるみを抱き締めた。
小学四年生になっても、スコールはぬいぐるみが手放せない。
このぬいぐるみは、一緒にいられなくなった兄の代わりなのだ。

 ベッドで丸くなっていると、手紙の破片を勉強机に置いたハウスキーパーが、じっと心配そうに見詰めて来た。
スコールはその視線を追って、ハーフパンツから見えている自分の膝に注がれている事に気付く。
其処には、赤い血の滲んだ痕が残っていた。


(だめ)


 見られちゃ駄目、と、スコールは慌ててシーツで膝を隠した。
ハウスキーパーが心配そうに手を伸ばしてくるが、スコールは首を横に振って言った。


「なんでもないよ。転んだだけだから」
「……」
「本当だよ。学校にいる時、グラウンドで転んじゃったの。保健室で消毒もして貰ったし、なんともないよ」


 ぱたぱたと足を遊ばせて見せると、ハウスキーパーはようやく安心したように口元を綻ばせる。
それから、慰めるようにスコールの頭を撫でてから、部屋を出て行った。

 ────ほ、とスコールは安堵の息を漏らす。


(良かった。見られてない)


 スコールは、ハーフパンツの裾を捲って、膝から上を見た。
其処には、膝と同じように血の滲んだ痕と、一つではない青痣が浮き上がっている。

 転んだだけでは出来ないような沢山の怪我が、スコールの体に刻まれている。
保健室で手当てをして貰った怪我なんて殆どない。

 右膝の怪我は、ハウスキーパーに言った通り、グラウンドで転んで出来たもの。
体育の授業に参加していないのに転んだのは、自分のミスではない。
後ろから他の男の子に突き飛ばされたのだ。
同じような怪我は、腕や肘にも負った事がある。
グラウンドや廊下、教室、時には階段で突き飛ばされた事もある。
一歩間違えれば、大怪我になっている所だった。
幸い、スコールは其処まで至る事はなかったが、子供達のこの過度の悪戯───苛めは、エスカレートの一途を辿っていた。

 苛めが始まったのは、二年生になって間もなくの事。
授業中、スコールが古びた教科書を使っていたのが切っ掛けだった。
それはレオンが以前使っていた教科書で、捨てられそうになっていたのを、自分が使うから捨てないで、とお願いしたものだ。
スコールの希望通り、ハウスキーパーはレオンの教科書を捨てずに取って置いてくれた。
スコールは残っていたレオンの教科書を掻き集めて、自分の教科書の代わりに使う事にした。
教科書には、レオンが書いたメモが残されていて、それがスコールには嬉しかったのだ。
しかし、何年も前に発行された教科書だから、見た目はすっかりボロボロだ。
中身も、教科書改訂などで所々記述が違う所もある。
それでもスコールは大事に使っていたのだが、他の子と違う教科書を使っている事、それが古びたボロボロの本であった事が切っ掛けになって、スコールへの苛めは始まった。

 最初は教科書だけが攻撃の対象だった。
隠されたり、水浸しにされたりして、スコールは何度泣いたか判らない。
その内、教科書だけではなく、靴や傘、果てにはランドセルも隠された。
それで反撃するような気の強さもないから、スコールをターゲットにした子供達は、どんどん調子に乗って行った。
更に、親の話を聞き齧ったのか、スコールが"お金持ち"の家の子供だと知った子供達は、それも苛めの材料にした。

 足の怪我は、殆ど───と言うよりも、全て、苛めが原因だ。
わざと物をぶつけられたり、足を踏まれたり、思い出せばキリがない。


(……学校、嫌だな……)


 そんな風に思うようになったのは、随分前の事。
レオンに、毎日が楽しい、と言う手紙を書きながら、事実は全く逆の所にあった。

 大好きな兄に逢えない。
学校では苛められて、楽しくない。
それでも学校に通うのを止めないのは、教育係に「行きなさい」と追い立てられるからだ。
あの人に逆らったら、何をされるか判らない、とスコールは感じていた。
だから、家に閉じ籠って身を守る事も出来ない。

 苛めについて、学校の先生に相談する事は出来なかった。
他の子供達に「先生に言ったら、もっと酷い目に遭わせる」と言われたからだ。
その脅しを破って先生に伝えられるような勇気は、なかった。

 明日も苛められるのだろうか。
きっとそうだろう。
最近、スコールのクラスでは、スコールは仲間外れにされるのが当たり前になって来た。
その癖、先生に言い付けられたプリントの回収等は、全てスコールに押し付けてくる。
それなのに、プリントの回収には協力してくれない。
その結果、スコールが先生に言い付けられた事をやらない、と先生に言い付けて、スコールが叱られる。

 誰かに助けて欲しかった。
誰かに、父に、兄に、抱き締めて欲しかった。
けれど、兄は邸宅の何処かに閉じ籠ったまま、スコールの前に姿を見せる事はない。
父は海外に行ったまま、まだ帰って来ない。

 父との電話は、数ヵ月に一度、交わしていた。
その時、電話を最初に取るのは教育係だ。
教育係は、父とスコールの会話の遣り取りを、全て指定した。
こう聞かれたらこう返事をしろ、と細かく決めて、スコールが少しでも違う事を話そうとすると、恐ろしい貌で睨むのだ。
当然、苛めの事も話せなかった。
そして電話が終わった後、「お父さんの仕事の邪魔をしてはいけないぞ」と言った。

 ふとスコールは、どうして父は帰って来ないのだろう、と疑問を抱いた。


(お父さん、前は帰って来てくれてた)


 父ラグナが海外に渡ったのは、スコールが小学校に入学する前の事だ。
最初の頃は、隔月に一度、必ず帰って来てくれた。
その時には、レオンと一緒に父を出迎えて、親子三人で一つのベッドで眠ったものだった。

 あれから数年が経っている今、父は何故、家に帰って来てくれないのか。
電話では毎回のように「逢いたいよ」「帰りたいよ」と言うのに、本当に帰って来てくれた事はない。

 レオンも同じだ。
勉強に集中しなければならない事は判っているが、時々、彼は外出しているような節があった。
いつも玄関の靴箱に入っている筈の兄の靴が、土が付着した状態で、外に出されていた事があった。
教育係に訊ねると、「外で勉強しなければならない事もある」と言われ、これも勉強の一環との事。
それでも、外に行く事があるのなら、必ずしも部屋に閉じ籠りでなければいけない訳ではない───とスコールは思った。
トイレに行く時、風呂に入る時も、部屋に閉じ籠ったままでは出来ないのだから、時々勉強の席を立つ事だってある筈。
それなら、ほんの数分だけでも、逢える時間はあるのではないか。

 だが、レオンはスコールの前には姿を見せない。
兄弟が別たれて以来、一度たりとも、スコールは兄と擦れ違った事さえない。


(なんで? なんでお兄ちゃんもお父さんも、僕と逢ってくれないの? 僕、良い子にしてるのに)


 家ではいつも静かに過ごしているし、学校での勉強もきちんとしているし、宿題も忘れた事はない。
時々、喘息の発作で周りに迷惑をかけるのが良くないのだろうか。
だから、父も兄も、スコールの所に戻って来てくれないのか。


(僕、迷惑だった? だから、お父さんとお兄ちゃんに、嫌われちゃった?)


 そう思った瞬間、スコールの顔から血の気が引いた。
大好きな父と兄に嫌われたら、スコールは生きて行けない。


(やだ)


 足元が一気に冷えて来て、小さな体がガタガタと震える。


(やだ。やだ)


 良い子にして待っていれば、いつか兄は帰って来ると信じていた。
父も、仕事が片付けば、いつか帰って来ると信じていた。

 でも、二人がスコールを嫌いになっていたら。
顔も見たくないと思っていたら。
スコールがどんなに二人の事が大好きでも、二人がスコールが嫌いなら、もう逢ってくれないかも知れない。


(やだ。やだ。やだ)


 心臓の鼓動が煩く高鳴り、呼吸が逸って行く。
はっ、はっ、とスコールは短い呼気を繰り返した。

 息苦しさを感じて、スコールは胸元を掴んで蹲った。
ひゅー、ひゅー、と喉が鳴るのを聞いて、喘息の発作だと気付く。
薬は、ベッドのサイドボードに置いていた。
取らなくちゃ、と腕を伸ばすが、ベッドの真ん中で丸くなっていたスコールの手は、其処まで届いてくれない。


(助けて。助けて、お兄ちゃん)


 こんな時、いつもレオンが直ぐに駆けつけてくれた。
薬を取って、スコールが薬を吸引し易いように起き上がらせてくれる。
吸って、吐いて、と呼吸の仕方も教えてくれた。
そして、落ち着くまで抱き締めて、大丈夫、大丈夫と何度も囁いてくれた。

 けれど、どんなにスコールが兄を呼んでも、彼は来ない。
兄弟が引き離された日から、彼はスコールが喘息の発作で苦しんでいる時でも、駆けつけてくれなくなった。

 ひゅー、ひゅー、と喘ぎながら、スコールはベッドを這った。
ほんの一メートル足らずの距離が、今のスコールにはとても遠い。
なんとかベッド縁まで来ると、薬を掴んで、口に当てた。
精一杯の力で薬を吸い込んで、蹲る。
本当は起き上がった方が良いのだが、其処までの体力はなかった。


「……っ、……っ、……っ、」


 陸に揚げられた魚のように、スコールはぱくぱくと口を開閉させていた。

 ぼやけて行く意識の中で、スコールは、去年の音楽発表会の直前、発作を起こして学校で倒れた時の事を思い出していた。
あの時は、先生や周りの子供達を驚かせ、大騒ぎになった。

 我慢しなくちゃ。
我慢できるようにならなくちゃ。
皆に迷惑かけないように。
我慢して、皆に迷惑をかけない良い子になれば、きっと───手の中の薬を握り締め、スコールは自分に言い聞かせるように、心の中で繰り返した。



†† ††   †† ††


 小学四年生の終わり頃、スコールに友達が出来た。

 皆に押し付けられた鶏小屋の掃除をしていると、他のクラスの男の子がやって来て、一緒に鶏小屋の掃除を始めた。
「どうして一人でやってるの?」と訊ねた男の子に、「皆に頼まれたから」とスコールは言った。
「どうして頼まれたの?」と訊ねる男の子に、「皆は忙しいから」と言った。
しかし、忙しい筈の子供達は、グラウンドや教室で伸び伸びと遊んでいる。
遊びに忙しいから、面倒な事をスコールに押し付けるのだ。
それを聞いた男の子は、怒った貌をした。

 その翌日、傷だらけになった男の子が、鶏小屋を掃除していた。
「どうしたの?」と訊ねると、「どうもしない」と言った。
それから、「あいつら、嫌い」と男の子は言った。
「誰のこと?」とスコールが訊ねると、「イジメなんかしてる奴ら、嫌い」とはっきりと言った。
聞けば、男の子も時々、苛めに遭うらしい。
自分の父親が有名なサッカー選手だから、と言うのが理由だった。

 それからは、二人で鶏小屋を掃除した。

 男の子の名前は、ティーダと言う。
苛められるようになってから初めて出来た友達だった。
クラスは別だったが、家はそれ程離れていなかったので、毎日一緒に登下校する事にした。
道すがら、通りがかった互いのクラスメイトに苛められた。
だが、一人で登下校をしている時に比べると、学校に行くのが少しだけ楽しみになった。

 ある日の参観日に、スコールはティーダの父親と初めて出逢った。
父親は、当日まで参観日だと言う事を知らず、サッカーの練習に行っていた。
たまたまチームメイトに息子と同じ学校に通う子供を持った人がいて、参観日だと知り、大急ぎで駆け付けたのだ。
綺麗に着飾った母が整然と並ぶ中、授業終了直前に練習着のままで駈け込んで来た父親に、ティーダは「来なくて良かったのに!」と怒った。
けれど、スコールにはティーダが羨ましかった。
スコールの参観日には、誰も来てくれた事がない。
それを聞いたティーダの父親は、「じゃあ、これからは俺が、お前の父ちゃん母ちゃんの分まで見に来るよ」と言った。
その言葉の通り、次の参観日の時、ティーダの父親は授業が始まる時間にスコールの授業を見て、それからクラスの違う息子の授業を見に行くようになった。

 スコールは、ティーダの家に遊びに行くようになった。
ティーダと一緒にテレビを見たり、お菓子を食べたりするようになった。
友達の家で過ごした事は、兄への手紙にも書いた。
ようやく本当に楽しいと思う事が書けたのが嬉しかった。

 はしゃぎ疲れて眠ってしまい、うっかりティーダの家に泊まった日、スコールはティーダの父に自分の怪我を見られてしまった。
これはなんだ、と聞かれて、スコールはしどろもどろになった。
誰にも言わないように、気付かれないようにしていたのに、怒られる、と思った。
当然、ティーダの父親は怒った。
だがそれは、スコールに対してではなく、スコールを苛めていた子供達と、それに気付かずにいた周りの大人に対してだ。
また、ティーダが苛められていた事を聞いて、同じように息子の異変に気付けなかった自分に憤った。
スコールの家族にも一言言わなきゃ気が済まない、と言われたスコールは、慌ててティーダの父を止めた。
心配かけたくない、迷惑かけたくない、と泣きながら訴えるスコールに、ティーダの父は弱った。
結局、スコールの家族には、いつかスコールが自分で話す事を約束しただけに留まった。
代わりにティーダの父は、般若の形相で学校に乗り込み、苛めについて、校長、教頭、息子達の担任教師だった教員達に詰問し、改善するようにと約束させた。

 結局、子供達の間で苛めが本当の意味でなくなる事はなかったが、直接的な怪我をさせるような苛めはなくなった。
それからスコールとティーダは、小学校を卒業するまで、お互いが一番の友達であり続けていた。



 小学五年生の夏、スコールに大きな転機となる変化が起きた。
ずっと邸宅の何処かで勉強していた筈の兄が、家を出て行ったと言うのだ。


「……なんで?」


 教育係からそれを聞かされたスコールは、呆然と立ち尽くした。
夏休みの宿題を終わらせようと持っていた鉛筆が、コロコロと机を転がる。
ふらふらと机を離れて教育係に近付くと、冷たい瞳がスコールを見下ろして、言った。


「大学に入学したからだ」
「今、八月だよ。入学って、四月でしょ?」
「国内はそうだが、海外の大学は違う」
「……海外……?」


 教育係の言葉に、スコールは絶句した。


(海外って…海外の大学って……? そんなの、聞いてない。聞いた事ない……)


 逢う事は出来なくても、同じ場所にいると思っていた兄が、いつの間にか遠い地にいる。
それも国外など、小学生のスコールが後を追える距離ではない。

 スコールは震える手で教育係の服を掴んで、縋るように訊ねた。


「お兄ちゃん、何か言ってなかった? 僕に何か、伝える事とか、あるって言ってなかった?」


 特別な言葉が欲しかった訳ではない。
「行って来ます」でも、「一緒にいられなくてごめん」でも、何でも良いから、兄が自分を忘れた訳ではない事を確かめたかった。
スコールの小学校の入学式の時、「一緒に行けなくてごめん」と伝えられた時の様に、彼が自分に向けた言葉が欲しかった。

 しかし、教育係は無言で首を横に振る。
嘘だ、とスコールは小さく呟いたが、教育係はスコールの腕を振り払うと、何も言わずに部屋を出て行った。

 一人取り残されたスコールの眼から、ぽろぽろと大粒の涙が溢れて行く。


「なんで? どうして…? 僕の事、嫌いになったの……?」


 スコールが知らない間に、レオンは遠い地に旅立った。
何処の国の大学に行ったのか、連絡先すら何も教えてくれないまま、彼はスコールを家に一人残して行ったと言う。

 スコールはその場に座り込んだ。
全身の力が抜けて、立つ事も出来ない。


「ひっ…ひっく……ふえ、…え、うぇええええええん……!」


 兄と離れ離れになってから、初めて声を上げて泣いた。
一人きりの広い部屋の中、閉じられた扉の前で、スコールは喉が割れんばかりの大きな声で泣き続けた。

 いつかレオンが帰って来てくれると信じていたから、スコールは寂しい事も悲しい事も耐えて来たのだ。
それなのに、兄はスコールに何も残す事なく、その存在を忘れてしまったかのように、知らない間にいなくなっていた。


「やあ、やだ、やだあ。お兄ちゃん、おにいちゃあぁぁぁん……!ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいぃぃ……!」


 何の理由もなく、兄が人を嫌いになる筈がない。
だからきっと、彼に嫌われたのなら、自分が何か悪い事をしたのだと、スコールは思った。

 届かない兄に向かって、スコールは何度も何度も謝った。


「ごめんなさっ、ごめっ、…ひっく、ごめんなさい、ごめんなさい……ひっ、えっく、…わぁぁぁぁぁん!」


 何が兄を怒らせたのか、スコールには全く判らなかった。
何年間も逢っていなかったのだから、当然だ。
スコールとレオンを繋ぐ糸は、スコールがレオンに向けて書いていた手紙だけだった。
その手紙の内容は、殆どが嘘で塗り固められていた。


(ウソ、ついたから? 発作で、皆に迷惑かけてばっかりだから? だからお兄ちゃんに嫌われた?)


 スコールの泣き声は大きくなった。
いつも小さく縮こまっているスコールのものとは思えない、広い邸宅全てに届くのではないかと思う程の、大きな声だった。


「ごめんなさい、ごめんなさい。お兄ちゃん、ごめんなさい。良い子になるから。もうウソつかないから。ごめんなさい。だからお兄ちゃん、帰って来て。一人にしないで。帰って来てよ。一人ぼっちにしないでよおぉ……!」


 床に座り込んだまま泣き続けるスコールの前で、ドアが開く。
入って来たのは、ハウスキーパーだった。
帰って来て欲しかった兄ではない事を見て、スコールはまた泣いた。



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≫[籠ノ鳥 6-6]