籠ノ鳥 6-6


 大学入学と同時に実家を離れ、三年───異国の地での一人暮らしにも、すっかり慣れた。

 限られた世界でしか存在する事が出来なかった五年間に比べると、大学生活は気楽なものだった。
不満を挙げるなら、自分で食事や洗濯等の家事をする事が面倒と言う点だろうか。
調理実習や裁縫などは小学校の授業でやった事があったが、それを毎日続けるとなると、中々根気がいる事なのだと、初めて知った。

 友人と呼べる者も出来た。
大学施設内や、最寄の生鮮食品店で逢って立ち話をするような仲だが、勉強が面倒だと言う他愛もない愚痴も零す事が出来た。

 他人との会話は、社交界でも交わしていたが、あれは上辺だけのものが殆どだ。
年若くしてデビューしたレオンから見れば、周りは大人ばかりで、特に親しんで交友関係を作るような相手ではない。
中にはレオンの才能を買い、師と仰げる人を得る事も出来たが、それも友人知人とは言えまい。
レオンは、大学に入学して、ようやく年齢相応の人間関係を得る機会を与えられたのだ。

 だが、やはり"自由"と呼ぶには程遠かった。
自宅には何処に繋っているのか判らない監視カメラが設置されており、就学時間を終えても家に帰らずにいると、携帯電話が鳴る。
非通知でかけられた電話に応えると、「家に帰れ」と教育係の声が聞こえた。

 自宅に帰ったレオンは、直ぐにテーブルについて、大学で勉強した内容の整理を始める。
実家にいた時とは違い、間近で監督する人間はいないので、時折、こっそりと手を抜く事を覚えた。
就学内容を考える振りをして、シャーペンを回して手遊びしながら、天井隅から覗くカメラレンズを見遣る。


(……いつまで続くんだろうな。この茶番は)


 教育係の言う"次期社長の器"とやらは、いつになったら完成するのだろうか。
教育係の気が済めば、この窮屈な生活は終わる筈だが、人間の欲望と言うものは限りがない。
一つ叶えれば次、更に上、もっともっと、としつこくなるものだ。


(海外の大学に行くからと言って、自由になる訳でもないと思ってはいたけど。この調子だと、卒業しても終わりそうにないな)


 カチ、カチ、とシャーペンの芯を押し出す。
ノートの隅に、今日の授業で解説をしていた教授の顔を落書きして、直ぐに消した。


(大学を卒業したら、就職か。やっぱり『エスタ』だろうな。そうなったら、父さんには逢えるかな……)


 何せレオンは、『エスタ』の"次期社長"の器となる為、勉強をしているのだ。
後学の為として、他の企業の形を学ぶ事も考えられるが、教育係の妄信振りを鑑みるに、真っ先に『エスタ』への就職が決定されそうな気がする。

 大学卒業後、『エスタ』に就職。
父と再会する事は出来るだろうか。
『エスタ』は小さな会社ではないから、社長が新入社員に逢う事があるとしたら、新入社員歓迎パーティが催された時くらいか。
ラグナは人と接する事が好きだから、積極的に部下の顔を見に行っても違和感はないが、やはり社長と新入社員では大きな隔たりがある。

 それでも、出来る事なら、早く再会したい。
監禁生活が始まって以来、レオンは父の顔は愚か、声さえも聞いていないのだ。


(父さんは、俺だって、気付いてくれるかな)


 レオンが父と最後に会ったのは、十二歳の時だったから、九年近く前の話になる。
あの時よりも身長が伸びたし、体の筋肉もついた。
自分ではよく判らないが、顔付も変わったりしているのだろうか。
少なくとも、子供の顔ではなくなって来た、ような気はする。

 どうにも、思考があちこちに散って、勉強に集中できる気がしないので、レオンは席を立った。
こんな時、監視されていると言いつつも、管理されている訳ではない生活は楽だと思う。
以前は、無駄話は勿論、勉強中に気分転換する事も出来なかった。

 洗面所で顔を洗うだけでは足りなかったので、蛇口をシャワーにして頭から被る。
長く伸びた髪が下りて来るのが見えて、切りに行かないと、と独り言ちた。
家の中で美容院に予約の電話をすれば、監視カメラが予定を記録してくれるので、教育係に連絡する必要はない。
カットだけでは時間が所要時間が短いので、電話では他にも予約を入れて、店に行った時には省かせて貰う事にしよう。
そうすれば、ほんの少しではあるが、自由時間を作る事が出来る。

 濡れた髪をタオルで拭いていると、洗面台の鏡が視界に入った。
顔を上げると、濃茶色の髪と、蒼灰色の瞳を持った人間が、正面から此方を見ていた。

 濃茶色の髪。
蒼い瞳。
全く同じパーツを持った人間が、レオンの脳裏に浮かんだ。


(……スコール)


 父と同じく、もう何年も顔を見ていない弟。
最後に見たのは小学校の入学式の頃。
計算すると、今年で十三歳───中学一年生になっている筈だ。


(……どうでも、良いな)


 レオンは鏡から目を逸らした。
濡れたタオルをハンガーに戻し、キッチンへ向かう。

 実家にいた頃、四年に渡って届けられていた弟からの手紙は、海外に渡ってからは届かなくなった。
教育係が送るのを面倒に思って止めたのか、スコールが手紙そのものを書かなくなったのかは、気にならなかった。
届けられても読む事もない。
実際に、実家にいた頃、大学受験を前にした頃から、レオンは届いた手紙に目を通す事はなくなっていた。

 冷蔵庫から牛乳を取り出して、マグカップに注いで電子レンジに入れた。
沸騰した牛乳が噴き零れないように、冷蔵庫に寄り掛かって眺める。


(中学一年生と来れば、思春期だ。家族より友達を優先したがるものだな。今頃は好きなように遊んでるんだろう)


 教育係が彼に拘る事は、ないと思った。
教育係は、最初から今までレオンだけに固執している。
スコールの事は、最初から"次期社長の器"として期待していないようだった。

 だからきっと、スコールは、楽しく過ごしているのだろう。
手紙に書いてあったように。

 届けられていた手紙の内容を思い出して、レオンは眉根を寄せた。
苛々と胸の内がささくれ立つのが判る。
思い出しても仕方のない事だと、レオンは頭を振って記憶を振り切った。



†† ††   †† ††


 中学一年生になったスコールは、学区外の私立中学校に進学した。
自分で決めた進学先ではなく、教育係が其処に行け、と言ったからだ。
学区内の公立高校に進学したティーダと離れ離れになるのは寂しかったが、スコールは教育係の指示に従った。
居丈高で命令する教育係に逆らう事は、出来なかった。

 中学校には、スコールの事を知る人間はいなかった。
それで良い、とスコールは思った。
小学校の頃、自分を苛めていた人間もいないから、一から自分を作り直すにはお誂え向きだったのだ。

 レオンが自分を置いて姿を消して以来、喘息の発作を自分の力で抑えられるように努めた。
薬はまだ手放す事は出来ないが、お陰で発作は減った。
体育も普通に参加する事が出来るし、大きな舞台の前に倒れて騒ぎになる事もない。
それは、小学生の頃、周りに迷惑をかけなければ、兄が帰って来てくれるのではないかと思ったからだ。
しかし、兄は未だに帰って来ない。
手紙や電話の一つも送られて来ないので、自分は本当に兄に嫌われたのだと思った。
手間のかかる面倒な弟だったから、大学進学と言う機会に、捨てられたのだと。

 スコールは、自分を変えようと決めた。
泣くのを止めて、周りに振り回される事がないように、頑なな殻を作って閉じ籠った。
自分の事は全て自分で出来るように努力し、人の手を頼る事も止めた。
喘息治療については、訪問医を断り、自分で病院に通う事にした。

 スコールのこの行動を、教育係は一瞥しただけで、何も口を挟む事はしなかった。
スコールと教育係の間に、会話はない。
スコールは、教育係を"教育係"とは思わなくなっていた。
元々、あの教育係はレオンの為に雇用された人間だったから、きっと、レオン以外の人間の事はどうでも良いのだ。
弟のスコールの事も。
だから、スコールが中学校でどんな生活を送っていても、見守る事さえしなかった。

 小柄で成長が遅かったスコールの体は、中学生に入ってから急激に伸び始めた。
成長痛で足や腕が痛む事が増えたが、スコールは誰にも愚痴を零さなかった。
感情は常に心の中で留めて、表には出さないように努める。
そのお陰か、何かと女児と見間違われる事が多かった顔も、中学生になってからは揶揄われる事もなく、所謂"美形"の少年の顔立ちになって行った。

 友達はいなかった。
ティーダとは小学校を卒業してから逢わなくなったし、彼のような友人が改めて欲しいとも思わなかった。
求める所か、スコールは自ら他者と近付く事を避けるようになる。
大好きだった父も兄も、手のかかる自分を嫌いになった。
ティーダとは、同じ中学校に行けないと打ち明けて、傷付けた。
きっとあの時、ティーダは自分を嫌いになっただろう。
心を寄せた人に嫌われる悲しみは、スコールの心に深い根を張り、彼の人格形成に大きな影響を及ぼす事となる。

 誰と話をする事もなく、心を寄せ合える人間を作る事もなく、スコールの中学生生活は続いた。
一日の内、一言も発する事なく過ごす事も増えた。
それでも、特に不満を抱く事のない生活だった。
きっと、このままずっと、こんな日々が続いて行くのだと思った。

 しかし、停滞したように冷たく凍り付いていた日常は、秋のある日に形を変えた。

 一日の授業を終えたスコールは、放課後の過ごし方を話し合うクラスメイト達で盛り上がる教室から離れた。
部活動で賑々しいグラウンドを通り過ぎ、校門を出た所で、大きな人間の胸にぶつかった。


「っ……すいません……」


 ぶつけた鼻柱を抑えて謝り、直ぐに巨体の脇を通り過ぎようとした時、がしり、と大きな手がスコールの肩を掴む。
なんだ、と眉根を寄せて顔を上げたスコールは、其処に見覚えのある顔を見付けて、目を丸くした。


「……ウォード、…おじ、さん……?」


 嘗ての幼い呼び方を零しかけて、スコールは僅かに言葉を改めた。

 丸みのある大きな体躯と、小さな頭にはバンダナを巻いている。
唇は厚く、無精髭が生えていて、顔には大きな古い傷痕がある。
スコールの肩を掴む右手にも、裂けた皮膚が繋がり合った痕と思しき痕跡があった。
昔、其処にはぐるぐると包帯が巻かれていたのを、スコールは覚えている。

 黒い瞳が、スコールを見詰め、にっと笑った。
間違いなく、父の友人であり、スコールとレオンの世話役をしていたウォードだった。


「どうして……」


 呆然と呟いた言葉は、何に対しての疑問だったのか、スコールにも判らない。
どうして中学校(ここ)にいるのか、どうして事故の後、退院した筈なのに家に帰って来なかったのか、何処で何をしていたのか───判らない事が多過ぎて、スコールは混乱気味だった。

 ウォードは、ひらひらとスコールの前で手を翳した。
その仕草に一度眉根を寄せたスコールだったが、彼が事故の怪我で声が出せなくなっていた事を思い出す。


「ちょっと待ってくれ。ノートが……うわっ!?」


 筆談して貰おうと、鞄からノートを取り出そうとしたスコールを、ウォードは突然担ぎ上げた。
そして、困惑するスコールに構わず、全速力で走り出した。


「ちょ、おいっ、何────」


 突然の事にパニックになったスコールは、降ろせ、と暴れようとした。
しかし、ウォードの後ろを追うように走って来る人影を見付け、眉根を寄せる。

 一体何が、とスコールが人影の正体に気付く前に、ウォードは大通りに出ると、路上に駐車していた車に乗り込み、急発進させた。



 ウォードの運転する車は、都市部から離れ、郊外のホテルに到着した。
スコールは訳も判らないままに部屋に連れて行かれると、ぐったりとベッドに座り込んで、ホテルが無料配布しているインスタントコーヒーを作っているウォードを見て、


「あんた……今まで、何処で何してたんだ?」


 取り敢えず、順を追って説明して欲しかったので、一番最初にそれを聞いた。

 ウォードは淹れたコーヒーをスコールに渡した。
ポーションミルクを差し出されたが、断ってブラックのままで飲む。
苦味に思わず眉間に皺が寄った。

 スコールがコーヒーを飲んで小休止している間に、ウォードはノートに文章を書いていた。
十分、二十分と時間が経つ間、スコールはまんじりともしない時間を過ごす。
ウォードは備付のテレビを指差し、見て良いと促した。
別段、見たい番組があった訳でもなかったので、スコールはニュースを見てウォードの作業が終わるのを待った。

 ウォードの書く所によると、


『俺が事故に遭ってから、こんなにも長い間、君達を放ったらかしにしてすまなかった。
君にも、レオンにも、とても辛い思いをさせてしまった事は、お手伝いのイデアさんから聞かせて貰ったよ。
もっと早く迎えに行く事が出来なくて、すまない。

俺は、事故の怪我が治った後、別の病院で継続入院と言う形で監禁されていた。
外の情報は一切入って来ない場所で、君達のお父さんやキロスとも連絡を取る事が出来なかった。
なんとか逃げ出せたのは、つい一週間前だ。
だが、病院は俺が逃げた事が都合が悪かったらしく、俺を血眼になって探している。
出来れば、振り切ってから君を迎えに行きたかったが、先に君を保護する方が先決だと思って、イデアさんから君の入学先を教えて貰って、君が出て来るのを待っていた。

あの家には、もう帰っては行けない。
大きくなった君も、薄々感じている事かも知れないが、あの家はもう君達の家ではない。
俺達が雇ってしまった奴の所為で俺やラグナ、キロスの居場所はなくなった。
奴はお父さんの会社の乗っ取りを考えていて、レオンを次の社長にして、自分の影響下に置くつもりだ。
君とレオンは、奴の計画に巻き込まれたんだ。
このまま、あの家に住み続けていたら、君もレオンも、奴に利用され続ける事になる。

お父さんとキロスに、奴と今の君達の事を伝えたい。
だが、私は声を出す事が出来ない。
君からお父さんとレオンに、帰国するように促してくれないか。
向こうの居場所を教えて貰うだけでも良い。
詳しい事は、直接会って、俺が全て話そうと思っている。
君にも、その時、改めてしっかりと話をしたいと思っている』


 ……やはり、あの教育係は"教育係"の仮面を被っていただけだったのか。
それさえ判れば、スコールは全ての出来事に納得した。

 ウォードの事故、国外の仕事に行ったまま帰って来ない父とキロス、いつの間にか旧知の使用人達が全て姿を消していた事、邸宅の何処かに閉じ籠ったまま勉強だけに集中していた兄。
ウォードの事故の後、レオンが学校に行けなくなったのも、父の帰国のタイミングを妨げるように大きな仕事が舞い込んでいたのも、教育係の差し金だった。
あらゆる所に影響力を持つ教育係の正体については判らなかったが、スコールはそれはどうでも良い事だった。

 ノートに綴られた経緯を読んで、スコールは無意識に押し殺していた息を吐いた。
そして、ウォードの希望を叶えられない事を説明する。


「電話……無理、だ。俺、誰の番号も知らないから。…父、さん、のも…向こうからかかって来るのを待ってただけで、俺からはかけてないし。昔、覚えてた番号は、ずっと前に繋がらなくなってる」


 レオンの連絡先は、と綴ったウォードに、スコールは首を横に振った。
兄の連絡先は愚か、今何処にいるのか、何処の国の大学に入学したのかも、スコールは知らなかった。

 ウォードは腕を組んで、狭い部屋の中をぐるぐると歩き回った。

 結局、スコールが一度邸宅に帰り、電話の着信履歴を確認する事になった。
履歴が消されている可能性は十分考えられたが、運が良ければ残っているかも知れない。
教育係は、スコールに「父の仕事の邪魔をするな」と言い聞かせていた。
その言葉は、幼いスコールには洗脳同然に沁みついて、自分から父に連絡をしようとは思わなくなっていた。
中学生になった今でも、スコールは父に対して「邪魔をしてはいけない」と言う洗脳が根底に残っている。
だから、以前に比べて監視の目が緩み、自立した思考を持ち始めたスコールを自由にさせているのではないだろうか。
この油断が、若しかしたら───賭けではあったが、他に探れる方法もないと、スコールは言った。
ウォードは、教育係に見付かる事を懸念したが、友達の所に電話するとでも言って誤魔化す、とスコールは言った。

 いつしか全てを諦めたように流され続けていたスコールだったが、本当は自由になりたかったのだ。
兄にのみ固執し、スコールには常に冷たい眼差しを向ける人間の下から、自由に。
誰の眼も気にせず、優秀な兄と比べられる事もない場所が欲しかった。



 スコールがタクシーを使って邸宅に帰った時、教育係は不在で、ハウスキーパーだけが残っていた。

 ハウスキーパーはスコールが帰って来たのを見付けると、安堵して、涙を浮かべた。
後に聞いた話では、彼女は夫を人質に取られ、教育係に脅されて、邸宅のハウスキーパーとして雇われたのだと言う。
スコールと一切の会話を禁止されていたのも、脅されていたからだった。
根はとても優しく、子供好きで、幼いスコールが兄と引き離されて寂しい思いをしている時、本当は全てを話して助け出してやりたいと思っていたと言う。

 家の電話機には、一件だけ着信履歴が残っていた。
スコールがウォードと共にホテルにいる間に、ラグナから電話があったのだ。
いつもなら家に帰って、部屋で勉強している時間だった。
この着信が鳴った時、教育係は家にいなかったと、ハウスキーパーは言った。
ウォードの監禁からの脱走を聞いて、焦って探しに行ったのかも知れない。
スコールは急いで電話番号をメモして、ウォードが待つホテルに戻った。

 後は、芋蔓式だった。
息子から話を聞いたラグナは、キロスと共に対策を練り、教育係の正体と協力者の横の繋がりを早急に洗い出した。
ラグナが海外で真面目に仕事に従事していた事が功を奏し、ラグナへの協力者も多く、事態は急転直下の勢いで解決に向かった。
不穏な動きをしていた不審な会社は縄に尽き、教育係も捕まり、レオンへの監禁罪を主な罪状として逮捕される運びとなった。

 事が終息するよりも前倒しにして、ラグナは実に九年振りに帰国し、スコールと再会した。
電話口で話をした事はあったものの、それも全て教育係によって指定された内容だったと知ったラグナは、何年かぶりに自分の気持ちで喋るスコールの言葉を聞きながら、気付いてやれなかった事、助けてやれなかった事を何度も詫びた。
同様に、ラグナは海外の大学に入学していたレオンの下へ行き、辛い思いをしていた長男を抱き締め、大きく成長していた息子達の姿にそれぞれ涙を零した。

 暴君による支配は、終わりを告げた。
圧政を強いられ続けていた兄弟は、ようやく解放されたのだ。

 ────しかし、兄弟がもう一度再開するまでには、一年の時間を要したのだった。



◇◆◇◆   ◇◆◇◆


 大学を首席で卒業したレオンは、母国に帰り、父の会社へと就職する事にした。
「好きな所に行って良いんだぞ」とラグナは言ったが、レオンは「此処が良い」と言った。
"次期社長の器"になるべくして育てられたからではなく、純粋に、父の手伝いがしたいと思ったからだ。

 卒業資格を取得し、就職の内定が届いて間もなく、レオンは帰国した。
その時、『エスタ』は国外事業に関し、全面的に一時保留と言う事になっていた。
息子達の監禁まで及んだ事件があった直後なのだから、無理もない。
特に次男のスコールは、事件が解決した時点でも中学一年生だった。
人間の人格形成に大きな影響を残す時期を、赤の他人によって操作された息子を、ラグナが再び一人に出来る訳がない。
せめてレオンが帰って来るまでは、スコールの傍を離れない、と彼は譲らなかった。
キロスとウォードもこれに頷き、思春期の入り口であったスコールは、少しぎこちない様子を見せながらも、父の愛情を改めて感じる事により、凍り付いていた表情を少しだけ溶かすようになった。
其処へ兄が帰って来る事で、バラバラになっていた家族が、ようやく元の形を取り戻したのである。

 嘗て住んでいた邸宅を手放したラグナは、仮住まいにと、全く別の土地にあるマンションに引っ越した。
スコールの中学校は、事件が公になった後、転校を決めた。
屋敷に残っていたものは、スコールの部屋にあった私物を除いて、全て手放した。
二人の息子達が新たに生きて行く為にも、辛い記憶を呼び覚ますものは遠ざけた方が良いと思ったからだ。

 ラグナは、帰国したレオンを空港まで迎えに行き、お帰り、と抱き締めた。
それからマンションに連れて帰ると、十年振りに並んだ二人の息子を一緒に抱き締めて、感極まったように泣き出した。

 ────泣きじゃくる父を、息子達が宥めて、約一時間。
目も鼻も真っ赤に腫らした父を見て、レオンは眉尻を下げた。


「父さん、幾らなんでも泣き過ぎだ」
「うう……ぐすっ。だってよぉ〜、やっと帰って来たんだって、やっと皆揃ったんだって思ったらさあ。もう堪んなくって」
「……あんた、また鼻水……」
「おっ、ティッシュ! ありがとうな、スコール」


 勢いよく鼻を噛むラグナに、スコールが眉間に皺を寄せる。
幾ら噛んでも出て来る鼻水に、ラグナは眉尻を下げ、


「ああ、くそ、格好悪いなあ。俺、ちょっと顔洗って来るよ」
「大丈夫か?」
「うん、ヘーキヘーキ。嬉しいだけだから」


 もう一回だけ噛んで行こう、と言って、ラグナはティッシュを取った。
すっかり減ってしまったティッシュ箱の中身に、スコールがまた眉根を寄せる。

 丸めたティッシュをゴミ箱に捨てて、ラグナはふらふらと洗面所に向かった。
父の後ろ姿を眺めながら、素面で酔ってるみたいだ、とレオンは思う。
その口元は、柔らかく笑みを浮かべている。

 泣いていた父がいなくなると、レオンとスコールの間に奇妙な沈黙が落ちた。

 思い返してみれば、実に七年振りの再会だ。
お互いに、何をしていたのか、何を思っていたのか、聞きたい事もある。
だが同時に、何も聞きたくない、と言う思いもあった。
お互いがどれ程の信頼と愛情で結ばれていたのか、それさえも思い出す事が難しい。
順を追って過去を思い出そうとすれば、監禁されていた時の事、苛められていた時の事を思い出す。
その光景が僅かでも浮かび上がった途端、記憶の回路はシャッターを閉じて、それ以上の記憶を呼び覚ますまいと遮断してしまう。
いっそ忘却してしまえたら、本当に一から再出発する事が出来ただろう。
しかし、それをしてしまうには、二人の記憶は余りにも強く根付いてしまっていた。

 相手に話をしたくないのは、自分の過去に触れられたくない事の裏返しだった。
何かを聞けば、同じ質問が返って来るかも知れない。
聞かれれば答えなければならない、答えようとすれば思い出す。
それが嫌で、二人は何も訊ねる事が出来なかった。

 沈黙を破ったのは、レオンの方だ。
レオンは窓から見える、生まれ故郷とは違う街の景色を眺めながら、電源の点いていないテレビを見詰める弟に問う。


「……今、何歳だ?」


 聞こえた声に、一瞬スコールの肩が跳ねた。
スコールは乾いた唇を、震えながら開き、


「……十四」
「中二だな」
「……あんたは?」


 四年制の大学をストレートに入学、卒業したのだから、レオンの返答は聞かなくても判っていた。


「二十二だ」


 答えを返したレオンも、内心では答える必要はないだろうと思っていた。

 また沈黙が落ちた。
今度は、長くは続かず、またレオンが先に口を開いた。


「学校、面白いか」
「……別に。普通だ」
「そうか」
「あんたは……面白かった?」
「さあ。気は楽だった」
「……そんなものか」
「部活は?」
「してない」
「友達は?」
「……」
「……そうか」


 何が、「そうか」なのだろう。
勝手に何か解釈されたのだろうか。
スコールは兄の言葉に眉根を寄せたが、その気持ちを口に出す事はしなかった。
振り返る事もしなかったので、レオンがどんな顔をしていたのかも知らない。

 二人の会話は、ぽつり、ぽつり、と零れるだけの言葉で続いた。

 変だな、と思った。
昔はもっと普通に話をしていたような気がするのに、どうやって話をしていたのかが判らない。
再会してから、お互いに一度も目線を合わせていない事には気付いていた。
なんだか、他人と初めて顔を合わせたような気まずさを感じる。

 洗面所からラグナが戻って来て、ソファに並ぶ息子達を見て、笑みが零れる。
その途端、しんと静まり返っていた室内の空気が、すっかり和らいだ気がした。


「いや〜、悪い悪い。落ち付いたから、もう大丈夫。今日はもう泣かないぜ、みっともないもんな」
「……迎えに行く前に足を攣ってた時点で、みっともないも何もないと思う」


 息子達と向かい合う位置に座った父に、スコールがぼそりと小さな声で言った。
確りと聞こえたラグナは、言うなって、と顔を赤くする。
レオンはくすくすと笑っていた。


「緊張すると足を攣る癖、まだ治ってないんだな」
「いやいや、前よりマシになったんだぜ。攣ってもちょっとは動けるようになったし。ほら、前は攣ったら全っ然動けなかっただろ?」
「攣らなきゃ良い話だろ」
「それが出来りゃ苦労しないんだって〜」


 弱り切った貌で、子供が言い訳をするように言う父を、スコールは呆れた表情で見詰め、レオンはツボに嵌ってしまったように腹を抱えて笑っている。


「レオン、そんなに笑うなよぅ」
「ああ、ごめん……くっ、ふふ…」
「ひっでぇなあ」


 頬を膨らませる父親に、レオンは安心した。
自分の知っている父親が、変わらないままでいてくれる事が嬉しかった。

 笑い続ける長男に、フグ宜しく頬を膨らませていたラグナだったが、ふ、とその表情が和らいだ。
緑色の瞳が、並んで座る息子達を見詰める。
その目の中で、ラグナは十年以上前に別れた時の息子達の姿を思い描いていた。


「本当に、二人とも、大きくなったなあ」


 ラグナの言葉に、レオンは笑うのを止め、スコールが顔を上げる。

 ラグナの眼には、喜びと、懐かしさと、隠しきれない悲しみが滲んでいる。
いつも朗らかで明るい父らしからぬ表情に、レオンとスコールも表情が変わった。


「ごめんな、二人とも。二人が辛い時、何も気付いてやれなくて、何もしてやれなかった。二人がこんなに大きくなるまで、ずっと放ったらかしにして、ごめんな」


 真っ直ぐに息子達の顔を見て、ラグナは言った。
静かな声で告げられた父の言葉を受け止めて、レオンは眉尻を下げる。


「もう良いよ、父さん」
「…何回も聞いた。だから、もう、良い」


 兄に続いて、スコールが言った。

 事件の事で誰よりも心を痛めているのは、もしかしたら、当事者ではなく父ではないかと言う事を、レオンもスコールも感じ取っていた。
自分が雇用した人間が、知らぬ内に息子達に苦痛を強い、息子が全てを打ち明ける時まで、何も気付く事が出来なかった。
家族を大切にしているラグナにとって、こんなにも辛い事はない。

 息子達の言葉に、ぐす、とラグナが鼻を啜った。
スコールが無言でティッシュを差し出す。
ラグナは思い切り鼻を噛んで、赤い鼻を擦りながら笑った。


「はは。なんかやっぱ、凄いなあ。ちょっと花島太郎の気分だ」


 父の口から出てきた聞き慣れない単語に、レオンとスコールは思わず顔を見合わせる。
再会して、初めて兄弟が向き合った瞬間だった。


「……何か違う話が混じってないか」
「へ?」
「…多分、花さか爺さんと、浦島太郎だ。父さんの言いたい事としては、浦島太郎が正しいと思う」


 スコールの指摘に、ラグナが首を傾げ、相変わらず天然か…と眉尻を下げたレオンが訂正する。
ラグナはしばらく息子達の反応を見詰めた後、納得したように手を叩く。

 レオンがまたくすくすと笑い出した。


「父さん、本当に変わってないな」


 嬉しそうに言ったレオンに、ラグナは「そっか?」と首を傾げる。
それから、そうだ、と身を乗り出し、


「俺は変わってないみたいだけど。俺はすっごく驚いたぞ〜。二人ともこんなに大きくなってたんだから。特にスコールなんか、こーんなに小っちゃかったのに、すっかり成長して、美人になったもんなあ。レインにも───母さんにも似て来たな。レオンも俺より背が高くなって、凄く格好良くなったよな」


 二人の息子を褒め千切る父に、相変わらず親バカだ、とレオンは思った。
スコールも、こんなに親バカだったか、と眉根を寄せつつ、頬が微かに赤らんでいる。


「な、レオンも驚いただろ? スコール、凄く大きくなったし、あんなに一杯泣いてたのに、もう泣き虫も卒業したんだぜ」
「……そんなに泣いてない」


 ラグナの言葉に、スコールは眉根を寄せて言った。
中学校の進学を期に、自分を変えようと躍起になっていたスコールにとって、父が話す幼い自分は黒歴史だ。
出来れば、あまり口にして欲しくないのだが、ラグナにとっては可愛い息子の大切な思い出である。

 顔を蕩けさせて嬉しそうに話す父に、スコールは拗ねた顔をして、明後日の方向を睨んだ。
レオンはそんなスコールを横目に見て、父へと向き直り、笑顔を浮かべて言った。


「スコールは確かに変わったな。あんなに小さかったのに」


 遠い記憶を懐かしむように言うレオンに、うんうん、とラグナが頷く。


「だよな、レオンもそう思うよな。そうそう、喘息もかなり落ち着いたよな? 俺がこっちに帰ってから、見てないし。我慢したりとかしてないんだよな?」
「……喘息なら、もう治った。此処一年は、発作も起きてない」
「おっ、そっか! 良かった良かった。でも、喘息ってのは急にぶり返したりする事があるらしいからな。気を付けなきゃ駄目だぞ?」
「……ん」


 父の忠告に、スコールは目を逸らしたままで頷いた。
ラグナの手が伸びて来て、くしゃくしゃとスコールの頭を撫でる。
それから、ラグナはレオンの頭も撫でた。


「父さん、俺はもう子供じゃないよ」
「なーに言ってんだ。お前は俺の息子だぞ。親にとっては、何歳だろうが、子供はずっと子供だよ」


 そう言ったラグナは、もう一度、レオンの髪をくしゃくしゃに掻き撫ぜた。
きちんとセットした髪が乱されて行くのを、レオンは大人しく甘受する。

 ────父の存在が、この部屋の空気を作っていた。
柔らかく、温かく、とても居心地が良い。
この安らぎを、レオンもスコールも求め続けていた。
それがやっと得られた事が嬉しくて、もっと、もっとこのままで、と思う。

 けれど、傍らにいる存在とのぎこちない空気は、誤魔化しようがなかった。
父がいなくなり、二人きりになったら、先刻のように違和感だらけの会話すら出来ない気がする。

 弟とは、どんな話をしていただろう。
兄を、なんと呼んでいただろう。
どんな風に向き合っていたのだろう。
兄弟は、かつて自分達が共に過ごした日々の事を、思い出す事が出来なかった。
隣にいる人間は、記憶にある幼い弟と、優しかった兄と、本当に同一人物なのか。
目を合わせる事すら自然に出来ないのに、会話なんて出来る筈がない。


(ああ、そうか)
(もう判らないんだ)
(もう戻れないんだ)
(昔の俺達には、きっと)


 何も疑う事を知らなかった頃のように、無心に弟を愛し、無邪気に兄を慕う事は出来ないのだと、悟った。



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≫[籠ノ鳥 7-1]