籠ノ鳥 7-1


 ぼんやりと、真っ白な天井を見詰めていた。
柔らかい光が其処から反射して落ちて来る。

 見覚えのない天井だった。
何処だろう、と霞が晴れない意識のまま、スコールはゆっくりと頭を擡げた。
すると、真っ白な天井を見ていたスコールの眼の前に、人の頭の影が落ちる。


「……スコール?」


 影が喋った。
聞き覚えのある声だと、誰の声だっけ、と考えた後、スコールは小さく口を動かす。


「……ら、…ぐ、……な……?」


 喉も舌も上手く動かなかったが、なんとか、父の名前を紡ぐ事が出来た。

 視界がもう少し晴れて、逆光になっていた影の輪郭が明確になり、光に目が慣れて、影になっていた顔のパーツが見えて来る。
所々に白髪が混じった長い黒髪、笑い皺のある目尻、緑色の瞳。
高い鼻。
いつも子供のようにからからと笑う大きな口は、今は真一文字に紡がれている。
その所為か、本当にラグナ? とスコールは一瞬疑問に思った。
父親の神妙な顔と言うものが上手く思い浮かばなかったからだ。
しかし、間違いなく、其処にいたのは父であった。

 目の焦点が合い始めたスコールを見て、心配そうに覗き込んでいたラグナの表情が、花が綻ぶように変わって行った。


「スコール!」


 感極まったように目に涙を浮かべて、ラグナは息子に覆い被さった。
スコールはきょとんとした表情で、自分の頭を抱えるようにして抱き込んでいる父を見上げる。


「……ラグナ……? あんた、なんで…? 此処は……?」


 意識がクリアになってくると、疑問が次々と口を付いた。

 海外にいる筈のラグナが、どうして自分の所にいるのだろう。
そして、此処は一体、何処なのだろう。

 ラグナは、息子の声が聞こえているのかいないのか、それ所ではないのか、スコールを抱き締めたまま、嗚咽を漏らしている。
なんで泣いてるんだろう、と思いながら、取り敢えず宥めた方が良いよな、と腕を持ち上げたスコールは、手首に繋がれている細いコードを見付けて、目を瞠った。
コードを辿って視線を移していくと、スタンドに吊るされた点滴があった。


(……病院……?)


 点滴管に繋がれた自分の腕を見詰めるスコールに気付いて、ラグナが顔を上げる。
ラグナは、呆然としているスコールをあやすように、柔らかな濃茶色の髪を撫でながら言った。


「お前、喘息の発作で倒れたんだぞ。意識不明にまでなっちまって……レオンと、アルティミシアって人が、救急車を呼んでくれたんだ」
「発作……」


 ラグナの言葉に、朧気に最後の記憶が蘇る。
息苦しくなって、呼吸の仕方が判らなくなっていた。
やはりあれは、喘息の発作症状だったのか。

 頭を撫でる父の手が、とても優しかった。
誰かにこんな風に触れられたのは、随分久しぶりのような気がする。


「アルティミシアさんから連絡貰って、直ぐにすっ飛んで帰りたかったんだけど、ゴタゴタして、また遅くなっちまった。駄目な親だなあ、俺。肝心な時、いつも傍にいてやれないんだもんな。ごめんな、スコール。お前が無事に目を覚ましてくれて、本当に良かったよ…」


 ラグナの両手がスコールの頬を包み、こつん、と二人の額が合わさる。
痛みがちの黒髪がスコールの顔をくすぐった。


「頭痛いとか、気持ち悪いとか、ないか? 頭だけじゃなくて、他にも何処か痛いとか辛いとか、ないか?」
「……ん……」
「そっか。うん。良かった。良かった……」


 ラグナは、もう一度スコールを抱き締めた。
スコールに負担がかからないように、体重を乗せないように気を遣ってくれているのが判る。

 ぐす、と鼻を啜るような音が聞こえた後、ラグナはスコールから体を放した。
草臥れたシャツの袖でごしごしと目許を拭って、ラグナは腰を上げる。


「もっとスコールと話をしたいけど、スコールが起きたって、先生に言いに行かなきゃな。レオンにも伝えなきゃ」
「……レオ、ン……」


 紡がれた兄の名を小さな声で反芻すると、ラグナは頷き、


「ああ。レオン、スコールの事を凄く心配してて、仕事も手に付かない状態でさ。会社も休みにして、ずっとお前の傍に付いてたんだぞ。でも俺が病院に来た時には、あいつの方も顔真っ青にしてて、ぶっ倒れちまいそうだったから、宿泊室を借りて寝かせてるんだ」
「……」
「久しぶりの発作だったから、レオンもびっくりしたんだろうな。処置がもうちょっと遅かったら危なかったって先生も言ってたし、一緒にいたのにって、責任感じてるみたいだった。レオンの泣きそうな顔を見たのなんて、何年振りかなあ」


 レオンがスコールを心配。
泣きそうな顔。
責任を感じている。
スコールは、それがレオンの本当の気持ちだとは思わなかった。
ただ、彼にとても迷惑と手間をかけてしまった事だけは確かだと、気まずさを感じてラグナから視線を逸らす。

 苦い表情を浮かべているスコールに、ラグナは苦笑を浮かべ、くしゃくしゃと愛息子の頭を撫でた。


「先生呼んでくるから、もうちょっと休んでろよ。直ぐに呼べるか判らないから、寝てても良いぞ」


 そう言って、ラグナはベッド傍を離れた。
名残惜しいように、短い距離を何度も振り返り、息子を安心させるように笑みを浮かべてから、病室を後にした。

 一人になった病室で、スコールは横になったまま、辺りを見回した。
幼い頃は、大きな発作を起こしては病院に運ばれて治療を受けていたが、それも小学生の時までだ。
中学生になる頃には、発作自体が滅多に起きなくなっており、定期的な通院だけで済んでいたので、入院措置になるなんて本当に久しぶりの事だった。

 子供の頃、入院した病室で一人きりになるのが嫌だった。
元々、スコールは一人になる事が苦手で、家族はそんなスコールの為に、必ず誰かが傍にいるようにと考慮していた。
一番機会が多かったのは、世話役をしていたウォードだろう。
それから、小学校の授業が終わると、レオンはランドセルを背負ったまま、弟のいる病院にやって来た。
レオンが来ると、ウォードは少しだけ休憩して、スコールは兄に甘えた。
レオンはベッドの端に座って、スコールの頭を撫でたり抱き締めたりと、温もりを分け与えるようにして、スコールをあやしていた。

 高校二年生にもなって、一人の時間が嫌い、等とは思わない。
寧ろ騒がしい事が苦手だから、一人の時間は好きだった。
だが、病院で一人きりと言う場面が久しぶりだからだろうか。
徐に伸ばした手を捉まえてくれる人がいない事が、酷く胸の奥で響く気がする。

 ごろり、と寝返りを打って、目を閉じる。
ラグナがいつ帰って来るのかは判らないが、彼は寝ていても良いと言っていた。
医者が来たら起こされるだろうから、体もまだ幾許か重みを感じるし、もう少し休もう────と思った時、病室のドアを控えめにノックする音が聞こえた。


「ラグナ?」


 もう戻って来たのだろうか、とスコールは体を起こした。
意識不明になってから病院に搬送されたと言っていたが、一体、何日前の事なのだろう。
腕の筋肉がすっかり落ちてしまったようで、両腕を支えに起き上がろうとするが、思うように行かない。

 起き上がろうと奮闘していると、ドアが開いて、足音が聞こえた。
目隠し用に引かれていたカーテンが捲られる。
近付く気配を感じながら、スコールは歯を食いしばって上半身を起こそうと腹筋に力を入れた。


「う……んっ、」


 思うように動かないスコールの体を支えるように、肩と背中に手が添えられる。
上半身を起こすと、枕をクッションにして背凭れにする。
楽な姿勢になって、ほっと息を吐いて顔を上げたスコールは、其処に立っていた人物を見て息を飲んだ。


「……レオ、ン」


 震える唇で、辛うじて彼の名を呼ぶ。

 レオンは、皺の寄ったワイシャツを着ていた。
いつも纏っていた清潔で洗練された雰囲気はなく、伸びた髪は寝癖のようなものであちこち跳ねている始末。
何かとワイシャツの端を出しっぱなしにする父のだらしなさよりも、酷いかも知れない。

 蒼の瞳が、じっとスコールを見下ろしていた。
其処に映り込んだスコールの顔は、明らかに不自然な引き攣り方をしている。
シーツを握った手が震えるのを感じて、スコールは見下ろす瞳から逃げるように視線を逸らす。

 何を言われるのかと考えると、それだけで怖かった。
長らく忘れていた喘息の発作を、レオンの前で再発させた上、意識不明に陥って入院。
その間、レオンにどれだけ手間をかけさせた事だろう。
増して、あの時、レオンの前にはアルティミシアと言う女性がいた。
ただの友人やビジネス上の付き合いと言うには、余りにも距離が近過ぎる彼女は、きっとレオンにとって特別な存在だったに違いない。
そんな二人が語り合っている最中に、スコールは発作を起こした。
面倒を起こしてくれるな、と言われるのが目に見えている。

 胸の奥がずきずきと痛むのを感じて、スコールは胸元を握り締める。
スコールは、病院で用意されたのだろう病衣を着ていた。
着物のように袷になっているので、息苦しくはならない筈だが、スコールは喉奥に何かが詰まったような違和感を感じていた。
スコールは背を丸め、細く小さく呼吸を繰り返して、息苦しさが早く消えるように試みる。


「……苦しいのか」


 静かな声が落ちて来て、スコールの肩が揺れた。
スコールは俯いたまま、唇を真一文字に引き絞り、呼吸を殺す。


「我慢するな。悪化する」


 胸元を握る手を掴まれて、スコールの体は緊張で強張った。
それを感じ取ったのか、手首を掴むレオンの手に微かに力が篭る。
このままベッドに組み敷かれるのを想像して、スコールの体が震えた。

 しかし、予想に反して、レオンはスコールの手を解放した。
体の横に手を下ろすと、ベッド横の丸椅子に座り、丸めたスコールの背を宥めるようにゆっくりと撫でた。

 背中を撫でる手が、酷く優しく柔らかい触れ方をしている事に、スコールは困惑した。
が、直ぐに、此処が病院であって家ではない事を思い出す。
直にラグナが医者を連れて来ると言っていたし、このタイミングで情交に及べる筈がない。


(でも……変な感じだな……)


 レオンの行動は、病院に入院している家族に対して、ごく自然なものだ。
気遣うように触れるのも、無闇に刺激しないように静かに話しかけるのも、何も可笑しな所はない。
それでもスコールが"変"と感じるのは、彼が自分に対して、こんな風に優しく接した事が今までなかったからだろう。
父を含め、家族三人で過ごす時でさえ、レオンはスコールに悪戯に触れようとはしていなかった。

 背中を撫でる手から伝わる体温を感じながら、スコールは目を閉じる。
ゆっくりと呼吸を繰り返すと、胸の奥の蟠りが少しずつ解けて行くのが判った。


(ずっとこのままなら、良いな……)


 優しい手が、このまま離れない事を願う。
でも、無理だろうな、とスコールは直ぐに諦めた。
兄がどれ程自分を憎んでいるか、それを知っていれば、彼が自分に本当の意味で優しく接する筈がない事は、判り切っている。


「落ち付いたか?」


 問い掛けに、スコールは答えなかった。
頷けば、きっと背中に触れている手は離れて行く。
けれど、首を横に振る事も出来なかった。
彼の手を可惜に煩わせれば、面倒を増やされた彼の機嫌を損ねるだろう。

 手酷く嫌われているのだから、今更どんな風に思われても、変わる事などないだろう。
それでも、今以上に嫌われたくない、とスコールは思っていた。

 スコールの呼吸が落ち付いた事に気付いたのだろう、背中を撫でていた手が離れる。
スコールは、小さな子供が縋る手を失うような寂しさを感じながら、俯いたまま動かなかった。
離れて行く手を掴む事は、スコールには出来ない。
縋った所で、振り払われるのが関の山だろう。

 早くラグナに戻って来て欲しかった。
彼がいれば、体裁であるとしても、兄は弟を邪険に扱う事はしない。

 兄弟の間の溝を埋めてくれるのは、父だった。
彼はレオンとスコールの関係が冷え切っている事など知らない。
何も知らない彼が、兄弟の仲を疑っていないからこそ、レオンはその偶像を壊すまいと努めてくれる。
彼の存在のお陰で、兄弟の絆は───上辺だけだとしても───壊れずに済んでいるのだ。

 沈黙が再び息苦しさを招こうとしている。
スコールは、胸元を握り締めようとして、腕を持ち上げるのを堪えた。
気付かれてはいけない、と細く小さく呼吸していると、また背中に温かい手が触れた。
思わずスコールが顔を上げると、頼りなく揺れる蒼い瞳とぶつかった。


(……レオン?)


 レオンは、見た事がないような表情をしていた。
泣き出しそうな子供を思わせるような目をして、じっとスコールを見詰めている。
激情をぶつけるような激しさは感じられなかった。

 何。
なんで。
どうしたのだろう。
困惑した表情で見詰める弟の顔を、レオンはじっと見詰め返していた。
背中を撫でていた手が離れると、スコールの白い頬に触れる。
指先に髪が絡まると、レオンはそれを引っ張らないように、殊更に優しい手付きで解きながら、スコールの頬を優しく撫で、


「……良かった」


 小さな声で、レオンは呟いた。

 スコールが「え?」と首を傾げ、ぱちり、と瞬き一つした直後、確りとした腕がスコールを閉じ込める。


「良かった……お前が無事で、良かった……」
「……え……?」


 耳元で聞こえた声に、スコールは狼狽した。
幻聴か、と本気で疑いもした。
今の自分の状況も判らない。
背中に回された腕は誰のもの。
頭を撫でる手は誰のもの。
頬や首をくすぐる髪は、体に重なる温もりは、誰の───思考停止したかのように、スコールは何一つ理解する事が出来ず、固まっていた。

 濃茶色の髪を辿るように首を巡らせると、スコールの肩口に額を押し付けるレオンがいた。
レオンの肩は微かに震えている。
スコールが恐る恐る持ち上げた手で彼の身体に触れると、レオンは一瞬肩を揺らした後、一層強い力でスコールを抱き締めた。


「レ、レオン……あんた、一体……」


 嘗て見た事のないような兄の態度に、スコールの困惑は更に深まる。
父がもう直ぐ来るから、"弟の想いの兄"を演じているのか。
だが、父は今この場にいないし、此処までする必要はない筈だ。

 当惑するスコールを余所に、レオンはそっと体を放すと、スコールの胸に手を当てた。
触れた瞬間、どくん、とスコールの心臓の鼓動が大きく跳ねる。
緊張を表すように煩く逸る鼓動を気付かれたくなくて、早く手を離してくれ、とスコールは思った。
しかし、レオンはじっとそのままで鼓動を感じ続けた後、またスコールの体を抱き締める。


「……生きてるんだな……」


 囁かれた言葉に、スコールは俯いた。


「……そうだな」
「……良かった……」
「……良かった、のか……?」


 スコールが小さな声で問い返すと、レオンが顔を上げる。

 生きていて良かった────普通の家族なら、零れて当然の言葉だろう。
ラグナがスコールの無事を喜んだように。
しかしスコールは、レオンが自分の生還を心から喜んでいるとは思えなかった。
仮に喜んだとしても、それはスコールを支配し続ける為であって、家族愛ではない。

 暗い疑心に満ちたスコールの言葉を聞いたレオンは、少しの沈黙の後、笑った。
スコールが見慣れた冷たい笑みでも、友人達の前で見せていた完璧な笑みでもない、泣き出したいのを堪えているような笑顔だった。


「ああ、良かった。本当に、心からそう思っている。お前が生きていてくれて良かったと。お前を失わずに済んで、本当に良かった」


 真っ直ぐに弟を見詰めて、レオンは言った。
スコールが戸惑い、うそだ、と音なく唇が紡ぐと、レオンは小さく首を横に振る。


「嘘じゃない。生きていてくれて良かった。目を覚ましてくれて良かった。そう思っている」
「……嘘、だ」
「本当だ。本当に、嬉しいんだ。でも、お前がそんな風に思うのは、全部俺の所為なんだな」


 仕方がないよな、と言って、レオンは俯く。


「お前に酷い事をした。犯して、傷付けて、縛り付けて、酷い事ばかり言って。壊してやるって言ったな。俺も本気だった。本気で、お前の全部を壊そうとしていた」


 レオンの声は小さなもので、独り言のようだった。
蒼灰色はスコールを見る事もなく、滔々と言葉は続く。


「お前に嫌われるのも、憎まれるのも、殺されたって仕方がないと思っている。お前にはその権利もある。それだけ酷い事を、俺はお前にしていたんだから」
「だったら、なんで……」


 スコールがぶつけられていたレオンの激情は、嘘偽りのものではない。
本気でスコールを憎み、壊したいと思っていなければ、あれだけの狂気に走る事は出来なかっただろう。

 それ程の憎悪を向けた相手が、生死の間を彷徨って、生き延びた事を、果たして喜ぶ事が出来るだろうか。
スコールは、頭の中で兄弟の立場を入れ替えて考えてみる。
絶対に無理だ、と思った。

 なんで、と問うスコールに、レオンはこれも小さな声で言った。


「思い出したんだ」
「……思い出した…? 何を……?」
「俺達が、子供の頃の事だ」


 レオンの答えに、スコールは自分の鼓動が跳ねたのを感じた。

 子供の頃───まだレオンとスコールが、ごく普通の兄弟として、一緒に過ごしていた頃の記憶。
小学生のレオンと、物心ついて間もない時のスコール。
お互いが唯一無二の存在で、レオンがいればスコールは怖い事など何もなかったし、レオンはスコールの笑った顔が何よりの宝物だった。

 兄弟は、お互いの信頼関係が壊れる日が来るなど、思ってもいなかった。
父がいて、父の友人達がいて、兄がいて弟がいて、幸せだった。
その幸せが、永遠に続くのだと信じていた頃の、記憶。


「お前と離れる前にどんな風に過ごしていたのか、どうして離れなくちゃ行けなかったのか、全部思い出した。不思議だな。なんであんな出来事を丸ごと忘れていたのか、今考えると不思議なんだ。思い出したくないって思う位、辛くて窮屈で仕方がなかったのに、それも忘れていた。その前に、お前と一緒にどんな日々を過ごしていたのかも、忘れていた。あれは大事な記憶だった筈なのに」


 何が原因で兄弟が離れ離れになったのか、何を切っ掛けに大切だった筈の弟を守る事を止めたのか。
レオンは、全て思い出したのだと言う。


「お前と離れ離れになった時は、お前に逢いたい一心で、あの教育係の言う事を聞いた。そうすれば、お前に逢わせてくれると言われた。でも、逢えなかった。それも忘れていた。お前は、俺がいなくても、学校に行って、友達を見つけて、何処か遠くで楽しい思いをしてると思っていた。手紙を読む度にそう思うようになって、腹が立って仕方がなかった。俺がこんなに苦しい思いをしてるのに、お前は何も知らずに笑っているんだと思うと、駄目だった」


 レオンの言葉に、スコールは息を飲んだ。
記憶の泉が波紋を作って広がり、レオンの言葉に呼応するように、幼い日の記憶を呼び覚まして行く。

 違う、とスコールは小さく呟いた。
レオンが顔を上げる。
透明な滴に濡れた蒼色が重なり合った。


「違う。あんな手紙、違う。あんたに書いた手紙、あんなの全部嘘だった」
「……嘘……」


 レオンが小さく反芻する。
スコールは頷いた。


「小学校、楽しくなかった。ずっと苛められてた。あんたに逢えなくて寂しかった。でも、それを書いたら、あいつが駄目だって破り捨てた。楽しい事だけ書けって。逢いたいとか寂しいとか、あんたの勉強の邪魔になるから、心配させるような事は書くなって。だから、本当の事なんて殆ど何も書いてなかった。こういう風に書けって言われて、書かないとあんたに手紙も渡さないって言うから、そのまま書いてた。それだけだ。あんなの、全部嘘なんだ」


 自分自身で、思い出さないように蓋の中に閉じ込め、誰にも打ち明ける事のないように、忘れたふりをしていた記憶だった。
それを初めて自分の口で吐き出すと、当時耐え続けていた感情が一気に溢れ出して来て、スコールの眦からは大きな涙が溢れ出していた。

 レオンもまた、弟の口から真実を聞いて、言葉を失った。
元気に、自由に生きている証左とばかり思い込んでいた弟からの手紙は、他人の手によって都合良く作り変えられた偽物だった。
レオンの心の安定を壊したのは、弟からの手紙だったと言って良い。
それが全くの偽物だった上に、それを真実だと思い込んで、自分が一方的に弟を妬み、憎んでいたのだと知って、絶句する。

 スコールの伸ばした手が、レオンの肩を掴んだ。
ベッドから乗り出して兄に腕を伸ばすスコールを、レオンが慌てて支えようと腕を伸ばす。
互いの体を掴まえるようにして、レオンはスコールに縋り、スコールはレオンを抱き締める。


「寂しかった。悲しかった。あんたに逢いたかった。あんたが海外の大学に入学したって、あの家を出たって聞いて、捨てられたんだと思った。帰って来て欲しかった。でも、帰って来てくれなかったから、あんたは俺を嫌いになって捨てたんだって思った」
「……スコール、」
「でも、俺も忘れてた。あんたに逢いたかったって事も、あんなに一杯手紙を書いた事も、忘れてた。あんたが使ってた本、全部俺の宝物だったのに」
「スコー、ル……」
「なんで忘れたんだろう……あんなに、あんたの事、好きだったのに……」


 涙腺が壊れたように、スコールの頬にはぽろぽろと大粒の涙が零れていた。
レオンはそんなスコールを強く抱き締める。
幼い頃、不安に苛まれては泣きじゃくっていた幼い弟を慰めていた時のように、守るように抱き締めて包み込む。


「もう、いい。スコール。ごめん。ごめんな……」


 ぎゅう、とスコールを閉じ込めるレオンの腕に力が篭る。
今までも同じように強い力で抱かれた事はあったけれど、その度、スコールは恐怖を感じていた。
しかし今は、恐れるものなど何もなく、触れ合う場所から伝わる体温が、愛しくて堪らない。


「ずっと辛いを思いさせて、それなのに、あんなに酷い事して。恨んでるよな。すまなかった。謝って済む事じゃないけど、でも……すまなかった。悪かった」
「……いい。もう、いい、レオン……もう良いから……」


 繰り返し謝るレオンが泣いている事に、スコールは気付いていた。
病衣の肩にじんわりと熱いものが滲んで行くのが判る。
貰われるように、スコールの涙も後から後から溢れ出す。

 謝罪の言葉は、もう要らなかった。
レオンとスコールを縛り続けていた憎しみの鎖が解けて行く。
嬉しい筈なのに、スコールは寂しさを感じていた。

 初めてレオンに組み敷かれ、犯された時、スコールはレオンを憎んだ。
殺してやる、と言った。
何度も繰り返される凌辱に、男としての矜持まで奪われて、復讐する気力さえも奪われた。
壊してやると言ったレオンの言葉を、心から恐れた。
だが、それも全て過去の事で、今のスコールは、どんな理由であれ、レオンに求められていたいと思う。
憎悪の感情でも良いから、自分と言う人間を見ていて欲しいと思う。


(馬鹿な事考えるなよ)


 自分を抱き締めてくれる温もりを感じながら、スコールは一人ごちた。

 置き去りにしていた過去を取り戻して、兄は自分を赦してくれた。
嘘偽りで塗り固められた"理想"が剥がれ落ちて、ようやく普通に向かい合う事が出来た。
それで十分じゃないか、とスコールは思う。
互いの存在を感知しないように過ごすような、支配して支配されて怯えて過ごすような、そんな日々がこれで終わるのだ。
これ以上、一体何を望むと言うのだろう。

 ───判っている筈なのに、心は浅ましくも、もっと欲しいと望んでいる。
抱き締める腕が、触れる温もりが、鼓動が、このまま離れないで欲しいと思っている。


「───……スコール」


 呼ぶ声に、スコールは顔を上げた。
涙で視界がぼやけている。
どうやって涙を止めれば良いのか判らずにいると、レオンの指がそっと目許を拭いてくれた。

 ベッドから落ち掛けていた体を戻されて、レオンの体が離れる。
嫌だ、と思うと同時に、スコールはレオンの手を捉まえていた。
レオンはそんな弟の手を見て、小さく笑みを浮かべる。


「スコール」


 もう一度、レオンはスコールの名を呼んだ。
大きな両手がスコールの両頬を包む。
ゆっくりとレオンの顔が近付いて来るのを、スコールは見詰めていた。

 視界が蒼で一杯に埋まって、息が出来なくなった。
柔らかなものが唇に押し当てられていて、何、とスコールは口を開ける。
微かな隙間を逃さずに、温かいものが口の中に滑り込んで来て、びくっとスコールの肩が跳ねた。
思わず頭を振ろうとしたが、頬に添えられた手が許してくれない。


「ん、ふ……っ、…ふぁっ……」


 口の中が熱くて溶けそうだった。
弾力のあるものに歯列をなぞられ、舌を捉えられ、絡められる。


「あ、ふ……んんっ……」


 何が起きているのか、どうすれば良いのか判らなくて、スコールはされるがままになっていた。
時折、ぞくん、ぞくん、としたものが背中を奔り、その度にスコールの体が震えた。

 スコールの顔が、息苦しさで徐々に赤らんで行く。
訳も判らず助けを求めて、スコールの手が頬に添えられたレオンの手に重ねられる。
眼前の蒼は、その様子をじっと具に、愛おしそうに見詰めていた。


「ふあ……っ」


 酸欠になりそうだ、と思った矢先、ようやく呼吸が解放される。
はふ、はふ、と喘ぐように酸素を求めて息をするスコール。
レオンは、その濡れた唇をじっと見詰め、


「初めて、だったか?」


 問うレオンの言葉に、スコールは息苦しさに閉じていた目を開ける。
そうして、濡れたレオンの唇と、自分の唇に残る柔らかな感触に気付く。


(────今の)


 キス、された───ようやく気付いたスコールの顔に、一瞬で朱が上る。
その反応を見て、レオンがくすりと小さく笑い、


「……嫌だったか?」


 眉尻を下げて寂しげに微笑むレオンを、スコールは黙ったままで見詰めていた。

 レオンはそっとスコールの頬を撫でて、言った。


「嫌なら、嫌だと言っていい。怒ったりしない。俺を詰ったって良い。俺はそれ位の事をお前にしている。昔の事を思い出したからって、今までの事が帳消しになる訳じゃない。お前を傷付けたのは、他でもない事実なんだ。だから、お前が俺を嫌いになったのなら、もうこんな事をされたくないなら、はっきり言ってくれ。そうすれば、もうお前にこんな事はしないから。二度と、お前を傷付けたりしないから」


 スコールを見詰める蒼灰色の瞳は、優しく、柔らかく、慈愛にも似た光を湛えていた。
幼い頃にスコールがいつも見ていた、優しい兄の表情だ。
しかし、その光の奥底に、"兄"とは違う感情が宿っているのも感じ取る。

 ヴァンやジタンの家族の話を聞く度に、彼等のようなごく普通の"兄弟"になれたら、と密かに憧れていた。
嘘で塗り固めた偽りの"理想"などではなく、思い合う事もあれば喧嘩もする、仲直りもする、そんな普通の兄弟でいられたら、どんなに嬉しかっただろうと思っていた。

 だが、今のスコールには、目の前の男を拒む事は考えられなかった。


「……嫌じゃ、ない」


 小さな声で呟くと、レオンが微かに目を瞠る。
それから、本当に、と問い掛けが返って来て、スコールははっきりと頷いて見せた。


「───そうか。良かった」


 赤い貌をしたスコールを抱き締めて、レオンは言った。
レオンの胸に顔を埋めたスコールは、耳元でとくとくと鼓動が早鐘を打っている事に気付く。

 ……そう言えば、キスをされたのは初めてだ。
気付いた瞬間、スコールは自分の耳が熱くなるのを感じた。

 解けようとしていた糸が、もう一度絡み合って行く。
今触れている優しくて熱い温もりに、これからも同じように求められていたいと思う。



◇◆◇◆   ◇◆◇◆


「その後はどうだ?」


 社長室で仕事をしているレオンに対し、クラウドが前振りもなく訊ねた。
レオンはキーボードを打つ手を止め、手紙、書類の整理をしているクラウドを見遣り、


「聞きたいのか?」
「……止めた。あんたの顔だけで砂吐きそうだ」


 レオンの問い返しに、クラウドはおえ、と舌を出して言った。
失礼だな、と口で言いつつ、レオンは業務に戻る。

 パソコン横に置いていたコーヒーに口を付ける。
淹れてから随分と時間が経ったそれは、すっかり冷めていた。
淹れ直すか、と思いつつ、勿体ないのでこの一杯は飲み干してしまう事にする。

 空になったコーヒーカップを持って、給湯室に向かう。
摘出して置いていたコーヒーを温め直し、カップに注いだ。
デスクに戻って一口飲んで息抜きをしていると、クラウドがまとめた書類を揃えながら言った。


「そう言えばあんた、煙草、吸わなくなったな」
「……ああ。そうだな」


 自覚があったので、クラウドの言葉には素直に頷いた。


「前に買った分が大分余ってるんだが」
「お前にやる」
「要らない。あんたが処分してくれ。車の中に入ってるの、全部あんたのだから」


 自分の物は自分で処理しろ、と言うクラウド。
レオンは仕方がないな、と嘆息した。

 まとまった書類がレオンのデスクに置かれる。


「それで、禁煙でも始めたのか?」
「そう言うつもりもないが、結果的にはそうなってるな。もう吸うつもりもないし」
「何か心境の変化でも?」
「聞きたいか?」
「……止めとく」


 何が語られるのか、大体予想がついたらしい。
クラウドはさっさとデスクを離れ、手紙の整理を始める。
逃げたな、とレオンは思ったが、特に気を悪くする事はない。

 レオンのデスクの端に置いていた携帯電話がバイブレーションを鳴らす。
液晶画面に表示された着信相手を見て、レオンの口元に笑みが零れた。
それを見たクラウドが、呆れたように溜息を吐いたが、レオンは気に留めなかった。



†† ††   †† ††



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