夜の隙間に消える


 皇都オリフレムは、マザークリスタル・ドレイクヘッドの膝下にある。
皇都の冠を持つだけあって、ザンブレク皇国で最も栄えたこの都市は、これから起きる大事件を知らない。
その名の通り、ドラゴンかトカゲの頭に似た形に隆起したマザークリスタルは、あと数日のうちに、その運命を終える。
そう上手く行くかはさて置いて、シドはそのつもりで、この地を踏んだ。

 シドの協力者と言うのは、長い活動を続ける内に、各地で増えて行った。
此処に来るまでに通ったノースリーチ然り、ベアラーという存在をその劣悪な環境から守る、或いは救う為、密かに活動をしている者はいる。
神統政府の影響の強い皇都オリフレムにもそれは在り、シドはノースリーチの娼館を仕切るマダム・イサベルの伝手から辿り、皇都オリフレム内にある娼館へと辿り着いた。
あとは、マザークリスタルのコアがあるクリスタル神殿へと侵入するのみ。

 娼館を潜伏先として間借りし、シドは数日、皇都での情報収集を行っていた。
あまり長く滞在するメリットはないが、クリスタル神殿はマザークリスタルの下にある。
神聖な場所とされるクリスタル神殿に、一般人が簡単に近付ける筈もない為、当然ながら非正規ルートを利用しなくてはならない。
シドはその宛てが一つあったが、他に何か使える手段があるならばと、同時に街全体の警戒度を確認する為、しばしの時間を取ることにした。

 一世一代、しかしてまだ始まりにしか過ぎない作戦に、同行者は二人。
ニサ峡谷で保護した氷のドミナントであるジル・ワーリックと、伝説にない“イフリート”と言う火の召喚獣のドミナントとして目覚めたクライヴ・ロズフィールド。
いざともなれば顕現することが出来る、という強行突破の手段も含め、少数精鋭での敢行だ。
共に形は違えど、奴隷的立場にあった二人だが、揃って故郷───ジルは正確には違うそうだが───であるロザリア領で、この世界の現実を目にしてから、その瞳に光を強く抱くようになった。
そうして自分自身のやるべきこと、向き合うべき世界を知った二人の存在は、兼ねてからシドが計画していた“仕掛け”を実行するに当たり、補い切れずにいた戦力問題を解決するのに持って来いだった。
マザークリスタルが齎す恩恵と言う名の呪縛について、彼等も俄かには信じがたい様子であったが、最終的に二人はそれを信じた。
そしてシドと共に、無事にノースリーチの関所を越え、娼館で行動開始の合図を待っている。
その傍らには、主との再会を果たし、常にその隣を追う灰白狼トルガルの姿もあった。

 情報収集に有力に使えるのは、大抵酒場の類だ。
軍兵、傭兵、商人、地元の人間……雑多に人が入り交じる其処は、それらに紛れながら聞き耳を立てるのに持って来いだ。
皇都ともなればその数は山ほどあり、地域ごとに様々な噂が飛び交っている。
シドは日毎夜毎に場所を替え、各所で聞いた点の噂を繋ぎ、現在の皇都の状況と言うものを調べていた。

 遅い夕餉の格好で入った宿兼酒場で、小一時間を過ごしたシド。
ガヤガヤと騒がしさの明けない酒場を後にすると、街の各所では火が焚かれ、光のクリスタルを使った街灯が道を照らしている。
それを頼りに夜の街を巡回する兵士の数は、以前にこの地に潜入した時よりも、随分と増えていた。


(兵士たちの緊張感が高いな。単純に街の警備として考えるには不自然だ。何かしようとしているのか……)


 今現在、ヴァリスゼアは何処も物騒だ。
風の大陸、灰の大陸ともに、黒の一帯が拡がっており、生命が生きていける場所が狭まれていく。
各国が豊富な資源を求めて領土拡大を画策するのも当然のことで、他国が擁するマザークリスタルのある地を狙っている。
つい先日の、鉄王国とダルメキア共和国軍の衝突も、鉄王国が自国の領土拡大の為に仕掛けたものだ。
大陸の半分が黒の一帯に飲まれたウォールード王国も、折々に海を越えて出兵している。
そのウォールード王国と、ザンブレク皇国とがつい最近激突し、双方の召喚獣が最前線でぶつかり合ったとも聞く。
十三年前、ロザリア公国が攻め落とされ、風の大陸の主権国家同士の不可侵を条約とする三国同盟も破棄されており、今再びザンブレク皇国が大々的に動き出したとしても、可笑しくはなかった。

 なんとも不穏な話ではあるが、シドにとっては都合が良い。
ザンブレク軍や、国の頭である神統政府の意識が外に向いているのなら、その足元の警戒は緩まるだろう。
とは言え、街中で見る兵士の数を見れば、その周辺で下手な動きをした瞬間、お縄につくことになる。


(やっぱりあのルートが安牌だな。例の穴が埋まってなければ、坑道から直で行ける。使えなくなってたら────掘るしかないか)


 以前、ドレイクヘッドの足元にあるクリスタル神殿まで侵入した時のこと。
その手前まで辿り着けたのは良かったが、運悪くバハムートのドミナントと鉢合わせする羽目になった。
全く嫌な思い出だが、その出来事のお陰で、今回の侵入ルートとして出番が回って来るとは、分からないものだ。


(となると、明日は坑道の警備を確認したい所だな。ま、それも正面から行く訳でなし。道筋の確認はしておかないと、迷えば時間のロスだ)


 その辺りの情報が得られそうな場所は────明日の予定を頭に描きつつ、シドは娼館の裏口を潜った。

 皇都オリフレムに構えられた娼館は、中々立派なものだ。
金払いの良い貴族も多いだろうし、軍兵や商人は勿論、政治に身を置く者もお忍びに来るから、上手くやれば相当持って行ける。
同時に、それらを客として満足させる為、準備するものも相応に金がかかるものだが。

 今日も客は多いようで、建物内の其処此処で楽しんでいる声が聞こえる。
そう言えばご無沙汰だと思わないでもなかったが、生憎と今回は羽根を伸ばすつもりで来ていない。
何より、一人じゃないしな、と言う事情もあって、迂闊なことをして同行者の顰蹙を買うのは避けることにした。

 明日も忙しい。
借りている部屋に戻ったら、さっさと眠ってしまおうと、階段を登り切った所で、シドは足を止める。
通路の一番向こう、行き止まりにある窓辺に、一人の男が佇んでいる。
嘗ての知己の下、譲り受けたと言う黒衣の装束を脱ぎ、簡素な服装の後姿だが、シドはすぐにそれが同行者の片割れ───クライヴであると気付いた。

 クライヴもジルも、作戦開始までの潜伏先が娼館であると知って、言葉を失っていた。
それも中々に栄えた所だから、あちこちから漏れ聞こえる声に、揃って時折挙動不審になっている。
その様子に初心い若さをこっそりと感じつつ、しかし都合の良い場所であるから、我慢して貰う他なかった。
二人も特に文句を言ってくる訳でもなく、止むを得ないことは分かっているようだ。

 そんな二人だが、シドは情報収集の効率を上げる為、ジルと共に出掛けることはあるものの、クライヴは殆ど待機となっていた。
ベアラーの刻印がある彼は、単独で情報収集をする事が難しい。
ジルの情報収集に、護衛役として同行することもあるが、シドは彼女には、女性でなければ入れない場所での調査を頼むようにしていた。
また、ザンブレク皇国はベアラーに対する露骨な嫌悪の目も少なくない為、トラブルの懸念や、悪目立ちさせない為に、待機させる事が増えている。
代わりに、どうやら彼は存外と娼婦たちに人気があるようで、彼女たちが客から聞いた噂話がぽつぽつと齎されるらしい。
それはそれで有益な情報になるので、貰える話はくまなく聞いておいてくれ、と伝えてある。

 シドは、じっと窓の向こうを見つめている背に近付いた。
足音を隠さずに行けば、一行が借りた部屋のドアを通り過ぎた所で、クライヴが振り返る。


「……戻っていたのか」
「ああ、ついさっきな」


 シドは懐から煙草を取り出し、口に咥えて言った。

 隣に並んでみると、窓の向こうには、大きな路地と行き交う人の姿が見える。
巡回する兵士や、それに声をかける娼婦の様子が見え、太客の来訪に分かり易く喜んで見せる声も聞こえた。
街はすっかり夜の顔だ。
よくある光景と言えばそうで、然程面白いものが見える訳でもなかったが、佇む男にとっては、こんなにも間近で都市の様子を見たのは久しぶりだったかも知れない。
そう思って、


「でかい街は久しぶりか、クライヴ」


  訊ねて見ると、クライヴはゆっくりとシドを見た。

 十三年間、復讐を糧に生きて来た男は、口数が多くはない。
性格としてもそれはあるが、人の交流を嫌っていると言うより、心を許せる相手が長くいなかったことによる、コミュニケーション能力の発育不良が大きいだろう。
奴隷として主人の許可なく口を利くことも出来ないベアラーには、珍しいことではないと、シドは知っている。
しかし、彼がベアラーになったのは十五の時。
それまでは人として、王子として過ごし、身を落としてからは兵士として生きられる程度の自己意識はあるので、少し待ってやれば、言葉を探してなんとか喋り出すことが出来る。
作戦開始前、ジルと二人でロザリア領に赴いたこともあり、シドが拾ったばかりの頃に比べると、案外と流暢になる事も増えていた。

 だが、やはりまだ精神の状態が健全とは言い難い所もある。
ふとした折、不安定な揺れがその瞳に映ることがあった。
そう言う時の彼との会話は、一つ一つに間がある事を理解して接するのが良い。

 今回もまた、クライヴは頭の中で言葉を探している。
瞳が彷徨い、少し頭が揺れているのは、そう言う時だ。
シドは腰に結んだ小袋からクリスタルを取り出して、煙草に火を点ける。
一息、煙を吸い込んで、夜の空へと吐き出した所で、クライヴが口を開いた。


「一年前に、来た覚えはある。任務の隙間に、偶々。直ぐに次の命令があったから、一日もなかったが……」
「じゃあ、こんな景色を見るのは初めてか」
「……そうだな。こんなに大きな娼館があるのも知らなかったし、高い所から街を見るのも……ただ眺めるのも、初めてかも知れない。大きな都市に近付くなんて、精々、ダルメキアで斥候に行った時くらいだった」


 ベアラー兵の命は軽い。
片道切符が約束されたような任務を渡され、成功すれば明日まで寿命が延び、失敗すれば終わりの使い捨て。
危険な任務が一つ終われば、すぐに次の命令が届けられ、死ぬまでその繰り返しだ。

 この大陸は今、何処も戦禍の匂いが絶えないが、皇都オリフレムそのものは平穏だ。
戦場で常に使い減らされるベアラー兵が、こうしてゆったりと街を見下ろす事は、まずあるまい。

 シドは煙を吐き出して、


「今日も待機で暇だったろ。明日は出てみるか?大して面白い所に行く予定もないが、同じ景色を見ているだけってのは飽きるだろう。人前で気軽には喋り難いだろうが、俺かジルがいれば、下手なものに絡まれることもない」


 十三年間、止まっていた時間が動き出してから、クライヴの瞳には活力が宿りつつある。
とは言え、人生の半分を泥底で過ごし、つい最近そこからやっと這い上がって来たばかりだから、この男には、まだまだ色々な刺激が必要なのだ。

 だが、クライヴは平時の様子に置いて、まだ積極性に欠ける。
シドは拾った責任と、今後はもっと自立して貰う為、シドなりに手を尽くしてやるつもりがあった。
が────

「……いや、良い。何度か出て分かったが、此処で印持ちは目立つ。あんたも俺を連れては面倒が増えるだろう」
「そう思ってりゃわざわざ誘わんさ」
「……遠慮しておく。それに、俺はそもそも脱走兵だ。顔を知ってる奴に遭ったら、作戦どころじゃなくなる」
「ああ───そういやそうだったか。悪いな、考えが足りなかった」
「いや……」


 外出の誘いを断る理由を述べるクライヴに、シドは詫びる。
シドのその言葉に、クライヴは少し戸惑うように、小さく首を横に振った。

 ザンブレク軍に籍を置くベアラー兵が、皇都オリフレムに近付くことはそう多くはないだろうが、皆無でもない。
十三年も兵役に就いていれば、ベアラー兵でも正規軍でも、顔を覚えている者の一人や二人はあるかも知れない。
氷のドミナントの暗殺任務が中途で投げ出されたことは、あの時クライヴと共にいたベアラー兵くらいしか知らないし、それもクライヴが斬った訳だから伝令に行く者もいない。
あれきり、氷のドミナントが戦場に出て来ないことを鑑みて、暗殺任務そのものは成功したと思われている可能性もある。
ならば、ジルもクライヴも生きていることは、ザンブレク軍に漏れない方が良い。

 クライヴは窓辺の縁に寄り掛かって、じっと夜の皇都を見つめている。
その口元が何か気まずそうに噛んでいるのを見付けて、シドは眉根を寄せた。


「クラ────」
「あぁあ……!」


 青年の名を呼ぼうとしたシドを遮ったのは、同じ階にある部屋から聞こえた声だった。
明らかな艶を含んだ声に、タイミングの悪い、とシドは吐き出す煙で溜息を誤魔化す。


(仕方のないモンではあるんだが……)


 此処は娼館だ。
身を置いている者も、やって来る客も、そう言うことをする場所だと分かっている。
場所を借りながら、色事にうつつを抜かしていない一行の方が、聊か浮いているのは確かだ。

 シドがちらとクライヴを見れば、彼は俯いていた。
大して手入れもされることもなかったのだろう、癖のついた黒髪の隙間から覗く項が、じっとりと汗を掻いている。
床を踏む足元が、コツ、コツ、と爪先を鳴らし、窓に寄り掛かる背中が少し小さく丸くなって見えた。

 シドはその様子を見つめた後、


「クライヴ」
「……なんだ」
「別に構わないぞ、行ってきても。明日もまだ動く予定じゃないからな」


 シドがそう言うと、クライヴは眉根を潜めて此方を見た。
何を言っているのだろう、と言いたげな表情に、伝わらなかったかとシドは首を捻る。

 シドは、今正に盛り上がっている様子の部屋を、煙草を持った手で指した。


「男だからな、溜まるモンは溜まる。堪えても大して良い事もない。行ってくりゃ良い。こう言う場所だ、宛てはある。金も、まぁ良い額とは言えんが、一晩分くらいは問題ない」
「……あんたの懐を宛てにしているような言い方は止めてくれ」
「そりゃ悪かった。手持ちがあるならそれで良い。遊び惚ける余裕はないが、目的以外に行動するなって言うつもりもないし、こう言う場所にいれば当てられる事もあるからな。明日動くって時に不調になる前に、済ませておいた方が良いぞ」


 拾ってからの紆余曲折で、短い期間ではあるが、この男の根が真面目なことはよく分かっていた。
シドもジルも、外で情報収集に励んでいるのに、やむを得ない待機とは言え、自分だけがこの娼館でじっと待つしかない事に、幾らかの罪悪感を抱くのも無理はない。
それに加えて、女を買うなど───もっと言えば、明らかに気もあるであろう異性が傍にいるのに───、と自制を強く働かせるのも、想像に難くなかった。

 しかし、当てられているのに耐え続けるのも、男は中々難儀なものである。
あまりに酷くなると眠ることも出来なくなるし、集中力も削がれるしで、今後の作戦に障害が出る。
生真面目な気質に引っ掛かることは多いだろうが、出して済ませられるならその方が良い。

 割り切ることも大事だと言うシドに、クライヴは気まずい表情を浮かべて視線を逸らす。
なんとも言い難い表情のクライヴに、さて勝手に宛がってしまっても良いものかと、少々デリケートな所をどうするかシドが考えていると、


「……その……」
「ん?」


 ぽつりと零れた声に、シドは返事をした。
聞いていると示すと、クライヴは落ち着きなく視線を彷徨わせながら、小さな声で続ける。


「……当てられたのは、否定しない。でも、女を買う気には……なれない」
「お前がベアラーってことを気にする奴は、いないとは言わんが、そうでない娼婦も此処にはいる。金さえ出せばな」
「………」
「じゃあ一人で抜くか?」
「それは、……出来るなら、してしまいたいのはあるが……部屋にはジルもいるし、流石に」


 それはそうだと、シドは眉尻を下げて苦笑する。
とかく彼女を汚すような真似はしたくない、と言うクライヴに、シドは別案を出す。


「適当に何処かの部屋だけ借りても良いぞ」
「……」


 一番無難な選択肢だとシドは思うのだが、クライヴの反応は鈍かった。
じっと床を見つめるクライヴは、両手を固く握り締め、何か強い葛藤の中にいる。
その葛藤に踏み込んで良いものか、シドは図り兼ねていた。

 もう一人にしておいてやった方が良いか。
酷く気まずい表情を浮かべているクライヴに、あまり突くのも良くないと、シドが方向転換しようとした時だった。


「……やり方が……分からない」
「セックスか?まあ、そんな客を気に入る女もいるから───」
「……それもあるし……自分でするのも……」


 消え入りそうに告げられた言葉に、シドの顔が不自然に固まる。
シドが煙草を持った手を口元にやり、今の言葉を頭の中で数回反芻していると、更にクライヴは言った。


「……いつも俺がだったんだ。奴等は自分勝手に触ってくるし、後ろばかり触られていたから、そっちじゃないと、もう……イけなくて。でも自分でそれをした事は……なかったから……」
「………そう言う事か」


 消え入りそうな小さな声に、シドもようやく理解することが出来た。

 ほぼ男所帯である軍内で、同性でセックスをするのは、高らかに言うものではないが、決して珍しい話でもない。
戦場で滾る血、己が種を残そうとする本能を、女日照りで持て余し続けている内に、躾の悪い者が、手近な所で済ませてしまえと、手を出す輩は存在する。
女を買うことも出来ないベアラー兵も、近くの有り物で済ませようとする者がいるだろう。
相手が同じベアラーなら、問題になる事もない。
その中でも年若い者や、見目の良い者は、格好の餌食だった。

 クライヴの顔立ちは、整ったものだ。
長い泥沼の生活で荒んだか、元々あまり興味がないのか、身嗜みを丁寧に整えることはあまりないが、荒くれ者の顔はしていない。
娼婦たちがその見た目を気に入って、ベアラーである事に気付かなければ声をかけて来る位には、上物だ。
歳を重ねた今でもそういった印象を感じさせるのだから、体付きが発展途上だった頃など、餓えた獣の中に放り込まれた兎も同然だろう。

 クライヴは犯されたのだ。
今の話からして、それも一度や二度ではない。
その体が、男としてはまず簡単には辿り着かない所まで変容される程、それは繰り返されていた。

 聞かなくて良い事を聞いたと、シドは頭が痛くなった。
クライヴもまた、他人に知られたくもないことを言わされたと思っているだろう。
シドは眉間に寄る皺を手で隠すが、どんな表情が出ているのかは、クライヴにも見えている筈だ。


「……悪いな。嫌なことを思い出させた」
「……いや。俺の方こそ悪かった。こんな話をされたって、あんたも困るだけだろう」


 詫びに対し、首を横に振るクライヴに、シドは益々気まずいものを感じる。
自分が下手な突き方をしなければ、クライヴは恥辱の経験を話す必要もなかったのだ。
青年の横顔に、明らかな諦念が混じっているのが、またシドの胸に嫌な感覚を齎していた。

 クライヴはまた窓の向こうへと視線を戻した。
体ごとシドに背を向けて、此処で彼を最初に見付けた時と同じ姿勢になる。


「落ち着いたら、ちゃんと部屋に戻る。あんたは先に休めばいい」


 そう言って、一人夜風に当たり続けるのが、今のクライヴに出来る、精一杯なのかも知れない。

 これ以上、シドが此処にいても、お互いに気まずくなるだけだ。
シドは明日に備えて立ち去り、クライヴは彼の言う通り、落ち着くまで一人にさせた方が良い。
嫌な事まで思い出させたのに、これ以上余計な世話を焼くものではない。

 シドは頭を掻いて、踵を返した。
直ぐ其処にある部屋に入り、ベッドに入ってしまうのが、一番賢い。
そっとしておいてくれと言う人間は、死の望みでも持っていない限り、その言葉通りにしてやるのが良いだろう。
だが、ちらと肩越しに振り返ってみれば、クライヴは背を縮こまらせているばかりだった。
海が近い所為か、吹く風には潮と冷気が混じっており、長く当たっていれば体が冷えてしまうのは明らかだ。

 過ぎるのは、拾ったと言う責任感か、これからの作戦の途への憂慮か。
いずれにせよ、体躯の割に小さく見える背中を放っておくことは、どうにも難しかった。


「………はあ……」


 分かり易く漏れた溜息は、窓辺の青年に聞こえたかも知れない。
しかしシドはそれを深くは気に留めないようにして、通路を戻って階段を下りていく。
娼婦たちがそれぞれに客を射止める準備をしている傍ら、薬や香の在庫を確認している手代の男を捕まえる。


「おい。今晩、空いてる部屋はあるか」
「あんたか。部屋だけか?」
「ああ」


 シドが頷くと、手代の男はチッと小さく舌打ちした。
この娼館の娘を一晩買ってくれるなら、売り上げになるのにと思ったのだろう。
無視してシドが待っていると、


「三階の奥だ。青い布の扉。お代はこれ」
「はいよ」


 男が示した指の本数に合わせ、シドは腰の小袋から代金を手渡した。
「ごゆっくり」と棒読みして、手代の男は元の仕事に戻る。

 シドが煙草を消し、二階へと戻ると、窓辺の青年は変わらず其処にいた。


「クライヴ。来い」
「っシド?」


 ぐっとその腕を掴んで、シドはクライヴを窓辺から離した。
潜伏先として借りている部屋も過ぎ、階段を上がって行くシドに、クライヴは目を丸くしたまま、覚束ない足取りで着いて行く。

 三階の通路に等間隔に並んだ扉の幾つかから、今正にと言う声が聞こえていた。
その一番奥に、手代が言っていた青い布がかけられた扉がある。
静かなそれを開けてみると、其処には小さな窓に、その横に小さな灯りの蝋燭が一つ、簡素なベッドが一つ。
シドはそのベッドにクライヴを座らせて、ようやく掴んでいた腕を放した。


「……シド?」


 困惑と不安の混じった目が見上げて来る。
先の話と、娼館の一部屋と言う状況と、何をする場所か分かっている青年は、見るからに怯えを見せる様子こそなかったが、まさか───と考えているのはよく分かった。
その誤解だけは、先に解いておかなくてはいけない。


「クライヴ。別に取って食おうってんじゃない。俺にそう言う趣味はないからな」
「……」


 クライヴの前に屈み、ベッドに座っている彼を見上げる位置から目線を合わせて、シドは言った。
しかし、恐らくはそう言っておいて無体を強いる連中も見てきたのだろう、クライヴの目はシドを疑っている。
それは無理もない事だから、シドは咎めなかった。


「まず、あんな所にいつまでも突っ立ってりゃ、その内体調を崩す。部屋に戻るのが気まずいのは分かるが、もうちょっと自分を労われ。大事な作戦の前なんだから、特にな」
「……そう、だな……すまない」
「素直で宜しい。この部屋を一晩借りたから、落ち着くまで過ごしたいなら、今日は此処にいろ。ベッドも好きに使って問題ない」
「……ああ」


 きし、とベッドの木枠が小さく音を鳴らした。
ベッドは分かり易く安物だったが、シーツもあるし、寝て休むならこれでも十分だろう。

 さて、とシドは深く息を吐く。
クライヴの視線が、じっとシドの頭頂部を見つめているのが分かった。
ベッドに乗せたクライヴの手のひらが、小さく震えるのを隠すように、薄いシーツを握り締めている。
恐らくは、此処でシドは部屋を出て行くのが良いのだろう───とは思うのだが、それでは根本的な解決にはなりそうにない。


「クライヴ。回りくどいのは、面倒になるだけだからな。はっきり聞くぞ」
「………」


 クライヴからの返答はない。
シドが顔を上げて見れば、あの諦念と陰の混じった瞳が、じっとシドを見下ろしていた。
それを真正面から受け止めて、


「お前、自分でやり方が分からないのは、本当だな?」
「………」


 シドの問いに、クライヴは沈黙したままだ。
俯いた青年の唇が、その中で歯を噛み、瞳が今にも泣き出しそうに揺れている。
存外と子供のような顔をしている、とシドは思った。

 クライヴが自慰のやり方が分からないと言うのは、彼がされてきた事を思えば、無理もないのかも知れない。
望まざるして身を落としただけでなく、其処で男としての矜持も砕かれたのなら、そう言った行為そのものを嫌悪するようにもなるだろう。
性的刺激と言うのは、快楽を伴うこともあれば、苦痛になることもある。
それを何度も、無理やり経験させられたのなら、自らをその手で触ることにも、恐怖めいた感情が湧き上がっても無理はない。
その結果として、出来ない、やり方が分からない、と思うこともある筈だ。

 その反面、クライヴはこの娼館で過ごす中で、幾度も聞こえる艶の声に当てられている。
興奮している訳ではないようだが、記憶がその感覚のトリガーとなって、彼の体が心に反して反応しているようだった。
実際、クライヴの中心部は聊か窮屈になっているようで、窓辺で落ち着きなく過ごしていたのもその所為だろう。
早く収まってくれ、とただただ時間の薬が効くのを待っていたのだろうが、大した効果はなかったようだ。

 シドはクライヴの顔を真っ直ぐに見て、言った。


「このままが辛いなら、俺がお前にしてやる」
「……え?」


 黒の瞳が、俄かに丸く見開かれる。
再び浮かぶ混乱と不安の傍ら、シドが手よりも先に口でそれを告げた事に、信じられない、と言う表情を浮かべている。

 シドは何度目かの息を吐いて、


「男相手にやった事がある訳じゃないが、まあ、それ自体は出来んことはないだろう。多分な。だが、俺はお前に無理強いする気は毛頭ない。嫌なら俺は部屋を出る。お前は此処で寝ると良い」
「……」
「お前が選べ、クライヴ。選択権は、お前にある」


 これまでとは違うのだと言う事を、シドははっきりと口にして言った。
幼い色を宿した瞳が見開かれ、目の前にいる壮年の男を、じっと見つめる。