沼底の呼吸


 保護したばかりのベアラーが酷く不安定である事は、珍しくない。
酷い主が持っていたベアラーであれば尚更、それから解放されて尚、所持されていた頃の体験がトラウマのように刻まれているものだ。
口を利く事を許されない、反抗など以ての外、家具よりも更に下の扱いを受け、“生きているもの”であるとすら認識されない。
馬車馬よりも過酷な労働を強いられながら、食べ物も着る物も、真っ当な寝床など与えられる筈もなく、夏も冬も関係なく使われる。
それで人は何も思わないのだ。
あれはベアラーなのだから、それで当然だと。
そんな風に使われ、死なない程度に生かされてきて、突然自由になったからとて、手放しで喜べる筈もない。
彼等は、喜びと言う感情を知る事すら、許されていなかったのだから。

 主がなんらかの身の危険を理由に、ベアラーを囮にして自らは逃げ果せることも多い。
野に棲むビッグホーンやクァールのような大型の魔物、魔獣は、人を襲う事も多く、行商人やその護衛をする傭兵にとっては、面倒な相手だった。
更に面倒なのはゴブリン族のような蛮族の類で、あれらは知性を持っているが、人とは全く分かり合えない生物である。
徒党を組んで襲ってくるそれらは、時にはキャラバンのような団体すらも狙い、数体が暴れ回り人の気を引いている内に、数体が荷物をこっそりと掠め取って行くような悪知恵も働かせる。
己の実力に自信を持っている、特別大きな個体などは、抵抗する人間を枝木のように殴り払い、荷物を根こそぎ奪おうとする。
そう言う危険に遭った時に、商人や貴族は、ベアラーを前に出して肉の盾にするのだ。
碌な栄養を与えられず、過酷な環境で生きるベアラーが、蛮族に敵う訳もないのだが、主にとってそんな事はどうでも良い。
自分が生きる為に、一秒でも道具が時間を稼いでくれれば良いのだから。

 そう言う時、運良くと言ってしまうべきか、主の方が先に死ぬ場合もある。
だが、主が死んだなら逃げるチャンスだ、と思うベアラーは少なかった。
そう言う発想がそもそもないのだ。
主が死んだからと、自分に自由がやってきた訳ではなく、逆に己の行動を決定してくれる存在がいなくなった為、どうして良いか分からなくなる。
命の危機が目の前にあるのに、逃げろ、と命令する者がなければ、その場から離れようとすらしないのだ。

 それ程までに、ベアラーとは、意思を持たないものとして扱われている。

 では、ベアラー兵の場合はどうか。
彼等もまたベアラーとして、物同然として扱われる存在だが、兵士はただ命令を待つだけではいけない。
命令に従うことは勿論だが、戦場の只中で、他人の指示だけを頼りに動いていては、碌な使い物にならない。
最低限、目の前にあるものに対して、自分で考え自分で動くことが必要だった。
だからベアラー兵は比較的、己の意思と言うものが確立している者が多く、命の危機があればその場を離脱する事も考える。
ただ、彼等には“命令放棄は死罰”と言う大前提がある為、一時撤退はあっても、その身の惜しさに行方を晦ます事は滅多にない。
彼等の多くは、誰かが命令に背かないか相互監視をする環境にあり、命令違反や脱走でもしようものなら、直ぐに刃が飛ぶだろう。
なんとか監視の環境から逃げ果せたとしても、ザンブレク皇国ではベアラーの脱走兵は極刑と決まっているし、ベアラーは刻印がある故に、何処に行ってもその身分は変わらない。
主人の命令なしにパンの欠片を買うことも出来ないベアラーが、まともな環境を手に入れ、生きていける筈もないのだ。
ベアラー兵として従順に生き、命を落とすような任務をなんとか熟して行った方が、餌や寝床が得られる分、まだマシと考える者もいる。
考える意思があるからこそ、ベアラー兵はその泥沼の底辺に居続ける事を選ぶのだ。

 その傍ら、ベアラー兵もまた、命令失くして行動できない程に、その心身を侵食されている者も少なくない。
彼等は過酷な訓練を強いられ、命を捨てる任務を背負わされる、その繰り返しだ。
今日の夜には死体になっているかも知れない任務を、毎日のように背負うなど、どんな強靭な精神力を持った人間でも、摩耗していくというもの。
それでも、命令に従わなければあるのは死罰だから、彼等は命と心を削りながら、その日一日を生き延びようとする。

 そんな極限の環境から、突然放り出されたら、どうなるだろうか。
望んで脱走し、自ら自由を手に入れたのだとしても、その瞬間に訪れるのは、果たして幸福な解放感だけだろうか。
摩耗し、罅の入った心が、簡単に安寧を手に入れることはない。
パキパキと小さな音を立てながら崩れていく心は、自由を手に入れて尚、修復するのは難しいのだから。




 オバケが出る、等と言う話を、シドは隠れ家で暮らす子供から聞いた。
魔物も出ないような黒の一帯の真ん中で、そんなものがいるかと笑い飛ばすのは簡単だったが、わざわざシドの私室にまで来て訴えた子供の表情は、真剣そのものだった。
そして恐らく、他の大人たちにも訴えた末、見間違いだと笑われて宥められたのだろう事は想像に易い。
泣き出しそうな顔で必死に訴える子供に、また此処で自分が同じ反応をする訳にはいくまいと、シドは苦笑しながら「何処で見た?俺も一度会ってみたいもんだな」と言うと、子供はようやく安心した表情を浮かべた。

 話によれば、オバケは深夜に出て来るらしい。
子供は寝ている時間だが、尿意で目を覚ました際、用を足そうと部屋を出た時に見たのだそうだ。
それは人と見れる形をしていたが、ふらりふらりと頭を揺らせており、まるで本に描かれるアンデッドのように覚束ない動き方をしていたと言う。
それは子供が寝所にしている部屋の前を通り、暗い通路を彷徨い歩いた後、広間の方へと行ってしまったそうな。

 成程、確かにオバケじみている、とシドは思った。
少なくとも、明瞭な意思を持っている人間なら、仕草としてそうないものではある気がした。

 シドは、子供が件のオバケを見た、という場所に来てみた。
広間と居住区を繋ぐ道は、この隠れ家で暮らす者が増える内に、じわじわと掘り進めて拡張している。
遺跡の土台がある所から遠くなると、崩落の危険性が高くなるので、掘る向きは慎重に選んでいた。
その通路を挟む形で空間を作り、其処を雑魚寝が出来る程度ではあるが、居住区として整えている。
用を足す場所はまた別の場所に拵えてある為、生理現象を片付けるなら、部屋を出て移動するものであった。

 訴えに来た子供が使っている部屋の前に来て、シドは広間へと向かう道を見た。
洞穴生活である為、自然光など此処にはなく、点々と灯された蝋燭が視覚の頼り。
蝋燭も油も貴重な生活をしているものだから、お世辞にも視界は明るいとは言えない。


(これだと、妙な動きをするものを見付ければ、オバケに見えなくもないかもな。そんなモンがうちにいるってだけでも、不安になる奴は多いだろうから、放っておく訳にもいかんか)


 今は目撃者が子供だけだから、他の者は皆気に留めていないが、大人が数名でも目撃すれば、もう笑い話には出来ないだろう。
シドはオバケと言うものを信じてはいないが、何かしらの不審なものがあるとは見做している。
見間違いの可能性もまだゼロではない事も含め、その正体を確かめては置きたい。
この隠れ家は、此処でしか生きられない者たちの、たった一つの拠り所なのだから。

 とは言え、何から調べたものか。
この辺りの部屋を使っている者に、何か不審な物音でも聞いていないか、確認してみようか。
そう考えていると、


「シド、丁度良い所に」


 後ろから聞こえた声にシドが振り返ると、タルヤが立っていた。
手には水桶と手拭があり、居住区の奥で寝ている者の様子を見に行ったのだろう。
一昨日から微熱を出している者がいる、と言う事は、シドも聞いていた。


「おう、診察か。ご苦労さん、どうだった」
「幸い、大したことはなかったわ。微熱以外も症状はないし、食欲もあるようだから、一日寝ていれば大丈夫だと思う。念の為、薬は渡しておいたし、きちんと飲めば問題ない位よ」
「そりゃ良かった。で、丁度良いってのは?」


 住人の健康も大事な話ではあるが、その為にタルヤが自分にわざわざ声をかける事もあるまい。
某か大病か感染症の兆しでなければ、医者でないシドが口を出す必要もない。
と言う事は、タルヤがこの遭遇に便乗して声をかけたのは、今話したものとは別の用事がある筈だ。

 うん、とタルヤは一つ頷いて、少し辺りを見回した。
人目を気にしているその様子に、住人の多い居住区は避けた方が良いかと、シドは場所を変える事にする。

 シドは私室に戻って、定位置の椅子に座った。
一度医務室へと戻ったタルヤが、手ぶらになってやって来る。
タルヤはソファへと腰を下ろし、ふうと一つ息を吐いてから、


「クライヴの事なんだけど、───シド、少し彼を注意して見ていてくれないかしら」
「クライヴを?」


 タルヤの口から出て来たのは、つい最近、成り行きから保護したベアラー兵───クライヴ・ロズフィールド。
ベネディクタとの戦いで、弟の復讐として探し求めていた“二体目の火の召喚獣”そのものに変貌した彼は、今現在、一応の落ち着きを取り戻している。
暴走状態から後、己の死を望む慟哭をシドは聞いたが、不明な点が多い事や、ニサ峡谷で保護した氷のドミナント───ジル・ワーリックが目覚めた事で、少しだけ彼の激情に水が入った。
まだ巡る思いは多いだろうが、一旦はその彷徨う矛先を納め、隠れ家でひっそりと過ごしている。

 クライヴはどうやら、知己であったジルに促され、全ての始まりの地に向かおうとしているらしい。
しかし、ジルはダルメキア軍との戦いで顕現し、大きく疲弊した後である。
目を覚ましはしたものの、タルヤは医者の観点から、直ぐに遠出をすることを強く引き留めた。
クライヴの方も、暴走状態で顕現し、シドから雷の一撃を喰らわされた事や、元より危ういその足元が、一昨日前よりも更に崩れやすい状態になっている。
明日を急ぎたい気持ちも理解はするが、医者として絶対に安易な出立許可は出せない、とタルヤはきっぱりと言った。

 シドとしては、行きたい場所があるのなら二人を止めるつもりはないのだが、タルヤの言う事は最もだ。
現在のロザリア領の状態を思えば、嘗ての故郷の地を踏んだ彼等が何を思うか、多少なりとも想像が出来たし、心身ともに休息を取らずに逸るのも良くないだろう。
少なくとも、ジルの健康状態が良しとなるまでは、二人とも療養に専念するのが無難と言えた。

 そんな二人のうちの片割れを、注視して置いて欲しいとタルヤは言う。
シドはタルヤの顔を見ながら、椅子の肘掛けに頬杖をついて、


「見る分には構わないが。何か気になることがあるのか?」
「ええ。ちょっと───うん。日中はグツの手伝いをしたり、誰かに何か頼まれものをされていたりして、落ち着いている方だとは思うんだけど」


 タルヤの言う通り、クライヴはその日その日で、誰かの手伝いをしているようだった。
働かない奴に食わせる飯はない、と言われたことを覚えているのか、それとも長年、“命令”を受け取るベアラーであったが故か。
どちらかは分からないが、彼は存外と忙しく動いているようで、隠れ家の皆からは「助かってるよ」と感謝を述べられていた。
それに対する本人の反応は、いまいち鈍い所があるが、ベアラー兵と言う環境から離れたばかりの彼であるから、隠れ家の皆もそれは理解している。

 タルヤは、そんなクライヴに、一日一度は医務室に来るように言い、ジルの介抱を続けている傍ら、彼の体の具合も確かめている。
だが、ベネディクタ───ガルーダとの戦いで負った傷の多くは、既に殆ど癒えている。
タルヤの本当の目的は、身体の状態の確認と称して、向き合う事で、彼の心の状態を確かめることだった。

 そんなタルヤから見て、日中のクライヴは、一見すると安定している。
病室にいる時、そこで一日を過ごすジルと会話をする事もあるので、それも彼の心を落ち着かせるのに一役買っているだろう。


「……でも、やっぱりまだ不安定に見えるの。昼間に忙しくしているのは、何かを考えないようにする為。そんな風に見える」
「……まあ、そういう所もあるだろう」


 クライヴの今の胸中を思えば、タルヤのその分析も当然だろう。
生きる目的を見失い、かといって自らに刃を突き立てることも許されなかった彼は、完全に路頭に迷っている。
何をすれば、何処へ向かえば良いのかも分からない。
ジルと一緒に、件の始まりであった地に行こう、と話をしてはいるものの、その出発までにまんじりともしない心を持て余すのは、無理もない。

 だからと言って、今すぐ行って良いとは、タルヤも言えない。
野に出るなら、ジルは魔物と戦える程度には回復しておかないといけないからだ。
だからクライヴには、今しばらく、この隙間の時間を耐えて貰う他ない。
───そう指示した者として、タルヤはクライヴの事も、このまま放っておいてはいけないと感じている。


「私が何かを言うよりも、貴方の方が適任だと思うのよ、シド。彼を見付けて、連れて帰って来たのも、貴方だから」
「……それは否定はしないがな」
「私も話は都度してみてはいるけど、医者だからかしら。問診をしている域を出なくって。傍にジルもいるから、彼女の眼も気にしている所はあると思う。でも、外に出て話をした所で、皆の眼と言うのも結局はあるでしょう?彼がそれを意識しているかは分からないけれど、ともかく、何処か壁を感じるのは確か。それは私相手に限ったことではないけれどね」


 今のクライヴは、誰に対しても距離がある。
迷いが常にその意識を苛んでいるから、誰か人を目の前にしても、意識がそぞろになる事が多いのだ。
隠れ家の皆はそれを理解した上で、根気良く付き合ってくれるものだが、どうしても腫物に触るようになってしまうのも否めない。
もう一歩踏み込む事が出来ないと、クライヴの状態は、ロザリア領へ出立できる所まで持ち上がらないだろう───と言うのがタルヤの見解だった。


「でも、貴方にならもう少し違うんじゃないかと思うの」
「そんなに丁寧に面倒を見た覚えはないぞ?俺は」
「貴方にとってはそうかも知れない。でも、面倒を見られた方は、そう思ってはいないと言うのは考えられるわ」


 タルヤの言葉に、シドは何とも返し難くて、肩を竦めるのが精々だった。
だが、医者としてのタルヤの頼みは勿論のこと、あの青年が未だ危うい状態である事はシドも理解している。
何をするにも、彼を現状のままにするのは良くない、と言う事も。

 シドは席を立って、棚に置いていた酒瓶と、愛用のゴブレットを取った。
もう一つゴブレットを手にしてタルヤに見せてみるが、「いらないわ」と彼女は首を横に振る。
忙しい彼女は、今日もゆっくりと酒を飲む暇も持たないのだ。
そんな彼女に、偶には意識して休めよと零しつつ、シドはワインをゴブレットに注ぐ。


「ま、見ているだけで良いなら、引き受けるさ。ただでさえ忙しいお前に、子供の面倒まですっかり押し付ける訳にもいかんだろう」
「子供扱いか。良い年だとは思うけどね、彼も」
「こっちは老体なもんでな」
「そう思っているのなら、貴方も無理はしないで欲しいわね」


 自嘲に言ったシドに対し、しっかり釘を刺してくれるタルヤに、藪蛇だったなと苦笑する。
ともあれ話は出来たと、タルヤは安心したように胸を撫で下ろした。


「それじゃあ、私は医務室に戻るわ。何かあれば直ぐに呼んで」
「ああ」


 ソファから腰を上げて、タルヤは早い足取りで、部屋を後にした。
いつも通り一人きりになった部屋で、シドはワインを一口傾ける。

 そう言えば、とシドはふと思い出す。


(オバケの話を聞いてみれば良かったか)


 タルヤは毎日のように、夜遅い時間まで起きている。
医者としての仕事に余念がない事、急な体調不良を訴える者もいることから、必然的に彼女の活動時間は長い。
子供が見たと言うオバケについても、何か不審な音だけでも聞いている可能性はあった。


(しかし、タルヤの場合は、何かあれば直ぐに言ってくるだろうからな。気にする程の事は、やっぱり起きてはいないのか)


 タルヤに限らず、オットーやブラックソーンなど、付き合いの長い隠れ家の仲間達は、この環境がどれ程得難く大切なものかを共有してくれている。
保護したばかりのベアラーや、ベアラーを助けようとした事で苦い経験をした者などにとって、この密やかな棲家は、最後の安寧に等しいのだ。
そこに不安を生むものが紛れ込んでいるのなら、それは早いうちに取り除いておきたい。
これは隠れ家の皆を取り仕切る立場にいる者ほど、よく分かっている。

 ともあれ。
オバケの目撃情報は夜のものだし、今はまだ昼間だ。
此方を調べるのは、後回しにしても良いだろうし、取り敢えず頼まれたばかりの事を果たして置こうと、空になったゴブレットを片付けた。

 私室を出て広間へ出れば、木と金属を叩く槌の音がそれぞれで響いている。
さて目的の人物は何処にいるだろうかと、一段高い場所から広間全体を見下ろしていると、丁度出入口の方から狼を連れた青年が入ってくるのが見えた。

 青年───クライヴは、カローンの下へと向かうと、手に持っていた小袋を差し出した。
何かを調達してきてくれと頼まれた、そんな所だろう。
カローンがそれを受け取る代わりに、報酬の入った小さな袋を取り出せば、クライヴもそれを受け取る。
狼───トルガルがカローンの在庫置き場の横で丸くなったので、クライヴはその頭を撫でて、店を離れて行った。

 相棒と別れたクライヴは、何処に行くのかと見ていると、ラウンジへと入って行った。
時間を思えば腹が減る頃で、出掛けて戻った矢先に胃袋を宥めたくなるのは当然だろう。
しかし、彼は直ぐにラウンジから出て来て、居住区の方へと向かった。
その手にはスープの入った皿を乗せたトレイがあったので、恐らく、体調不良で奥で休んでいる者に、食事を届けてくれと頼まれた、と言った所か。


(まあ、あくせくとよく働く。俺より働き者だな)


 居住区に入って行った青年は、程無く戻って来た。
その頭が、きょろ、と辺りを見回して、ふっとシドの方へと向かう。
見下ろしていたシドとはっきりと目が合うと、くっきりとした形の眉根が分かり易く寄った。
シドがひらりと手を上げれば、クライヴは益々眉間の皺を深くして、


「……何をしているんだ、あんた」
「いや、何。働き者がいると思ってな」


 シドは広間へ降りて、クライヴの下へと近付いてみた。


「少しは此処に慣れたか」
「……」


 問いにクライヴは答えなかった。
なんとも難しい表情で、青い瞳が彷徨い、顔が背けられる。
どう答えれば良いのか分からない、と言う風だった。

 二人の傍らでは、遠い水脈から引いて来た泉が、流れ落ちる音を立てている。
黒の一帯では、水源すら枯れた場所も多いが、これはまだ生きている。
水はそのままでは真面に使えなかったので、シドが研究中の技術を使い、なんとか植物の生育に使える程度になっていた。
それを使って研究している植物類の生育状況は、まだまだ道半ばと言うものだが、一本の木には果実が成っている。
あの酸っぱさは確かに万人が食えるものではないだろうが、シドは存外とそれを気に入っていた。

 植物を育てるには、水と土と光がいる。
その為、穴倉の中にある隠れ家の中でも、泉の袂には太陽の光が届いていた。
高い天井の穴から細く降り注ぐ陽光が、小さな泉の水面に反射して、ひらひらと光を揺らしている。
クライヴの視線は、じっとそれを見つめており、唇は引き結ばれたまま、解かれそうになかった。
それでもシドは、返事がない事には「まあ良い」と言って、


「お前さんがよくよく手伝ってくれるお陰で、俺も休憩が取れる。ありがとうよ」
「……、……ああ」
「礼って事もないが、一杯奢ってやる。来い」


 シドはラウンジへと足を向けた。
クライヴは少し遅れてから、心なしか重い足取りでそれについて来る。

 ラウンジでは、ケネスが昼食の準備に追われていた。
それを呼び止めてエールを二杯頼み、カウンターに寄り掛かって待つ。
ケネスは直ぐに注文の品を出して、


「はいよ、お待たせ。ゆっくり飲んでってくれよ」
「ああ」
「クライヴもな!」
「……ああ」


 シドの後ろで控えるように立っているクライヴに、ケネスは明るく声をかけた。
クライヴはやはり鈍いものではあったが、それでもケネスには日々の食事で世話になっているからか、小さく頷いて返事をする。

 テーブル席は食事を待つ皆々で埋まっていたので、シドとクライヴはカウンターの隅を借りた。
エールの入ったジョッキを差し出すシドに、クライヴはやはり何かを言いかける表情を浮かべた後、口を噤んでジョッキを受け取る。
クライヴはシドの隣でカウンターに寄り掛かり、ジョッキの中の琥珀色の液体を見つめていた。
大方、飲みたい気分でもないのに、と言う所なのだろうが、シドは敢えて無視しておく。


「お前が保護した幼馴染の───ジルって言ったか。調子はどうだ?毎日話はしてるんだろう」
「……ああ。今の所は、何処か痛みがある様子もなかった。医者の先生は、もう少し休んだ方が良いと言っていたけど」
「タルヤ、だ。お前も世話になったんだ、人の名前は憶えて置くと良いぞ」
「努力はしているつもりだ」


 クライヴの言葉に、良い事だ、とシドは言った。

 ベアラーには、名前がない事も少なくない。
だが隠れ家にいる者は、その頬の刻印のあるなしに関わらず、皆自分の名前を持っている。
名を持っていない者を保護した時には、本人に希望があればそれを、なければ皆で案を出し合う事もある。
そして、他者からその名で呼ばれることで、自分自身が“その名前を持った生き物”である事をようやく知る、と言う事も儘あった。

 クライヴの名は特別なものだと、シドは思っている。
その出自からして、“クライヴ・ロズフィールド”は唯一無二のものだ。
長い間、身を窶して奪われて尚、自分自身の名前を決して忘れなかったのがその証左。
彼自身がそうと思っているかはシドには分からないが、自分が名前を呼ばれるのと同じように、クライヴも人の名前を覚えて呼ぶのが良いと思う。
長らく真面に他者との交流を持てない環境にいた青年には、必要な経験だ。

 ただ、隠れ家の面々は、新たに増えた一人を覚えるのに対し、クライヴは沢山の名前と顔を覚えなくてはいけない。
色々と思う事も未だ多い彼には、中々労のいる作業だろう。
それでも、よく顔を見る相手の事くらいは、覚えている筈。


「名前はどれくらい覚えた?」
「……ガブ。グツと、カローン。ブラックソーンと……マーテル。……ケネスと……」


 クライヴは一人一人、頭の中の人物リストのページを捲っている。

 ガブは、彼がザンブレク兵に囲まれていた所を、クライヴがその手で助けて以来、何処か打ち解けたように見えた。
ガブも自身の過去の経験からシンパシーを持ったのか、初対面の時に見せた警戒ぶりはすっかり忘れ、軽い調子でクライヴに声をかけることも多い。
カローンはトルガルの面倒を見ていた恩、グツはその傍らによく一緒にいることや、目立つ大柄な体躯が覚え易かったのだろう。
ブラックソーンは、武器の手入れを頼む傍ら、彼から砥石に使えるものを集めて欲しいと頼まれるらしい。
この辺りは、交流の機会が多いことで記憶に残ったに違いない。

 元々物覚えが良いと言う下地のお陰か、クライヴは案外と多く人の名前を憶えていた。
ただし、顔はまだうろ覚えと言うものが多いようだ。
名前は分かるが、顔の特徴などは挙げられず、どうやら覚えた名前の殆ども、人が呼び合っているのを聞いて頭に残ったものらしい。
一日一度は会っている筈のタルヤの名前が抜け落ちていたのも、その所為かも知れない。
人の顔をあまり見ていないのだろうな、と頻繁に彷徨う彼の瞳の行き先を見て、シドは分析する。


(俺と話していても、視線を合わせる時っていうのは限られてるからな)


 相手を見たくないのか、相手に見られるのが厭なのか。
シドには分からないが、やはり不慣れもあるのだろうと思う。
この辺りも、ベアラーとして長く生きて来た人間には儘ある事で、時間と共に訓練的な長い期間をかけて慣れて行くものであった。

 クライヴはジョッキを一気に煽って、中身を飲み干した。
味わうことも、この場に長く留まる気もないからだろう。
シドが奢るから来いと言ったから、ついて来たに過ぎないのだ。

 空になったジョッキがテーブルに置かれて、クライヴはカウンターに寄りかけていた体を起こす。


「……奢りだったよな」
「ああ」
「じゃあ、もう行く」


 特段、シドから何か話がある訳ではないと、クライヴも分かったのだろう。
「…ご馳走様」とわざわざ小さく言ってくれる所に、律儀なものだとシドはくつりと喉奥で笑った。

 ラウンジから出て行くその背中を眺めながら、シドはエールを口に運ぶ。


(タルヤが言っていたような、他人との壁があるのは無理もない。今のあいつに、他人と真面に向き合うだけの精神的な余裕はない)


 十三年の怨嗟、その末に知った現実と、見失った生きる目的。
無力感と憔悴に苛まれている今のクライヴに、他者に気を配って過ごせと言うのは、中々に難しいだろう。


(タルヤの頼みだ、引き受けたからには、見る分には見てやるが……手取足取り面倒を見てやる程、俺も暇でもないからな)


 クライヴの事は、シド自身も気になる事が多い。
一応は落ち着いた様子を見せてはいるものの、足元が酷く危うい状態である事に変わりはないのだ。
いつその歪みが弾けるかも分からない事を思えば、医者であるタルヤの頼みは当然のことだし、周囲への影響───“二体目の火の召喚獣”と言う点も含め───を危惧しない訳には行かない。

 だが、見る限り、本人は努めて冷静でいようともしている。
見失った道に焦る気持ちもありながら、幼馴染の体への負担も考えてか、無理に出て行くこともしない。
精々、愛狼を伴って、隠れ家の皆に頼まれたことを熟している位だ。


(……当分、遠目でも様子を見ておくか)


 そう決めて、シドは残りのエールを飲み干し、ラウンジを後にしたのだった。



 隠れ家の夜は静かなもので、安全の為と言う形で牢番や出入口の見張り役がいる他は、滅多に物音の元になるものがない。
各部屋や通路の蝋燭も、限られる物資を無駄遣いしない為にと、半分以上が灯を消している。

 そんな時間となれば、シドも大抵は寝ているのだが、今夜はやる事がある。
昼間は何も得られなかった、オバケの噂を確かめる事だ。
子供がそれを見たと言うのは、夜も遅い時間であったし、昼間はあれだけ人がいるのに誰も知らない訳だから、もしもまた現れるのなら、同じ頃の時間だろう。
明確にその時間数字が分かる訳ではなかったが、シドは仮眠から起きたタイミングで、件の目撃ポイントへと伺ってみた。

 昼にも来た場所は、灯りの数が減った事で、一層暗くなっている。
夜の静寂に包まれる中、皆が寝ている筈の扉の向こうからは、時折人の声も聞こえた。
眠れない子供だとか、明日の準備で気が気でない大人だとか、夜更しする者は珍しくはない。
その気配と、この暗黒に落ち切らない暗闇とで、何か漫然とした摩訶不思議なものが迷い込みそうな感覚は、確かにあった。


(───と言っても、何がある訳でもない。しばらく張り込んで様子を見るつもりで考えた方が……)


 腕を組んでどうするか考えていたシドだったが、ふと、きしり、と言う小さな音を聞いた。
それはシドの後ろ───広間の方へと伸びる通路の方角からだ。
いつでも反応できる意識を保ちながら、シドはゆっくりと振り返った。

 微かに土を踏む音が聞こえる。
横穴を掘って作った通路だから、足元は剥き出しの土が殆どで、途中に水の侵食や、壁が崩れないように支え当てた板がある程度。
歩き方に気を付けずに歩いていれば、土踏みの音はどうしたって鳴る。
つまりは、人が歩いていると言う事だ。

 振り返った其処で見たのは、人の形をした陰だった。
壁を伝うようにゆっくりと進み、広間の方へと向かうそれは、足を引き摺るように歩いている。
ゆら、ゆら、と覚束ない足取りのそのシルエットに、シドは眉根を寄せた。


(────クライヴ?)


 兵装を解き、帯剣もしていなかったが、しっかりとした体躯に、無秩序に伸ばされた髪は、シドの見覚えのあるものだった。
重い足取りで進むそれに声をかけようとして、ふと背中に纏う空気にシドはそれを辞める。

 クライヴはシドがいることには気付いていない様子で、通路の向こうへと行ってしまった。
用を足すなら逆方向だな、と思いつつ、シドも広間の方へと向かう事にする。
オバケの調査はさて置くとして、夜中にふらふらと歩き回る者が、どうしてそんな行動を取っているのかは、確かめておいた方が良い。
万が一にも、この隠れ家が危険に曝されない為にも。

 居住区を出てみると、クライヴの姿はすぐに見つかった。
彼は細い月明かりが落ちる泉の袂に立ち、じっと繰り返される波紋を見下ろしている。

 シドは居住区へと繋がる横穴の縁に寄り掛かって、クライヴの様子を見つめていた。


(オバケの正体は、こいつか。こんな時間にフラフラしてるのを他人に見られれば、そう誤解されるのも無理もないってのは分かるが、しかし……)


 何をしているのか、とシドは眉根を寄せた。

 水辺に立つクライヴは、ただただぼんやりと、其処に佇んでいる。
そのまま小さな泉の中に入って、底なし沼宜しく、沈んで行こうか考えているようにも見えた。
水は深さが3センチもあれば、人を死に至らしめることが出来る。
シドの耳に未だこびりついている、死を望む慟哭を思うと、クライヴがその行動に出る可能性は低くはなかった。
そうなれば、直ぐにでも止めるつもりで見ていたが────

 じゃり、とまた土を踏む音が鳴る。
クライヴは泉から離れ、作業場の方へと歩いて行った。
そんな彼に気付いたのは、今日の寝床をカローンの店に定めていたトルガルだ。
主の匂いに気付いた狼は、キュウ、と小さな鼻声を漏らす。
その声に気付いたか、クライヴは一度足を止め、愛狼の方を見た。
何か反応を示すかと思うとそうではなく、やはりまたじっと、ぼうと見つめるクライヴに、トルガルの方が歩み寄って行く。
すり、と体を擦り付けて来るトルガルに、クライヴはその背をぽんと叩くと、作業場の向こうへと消えて行ったのだった。