沼底の呼吸


 翌日、隠れ家の外では日も高くなった頃。
シドがタルヤの元に赴くと、医務室を出て行くクライヴとジルの姿を見付けた。
クライヴはいつもの通りの兵装だが、帯剣をしていない所を見ると、何処に出掛ける訳でもなさそうだ。
ジルも簡易で楽な服装をしているし、彼女の療養が完全に明けた訳ではないのだろう。

 二人は広間の方へと向かって行った。
シドはその姿が見えなくなるまで確認して、医務室の扉をノックする。
どうぞ、と言う声を聴いてから、扉を開けた。

 久しぶりに無人となったベッドを整え直していたタルヤが、シドの来訪に気付く。


「シド。どうかした?」
「いや、何。昨日、お前の頼みでクライヴを見ていてくれってのがあっただろう。それでちょっと言っておこうと思ってな。……その前に、ジルの方はもう大丈夫なのか」


 目覚めて当分は休むべきであると、医者の判断により、医務室の人となっていたジル。
外に出たと言う事は、それなりに回復したのだろうとは思うが、と確認するシドに、タルヤは頷きつつ、


「ええ、体は概ね大丈夫だと思う。ただ、彼女も長い間、鉄王国で奴隷同然の扱いだったから、もう少し休ませようかと思ってる」
「さっきクライヴと此処を出るのを見たぞ」
「丁度クライヴの診察をしていたの。それも終わって、二人で話をしていたから、クライヴに隠れ家の中を案内するように言ったのよ。ジルも、体の為ではあるけど、いつまでも医務室に閉じ込めていたら、此処は牢屋と変わらないから、気晴らしにね」


 タルヤの説明に、成程ね、とシドも納得する。

 医者として、患者の体の為に安静を重視するタルヤではあるが、人には変化と刺激と言うものが必要だ。
ジルも今や自由の身であると言うことを感じて貰う為にも、そろそろ外に出ても良い頃合いだった。

 そして同時に、案内をクライヴに頼んだのも、意味がある。
今は何にしても無気力感のあるクライヴだが、ジルやトルガルと言った知己の傍にいる時は、微かに表情が和らいだ。
長い孤独を歩いて来た彼にとっては、久しぶりの安心感が得られるのではないだろうか。
加えて、彼が隠れ家を自ら案内して回る事で、隠れ家で暮らす人々とも、もう一歩踏み込んで交流ができるかも知れない、と言う意図もある。


「案内を頼んだ時は、少し渋い反応をされたけど、ジルが頼んだら引き受けてくれたわ。良い子よ、あの子は」


 毎日、ジルを介抱していたタルヤだ。
口元に小さく笑みを浮かべて言ったタルヤに、そうだろうな、とシドの口元も緩む。

 それから、直ぐにシドは表情を切り替えて、件の報告を口にした。


「それで、クライヴなんだがな。あいつ、夢遊病の気でもあるかも知れない」
「夢遊病?」


 シドの言葉に、タルヤはシーツを畳む手を止めて振り返った。
目線を合わせたタルヤに、壁に背中を寄り掛からせたシドは、「多分だけどな」と釘を指す。
長い経験で色々と見て来たシドであるから、病理の知識も多少なりとあるが、専門家には及ばないことは自覚していた。
だからあくまでも可能性として、昨夜の出来事を話す。


「昨日の夜、あいつが広間周りをフラフラしているのを見た。手癖の悪いことでもするようなら、厳重注意でもしてやる所だったが、本当にただ歩き回っているだけでな」
「それは、一晩中?」
「俺が見ていたのは二、三十分って所か。一通り歩き回ったら、居住区の方に戻って行った」


 クライヴは今、居住区で寝起きをしている。
彼の今の精神状態を鑑みると、一人にするか、同室者を持たせるか難しい所だったが、他者との間に壁を置きがちな様子から、夜は一人で休ませる方が良いと判断した。
とは言え、隣近所はあるもので、其処にいる者が某か部屋の出入りでもすれば、扉の開閉音なりが聞こえて来るものだ。
シドは今朝、クライヴと近い部屋を使っている者を捕まえて、昨夜の様子をそれとなく確認してみたが、特に変わったことはなかったと言う。
クライヴが深夜に部屋から出ていた事に気付いている者も、今の所はいないようだった。


「あいつ自身に、昨晩のことはまだ確かめてはいない。自覚があって歩き回ってるなら、ただ眠れなかっただけって言うのも、有り得るだろう」
「そうね。……でも、夢遊病か。有り得ない話じゃないけど……」
「診察中はどうだったんだ?」
「いつも通りね。何を聞いても“特に問題ない”なのも、目が合わないのも。でも、ジルと話している時の表情は増えたわ」
「昼間の内は、まあ安定か」
「そんな感じはするかしら。だけど夜の事となると────」


 タルヤは毎日、遅い時間まで起きているが、重症の患者がいる時でもなければ、流石に夜半は休んでいる。
医務室は彼女の部屋でもあるが、昨晩シドがその前を通った時も、灯りはすっかり消えていた。
そんな時間に起きた事は、流石に彼女も知る由がない。

 タルヤは棚から紙の束を取ると、数ページを捲って、ペンを走らせた。
紙束はこの医務室で診ている人々の容態等を記したカルテだ。
シドの話を要点を掻い摘んで書き留めた後、タルヤは顎に手を当てて考える仕草をしてから、言った。


「シド。クライヴから話を聞いてみて貰える?」
「努力はしてみるが、何も言わないかも知れないぞ」
「ええ、それでも。彼、ジルと一緒に、ロザリア領に行くつもりでしょう。それなりの遠出になるし───フェニックスゲートのあった所まで行くつもりなら、マーサの宿を利用しても、何処かで野宿になるわ。そんな時に夢遊病なんて始まったら、魔物に襲われでもした時にどうにもならない。危険極まりないもの。彼等が次に進む為にも、行くなって言う訳にもいかないでしょうし、それなら、出来ることはしておきたいの」
「……確かにな」


 彼にとっての始まりの地、全ての真実を内包している筈の場所は、この隠れ家から遠い。
チョコボの足を利用しても、数日はかかる旅路は、必ず野で夜を明かす必要があるだろう。
この黒の一帯には餌がないので近付かない魔物も、蛮族も、時には野盗すら出くわす事もある。
夜毎にふらふらと歩き回るような人間が行って良い訳がない。


「分かった、あいつの事はこっちで確かめてみよう。手に追えなかったら、頼むけどな」
「ええ、構わないわ」


 医者の本分であるからと、タルヤはいつものように言った。
その頼もしさに感謝しつつ、とは言え、ただでさえ忙しい彼女の負担を増やさない為にも、どうにか此方で解決の糸口は見付けた方が良いだろうとは思った。

 医務室を後にしたシドが広間へ行ってみると、カローンの店の前に、クライヴとジルの姿があった。
カローンがいつものように、素気のない態度をしているが、ジルは笑みを浮かべている。
その隣では、トルガルがぱたぱたと尻尾を振りながら、主人の足元にまとわりついていた。
クライヴはじゃれて来るトルガルを見下ろして、豊かな毛並みの喉元を擽っている。


(……こうして見てる限りは、それ程問題もないようには見えるんだが。人様の心の中って言うのは、分からないもんだ)


 遠い記憶で、旧知が変わり果てて行った姿を思い出しながら、シドは溜息を抑えるように、広間の高い天井を仰いだ。



 クライヴが夜にどうしているのか、昨晩の行動は偶々のものだったのかを確かめる為に、シドは敢えて、クライヴに直ぐには声をかけなかった。
直接聞いた所で、あの暗い瞳が逸らされるだけだとも思ったし、彼に疚しい気持ちでもあれば、簡単に本当の事は吐露することはあるまい。
自分の行動に自覚がないのであれば、尚更。

 シドは、昨日と同じ時間になって、部屋を出た。
居住区の出入口があるその真上から、人気のなくなった広間を見下ろす。
昨夜はカローンの店にいたトルガルは、今日は別の寝床を使っているらしく、見当たらなかった。

 泉に流れる水音だけが聞こえること、幾何か。
暇を持て余して煙草を噛んでいたシドの耳に、微かに足音が聞こえた。
思った通りならば来たか、と広間に視線を向け直すと、

(……昨日と同じ、だな)


 兵装を解いたクライヴが、泉の傍に立っている。
じいと足元を見つめる後頭部を、シドは昨夜と同じく、しばらくの間観察していた。

 それなりに長い時間、クライヴは其処に立ち尽くしていた。
シドがその光景に見飽きた頃に、彼はゆっくりと歩き出す。
足が向いているのは、無人で炉の火も消えた鍛冶場だ。
ルートは昨日とほぼ同じ、決まった場所を巡回するように、クライヴは広間を囲む設備を歩き回っている。


(……起きてるんだか、寝てるんだか)


 まるで、眠りの狭間を歩いているような。
彼の足元がどうにも覚束ないように見えて、シドはそんな風に思った。

 クライヴは、最後に隠れ家の出入口へと繋がる横穴をじっと見つめた後、居住区へと戻って行った。
シドは直ぐにその背を負い、暗い通路にまだその背中が確認できるのを見て、


「クライヴ」


 名前を呼べば、ぴたりと彼の足が止まった。

 クライヴは、ゆっくりと振り返った。
虚ろな眼がシドを捉え、壁際で揺れる小さな燈火が、青い瞳の中で頼りなく揺らめいている。
薄く開いた唇と、体の力が半分抜けたような緩慢な仕草が、彼を酷く無防備に見せていた。
じわりと滲む奇妙な気配に、シドはその正体を掴みかねて眉根を寄せながら、青年の前へと立つ。


「こんな時間に何してる」
「………あ……」


 シドの問いに、ようやくクライヴの目の焦点が合った。
クライヴはきょろ、と自分の居場所を確かめるように辺りを見回し、もう一度シドを見る。
どうして、と言う表情を浮かべるクライヴに、シドは溜息を漏らした。


「こいつは……そうだな、そうとしか」
「……?」


 やはり夢遊病か、とシドは半分確信を持った。
となれば、このまま放って寝床に返す訳にもいくまい。


「少し話がある。ちょっと来い」
「……」


 シドの言葉に、眠いから戻る、とでも言ってくれれば、シドはそれでも構わなかったのだが、クライヴは何も言わずについて来る。
従順なのか、ベアラーとして過ごした癖なのかは、まだはっきりとはしなかった。

 私室に戻ったシドは、クライヴにソファに座るように言った。
クライヴは彷徨うように視線を泳がせた後、ようやく腰を下ろす。
気まずいものを噛むような表情を浮かべるクライヴを横目に、シドは自分の定位置である椅子へと座った。


「取り敢えず……そうだな。あんな所で何をしていたんだ、クライヴ」
「………分からない」


 率直に問えば、恐らくは正直な答えが返って来た。
シドは一つ溜息を漏らしつつ、


「オバケの話を知ってるか」
「……は?」


 シドの言葉に、クライヴが顔を上げる。
顰められた顔は、何を馬鹿なことを言い出したのかと、少し苛立っているように見えた。
確かに荒唐無稽だし、切り出しも敢えて唐突にしたものだったから、その反応が普通だろう。
オバケと言う単語に、本能的に怯えるような人間でなければ。

 シドは頬杖をついて、ソファから此方を見上げているクライヴを見て言った。


「子供が一人、オバケを見たって俺の所まで言いに来たんだ。夜中に居住区の所で、フラフラと歩いている人影を見たってな。丁度、今日のお前みたいに」


 視線を寄越してやれば、クライヴがぎくりとしたように息を飲んだ。
今し方、通路の真ん中でシドに声を掛けられ、ようやく意識を取り戻したばかりと言うことは、彼自身も自分が奇妙な行動を取っている自覚があったのだろう。
そして、今のシドのオバケの話で、それが今日以外にも起きていた事を悟ったのだ。


「今日も昨日も、お前はこうやって夜中に起きて来て、隠れ家をうろうろと歩き回っていた。昨日は向こうにトルガルもいたが、それを見た覚えは?」
「……いや……」
「夜、寝床から出た覚えは?」
「………」


 ふるふる、とクライヴは小さく首を横に振った。
自身の有様を今初めて知ったと、滲む動揺を表すように、クライヴの手が自身の口元を隠す。
見て分かる戸惑いの様子に、どうやら全くの無自覚であった事を、シドも読み取った。

 シドは椅子の背凭れに体重を預けて、ソファで項垂れているクライヴに問う。


「クライヴ。お前、真面に寝てるのか」
「……」
「タルヤに言っていない事があるんじゃないのか」


 患者の不眠なら、タルヤも必ず読み取っている筈だ。
分かっていれば彼女は決して見逃さないし、何をするにも不可欠な筈の睡眠を取っていないとすれば、言及しない筈がない。
だが、どう問うた所で、聞かれた本人が正直に応じる気がなければ、医者とてその矯正を指導する事は難しい。

 タルヤに告げていないことを、果たして自分に打ち明けるかどうか。
シドにしてみれば、相談するなら自分よりタルヤが適任だとは思うが、どうもタルヤはそうは思っていないらしい。
だから彼女は、クライヴの事を頼んできたのだ。
その信頼に出来るだけの努力はするべきと、シドは自分なりの想像で、クライヴの本音を引き出そうと試みる。

 クライヴは、ぎゅう、と目を瞑って唇を噤んでいる。
強く寄った眉間の皺は、苛立っているようにも見えるが、それよりも焦燥が感じられた。
膝の上で握られた拳を、逆の手で強く掴みながら、息苦しそうに口を開く。


「……あまり、寝ている気は、していない。……でも、そんなのは今に始まった事じゃない」
「じゃあ、それはいつからだ?」
「……ずっとだ。あの時、あの日から、ずっと」


 ────“あの日”。
クライヴがそう形容するのは、他でもない、十三年前のフェニックスゲートの事件だろう。

 クライヴは吐き気を堪えるように、手で口元を隠して、続ける。


「……夢を見る」


 眠ると、必ずと言って良いほどに夢を見る。
ドミナントである幼い弟が、炎の鳥となった姿で、異形の怪物に嬲り殺しにされる光景を。
不死鳥の二つ名を持つ筈のその鳥は、痛々しい嘶きを何度も何度も叫んでいた。
その鳴き声の中に、たすけて、にいさん、と幼い弟の声を聴いて、クライヴは彼を助けなければと思ったのに、その時にはもうクライヴの躰は動かなかった。
クライヴはただただ、恐ろしい異形の怪物に蹂躙される弟を、遠くの意識から見ていることしか出来なかった。

 十三年間、そんな夢を見ている。
飛び起きたのは一度や二度ではなく、助けなくちゃと腕を伸ばして、目覚めた時にはいつも虚空だけを掴んでいた。
そうして、何よりも大切な弟を助けられなかった、ナイトなどと名ばかりの無力な自分に打ちのめされ、復讐の想いだけを燃やしていた。

 そして今、殺すべき復讐の相手が、自分自身だと言う事を知った。
あんなにも助けを求めていた弟を殺したのは、他ならぬ、自分自身だと。


「繰り返し見るんだ。俺がジョシュアを……弟を殺す夢を。頭が可笑しくなりそうで───もう可笑しくなってるのかも知れないけど。……だから、眠りたく、ない」


 それがクライヴの本音だった。

 シドの計らいで、その事実への激情は鎮火させられたが、胸の内に渦巻く悔恨は消えない。
分からない事も多いのだと、その全てを解き明かしてから死を選んでも遅くはないと宥められ、ジルにも励まされた。
それが辛うじてクライヴの命をこの世に留めてはいるが、振り上げた拳を何処にもぶつける事も出来ず、自分自身を殺すことも許されないままで、軋む心は悲鳴を上げている。

 でも、とクライヴは更に続けた。


「フェニックスゲートには……行くつもりだ。確かめなくちゃいけないことがあるのは、きっと本当だろうから。だから、眠ろうとはしているし、……眠れていると、思っていた。ここしばらくの夢のことは、よく覚えていない。見ていたのか、見ていないのかも。でも、直ぐには寝付けないけど、いつの間にか気が付いたら、朝になってはいたから」


 碌な睡眠は取れなくても、意識の中断はあった。
だからクライヴ自身は、それを眠っているものと受け止めていたのだろう。
現実には、自分の躰がふらふらと彷徨い歩いている事など知らずに。

 じんと湿った空気が部屋に充満するのを感じて、シドは煙草を吸いたくなった。
しかし、懐のそれに手を出す気にもなれず、俯く青年をじっと見下ろす。
視線を感じているのだろうか、クライヴは顔を上げる様子はなく、暗がりの地面を見つめているのみだった。

 コツ、とシドの指が小さく肘掛けを突いて音を鳴らす。


「……今まではどうしてたんだ。どうにか寝る事は寝てたんだろう。でなけりゃ、お前はとうの昔に死んでる」


 問うと、ぴくり、とクライヴの頭が揺れる。

 クライヴが眠れないのは、今に始まったことではないと言う。
十三年前の悲劇から、片時も離れない悪夢に悩まされていたと言うのも、彼の身に起きた出来事を思えば無理もない。
だが、同時にクライヴは、ベアラー兵として生きて来た。
戦場に身を置く人間が、睡眠を幾らも取れないまま、いつまでも戦い続けることは出来ないだろう。
何処かで心身のどちらかが限界に来て、剣でも矢でも貫かれるのが目に見えている。
何らかの方法で、一時でも眠る手段を得ていた筈だと、シドはそう考えていた。

 じわりとしたものがクライヴの体から滲み出ているように見えて、シドは眉根を寄せる。
第六感が厭な鐘を鳴らしているのが聞こえるが、問うた言葉はもう覆せない。
クライヴが答えないならばそれまでであったが、彼はすぅ、と呼吸を整えるように息を吸って、感情のない貌を微かに上げる。


「……シド」
「なんだ」
「……」


 名を呼ぶので返事をすると、クライヴはまた口を噤む。
それは何度か開き、閉じてから、


「……駄目だ。あんたにこれ以上幻滅されたら、此処にもいられそうにない」


 明らかに何かを言いかけて辞めた青年に、シドは眉根を寄せた。


「聞いたら、俺がお前を此処から放り出すって?」
「……ああ」
「しないと言えば、お前は話すのか?」
「……」


 クライヴの反応は鈍かった。
ベアラーの刻印を持ち、脱走兵である経緯を持つクライヴは、確かにこの隠れ家を追い出されれば、行く当てなどないだろう。
一人で件の地へ向かうにしても、共に行こうと話している女性の事はどうするのか。
無責任な事が出来ないらしいこの男には、今しばらく、この地にいることを許されなければ、次へ進む事は出来ない。

 だが、このまま沈黙していても、シドが自分を解放しないことも感じているだろう。
結局自分はまともに眠れていない訳だから、今後の為にも、それはどうにかしたいとも思っている。

 壁の蝋燭の火が、ジジ、と小さく燃える音を鳴らす。
大分短くなっているそれは、明日の朝には溶けて消えているだろう。
それまでこの重苦しい空気が続くのか───と思われた時。


「なあ、シド。あんたは、俺を抱けるか?」


 問いと共に、昏い瞳がシドを映していた。
その瞳の中は、まるで海の底の檻のように深く、重い熱が籠っている。

 突然の質問に、シドは分かり易く顔を歪めた。
質問の意図が分からないのもあったし、厭な予感が益々近付いて来たからでもある。
クライヴはそんなシドをじっと見つめ、


「どうやって寝ていたかって言ったな。簡単で、低俗な話だ。一晩中セックスして、それから寝たんだ」


 酷い話だろう、とでも言うように、クライヴの口元は歪に歪んでいる。
笑っているようにも見えたし、己を傷付けたがっているようにも見えた。

 強く眉根を寄せるシドから、クライヴの視線がゆっくりと外れる。


「……昔からだ。どういう訳か、俺は妙に気に入られるようだったから、適当に相手を見付けて寝た。疲れ切ったら、眠れたから」


 ────ザンブレク軍のベアラー兵は、命令違反や脱走を防止する為、複数人でのチーム編成であると同時に、相互監視を行っている。
兵士として使う為の利便性、それとして役立つ腕が求められる故か、その大半は男である。
クライヴがいたのも、専ら男ばかりの環境で、そう言う環境であるが為に、起きる問題も当然ながら避けられなかった。

 種の存続の本能は、“モノ”扱いされるベアラー兵にもある。
滾った血が、吐き出し口を求めて、身近なものに手を出す例は少なくない。
ベアラー兵は娼婦を買う事も出来ないのだから、必然的に相手は同じベアラーになるものだった。
その中でも、見目が良ければ、力が少しでも弱ければ、或いは生意気だから泣かせてやろうと嗤う為に、性別問わずに食い物にされる者はいる。
元の出自が良いからと、妬み嫉みが理由になる事もあった。
クライヴは、そう言う理由が厭と言う程整っていて、格好の的でもあったのだ。

 無論、クライヴとて男の矜持があるのだから、大人しくそれを受け入れた訳でもなかった。
初めは抵抗したし、下衆いた笑いを浮かべる男達に、殺意を募らせたのも一度や二度ではない。
だが、次第にそれを利用する事も選ぶようになった。
リーダー役に情を持たせることが出来れば、多少は身の保身にも使えたし、そもそも一番のプライドは、十三年前に粉々に砕かれている。
今更自分の躰が幾ら汚れようとどうでも良かったし、生き延びていつか復讐することだけを考えていたから、娼婦のようだと嗤われようと、大して傷付く事もなかった。
そんな男に手を出して快感を得ている連中だって、所詮は同じ穴の貉なのだから。

 何より、男たちに酷使された後は、泥に沈むように眠れた。
夢も見ない程に深い眠りに堕ちて、翌朝には酷い状態と言う事も珍しくはなかったが、一睡もしていないよりはマシだった。
不思議と相手に困る事も少なかったから、手っ取り早くて楽だとも思うようになった。

 ────感情の抜け落ちた表情で語るクライヴは、ただ事実を淡々と述べていた。
其処に痛みや苦しみはなく、そう言ったものを感じる事を、とうの昔に破棄している。
そうしなくては生きていけなかったから、そうした、ただそれだけの事。


「……昨日も今日も、俺が此処をあちこち歩き回っていたのなら、寝る相手を探していたのかも知れない」


 彷徨い歩いていた原因を、自分自身で分析するなら、それが一番当て嵌まると踏んだのだろう。
それを頼りにしなければ眠る事も出来ない躰は、無意識のうちに手段を求めてしまっていた。
眠るのならば、これしかないと。

 しかし、此処でして良い事ではない、とクライヴも理解している。
この隠れ家にいる者は、人も、ベアラーも、思い合い助け合って生きているのだから、其処に穢れたものを持ち込んではいけない、と。


「……悪かった」


 飾らない詫びの言葉に、シドは何と言えるものか分からない。
傍から聞けば酷い話だが、この男の出自や経緯を考えれば、全く想像できないものではなかった。
そう言う例は、何人ものベアラーと出逢って来たから、幾数回となく聞いている。
それそのものはクライヴを責め立てられるものではないし、彼自身、此処で男漁りをするような真似をしてはいけないとは、理解しているのだから。


「……本当に、悪かったと思ってる。もし誰かを見付けていたら、俺は何をしていたか、自分でも分からない」
「…そうだな。確かに、そんな奴をうちに置いておくってのは、厄介だ」
「……」


 シドの言葉に、クライヴは俯いた。
小さな火の灯りが微かに届いているお陰で、重い瞼が双眸を半ば隠しているのが見える。


(とは言え、放り出す訳にも────)


 この隠れ家の秩序は、此処で生きる人々の為にも、守られなくてはならない。
クライヴの夜毎の行動は、風紀を乱すと言う点で、無視することは出来ない。
タルヤに相談した所で───そもそも、此処までの話を彼女に聞かせて良いものかも、シドは計りかねるものがあった。

 きしり、とソファの傷んだスプリングが小さく音を立てた。
こつりと床を踏む音が鳴って、均整の取れた体躯の男が、シドの前に佇んでいる。
定位置から動かないシドを、クライヴは腕を延ばせば届く距離から、じっと見下ろしていた。


「シド。こんな事、あんたの趣味じゃない事は分かっている。あんたがどうして俺を拾ったのか知らないが……俺が見て来た奴等と違うから、こんなことをしたいと思うような人間じゃないって事も、分かっているつもりだ」


 長い前置きのようだった。
そんなものを言った後で、この男が何を言おうとしているのか分からない程、シドは鈍い人間ではない。
遮ってしまうのが一番面倒がない───と思う傍らで、そうしたら、次は何をするだろうと思うと、苦いものしか浮かばない。


「俺が自分でどうにかしなくちゃいけない事なんだ、きっと。でも……やっぱり無理なんだって分かった。俺は普通に眠れないんだ。それを、あんたに言ってしまった。だから、今日だけで良い。俺が全部するから、あんたの体を貸してくれ」


 言わせた責任を取ってくれ、と言っているようにも聞こえた。
見下ろす瞳が泣き出しそうにも見えて、訴えられていると思う事に、シドは肩の重みが増すのを自覚する。
この男の事を、見ているだけで良いからと言われた時に、安請け合いをするのではなかったと、今更後悔が過ぎった。

 此処でシドが拒否しなければ、クライヴは眠る為の手段を手に入れる。
今日だけで良い、と彼は言ったが、果たしてそれは本当か。
重く淀んだ眼は、今日一晩の深い眠りを手に入れた所で、晴れる事はないだろう。
そして、一度その垣根を越えてしまえば、次は素通り出来てしまう程、そのハードルは低くなる。

 同時に、見下ろすこの青年を拒絶すれば、いよいよ彼の倫理観は崩壊するのだろうと言う事も想像できる。
その癖、真面目と義理を気にする気質もあるから、周りを好きに巻き込む事も良しとはするまい。
だからせめて、此処で止めて欲しいと言う想いが、ぐらぐらと危うい場所に立っている彼の、最後の矜持なのかも知れない。


「……シド」


 懇願する瞳には、籠った熱の色と、迷子の子供のような幼さが滲んでいる。
死にたがっていた男を、この世に留まれと押し止めたのは、他でもないシドだ。
だからまだ少しの間生きる為に、他に頼れるものもなく、況して秘密を暴いたのなら───と縋るように見つめる眼に、シドは今夜で最も深い溜息を吐くしかなった。