縺れ糸を解きながら


 罪悪感と言う言葉が当て嵌まるかは判らないが、後ろ暗さは少なからずあった。

 長くベアラー兵として生きる内に、どうしたって深く眠ること自体が習慣から抜け落ちて、常に浅い眠りで済ませてしまう。
大抵のベアラー兵が、使い捨てとされて、危険極まりない任務を負ってはその命を散らしていく。
そんな中で、十年以上も自分が生きていられたのは、奇跡も同然の事と、弟から与えられた、フェニックスの祝福によるものだ。
そのお陰で弟の仇を討つと心に決め、それだけで生の拠り所にして、一日一日を越えて来た。
その末に知ったのが、弟を殺したのは自分だと言う、何より無慈悲な現実だったのだけれど───その現実を共に目にした男曰く、「まだ判らない事がある、死ぬなら真実を知ってからでも遅くはない」と。
真実も何も、と言う気持ちはあったが、かと言って激情のままに舌を噛む衝動もいつの間にか水に消されて、今は酷く生温い現実の中を過ごしている。

 クライヴを拾い、今はまだ死ぬべきではないと諭した男────シドは、彼を自身の拠点である隠れ家へと住まわせた。
ニサ峡谷で彼と邂逅した際、共に保護された氷のドミナントであるジルの事もあり、クライヴも可惜に出て行くつもりはなくなっている。
とは言え、客分のような扱いな訳でもなく、その立場は、この隠れ家に住む人々と等しいものだ。
働かざるもの食うべからず。
余程の重症者や、意思の疎通がスムーズには難しい保護されたばかりのベアラーでもなければ、皆が何かしらの役割を持って働いているものであった。
クライヴも必然的にその輪に加わる事となり、隠れ家にいる誰かから某か頼まれ事を貰って、それを熟している。

 一日を労働に使う事に抵抗はなかった。
疲れている方が、夜に体を休めようと言う気にもなる。
だが、命と心をすり減らす戦場で酷使される事が長い間当たり前だった所為か、どうにも眠りに至る事が出来ない。
それは体の疲労だけではなく、長い奴隷兵としての生活で、真面な睡眠の取り方と言うのを、体も頭も忘れている所為だった。

 眠る事が出来なければ、人間の脳も休む事は出来ず、無理やり動かす歯車もいつかは軋んで止まってしまうと言うもの。
不眠に近いクライヴの様子に気付いたのは、最初はタルヤだった。
医者だと言うから、彼女に知られたのは無理もないとは思う。
解決方法として、睡眠薬の処方も出せるとは言われたが、薬と言うのはどうにも嫌な思い出しかない。
彼女が作るそれは、隠れ家で住む人々に対する全き良心である訳だから、疑うのは悪いと思いつつも、どうにも渡されたそれを口に含む気になれなかった。
捨ててはいないが、ずっと隠し持っているような状態になっている。

 戦場にいた頃を思えば、穏やかと言える日々が続いていて、それが反ってクライヴから睡魔を遠ざけて行く。
隠れ家の外で蹲っている方が、うつらうつらとでも出来る位だ。
トルガルを伴って出掛けた時に、そうして束の間の睡眠を取るようにしていたのだが、一度、思いの外深く眠ってしまったようで、すっかり帰るのが遅くなった。
一緒にいたトルガルは、きっと起こしてくれようとしたのだろうが、彼はとても賢い狼だ。
人の機微を読み取ることをよくよく覚えた彼は、寝入った主を起こすのも随分と悩んだのだろう。
目を覚まして慌てて帰ろうと立ち上がるクライヴを、トルガルは心配そうに顔を舐めてくれていた。

 その時に、隠れ家で碌に眠れないことを、シドにも知られたのだ。
外には魔物は当然のこと、先のノルヴァーン砦の一件や、火のドミナントを探してザンブレク領を調べていたガブを追って来た事等、警戒態勢を強めたザンブレク兵の巡回も強化されている。
基本的には人が少ない抜け道を通って隠れ家へ出入りしているとは言え、この地は誰かに見付かって付けられでもしたら非常に危険だ。
クライヴがしている事は、その危険性を誘発するものであるから、決して褒められるものではない。
苦い表情でそう咎められた時には、返す言葉がなかった。

 そうして、どうやったら真面に眠れるかと言う問題に行き当たり、クライヴはしてはいけないと思いながらも、他に方法が思いつかなくて、シドに「抱いて欲しい」と言った。

 十五でベアラー兵になってから、妙な理由を勝手に向けられては、その体を暴かれてきた。
恥辱と悍ましさに吐き気を覚えた事もあるが、何度も繰り返されれば次第に諦念も沸いて、抵抗すれば腹に痣が残るまで殴られ蹴られもするから、大人しくして置いた方が良いと思うものだ。
暗殺部隊に引き抜かれてからは、其処で男たちの性欲処理を押し付けられて、大人しく従った。
下手な斥候任務よりも疲れる行為であったが、過剰に溢れた快楽物質で疲弊した体は、ようやく深く眠ることが出来たのだ。
それは睡眠と言うよりも気絶であったが、目覚めた時に、体の重みに反して、多少なりと頭の靄がすっきりとしたような感覚になるのが、妙に可笑しかった。

 だから、眠るのならこれしかないとクライヴは思っているのだ。
周囲への警戒や、同じ任務を持ちながらも、相互監視を行うベアラー部隊の中で培った癖を、強制遮断させる方法。
だが、それに至るには自慰ではどうにも足りなくて、セックスでなくてはならず、つまり相手が必要だった。
隠れ家の人々にそれを求めてはならないと思ってはいたが、この男なら────シドなら、と思った。
彼は自分を、強く拒否する事は出来ない、と。

 当然、頼みを告げた時には、酷く顔を顰められた。
相手がベアラーである事を理由に、人を嫌悪することをこの男はしないから、純粋にクライヴの頼みが安易に享受できないものだったのだろう。
逆の立場なら恐らくクライヴも似たような反応をするとは思うから、気を悪くはしなかった。
同時に、断られたら次はどうすれば良いか、ぼんやりと考えていたのだが、結局シドはクライヴの手を取った。

 ただの性欲処理と思えば、都合が良かったのかも知れない。
娼婦なら金がかかるし、それを買うには街まで出なくてはいけないから、案外と手間だ。
シドは毎日のように忙しくしていて、ガブから何か報告を聞いたり、オットーと隠れ家のあれこれについて相談している事も多い。
出掛けて一晩二晩帰らないのはよくある事だが、その時は大抵、保護されたベアラーを護りながら、彼等を慎重に隠れ家へと案内している所だった。
人里に出た時に娼館でもあれば、一晩そこで英気を養う事もあるのだろうが、それも頻繁な話でもないだろう。
だが、男と言うのは発散せねば貯まるものだから、その手間を外に出ずに済ませることが出来るなら、手っ取り早い話ではあった。

 シドが応じてくれた理由が何であれ、クライヴはそれのお陰で、睡眠時間と言うものが手に入った。
だが、彼の人格的な所と言うのか、人の好い部分につけ込んでいる自覚はあって、後ろ暗いものは感じていた。
こうしないと眠れない、と言う我儘に付き合わせているのは明らかだったし、最初に苦い顔をされた事もある。
それでも拒否されない限りは、夜半に彼を訪れては、自分の入眠の儀式のようにセックスをした。

 今日もまた、何処か事務的な熱の交わりをして、クライヴはようやく体が緩やかに解けたのを感じていた。
土壁を掘り進んで作られた部屋は、夜ともなって燈火が減ると、ただでさえ冷えやすい空気が一層冴える。
体調を崩されるのは面倒だからと貸し与えられた布に包まって、クライヴはソファの上で横になっていた。
このままうとうとと舟を漕いでいれば、その内に眠る事になるだろう。
────が、クライヴの瞼はまだ持ち上げられていて、いつもの定位置であるデスクに座っている男をぼんやりと覗き見ていた。

 もう直に眠るであろうクライヴの為にか、デスクに灯された蝋燭は、小さなものだ。
精々が手元くらいしか照らされていないそれを頼りに、シドは方々から届けられた書簡を確認している。
微かな灯りに照らされた男の横顔を、何をするでもなくじっと見つめていると、


「……眠らないのか」


 視線を感じていたのだろう、シドは書簡に視線を落としたままで言った。
クライヴは重い体をのろりと起こして、ソファの背凭れに寄り掛かる。


「まあ、……でもその内寝ると思う。邪魔なら、見ないようにする」
「どっちでも構わんさ。寝る気がなくて暇なら、ちょっと手伝って貰えりゃ良いなと思っただけだ」
「……」


 ちらとクライヴがデスクを見ると、暗がりなので見えるのはシルエット程度だが、色々なものが積まれているのが判る。
隠れ家を率いる長としてか、方々でベアラー保護などと言う活動をしているからか、シドは何かと忙しい。
ベアラー保護に関して、協力者も少なからずいるようで、そう言った人々から舞い込んで来る情報も多いそうだ。
情報に関しては、オットーが多くは先んじて目を通し、必要であればシドにも確認を求めている形を取っているそうだが、それ以外にも色々と調べることが多いのか、シドのデスクは大抵色々なものが積まれているものであった。

 本当に機密性の高い情報なら、その遣り取りの多くは、ストラスを飛ばして来る。
それを思うと、書簡と言うのは誰でも見る事が出来るので、機密としては聊か程度は落ちるのだろうが、とは言え個人的な諸々が込められているのも確か。
可惜に他人が覗き見るような真似に繋がってしまうような事は、余りやるものではない。

 ……とは思ったが、それとは別に、クライヴの気を引いた事もある。
それはデスクの上に積まれているものではなくて、先のシドの台詞からだった。


「……シド」
「なんだ」


 名前を呼ぶと、相変わらずシドは手元の紙に視線を落としたままで返事をした。
クライヴは、シーツの端から出ていた所為で冷たさを感じて来た足を引き寄せ、布地の内側に隠しながら言った。


「あんた、俺にして欲しい事とか、ないのか」
「……藪から棒だな。急にどうした」


 ようやく顔を上げたシドの目が此方を向く。

 胸中を探るように見つめる瞳から、なんとなく居心地の悪さ────と言うよりは、見定められているような落ち着かなさを感じて、クライヴの視線が揺れる。
どうしたと言われても、と言う心地で、なんと返せば正しいかを探した後、ようやくその理由らしきものを見つけ出す。


「……セックス、いつも俺がしたい時にしているし。あんたは、俺のやりたいようにやらせてくれるから……その。あんたの方から、何かないのか、と思って」


 ────この関係は元々がクライヴの要望からのものだ。
シドはそれに応じてはくれたが、仕方のない事だからと言う部分の大きかっただろうし、寧ろクライヴから見ると、それ位しかシドからは理由が見当たらない。
後は精々、娼婦を買うより手っ取り早く、身近で済むと言う点位だろうか。
相手が男である事や、クライヴが過去の経験から抱かれる事に慣れているのもあって、色々と手間が省ける、と言うのもあるかも知れないが。

 そう言う関係で始まったものである事から、セックスの主導権は専らクライヴに預けられている。
この行為にシドが積極的にならないのは、そもそも彼が自分に欲情している訳ではないだろうから、理解しているつもりだ。
それをどうやって昂らせるかは、クライヴ自身が経験として判っていたから、それで十分。
事務的なセックスであろうと、すれば疲れるものだから、クライヴもそれで良いと思ってはいる。

 が、付き合わせている罪悪感、とでも言うのだろうか。
決してシド自身が望んでの行為ではないとは思うから、クライヴはどうにも後ろ暗いものを感じてしまう。


(だからこれは、俺がそれを拭いたいだけなんだ)


 自分の突飛とも言える行動の理由を、クライヴはそう結論付けた。
行為の始まりにしろ、そのものにしろ、自分の都合だけをシドに押し付けているようで、どうにも気持ちの収まりが悪い。
関係の矢印を相互のものにしようとは思うまいが、何かしらシドが望んでいる事を何か叶えて、この収まりの悪さを軽減したいと言う気持ちがあった。

 が、この隠れ家の長である男は、何にしても要領良く熟している。
此処での生活諸々は、細かい事はオットーに任せていると言うが、大本の采配は彼に決定権がある。
人を動かす事にも慣れているようで、適材適所を押さえるのも上手かった。
クライヴはこの隠れ家に来てから、其処で生活している人から色々と頼まれ事をされ引き受けてはいるが、其処にシドが加わる事はない。
クライヴが手を挟まねばならないような私事を、大概シドは持ち合わせていないのである。

 それなら、夜の事なら、とクライヴは思ったのだ。
それしか自分に持ち合わせるものがない、とも言える。
幸いにもこの体は頑丈であるし、過去の経験のお陰で、少々の無体にも慣れている。
シドにそんな趣向があるとも思ってはいないが、例えば体位だとか、何処をどう触るだとか、或いは若しかしたらシドの方にも某か好みの事があるのなら、クライヴがそれに合わせるのも良い。
ともかく、“シドの望みを叶える”と言うことが出来れば良い、とクライヴは思っていた。

 それらを全て、事細かに説明するには、時間もなければ、先の行為での疲労もあって、少し面倒だった。
じっと見つめる視線は感じていたが、やはり目を合わせる気にはなれなくて、立てた膝に額を押し付けて顔を隠す。

 少しの時間を置いてから、かたり、と椅子が動く音が聞こえた。
ブーツの底が床を踏む音が近付いて来て、顔を伏せたクライヴの後頭部を、ぐしゃりと大きな手が撫ぜる。
無精な髪の毛が微かに指先に絡まったか、痛くはないが引っ張られる感覚があって、クライヴは無言でその手を払い除けた。
顔はまだ上げないまま、間近にある自分の膝の皿を見つめていると、頭の上から声が降って来る。


「お前にして欲しい事、か」
「……ないなら、別に、良いんだが……」


 言い出して置いて、早々に余計な事を言ったのではないかと言う気になって来て、クライヴは小さく呟いた。
ギ、と言う音が直ぐ近くで鳴って、ちらりと見ると、シドがソファに座っている。
クライヴとは微妙な隙間を開けた其処で、シドは愛用の煙草を口に咥え、指先でそれに火をつけた。


「まあ、そうだな。何もないって事もない」
「そう、なのか」


 シドとのセックスは、そろそろ片手で埋まると言う回数になった。
その間、シドは専らクライヴの好きにさせてくれるから、最中の彼が何を考えているのか、クライヴには殆ど判らない。
何処を触れば良いかと言うのは、物の反応を見れば判るが、胸の内の事はさっぱりだった。

 やはり、何かやりたい事があったのか。
或いは、クライヴのやり方に対して、不満がある所もあるかも知れない。
言って貰えるのなら応じ易いと、クライヴは自分の気持ち───それは殆ど、自分自身への後ろめたさを指すが───が空回りで済まなかった事に、俄かにほっとしていた。

 シドは細い紫焔を燻らせながら、


「別に優先して貰う程の事でもないがな。だが、お前がそう言うんなら、少し位は頼んでも良いか」
「ああ。あんたが言う事なら、なんでも」
「そんなに前のめりになるなよ」


 クライヴの言葉に、シドは片眉を寄せつつ、苦笑を浮かべてまたクライヴの頭をぐしゃりと撫ぜる。


「とは言っても、今日はもうした後だからな。何度も出来る程、生憎若くはないんでね。お前にして欲しい事は明日で良い。お前も今日は十分だろう、眠いんだったら横になって目を閉じてろ。俺もこれが終わったら寝る」
「……判った」


 これ、と言って手元の煙草を揺らすシドに、クライヴは小さく頷いた。

 一度起こした体を、再びソファへと横たえる。
束の間の雑談でも、クライヴの意識が覚醒へと向かう事はなく、どちらかと言えばより睡眠への扉を開けたような感覚がある。
ふあ、と欠伸が漏れたので、瞼の重みを自覚して、ゆるゆると閉じた。