縺れ糸を解きながら


 翌日、今日の活動の為に兵装を着込むクライヴに、シドは「今日は少し出掛けるぞ」と言った。
隠れ家で暮らすに辺り、日々何かしらの労働を請け負っているクライヴであるが、オットーやケネスのように、何の役割があると決まっている訳でもない。
出来る雑事ならば殆ど区別もなく引き受けているクライヴは、存外と忙しい所がある。
が、一応、隠れ家の長であるシドから言われた事なら、それを優先事項として受け取っていた。

 シドが向かったのは、隠れ家からロストウィングへ向かう時に使った抜け道だ。
あの時には途中でウォールード兵と遭遇したが、あんな事でもなければ、この道に人がいることはない。
黒の一帯の広がりにより、魔物が餌を求めてこの辺りに棲家を移している事、ザンブレク領の中でも僻地にある事から、行商人が通るような場所でもない。
その所為か、動物の類も比較的多く生息しているらしく、肉類を始めとした動物性の食糧を得るには良いのだとか。

 グレートウッドは鬱蒼とした森だ。
見通しも良くはなく、獣道も同然の足元を踏みながら歩いていると、植物に擬態しているソーン種に襲われる事がある。
それを適当に往なしながら、クライヴは先行するシドの後をついて歩いていた。
傍らにはトルガルの姿もあり、当たりの様子を確認するように、時折ふんふんと鼻を鳴らしている。

 シドは時折、がさがさと足元の草葉を掃除するように蹴って、ゆっくりと歩きながら言った。


「厨房の備蓄がちょいと少なくなってきていてな。手が空いている時で良いから、何か獲って来てくれと言われてる」
「……狩りでもするのか」


 先に聞いた動物性の食糧の話を思い出して、クライヴが言うと、シドは「いや」と答えた。


「ここいらの動物はそれ程デカくはないからな。罠を仕掛けてる場所が幾つかある。引っ掛かってりゃ御の字だ」
「罠猟か」
「ああ。兎か狐か、鳥か。ヴァルチャーがかかっちまう事もあるが、まあ奴等も食えない事はないから、仕留めて持って帰る事もある」
「まあ……ヴァルチャーくらいなら、そうだな」


 見た目も鳥に近しい魔物のヴァルチャーは、平野や森に野生種が多く生息している他、軍用魔獣として使役されている事もあって、見る機会は多かった。
何処にいてもその種は確認できるので、非常時の食糧として仕留め、捌いた事もある。
魔物の肉は基本的に筋張っていたり、腐肉を餌とする類は、その血肉の生臭さもあって、好んで食べたいと思う事もないのだが、配給される食糧も乏しいベアラー兵の部隊にとっては、背に腹は替えられない時と言うのは少なくなかった。

 でも、出来るなら動物の方が良い。
環境柄、食に糸目をつけられるような余裕があった訳でもないから、どういう物でも食べられるなら食べて来た。
そんな環境にいた故にこそ、真っ当に下処理された肉や、たっぷりと茹でられて甘くなった野菜だとか、カピカピに固くなっていない柔らかなパンだとか────そう言うものの有難みが一層染みる。
同時に、幾年ぶりかに真面な食事を得られるからこそ、生臭くて固い魔物の肉など、今更に食べたいとは思わないものである。

 罠を仕掛けている場所について、何か目印でも残していたのだろう、シドが「こっちだ」と言って獣道を逸れた。
クライヴは辺りに潜んでいる可能性のある魔物の襲撃を警戒しながら、シドの後を黙々とついていく。
時折、それをちらと見遣る視線がある事は、気付かないまま。

 茂みの奥で、ガサガサと音を立てている気配がある。
シドとクライヴが近付いている事に気付いていないのか、パニックを起こしているのか、そんな風だ。
もう少し近付くと、流石に足音が聞こえたのか、途端に息を潜めたように静かになる。
構わずシドが茂みを掻き分けると、


「兎か。上等だ」


 良い獲物がかかった、とシドは言った。
兎は食糧になる事は勿論、毛並の良いものであれば、皮もそれなりの値で売れる。
カローンに売れば、彼女がまた何処かでそれを売り、隠れ家に何か有益な品を齎してくれる事もあるだろう。


「クライヴ、周りを見てろ。弱るのを狙ってた奴等もいるだろうからな」
「分かった」


 人間が仕掛けた罠にかかった動物は、それを狙う肉食の生き物から見ても、美味そうに見えるものだ。
多くの生き物は、罠そのものには近付くまいとしばらくは警戒して様子見するが、かかった獲物を弱らせながらその場に留まらせる、便利な代物でもある。
その内獲物が息を切らせれば、強い牙のある魔物なら、可食な部分だけを噛み千切って持って帰ると言うことも出来る。

 兎はまだ元気に生きており、目立った怪我もしていない。
罠はロープを使った括り罠であった為、それに縛られた足が不自由になっている位だ。

 シドは逃げようと暴れ出した兎を手早く取り押さえ、慣れた手つきでその息の根を止めた。
腰に下げていた荷物から麻袋を取り出し、一匹丸ごとを其処に詰める。
その間、クライヴは辺りをくまなく見渡して、遠目に感じる魔物か肉食動物かの襲撃を警戒していたのだが、


「さて。クライヴ」
「……?」


 後方を警戒していたクライヴは、名前を呼ぶ声に視線だけを寄越した。
なんだ、と無言で問うクライヴに、シドは兎の足を捕まえていたロープを解いて、それを見せる。


「罠を仕掛け直そうと思うんだがな。お前がやってみろ」
「……俺が?」


 何故そんな事を、とクライヴは眉根を寄せた。
やれと言われた事を拒否する気は特段なかったが、しかし今ロープを握っているのはシドである。
彼がこのまま罠を仕掛け直す方が、手っ取り早いだろうに、と。

 思いつつも、ほら、とシドがロープを差し出して来るので、仕方なくそれを受け取った。


「やり方は分かるか?」
「あんたと同じものかは分からないが、一応」


 ロザリア公国がまだあった頃、クライヴ自身が行う猟の多くは、アンテロープやビッグホーンの討伐も兼ねていた事もあり、経験したのは巻き猟であった。
だが、野営や遠征の際には、食料調達の方法として必要になる事もあるだろうからと、罠の仕掛け方も幾つか教わっている。
それはベアラー兵として、暗殺部隊に配属されてからも、時折役に立っていた。


「見張りは俺がやっておく。やり方が分からなくなったら聞いて来い」
「……分かった」
「同じ場所より、少しで良いから違う所にしろよ」
「ああ。トルガル、少しここで待っていろ」


 相棒の頭をぽんと撫でると、トルガルは行儀よくその場に座った。
耳はピンと立ってあちこちへと向きを変え、警戒センサーとして働いている。

 シドが仕掛けた罠でかかった兎は、脱出しようと随分と足掻いたようで、地面にその痕跡が残っている。
その内に草木で埋もれてしまうだろうが、クライヴは数メートル先の場所を選んで、手近にあった木にロープを括りつけた。
落ち葉の中に見付けた、獣の痕跡と思しき場所に、罠として括ったロープの輪を隠す。


「終わった」
「ああ、ご苦労さん。じゃあ次だ」


 罠を仕掛け終えて元の場所に戻ると、シドはまた歩き出した。
クライヴは大人しく待っていたトルガルの頭を撫でて、シドの後をまたついて行く。

 仕掛けた罠は全部で四つ、その内の三つに獲物がかかっていた。
クライヴにとっては幸いにも、ヴァルチャーがかかっている事もなく、うち一つに野鳥がかかっている。
鳥は、肉も各部位で使い様があるし、骨は良い出汁が出るとケネスが喜ぶ。
羽根も加工品としても装飾品としても重宝されるので、殆ど捨てる所がないと、シドは随分と喜んだ。
獲物がかからなかった一つについては、もうしばらく置いておくことになった。

 最後に確認した罠には、また兎がかかっていた。
やはりシドが手早く息を止めて、罠の仕掛け直しはクライヴが行う。

 罠を一つ一つ巡る度、シドはその仕掛け直しをクライヴにやらせた。
どうしてわざわざ、とクライヴは問うてみたが、「面倒だからな」と嘯いて見せる。
かかった獲物の息を止めるのも慣れている様子なのに、罠を仕掛け直すのが然程手間なものか、とクライヴは思うが、ロープを押し付けられればやらざるを得ない。
漏れる溜息を殺しつつ、新しく仕掛けられるポイントを探して、茂みの中をきょろきょろと見回した。


(……存外、面倒と言えば、面倒なのか?)


 獲物を捕えたのと同じ場所に仕掛けるだけなら、作業はロープを括り直して、後は目立たないようにすれば良い。
だが、動物にしろ魔物にしろ、警戒心は立派に持っている訳だから、某か違和感を感じた所には近付かないものだ。
それが過去に人の手によって仕掛けられたものがある場所なら、尚の事。
だから少しずつでも良いから新しい場所に仕掛け直さなくてはならなず、且つその手法が括り罠となると、獲物がピンポイントに踏む場所を見極めなくてはならない。
道具の準備の手軽さに反して、難しい手法なのである。


(それなら尚更、シドが場所を選んだ方が良い気がするが。今日だって四つの内、三つは獲物がかかっていた訳だし)


 罠を仕掛けたのがシドなのか、それとも隠れ家にいる誰かなのか、クライヴは知らない。
だが、どちらにせよ、この辺りの植生や動物の習性をまだよく理解していない自分より、シドがやった方が確実性は上がるだろう。

 とは思うのだが、茂みの向こうにいるシドは、てんでクライヴの方を手伝うつもりはないらしい。
クライヴが罠を仕掛ける事に集中できるようにか、彼は周囲の警戒役に努める他は、大人しく待っているトルガルに何か話しかけている位だ。


(まあ……別に。やれと言われれば、やるだけだが)


 色々と思う事はあっても、クライヴがそれを口にする事はなかった。
言うのが面倒と言うのもあるし、それには長いベアラー兵としての人生で、“ベアラーに口はない”と強いられてきたからでもある。
上官からの命令は絶対で、口答えは勿論、況してや反論の類など出来る筈もない、と言う意識はまだまだ彼の深く根付いていた。

 最後の仕掛けを直して、其処に不自然にならず、かつ獲物が上手く足を引っ掛けられる程度に、草葉を被せてカモフラージュする。
あとは時間と共に森の匂いが馴染み、鼻の効く動物たちの警戒に引っ掛からないことを祈るのみだ。


「シド」
「おう。終わったか」
「ああ。……これで次に確認に来た時、全部空振りしていたら、俺の所為なんだろうな」


 皮肉に自嘲を交えて言うクライヴに、シドは気にした風もなく、


「ボウズの日なんて珍しくもない。そう言う時は、釣りでもして帰るさ」
「それも釣れなかったら?」
「ケネスに頭下げるだけだよ」


 どうにかしてくれるだろうと、あっけらかんとして言うシドに、食料問題は割と喫緊なのではないかとクライヴは思うが、しかしそれは獲物が獲れようが獲れまいが変わらぬ課題なのだろう。
黒の一帯で食糧が碌に賄えないのは当たり前で、だからこそ隠れ家の皆は、それぞれの役目の中でその問題を解決しようと努力している。
ケネスもまた、自分の料理の腕とその研究熱心な頭を活かして、少ない食材でも隠れ家の仲間達が満足できるレシピを考案する事に余念がなかった。

 クライヴもまた、彼に食わせて貰っている身だ。
となれば、彼に報いる方法としては、猟でも釣りでも、どうにかその成果を上げて来るのが一番だろう。
今日自分が仕掛けた罠が、次も何かを捕まえてくれる事を祈る他ないのであった。

 獣道に戻ると、其処此処を塞ぐように屯っていたバンパイアソーンやウォーグウルフを退けながら行く。
この道はロストウィングのあるオレーベル・ダウンズに続いている。
カンタンとの情報のやり取りや、彼が保護したベアラーを引き取る事も儘ある為、この道の安全確保は定期的に必要と判断しての事だ。

 相変わらず人も命も気配のない黒の一帯を通り過ぎ、灰のような大地の隙間に覗く、隠れ家への入り口に入って行く。
外から侵入口が目立たぬようにと、入って洞穴はしばらく進むまで灯りもない。
だが、壁伝いに手をつきながら半分も進めば、向かう先に燈火があるのが見えた。
其処まで進むと、チョコボの鳴き声や、羽ばたきの音が聞こえて来る。

 エントランスまで来ると、其処ではチョコボとその世話をしているベアラーたちが二人と一匹を迎えた。


「シド、お帰りなさい。クライヴと、トルガルも」
「おう、ただいま」
「……ああ」


 シドとクライヴに続いて、ワン、とトルガルが一吠え。
隠れ家にいるチョコボ達は、トルガルの事はもうすっかり慣れているのか、吠える声に怯える様子もなく寛いでいる。

 取り敢えず、手に入った獲物を、食糧事情を取り仕切っているケネスに渡さねば───とクライヴが厨房へ向かおうとすると、


「クライヴ。お前、ちょっと此処で皆の手伝いをしておけ」
「……俺が?」
「ああ。手が足りないから手伝ってほしいって事はよく言われてたんだが、俺もやる事が多くてな。代わりにお前に頼んだ」
「それは、別に良いが、獲物は────」
「そいつは俺からケネスに渡しておく。って事で、よろしくな」


 ぽん、とシドはクライヴの肩を叩くと、クライヴが持っていた兎の入った麻袋を浚って行く。
そのままさっさと行ってしまうシドを、クライヴはぼうと見送って、


(……何か、有無を言わさず押し付けられたような気がする)


 空になった手を見つめて、クライヴはそんな事を考える。
ぼんやりと腑に落ちないものを感じたが、隣でトルガルが小さく鳴いたのを聞いて、我に返った。
感じる視線に其方を見れば、厩番のベアラー女性がクライヴを見て、にっこりと笑う。


「シドがああ言っていたし、よろしくね、クライヴ」
「あ……ああ。よろしく頼む」


 一拍遅れて挨拶を返すクライヴに、女性は頷いた。


「チョコボの世話に限ったことじゃないけど、人手はいつも足りない位だから、手伝ってくれる人がいるのは助かるの。クライヴは、チョコボの世話ってした事がある?」
「いや……」


 クライヴは遠い記憶を掘り起こしながら、チョコボの世話の経験について考えてみた。

 愛馬としていた白チョコボとの付き合いは、それなりに長かった。
遠出や狩りの際には、よく彼女に跨っていたものだが、世話となるとどうだっただろう。
ロザリス城の厩舎は兵士の訓練所と近かったから、よく近付いて彼女の首を撫でたりしたものだが、チョコボたちの食事の用意などはそれを仕事にしている者がいた。
愛馬との呼吸を知る為、その絆を重ねる為に過ごす時間はあれど、例えば毛艶を整えるだとか、食事を作るなどは果たして。

 結局、それらしい事をしていたかと言われると、はっきりとは頷けない気がした。
厩番のベアラーに向かって、小さく首を横に振って質問への返答とすると、


「そう。でもチョコボには慣れてる?」
「……どちらかと言えば、そうだと思う」
「じゃあ大人のチョコボも怖くないわね。そっちの木箱に飼葉が詰めてあるから、一束持って来て」
「ああ」


 女性が指差す先には、木箱が二段に積み重ねられていた。
近付いて蓋を開けると、独特の匂いがむわっと広がって、周囲のチョコボ達がそわそわとし始める。
木箱に何が入っているのか、此処にいるチョコボ達は皆判っているのだ。

 ロープで束ねられた飼葉の束を一つ持ち上げ、厩番のベアラーの下まで持って行く。


「これをチョコボに食わせれば良いのか」
「ええ。でも、これを食べさせるのは、こっち側の子達だけ。その柵から向こうにいる子は、別のものを食べさせる事になってるから、一緒にしないように気を付けて」
「分かった」


 空間の仕切りの代わりに設けられている、木材を組み立てて作られた簡易な柵。
その此方側と向こう側とで、チョコボの大きさが見るからに違う所を見るに、向こう側にいるのは成長期の若いチョコボだろうか。
あちらも腹が減っているのか、クライヴの抱えた飼葉を物欲しそうに見る目があったが、其方には厩番のベアラーが別の木箱から出した飼葉を運んで行った。


「さあ、皆。ご飯ですよ」


 クエ、クエ、とチョコボ達が嬉しそうな鳴き声を上げている。
厩番のベアラーが、チョコボ一頭ずつに飼葉を分けて与えているのを見て、クライヴもそれを真似した。
早く、と言いたげに頭を寄せて来た一頭に、一掴みした飼葉を差し出せば、大きな嘴でぱくりと食み付く。

 チョコボは賢い生き物で、だからこそヴァリスゼアの全土で、様々な形で人と共に暮らしている。
人を背に乗せ、荷物を載せ、キャリッジを引き、農耕馬としても働いてくれる存在だから、何処に行っても重宝されていた。
野生種もあちこちに点在しており、群れを形成して野に暮らしている所もよく見かける風景だ。
人の命令をよく聞いてくれることから、軍馬としても利用される事も多い。

 この隠れ家にいるチョコボ達は、よくよく人に慣れている。
食欲も旺盛で、まだ欲しい、もっと欲しい、と食べた傍からおかわりをねだって、ツンツンとクライヴの頭や背中を突いて来た。
どれ程食べさせれば終わって良いのか分からないクライヴは、取り敢えず抱えていた飼葉がなくなるまで給餌を続けた。


「……まだ欲しいのか?」
「クエッ」
「…少し待ってろ。取って来るから」


 黒々とした綺麗な瞳が、頂戴、とねだってくるのを見て、クライヴは空の両手を見せながら言った。
クライヴの言った事が分かっているのか、チョコボは大人しく佇む。

 新しく飼葉を運び出せば、どのチョコボも欲しがって嘴を寄せて来る。
取り合いの喧嘩が起きないように、クライヴはチョコボ達の喉を柔く叩いて宥めながら、端から一頭ずつにおかわりの飼葉を食べさせて行った。


(よく食べるな。健康だって事で良いんだろうか)


 食べないよりは食べる方が元気ではあるのだろう。
でも食べすぎも良くないんだろうな、と思いつつ、しかし辞め時も分からないクライヴは、いつのまにかおかわり分の飼葉もすっかり空になるまでチョコボ達に食べさせていたのであった。

 まだ餌を欲しがるように、クライヴの髪の端を摘まむように噛むチョコボを、首を撫でてあやしていると、


「ご飯が終わったら、次は毛並を整えてあげるの。ブラシはこれ」


 厩番のベアラーから差し出されたブラシは、動物の毛で作られたものだった。
受け取って、まずは更なるおかわりを欲しがっているチョコボの首筋に当ててみる。
軽い力で毛の流れに沿って撫でてやると、チョコボは心地よさそうに天井を仰いで、首を差し出した。


「そうそう、上手上手。優しくゆっくり撫でてあげて」
「……これで良いのか?」
「ええ。お腹の回りは別のブラシを使うから、そのブラシは首と背中に使ってね」
「分かった」


 上から下へ、柔らかい力加減で、丁寧にブラッシングを行う。
チョコボは気持ち良さそうに目を細めて、クライヴに身を委ねていた。
首の前後ろを梳いた後、外出時には鞍が乗っているのであろう跡のある背中を丹念に撫でる。

 チョコボは体高二メートルを越えるものも多く、ヒトが乗る背中も中々高い位置にある。
身幅もそれなりにあるので、全身くまなくブラッシングすると、中々の重労働だ。
クライヴは滲む汗をぬぐいながら、チョコボ達の体を丁寧に身綺麗にして行った。

 一頭、二頭とブラッシングを続け、三頭目の背中を梳いていた時だった。
ブラシを動かしていると、チョコボが嫌がるように背中を逃がそうとする。


「……?」


 ふるふると体を震わせるチョコボに、クライヴは眉根を寄せた。


「どうした?」
「クエェ」
「……嫌なのか?」


 クライヴが尋ねると、チョコボは後ろ足を踏んだ。
背中を庇う仕草に、どうしたものかクライヴが立ち尽くしていると、


「どうかしたの?」


 厩番のベアラーに声を掛けられて、クライヴはその顔とチョコボとを交互に見て、


「背中のブラッシングを嫌がっているように見えるんだ。そう言う奴なのか?」


 チョコボにだって性格はあるもので、何処が触れるのが好きだ嫌いだと言うのもあるだろう。
嫌ならこのチョコボの背中を触るのは止めた方が良いだろうか、とクライヴは思ったのだが、厩番のベアラーは首を捻り、


「嫌がるの?ちょっと待って。よしよし、良い子」


 ベアラーはチョコボに歩み寄ると、ぽんぽんと首を撫でて宥めた。
よく躾が行き届いたチョコボを、座るように促してやれば、チョコボは大人しく足を折る。
地面に座ったチョコボの背中を、厩番のベアラーが覗き込むようにじっと睨み、両手で背中の毛並を丁寧に描き分けて行った。


「ああ、あった。虫に噛まれたんだわ、可哀想にね」
「……害虫か?」
「多分そう。外に出た時にくっつかれたのかも。おいで、洗ってあげる。クライヴは、床の掃除をお願いしても良いかしら」


 厩番のベアラーはチョコボの手綱を柵から解きながら言った。
クライヴが足元を見てみると、食事の名残に落ちた飼葉の端切れや、チョコボの抜け毛があちこちに落ちている。
分かった、と短く答えると、ベアラーは「よろしくね」と言って、チョコボ用の洗い場にしている場所へと移動した。

 多分、箒か何かがあった筈だとクライヴが辺りを見回すと、壁に立て掛けられた箒と塵取りを見付ける。
箒を取って、軽く足元を掃いてみると、チョコボの毛がふわっと舞い上がった。

 黙々と掃除をしていると、時折、ツンツンと肩や頭が突かれた。
厩舎で暮らすチョコボ達に、まるで珍しいものを眺めるように見られている気がするのは、強ち外れてはいない。
いつもこのエントランスを通り抜けるだけだった男が、珍しく自分たちの寝床回りに長居していれば、何をしているのだろうと覗きたくもなるか。
しかし、餌遣りとブラッシングをしたお陰か、チョコボ達から嫌われている訳でもないようで、噛み付かれたりする事もない。

 そんな風にチョコボ達から眺められているクライヴはと言うと、


(……チョコボの匂いって、独特だな……)


 隠れ家で過ごすようになってから、エントランスは何度も通ったが、こんなにもチョコボの匂いで一杯だっただろうか。
いや、この匂いは若しかしたら、飼葉の中に入っていたギサールの野菜の所為かも知れない。
試しに自分の手を嗅いでみると、辺り一帯で漂う匂と同じものが、より強くグローブの指先に残っていた。

 と、その手に大きな嘴が寄って来て、かぷり、と噛まれる。
あぐあぐと厚くて弾力のある舌が動いて、手指に当たっているのが分かって、クライヴは苦笑いして嘴の持ち主を見た。


「悪いが、食えるものは持ってないぞ」


 グローブのお陰で、噛まれている手は痛くはない。
しかしいつまでも噛まれているのは、チョコボの方にも良くないと、クライヴは持っていた箒を自分の体に立て掛けて、空いたその手でチョコボの首をポンポンと撫でた。


「クエェ」
「……良い子だ」


 咥えられた手が自由になって、クライヴは唾液のまとわりついたグローブに苦笑いしつつ、チョコボの嘴の下を擽ってあやす。
チョコボは嬉しそうに目を細めて、ふりふりと尾羽を振るわせて見せた。
───その仕種が、嘗て自分と共に野を駆けた“彼女”の姿と重なって、じんわりと重いものがクライヴの胸の内に滲む。


(……アンブロシア)


 もう何年も呼んでいない、呼ぶ相手のいない名を、胸中で呟く。
黒々とした瞳が二対、此方をじっと見下ろしているのを見て、クライヴは己の衝動による行動が、彼女の片目を潰してしまった事を思い出した。
息が詰まるような気がして、何かを言おうとした唇が、形のない吐息だけを吐き出す。

 かぷ、とクライヴの肩が噛まれたのはその時だ。
肩宛て越しに分かった重みに、いつの間にか伏せていた顔を上げて見遣れば、別のチョコボがクライヴの肩を噛んでいる。
嘴が強く食い入るでもない、甘噛みをするチョコボに、クライヴの眉尻が下がりながらも唇が緩む。


「食うものはないって言ってるだろう」


 肩を食むチョコボの頬を撫でてやると、ちらと瞳が此方を見た。
噛んでいた肩から離れて、クエッ、とチョコボの高い鳴声が響く。
それからチョコボは、クライヴの頬に頭を寄せて、黄色い毛並に覆われた額をぐりぐりと押し付けて来た。
じゃれている時のチョコボの仕草だ。


「どうしたんだ。俺は何も持っていないぞ」
「クエ、クエェ」
「クエッ」


 仕切りに鳴いては、前後から挟まれて顔を寄せられ、クライヴは困り切った表情を浮かべていた。
あんまりにも懐いて来るその様子に、まだ食い足りなかったのだろうか、と思うが、余りに食べさせても肥満になってしまう。
流石にそれは生物の健康として良くないことは判っているから、追加の給餌をするなら、厩番のベアラーに確認を取ってからの方が良いだろう。
しかし、彼女はまだ水場に連れて行った一頭の体を洗っている所なので、もうしばらく此方には戻って来そうにない。

 クライヴは箒を柵に立て掛けて、二頭のチョコボにそれぞれ腕を伸ばした。
柔らかな毛に覆われたチョコボの頬を撫でてやると、二頭は嬉しそうに目を細めて、クエ、クエッ、と鳴く。
結構表情が多い生き物なんだな、とクライヴは思った。

 改めて箒を握って掃除を再開させる。
零れた飼料、抜け毛、糞の始末を片付けている間、二頭のチョコボは仕切りにクライヴに構い付けた。
腰布を食んで引っ張るチョコボの頭を撫でてやれば、また嬉しそうな鳴声が零れる。

 チョコボを洗いに行っていたベアラーが戻って来て、元の位置にチョコボを繋ぐ。
綺麗に体を洗われたチョコボは、心なしかすっきりとした表情を浮かべて、まだ少し湿り気の残る体をぶるぶると震わせた。
体を洗った時にブラッシングも終えて貰ったようで、抜け毛が舞い散る事もなく、艶のある毛並がふんわりと立っている。


「お掃除ありがとう。うん。とても綺麗になったわ」
「集めたゴミは、どうすれば良い?」
「この箱をゴミ箱にしてるから、ここに全部入れておいて。あ、糞はこっちね、植生研究をしてる人達が、肥料として試してみたいんですって」


 岩壁の隅に置かれていた木箱を指差すベアラーに、分かった、とクライヴは頷いた。
塵取りで取ったゴミを出来るだけ選り分けて、指定のゴミ箱に移しておく。

 足元がすっきりとした住居で、チョコボたちは満足そうに過ごしている。
厩番のベアラーが新しい藁を持って来て、チョコボの寝床を整えると、一頭のチョコボがふくふくとした顔で其処に座った。

 これでやる事は一通り終わったのだろうか。
案外と重労働だったな、と凝った感覚を訴える首を揉み解していると、


「此処はもう大丈夫。手伝ってくれてありがとう、クライヴ」
「……ああ」
「また手が欲しくなったら呼ぶかも。良ければお願いね」
「…ああ」


 仕事ならば、特に何でも関係なく、クライヴは引き受けるつもりだ。
この隠れ家に身を置いている以上は、それ位の働きはしなくてはいけないと思っている。

 シドに押し付け気味に頼まれた事は、これで終わった。
取り敢えず、報告だけでもして置こうかと、恐らくは私室にいるのであろうシドの下へ向かおうとしたクライヴだったが、こつんと肩を後ろから小突かれて足を止める。
振り返ってみれば、二頭のチョコボがまじまじと此方を見下ろしていた。


「どうした」
「クエッ」


 何と言う訳でもないが話しかけてみれば、チョコボは嬉しそうに鳴いて尾羽を震わせる。
顔を寄せて来る二頭をそのまま受け入れていると、頬肉がクライヴの頭を挟んで摺り寄せられた。
随分と懐かれたようだな、と二頭の首をぽんぽんと撫でてやると、髪の毛の端が軽く摘ままれた。
見れば、体を洗ったチョコボが此方をじいっと見下ろし、嘴を寄せてくる。
ぐりぐりと額を擦り付けるように後頭部に押し付けられて、意外と力が強いな、と頭が揺れる。

 床に伏せてリラックスしていたトルガルが頭を上げた。
ワン、と鳴くその声に呼ばれた気がして首を巡らせれば、すっくと立ったトルガルの視線の先に、ぷかりと浮いた白い毛玉───モーグリの姿がある。


「……ネクタール?」


 糸のように細められたその目が、じいっと此方を見ている事に気付いて、クライヴは首を傾げながらその名を呼んだ。
ネクタールはふよふよと此方に近付いて来て、


『なんだか皆楽しそうクポ。モグも混ぜるクポ』
「混ぜるって……お前もチョコボの世話がしたいのか?」


 両手を振ってねだるように言ったネクタールに、どうしたものかとクライヴは片眉を下げる。
掃除も餌遣りも終わっているし、何をさせれば良いのか、いやそもそも、人の胸像部程度のサイズをしているモーグリにチョコボの世話をさせるのは無理があるのか。

 そんな事を考えていたクライヴだったが、ネクタールはふるふると首を横に振った。


『チョコボの世話は、それをしてる人の仕事だから、モグが勝手に取っちゃダメだクポ。そうじゃなくて、さっきからチョコボたちがあんたに撫でられる度に気持ち良さそうにしてるのが気になってたクポ』
「ああ……そう言う事か」


 つまりは、自分もチョコボと同じように撫でろ、と。

 クライヴは自分の右手を見た後、それを目の前でふわふわと浮かぶ毛玉に向かって伸ばした。
グローブに覆われた手が、ふかっとした毛並の中に入って、手のひらの厚みの半分程度が其処に埋まる。
頭と胴体と言うほぼ二頭身のモーグリに、首らしい首は見当たらなかったが、恐らくはこの辺りだろうと適当に当たりをつけて、首を擽るように指を動かしてみた。
────すると、


『クッ、クッ…クポっ……これは……!』
「……嫌なら止めよう」


 ぷかぷかとした体を宙に浮かせながら、脱力するように天井を仰ぎ始めたネクタールに、クライヴはすっと手を放した。
すると、ネクタールは半端に天井を見上げていた体をがばりと起こし、


『そんなのダメクポ。もっと続けるクポ』
「……こうか」
『クポポぉ……』


 ねだるネクタールに言われるままに、クライヴはネクタールを撫でる手を再開させた。
毛並の隙間に入れた指で、トルガルによくしてやるように、柔く掻くようにくすぐってみる。
ネクタールはまた天井を仰ぎながら、夢現の顔でぷかぁ……と宙に浮いた。

 クポぉ、クポぉ、とまるで夢でも見ているかのように、ネクタールは鳴きながらクライヴの撫でる手を受けている。
止めようとすると「まだクポ」と言われるので、クライヴはしばらくの間、ずっとネクタールを撫でていた。
そうしていると、後ろからチョコボが「自分も」と言いたげに突いて来るので、そちらもあやせば、クライヴの両手はいつまでも空かない。

 いつまでも厩に留まっていても邪魔になるな、そろそろ移動しないと───と思っていた時だ。
くつくつと笑う声が聞こえて、其方を見てみると、シドが立っている。
腕を組んで此方を眺めるその瞳が、何処かにやにやと楽しそうに見えて、クライヴは眉根を寄せた。


「なんだ?」
「いや。懐かれたもんだなと思ってな。動物好きか?」
「別に……嫌いなつもりもないが」
「そうか」


 表情を変えずに答えたクライヴだったが、何故かシドは満足そうな表情を浮かべていた。
彼の組んだ腕が解けて、その手がクライヴの頭をぽんと撫でる。


「もう昼過ぎだ。飯にするぞ」
「……ああ」


 わざわざ呼びに来たのか、それとも頼んだ仕事の状態でも確認しに来たか。
何れにしろ、彼に厩舎の仕事が終わった報告はするつもりであったから、彼の方から此処に来てくれたのは、クライヴにとっては手間が省けたことだった。
ついでに、言われると確かに腹も減っていたので、胃が埋めるものを欲しがり始めている。

 ラウンジに入ると、厨房でケネスが随分と張り切っていた。
シドとクライヴが持って帰った獲物のお陰で、彼の機嫌は随分と良いらしい。
良いものが食えるかもな、と此方も上機嫌に言ったシドに、それなら働いた甲斐もあるのだろうとクライヴは思った。