砂漠の蜜


 フェニックスゲートから戻って来たクライヴは、見慣れない様相になっていた。

 隠れ家で過ごすようになっても、其処に長く留まることを歓迎してもいなかった為か、彼は長らくザンブレク軍の兵装を使い続けていた。
ベアラー兵に与えられる装備など、ろくろく真面な手入れもされていないものばかりであるから、ブラックソーンの腕で手入れをしたとて、遠からず使い物にならなくなって行っただろう。
それでも彼が兵装を替えなかったのは、別段、ザンブレク軍に愛着があった訳ではなく、長居をするつもりでもなかった筈の隠れ家に対し、恩義か義理か、そう言ったものを重ねる事への抵抗もあったのだろう。
結局の所、叶う事のなかった“弟の仇討ち”を果てれば、その命がどうなろうと眼中にもなかったであろうから、捨て鉢になっていた事も否めまい。

 だが、フェニックスゲートへ向かう道中にあったイーストプールの村で、旧知の人と出逢った事で、少しばかりその考え方にも変化があったようだ。
その人から譲り受けたと言う深紅と漆黒の旅装は、嘗ての公太子───つまり彼の父親の若かりし頃のものだとか。
長らく仕舞い込まれていたそれも、息子であるクライヴが貰うのならば、正当に受け継がれたと言って良いのかも知れない。

 その後、ジルと共に隠れ家に戻って来たクライヴは、受け継いだ旅装で日々を過ごすようになった。
フェニックスゲートで自分自身を受け入れる決意をし、直後、イーストプールで起こった惨劇を目の当たりにした彼は、自分自身が何をするべきかと言う標を確固とした。
改めて顔を合わせた時の、以前と違う表情を見れば、彼が以前に比べて随分と落ち着きを得たことは確かだろう。
まだ時折ぎこちない所はあるものの、隠れ家で暮らす人々とも会話が増えたようで、元より真面目な気質から頼り甲斐が寄せられていた所に、元の気の優しさが見えるようになった事で、人望と言うものも集まっているように見えた。

 病は気からと言うが、やはり体からと言うのもあるのだろう。
何処で聞いたか最早記憶にはなかったが、シドはそんな事を思った。

 クライヴはロザリア公国の大公筋の直系嫡男として生まれ、相応の教養を与えられてきた筈だ。
其処には、ドミナントとしての覚醒はならなかったものの、元はと言えばそれにも即した意識を育てる為の思想教育もあっただろう。
当然、祖国に対する愛国もそれには含まれており、“フェニックスのナイト”としての意識の根底とも繋がっていたに違いない。
その環境下で十五の齢ともなれば、自意識も価値観も根付いていただろう。
そんな彼にとって、故国が奪われようと、十三年の奴隷に課せられようと、喪われた母国の仇敵とも言えるザンブレク皇国に忠誠など誓うまい。
彼が長い間、ザンブレク軍のベアラー兵として生きて来たのは、“弟に生かされた”ことと、“弟を殺した仇を討つ”為だけが理由だ。
だからニサ峡谷で、氷のドミナントであったジルと再会した時に、彼女を殺すくらいならばと、友軍たる男に剣を向ける事を躊躇わなかったのだろう。

 それ程の事を躊躇わず選んだクライヴでも、兵装は長らく、奴隷の身分のままであった。
止むを得なかった事と言えばそうだが、彼に新たな装備を受け取ることを良しとする程の理由が見当たらなかったのはあるだろう。
ありもので十分、と半ば自分に対しての捨て鉢さが、そんな思考を持たせていたのも考えられる。
だが、嘗て父が使っていた旅装を、それを預かり続けていた人から渡されると言うのは、極端な話、彼にとって無碍にし難い所もあったに違いない。

 だが、そのお陰でクライヴは、“ザンブレクのベアラー兵”と言う立場から脱却する事が出来たのだ。
思い悩むことは幾らも減ってはいないだろうが、足元ばかり、後ろを見つめ続けて来た頃とは変わりつつあった。




 クライヴとジルがフェニックスゲートから帰って来た後、二人は隠れ家の人々との交流の機会が増えた。
共に真面目な性格と、気の優しさのお陰で、皆からはよく慕われている。

 シドが隠れ家を空ける際には、細々とした事はオットーに任せているのが常であったが、彼は水夫としての経験はあっても、荒事には不向きな方だ。
視野の広い男であるから、それでも必要に応じて采配をしてくれるが、魔物の危険性や、ベアラー保護に利用するルートを決める際、国の正規軍の巡回ルートの影響を加味して、現地での動きを考えると言うのは、長く戦場に身を置いていたクライヴの方が適していた。
そのお陰か、仕事が半分減って楽になったよ、とオットーから冗談めかされて言われた時、シドは肩を竦めたものであった。

 実際、クライヴの戦闘の腕は確かなものだ。
年少の自分から培われた騎士としての知識に加え、十年以上も戦場の只中で生きた経験は、彼を“戦う者”として確かに成長せしめている。
加えてイフリートのドミナントとして覚醒し、理由は分からないが、ガルーダの力も吸収してその実のものとした。
隠れ家の安全を保つ為、腕利きの協力は一人でも多く欲しい、とシドも言ったが、まさかこれ程のものとは想像していなかった。
全く大した拾い物をした、と偶然の噛み合わせにシドも感慨一つも沸くものだ。

 それでもクライヴの頬には、未だベアラーとして刻まれた刻印がある。
それを消さない以上、彼の身分はベアラーのままだが、刻印除去の手術に関しては、そもそものリスクがある上に、入念な準備も必要だ。
刻印がなければ彼もかなり自由に動けるとは思うが、遠からず皇都オリフレムへと向かう予定がある事から、彼にそれを打診してみるのも躊躇われた。
また、刻印がありながらも自我が明瞭である彼がいる事で、出先で保護したベアラーが、幾何か気を許してくれる事もある為、今しばらくはそう言った理由もあって、現状維持となっている。

 そして時折、ベアラーとして明らかである彼の立場を利用した作戦を取る時もあった。
シドはあまりそう言った手段を使う事を良しとは思っていないが、止むを得ないと言う場合もあった。

 ────ダルメキア共和国にいる協力者から、とある主人の下にいるベアラー達を保護して欲しい、と言う連絡があった。
主人は一代で財を成したと言う商人で、定期的にベアラーを買い付けては使役していると言うが、どうもベアラーへの扱いと言うものが可笑しい。
ベアラーを物として扱う主は何処にでもいる───寧ろヴァリスゼアではそれが普通と言うレベルだ───ものだが、何でも主人の“性的な癖”の道具として使われているとか。
ベアラーに対して興奮するなど、“際物趣味”と揶揄されるが、そう言った輩は存在する。

 件の商人は一所に店を構えず、幾つかの宿場町を回り歩いて商売をしていると言う。
ルートはほぼ決まったものであったから、何処かで張り込んでいれば補足できるだろう。
問題は、気に入ったベアラーを常に傍に侍らせている為、囲われている全員を保護するのであれば、主とベアラー達を離さなければならないと言う事だ。
商人ならば商談なりと気を引く手段はあるとは思うが、ベアラーの安全を確保するまでの時間を稼ぐのは、中々労がいる。


「────って訳で、お前に気を引いて貰おうと思うんだがな」


 私室に呼びつけたクライヴに、一連の出来事を伝えてからそう付け足すと、クライヴは情報を整理する為か考える表情を浮かべた後、


「俺に、商人を引き付ける囮になれと言う事か」
「まあ、そう言うことなんだけどな」
「囮になる事は俺自身は構わないが……印持ちが商談を進める訳もないだろうし、どう時間を稼げと言うんだ?」


 腕を組んで鈍い表情を浮かべるクライヴに、シドは机に頬杖をついて溜息を吐いた。
ガブならば此処まで説明すれば概ね分かってくれるのだが、それも彼を拾ってからそれなりの歳月がある事と、何度か似たような作戦で囮役を引き受けて貰ったからというもの。
経験からの察しが早いガブは、説明をしている時点で分かり易い顔をしてくれるのだが、流石にクライヴにはまだ其処までの事は期待できないので、噛み砕いて説明する事になる。


「分かり易く言えば、色仕掛けみたいなもんだ。お前が件の主の目に適えばって前提にはなるが、一、二時間程度、気を引いといてくれれば、報告にあるベアラー達は安全圏に連れて行ける算段になってる」


 囮役とはつまり何をするのかと、それを説明するシドの言葉に、クライヴの眉根が分かり易く顰められた。
ベアラー兵としてザンブレク軍にいた頃、否応なくその体を暴かれた経験を持つ彼にとって酷く嫌悪を呼ぶという事は、シドも理解している。


「何もお前に本当にその手の相手をしろなんて事はない。タルヤが作る睡眠剤を渡すから、酒なり飯なりに混ぜて、主が寝落ちたら抜け出せば良い」
「……そんなものを仕込める暇があるのか?宿屋に協力して貰うとか?」
「それが出来れば安全だとは思うが、生憎そっちはな。宿屋の方も、件の主が常連で、そこそこ掴まされてるらしいから、こっちへの味方は期待できないだろう」
「それじゃあ自分で仕込むしかない」
「ああ。で、お前は俺が主と言う体で接触するつもりなんだが、お前が奴の眼鏡に適えば、お前を含めて飲み食いの相手を位はする時間が取れる。どうも酒飲みらしくてな、事の最中に飲んでるような奴だ。ベアラーを眺めながら酒を飲むのが好きなんだと。それが他の主を持つベアラーでも、一晩借りようとする位には、お気に入りの行事らしい」
「………」


 クライヴの表情がじわじわと険しくなり、胡乱なものになる。
酔狂だ、と言う呟きが聞こえるような気がした。
酒の肴に他人を───ましてや奴隷を眺めて酔い浸るなど、クライヴにとっては理解し難いものだろう。


「その間にこっちの仕事が終われば結構だが、多少なり時間がかかると見てはいる。部屋に誘われる事があれば、一旦はそれについて行って貰いたい。俺が合図をするまで時間を稼いで貰いたいからな。だからそれなりに面が良くて、酒飲みに付き合わされても平気な奴に囮になって欲しい訳だ。肝心な時に酔い潰れられたら、脱出も出来なくなる」


 クライヴが隠れ家へ来てから、シドは何度か酒を奢っている。
それは頼み事の報酬代わりであったり、他の仲間達との歓談に───半ば強引に───混じらせる為であったり。
そうして案外と杯を重ねることがあるのだが、どうやらクライヴは随分と酒に強いようで、酔い潰れたことがないのだ。

 作戦としては、まずはシドが商人のふりをして件の人物と接触し、クライヴはシドを主に持つベアラー兵として共に近付く。
商談を持ちかけて酒の席に誘導し、其処でクライヴが当該人物の目に適えば話はスムーズだ。
クライヴが時間を稼いでいる間に、シドはベアラーたちの保護に向かい、別隊として待機させている仲間と合流する。
ベアラーを主の目の届かない所まで逃がしたら、シドはクライヴを迎えに行く算段だ。


「主が俺を気に入らなかったら?」


 そもそもの前提が其処にある事に、クライヴは眉根を寄せつつ確認する。
幾らクライヴがベアラー兵であった頃に周囲からその手の目を向けられやすかったとは言え、それには“元貴族”と言うことが知られてしまっていたからだ。
時間と共にそれは本当か嘘かという程度にもなったが、そんな話が実しやかに語られるだけでも、餓えた狼たちには格好の餌になる。
だが、それは男所帯の部隊に長らくいたからであって、そんな環境でもなければ、自分が可惜に他人に気に入られるようなことはない───とクライヴは考えている。

 自分の外見と言うものを分かっていないな、とシドは思いつつ、言った所で首を傾げそうな青年に、まずは必要な回答を出しておく。


「そうなったら、俺が商談で時間を稼ぐ。俺とお前でそっくり仕事を交代さ。印持ちが一人で行動するのはリスキーだが、先に別隊と合流したら誰かに主役になって貰うのが良いだろう。ベアラーの保護はそれからだ」
「……それが無難なんだろうな」


 シドの言葉に、クライヴは右手を刻印のある頬に当てながら呟いた。
何にしても不自由を強いるベアラーの刻印に、募る理不尽な思いはあれども、それを無言に飲み込む仕草があった。

 大仕事が終わった後なら、刻印を除去する手術について、説明くらいはしても良いかも知れない。
大義を持つ意志を見つめ始めた今、伴うリスクに頷く気になるかは分からないが、選択肢としてそれを考えてみるのも良いだろう。
そんな事を思いながら、シドは更に詳細な打ち合わせの為に、今回の作戦地となる宿場町近郊の地図を取り出した。