砂漠の蜜


 ダルメキア共和国は、その領土内に大きな砂漠を有している。
中央に砂漠、それを囲むように、赤茶色の岩崖が聳える地域や、疎らに草が生える程度の荒野がある。
雨の少ない地域である為、作物が育つには中々厳しい条件である事から、食糧自給の多くは輸入に頼っていた。
国内では商売が盛んであり、行商は過酷な砂漠の度を何度となく往復する事になるが、それでも上手く当てれば一攫千金の夢を見ることも出来るだろう。
半面、砂漠の地、そして其処に住む魔物も総じて腹を空かせて凶暴である上、更に野盗も多い為、その旅路はロザリア領やザンブレク皇国よりも危険である。
商人でも旅人でも、傭兵を伴うキャラバンであっても、襲われたことで砂漠の砂へと埋もれる事になる者も、後を絶えなかった。

 今回、シドがクライヴを伴って向かったのは、砂漠の中に点々と存在する小さな町宿のひとつだ。
ダルメキア共和国の首都ランデラと、国内西部にあるマザークリスタル・ドレイクスパインの間にあるもので、砂漠を横断する者が休息の為に利用する事が多い。
ドレイクスパインの膝下にある宿場町ダリミルほどの栄えはないが、利用客が後を絶えない為か、宿屋は複数のものが構えられている。
そのどれに件の人物が宿泊するのかは、事前に報告があった。
シドの動きを知っているような者がいなければ、今回もその宿を使う筈だ。

 行商人は一週間単位で町に滞在し、商品の納品と仕入れ、細々とした売買を行った後、次の町へと出発する。
シド達が町に到着した時は、既に仕入れも商売も終わった後で、目算通りなら明日には次の宿へと出発すると言う所だった。

 作戦の全体の安全の為には、町の周辺状況も確認できる時間があれば良かったのだが、流石に其処までの余裕は取れそうにない。
しかし、今回の商売がそれなりに上手く行ったこともあって、明日の出発に向けて商人の気は緩んでいる。
急ぎ仕事にはなるが、下手に次のチャンスを狙うよりも好機と言えた。

 町の中には、恐らくこの地を整えているのであろう顔役が雇った、私兵と思しき兵士の姿がある。
これで白昼堂々と他人のベアラーを誘拐できる訳もなく、まずは夜を待つことになった。
作戦実行に使う移動ルートの確認も兼ねて町を歩きながら、シドは腹ごなしに肉屋で売られていた鶏肉の串焼きを購入する。
その隣には、旅装の黒いマントのフードを目深に被ったクライヴがいる。
更にその傍らには、ぴったりとクライヴに付き従うように寄り添っているトルガルの姿があった。

 町を行き交う人の波は、多過ぎず、少な過ぎず、と言った具合だ。


「これが夜にどれだけ減るかだな」
「……娼館があるなら、それなりに人出は多そうだが」
「小さいものならある。町の南側だな、此処とは反対側だ」
「それなら、人の流れはそっちに集中するか」
「東西は広い通りがある。南に紛れるか、こっちで手早く行くか。報告されてる人数を思うと、余り無理はしたくない所だな」


 金に明かせてお気に入りのベアラーを侍らせるのを趣味としている件の人物は、最低でも三人のベアラーを持っていると言う。
逃げられると知って能動的になってくれるのならば良いが、ベアラーはそれすら難しい事も少なくない。
庇いながら隠れ逃げるとなると時間がかかってしまうもので、出来れば人通りの少ないルートを使いたかった。


「別隊の待機は何処に?」
「町から出て北東に村がある。もう誰も住んじゃいないがな」
「ベアラーに砂漠越えは厳しいぞ……」
「ああ、だからチョコボを借りる。そっちは伝手を使って用意してあるから問題ない。ベアラーを連れて、チョコボを引き取って、街を出る……最低でも、其処までは時間を稼いでおいてくれ」
「……一時間、二時間。そんな所か」


 町の規模と、ベアラーの主が使うと言う宿屋の位置から計算するクライヴに、概ねそんな所だろう、とシドも頷いた。

 ふう、とクライヴが小さく溜息を洩らした。
シドがちらと其方を見れば、フードの奥に伏目勝ちに隠れた「気が進まない」と言う表情がちらちらと覗いている。


「気を引いて時間稼ぎなんて、あんたの商談の方が良いんじゃないかと思ってたが……やっぱり、あんたが保護に動いた方が滞りがなさそうだな」


 クライヴにしてみれば、自分が囮役など、と言う所は未だに残っていた。
刻印がある事を利用した所で、件の人物の眼鏡に適わなければ論外な話な訳で、それなら交渉に慣れたシドが主の気を引いた方が確実なのでは、と思っている。
しかし、印持ちの自分が一人で町中を行動するリスク、それに加えて状態の分からないベアラーの保護と、チョコボの引き取り等々の手間を思うと、やはりシドが行動した方が良い。


「理解してくれて何よりだ。ま、どうしても奴がお前を気に入らないようなら、相手は俺が引き受ける。チョコボを預かってる奴にお前の特徴は伝えてあるから、引き取りはスムーズに出来る筈だ」
「後で場所を教えてくれ。念の為だ」
「ああ」
「抜け出す合図は何を?」
「宿でお前が飲んでる内に終われば戻る。だが、まずそのタイミングは難しいから───トルガルに鳴いて貰うか」


 名を呼ばれた狼が顔を上げ、二人の顔を交互に見る。
人の多い場所でも、クライヴの傍から離れないトルガルは、まるで人語を解しているかのように賢い。
宿の裏手、人目には目立たない場所で吠えてくれれば、その声も聞こえるだろう。


「そうだな。トルガル、頼めるか」
「ワフッ」


 クライヴの言葉に、此処までのシドとの遣り取りも含めて理解したと言わんばかりに返事をするトルガル。
よしよし、とクライヴが頭を撫でてやれば、トルガルは嬉しそうに目を細めた。
全く賢い奴だと、シドもわしわしとその頭を撫でると、トルガルは大人しくそれを受け入れてゆらりと尻尾を振って見せる。


「優秀な相棒で何よりだ。あとは────別動隊にベアラー達を預けたら、余力があればお前を迎えに行くつもりはあるが、何処までそんな余裕が取れるかは分からない。だからクライヴ、お前が脱出した後は、自力で合流地点まで来て貰うことになるだろう。酒飲みの相手とは言え、お前も気を付けておけよ。お前の今の風体だと、ベアラーでもそれなりの傭兵に見えるもんだが、力のない奴が腕の立つ傭兵にどうこうする手段ってのはない訳じゃないからな」
「ああ、気を付けておこう」


 シドの忠告に、クライヴははっきりと頷いた。
が、シドはどうにも、この良くも悪くも真っ直ぐな気質を持った青年が、自分の言葉の含みの所まで理解しているとは思えなくて、なんとも言えない表情が浮かびそうになる。
結局シドは、「……十分気を付けるんだぞ」と言うに留まったのであった。




 よくある造りにあるもので、二階を宿、一階を食堂として開いている所は、夜遅くまで酒盛り客で賑わっているものだった。
シドはクライヴと共にカウンターに座り、目的の人物がやって来るのを待つ。
チーズを摘まみながらエール一杯を時間稼ぎに費やしていると、それが空になる頃に、二階から身なりの良い髭を蓄えた男が降りてきた。
傍にはベアラーの刻印を持った十五歳ほどの少年が控えるようについて歩いている。
少年はベアラーとしては整った服を着せられ、袖の下から覗く腕も年相応の肉付きがあったが、瞳には怯えた感情が浮かんでいた。

 ちら、とシドが隣に座るクライヴを見ると、彼も盗み見る形で男とベアラーの少年を見ている。
ブルーアイズが此方を見たので、あれだ、と頷いた。

 男が食堂の席につくと、直ぐに給仕が心得たようにワインを運んで来る。
常連として顔が知られている為、どちらも勝手知ったると言った様子で、料理も並べて行った。
男がベアラーの少年に隣に座るように命じると、少年は恐々とした様子でそれに従い、主が小鳥に餌付けをするように少年の口に食事を運んでいる。
一見すると子供を可愛がっているようにも見えるが、常に少年が主の顔色を窺うように見つめている事から、あれも主の“癖”のひとつを満たす為に過ぎない行為なのだろう。

 ベアラーの少年は、身綺麗にはされているようだった。
見た目を己の好みに整える為だろうか。
面食いか、と思いつつ、シドは宿屋の主人を呼んで、メニューを二つ注文し、男の座った席を指差した。
宿屋の主人は注文の了解だけを告げると、厨房担当に内容だけを伝えて、元の仕事に戻る。
シドはクライヴの肩をぽんと叩いて席を立った。
直ぐに追ってくるクライヴの気配を確認しながら、シドは厭な笑顔を張り付けて少年に餌を与えている男に声をかける。


「失礼、リンデオールさん。同席しても良いか?」
「む……?何処のどちら様かな」


 男は楽しみを邪魔されたと不機嫌の滲む表情でシドを見た。
腰に差した剣を見て、態度ばかりは慇懃に留めたが、不審そうな表情が警戒心を逆立てていることを示している。

 シドは構わず向かいの席に座り、クライヴはその斜め後ろに控える格好で立つ。
クライヴは相変わらず黒のフードを被っていたが、男とは正面の位置になる為、彼からクライヴの顔ははっきりと確認できるだろう。
その意図を知らない男の視線が、刻印のあるクライヴの顔へと向いたのを見たのをシドは確かめつつ、


「俺はヘイズって名の者なんだが、ちょっと商いをしているもんで、お近づきになれないかと思ってね。此処にえらく羽振りの良い御仁がいると聞いたんだが、あんただろう?」
「……ほう、同業だったか。嬉しい噂を聞いてくれたようだが、商いをしている割りには、らしい風体にも見えないがね?」
「生憎、積極的に物を売るタイプじゃないもんで。良い所と良い所を紹介して回るのが俺の飯の種だよ」
「仲介人とは、中々気のいる仕事をしているな」


 互いを探るように会話を交わしながら、シドは男の視線が何処に向いているのかを逐次確認した。
話しかけてきたシドの目的を確かめながらも、男の興味は明らかにクライヴへと向いている。


「それで、商売人がこうして話しかけてきたと言う事は、その手の要件があると思うが。手短に聞かせて貰えると有り難いのだがね」
「ああ。けど、その前に一つ、ってな」


 給仕が折よくシドの注文した料理を運んで来た。
この店でも値段で見て上から数えて二つ三つと言った所の肉料理と、今し方男が傾けていたワインと同じ銘柄の瓶が一本。


「私にとっては食べ慣れたものだよ」
「常連さんらしいな。ま、これはただの挨拶だよ。手ぶらで文句だけ出しても味気ないだろう?」
「同感だ」
「そのついでに、信用の足しになるものも見せておこう」


 そう言ってシドは、懐から一枚のコインを取り出した。
自由都市カンベルの意匠を刻んだそれには、カンベルで有名な商人ギルドの名が刻まれている。
其処は規模の大きなギルドとして有名で、所帯が大きいが為に末端までの把握が行き届いていない。
しかし、其処に属している者にのみ配られる名入りのコインは、全く無関係の者が入手できるものではない───少なくとも表向きは。
ダルメキア共和国で商売をしている者なら、そう言った裏事情も念頭にはあるだろうが、少なくともコインを堂々と出せる態度と言うのは、この場に置いて後ろ暗さのない証になる。
最も、本当に腹黒い人間と言うのは、そう言った人間心理すら上手く隙を抜けて来るものだが。

 男はコインを見て、疑るように注視しながら顎の髭を触っている。
用心深くはあるようだが、このギルドに問い合わせるような暇も手段もなく、更にシドが重ねて、


「舶来品の取り扱いをしている所にも伝手がある。物は一つ手元にあるが、まあ持ち歩けるものなんて、大した物でもなくて悪いが」
「ではそれを見せて貰えるかな」


 要望に応じてシドが腰の布袋から出したのは、飴色に斑模様の黒を浮かび上がらせた、満月を思わせる丸型のピアス。
大きさは直径2センチ程度で、厚みは薄く、一見すると簡単に割れてしまいそうだが、その素材は軽く柔軟なものである。

 目の肥えた商人は、一目見てそれが何であるのか見抜いた。


「ほう、鼈甲とはまた珍しいものを見た」
「工房と契約した時、余り物でこさえて貰ったものでね。生憎、これ自体は易々と売れるものでもないんだが、伝手の証拠くらいにはなるだろ?」
「成程、成程。鼈甲工房となれば確かに珍しいものだな」
「まあ、この砂漠で鼈甲なんて物で商売は向かないだろうけどな」
「いやいや。好事家ならそれは厭わんさ。寧ろ物珍しさは一入だろう。このダルメキアは鍛冶彫金には優れたものだが、鼈甲を扱える所は縁がないのでな」


 鼈甲の大本の素材となるのは、海や川に生息するタートル種の甲羅だ。
ヴァリスゼア大陸の海辺、内陸にもその種は生息しているが、まず甲羅の成り立ちが求める代物に使えるかと言う点で、その捕獲の枠からは外れる。
ヴァリスゼア大陸に生息するタートル種の甲羅と言うのは、岩のように固く頑丈に出来ており、到底加工できるものではないのだ。
素材そのものの産地は専ら外大陸に依存している為、加工技術も当然其方のものとなり、ヴァリスゼアでは舶来品しか取り扱いがない。

 男は目を細め、じいとシドの顔を見つめている。
品定めをするその視線が、しばらくシドを観察した後、また後ろに控える青年へと向けられていた。
粘り気のある視線を感じるクライヴだが、努めて表情は動かさず、嘗てベアラー兵としてそうしていたように、ただ黙って佇んでいる。


「……その工房、私にも名くらいは聞かせて貰えるものかな?」
「あんたが俺の話を聞いてくれりゃあね」


 言いながらシドはピアスを布袋に仕舞う。
男はそれを聞いて、ふうむ、と如何にも悩む風のポーズを取った。
シドはワインの入ったジョッキを開けて、がたりと席を立つ。


「興味があるなら、明日にでも声をかけてくれ。東の宿にいる。さてと、行くぞ」


 必要な事は伝えたと、シドはクライヴの肩をぽんと叩いて言った。
此処から立ち去ろうとしている様子に、良いのか、とクライヴは窺う目を向けてみるが、シドは気にした様子もない。
ベアラー兵らしく振る舞うならば、何も言わずに追従すべきだろうと、クライヴも彼を追って踵を返すと、


「明日まで時間があると言うのなら、そのベアラーを一晩貸しては貰えんかね」


 背中に振られた男の言葉に、二人は足を止める。
不自然にならないようにと、シドがそのままじっとしていろ、とクライヴに目で言った。
クライヴは立ち尽くし、シドだけが肩越しに男を見遣る。


「こいつの事か?」


 顎でしゃくってシドが指すと、「そうだ」と男は答える。
その目が分かり易く欲を孕んでぎらぎらとしているのを見て、傍らに控えているベアラーの少年が、我が身を護るように自分の腕を抱えている。
まず間違いなく食い付いた、とシドは変わらない表情の内で確信した。

 なんだってベアラーを、と言わんばかりにシドが男へと視線を寄越してやると、男は吟味の仕草か、顎髭を撫でながら言った。


「私は少々変わり者でね。商売をする時には、本人以外の人間をよくよく見ることにしている。連れがいるなら、其方から詳しく話を聞きたくてな」
「詳しくも何も、こいつはベアラーだぞ」


 世間一般に置いて、ベアラーがどう扱われているか、シドも理解している。
あくまでその感覚に則って、何も知らない“道具”を見てどうするのかと訊ねてみれば、男はにやつく口元を髭に隠すように手を当てがら、


「外大陸と取引をしているなら、あちらでベアラーがどう扱われているかは聞いた事くらいはあるだろう。信用を得るなら、それなりにあちらの流儀にも合わせる必要もある。貴殿がそれを真っ当に果たしているか、つまりはルール破りをするような人間ではないのか、確認したくてね」
「ふぅん?……理屈は分かった。確かにこっちとしても、裏で何をしているか分からないような奴とは組めないからな。だからってベアラーに聞いた所で、真面に口が利けるかは分からんものだぞ」
「ああ、それは分かっている。だから少しばかり、時間が欲しいのだ。主である貴殿の許可を取った上で、其処のベアラーと話をする時間をね。主の目があっては正直に物を話す事も出来ないだろうからな、二人きりで」


 主人からベアラーを引き離した所で、ベアラーが主人の事をべらべらと正直に話す事もそうないだろう。
取引の交渉材料として手持ちのベアラーを差し出せと言うなら、主の方から商談が上手く進むようにベアラーに命令するのも当然だ。
商人はあくまで自分の利益を優先するものであるから、その為に使えるものはなんでも使うし、その代価がベアラーであるなら安いと言うもの。
そしてベアラーにとっては、主の機嫌も、この男の機嫌も損ねないようにする以外に選択肢はなかった。

 意図を隠しもしない目に、シドは呆れの溜息をどうにか飲み込んだ。
同じような理屈で、これまでも商売相手が連れたベアラーを連れ込み、手籠めにしていたことは想像に易い。
噂通りの“癖”だと、腹の底に気持ちの悪さを隠して、シドは背を向けたまま会話にだけ耳を澄ませているクライヴを見た。


「……そう言う訳だ。行って来い」
「……」
上手くヽヽヽやれよ」
「……」


 シドの含みのある言葉に、クライヴは黙したまま、頭を縦にのみ動かした。
傍目に見ればその遣り取りは、シドが商売の為にベアラーに対し、男に上手く取り入れ、と言っているように聞こえるだろう。
テーブルに座ったままの男にもそれは聞こえ───敢えて聞こえる程度の声量だ───ており、男はにんまりと目元をいやらしく歪ませていた。

 シドが食堂を出て行き、残ったクライヴは努めて無表情を作って商人の男を見た。
男は「まあかけたまえ」と言ってクライヴに席へ座る事を促すが、クライヴはテーブル横に立つまでにした。
それなりに上背のあるクライヴに見下ろされると、多少なりと威圧感もあるものだが、男は飄々としている。
その隣で、ベアラーの少年がちらちらと此方を覗き見ては、酷く気の毒そうな表情を浮かべていた。



 男がその場にあった酒を空かした所で、彼はクライヴを部屋に招くと言った。
クライヴにとっては幸いの流れだ。
タルヤに作った貰った粉末状の睡眠薬は、食べ物なり飲み物なりと混ぜるのが良いと言われたが、多数の目がある食堂でそれを成すのは難しい。
酒飲みだと言う男が、部屋に戻ってからもまだ飲むつもりであれば、まだやり易い。

 男が連れていたベアラーの少年は、部屋の前まで来て「お前は外で寝ろ」と言われた。
この砂漠の地で、夜の屋外ともなれば冷えて堪らないものだが、少年は何処か安堵したような様子があった。
シドが言っていた通り、毎夜のように男の“癖”に付き合わされているのなら、少年にとってどちらがより劣悪だったかは言うまでもない。
それもシドの采配が上手く行けば、今日限りで離れることが出来るのだ。
ふらついた足取りで宿の外へと向かう少年が寝床とするのは何処なのか、恐らくはシドが後をつけて、他のベアラー達も含めて保護する事になるだろう。

 その為に、クライヴは当分の時間稼ぎをしなくてはならない。
欲を隠しもしない目が自分に向けられるのは、ベアラー兵の頃から嫌でも経験してきたことだ。
シドからは本当にその相手をする必要はないと言われてはいるが、とは言え、己を性的な目でじろじろと観察されると言うのは、大概気持ちの良いものではない。


(とにかく、薬を飲ませて、それが効くまで間を持たせるしかないな)


 男と二人きりになった部屋の中で、どうしたものか、とクライヴは思案を続けていた。
適当な雑談なんてものが出来る性格でもなし、況してやベアラー兵らしく振る舞うならば、この環境下で自分から口を利くのも不自然だ。
切っ掛けをあちらからくれるならば良いのだが────と、クライヴの視線は、部屋の机に並べてある酒瓶を吟味している男へと向けられる。


「その背にある大層な剣だけは、今は外して貰えると有り難いな。私は君と話をしたいだけなのでね。それで君は、酒の味は知っているか?」


 クライヴが言われた通りに大剣を手放し、壁に立て掛けていると、男がワインの瓶を一つ手にして言った。
答えずにクライヴが黙っていると、男はその理由を察して、


「安心して口を利くと良い。君が此処で何を言おうと、私は主に報告するつもりはないからな。まあ、全く喋る事が出来ないベアラーと言うのもよく見ているから、無理強いはしないがね」
「……会話は出来る」
「おお、それは重畳だ。発声練習から始める必要があるかと思っていたが、大丈夫そうだな」


 そう言ってくるりと此方を振り返った男は、随分と上機嫌に笑っていた。
酒飲みだがウワバミではないのか、或いは本当に機嫌が良いのか。
クライヴをこの部屋に連れ込む事が出来て、軽々とした気分なのかも知れない。
クライヴの方は、これからどうやって不自然なく時間を稼ぐかと言う事と、透けて見える男の思考の所為で鬱々とした気分だが。


「それで、君は酒はやれるかね。君の主はそれなりに恰幅の良い風に見えたが」
「偶に相手はさせられる」
「ほう?成程ね、それはそれは」


 問いに対して、事実をそのまま返したクライヴだったが、男は其処に妙な含みを読み取ったらしく、にやにやとした顔になっている。
酒の相手だけでない所まで想像したのが見て取れた。
────確かに彼とはそう言う関係もなくはないが、“主とベアラー”としてのものは其処にはない。
だが、男はそれを知る由もないので、クライヴは此処については沈黙して置いた。

 男はワイン瓶と共に並べていたゴブレットを二つ、手に取った。
特別に設えられているものがある訳でもない、何処にでもある宿場町の一角には違和感のある、金色に磨かれたゴブレット。
細かな装飾が施してある所からしても、ゴブレットが男の気に入りの私物である事がよく分かる。

 男はそれにワインをとくとくと注ぎ、クライヴへと差し出して見せた。


「君の分だ。遠慮せずに飲むと良い」
「……」


 エールであってもそうだが、ワインともなれば趣向品としてそれなりの値がする筈だ。
それをベアラーにも分け与えると言うのは、其処だけを見れば随分と羽振りが良いと言うか、気前が良いと言うか。
そんな事を思いながら、クライヴはゴブレットを受け取った。

 男が自分の分も注ぎ、口に入れるのを確認してから、クライヴもゴブレットを口に運ぶ。
口当たりの柔らかさはともかくも、妙に甘ったるい味がして、クライヴは眉根を寄せた。


「味はどうだ?」
「……甘い」
「辛いのが好きだったかね」
「……これよりは」


 取り繕った所で大した意味もないと、クライヴは正直に答えた。
男はくつくつと笑い、


「隠し事をしないのだな。良い事だ。正直であってくれる方が、何をするにも話はし易いものだからな。さて、そんな所に立ちっぱなしと言うのも疲れるだろう、こっちに来ると良い」


 そう言って男が誘うのは、綺麗に整えられたベッドだ。
部屋には椅子もテーブルもあるのに、そんな所に誘導する辺り、男の目的がまた分かり易い。
シドと腹の探り合いのような会話をしていた時から、男はクライヴに対して欲望を隠していなかった。
人目がなくなり、いよいよその皮が剥がれている。

 拒否してもこれもまた特に意味はないと、クライヴは大人しくベッドまで近付いた。
男が水でも飲むようにワインを飲んでいるのを見て、あのゴブレットに触る事が出来れば、と考える。
睡眠薬を仕込むなら、この部屋ではあれ以外に使える道具はない。


「まあ座り給え」


 そう言ってベッドに座り、男は隣へとクライヴを誘おうとする。
真横に座る気にはならなかったので、子供が其処に座れる程度の隙間を開けて、ベッド端に腰を下ろした。


「……俺の主の話を聞きたいと言っていたが、何を言えば良いんだ?」


 ともかく時間稼ぎだと、クライヴは、精々表向きでしかなかったのであろう話題を引き出してみる。
男はまるでそんな話は気にしていなかったような顔で、ああそんな事も言ったなと言う表情に、


「いや、何。大した話でなくて全く構わんのだよ。君の主人が、君に酷い無体を働いているような人間性でなければね」


 そう言って男は手元のワインを飲み干し、ゴブレットをサイドチェストに置く。
クライヴのいる位置からは遠いから、あれを不自然なく触れるようにしなくては。

 会話の誘導と言うのは、長らくベアラー兵として碌に口を利かずに来たクライヴにとって、中々難しい事だ。
そして男の方は、そんなクライヴの悩みなどお構いなしに、ずりずりと近付いて来る。
敢えて離れて座った意味もない位置に男がやって来て、値踏みするような目がじろじろとクライヴの顔を眺めていた。


「無体と言っても色々ある。飯を食わせない、休息を取らせない、鞭で打つ、殴る。君の仕上がりを見るに、飯を食っていないと言うことはないと思うが、どうかな。栄養のあるものは貰っているか?」
「食事は与えられている。鞭で打たれたような事はない」
「では、それを見せて貰おう。君は正直者だが、主を貶めるような物言いは出来ないものだろう。その点、体はもっと正直だ」


 にやついた男の言葉は、命令の色を含んでいた。
クライヴの言葉の事実がどうであれ、主の商売の取引相手となり得る者の言う事なら、機嫌を損ねない為にも、その言葉には従わねばならない。

 譲り受けて以来、日々身に着けるようになった形見の旅装を、上から一枚ずつ剥いで行く。
何処まで脱げとは言われなかったが、概ね全てだろうと思う。
無理にでも剥かれるのとどちらがマシなのだろう、と遠い記憶に経験した感覚を他人事のように思い出しながら、クライヴは身を纏うものを手放して行った。

 上肢が露わになった所で、ほぉう、と感嘆の吐息が聞こえた。
ちらと男を見遣れば、爛々とした目が食い入るようにクライヴを見ている。
つくづく思うが、男娼のようにそれなりに役割と目的を持って磨かれているものならともかく、兵士として鍛えられた男の肉体を見て何が面白いのだろう。
そう言う“癖”のないクライヴには、到底理解できそうにない趣向であった。

 クライヴの体には、十三年と言う長い年月を、戦場の只中で越えてきた傷跡が残っている。
最後の部隊に編成された頃には、少数精鋭での単独任務が多かった為か、多少なりと扱いはマシと言えたが、それ以前は戦場で致命傷を負っても、碌な手当ても後回しにされるのが常だった。
お陰で消え切らない傷と言うのも少なくはなく、戦士らしい痕跡があちこちに残っている。
それを見て尚、男は鼻の穴を膨らませていた。


「これは大したものだ。普段は骨皮の多いものを見ている所為か、中々新鮮だな。ふむ、存外と可愛げのある顔をしていると思っていたが、それにこの肉体か……これからはベアラー兵と言うのも悪くない」


 どうやら、男の気に召す事は成功したらしい。
クライヴにとっては嬉しくもなかったが、今回の作戦を継続するには、放り出されるよりは良いと思おう。


「……全部抜いだ方が良いのか」


 まだ脱いだのは上半分だけ。
タルヤの作った睡眠薬は、腰の薬鞄の中にあるから、まだ取り出す事は容易い。
全裸は厭だなと思いつつ、一応の確認を投げてみると、男はううむと悩む仕草を見せ、


「いや、まだまだ……もう少しゆっくりと眺めていたいからな」
(つまり、俺はしばらく半裸のままでいなくちゃいけない訳か)


 勿体ぶった反応を見せる男に、クライヴは眉根を寄せつつも、大人しく従った。

 男が空のゴブレットに、二杯目の酒を注いでいる。
食事の席からも飲み通しなので、多少なり酔いが回っていても可笑しくない筈だが、本当に底なしなのか。
クライヴがそう思っていると、男の腕がクライヴの腰に回ってきた。
脇腹をそっと撫でるように辿る手付きに、男が遂にそのつもりで触れてきたことを悟る。


「確かに綺麗な体をしているな。傷があるのは、兵士であるから仕方のない事だが……勿体無いことだ。これだけ綺麗な顔をしているのなら、もっと整えればそれは化けるだろうに」


 酒臭い顔を近付けながら、男は言った。


「どうだ、君。あの男ではなく、これからは私の物にならないか。生活に困るような事はさせんよ」
「……そう言う交渉なら、主にしてくれ。ベアラーに主を選ぶ権利はない。そう言うものだろう」
「賢いな。ご尤もだが、私は先ず本人の意思が大事だと思っているんだ。私の物になれば、そうだな、危険な魔物と戦う事も減るだろう」
「俺は兵士だ。他に出来る仕事はない」
「いやいや、何が出来る出来ないではなく、君にさせたい仕事と言うのがあるのでね。それも別段、誰でも出来るような事ではあるんだ。私が気に入ったものなら、という前提はあるが────」


 言いながら、男の手がすりすりとクライヴの肌の上を摩り撫でている。
皮膚一枚を柔らかく触れながら弄られて、虫が這うような感覚に似たそれが気持ちが悪い。
脇腹を撫でていた手は、いつの間にかクライヴの太腿へと移動して、体の中心へと向かおうとしていた。
その食指がいやにゆっくりと太腿の肉を抑えながら、足の付け根の位置へと移動してから、つうとその境目をなぞった瞬間、


「……っ?!」


 ぞくぞく、とした感覚がクライヴの背中を駆け抜けて、ブルーアイズが見開かれる。
それを男は間近でしめしめと見ていた。


「兵の仕事と言うのは、命を張った大変なものだろう。もっと楽な仕事を与えてやるから、私の下に来ると良い」
「だから、そう言う事は俺じゃなく────っ」


 男の手がクライヴの中心部に触れてきて、思わず息を飲む。
ただ触られただけだと言うのに、その手の感触がいやにクリアで、可笑しい、とクライヴは顔を顰めた。


(なんだ……?体が、熱い……!?)


 酔っているのか、と思ったが、まだワインを一杯飲んだだけだ。
ワインの銘柄も此処からではよく見えないから、強いのかどうかも分からないが、しかし一杯飲んだ程度で自分が酔うとは思えない。
隠れ家でシドやガブに誘われ、それなりに強い蒸留酒を数杯飲んでも、大して酔った事はなかった筈だ。

 戸惑うクライヴの体を煽るように、男の手が丁寧な手付きで、中心部を撫で回している。
緩やかな刺激を与えられる其処が、徐々に熱を帯びて固くなっているのが分かって、クライヴは奥歯を噛んだ。


「……酒を、」
「うん?」
「もう少し飲みたい」


 此処から先を許すつもりはなく、とは言え適当に振り払うにはまだ早い。
宿の外から合図をくれる筈の相棒の声を待ちながら、クライヴは事への延長の為に拙い理由を口にした。

 食堂にいる時に連れていたベアラーの少年は、流石に酒を飲み交わす相手にはならなかったのか。
眺めながらの酒の肴にするだけだったのかは知らないが、しかしクライヴの頼みを男は聞き入れる気になったようだ。
そうかそうか、と機嫌よく笑いながら、男はクライヴの空になっていたゴブレットを取り、瓶の並ぶ机へ向かう。

 腹やら腰やら、下腹部やら、男が触った場所がじんとした感覚を残している。
そんなに溜まっている状態だったのかと、張り詰めつつある自分に呆れながら、冷静であるようにと細く息を吐いた。
それから、サイドチェストに置かれたゴブレットを見て、まだ半分は中身が残っているのを確認する。

 「辛い方が好みだったな」と言いながら、ワインを選んでいる男の動きに注意しながら、クライヴは腰の鞄から紙包を手探りで取り出した。
丁寧に折り畳まれたそれは、決まった場所を噛み合わせから解けば、簡単に開いて中身を出す事が出来る。
男が背を向けている内に、クライヴはそれをゴブレットの上で開き、さらりと落ちた細かな粉末が葡萄酒に沈むように溶けて行った。

 クライヴの使うゴブレットに、なみなみとワインを注いだ男が戻ってくる。


「さあ、味わうと良い。さっきよりは君の好みに合うだろう」
「……」


 脂の下がった目で言った男の手から、ゴブレットを受け取る。
男もサイドチェストに置いていた杯を取ると、またクライヴの直ぐ隣に腰を下ろして、ワインを口へと運んだ。

 男の喉が確かに動いたのを盗み見て、クライヴもワインを口へ。
先程のものよりクライヴの好みに合わせたと言っていたが、確かに最初こそマシとは思うものの、やはり強い甘味が奥に沈んでいる。
此処にはこう言うものしかないのか、或いは男の好みなのか。
それよりも、何も言わずに黙々と杯を傾け続けている間、男の手がまた下半身を触っているのが気になる。


「良い飲みっぷりだ。それだけ飲めば、十分に楽しめそうだ」
「……俺はあんたの晩酌相手の為に呼ばれたのか?主が信用の置ける人間かどうか、という話はもう良いのか」
「ああ、その話は────そうだな、もう少し詳しく聞きたい所だ。だが、此処からはもっと深い場所で聞こうじゃないか」


 そう言った男の手が、クライヴの脚衣の縁から中へ入ろうとして来る。
クライヴは眉根を寄せて、


「……脱げば良いのか」
「どちらでも構わんよ。私の手ずから君を暴くのも良いし、ゆっくりとストリップショーを楽しむのも悪くないな」
(悪趣味だ)


 そして面倒だ、とクライヴは思った。
ああしろ、こうしろと言われるのなら楽なのだが、一々男の機嫌を損ねないように、気に入るように考えなくてはならない。
薬が効くまでの時間稼ぎをするなら、どちらが良いか……と考えている間に、男の手はクライヴの下履きの中まで侵入していた。
更に男がクライヴの首に顔を寄せて来て、男の顎髭が鎖骨を擦りながら、喉仏のある場所をべろりと肉厚な舌で舐めて来る。


「……っ…!」


 ぞわ、と悪寒が背筋を走って、クライヴは息を詰まらせた。
男の手が愛おしむものを触るように、刻印のあるクライヴの頬を撫でている。
この手の相手を本気でする必要はないと言われてはいるが、とは言え、騒ぎにならないようにどうやって拒否するか。
飲ませた薬が早く効いてくれれば良いのだが────


「はあ……汗の匂いか。良い塩梅だ」
(いつまで舐めてるんだ……!)
「君も興奮しているな?何も怖い事はしない。いや、慣れているのかも知れんな。どちらにしても、そう、気持ち良くなるだけだ……」
(動けなくなるのは御免だ。突き飛ばしても大丈夫か?作戦は何処まで進んでる?)


 肩を押す力を、返すか否か考えている間も惜しいと言うのに───そう考えていた時だ。
ワン、ワン、と言うよく耳に聞く犬の吠える声が、閉じたままだった窓の向こうから聞こえた。

 クライヴは肩を押す男の手を掴み、身を捩るように振るって男の体をベッドに俯せに抑えつけた。
突然の力の作用に男は声を上げる間もなくベッドシーツに潰れ、クライヴは後頭部を掴んで顔を上げられないように押し付ける。
片腕を背中へと回して固定すれば、男はパニック状態で片手と両足をばたばたと暴れさせたが、そのまましばらくすると、次第に静かになって行った。

 ベッドを引っ繰り返さんばかりに暴れていた手足が、力なく沈むのを見て、クライヴはゆっくりと押さえ付けていた後頭部から手を離す。
しんとなった男の胸部が、規則正しく上下しているのを確認して、ほう、とクライヴは詰めていた息を吐いた。


(やっと寝た)


 最後は窒息からの気絶に追い込んだようなものだが、そんな事はどうでも良い。
クライヴは衣服を整え、大剣を掴むと、窓の跳ね板を持ち上げた。
二階の高さにある視線を下へと落とせば、丁度窓の真下から此方を見上げている愛狼の姿を見付ける。

 窓を乗り越えて地面に降りると、直ぐにトルガルが身を摺り寄せてきた。
しっかりと合図をくれた相棒に感謝を込めて頭を撫でる。
ご褒美を上げても良い位の働きをしてくれたが、生憎、今はこの場を離れることが先決だ。


「行くぞ、トルガル。案内してくれ」


 保護したベアラー達の為に使ったルートを、彼は覚えているに違いない。
わん、と一つ吠えて直ぐに走り出したトルガルを追って、クライヴは夜の街を走った。