花見る夢を


 目覚めたその瞬間は、特に何も変わったことはなかったように思う。

 遡れば、昨晩もいつも通り、その日中もまたいつも通りであった。
例えば厄介な魔物に苦戦しただとか、ソーン種の体液を被ったとか、そう言った覚えもない。
共に魔物の討伐に行ったジルとトルガルと、普段通りの一日を過ごして、大きな怪我に見舞われることもなく、無事に隠れ家へと帰り付いた。
そして、じゃあ明日は、と必要な確認事項を終えると、ラウンジで夕食を貰って、お休み、と別れて寝床に行った。
それだけだ。

 だが、起き上がった時に確かに違和感を覚えた。
妙に体が重いと言うか、何か重いものがずんと肩に伸し掛かっているような感覚。
怪我をした覚えはないし、痛めた覚えもないのに、不思議なものだ。
ベアラー兵だった頃は、睡眠も浅いのが当たり前だったから、拭いきれない疲労が常にまとわりついて、それが極まると体が限界を訴えることもあった。
だが、今や隠れ家で、兵装を解いて横になって眠れるようになったのだから、そう言う事も滅多にない。

 思いの外、昨日は疲れがあったのだろうか。
特に忙しかった訳でも、敵に手古摺ったつもりもないが、ひょっとしたらそうなのかも知れない。
或いは、無自覚に溜め込んだ疲労が此処にきて露呈したとか、そう言うものから来る、風邪の前兆のようなものだとか。
其処までなくとも、深く眠って寝返りもせずにいると、体の重みで圧迫された部分が、寝起きに痛むのは儘あるものだ。

 幸いにも頭はすっきりとしていた。
だから、少しばかり体を動かせば、この肩こりのような重みも消えるだろうと、受け継いで間もない旅装に着替える為に服を脱いで、やっと気付いた。

 ────これは、一体、何事か。





 昼になる前には隠れ家を出立し、討伐目的の魔物が生息している地域に向かうつもりだったジルは、エントランスでクライヴが来るのを待っていた。
しかし、待てど暮らせど、彼は一向に現れない。
暇を持て余したトルガルを撫でて過ごしていたが、流石にこれは遅い、と思うほどに時間が経って、まさか昨日の遣り取りで決めた予定を彼が忘れるとは思えないが、一旦様子を見に行ってみようかと思っていた所に、外からガブが帰って来た。


「お、ジル。どっか出掛けるのか?」
「ええ、その予定なんだけど……クライヴが来ないものだから、様子を見に行こうかと思って」
「あいつも一緒に行くのか。で、なのに来ないって?」


 ガブの言葉に、ジルは頷いた。

 クライヴの真面目さは勿論、記憶力の良さを、ガブもよく知っている。
予定が決まっているのなら、遅刻をする性質でもないし、若しも某かの事情で行けなくなったと言うなら、それを伝えに来るだろう。
既に手が空かない状態であれば、誰かに伝言を頼む筈。
フェニックスゲートから戻ってきて以来、彼は隠れ家の人々との距離感を明確に変えているから、伝言の一つ二つを頼むことに、それほど否やはない筈だ。

 だと言うのに、本人は来ないし、誰もその類の伝言を届けに来る様子もない。
ジルとガブは顔を見合わせ、


「昨日、怪我でもしたか?」
「いいえ。小さなものはあるけれど、特に問題になる程では。タルヤに看て貰う程のものもなかったし」
「隠してたとか?」
「それならトルガルが気付くと思うわ」
「だよなあ。後は寝坊……ないか、もう昼だし」


 朝ならまだともかく、と言うガブに、ジルも同感であった。
隠れ家の抜けた頭上から見える空は煌々と明るく、太陽こそ直接は見えない位置にあるものの、昼日中であることは確実だ。
幼少期から騎士として鍛えられ、長らくベアラー兵として短い睡眠でエネルギーを回復させる事に慣れたクライヴが、理由もなくこんな時間まで寝床に長居することはあるまい。

 となれば、昨日はその手の気配を感じなかったが、朝になって何か体調を崩したか。
考えられるならば、最早それ位しかなかった。


「ちょっと様子見て来てやるよ」
「いえ、私も行くわ」


 クライヴのこととなれば、ジルが放って置ける訳もない。
ことに彼は自身の不調というものを隠す癖があるから、何かあるなら、よくよく見て確かめなくては。
そうでなくとも、一先ずは顔を見ておきたい、と言う気持ちもあった。

 居住区へと向かう二人の後に、トルガルの爪の音も鳴る。
二人が何処へ向かおうとしているのか、賢い狼は当然のように理解していた。
クライヴが使っている部屋の前に来ると、くんくんと匂いを嗅ぎ、前脚を扉に当てている。
主は中にいるようだ。

 コンコン、とジルは扉をノックした。


「クライヴ、いる?」


 トルガルの反応で在中であることは予測できたが、反応を求める意味もあって、声をかけてみる。
数秒の間を置いてから、


「……ジル?」


 名を呼ぶ声が聞こえて、ジルは少しほっとした。
が、その声色がいつもと少し違う、何処か上擦ったような音に聞こえて、ジルはガブと顔を見合わせた。


「クライヴ、どうしたよ。風邪でも引いたか?」


 今度はガブが声をかけてみると、


「ガブもいるのか?」


 返って来た声は、やはり普段と音が違う。
加えて、警戒している空気がその音端から滲んでいた。
仲間と判っている者に、クライヴが向ける声ではない。

 トルガルがぴすぴすと鼻を鳴らし、部屋の中にいる主に出て来て欲しいとねだっている。
流石に扉越しでその音までは聞こえないだろうが、爪がドアの下部を引っ掻く音は伝わっているだろう。


「ちょっと───ちょっと待ってくれ。その……ジル」
「何?」
「ジルだけ、入って来てくれるか。ガブ、すまない」
「んぁ?まあ、別に構わないけどよ」


 扉の奥からの要望に、ガブは首を傾げるが、ともあれ岩戸の向こうから応じる意思は感じられたので、此処は言う通りにしておこう。
肩を竦めるガブに視線で促されたので、ジルは「入るわね」と言って、扉を押した。

 横穴を広げる中で作られた居住区は、灯りと言うのは蝋燭に頼るしかなく、小さな燈火は光源としては酷く頼りないものだ。
ジルは扉口の傍に置かれた手燭台を取って、いつもクライヴが休んでいる筈の、寝床の方へと灯りを翳した。

 其処には、気持ち程度ではあるが防寒用にと貰った綿布に包まったクライヴがいる。
しかし彼は横になって休んでいる訳ではなく、頭から全身を隠すようにして布地を覆い、蹲っていた。
まるで寒さから身を守ろうとしているような姿勢に、ジルは駆け寄る。


「どうしたの。やっぱり調子が悪いんじゃ」
「い、いや。それはないんだ、多分。其処までの感じではないんだけど」


 傍に膝をついて、具合を確かめようと手を伸ばしたジルだったが、クライヴはそれを制するようにやんわりと拒否しながら言う。
しかし、扉越しではない、直に聞いたその声は、やはりジルが知る普段の彼のものとも違っている。


「お願い、隠さないで、クライヴ。熱があるんじゃないの?」


 言いながらジルは、本人の返答を待っていては本当のことは判らないと、クライヴが返事をするより先に、もう一度手を伸ばした。
頭を隠し被っている布を捲って、手燭台の光を其処に翳す。
───と、そこで違和感を見付けた。


「……クライヴ?」
「……」


 眩しさに目元を眇め、手のひらで半分を隠している、クライヴの顔。
それをジルはよくよく覗き込み、刻印が目立つその頬から顎へのフェイスラインをまじまじと見つめる。
昨日まで当たり前に見ていた筈のものが其処には足りず、それだけならそう言う気分でそうしたのだろう、と思えなくもないが、


「……えっと……クライヴ、よね……?」


 頼りない灯りを、危なくない程度に近付けて、ジルは其処にある顔を再度よく見た。

 無精に伸びた黒い髪、意思の強さを滲ませる眉、何処までも深く澄んだ真っ青なブルーアイズ。
高い鼻は形の歪みもなく、頬には消えない毒の印があり、間違いなくクライヴが持つパーツだと言う事が分かる。
だが、口元をみると、そこは綺麗に整えられ───と言うよりも、そもそもが茂るものを知らないかのようにつるりとしていた。
何処か幼くも見えるのは、茂みがないことは勿論と、心なしか頬や顎の形が柔い丸みを帯びて見える所為だろう。
もう酷く遠い出来事となった、いつかの少年の頃にも似ているか。

 部分的に印象が違う所はあるが、しかしこれはクライヴだ、とジルは判っていた。
今の今まで会話をしているし、その声に微妙な違和感はあるものの、喋り方やトーン、抑揚は間違いなく彼のものだ。


「ええと……」
「……」


 戸惑いに言葉を失うジルに、クライヴは酷くばつが悪そうに眉尻を下げている。
そして、諦めるように深い溜息を吐いた後、


「すまない、ジル。どうして俺もこんな事になっているのか、全く判らないんだ」


 クライヴはそう言って、観念した表情で、包まっていた布を解いた。
そうして其処に晒されたものを見て、ジルの混乱は益々深まるのだが、人は理解の範疇から大幅に外れた物事を前にすると、反って冷静になるらしい。

 ジルはすぐに部屋の外で待っているであろうガブの元へと駆け、


「すぐにタルヤとシドを───いえ、まずはタルヤを呼んで。急いで!」
「お、おう!?」


 整った貌で、綺麗な眉を吊り上げて言ったジルの剣幕に、ガブは驚きながらも、すぐに医師の元へと向かったのだった。




 私室で娘への手紙の返事を考えていたら、ジルが酷く深刻な顔をしてやって来たものだから、シドは何かトラブルが起きたのだとすぐに察した。
そしてジルがこんな表情を浮かべるのは、彼女が何よりも大切に想う、あの男のことしかない。
大きな事態になるような事でなければ良いが、と祈るように思いつつ、シドは件の男の様子を確認することにした。

 ────結果として言うと、想像していた悪いパターンと合致する事柄ではなかった。
が、ことが想像の範疇に全くなかったものだから、シドとて頭を痛めて閉口する他ない。
この世の中は、全く未知のもので溢れていると、そんな事を考えたのは、聊か現実逃避したい気持ちが芽生えたからだ。

 とは言え、仲間が助けを求めて駆け込んできたと言うのは事実である。
目を反らした所で、此処に在る現実が夢のように晴れてくれる訳もないので、シドは意識して頭を切り替えた。


「……起きたら女になっていた、ってなぁ……」


 起こった出来事を聞いた通りに口にして、シドは益々頭が痛い。
だが、一番頭が痛くて堪らなく思っているのは、きっと“彼”なのだろう。

 医務室のベッドに座り、居心地悪く背中を丸めているのは、間違いなくクライヴだ。
無精にあった髭がないのでなんとなく印象が変わる所もあるが、顔のパーツを一つ一つ確認すれば、それが余程の他人の空似でない限り、彼以外にないことは判るだろう。

 だが、その顔から十センチほど視線を落とすと、大きな膨らみが衣服の上部を押し上げているのが判る。
逞しく鍛えられた胸筋があれば、男でもそう言うことはなくはないが、その膨らみの形は異なるだろう。
あれは明らかに、女性の乳房の膨らみが作る形だ。
その他、喉に喉仏らしいものが浮き出ていないことや、全体的に一回り程度小さくなったような───体を縮こまらせている所為もあるが───印象がある。

 つまりはそれがどう言う事かと言うのを、シドはタルヤから聞いた所だったのだが、どうも荒唐無稽が過ぎる。
過ぎるが、実際、目の前にはそれが起こっていた。

 タルヤは今し方書き終えたカルテを見て、眉間にこれでもかと深い皺を浮かべている。
医者として確かめられることを終えた彼女が、事実としてその確認事項を自らしたためた内容だが、改めて見るとまたその内容が意味不明だ。
だからタルヤは、情報としての援けを求めて、シドを呼んだのだろう。


「……問診して色々と聞いてみたけど、確かにクライヴだわ。記憶の齟齬や、意識の混濁も見られないし、至って正気よ。でも、確かに女性の体なの」
「……そのようだな」
「昨日、外に出ている間に何かあったのかと思ったけど、特に引っ掛かるようなことはなかったみたい。ジルにも確かめてみたけど同じね」
「変なものでも食ったんじゃないか?」


 茶化す気ではなかったが、頭がオーバーヒートしそうで、シドはそう言った。
が、タルヤはその手の可能性については、既に確認済みであった。


「食事は隠れ家から持って行ったものだけですって。木の実も野草も口にしてはいない。食べていたとして、こんな症状が出るような食べ物があるなんて、聞いた事もないし」
「そうだな。俺もない」
「遭遇した魔物も、この辺りでよく見るものよ。変異したものもいなかった」
「原因が特定できないんだな」
「ええ。だからひょっとして、彼特有の何かが起きたんじゃないかと思って。例えば、───ドミナントとして覚醒したから、とか」


 タルヤの言葉に、シドは片眉を潜めた。

 フェニックスゲートで真実に触れたクライヴは、その身に宿していた、火の召喚獣イフリートとして覚醒した。
その出来事から多少なりと時間が経ってはいるが、確かにクライヴの身に起きたことで、特筆すべき事件と言えばそれだ。

 しかしなあ、とシドは頭を掻く。


「ドミナントとして目覚めたから、性別が引っ繰り返ったって、聞いた事もないぞ」
「……そうよね」
「まあ、火の召喚獣が二体いるってことや、そもそもイフリートって言うのが伝承にも伝わっていないとなれば、判らない尽くしで、原因じゃないと断言も出来ないが……」


 シド自身、ドミナントとして覚醒してから、そこそこ長く生きている。
その間に、今クライヴの身に起こっているような出来事があったかと言えば、ない。
環境柄、他のドミナントのことも見聞きしていたが、このような自体は初めて目にするものだ。

 ただ、やはりイフリートに限っては、これまでの常識が通用しないことも確かである。
その存在自体、調べる伝手すら見当たらないものだから、前例のない出来事がまた増えても可笑しくはない。
書架を預かり、其処にある本の知識を蓄え続けている“語り部”ならば或いは、と思ったが、彼もイフリートについては知らないと言っていた。
やはり、件の火の召喚獣に関しては、それをクライヴが宿していると言う事実以外、何も判っていないのだ。
それを思えば、タルヤが言う可能性も、ないとは言い切れない。

 とにかく、シドの経験や知識で以てしても、クライヴを襲った事象については、碌に情報が挙げられないと言う訳だ。
つまりは、彼がどうすれば元に戻れるかと言うのも、判らないまま。

 シドとタルヤの会話は聞こえているだろうが、クライヴは俯いたまま黙して動かない。
タルヤによる診察を終え、きっと残る希望が、ドミナントとしての先達であり、長く生きているシドの知識だったのだろうが、生憎、それに応えることは出来なかった。
心なしか、シドが此処に来た時よりも落ちているように見える肩に、シドも致し方なくも、なんとなく決まりが悪い気持ちになる。


「……クライヴ」
「───……」


 名前を呼べば、少々暗さが滲む青がシドを見た。
良い意味でも悪い意味でも、感情を隠すことが下手なクライヴだ。
落胆しているのが判り易くて、落ち込んだ子犬のような雰囲気がある。

 シドはそんなクライヴの前に立って、その顔をよくよく覗き込んでみた。
この状態では仕方がないと諦めているのか、クライヴは黙ってその視線を受け止めている。
微かに不満げに唇が尖るのは、多少なりと気持ちが落ち着いた証拠と見て良いだろう。

 そんなクライヴの頭を、シドはぐしゃぐしゃと掻き撫ぜた。


「っおい、」


 何をしている、とクライヴが右手でシドの手を払う。
シドはさっさと手を離して、


「妙なことになって大変だが、取り敢えず、痛みだなんだってのはないんだな?」
「……ああ、一応」
「なら一先ずは安心ってことにして、様子見するしかないだろうな」
「……ああ」
「寝て起きてこんな事になってたんなら、案外、また寝れば元に戻るかも知れん。それまでに何が起こるかもまた判らないし、今日は大人しくしておけよ」
「その方が良いんだろうな」


 シドの言葉に短い反応を返すクライヴ。
その声が、シドの記憶にあるものよりも心持ち高いのは、気の所為ではないのだろう。
体の状態に合わせたように、声帯もそう変化している。
目に見える所だけでなく、体の内部構造も変わっているのなら、戦闘なんて以ての外だ。


「でも、ジルと魔物退治に行く予定だった。隠れ家へ運ぶ荷の通り道に出没するから、早めに何とかしておかないと」


 責任感か、隠れ家の生活にも関わることは、致し方ない状態としても先送りにすることに危惧があるようだ。
それはシドも同じ気持ちであるから、


「だったら、それは俺が済ませておこう」
「……頼む」
「これで気になることはないな?」
「ああ」


 シドの言葉に、クライヴはほっと安堵するように肩の力を抜いた。
これで今日一日くらいは、隠れ家で籠ることに抵抗もないだろう。


「じゃあタルヤ、あとは頼んだぞ。俺はこいつのことをジルに伝えておく」
「ええ。何かあれば、こっちからも直ぐに伝えるわ」


 医者が看た所で、今のクライヴの状態に変化があるとは思えないが、見たこともない“症状”であるのは確かだ。
そうでなくとも、この状態で、クライヴの体が突然の変調を来す可能性もある。
今日明日くらいは、クライヴは医務室の人として、タルヤの目の届く所で過ごした方が良い。

 じゃあよろしくな、とシドはタルヤに言って、医務室を出た。
すぐ其処の通路では、そわそわとした様子のジルと、主が戻ってくるのを待っているトルガルがいる。
まずは彼女に説明だと、シドはジルに声をかけた。