瘡蓋に滲む


 始まりはいつだったのか、思い出すのも億劫で、よく覚えていない。
それは時間の経過で記憶が摩擦されたと言うよりは、詳細について蓋をすることで、自己を守ろうとしたからなのだろう。
自分でそう理解できるくらいには、嫌な記憶だと言うことが分かっていた。

 当たり前のことだ。
誰が、無理やり犯された時のことなど、覚えていたいと思うだろう。
いやにぎらついた眼の男達に引き摺り出され、疲れ切った躰を冷たい石畳に押し付けられて、股を開かされた。
情けないと分かっていても、泣き喚く以上のことが出来るものだろうか。
喚いた所でどうやらそれは男達を興奮させるだけだったのだけれど、困惑と恐怖で混乱した頭では、冷静な対処なんて思い浮かぶ筈がなかった。

 ありえない場所に、ありえないような痛みが襲ってきて、堪らず悲鳴を上げた。
叫べば誰かが助けてくれるのではないかと、僅かでも望みを抱いていたけれど、そんな事は起こらない。
誰もが自分が同じ目に遭う可能性を分かっていて、目をつけられればそれが現実になると理解しているから、皆が見て見ぬふりをしていた。
それを責めることは出来ない。
ついほんの数日前まで、自分もまた同じように、誰かの悲鳴や誰かの泣く声に耳を塞いでいたのだから。
そうやって、自分の心と体を守ろうとしていたのだから。

 毒の印を持つ者ばかりが犇めき合う其処は、この世の地獄で冷え固めたような場所だった。
其処から這い上がるには、降り注ぐ痛苦と理不尽に耐え、生き延びるしかない。
生き延びた上で、また明日を生きる為に、運を手繰り寄せるしかない。
大抵は、それが儘ならなくなって、動かなくなって冷たくなった。
明日は自分がそうなるかも知れない、今日かも知れない、今かも知れない……そんな風に思いながら、一日一日を食いしばって過ごす。

 そんな中に突然、気まぐれに降って来る不幸が、熱のような痛みを押し付けられる役割だった。
それを押し付けてくるのが誰かと言うのは、その時々で違っている。

 最初は立派な鎧を身に着けた者達で、それらは訓練だとか教育だとか言って、適当に見繕ったものを連れて行く。
そしてしばらくすると、連れて行かれたものはふらふらと帰ってきて、また穴倉へと戻される。
それから幾日かすると、また鎧がやって来て、同じものを連れて行く、その繰り返しだった。
多くのものはその期間の間に疲弊して行き、訓練と言う名の理不尽に耐えうる力を失い、いつの間にか冷たくなっている。
こうなると、鎧の男たちは、次の見繕いを始めた。

 一度あれらに気に入られたら、あれらが飽きるまで繰り返される。
飽きて貰えれば幸運と言えるが、飽きられる前に死ぬ方が多かった。
自分は幸か不幸か死神には嫌われていたようで、延々と犯される日々を過ごす中で、結局、死と言う安らぎに浚われる事はなかった。
鎧の男達にとっては、丈夫な玩具が手に入ったようなもので、面白がって随分と遊ばれた。
あれらにとって、印を持つものと言うのは、そう言うものなのだ。
どうにでも扱って良い、壊れても誰も困らない、いつだって幾らだって換えの利く道具。
それが、印を持つものがこの世界で定められた理。

 自分はと言えば、生きる目的があった。
誰に望まれる訳でも、誰が喜んでくれる訳でもないけれど、死ななかったのなら、死なないのなら、せめてそれは果たしたかった。
何もかも失いながら、命だけは失えずにいる自分が出来る事なんて、それしか浮かばない。
あの日の無念を、あの子の悲痛な叫びを、あの日あの時現れた炎の陰にぶつけてやらなければ、死んでも死にきれない。

 だからいつしか、玩具にされることへの抵抗は諦めた。
何をされても従うようにして、媚び諂ってでも、無様と嗤われようとも、生きる為なら飲み込んでやる。
そう決めてからは、やれと言われた事はなんでもやった。
咥えるのも、しゃぶるのも、飲み込むことも進んでやるようになれば、淫乱だとか淫売だとか、娼婦よりも浅ましいと言われたけれど、特に傷付きはしなかった。

 そうしているとどうにも気に入られたようで、毎晩のように相手をさせられて、碌に眠れもしなくて、死ぬかと思った。
魔物に頭から齧られて死ぬのと、どちらが口惜しいものなのだろう、そんなことを考えてみたりもしていた。

 穴倉でそうやって生きていたからか、外に出るようになっても、玩具扱いは変わらない。
変わったことと言えば、相手が立派な鎧を身に着けた者ばかりではなくなったと言う事だ。
配属された部隊の隊長だとか、その取り巻きだとかに囲まれた時、最初からなんとなくそんな気配を感じていたこともあって、抵抗はしなかった。
鎧の男達の慰み者にされていた事を、彼らが何処で知ったのかは知らないが────いや、どうとでも知る機会はあるだろう。
穴倉の中には沢山の道具が敷き詰められていて、時にはそれらの目の前で犯される時もあったし、そうでなくとも、皆が暗黙の了解のように見て見ぬふりをしていた事だ。
部隊の中に同じ穴倉で過ごしていた者がいれば分かっただろうし、もしかしたらそういう情報がなくても、目をつけられていたのかも知れない。
自分は「犯してやりたい」と思われるような顔をしているのだと、一番最初に貫かれた時に、誰かがそんな風なことを言っていた。
……よくよく覚えていないから、言われたのが本当にその時だったのか、別の時だったのかは判然としないが。

 玩具の───ベアラー兵の部隊なんてものは、使い捨ての駒だ。
だから配属する先々で多くのベアラー兵は死んだ。
前夜に自分を好きに嬲った男が、下半身をなくして転がっているのを見ても、感慨は沸かない。
よく見る光景と言えばそうだった。
それでなくとも、軽い命は枝木のように散って行くし、気を抜けば自分が同じ有様になる。
同情などと言うものに心を囚われている暇があったら、目の前の死を追い払う手段を考えなくてはいけなかった。

 生きる為なら、何をしても良い。
どんな手段でも良い。
それで明日の命があるなら、この躰など、どうにでも。
死ぬ以外ならどうでも良いと、そうやって生きて来たのだ。




 隠れ家で過ごす者達にとって、マーサの宿は、ロザリア領方面で活動するにあたって、丁度良い中継点になる。
其処を取り仕切るマーサが協力者であると言うことは勿論、地形の特殊性もあって、魔物の襲撃を受け辛い為、一時休息の場として丁度良いのだ。
また、ロザリア領にあってその首都であったロザリア城下町とも離れており、現在其処を宮城として住まっていると言う現ザンブレク后妃の影響と言うものが、少しばかり薄い。
既に嘗ての大公が築こうとしていた価値観は消えたも同然であったが、少なくとも城に近いロザリア領南部よりは、ザンブレク皇国の目が届き難い環境ではあった。

 とは言え、隠れ家の者にとって頼り易い場所と言う事は、ザンブレク兵にとっても其処は立ち寄り易い場所である。
マーサの宿に常駐する兵士はいない為、マーサは懐から捻出してブラッドアクス傭兵団を雇っているが、近くを通る街道は軍兵の巡回ルートとなっているし、ロザリア領を行く商人やキャラバンの護衛の為に随行する兵士や傭兵も、この集落を利用する。
クライヴがフェニックスゲートへ向かう為、ジルと共に十三年ぶりに故郷の地を踏んだ時にも、街道にはザンブレク兵の姿が散らばっていた。
その光景は、この地がとうに“ロザリア公国”の一部ではないのだと、二人が悟るには十分なものだった。

 加えて、イーストプールの村で起こった、大公派への“粛清”だ。
嘗ての大公エルウィンが齎した価値観や、彼の治世の時代を今も支持する人々へ行われた殺戮。
あの事件の後も、ザンブレク軍は后妃の命令を受けて、同様の思想を持つものを排除しようとしている。
その証明のように、マーサの宿の近辺でも、ザンブレク兵の物々しい巡回が強化されていると言う。

 シドとクライヴは、荷物の受け取りの為にマーサの宿を訪れていた。
しかし、昨今の見回りの強化の影響で、南部にある検問所がより厳しい取り締まりを始めた為、到着が遅れているとのこと。
原因が危険な魔物の出現だと言うなら討伐に向かう所だが、警備の強化が理由となれば、信念あろうとも世の理に反することをしている者としては、悪戯には動けない。
そう判断して、シドは肩を竦め、


「仕方ない。マーサ、一晩泊まれるか?」
「そう来るだろうと思っていたけど───部屋はね、生憎埋まってるんだ。屋根裏で良ければ空いてるんだけど」
「そりゃ盛況だな。まあ良い、贅沢は言わんさ」


 居心地の良い所でなくて悪いけど、と言うマーサーに、シドは首を横に振る。
外で寝るよりは遥かにマシだと言って、シドは後ろに控えるようにして立っているクライヴを見て、上へ上がるぞと視線で促した。

 一階の食堂の端から階段を上がり、二階へ上がってみると、他の部屋から出て来た客が近付いてくるのが見えた。
それらは兜こそ外しているが、腰に立派な剣を下げており、それらにはザンブレク皇国の意匠が刻まれている。
どうやら正規の軍兵のようで、巡回の傍らに此処で一泊明かすらしい。
彼らはぞろぞろと階段を下りて行き、明日の出発までひと時、羽根を伸ばすつもりのようだ。

 シドとクライヴは無言で兵士たちと擦れ違うと、二階の奥の立て梯子から屋根裏へと上がった。
其処は天井がすぐ近くにあって、背中を真っ直ぐには伸ばせない、良くて中腰と言う姿勢しか取れないが、二階のように部屋を区切る壁がない分、三部屋分の広さがあるので、横になるには十二分の幅がある。
隅には少々埃を被った毛布があり、軽く叩けば、敷布としては使えそうだった。


「ま、夜露が凌げるだけ良いもんだ」
「そうだな」


 毛布を広げるシドの言葉に短く返しながら、クライヴは屋根裏の隅の明り取りの窓を開けてみた。
この集落は高台の上にあり、其処でまた一つ大きな建物である宿の天辺近くにいるから、眺めは悪くない。
とは言っても、窓は四方五十センチもないような、質素な跳ね板窓であるが。

 埃っぽい匂いを少しは軽減できないかと窓を開けたクライヴであったが、其処から臨む空は少し薄暗い。
下───地面の方を見てみると、其処は宿屋の裏手で、トルガルが丸くなっている。
匂いを感じたのか、顔を上げたトルガルと目が合って、毛並みの良い尾がふさりと揺れた。
今日はこのまま泊まりになるから、後でトルガルには食事を持って行ってやらねばなるまい。

 そう思う傍ら、大気中に微かに感じられる湿気の匂いと、重苦しい空を見て、クライヴは溜息を吐く。


「一雨来るかも知れないな」
「西の方はどうだ?」
「……降りそうな雲だ。夜の内に過ぎてくれると良いんだが」


 元々、この辺りは湿気が多く、霧も濃い。
湿地帯も其処此処にある上、雨も多い地域だ。
酷いものにならなければいいがと、ほとんど期待もなく呟いて、クライヴは窓から離れた。

 シドは懐から取り出した煙草を、使うかどうかと悩みに手遊びしつつ、


「寝るには流石に早いな。少し買い出しでもするか。食堂も今日はザンブレクの兵で埋まってるだろうしな」


 宿に何人の兵士が泊まっているのかは知らないが、部屋がすべて埋まっているのなら、それなりに入っているのだろう。
夕飯時となればそれらは勿論、マーサが雇っているブラッドアクス傭兵団の者や、商人等も食堂に集まって来る筈だ。
必然、其処が混むのは間違いない。

 賑々しい食堂や酒場と言うのは、情報収集に便利に使えるものだが、今日のシドにそのつもりはないようだった。
気分的な所や、此処に来た目的がそれでないと言うのもあるが、やはり一番はザンブレク兵が多いと言う所だろう。
目立つ行動を取るほど迂闊な事はしないが、色々と身に覚えのある身としては、出来るだけ目立たない方が無難であった。

 荷物持ちについて来いと言われたので、クライヴもシドと共に宿を出た。
市場で過ごす人々は、西の空模様に気付いているようで、一雨来る前に必要なものを揃えようとしている。
商人は雨が降る前に店じまいもしたいのだろう、いつもよりも少し羽振り良く品を捌くつもりだ。

 パンに干し肉、付け合わせに香草を少し。
マーサの宿の食堂で食べられるものに比べれば、全く貧相なものではあるが、今日の所は仕方がない。
次に来た時には、エールは飲みたいもんだな、と言うシドに、クライヴは暢気な話だと呟いた。

 それ程広くはない市場をぐるりとしている間にも、あちこちにザンブレク兵の姿が見られる。
この全員がマーサの宿を利用する訳ではなく、夜の内にも街道の夜警に向かう者もいるのだろうが、それにしても数が多い。
普段はブラッドアクス傭兵団くらいしか見ないと言う事もあって、いつになく物々しい空気が感じられた。


「……シド」
「なんだ」
「明日は大丈夫だと思うか?荷が此処まで無事に届くかどうか……」


 声を潜めて尋ねるクライヴに、シドは視線だけで周囲を一瞥し、


「検問がどれくらい厳しくなってるか、だな。リドック跳開橋のあたりまで抜けられれば、あとは問題ないと思うが───明日、昼まで待って届かないようなら、様子を見に行く」
「分かった」


 同じく潜めた声で答えたシドに、クライヴは頷いた。

 今夜の空腹をしのぐ物も揃い、そろそろ宿へ戻ろうかと言う所で、シドが「先に行ってろ」と言ってクライヴに荷物を押し付けた。
シドが向かう先には、槌を打っている鍛冶師がいる。
そう言えば、ブラックソーンが素材の調達を頼んでいたな、と思い出しつつ、クライヴは宿屋の裏手へと向かった。

 宿屋の裏手で休んでいたトルガルが、相棒の匂いに気付いて体を起こした。
尻尾を振る彼の頭を撫でて、クライヴは買い込んだ荷物の中から、彼の為に購入した干し肉を取り出す。
トルガル好みの魔物の骨に比べれば噛み応えは足りないだろうが、今日の所はこれで我慢して貰おう。
トルガルも特別不満はないようで、クライヴの手から与えられた肉に齧りついている。

 先に宿に入っていても良いだろうか、と交渉もすれば長引くであろうシドを、待つか否かを考えていた時だ。


「おい、そこのベアラー。ちょっと来い」


 背にした道の方から聞こえて来た声に、クライヴは一瞬眉根を寄せる。
どうやっても目立つ頬の毒印のお陰で、今でもこうやって無遠慮に呼びつけられる事は少なくない。
面倒事の気配を少なからず感じながら、現状として無視をする訳もいかないと、クライヴは腰を上げた。

 振り返ってみれば、仕立ての良い鎧を身にまとい、腰に太い剣を携えた男が立っている。
宿でも見た覚えのある井出達は勿論のこと、身に着けたものに刻まれた意匠で、それがザンブレク兵だと言う事は直ぐに分かった。
上等な鎧を使っていることから、恐らくは隊長職には当たる人間だろうとは感じられるが、クライヴに分かるのは其処までだ。

 だが、そんな事よりも気になるのは────


(……何処かで……)


 微かにクライヴの記憶の琴線が震えている。
しかし、正規のザンブレク兵にクライヴの知り合いなどいる訳がない。
幼年の頃は勿論のこと、ロザリア公国の崩壊と共にベアラーとなり、ザンブレク皇国で過ごした十三年間にも、彼の国で記憶に残すような人間に心当たりなどないのだ。

 それなら、この既視感は何だと言うのか。
自身の頭の中の靄に、訝しい表情を浮かべたまま立ち尽くすクライヴに、ザンブレク兵の方が痺れを切らす。


「おい。来いと言っているだろう、聞こえなかったのか」


 苛々とした声に、クライヴははっと我に返る。

 此処でザンブレク兵を相手に揉め事を起こすのは、デメリットしかない。
クライヴは仕方なく、呼びつける兵士の前まで近付いた。
後方、宿の袂でトルガルがウゥー……と喉を鳴らしているが、大人しくしておくように視線を投げると、彼は毛を逆立てながらその場に留まっている。

 目の前までやって来たクライヴに、兵士の手が伸びる。
ぞわ、と何か本能的な寒気を感じたクライヴだったが、兵士はお構いなしにその顎を掴んだ。


「ベアラーの癖に、随分、上等な格好をしているようだが……」


 じろじろと検分する兵士の言う事は、間違っていない。
クライヴが身に着けているのは、イーストプールでマードック婦人から譲られた、嘗ての公太子───亡き父エルウィンが大公となる前に使っていた旅装束だ。
当然、その仕立ては上質なもので、長旅にも耐えられる素材を惜しみなく使用しており、ベアラーが与えられるには余りにも過分なものと言える。

 それなりに目が肥えているのか、ザンブレク兵はしっかりとそれを見抜いているようで、生意気な、と呟くのが聞こえた。
忌々しげな表情を浮かべる男に、変な気を起こさないでくれると助かるんだが、とクライヴは思う。


(こんな所で、追剥のような真似をされるとは思いたくないが……)


 ベアラーはどう扱っても良い、と思っている者は少なくないし、そう言った扱いが当たり前なのが、このヴァリスゼアだ。
人目憚らず裸になれと命令されるような事があっても可笑しくはなく、多くのベアラーはそんな理不尽にも従うしかない。
逆らう意思も力も失っているのは勿論、逆らって逃げた所で、行く当てもないのだから。

 クライヴの場合、既に脱走兵としてザンブレク軍から離れた経歴がある他、戦う力も意思も持っている。
故にザンブレク軍とは既に何度となく衝突し、剣の錆にしたのも一度や二度ではない。
しかし、この街中でザンブレク軍を相手に剣を振り回せば、当然取り囲まれるだろう。
マーサやこの集落に住む人々にも迷惑がかかるし、流石にそれは悪手に他ならない。

 ともかく、このまま眺めるだけ眺めて飽きてはくれないかと、クライヴは思っていた。
しかしザンブレク兵は、いつまでもじろじろとクライヴの顔を観察し、


「お前、何処かで見たな……」


 呟く男に、クライヴの眉根が潜められる。

 やはり、何処かで遭ったことがあるのだろうか。
直近でザンブレク兵と対峙した時と言えば、情報収集に赴いていたガブを助けた時だが、あの場にいた兵士は全員斬った筈。

 そう考えていたクライヴの横顔を、男は窄めた目で眺めた後、左耳に光る小さな金属を見た。
それが男にとっては決定打だとなり、その口元がにやりと笑う。


「ああ、思い出した。俺が“教育”してやったベアラーじゃないか」


 男の言葉に、クライヴは目を瞠る。
それと同時に、遠い記憶の底に埋もれていたものが、一気に泡になって浮き上がって来た。

 ────それはクライヴがベアラーとして毒の印を刻まれてから、それ程長くはなかった頃のこと。
劣悪な環境下で、管理と無茶な訓練を繰り返される中、突如として襲ってきた、理不尽な暴力だった。
何を理由に自分が選ばれたのかは、全く分かるものではなかったが、単なる気まぐれであった事は想像に難くない。
犇めき合うように押し込まれた奴隷の中で、偶々目についたのがクライヴだった、そんな所だろう。

 毎日繰り返される、訓練と言う名の体罰で、疲弊しきった身体を引き摺って行かれた。
其処で訳も判らぬ内に躰を拓かれ、恐慌状態から暴れれば、腹を殴られて空っぽの胃から液だけが吐き出された。
重い甲冑を身に着けた男達に囲まれて、嫌な貌で笑うそれらに見下ろされながら、後ろの穴を好き勝手に穿り回される。
痛みと共に襲ってくる奇妙な感覚に、混乱で涙を流している間に貫かれ、一方的に揺さぶられていた。
それらと同時に、「自分の立場がよく分かっただろ」と笑う声があった。

 その一度で味を占めたのか、クライヴは度々連れ出されては、女日照りに餓えた男達に弄ばれた。
発展途上だった躰の青さを堪能するように、男達は嫌がるクライヴを犯しては、これは教育なのだと嘯く。
奴隷が奴隷であるように、逆らう力を意思を根源から折り腐らせる為に、悍ましい力と性で支配する。

 それをクライヴに強いたのが、今目の前にいる男だった。

 喉の奥に、何度も何度も感じた覚えのある、胃液が上って来る感覚がする。
強張った顔で停止したクライヴを、男は先までの不機嫌な表情とは打って変わって、にやついて眺めている。
その顔こそが、あの暗い穴倉の中で、何度もクライヴの目の前で笑っていたものだった。


(こんな、所で)


 確かに、あれはザンブレクの兵だった。
ベアラー兵の訓練教官なんてことをしていた兵士が、どうしてこんな所にいるのかなんて、クライヴの知れる話ではない。
だが間違いなく、この男は、クライヴを最初に犯し、何も知らなかった少年に消えない傷を刻んだ張本人であった。

 手甲の中で指先が震えているのが分かって、クライヴは意識してそれを握り締めて殺した。
しかし、喉の奥に競りあがるものがある感触と、歯の根が鳴るのは抑えられなかった。


「そんな格好でこんな所にいるって事は、ザンブレク軍籍じゃないようだが……何処かの金持ちにでも買われたか」
「……」
「大層な剣まで背負って、傭兵気取りか?それとも、ケツで媚びて仕立てて貰ったか」


 にやにやと笑いながら言う男は、クライヴを卑しいベアラーとしか見ていない。
その眼に映る青年の顔が、じわじわと蒼くなっていく事に気付いて、男は益々愉快な表情を浮かべた。


「俺を覚えてるな?」
「……」


 知らない、とクライヴは言えなかった。
舌の根が乾いて、喉が引き攣って声が出ない。
許可した以外で喋るな、と喉を蹴り上げられた時の事を覚えている。
それを守らなければ何度でも殴られるのに、男は下肢を貫いて揺さぶっては、クライヴに無理やり声を出させて遊んだ。

 躰があの頃に戻ったように動かない。
暗殺部隊に所属された折から、命令なくとも報告等で会話は必要なものになったから、喋ることは出来た。
今では協力者たちの力添えもあって、ベアラーと見られようと、幾許かの会話は出来るようになったのに、目の前の男にはそれも出来なかった。
するな、と躰に嫌と言うほど教え込まれた事を思い出す程に、躰が、意識が、無力だったあの頃に巻き戻る。

 黙したまま瞳の揺らぐクライヴに、男は嘗て弄んだ少年が、自分を忘れていない事を確信した。


「覚えてるなら話が早い。使わせろよ」
「……」
「折角娼館があるってのに、持ち合わせがなかったんだ。そんな上等な服を仕立てて貰える位だから、具合も良いんだろうな」
「……」
「お前を躾けてやったのは俺だ。“ご主人様”には従えと、しっかり教えてやっただろう」


 ならばお前の取るものは一つだと、男は言う。
そうやって、低く耳障りの不快な声で、揺さぶりながら囁かれていたことを、クライヴはまだ覚えている。


(違う。俺はもう、あの頃みたいには────)


 戦う力を身に着けた、抗う意思を思い出した、生きる目的が出来た。
何もかもを砕かれ失った幼い日とは違うのだと、あれから一歩でも踏み出している筈だと、クライヴは自分に言い聞かせる。

 それなのに、


(声が)


 喉が引き攣ったように、声帯が張り付いたかのように声が出ない。
口を開けど戦慄くばかりで、断る、と言う短い言葉も出てこなかった。

 無言のまま、青の瞳を挙動不審な程にゆらゆらと彷徨わせるクライヴに、男が興奮を灯した眼で腕を伸ばそうとした時、


「兵隊さん。すまんが、そいつは俺の持ち物なんだ。ベアラーだからって、勝手にして貰っちゃ困る」


 割って入った声と、吠える狼の声に、凍り付いていた意識がようやく動き出した。