無垢に染め色


 仕事中に振動した携帯電話に目を遣れば、同居人兼上司からの着信だった。
同居と言う生活形態、仕事は同じ職場とあって、連絡事ならば大体は直に会って話せば済むのが常である。
それがこうやって携帯電話で、それも勤務中にメッセージが来たと言うことは、急ぎの話だろうか。
丁度彼も出払っている所であったし、二時間程度で戻ると聞いていた筈だが、それを待たずの連絡である。
取り合えず目を通しておこう、と手に取った。

 通知欄を押して液晶画面が映り替わり、メッセージアプリが開かれる。
特にカスタムもしていない、導入したデフォルト状態のままのメッセージ欄には、要件が端的に書かれていた。


『来月頭の木曜の遠出に、お前も呼べと先方から熱望があった。ちょいと畏まった所に行くから、行くなら身なりを整えておく必要があるが。どうだ?
ああ、先に何か予定が入ってるなら、そっちを優先して良い。暇があったら返事を寄越してくれ』


 クライヴは、来月は、としばし考えた。
デスクの端に置いている卓上カレンダーには、その時々で大まかな予定をメモしているが、来月の予定は空白になっている。
スケジュールの点で言えば、クライヴがシドに同行するのは何ら問題なかった。

 しかし、畏まった所に行くとは、どういう事だろう。
会社の社長であるシドが“先方の熱望があった”とあるが、シドが出向くような場所に、単なるいち平社員でしかないクライヴが呼ばれる必要などあるのだろうか。
まだ、社長シドの補佐や代理として顔を使う機会のあるオットーが呼ばれる方が、話としては分かるものだ。

 と、多少の疑問はあるものの、だからと言って、行きたくないとは言わないクライヴである。
大抵の事なら適当に捌いてしまうであろうシドが、わざわざこうやって一報を寄越してきたのだ。
拒否の選択権は与えられているが、今後の会社の運営か、何某かの企画絡みか、ともかくそう言った点を考えると、一蹴はしない方が無難と思ったのだろう。
社長命令として同行を強制しない辺りは、シドの気遣いだろうか。
その気持ちだけ汲み取っておいて、クライヴは返信メッセージを打ち始めた。


『特に予定はないから、同行は可能だ。だけど、畏まった所に行くのに適した服なんてものは持っていない。フォーマル用のスーツくらいならある』


 返信を送ってから、十分もする頃に、シドからの返事が来た。


『お前の持ってるスーツってのは、黒だろう。ドレスコードとしちゃ問題はないだろうが、其処までお堅くなくて良いんだ。向こうの想定としては、遊びがある位が良いだろう』


 つまり、礼装までは必要がなく、カジュアルな方が良いと言うことだろうか。
とは言え、普段着ほどにラフな訳ではないだろうし、清潔感を喪わない程度に、ジャケットとパンツで整えておくのが無難か。

 しかし、とクライヴは眉根を寄せる。


『そう言うものは持ってない』
『じゃあ用意するか。服は直しも必要だろうから、明日明後日には見に行けるか?』
『問題ない。行ったら夕飯は外だな』
『それが手っ取り早いな。じゃあ、そう言う事で、宜しくな』


 シドのそのメッセージを確認して、クライヴは携帯電話を元の位置に戻した。
多少気になる所はあるが、詳しいことを確かめるのなら、シドが会社に帰ってきた時か、家に帰ってからの方がゆっくり確認できるだろう。
取り合えずは、今手元にある仕事を片付けておこう、とクライヴはパソコンへと向き直った。




 仕事が目が回る程に忙しかった訳ではないが、暇でもない一日であった。
昼間、シドからの連絡が来てから、一時間程度の頃に彼は社屋へと戻ってきたが、その時にはクライヴが少々外へと出ていて、帰った時にはシドはオットーと話をしていた。
連絡があったことに関して聞きたいことは幾つかあったが、さりとて仕事の打ち合わせをしている所を遮って確かめに行くほどのものでもない。
結局、クライヴが件について詳しく聞いたのは、家に帰ってからの事だった。

 社長業をしていると色々な所に顔を出す必要が出て来るもので、また社会を率いるリーダー同士の付き合いと言うのもあるらしい。
クライヴ自身は全くその手の地位に関係がない立場にいるものだから、聞き及ぶ話でしか知らないが、嘗ては父エルウィンも、社交界の権謀術数に頭を痛めていたのは知っている。
影響力のある立場になると、そう言うものは何処でもついて来る物なのだろう。
シドも、彼自身は「単なる零細企業の代表ってくらいだよ」と躱すが、彼は非常に顔が広い人間だ。
シドが言うなら、シドが関わっているのなら、とその名が何処まで信頼されているのか、クライヴは未だに洋として知れずにいる。
だが、自らも彼に拾われて救われている今がある事を思えば、彼がそうして慕われるのも解ると言うものだ。
───だからか、或いは故にか、シドにとっては「ちょいと面倒な連中」とも“上手な付き合い”が必要な場面は少なくなく、来月に予定されていた遠出も、それが絡んでのことではあった。

 が、元はと言えば、それは社長であるシドのみが顔を出せば良いものだ。
どうして其処に、クライヴが参加する事になったのか、それも先方からの熱望でとはどう言う意味かと尋ねてみると、


「お前、実家は今も健在だろう」


 晩酌のビールの一杯を傾けながら、シドはそう言った。

 クライヴの実家と言うのは、経済界では知らない者はいないと言われる程に大きい、ロズフィールド家である。
此処が古くに企業した会社は、世界中にその支社や子会社を持っており、全盛期の時代には世界の資産の約三分の一を所有していたと言われている。
が、盛者必衰の時代の波は此処にも須らく訪れていたようで、ある時期を境にその業績は右肩下がりになったとも。
現在は再び持ち直し、嘗ての栄華に遠くとも、某有名雑誌で取り上げられる資産ランキングで毎年名前を見るものであった。

 ロズフィールド家は、長く続いている家系と言う事もあって、その血筋は幾つにも枝が伸び、本家筋だけでなく、分家筋も多い。
その家系の中でも様々な腹の探り合いはあるもので、企業運営については同族経営と言う形であるものの、その実、全くの実力社会の構図が出来上がっていた。

 クライヴはその本家筋、遡れば直系にも当たるのだが、生憎と彼は、そのロズフィールド家内の席争いには最初から外されていた。
これはクライヴが、生みの親である母との確執が今に至っても拭えぬまま続いているからだ。
それ自体は、クライヴにとっては最早当たり前な事とも考えるほどに染み付いているから、クライヴは大学卒業後に完全な独り立ちとして、全く実家とは縁のない仕事・会社へと就職したのである。

 と、クライヴが実家からすっかり離れて十年以上も経つが、ロズフィールド家は今も変わらず存続されている。
だが、クライヴがその実家と今も関わりがある事と言ったら、幼少の頃から仲が良かった弟と、先達て久しぶりに再会したと言うくらいだ。
実家は勿論、ロズフィールド家からも実質として爪はじき、放逐された形で過ごしているクライヴに、実家の名など殆ど関係のないようなものだった。

 と言った所は、同居している内にシドも知っている筈だが、どうして此処に来てその実家の名が出て来るのか。
クライヴがまた眉根を寄せていると、シドは空になったグラスにビールを注ぎながら言った。


「まあ、お前の所は有名だからな。それなりに世界経済に目を向けていれば、何処かで見聞きするもんだ。で、そのロズフィールド家だが、大体の奴はその経営傘下に収まっていくものらしいな」
「ああ、一応は。学業終了後、一旦は社会で揉まれて来いって事なのか、一般企業に就職するのは珍しくないけど、それも殆どはロズフィールド所有の企業を経営する為の下積みみたいなもので───殆どの所が同族経営だからな、後継が必要になる訳だ。俺も弟がいなかったら、そう言う必要に迫られたのかも知れないな」


 そう言うクライヴの表情には、滲む遣り切れなさと、長らく沁み込んだ諦念が浮かんでいる。
代わりに、自由に生きていると言う事実もあって、求められなかった自分に代わるようにして立場を有する弟の顔が浮かび、なんとも言えない感情が浮かぶ。
それをビールを煽るようにして、飲み干して言った。

 シドも、クライヴの表情から読みとれるものを感じながら、触れぬことと決めて話を続ける。


「そうなると、一族を抜けて外で生活してる奴って言うのは、珍しい訳だ」
「まあ……そうかもな。分家の方まで見たら、いない事はないと思うけど」
「だが、お前は直系筋だろう。だから傍目には余計に珍しく映るのかもな」
「そう言うものか」


 確かに自分はロズフィールドの直系であり、更に言えば、嫡男と言う立場であった。
折が悪かった母のことがなければ、順当にいけば、クライヴは今頃の年齢になる頃には、実家に戻っていたのは想像に難くない────弟がそうなのだから。

 それで、とシドは更に続けた。


「そのロズフィールド直系筋のお前が、うちの会社にいるって話を、何処ぞから聞きつけたみたいでな。いや、なんとなく話だか噂だかの出所は、想像がついちまうんだが」
「……ひょっとして、叔父さんか?」


 片眉を下げつつ、少々困ったような顔をして、含みのある言い方をするシドに、クライヴも同じ顔をして言ってみれば、「元気な声の御仁だよ」と返ってきた。
これにはクライヴも苦笑するしかない。
該当人物が、クライヴに対し、全く持って悪意の類など微塵もないことは、よくよく知っていることだった。


「────ともかく、そう言う話がちょいと回ってる訳だ。それを聞いた奴が数人、お前に興味を持ってるんだよ」
「興味?」
「腹の中はそりゃあ色々だ。実家の方にコネを作りたい奴、お前を引き抜きたい奴、珍しいもの見たさの好奇心。お前が良い仕事するのは俺も知ってるし、ヘッドハンティングは困るんだがなあ。連れて来た俺が言うことじゃないが」


 独り言気味に呟きつつ、シドはグラスに口をつける。
軽く一口を飲み込んで、続けた。


「ともかく、そう言う訳でな。今日会った奴から、お前と一献したいって言われたんだよ。ま、今日の奴は別に疚しい事なんかないだろうから、いつかは顔合わせさせても構わなかったんだが、他が中々煩くてな。来月のパーティの場で、手っ取り早くお披露目してやろうと思ったんだ」


 クライヴとロズフィールド家の繋がりと言うのが、存外と薄いと言う事は、シドも理解している。
そうでなければ、名のある一族の直系と言えるクライヴが、ブラック企業で十年以上も擦り減らされたりはしていないだろう。
今ほどの年齢になる頃には、実家に戻って会社の運営の一端くらいは任されている筈だ。
クライヴ自身の自己評価はともかく、そう言う実力がある事は、シドも感じていた。

 だが、実家との縁故がどれだけ深いか浅いかと言うのは、赤の他人は知らぬ話だろう。
元々、ロズフィールド家は身内贔屓が強いとも言われているし───その代わり、徹底した実力主義で次代が選ばれると言うことは、余り知られていない───、クライヴ本人をどうこうする気がなくとも、彼と親しい家族への伝手を作ることを期待する者も少なくはない。
事実として、シドの下にやってきて、クライヴについて尋ねる者の中には、「どうやってロズフィールド家と繋がりを作ったのか」と聞きたがる者がいる。
何某かでシドがロズフィールド家とコネを作り、クライヴを自社に引き抜いたと思っているのだ。
シドは「野良犬を拾っただけだよ」と言っているのだが、これが存外と言葉通りであることを悟る者は、先ずいない。
それ程、ロズフィールド家の人間が、三十路も前になって実家の手元に戻らないことは珍しい話なのだ。

 思わぬ所に家の縁が絡んで、クライヴはなんとも言い難い表情を浮かべる。
実家の影響力の大きさと言うのは、常々理解しているものではあったが、現在進行形で、それとはほぼ無縁な生活環境にいる自分が、その影響を受けるとは思っていなかった。

 クライヴはつまみのチップスを齧りながら、ふう、と溜息をひとつ。


「皆、俺に何を期待しているんだか。今更俺に実家との縁を求められても……」
「そりゃあ見てれば分かるが、世の中の殆どはお前の事情なんて知らないからな。それに、弟とは連絡を取り合ってるんだろう」
「ジョシュアとは話はするが、ごく普通の話しかしないぞ。仕事のことは───俺が手を出せる話はないからな。ジョシュアが言うなら聞くのは構わないが、俺から突っ込むものじゃない」
「そう言う事も、お前の口から言っておくと良い。俺に期待するだけ無駄足だぞってな。俺が言っても誰も信用しやしない、囲ってると思われるだけだ」
「……囲ってるのは事実だろう」


 最後は少しばかり冗談めかした言葉を使ったシドに、クライヴは苦笑するように言って返した。

 シドはビールの最後の一口を飲み干して、片付けの為に席を立ちながら言う。


「ともかくそう言う訳だからな。明日は服を揃えに行くぞ。俺の知り合いのテーラーがいるから、其処で誂えるとしよう」


 そう言ったシドに、クライヴは「ああ」と短く答えた。
服など種類に限らず、とんと無頓着なクライヴである。
普段着でも特にこだわりの持たない彼が、ドレスコードに則った服で、遊びを取り入れたものなど自力で選べる訳もなかった。
その点、シドは洒落者とも言えるので、彼が贔屓にしている所があるのなら、信頼も出来るだろう。

 明日、明後日と続く休日は、少なくとも一日は来月の準備の為に潰れるだろう。
休みの日に何がしたい、と言う訳でもないので、クライヴは全く構わなかった。
夕飯は何になるかな、と平和なことを考えつつ、就寝支度を済ませるのであった。




 『ルジェナ・ダリミル』と看板を掲げたその店は、店主が一代で作り上げたオーダーメイド・スーツの店だと言う。
シドはその店主と長い付き合いだそうで、スーツを仕立てる時には決まって此処を使うのだとか。

 シドとクライヴが店へと入ると、奥からやって来たのは、色黒の若い男だった。
見た所は二十代になるかならないか、彫の深い顔立ちをした男は、シドを見て直ぐに用向きを悟ったようで、


「あんたか。師匠から話は聞いてるよ、新しいスーツの注文だって。欲しいのはそっちのお連れさんのであってるか?」


 カウンターに採寸道具を用意しながら言った男に、シドは「ああ」と頷いて、


「ダリミルの奴は、今日はいないのか?」
「急な用向きが出来てね。あんたには“悪かったと伝えてくれ”と言われている。でも安心しろよ、服を仕立てるのは師匠だ。俺の仕事は、採寸とヒアリングまでだよ」


 そう言った青年の最後の一言には、少々の自嘲めいたものが混じっていたが、表情に毒のあるものはない。
男はクライヴの前まで来て、


「どうも、この店で働いているルボルです」


 シドに向かっていた口調とは違い、語尾を形ばかりに整えた挨拶が寄越された。
差し出される右手に、クライヴも応える。


「クライヴです。よろしく」
「どうも。さっき言った通り、自分の仕事は注文を受けるまで。見習いなものでしてね、大事な所はまだまだ師匠に許されていないもので」
「そうなのか」
「仕事はきちんと致しますよ、信頼仕事ですのでね」


 口元に笑みを浮かべてそう言ったルボルは、「だから信用して欲しい」と言外に言っていた。
勿論、とクライヴも頷きつつ、


「お願いします。ただ、スーツのことはよく分からないから……さっき言っていたヒアリングと言われても、何をどう頼めばいいのか」
「こちらの質問に答えてくれれば十分ですよ。分からない事なら、分からないと正直に言ってくれれば良い。こだわりがあるなら、それも伝えてくれると助かりますね。オーダーメイドは、顧客の希望に合わせて、その人に似合うものを作るのが仕事ですから」


 言いながらルボルは、こっちへ、とクライヴを店の一角へと誘導する。
其処にはダークマホガニーカラーの上品な造りをしたデスクがひとつ、椅子が揃えて二脚が置かれており、ルボルは二人に座るようにと促した。

 腰を落ち着けたクライヴとシドに、ルボルも向き合う位置で座ると、デスクに置いていた分厚いファイルを開いた。
一番トップのページに留めていた紙束を取り、銀色のボールペンと一緒に差し出す。
指定された所に名前と住所を書いて戻せば、ルボルは早速仕事に入った。


「先に幾らか話を聞いてはいるんですが、私は緊急に回された代理のようなものでしてね。改めて確認させて頂きたいんですが、今回注文される服は、お仕事で使われるものではないとのことで」


 ルボルの言葉に、クライヴはちらと隣に座っている男を見た。
この店で注文すると良い、と来店の段取りを整えたのはシドなのだ。
何と言って話を通しているのかは、シドしか知らないことだった。

 シドは椅子に深く座ったポーズで、ああ、と頷く。


「近い内にパーティに出席する予定がある。その時にこいつを連れて行くんだが、今までそう言った類には無縁の環境だったんでな、丁度良い服がないんだ。今回はパーティと言ってもラフな方だから、カジュアルで十分なんだが、どのシーンでも使えるものを一つ二つ用意しておけば、何にしろ慌てなくて良いだろう」
「成程、それでうちに。ご贔屓にどうも」


 シドの言葉に、ルボルはにんまりと笑って見せる。
それに合わせるようにして、シドも同じ表情を浮かべていた。

 それでは、とルボルが再びファイルを捲る。
ぱらぱらとページを送って開いたのは、細かな欄が種類別にリストにされ、欄に合わせて四角い布の切れ端が貼られたページだ。


「うちで扱っている生地の種類と、それぞれのメリット・デメリット、お値段の一覧です。色々とシーンや使い方、着ている時に何をされているかと言う点で、どの生地が適しているか、使い心地も含めて考えて頂ければ良いかと」


 どうぞ、と見易い位置にと差し出されたファイルに、クライヴは視線を落とした。
ジャケットと一言でも言っても、その中身はやはり多様なものである。
元よりこの手の種類に全く疎いと言うのに、話についていけるだろうか、とクライヴはひっそりと不安を感じていた。

 クライヴのその予感は概ね間違ってはおらず、生地ごとの違いであるとか、ジャケットの形であるとかは、「聞いたことはある」程度にしか分からない。
襟の形、袖のボタンの数のひとつでも違えば、使えるシーンが変わってくると言うのだから、全く不思議な世界である。
これらをしっかりと使い分けしながら、場面に適した選びが出来て、服に着られず形に出来るのが、着こなせる洒落者と言う事なのだろうか。

 ────一通りの説明を貰った後、形から色からと順々に決めていく。
商品として棚に並べられた沢山のジャケットから、実際に物を見て試着してみよう、と言う所まで進んで、まずはクライヴの希望に近いものをルボルが手に取る。
と、そこで上下揃えて並べられたものに、此処までの様子を見ていたシドから待ったが入った。


「お堅い奴だな。お前らしいと言えばらしいんだろうが」


 シドのその言葉に、ルボルが苦笑する。


「良いお客だよ。堅実で真っ直ぐで、店としちゃあ信頼できる」
「面白味は足りないだろう」
「悪かったな、面白くなくて」


 茶々を入れてくれるシドを、青い眼がじとりと睨む。
その傍ら、シドの言う事も分からない訳ではない、とクライヴ自身も理解していた。


「無難そうな所を選んだのは確かだが……」
「仕事に使うスーツなら、このまま問題もない。しかしなあ、これで飯を食いに行きはしないだろう。弟とちょっと良い所にでも行くとして、これで気安い話が出来そうか?」
「……」


 フィッティグ用の鏡に映るクライヴは、上から下まで、グレーのジャケットとパンツ、シャツは白となっている。
グレーは重いものではなく、そう言う点では格式としては崩した方だが、このままネクタイを締めれば、フォーマル服として機能するだろう。
糊の効いた白のワイシャツも、清潔感を補強しており、場面を問わずに使える、と言えば、汎用性としては十分だ。

 しかし、家族との会食となれば、それなりに気安いものである筈だ。
どういった場所で、どういった話がしたいかにも因るが、兄弟が近況報告のような他愛のない会話をするのに、ビジネスシーンを思わせる雰囲気は、基本的には必要ないだろう。


(父上と話をしている時はどうだったかな。一緒に出掛けるような事も、ないことはなかったが……)


 クライヴの記憶の中で、手本に出来そうな人と言うのは、根本的に少ない。
学生時代まで同居していた父親、折々に顔を合わせては遊び相手をしてくれた叔父の他は、父の秘書を務めていた男性くらいだ。
幼い時分には、父、叔父、弟、そしてクライヴの四人で外食に行く機会もあったように思う。
その時に父親がどんな格好をしていたかと言えば、家族サービスと言うこともあるのだろう、少なくとも仕事中とは異なる装いをしていたのは確かである。

 他に手本にするならば、としばし考えたクライヴの目が、此方を眺めている男へと向かう。

 シドと言う男は、意識してのことか、全くの素でのことかは分からないが、いつも身なりが整えられている。
今日のように外出する時は勿論のこと、仕事に愛用しているスーツも、色味や風合い、身に着けるアクセサリーによってさり気無く嫌味でない飾り方をしていた。
年齢を思えば、ロマンスグレーなどと言われるだろうし、そう言った表現が全く様になる井出達なのだ。
ネクタイの柄であったり、袖から覗くワイシャツの色であったり────冬になればコートやマフラー、手袋と言った所まで、シドのコーディネートはいつも整っていた。
自宅であればもっと崩しているが、元々の服選びのバランスが整っているから、適当に着ても十分映える。

 クライヴの身近で、身嗜みについて手本にするなら、やはりこの男だろう。
しかし、クライヴからしてみると、シドは上級者過ぎるのだ。
元々が衣服に頓着のない男が、急に洒落者を真似ろと言われても、そっくりそのまま同じ服を使えば良いものでもないだろう。
その程度はクライヴも理解しているつもりだった。

 となれば、クライヴが取れる行動はひとつしかない。


「……シド。あんたが選んでくれ」


 はあ、と諦めに似た溜息を漏らして言うと、シドは特に驚く様子もなく、


「ギブアップの早い奴だな」
「これでも努力はした。それをあんたが茶々を入れたんだろう」
「ただのアドバイスだよ」


 肩を竦めるシドに、クライヴは小さな唇を微かに尖らせる。
それから、もう一度溜息を吐いて、


「行くパーティは、カジュアルで良いと言ったって、それなりに人が集まるんだろう。一応あんたの部下として同行するんだから、変な格好にして、あんたに恥をかかせる訳にもいかない。だけど、どうすれば恥にならないで済む格好になるかは分からない。でも今日の内に注文しておかないと、当日には間に合わないだろ」


 既製品のスーツでも、体格に合わせた直しを頼めば、納品まで日がかかるものだ。
直しの後、確認をして更に直しが必要になった場合の時間を思うと、一旦持ち帰って考えます、等とも言っていられない。


「あんた、こう言うのを選ぶのは慣れてるんだろう」
「まあ、お前よりはな」


 シドの言葉に、「じゃあ任せた」とクライヴは言った。
表情に拗ねたものが混じるクライヴに、シドはもう一度肩を竦めて、ルボルへ向き直る。


「そう言う訳だ、構わないか?」
「其方でお互い納得済みなら、俺は構わないよ。だけど、折角選んで貰ったんだ。自分で選んでくれたものも、そのまま、要望として残しておくぜ。見た感じ、どのシーンにでも使えるチョイスだし、無難にするのが良い場面だってあるものだからな」


 ルボルはそう言うと、オーダー用のシートをもう一枚取り出した。

 それからのクライヴは、当分は着せ替え人形である。
シドのオーダーを聞いたルボルは、都度に合わせて仮決め用のジャケットやパンツを持ってきて、クライヴに羽織らせた。
生地によって変わる微妙な色の風合いや、光沢の見え方、合わせるシャツやネクタイの色柄の組み合わせ、等々。

 まずはシドの好みのスタイルで一揃えにした後、細々とした所を見て、正すならこう、崩すならこう───と手ずからクライヴにも教える。
クライヴはと言えば、ほぼされるがまま、言われるがままに、取り合えずシドに教わる通りに第一ボタンを外してみたり、ネクタイを宛がって見たり。
偶に「どうだ」と聞かれるが、どうと言われても、と言うのがクライヴの本音であった。
だが、自分が選んだものに比べると、色柄が入ると言うだけでも、随分と印象が変わるものだ。

 クライヴにしてみれば長い時間を過ごした後、シドは一通りのアイテムの確認を終えて、


「ふむ……お前の場合はシックにまとめた方が良さそうだな。ダーク系で上下揃えれば引き締まって見えるが、少々重いか?」
「じゃあこっちの色はどうだ。少し光沢の入った黒だから、印象は其処まで重くない。ワイシャツの黒とも風合いが違うから、差別化できる。それと、シャツはこっちのストライプが入ってるものも合うと思う」
「キープしておいてくれ」


 シドの要望に合わせ、ルボルは忙しなく動いて、商品を出している。
並べられたジャケットやシャツは、同じ黒だと言うのに、確かにどれも異なる色に見えた。

 其処にルボルが新たな商品を並べる。


「上下とも黒でまとめるなら、シャツには色を合わせてみるのはどうだい。見た感じだと体格も良いし、赤も悪くないと思う。それから、ネクタイにって言う手もある」
「赤なんて、派手だろう。俺が着れるようなものじゃ……」
「赤にも色々あるからな、トーンを抑えたものだってある。モノトーンだけだと変化が少ないだろう。遊びだよ、遊び」


 着こなせるものではない、と眉根を寄せるクライヴだったが、


「俺に任せるんだろう。悪いようにはしないから、もう少し付き合え」
「……分かったよ」


 ヘーゼルカラーの瞳が、如何にも楽し気にしているのを見て、クライヴは降参の気分で言った。

 シドは存分に時間をかけて、クライヴのコーディネートを選んだ。
小物はまた別に探そう、と言われて、此処だけで話が終わる訳ではないのか、とクライヴは思った。

 ルボルは書き込んでいた紙をデスクに置いて、巻き尺を取り出す。


「それじゃあ、物は一通り決まったし、採寸をしよう。上着を脱いで此方にどうぞ」


 ルボルの言葉に、クライヴは上着を脱いで、椅子の背凭れにかけさせて貰う。
指定の位置に立ったクライヴを見て、ルボルは
顎に指を当てながら呟く。


「良い体つきですね。背も高いし、肩幅もしっかりしている。何かスポーツでも?」
「いや、そう言うのは特には。スポーツジムには行くが、健康維持の目的くらいかな」
「それにしては……元が恵まれたんですかね。これなら既製品でも十分映えそうだけど、いや、ちょっとフッティングに難があるか。どの道、直しは必要になるだろうな」


 ルボルの言葉は独り言ではあったが、クライヴも聞きながら的を射ていると思った。

 大学を卒業して就職したばかりの頃は、既製品のスーツで十分だったように思う。
それから十年が過ぎる内に、すっかり会社の歯車として過ごし、食生活もさもありなんという有様であった。
食べねば体が持たないので、食事そのものをおざなりにはしなかったが、栄養バランスと言う点では言うまでもない。
それでも生来から丈夫な方であったお陰か、大病とされるような出来事には無縁で済んだのは幸いだ。
これがシドに拾われてからは、彼の教育方針なのか、生活リズムから食事内容まで見直され、その下で日々を過ごす内に、不足しがちだった栄養も補われるようになった。
加えて、健康維持の目的でスポーツジムにも通うようになり、無駄のない栄養と刺激を貰った筋肉は、日に日に細胞を活性化させて循環し、立派な体格を作り上げるに至ったのである。

 こうなると、服を選ぶ際、普通のサイズでは厚みや丈が足りなくなる、と言うことが頻繁に起こる。
だから大まかなサイズで言えば、L〜LLと言うサイズを多用することが多くなった。
スーツとなると、既製品をそのままではやはり裾が足りなくなったり、ウェスト周りがきつくなったり、オーバーサイズを使えば今度は布が余る、と言う事もある。
崩れると不格好になり、印象も悪く見せてしまうスーツは、必然的に直しが必要になるものだった。

 シドの下で働くようになり、生活が見直されてから、今使っているスーツも一度買い直している。
この時にも、直す部分は多かったから、オーダーメイドを使った方が良いのではないか、と言う話はしていたのだ。
とは言え、オーダーともなればそれなりに値段も上がるもの。
加えて、今日訪れた『ルジェナ・ダリミル』は完全に一人の職人が手ずから作ると言うのだから、値段も相応に張るに違いない。

 何度着るのか分からないのに、高級なものを揃えて良いものだろうか。
クライヴはそんな風に思ったが、それを聞いたシドはと言うと、「良いものだから、何度も使えば良い。場面に限らずな」と言った。


(確かに父上も、普段から良い仕立てのものを使っていた気がする。立場もあったからだろうけど)


 ルボルの採寸の手を邪魔しないように、言われるままにしながら、クライヴはそんなことを考えていた。

 クライヴが実父と顔を合わせたのは、もう随分前の話だ。
実家に帰省するとなると、どうしても折の悪い母とも逢う事になり、それで空気が冷えるのを感じるので、中々足は向かなかった。
弟とも先日が久方ぶりの再会となったのは、その所為だ。
だからクライヴが思い出せる父親と言うのは、大学を卒業してから間もない頃に見た姿が最後である。
その時も父は、素人目にも分かる上等な服に身を包んでいたように思う。


(立場のある者ほど、見た目には気を遣う。考えてみれば、俺も昔はもっと気にしていたな。俺がみすぼらしく見えると、皆も同じように見えてしまうから)


 そう考えると、服に大したこだわりがないとは言っても、もう少し気を配ってみるのは、悪い事ではないのだろう。
不潔に見えなければ良い、と言う最低限はあるにしろ、目の肥えた人間と言うのは、もっと細かい部分を見ているものだ。

 採寸を終えると、選んだアイテムを一から確認する。
それが済んで会計となったが、掲示された数字は、やはり量産品のスーツとは桁が違った。
とは言え、オーダーメイドであることを考えれば無理もなく、また暴利の数字と言う訳でもない。
何より、シドが信用を置いていると言うのが、クライヴにとっては安心材料であった。

 支払いに使ったキャッシュカードを返しながら、ルボルが言った。


「納品ですが、今回のものですと二週間から三週間。出来上がりましたら、此方からご連絡させて頂きます。配送させて頂いても良いんですが、ご都合が取れます限りは、当店で受け取って頂ければと。その際、詰めの直しも出来ますのでね」
「ああ、分かった。そうさせて貰おう」
「それから───、明日か明後日にでも、此方から、正確には店主のルジェナ・ダリミルからお電話を差し上げるかも知れません。ヒアリングした内容の確認をしたい、とね。師匠のこだわりでして、可能な限り、お客様ご本人と打ち合わせをさせて頂いて、仕事に取り掛かりたい、と言う点が御座いまして。今回は生憎の急用だったものですから、私は緊急の代理なもので……」


 言いながらルボルは、なんとも言い難い、少々の苦さを孕んだ顔をして見せる。
そんなルボルに、シドが言った。


「弟子を信用してない訳じゃないだろうが、あいつ個人の感覚のこだわりだな。万一がないように、念を入れてるだけさ。それに、こうやって確認を寄越してくれれば、不足なく伝わってるかどうかってのが分かるから、有難いもんだ」
「そう思うことにするよ。俺も師匠の性格は分かってるし、お客が求めてるのも師匠の腕だ。存分に手本にさせて貰うさ」


 ルボルは肩を竦めつつ、表情を切り替えて言った。
じゃあよろしくな、とシドは言って、クライヴを連れて店を出る。

 最寄りのバス停までのんびりと歩く傍ら、シドは言った。


「クライヴ、後でダリミルの電話番号を教えといてやるから、登録しとけ。掛かってきたら出ると良い。そう長い話にはならんだろう」
「分かった」
「さて、これでメイン料理は大方決まったが、後は添え物だな。とは言っても、時間も時間だし───今から探しに行くと遅くなるな」
「まだ何か見るのか?」


 スーツを一揃いさせれば、もう十分だろうとクライヴは思っていたが、シドはそうではないらしい。
これ以上どうするのかと尋ねるクライヴに、


「服を決めたら、次はアクセサリーだろう。きっちり着込む所で必要になるものは限られるが、それ以外にも色々とな。こういう貴金属ひとつ取っても、大事なものなんだよ」


 そう言ったシドがひらりと揺らして見せた右手には、中指に銀色のリングが嵌めてある。
一見すると飾り気のないシンプルな造りだが、彼が右手を動かす度に、そのリングが光を反射させて彼の手を彩るのだ。
それのあるなしで、彼の手が放つ印象は確かに変わるものだった。

 アクセサリーと言えば、とクライヴの左手が自身の耳元に触れる。
就寝時以外は殆ど外すことのないイヤーカフは、幼い頃に父から息子兄弟へと誂えられたもので、成長に伴って何度かサイズの調整をしたものの、今も変わらず身に着けている。
クライヴが持っているアクセサリーと言ったら、今も昔も、これだけだ。

 指先でイヤーカフを触っているクライヴに、シドは目尻を和らげて言った。


「そいつはお前のポリシーみたいなものだ。今回のパーティにもつけて行けば良い。カジュアルな格好で良いからな、問題もない」
「……そうか」


 クライヴの表情が微かに安堵に和らいだ。
社会人になって色々と経験を積み、到底縁のない場所と思っていた場面にも立ち会う事は度々あったが、社会的地位を持つ人間が集まるパーティなど、全く未知のものだ。
ぼんやりとした不安はどうしても浮かぶものだから、自分の(よすが) になるものは、出来れば持っていたかった。


「まあ、それはそれとしてだ。今回はネクタイもしなくて良いし、となると代わりに他の小物が映える。ネックレスとかな。お前の事だ、持ってないだろう?」


 シドの言葉に、クライヴは瞑目して肯定する。
学生の頃から、ファッションの類には殆ど興味がなかったし、シドと逢う前は、只管会社の歯車だったのだ。
毎日の服装に気を遣う余裕があったかも怪しい生活だったので、一日を生きる為に必要なもの以外に手を伸ばすことはなかった。

 クライヴの物持ちの少なさは、シドもよく知っている事だ。
だったら一通り、これを機に探してしまおう、と彼は思っているらしい。


「今回は俺が幾つか選ぶから、其処からお前の好みで決めると良い」
「あまり高いものは困る」
「分かってるよ。お前は意外と清貧だからな。その辺も考えてから、明日はそっちを探しに行くとしよう」


 何処に行こうかね、と顎に指を当てて考えているシドは、クライヴの目から見て、存外と楽しそうだ。
彼が乗り気であるなら、ファッションに全くアンテナを立てていないクライヴにとっては、有難い事ではある。
取り合えず、任せておけば大丈夫なのだろう、と思う事にしたクライヴであった。