物心がついた時には、小さな檻の中にいた。
其処には温かな毛布があって、冷たくて澄んだ水があって、食べても食べてもなくならない美味しいご飯があった。
此処は何処なんだろう。
自分は、何処から来たんだろう。
そんな事を考えた日もあったけれど、聞く人もいなくて、答えてくれる人もいなかったから、結局それらは判らないまま、今に至る。
時々、大きな生き物が自分を見下ろしていて、にっこりと笑いかけたり、寝ている間に濡れた毛布を見てしょんぼりとした顔をした。
しばらくすると、隣に別の檻が並べられた。
其処には(多分)自分とよく似た顔の子がいて、不安そうにぷるぷると震えていた。
どうしたんだ、と呼んでみると、その子はビクッと跳ね上がって、隠れる場所を探すように檻の中をぐるぐると駆け回った。
そうしている内に、その子は毛布やトイレやオモチャにつまずいて転び、檻の中でどたばたころんころんと転げ回った。
幸い、怪我はしていなかったが、引っくり返って起き上がれなくなったその子は、起こして、助けて、と泣いた。
起こしに行ってやれれば良かったのだけれど、檻から出る事は出来なくて、それでも頑張って前足を伸ばしてみたが、掠める事すら叶わなかった。
結局、その子を起こしてくれたのは、自分の世話をしてくれていた大きな生き物で、大きな生き物は檻の端を開けると、大きな前足でひょいと子供を引っくり返してやった。
大丈夫か、と聞いてみると、子供はすっかり落ち込んでしまってすんすんと泣いていた。
泣いている子供をじっと見詰めていると、子供はそろそろと此方に近付いてきて、自分の前で檻に体をすりすりと擦り付けた。
甘えるようなその仕草に、応えるように此方も檻に体を擦り付けてやると、子供はようやく泣き止んで、嬉しそうに笑った。
それから、しばらくの間、二つの檻は並んでいた。
それまで自分だけで生活していたのが、少しだけ形を変えた。
寝て起きたら、向こう側の檻の中に子供がいて、子供は起きて自分の顔を見ると嬉しそうに笑う。
自分が欠伸をすると子供も欠伸をして、歩き回ると同じように歩き回って、伸びをすると伸びをして、昼寝をすると昼寝をする。
自分の真似をして毛繕いをしようとして、どうして良いのか判らなくなって、体を右へ左へ捻っては不思議そうに首を傾げているのを見た時は、思わず笑ってしまった────その姿が無性に愛しくて堪らなくて。
それからまたしばらくすると、棲家が檻から透明な箱になった。
あの子とは離れ離れになってしまったな、と思っていたら、その子も同じ箱の中に入れられた。
箱の扉はそのまま閉められ、透明な壁は叩いてもぴくりともしなくて、開けられる様子はない。
子供は自分を見て、いっしょ?と言った。
これから一緒なの、と尋ねる子供に、多分そう、と頷くと、子供は嬉しそうに笑って、すりすりと体を擦り寄せて甘えてきた。
────……その日から、ずっと二人で一緒に過ごしている。
二人で丸くなって眠るのが習慣になって、しばらく。
透明な箱の中での生活は、静かなものとは言い難かったけれど、暖かい毛布も、澄んだ水も、美味しいご飯も変わらなかった。
でも、不満に思う事もある。
賑やかな声が聞こえてきて、目が覚めた。
もうちょっと眠っていたかったのに、なんだろうと思って顔をあげると、大きな生き物が幾つも並んで此方を見ていた。
生き物達は自分が目を覚ました事に気付いて、益々賑やかな声をあげる。
透明な箱の向こうから聞こえてくるその声達に、無意識に眉間に皺が寄る。
そんなに大きな声を出したら、一緒に住んでいる幼子も目を覚ましてしまうじゃないか。
すやすやと眠る子供はとても気持ちが良さそうで、何か楽しい夢を見ているのか、その目元がほんのり弧を作っている。
そんな子供の安らかな眠りを邪魔したくなくて、そっと子供に見を寄せて、賑やかな声が聞こえないように小さな耳を塞いでやる。
けれど、時は既に遅く。
子供はもぞもぞと頭を揺らして、ぱちりと目を開けた。
子供らしい澄んだ色をした瞳に、自分の姿が映り混み、
おはよう、おにいちゃん。
嬉しそうに言ったその子供は、いつしか、自分を「おにいちゃん」と呼ぶようになった。
なんともくすぐったくなる呼び方だけれど、呼ばれるととても心が温かくなるのを感じるから、そのまま呼ばせる事にした。
おはよう、と言うと、子供は起き上がって体を伸ばす。
ちりん、と子供の首を飾るリボンに結びつけられた小さな鈴が音を鳴らす。
嬉しそうに体を擦り付けてくる子供に、小さな耳をくすぐって答えてやると、子供はゆらゆらと嬉しそうに尻尾を振った。
子供が起きたことに気付いた生き物達が、箱の向こうでまた大きな鳴き声をあげる。
なあに?なあに?
子供はきょろきょろと辺りを見回して、ことんと首を傾げる。
それから、箱の向こうで自分達を見詰める生き物達に気付いて、細い尻尾がぶわっと膨らむ。
なあに、なあに。
いっぱい、こわい。
ぷるぷると震える子供を隠して、箱の向こうの大きな生き物達を睨む。
大きな生き物達は、美味しいご飯をくれるし、毛布も汚れたら直ぐに綺麗なものに取り替えてくれるし、優しく撫でてくれるから、決して嫌いではない。
けれど、この子を怖がらせる生き物達は、絶対にこの子には近付けさせたくなかった。
大きな生き物達は、しばらくの間、自分と子供を眺めた後、いなくなった。
けれどそれは一度きりではなくて、大きな生き物達は次々にやって来ては通り過ぎ、その度に自分と子供を見て何か言っていた。
なあに、なあに。
おにいちゃん、あれ、なあに。
子供はずっと自分の傍に隠れていた。
ぷるぷると震えて、泣き出しそうな顔をする子供を、ずっと庇って、大きな生き物達を睨む。
大きな生き物達が透明な箱を破ってくる事はなかったのは、幸いだった。
水や毛布をくれる生き物達の方は、いつも通りに優しいし、時々柔らかい鳴き声で自分達に話しかけてくれた。
大きな生き物達の言葉は、自分達には判らないから、彼らが何と言っているのかは判然としないけれど、優しくしてくれるのは変わらない。
でも、箱の向こうで自分達を眺めている生き物達は、どんな生き物なのかが判らないから、何をしてくるかも判らない。
もしも子供を傷つけるような生き物だったら大変だから、警戒心を忘れてはいけないのだ。
次から次へ、現れては通り過ぎていく生き物達を、警戒し続けて一日を過ごす。
優しい生き物達がくれる食事を食べ終わった頃には、すっかり疲れて眠くなるのが常だった。
毛布の横でうとうとと目を閉じかけていると、ぺたん、と何かが鼻を押した。
何だろうと思って目を開けると、丸くて円らな蒼い瞳が間近にあって、ぺろりと頬を撫でられる。
おにいちゃん、だいじょうぶ?
おにいちゃん、ねんねする?
沢山の生き物に怯えて、ずっと兄の影に隠れていた子供。
守ってくれた兄を労るように、すりすりと顔を寄せては頬を撫でる。
一頻り兄を労って、子供は毛布を掴まえ、ぐいぐいと引っ張って兄の背中にかけようとする。
けれど、覚束ない足元に布溜まりが絡まって、子供は毛布を踏んだままでぐいぐいと引っ張っていた。
思うようにならない毛布に焦れたように、子供は思いっきり毛布を引っ張りあげようと体を反らしたが、勢い余ってそのまま後ろに引っくり返る。
ぽてんと転がった子供の上に毛布がふわりと落ちてきて、子供は毛布の世界に閉じ込められた。
きっと何が起こったのか、自分がどんな状況になっているのか判っていないのだろう。
毛布の世界で子供がじたばたと暴れ、たすけておにいちゃん、と言う声がくぐもって響く。
毛布の端を捕まえて、持ち上げる。
毛布の世界から外の世界へ帰ってきた子供は、それでもしばらくじたばたともがいていたが、見慣れた天井が見えている事に気付いて、ぴたと止まる。
子供はよいしょ、うんしょともがいて、ころりと転がって起き上がった。
おにいちゃん、おにいちゃん。
怖かった、と言うように擦り寄る子供に、大丈夫だよと囁く。
涙の滲んだ眦を拭ってやると、子供はぱちりと瞬きして、甘えるように寄り掛かってきた。
腹に乗った子供の重みに心地好さを感じながら、目を閉じる。
おやすみなさい、おにいちゃん。
あしたも、ずっと、いっしょにいようね。
明日だけなんて、そんな事。
明日も明後日も、その後も、ずっとずっと一緒にいるよ。
そう言ったら、また嬉しそうに擦り寄る温もり。
ずっとずっと、いつまでも。
二人で一緒にいられる事だけを願っている。
ペットショップ・ファンタジア 2
ペットショップでスコティッシュフォールドの兄妹がペアで売られていたので、其処から妄想。
この子スコが♂か♀かはご想像にお任せします。