目を覚まして、窓から差し込む光への清々しさよりも、がんがんと殴りつけるような痛みを訴える頭にうんざりする。
翌日が久しぶりのオフ日だからと、少々羽目を外すとこれだ。
判っているのに辞められないから、酒と言う魔力は恐ろしい。
昨晩は手酌酒ではなかった事もあって、益々杯が順調で、予定より多くビンを開けた覚えがある。
お陰でその後の盛り上がりは言わずもがなと言うものであったから、同居人も今朝は辛い状態になっているに違いない。
筈なのだが、その同居人は、ジェクトが目を覚ました時には、既にベッドの上にはいなかった。
リビングダイニングへと続くドア一枚の向こうから、パンの香ばしい匂いが流れ込んでくる。
相変わらず定時にしっかり起きる事を欠かさない真面目振りに、偶には怠けて良いだろうにと思いつつ、彼の作る朝食が一日の最初の楽しみである事も確かで、日々感謝しながらジェクトはベッドを降りた。
裸のままで寝室を出ると、ダイニングテーブルにサラダが二皿並んでいる。
テーブルの向こうにあるキッチンには、チョコレートブラウンの髪を項で結んだ青年が、シャツとGパンと言うラフな格好で立っていた。
手際よく手首を動かして弾ませるフライパンの上で、オムレツがくるんと宙を舞う。
男やもめの環境で、早い内から父の負担を軽くするべく家事に勤しみ始めた彼は、料理の腕も一級品だ。
嘗ては家族の健康を慮り、食育バランスを考えて作られていた彼の朝食は、今はジェクトの体の為に作られる。
今日も綺麗な形で焼き上がったオムレツを平皿に乗せると、特製のケチャップソースをかけて完成だ。
そこでタイミング良く焼き上がったテーブルロールを添えて、くるりと彼が振り返り、
「おはよう、ジェクト」
「おー」
「あんた、パンツくらい穿いて来たらどうだ?」
全裸のままで寝室から出てきたジェクトを見て、レオンは眉尻を下げながら呆れたように言った。
ティーダがいたら怒るぞ、と息子の名前を出して釘を刺しつつ、レオンは皿をダイニングテーブルへ運ぶ。
それから直ぐにキッチンに戻って、レオンは冷蔵庫を開け、ヨーグルトを取り出して皿に盛り、そこに先日実家から贈られてきたいちごジャムが注がれた。
この国の生活に慣れてきた頃、基本的に好き嫌いはないが、どうにもジャムが舌に合わない、とジェクトがぼやいて以来、レオンは実家に連絡して定期的にジャムや母国にしかない香辛料を送って貰っている。
別に食えねえ訳じゃねえから其処までしなくても良い、とジェクトは言ったのだが、食への満足度は環境において大事なことだとレオンは言った。
長年世話になった母国の味と言うのは、舌に染み付いているものだし、どうしても手に入らないのなら仕方がない事ではあるが、入手する手段があるなら講じてみても良いだろう、と。
レオン自身も懐かしい味が食べたいと思う事もあるし、実家からの仕送りには大抵家族からの手紙や写真が同封されるているので、そう言った繋がりも含めて、レオンは大事にしたいのだろう。
ヨーグルトをテーブルに置いて、ぼうとしているジェクトに、早く着替えてこい、と促す。
それからまたキッチンへ向かったレオンは、弱火にかけていた鍋の蓋を開けて、中身をレードルでくるりと掻き混ぜた。
もう良いかな、と呟いて味見用の小皿に手を伸ばしたレオンだったが、
「───おい、ジェクト」
とす、と背中に乗った重みに、レオンは気持ち前屈みになって、目線でおんぶお化けを見遣る。
自分よりも二回りは身長も体格も大きい男に覆い被さられると、流石にレオンも少々辛い。
が、ジェクトはそんなレオンの視線は気にせず、べったりと寄り掛かってやった。
「ジェクト、重い」
「細いもんなあ、お前」
「俺は標準だ。あんたが規格外なんだ」
と言ったレオンも、どちらかと言えば標準よりももう少し恵まれた体格をしているのだが、ジェクトと並ぶと霞む。
その事にちょっとした悔しさを覚えつつ、レオンはもう一つ言わねばなるまいと、胡乱な目でジェクトを見た。
「それと、当たってるんだが」
「当ててんだよ」
「セクハラで訴えるぞ」
腰に当たる露骨な形をレオンが指摘すれば、にやりと悪い笑みの紅と交わる。
太い腕がレオンの腰を抱き、武骨な手がシャツの上から腹を撫でる。
するすると滑り上って来る手がレオンの胸を撫でると、ぎゅう、と強い痛みがジェクトの手の甲を襲った。
「いってぇ」
「飯が冷める」
「冷えても美味ぇし、平気だろ」
「そう言ってくれるのは嬉しいが、作った人間としては、一番美味い内に食って欲しいな。ほら、離れろ」
朝食を促すべくレオンはジェクトの腕を解いて逃げようとする。
ちっ、と拗ねた舌打ちをしてくれるジェクトに、レオンはくすりと笑みを零しつつ、拘束の緩んだ腕から抜け出そうとして、───ぐいっ、と肩を掴んで体の向きを反転させられたかと思うと、
「んむっ!」
肉厚の唇で、レオンの唇が塞がれる。
目を瞠る青年の貌を、細めた双眸で見詰めながら、ジェクトはレオンの舌唇を舌でなぞる。
抵抗の気持ちに引き結ばれた唇の狭間を何度も舐め、舌先でぐりぐりと押し付けるようにノックすると、むずがる声が聞こえた。
構わず顎を捉えて隙間を作り、其処から舌を捻じ込んでやれば、ひくん、とレオンの肩が震える。
逃げる舌を捕まえて絡め取れば、初めこそ振り払うような仕草を見せるが、啜ってやると蒼の瞳がとろりと熱を帯びて来る。
キッチンの天板を握っていた手が、ジェクトの首へと絡むまで、時間はかからなかった。
レオンの方からも舌が積極的に動き、ジェクトの動きに合わせて絡み、耳の奥で水の交わる音も聞こえ始める。
昨夜、美味い酒を存分に楽しんだ後、そのままベッドに雪崩れ込んで遅くまでまぐわっていたのを、ジェクトもしっかりと覚えている。
その感覚がレオンの躰にもきっとまだ残っているのだろう、レオンの腰が揺れて、ズボンの中で彼が窮屈そうにしているのがジェクトにも伝わった。
たっぷりとレオンの咥内を堪能して、ジェクトはゆっくりと唇を開放した。
誘い出されたレオンの舌は唾液でてらてらと光って艶めかしい。
それを目にしたジェクトが、凶暴な笑みを浮かべて舌なめずりをする────が、
「いてててっ!」
ぎゅう、とジェクトの項の皮膚が目一杯捩じられた。
爪まで立てて遠慮を捨てたお仕置きに、流石にジェクトも悲鳴を上げる。
その隙にレオンはするりとジェクトの腕から逃げ出した。
「これ以上は駄目だ」
「ンだよ、お前だって乗り気だったじゃねえか」
痛む首を摩りながらジェクトは唇を尖らせるが、レオンは「だ・め・だ」と睨む。
「あんたは早く服を着ろ。それから飯だ」
「へーい」
眉尻を吊り上げるレオンに、これは逆らえば後が怖いとジェクトは白旗を上げる。
ジェクトは寝室へと戻ると、シェルフの一番上に丁寧に畳まれて置かれている服を掴んだ。
レオンがジェクトの専属マネージャーとなり、母国を離れてジェクトと共に所属チームの拠点となる地で暮らすようになってから、それなりに月日が経つ。
スポーツの事なら何に置いても実力と経験のあるジェクトだが、私生活は放っておくと直ぐに汚部屋と化してしまう位には生活力がない。
それを知っているレオンは、マネージャーとしてスケジュール管理もしつつ、生活管理も引き受けて熟していた。
そんな日々の中で、二人は二人の関係も変化して行き、今では密やかな熱を共有する仲である。
遠く離れた母国で暮らしている家族には、どちらもまだ打ち明けられてはいない事だが、出来ることならいつかは───と思っている。
中々その為の踏ん切りがつかないのも事実だが、今は二人で過ごせる時間を大事にしたいのも事実で、まだもう少しこのままで、とどちらともなく望んでいた。
着換えを終えたジェクトがリビングダイニングへ戻ると、レオンが既に食卓についていた。
向かい合う位置に座って、母国の習慣で癖が抜けない食前の挨拶をしてから、テーブルロールを口に運ぶ。
「美味ぇな」
「新しいパン屋を見付けたんだ。パンの種類が豊富だったから、しばらく通う」
「良いじゃねえか、楽しみだ」
噛むほどにバターの味わいが感じられるテーブルロール。
レオンの日々の手料理のお陰で舌が肥えたジェクトにも、満足のいく味であった。
半熟のオムレツをあっという間に食べ終え、サラダも綺麗に完食し、デザートのヨーグルトを口に運ぶ。
昔から舌に馴染んだジャムの甘い味に、やっぱこれだなと思いつつこれも瞬く間に平らげた。
最後にコーヒーを傾けていると、こちらはのんびりとヨーグルトを食べていたレオンが顔を上げ、
「今日は休みだし、どうする?偶には出掛けて羽根を伸ばすか?」
「あー……そうだな……」
ジェクトの日々は、練習と試合の他、メディア関連への露出の依頼で埋まっている。
特に此処しばらくは、メディアインタビューの機会が多く、レオンは練習時間の確保を崩さずインタビューに出られるスジケジュールの調整に苦労していた。
そのメディアラッシュも一段落したので、今日と言うオフ日が出来た訳で、それを思うと確かに羽根を伸ばすのも悪くはないのだが、ジェクトは外出よりも楽しみたい事があった。
「どっか行くのも悪かねえが、折角の休みだからなぁ」
「ゆっくりするか」
「そう言う事だ。ゆっくり、のんびり、家の中で過ごす。当然、お前も」
「俺?」
「買い物は必要ねえんだろ。昨日ごっそり買い込んでたし。そのつもりだったんだろ?」
にやりと口角を上げてジェクトが言ってやれば、レオンはしばしきょとんとした顔をした後で、はっとその言葉の意味を理解して赤くなる。
同時にその反応が、ジェクトの言葉が的外れではない事を吐露していた。
赤らんだ顔を誤魔化しようもなく、視線だけは逃げるように逸らすレオン。
高校生の弟に比べ、それなりに社会で揉まれただけあって、それなりに人を翻弄して見せる強かさも持つレオンだが、こういう所は未だに初心さが抜けないなとジェクトは思う。
それが妙に愛しく見えて、同時にしっかり下準備は済ませてくれる気配りの良い恋人に、つい数十分前に沸き上がった熱が再び自己主張を始める。
「明日の練習は朝だっけか」
「……昼だ」
「じゃあ、良いな。ゆっくり出来る」
赤い顔をしながら、其処で嘘でも朝からだと言わない正直さが、レオンの胸中を物語っている。
にやにやと口元が緩むジェクトの視線から逃げるように、レオンは食事の席を立った。
いそいそと二人分の食器をまとめてキッチンに運び、いつもなら必要な分だけ水を使う癖に今日は思い切り蛇口を捻る。
勢いよくシンクを濡らし流れていく水の音と、青年の赤らんだ耳を眺めながら、昼までに起きれると良いけどな、などとジェクトは他人事のように遠い目をするのであった。
10月8日から遅刻のジェクレオ!
出来る恋人はしっかり準備を済ませている。
だからジェクトも遠慮なくがっついて来たりする訳ですね。
タイトルは「あなたとすごすきぬぎぬの」です。
カーテンの隙間から差し込む眩しい光で、覚醒を促される。
その光から逃げようと、抱えたものに顔を埋めていると、ピピピピ、と言う電子音が鳴った。
益々掴んだものに顔を埋めて逃げようとするが、電子音はいつまでも続き、光も消えない。
判った、もう判った、と観念する気持ちでようやく起き上がるのが、毎朝のパターンだった。
体を起こして、眠い目を擦りながらきょろきょろと辺りを見回す。
幾らか頭が起きてから、未だ鳴り続ける携帯電話のアラームを止めた。
そのまま再び転がりたい欲求をどうにか押さえ付けながら、スコールはのろのろとベッドを抜け出す。
昨晩、スコールのベッドに潜り込んできた同衾者は、とっくの昔に此処を抜け出していたらしく、ベッドにはその温もりの欠片があるのみ。
相変わらず朝に強い彼に、ほんの少しの羨ましさを感じつつ、スコールは眠い目を擦りながら服を着替えた。
寝室を出るとキッチンに向かい、朝食の準備を始める。
今日は彼の朝練習があるから、少しボリュームを増やしておいた方が良いなと考えながら、冷蔵庫を開けた。
昨夜の残りの煮物を温めながら、厚切りベーコンを焼き、千切って置いたレタスに新鮮なトマトを添えてサラダを作る。
インスタントのスープに湯を入れて溶かし、デザートにジャムを添えたヨーグルトを並べれば、朝食の完成だ。
終わる頃にはスコールの眼も少し覚めて、また此方もタイミング良く、玄関のドアが開閉する音が鳴った。
「ただいまー!」
「おかえり」
溌剌とした元気な声に、スコールはいつものように静かに返した。
ダイニングから玄関を覗くと、肩にタオルを乗せた同居人────ティーダの姿がある。
ティーダは額に滲む爽やかな汗を拭きながら、駆け足気味にスコールの下へ近付くと、
「おはよ、スコール!ちゅーっ」
「!」
朝の挨拶の流れそのままに顔を近付けてきたティーダを、スコールは咄嗟に手で顔を抑えつけてガードする。
勢い余ってバシッと平手を喰らわせる事になったが、謝っている暇はなかった。
「いてぇ。何するんスかぁ」
「こっちの台詞だ。バカな事してないで、手洗ってこい。飯が冷める」
「はぁーい」
悲し気な顔をして見せるティーダを一蹴して、スコールはティーダを洗面所へ追い遣る。
ちぇっ、と判り易く残念そうな声がしたが、スコールにそれを気にしている余裕はなかった。
バカじゃないのか、と呟きながら自分の椅子を引くスコールの顔は、耳まで赤くなっている。
程なくティーダが洗面所から戻り、スコールと向かい合う位置に座る。
二人揃って両手を合わせ、頂きます、と食前の口上をしてから、箸を取った。
ティーダは早速厚切りベーコンを口に入れ、程好く火が通って塩気の効いた肉の味に、頬袋を膨らませながら上機嫌に笑う。
「うまーい!」
「そうか」
良かったな、と返すスコールの反応は淡泊なものだ。
それでも、彼の頬がほんのりと赤らんでいるのを見て、ティーダは照れてるなあと読み取って楽しくなる。
スコールとティーダは、物心が付く以前からの幼馴染で、現在は同居人だ。
中学から高校に進学する際、共に少々遠い場所の高校に合格し、揃って実家を離れる事になった。
同じ学校に入った訳ではないのに、二人が同居する事になったのは、少々過保護気味はスコールの家族と、口は悪いが決して悪くは思っていない息子を想ったティーダの父の提案に因る。
おまけに、運良く二人の高校にそれぞれ中間地点に出来る場所に、セキュリティの良い新築のアパートがあった。
スコールにしろ、ティーダにしろ、一人にするのは不安があると言う家族の意向が強く働いた形で、彼等は二人暮らしを始める事になる。
家賃や生活費を含めた金のことや、こっそり一人暮らしと言うものに憧れていたスコールは聊か思う所もないではないが、家族の援助のお陰で、勉学にのみ集中する事が出来るのもあり、今は有り難くその恩恵を受けている。
ティーダも同じで、父親の援けなんていらない、借りを作りたくない、と抵抗心も一入だったのだが、スコールの父と兄から、「よろしく頼む」と言われると弱かった。
スコールとの同居が嫌だった訳ではないし、寧ろそれは嬉しい事なのだと思うと、意地も混じった父への対抗心は引っ込めるも吝かではなかった。
こうして始まった二人の同居生活は、一年と半年も続いており、時折ケンカもありつつも、上手く回っている。
以前よりもずっと近い距離で共に過ごしている内に、二人の距離も以前よりも近くなり、今では恋人同士と呼ばれる関係だ。
家族にはまだ秘密にしている関係だけれど、スコールもティーダも、それなりに充実した日々を送っている。
綺麗に平らげられた二人分の食器がシンクへ運ばれ、スコールが蛇口を捻って水を出す。
冷たくなってきた流水の感触に手を晒しながら、スコールはテーブルを拭いているティーダに声をかけた。
「ティーダ。後は俺がやるから、そろそろ出る準備しろ」
「良いの───って、うわっ、もうこんな時間だったのか。ごめん、あと頼むな!」
「ああ」
この家で、家事の多くはスコールが担当している。
ティーダはスポーツの強豪として有名な高校に入り、希望通りのサッカー部に入ったのだが、朝も夕も毎日のように練習スケジュールがみっちりと詰まっていた。
対してスコールは帰宅部であるから、勉強時間の確保さえ出来れば、身の回りの事は引き受ける時間が取れる。
時折体よくサボる事も覚えつつ、またティーダも手が空いている時は積極的に手伝いを申し出て、快適な生活サイクルを作っていた。
ティーダはばたばたと慌ただしく家を出る準備を始めた。
早朝ランニングの為に来ていたジャージを脱ぎ、制服に着替えて、洗面所で身嗜みを手早く整える。
昨晩、寝る前に済ませたまま放置していた宿題のノートを、テレビ前のソファから発掘し、それを持って自分の寝室へ。
ノートを鞄に突っ込むように入れて、昨日の内に洗濯を終えてスコールが綺麗に畳んだユニフォームも収める。
忘れ物はないか、中身の確認はそこそこに、多分大丈夫と自分に言い聞かせて、肩に鞄を担ぐ。
「じゃあ行ってきます!」
「ああ」
キッチン前を駆け抜けながら出立の挨拶をして、玄関へ────向かったのだが、その足がはたと踵を返して、ばたばたと駆け戻る。
その音を聞いたスコールが、また忘れ物かと少々呆れつつ、シンクの天板の水気を拭いていると、
「スコール!」
「何だ────」
名を呼ぶ声に、振り返らずに返事だけをした時だった。
背中に賑やかな気配が密着したかと思うと、ちゅ、と頬に柔らかい感触。
一瞬だけ触れて離れたそれに、スコールがぱちりと目を瞠っている内に、
「行ってきまーす!」
もう一度出立の挨拶をして、今度こそティーダは玄関を潜った。
この家の賑やかさの原因である人物がいなくなると、途端に辺りは静まり返る。
しん、と静寂に満ちた空間には、窓向こうの外界で遠く走る車の音が、妙に大きく聞こえた。
それからしばし時間が経って、スコールはようやくフリーズ状態から復帰した。
おい、と振り返ると、其処にはとっくに誰の姿もなく、台拭き用の布を握ったままで玄関へ向かうと、当然ながら此方も無人となっている。
玄関前に並べられた靴は一人分が足りず、今頃その持ち主は鮨詰めの通勤バスに乗っている事だろう。
一人取り残されたスコールは、物言わぬ玄関扉を見詰めて、
「……やり逃げ」
ぽつりと呟いたそれをティーダが聞いたら、「言い方!」と怒った事だろう。
そうしたら、でもそう言う事しただろう、とスコールは返してやるが。
触れたのはほんの一瞬であった筈なのに、今も頬に感触が残っているような気がする。
心なしか勝手に熱くなってくれる顔を冷やしたくなって、スコールはキッチンへと戻った。
もう役割の終わった台拭きは、一度洗って定位置に干して、スコールは洗ったばかりだったグラスコップに浄水を注ぐ。
口に含んでみると、食器を洗い始めた時には冷たく感じた筈の水は、もう常温程度になっていた。
氷を入れれば良かった、と思いつつ水は飲み欲して、また軽く洗って干しておく。
一人になると途端に静けさばかりが際立つ中で、スコールはティーダの部屋へと入った。
思った通り、脱ぎ捨てられた夜着とジャージが転がされている。
夜着は手早く畳んで、昨夜は使われないままだったベッドの上へ置き、ジャージは汗を含んでしっとりとしているのが感じられたので、洗濯機に入れる事にした。
ティーダはきっと明日の朝も早朝ランニングに行く筈だが、ティーダの高校では運動部の練習が多い事もあって、多くの生徒が複数の運動着を備えている。
ティーダもそれに倣うように、家で使うものと、部活で使うもの、更に予備のものを揃えていた。
お陰で日々の二人の生活で出る洗濯物の半分以上がティーダの運動着であったりする。
朝の家事を一通り済ませてから、スコールは学校の準備を始める。
今日の授業の予定を確かめ、、忘れ物がないかをしっかりと確認して、さてそろそろ────と時計を見ると、まだ家を出るには少々の余裕があった。
とは言え、何か作業が出来るような時間とは言えず、スコールは足の向いたままにベッドへ向かい、
「……ふう」
ぼすっ、と倒れ込んだ重みを、ベッドマットが受け止める。
心地良い沈みを与えてくれるマットに顔を埋めていると、ふあ、と欠伸が漏れた。
(やっぱり眠いな……)
元々スコールは朝に弱い性質だ。
それが、ティーダと同居生活をしている内に、彼の生活リズムとの擦り合わせもあり、早朝に起きる事が増えた。
が、元々の体質が大きく改善される訳でもないので、気を抜くと二度寝してしまう事もある。
今から寝てしまったら、学校は遅刻決定だ。
それは出来ない、と思いつつ、スコールは重くなる瞼を閉じないように精一杯の努力をしていた。
眠い頭を誤魔化そうと、むずがる子供のように、抱えた布団にぐりぐりと顔を押し付ける。
(………ん、)
そんな事をしていたら、ふと嗅ぎ慣れた匂いが鼻孔を擽った。
すん、と鼻を鳴らしてみると、ティーダが愛用しているボディソープの匂いがする。
途端に、スコールの脳裏に、ほんの数十分前の出来事が蘇る。
触れるだけのキスをして、スコールが反応するのも待たず、家を出て行った幼馴染兼恋人。
完全に隙を突かれたのだと思うと、俄かにスコールは恥ずかしさと負けず嫌いが刺激された。
(……帰ったらしてやるか)
スコールとティーダは恋人同士だ。
しかし、スコールはどうにもそう言う関係の距離感という物に慣れない。
だから触れたがるのは専らティーダの方で、スコールは彼にされるがまま、自由にさせていた。
それがスコールにとって、ティーダに対する愛情表現である事は、恐らくティーダも判っている。
そんなスコールが、予告もせずにキスをしたら、ティーダはどんな顔をするだろう。
やる事がやる事なので、実行するスコールのハードルも高かったが、今は気分が向いたので、出来る気がする。
頬にはもう、彼がくれた温もりは残っていない。
けれど思い出せるそれを感じながら、スコールは今日の夕方、彼が帰って来るのを密かに心待ちにするのだった。
10月8日なのでティスコ!
二人きりで同棲させてみた。
人目を気にせずいちゃいちゃできるって良いよね。