[三&空]君のいない静寂
いつも通りに過ぎて行く一日の中で感じた、ふとした違和感。
その違和感が何か自分に不都合を齎したのかと言うと、そうでもなく。
どちらかと言えば、その違和感のお陰で一日が順調に、これと言うようなトラブルもなく過ごせた訳だから、良い事であったと言えるだろう。
しかし、あまりにも違和感が過ぎると、歓迎すべき違和感であっても、徐々に気持ちが悪くなってくる。
今日の違和感は、そう言う類の違和感であった。
今日何度目かの小休止と、咥えた煙草に火をつける。
早朝に山積みされていた紙束は、一日の違和感のお陰で、既に残り僅かとなっている。
この後に余計な追加がなければ、後一時間もすれば全て消化されるだろう。
それで今日の予定は空となり、三蔵は自由の身となる。
……それは良い事なのだが、
(……妙に静かだな)
修行僧は相変わらず右へ左へと騒々しいが、それは三蔵にとって、大した問題ではない。
途中で余計な書類追加がなければ。
三蔵が“静か”と称したのは、いつも何かと見付けては(それが下らない事でも)報告にやって来る子供である。
今日は朝から大人しいもので、僧侶に追われているだの、本堂に逃げ込んだの、供物に手を出しただのと言う話すらか聞かない。
別に彼の起こすトラブルを心待ちにしている訳ではないので、それは良い事なのだが、
(…………)
青天の霹靂と言うべきか、鬼の攪乱と言うべきか。
とにかく、常々鬱陶しいと思っているような事でも、日常の一端が唐突に姿を変えると、人は違和感を感じて落ち着かなくなってしまうと言う事だ。
────そんな事を考えながら煙を吹かしていると、
「……さんぞ?」
キィ、とドアを開ける音がして、滑り込んで来たのは、聞き慣れた子供の声。
三蔵が視線だけを寄越すと、子供────悟空はきょろきょろと執務室の中を見渡し、
「三蔵、仕事終わった?」
確認する子供に、三蔵は無言のまま、視線だけで書類の束を指す。
悟空も倣ってそれを見て、獣の耳でもあれば判り易くしょぼくれてしまっただろう、しゅんと詰まらなそうな顔をする。
「……じゃ、オレ、部屋にいるね」
「─────待て」
執務室に入る事なく、早々に立ち去ろうとする子供を、三蔵は制した。
踵を返そうとした中途半端な角度のまま、悟空は止まり、きょとんと首を傾げる。
引き留めた後、何も言わなくなった三蔵に、悟空は悩むように立ち尽くしていたが、暫くすると「おじゃましまーす…」と静かな足取りで執務室に入って来た。
足音すら、忌避したように静かに進む子供の姿は、常の騒々しさを知っている人間であれば、違和感しかない。
やはりこれか、と三蔵は思った。
「さんぞ、なに?」
ことん、と首を傾げて問う悟空に、三蔵は煙を吐き出し、
「お前、何考えてる?」
「え?」
藪から棒の三蔵の問いに、悟空は反対側に首を傾ける。
暫く、ぱちぱちと不思議そうに瞬きを繰り返していた悟空だったが、不機嫌を隠さない紫電に睨まれ、竦んだように肩を縮めると、
「オレ、静かにしてたと思うんだけど。なんか三蔵に怒られるような事、した?」
「……その逆だ」
「ぎゃく?」
鸚鵡返しをした悟空に、三蔵はまた煙を吐き出す。
其処に溜息分の息を混じらせて。
やはり三蔵の言う事が把握できないらしく、悟空はむぅ、と唇を尖らせる。
「いいじゃん、静かにしてたんだから。三蔵の邪魔はしてないだろ?」
「ああ。毎日こうなら良いんだがな」
「オレいつも静かにしてるよ!」
「どの面下げて言う」
いい子にしてる、と言う本人の主張を、三蔵は一瞬で切り捨てた。
悟空が大人しくしていられない性質である事は、三蔵が本人以上によく知っている。
其処に彼の悪意などと言うものがないのは確かだが、それだけに始末が悪いと三蔵は思う。
悟空自身は純粋に、子供らしく遊んでいるだけのつもりなので、他人に迷惑をかけていると言う気がないのだ。
とは言え、叱れば反省はするし、(一応)学習もしているようなので、時折境内に迷い込んでは器物破損等々を引き起こす犬猫に比べれば、まだマシかも知れないが。
拗ねた表情で立ち尽くしていた悟空だが、暫くすると、暇を持て余すように足下をごそごそと遊ばせ始める。
そのまま一分、二分と沈黙が続き、三蔵が短くなった煙草を灰皿に押し付けたのが合図となった。
「んー……さんぞ、なんか…ちょっと最近、疲れてるっぽかったから」
「……まあな」
疲れていると言う程ではないが、溜まった仕事に鬱憤が溜まっていたのは確かだ。
対して重要でもない案件に関する書類が、次から次へと増えて、いっそ煙草の灰で燃してやろうかと思った程だ。
そんな事をすれば、書類の再発行だのなんだのと反って面倒にしかならないので、未遂で済ませたが。
その合間に、無邪気に遊んでトラブルを引き起こす子供の行動に頭を痛めていたのも確か。
逐一報告に来る修行僧にも、きゃんきゃんと喚いて言い訳する子供にも、付き合うつもりはなかったので、悟空をハリセンで叩いて強制終了とさせた。
普段、何も周りの事が見えていないような子供に見えて、悟空は聡い。
身近な人間に関する事は特にそうで、野生の勘のように些細な違和感にも気付く事が出来る。
それで直ぐに対応────と言うべきか、態度を改めると言うべきか────が出来ないのは子供故か。
「で?」と三蔵はもごもごと口ごもる悟空に先を促す。
「…この間、三蔵、オレが煩いから仕事できないって言ってたから」
そんな事を言っただろうか。
言ったかもしれない。
三蔵にとっては酷く曖昧な記憶だったが、悟空の記憶に残っているのならば、言ったのだろう、恐らく。
この子供は、周りの事など見ていない、気にしていないように見えて、保護者の言動だけは逐一覚えている。
「だから今日は、邪魔しないように静かにしてようかなって」
それは良い事だ。
出来れば一生、そうしていて欲しい位だと三蔵は思う。
思うのだが、
「お前が静かにしてた所で、仕事が減る訳でもねえんだよ」
「そりゃそうかも知んないけどさぁ~…」
ちょっとは気を付けてみようと思ったんだよ、と。
言いながら執務机に齧り付いて、拗ねた顔をする悟空に、三蔵は次の煙草に火をつけて、煙を吐き出す。
顔面を覆った煙に、悟空がけほけほと咽て、何するんだよ、と金色が睨む。
「どうせ静かにしてるなら、此処でしてろ。目に付かない所で何か仕出かさねえか、気にしないで済むからな」
境内の何処ぞで遊んでいるでも、山で一人で遊んでいるでもなく。
いつもと違って大人しくしていられる程、自制が利いているのなら、此処にいたとて邪魔になる事もあるまい。
目に見えない所で、何を考えているか判らないまま、奇妙な違和感に苛まれて過ごすのは、居心地が悪い。
それなら、此処にいれば良い。
大人しくしていられるのであれば。
三蔵の言葉に、悟空はぱちりと瞬きを一つ。
それからくすぐったそうに笑って、三蔵が座る執務椅子の足下に座った。
三蔵の誕生日なので、悟空から気遣いのプレゼント。
…全く誕生日らしくなくてごめんよ三蔵、峰倉先生のツイート見るまで忘れてたとか言わないよ←