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2021年10月
プロの水球選手であるジェクトは、学生のうちにその名を広く知らしめ、プロプレイヤーになってからはあっという間にスターへの階段を駆け上がった。
若くして名声を欲しいままにしたジェクトは、その道の真っ只中にファンであったと言う一般人女性と結婚し、一男を儲けるに至る。
しかし、息子の誕生から数年後、病気により妻は急逝───それ以降は、男やもめで一人息子を育てる事となる。
父子二人の生活が始まったジェクトにとって、何よりも援けとなったのは、新しい生活を始めた際に引っ越して出会った、マンションの隣部屋の一家だ。
ジェクト同様、妻を失ったと言うその部屋の住人は、父一人子二人と言う組み合わせ。
幸運だったのは、二人の息子の内、弟の方がジェクトの息子ティーダと同い年だったと言う事だ。
急激な環境の変化と、まだ受け止め難くもあった妻(母)の急逝で、ジェクトとティーダの間はぎこちなさが露わとなり、二人きりでの生活と言うものに、ジェクト自身多くの不安があった。
それを隣家が気遣い、気の良い父と、良く出来た長男が気を配り、引っ込み思案だが思いやりのある次男がティーダの友達になってくれた事で、ジェクトは随分と楽になった。
それから近所付合いは長く長く続き、次第に息子の手を離せるようになって来た。
父親に対して何かと対抗意識が強かった事や、ジェクト自身に生活力が中々乏しい事もあって、ティーダが自立意識を強くするのは早かったと言って良い。
隣家の兄が十代の内に、父の為にと家事全般を引き受け、弟がそれを手伝おうとしていた姿にも刺激されたか、ジェクトが気付いた時には、一人で簡易ながら家事諸々が出来るようになっていた位だ。
ジェクト自身から見ても、あいつの方が余程しっかりしている、と言えるほど、ティーダは立派になっていた。
だが、まだまだ親の庇護が必要な年齢である事には変わりないから、全くの手放しにするつもりもない。
妻が生きていた頃から、水球に心血を注ぐ余りに、家庭と言うものをきちんと見ていなかった罪の意識もあって、ジェクトはティーダが成人するまでは、出来る限り守り養っていくつもりである。
とは言え、息子から常に目を離せない、なんて言う時期が過ぎたのも確か。
息子が成長して行くに連れ、隣家との信頼関係の構築もあり、ジェクトはティーダを隣家に預け、次第に海外遠征で家に帰らない日が増えるようになる。
その内に年の半分は不在、ティーダが高校生になる頃には、彼はほぼ一人暮らし同然と言う環境が定着した。
そして、シーズンオフでも、取材やショーと言った仕事が増えて行くと、いよいよジェクトが母国に帰る時間は減って行く。
こういった環境を鑑みてか、息子は電話越しに「もう平気だよ」と少し素っ気なく言った。
だからアンタは好きにしろよ────と、突き放す形にも似たその言葉が、親離れの始まりだったのだと思う。
同時に息子は、真っ直ぐに父の背中を見て、己の力でそれを追い駆けて行く事を選んだのだとしたら、いつかその背が追い付いて来るまで、ジェクトは誰よりも強く在らねばなるまい。
そう思ったから、ジェクトも不器用に繋ぎ続けていた手を解いたのだ。
そして競技に集中する為に、ジェクトは海外へと己の拠点を移した。
チームが保有する練習施設の近くにあるマンションを一室借り、其処で生活しながらコンディションを整え、試合に出場する。
オフシーズンには取材を受け、市や国が主催するエンターテイメントショーに出演してパフォーマンスを行う。
スター選手として名が知れているジェクトは、テレビ番組への出演を求める依頼も多く舞い込んでおり、時にはシーズン最中の試合に出ている時期よりも忙しく感じる事もある。
ジェクトがサービス精神旺盛にして見せるものだから、ファンは更に増え、彼の豪快で派手なパフォーマンスを見たがる者も増えて行った。
並行して当然ながらジェクトへのイベントやテレビの出演依頼は急増して行き、彼専用のマネージャーが必要とされるようになる。
それが、近所付合いも長くなり、幼い息子を預かる度にしっかりと面倒を見て、躾までしてくれた、隣家の二人息子のうちの兄───レオンであった。
以前は幼い弟達を守り慈しむ為にあったレオンの手は、今現在、ジェクトの為に忙しなく働いている。
ジェクトの仕事のスケジュール管理は勿論のこと、パフォーマンスの質を落とさない為、健康管理を初めてとした生活環境のコントロールを行っているのはレオンなのだ。
酒好きで知られたジェクトが、試合前に無茶な飲み方をしないように、目を光らせるのも彼の役目である。
お陰でジェクトの遅刻癖もなくなり、中々に頭に血が上り易いジェクトを諫める役も果たし、チームの運営陣からは「レオンでなくてはジェクトのマネージャーは務められない」と言う程の有能振りを発揮していた。
実際、ジェクトもレオンを頼りにしている所は多くあり、そして彼だからこそ信じて任せられると思っている自覚もあった。
────そんなレオンとジェクトは、“パートナー”だ。
それはプロスポーツ選手とそのマネージャーとしてだけではなく、密かなプライベートの間柄としても、そう言った名で呼べるものとなっていた。
マネージャーとしてジェクトの身の回りの管理を徹底する、と言う目的もあり、現在レオンはジェクトと共に生活している。
ジェクトが買ったマンションに住み込ませて貰い、食事は勿論、財布の管理も彼の仕事だ。
こう綴るとジェクトには堅苦しい生活をしているように聞こえるが、ジェクトもレオンも大人である。
チームや運営組織内での人付き合いと言うものに必要な費用と言うのも、レオンは判っていた。
また、ジェクトも決して考えなしに散在する訳ではない───酒が入ると、ただでさえ大きな気が更に大きくなる為、店の客全員に奢るなどと言うことをするので、その時はかなりの数字が吹っ飛んでいく為、レオンは少々頭を痛めていたりする───ので、レオンに財布の紐を預ける事も納得している。
そして大会試合が近くなると、ジェクトの生活はストイックになって行く。
練習のメニュー、食事のメニューと言った所から、体調も常に万全に保ちつつ、相手チームの研究も怠らない。
チームミーティングも遅くまで続くし、新たな戦術の考案にも余念がない。
そうした日々が続く内に、いよいよ試合を明日に控えると言う頃になると、やはり彼もピリピリと尖らせた空気を纏うようになる。
緊張している、と言う気持ちも全くないではないが、彼の場合、その緊張は不安よりも興奮から来るものであった。
相手がどんなチームであろうと、どんな作戦手段を使って来ようと、正面から捩じ伏せてやる。
戦闘意欲とも呼べるそのエネルギーを、今にも爆発させそうな程に蓄えて、ジェクトは試合当日を迎えるのだ。
その為に、レオンも試合がスタートする瞬間まで気が抜けない。
「────明日の朝食はこんな所で良いか?」
リビングで今日一日の振り返りを済ませ、いよいよとなった明日の為、最後の調整となるもの。
その日のコンディションの足掛かりとなる朝食メニューについて、レオンがメモに走らせたものをジェクトに差し出すと、ジェクトはそれを受け取って、
「……」
「何か必要なものがあるなら足すが」
「お前の計算なら十分なんだろ?」
「まあ、一応。でもゲン担ぎでもしたいならと思って」
「ンなもん要らねえよ」
「だと思った」
メモをレオンに返しながら、全幅の信頼を寄せたジェクトの言葉に、レオンはくすりと笑う。
「先に寝てくれ。朝の仕込みをしておくから」
朝食に必要となるもので足りないものはないか、冷蔵庫の中身を確認するべく、レオンは腰を上げる。
キッチンに向かうその背中を、ジェクトはじっと見詰めていた。
てきぱきと仕込みを始めた青年は、とことん真面目で、いつでも仕事に手を抜かない。
幼い頃からそうやって父を支え、年の離れた弟を育てたレオンは、ジェクトと知り合った頃から、“しっかりし過ぎている”位の子供だった。
それは母を亡くし、遺された弟を守らねばと言う気持ちと、父を助けるべく、早すぎる自立を目指したが故。
お陰でレオンは、自力で何でも熟す事が出来るほどにしっかりとしたのだが、その反面、大人への甘え方と言うものを忘れていた。
本人でさえ無自覚であったのだろう、その一面を引き出したのは、他でもないジェクトである。
迷惑をかけたくないと、父親にすら覗かせる事を拒否したレオンの深層意識にある甘え心を、ジェクトはいつの間にか見付けていた。
それからふとした瞬間に零れ見える彼の表情が放って置けなくて、不器用なりに少し強引にレオンを甘えさせている内に、二人は今の関係へと至る。
大人同士がそう言う関係になっている訳だから、付き纏うものも当然ある。
同性であってもそれが成り立つ事に初めは少し驚きもしたが、ジェクトも枯れた年齢ではないし、レオンはもっと若い。
盛んと言えば盛んな年齢であるので、二人が体の関係まで持つまで、それ程時間はかからなかった。
───此処しばらく、試合の為に全てを注ぎ込んだ日々を送っているお陰で、其方の方は随分とご無沙汰だ。
それが試合の前日となって、最高潮に達しているのを、ジェクトは自覚していた。
「おい、レオン」
「何だ」
ジェクトが声をかけると、レオンは卵を割りながら振り返らずに返事をした。
菜箸を使い、慣れた手付きで卵を解しているレオンの下に、ジェクトはゆっくりと近付く。
フライパンを取り出して油を引き始めたレオンの体に、ジェクトは覆い被さるように密着した。
薄い腹───と言っても標準以上の引き締まりはあるのだが───に腕を回し、閉じ込めるようにその体を抱いてやる。
そうすると、背中に当たるものに、レオンも背後の男が言わんとしている事を察したようで、
「しないぞ」
「まだ何も言ってねえだろ」
「当ててるだろう」
「じゃあ判んだろ?」
「だからしないって言っただろう」
昂ぶりの有様をありありと示している感触に、レオンは先んじて要求を封じた。
それでもジェクトは諦め悪く食い下がり、レオンの腹を大きな掌でするりと撫でる。
と、その手の甲の皮を思い切り抓られた。
「いっててて!」
「全く……」
筋肉や骨は鍛えて太く出来ても、皮と其処に這う神経はどうしても鍛えられない。
悲鳴を上げてやっと抱く手を放したジェクトに、レオンはやれやれと溜息を吐いた。
「試合は明日だぞ。こんな所で体力を使ってどうする」
「一晩くれえ問題ねえよ」
「持て余してるエネルギーは、明日の試合にぶつける為に取っておけ」
「かかり過ぎるのも良くねえもんだろ。ガス抜きさせてくれよ」
「そう言って“ガス抜き”で終わらなくなるだろう、あんたは」
経験則だと、レオンは言った。
「朝までがっつかれるのは御免だ。俺だって明日も仕事があるんだから」
「そんなにしねえよ。そうだな、日付変わる位まで」
「あんたが止まってくれる気がしない。前もそう言って、結局明け方になったじゃないか。その所為で寝坊はするし、調整の詰めも中途半端になったし。試合は勝ったけど、あんたの動きは酷かったぞ」
忘れたとは言わせない、と蒼の瞳がじろりとジェクトを睨み付ける。
ジェクトはそんな事もあったなと、明後日の方向を見て逃げた。
闘争心の塊になったジェクトは、火が付けば正しく獣のような荒々しさを発揮する。
試合のリズムとそのエネルギーの波長が見事にかち合えば、文字通り、破竹の勢いで相手チームを撃破するに違いない。
圧倒的なフィジカルパワーで試合の流れを作り出し、まるで滝を遡る龍のように、その勢いは凄まじい。
その為にこそ、今くすぶり続けているジェクトのエネルギーの奔流は、無駄遣いする訳にはいかないのだ。
と、言う理由もありながら、レオン個人としては、もう少し別の所に本音がある。
それだけのエネルギーを持て余している訳だから、こんな時のジェクトとセックスをすると、その熱が全て自分に流れ込んで来るのだ。
時に首筋に痕が残る程に噛み付かれ、猛獣に襲われているような錯覚すら覚える程、それは激しいものになる。
当然、その翌日にレオンがまともに動ける筈もなく、仕事に支障が出ないように工夫するのも一苦労。
過去にその経験をしているから、レオンは今日と言う日は絶対にジェクトとセックスはしない、と決めている。
「あんたが本気になると、俺じゃ敵わないんだから、ちゃんと我慢してくれ」
「……へいへい。判ってるよ」
レオンの言葉に、ジェクトは拗ねたように唇を尖らせつつも頷いた。
我儘を言っている自覚はあったし、正論は完全にレオンの方にある。
あまりしつこく食い下がっても、レオンの機嫌を損ねるだけだと、ジェクトも理解していた。
傍にいるとまたムラムラとして来そうで、ジェクトはいそいそとキッチンから離れた。
リビングのソファに戻ったジェクトは、すっかり見慣れた天井を見上げ、「あー……」と気の抜けた声を出す。
レオンの言う通り、明日は大事な試合なのだから、下手な事はしないでさっさと眠り、体力を温存させておくべきだ。
気晴らしにテレビでも見てから寝ようと、ソファ横のテーブルに置いてあったリモコンを手に取る。
そう言えば母国の方はどうなっているだろうと、衛星チャンネルをつけて、恋人の言葉以外で久しぶりに聞く母国語のニュースをぼんやりと眺めていると、
「ジェクト」
「あー?」
呼ぶ声に、ジェクトはテレビを眺めながら返事を投げた。
と、ふっと後ろから影が差して、首を後ろへ傾ける形で視線を上へと上げると、電灯の逆行を受けて見下ろす恋人の貌がある。
「明日の試合、勝つんだろう?」
「当たり前だ」
何を聞くんだ、と言う表情で、ジェクトはレオンの言葉に返す。
するとレオンの双眸が、すぅと細められて笑みを浮かべ、
「じゃあ、明日はあんたの好きにすると良い」
「……ふぅん?」
「勿論、あんたがベストな仕事をして、勝てたらの話だが」
負けたらこの話はナシで、と言うレオンに、ジェクトの口元が笑みに歪む。
ソファの背凭れに乗せていた腕を持ち上げ、見下ろす青年の頬に触れてやれば、レオンの方から猫のように摺り寄せて来るのが判った。
「言ってくれるねえ。俺を誰だと思ってんだ?」
「ケダモノ」
「この」
言ってくれる恋人に、ジェクトはその頬を抓ってやる。
幼い頃はまだ丸みがあったが、今はすっかりシャープな輪郭になったので、レオンの頬は大して伸びない。
母国にいる彼の弟や、息子のティーダなら、まだ摘まむ余裕位はあるだろうか。
そんな事を考えるジェクトの唇に、レオンのそれが落ちて来る。
カサついて罅割れ気味のジェクトの其処を、レオンの舌が潤すように一舐めすると、ジェクトの腕が捕まえようとするのを察したように、レオンはするりと逃げて行った。
「おやすみ、ジェクト」
「寝らんねえよ。どうしてくれんだ」
「一杯くらいなら飲んで良いぞ」
「しゃーねえ、手酌で我慢するかね」
悶々と眠れないまま過ごすのも、時間と体力の無為な浪費だ。
ジェクトは今夜の体温のことは諦めて、適当な手段で睡眠を呼び込もうと、アルコールを準備するべく腰を上げた。
冷蔵庫の横に備えているワインセラーからウィスキーのボトルを取り出し、食器棚から適当にグラスを取る。
一杯だけだぞ、とレオンが釘を刺してきたので、へいへいと返事をしながら酒を作った。
氷の揺れる音がするグラスを手に、付けっ放しのテレビの前へと戻って、ジェクトはソファに腰を沈める。
この国で流れるニュースに比べると、遥かに平和なニュースばかりの母国の時事情報を聞き流しながら、ジェクトはのんびりとグラスを傾けた。
一杯限りのアルコールは、勿体ぶる程の量もなく、程無くグラスは空になる。
それを持ってシンクに行くと、調理の終わった道具を洗っていたレオンが気付き、
「置いておいてくれ。まとめて洗っておく」
「おう」
「明日は7時には出るからな。朝飯は6時頃か」
「判ってる判ってる」
忘れるなと重ねて言うレオンに、ジェクトは濃茶色の髪をぐしゃぐしゃと撫でながら言った。
さて寝るか、と寝室に向かおうとしたジェクトであったが、ふと気になった事を思い出して足を止める。
「おい、レオン」
「なんだ」
「明日、俺の“好きに”して良いんだな?」
聞き間違いではないよな、と確かめる意図で問うてみる。
するとレオンは、手許の洗いものに落としていた視線を持ち上げてジェクトを見た。
蒼の瞳がゆるりと細められて、含みを含んだ笑みが浮かぶ。
それを見るだけで、ジェクトの中で微睡み始めた獣が起きる事を、この青年は知っている。
知っていて、このタイミングでそんな表情を浮かべてくれる恋人に、ジェクトはくっと笑った。
「性悪」
「何の事だか」
白々しい事を言ってくれるレオンに、ジェクトは今日の所は白旗を挙げた。
寝起きの獣が本格的に暴れ始める前に、酒の力でさっさと寝落ちてしまおう。
背を向け、じゃあな、と手を振るジェクトに、おやすみ、と言う声が投げられた。
10月8日なのでジェクレオ。
しっかり手綱を握っているレオンと、そんなのも悪くはないよなと思っているジェクト。
明後日のレオンは起きれないんでしょうね。判ってるからしっかり休みは確保してると思います。
学生二人の生活は、中々快適でもあるし、不便でもある。
監視的な意味を持つ大人が同じ空間にいない為、生活の様式や、日々の暮らし方と言うのは、基本的に気儘な所があった。
スコールはスケジュールを組むとそれを守りたいと思う所はあるが、実の所、彼の実生活と言うのは案外物臭なものだったりする。
生真面目な性質と、相反して何事にも腰が重い性質が同居している為、スコールは自分が気にならない所はルーズになる一面があった。
朝に弱いので、土日や休みの日なんてものは、ずるずるとベッドの中で過ごしているし、食事にもそれ程執着がないから、パン一枚でも齧れば良いだろう、とする事もある。
一方で、真面目な部分と言うものは、勉強の進み具合だとか、学校から帰ったらすぐに課題を広げて片付けてしまうとか、そう言った部分に発揮されていた。
ティーダはと言うと、きっちりかっちりと言う管理が苦手で、予定を立てるのはいつも大雑把だ。
聞こえがよく言えば、何事にも大らかで、ポジティブな言動と相俟って、丼勘定と勢いで乗り切る所がある。
そんなものだから、課題をするのを忘れたり、授業に必要なものを忘れたりと言う事も少なくなく、幼馴染であり同居人であるスコールに、両手を合わせて教材を借りに行く事も頻繁だった。
反面、彼は好きな事については徹底的にストイックになる一面があり、それに関しては、まるでスイッチが切り替わったように管理を怠らない。
朝早くから決まった時間にランニングに行ったり、昼休憩には自主練習、放課後の部活も余程の事がなければ欠かさない。
その努力はしっかりと彼の実力として実を結び、ティーダは二年生にして、水球部のエースの名を欲しいままにしていた。
そんな正反対な二人であるが、生活を始めると、これが存外と上手く噛み合う。
元々付き合いも古く、よく知った仲でもあるし、互いがそれぞれに何を優先しているかも判っている。
且つ共に周りの事が確りと見えていて、自分よりも他者に合わせようとする所もあった。
だからもしも、全く知らない人間との同居であれば、息苦しさを感じる程に遠慮したり、角を立てまいと過剰に相手の都合を優先させてしまった可能性もあったが、幸い、彼等は幼馴染だ。
譲る所と譲らない所、相手が何を一番に考えようとしているかの予測は、遠からず当たる。
その上でそれぞれに折り合いを付けて行く内に、生活の歯車は綺麗に噛み合ったのであった。
二人の生活において、家事雑事は基本的に当番制を取るようにしているが、食事の用意はスコールが担う事になっている。
共に父子家庭と言う背景もあり、幼少期から父───スコールは其処に年の離れた兄も加わる───の手を援ける為に家事に手を出していたので、ティーダも料理が出来ない訳ではないのだが、日々の栄養管理から何から、スコールの方がよく気が回る。
二人の学校では、部活も長い時間が使われているし、食材の買い出しやら何やらと言うのは、放課後がフリーになっているスコールの方が都合がついた。
そう言う訳で、食事に関してはスコールが預かる事になり、ティーダはそれ以外───掃除や洗濯ものの片付けなど───を週の半分以上を引き受ける事で折半とした。
そんな風に二人の生活様式が固まった結果、スコールは、ティーダの毎日の早朝ジョギングに合わせて、きちんと決まった時間に布団を出る。
ティーダが帰って来た時には、バランスの取れた朝食が用意されており、二人揃って食べた後は、ティーダが片付けを請け負う。
それから揃って登校、土日休みの場合は朝に弱いスコールが二度寝しに行くのがパターンだ。
そうなってもスコールは昼にはちゃんと起きて来るし、ティーダも時間が空くとスコールから「課題は終わったのか」と詰められるので、休みだからと遊び惚ける事もない。
生活の流れが“自分一人だけのものではない”と言う環境が、気を抜けば奔放にもなり易いであろう、若者二人の生活にメリハリを作っていた。
案外としっかりとしている生活を送る少年達であるが、その傍ら、大人がいない大変さも理解している。
特に、試験期間に突入すると、少年達はそれを痛感せずにはいられない。
来週に控えた試験の為、言い訳を付けてそれから逃げたがるティーダを捕まえ、スコールはリビングダイニングのテーブルで勉強時間を設けた。
大袈裟な事にも思えるが、こうでもしないとティーダがいつまでも現実逃避をするのだから仕方がない。
前回の試験で、苦手な教科が赤点ギリギリだった事で、ティーダは部活禁止一歩手前のイエローカードが出ている。
学生の本分である勉強が疎かになるのなら、チームのエースと言えど部活はさせない、と言うのが顧問の方針だ。
スコールもそれを知っているから、今回はなんとしてでも逃がさないと、縛る勢いでティーダをテーブルに縫い留めている。
しかし、今回スコールがティーダの為に出来るのは其処までだった。
普段はスコールも自分の理解が深まるからと、ある程度まで彼に勉強を教える事を寛容しているのだが、今回はその余裕がない。
スコール自身の苦手範囲が複数の教科に渡って当たってしまい、人を気にする暇がなくなったのだ。
「うー……」
「……」
「んん~……」
「……」
「ぐぅぅ~~~……!」
ティーダは、鼻と口の間にシャーペンを乗せたり、歯を食いしばって問題文を睨んでみたり。
答えを穿りだそうとするように、金色の髪を両手でぐしゃぐしゃと掻き回したりと、忙しなくしながら、開いた問題集と対峙している。
その唸り声が鳴る度、スコールの眉間には皺が増えていくのだが、今のスコールはそれを煩いと叱る時間も勿体無かった。
また、ティーダが唸っているのはふざけているからではなく、スコールの余裕のなさを理解しているから、その邪魔をしないように、自分でなんとかしようと頑張っているからだ。
スコールもそれが判っているから、唸る位は目くじらを立てまいと思っている。
しかし、ティーダの問題集は勿論のこと、スコールの手元に開いたプリントも、遅々として進まない。
言葉と言うものの不可解さを、幼い頃から感じ続けているスコールにとって、その分野は意識からして気が進まないものだった。
そう言った気持ちの邪魔もあって、プリントに綴られる問題文に対し、重箱の隅を突いてやりたくなる。
「うぐぅ~~~~~!」
「………はあ……」
向かいの席から、今日一番の唸り声が上がって、スコールはそれをちらりと見て溜息を吐いた。
持っていたシャーペンを転がし、席を立ったスコールを見て、ティーダが抱えていた頭を上げる。
「スコール?」
「……休憩だ。コーヒー淹れる」
「俺のも頂戴、砂糖とミルクも」
ねだるティーダに、そのつもりだと、スコールは無言で食器棚からマグカップを二つ取り出した。
コーヒーの淹れ方は、父から兄へ、兄から弟へと受け継がれている。
豆に拘りがある程ではないが、淹れ方は兄から教わったものをそっくり真似ていた。
その甲斐あってなのか、ティーダはスコールが淹れたコーヒーが好きだと言う。
ただし、彼は苦いものが得意ではないので、ブラックではなく砂糖1杯とミルク少々が欠かせない。
コーヒーが出来るのを待つ間に、テーブルに突っ伏したティーダがスコールを見ながら言った。
「なあ、スコール」
「教えるのは無理だぞ。俺も余裕がない」
先に封じる形でスコールが言うと、ティーダは「判ってるって」と言って、
「そりゃ教えてくれたら一番嬉しいけど。そうじゃなくてさ、やっぱりモチベーション上がらないから、ちょっとだけ応援とかしてくれないかなって」
「応援?」
ティーダの言葉に、スコールは分かり易く顔を顰める。
勉強の応援なんて、まさか横で拍子を叩いて笛を吹けとでも言うのか。
スコールの頭の中には、体育祭の時に見た、学ランに鉢巻きスタイルで応援合戦をしている生徒の様子が浮かぶ。
そんな事を想像してしまったものだから、スコールは露骨に顔を顰めていたのだが、ティーダは気にせずに続けた。
「頑張ったらご褒美、みたいなさ。お願い一つ叶えてくれる、とか」
「…言いたい事は判ったけど。テストで頑張るのは、俺もなんだが?」
「判ってるって。だからスコールには、ちゃんと俺からご褒美あげるから」
それなら良いだろ、と言うティーダに、何が良いのか……とスコールは思うが、不公平よりは余程良い。
決して好きでもない勉強に嫌でも齧りつかねばならないのなら、その褒賞を貰う位、願っても罰は当たるまい───と言うティーダの言葉には、スコールも概ね同意であるが、
「……で、あんたは何が欲しいんだ?」
話の主題は、ご褒美云々ではなく其処だろう、とスコールは読んでいた。
確かに勉強へのモチベーションを上げると言う目的もあるのだろうが、ティーダが一番求めているのは、やる気云々ではない。
延々と続く山道を登った先で食べる、美味しい美味しい弁当の中身を、彼は欲しがっているのだ。
それを読んで、スコールは直球に訊ねてやった。
大方、夕飯のメニューか、そうでなければ新作ゲームあたりだろう────と思っていたのだが、
「テストが終わったらさ。色々気にしなくて良くなるだろ」
「……まあな」
「試験が終わればゆっくり出来るし」
「補習もなければな」
「うぐ。うん、そう、それもそう」
痛い所を刺されて、ティーダが一度口を噤む。
じわじわと効いて来るであろうスコールの一言を脇に追い遣りつつ、だからさ、とティーダは言った。
「でさ試験終わった次の日って、土日だろ?」
「ああ」
「だからその時にさ、」
エッチしよ。
ティーダがそう言った瞬間、がちゃん、とスコールの手元でマグカップが音を立てる。
入れたばかりのコーヒーが、シンクの中に茶色い川を作って、排水溝へと流れて行った。
スコールは取り落としてしまったマグカップが、幸運にも罅も入らず無事だったことに安堵しつつ、耳まで赤くなった顔でティーダを睨む。
「何言ってるんだ、あんたは!」
「良いじゃないっスか、ずっと我慢してるんだから!」
「だからってそんな事、試験明けにする事じゃないだろ!」
「じゃあいつなら良いんだよ。スコール、いつもそんな事言って全然やらせてくれないじゃないっスか!」
「でかい声で言うな、そんなこと!」
「スコールの声もでかいっスよ!」
羞恥心から声を荒げるスコールに、負けじとティーダの声も大きくなる。
が、此処はセキュリティこそしっかりとしてはいるものの、そう広くはないアパートマンションの一室だ。
壁の厚みはそこそこあるとは言え、若者二人の腹から出した声を全て防いでくれる程、上等な施工はされていない。
スコールは湯気が出そうな程に赤い顔で、シンクに転がしてしまったマグカップを拾う。
勿体無い、と呟きながら、とソーサーに残っていたお代わり分のコーヒーを注ぎ直していると、
「なあ、スコール。なあってば」
「煩い」
「俺、ちゃんと頑張るから」
ティーダの声は真剣だった。
その声を、もっと違う流れで聞きたかった、とスコールは思う。
淹れ直したブラックコーヒーと、砂糖とミルクを入れたコーヒーを手に、テーブルへと戻る。
ティーダの前に彼のコーヒーを置いて、元の位置へと座り直すと、スコールはプリントを手繰り直す。
転がしていたシャーペンを取って、並ぶ問題群に視線を落としていると、
「スコール。スコールってば」
「………」
「……やっぱ駄目?」
呼ぶ声を無視していると、「だよなぁ」と諦めの混じった笑い声が聞こえた。
ちらとスコールが見遣ってみれば、ティーダは湯気を立てているコーヒーに息を吹きかけて冷ましている。
程好く表面が冷めた所で口を付け、ふう、と一息吐いて、彼も改めてシャーペンを握り直す。
────今回、自分がティーダを援けられない以上、ティーダには自力で頑張って貰わなくてはいけない。
その為に必要不可欠なのは、彼自身の勉強に向ける意欲的エネルギーだ。
普段からそれは半ば枯渇気味ではあるのだが、ティーダは基本的には前向きな思考をしているので、ささやかなご褒美のようなものでもあれば、一応はそれを目標にする事が出来る。
それを考えれば、ティーダが自ら希望した“ご褒美”と言うものは、効果的と言えるだろう。
同時に、ティーダが求める“ご褒美”は、スコールにとっても強ちそうと言えなくもないのも事実で。
「……」
「うーん……」
問題集に向き直ったティーダは、先程よりは落ち着いた様子で、数字の羅列を見つめている。
考えているのか、眺めているのか、微妙な所ではあったが、ご褒美云々とは関係なく、次のテストの対策をしなければと言う気持ちはあるのだ。
コツ、とスコールの手元で、シャーペンが小さく机の天板を鳴らす。
紙に置かれた芯が僅かに黒鉛を滑らせて、芯の触れた痕が小さく残った。
スコールはじっとそれを見つめた後、顔を上げる。
「ティーダ」
「ん?」
名前を呼ばれて顔を挙げたティーダは、いつもの顔をしている。
ついさっき、自分がねだった言葉など忘れたようなその表情に、スコールは一瞬、口を開くのを躊躇ったものの、結局は意を決してそれを告げた。
「頑張るのは、当たり前のことだから、ご褒美とかは関係ない」
「っスよね~」
スコールの言葉に、判ってた、とティーダが表情を崩す。
ちょっとだけ残念───と言う気持ちも滲むその顔を見つめながら、スコールは続ける。
「だから、ご褒美が出るのは、ちゃんと結果が出たらの話だ」
「ん?」
「…全教科でそれぞれ平均点。採れたら……良い」
「え」
「採れたらな」
其処まで言って、スコールは手元のプリントへと視線を戻す。
黙々と問題を解く手を再開させたスコールに、ティーダはぱちぱちと瞬きを繰り返していた。
ええと、と今し方、幼馴染の口から告げられた事を頭の中で再生させ、その意味を考えること数秒。
ようやくその意味を汲み取り始めてから、その内容にまだ頭がついて行かなくて、もう一度聞いて確かめようと見た幼馴染が、伏せた顔を耳まで真っ赤にしている事に気付く。
うずうずと、ティーダは今すぐ目の前の幼馴染兼恋人に抱き着きたかった。
しかしスコールは筋金入りの恥ずかしがり屋で天邪鬼だから、きっと振り払われてしまうだろう。
その上、折角約束してくれた”ご褒美”を反故にされてしまっては勿体ない。
しかし、湧き上がる気持ちまでは誤魔化しきれなくて、せめてそれだけは吐き出さなくては、息が詰まりそうだった。
「スコール!」
「なんだよ」
「俺、絶対良い点採るからな!」
「判ったから集中しろ」
もうこっちを見るな、と苦いものを噛む口でスコールは言った。
それが恥ずかしがっているからだと判っているから、ティーダの口元は緩んでしまう。
ティーダは両手で自分の頬を叩いて、気合を入れ直した。
赤らんだ頬で問題集に臨む幼馴染を、スコールはちらりと見遣って、現金振りに呆れてこっそりと溜息を吐く。
その傍ら、甘やかしてしまった自分の胸の内に燻る期待だけは覚らせないように、努めていつもの仏頂面を浮かべるのだった。
10月8日と言う事で、ティスコ!
お盛んだって良いじゃない、17歳だもの。
試験明けに一杯いちゃいちゃすれば良いと思います。
レオンの家に、ふらりとやってくる客は、二人いる。
一人は幼馴染であり、このレディアントガーデンを故郷としているが、何やら忙しそうにいなくなったり帰って来たりとするクラウドだ。
彼はこの街が故郷であるにも関わらず、日々の殆どを全く遠い何処か異なる場所で過ごしており、帰って来るのは気まぐれな事だった。
故にか、彼はそれなりに復興が進んだ今でも、自分自身が住まう、我が家と呼ぶような場所を持っていない。
あった所でほぼ空き家になる事を思えば、持たない事は合理的であると言えよう。
その代わり、帰って来る都度、彼はレオンの自宅を宿替わりに使っており、レオンはその代わりに彼を復興作業の貴重な人材として使っている。
そしてもう一人が、このレディアントガーデンの世界と名前を取り戻してくれた、キーブレードの勇者───ソラである。
彼の場合、グミシップに乗って、文字通り世界を跨いで旅をしている為、日々の中でレディアントガーデンを訪れるのは僅かな時のみだ。
その僅かな時間を、ソラはレオンの下で過ごしたがる。
どうやら、彼の冒険の一番最初───まだ右も左も判らなかった頃の彼に、レオンが微かな指標を示して、「行ってこい」と送り出した事が、彼の心をレオンに縫い留める切っ掛けになったらしい。
そしてレディアントガーデン(当時はホロウバスティオンの名で呼んでいたが)の闇が払われ、その後一年、彼は何処かで眠っていたそうだが、目覚めてから次の行先を考えようとして、最初に浮かんだのがレオンの顔だったそうだ。
旅の再開に向け、一年ぶりに降り立ったその地で、レオンとソラは再開した。
それから様々な事件が起き、それも一段落してからも、ソラは不定期であるが街を訪れている。
レオン達の地道な努力と、セキュリティシステムの存在もあり、この街は数多の世界に比べると平穏が保たれているようで、ソラ達が休息するには丁度良いのだろう。
彼に頼られるのはレオンとて決して悪い気はしなかったから、普段は世界を股に大変な旅をしている少年を労う気持ちで、滞在中の彼の要望に応じていた。
今回も、ソラは数日前にレディアントガーデンへとやって来て、レオンの自宅に泊まっている。
彼の仲間も、それぞれ既知の人物の下を頼り、羽を伸ばしているそうだ。
此処にいる間は、某か事件でも起きない限りは、三人それぞれにのんびりと過ごす事にしているようで、次の合流の日まで顔を合わせない事もあるらしい。
朝の日差しが差し込む窓辺で、ベッドの上で丸くなって眠るソラ。
レオンはその隣で、ベッドから落ちないように、横向きになって眠っていた。
ベッドは当然ながら大人一人用のシングルサイズで、大人のレオンと、まだ子供とは言え小さくはないソラが一緒に横になると、やはり少し窮屈だ。
だからレオンは、ソラが来ている時は、彼にベッドを譲って自分はソファを使おうと思っている───のだが、ソラは頻繁に「一緒に寝よ!」と言ってくる。
狭いだけだぞ、と言いはするものの、「二人で寝た方が暖かいじゃん」と言うソラに押され、湯たんぽ替わりにして一緒に寝るのがパターンとなっていた。
すやすやと眠るソラの傍らで、レオンはゆっくりと目を開ける。
まだ光に慣れない瞳に、カーテンの隙間から差し込む陽光が眩しい。
レオンはゆっくりと起き上がると、そっとソラの体を跨ぐようにベッドに手を突き、窓の方へと腕を伸ばした。
僅かな隙間のあるカーテンを閉め直し、古いベッドが軋む音を立てないように気を付けながら、ソラの体の上から退くと、
「んん~……」
ごろん、とソラが寝返りを打った。
壁側に寄って腕を投げ出したものだから、その腕がこつんと壁に当たる。
が、ソラの寝息は規則正しく変わらず、彼がまだ深い眠りの中にいる事を教えてくれた。
ぱかりと口を開け、かーかーと気持ちの良く眠るソラの姿に、見下ろすレオンの口元が緩む。
口の中が渇くぞ、と小さく呟いて、レオンはソラの顎を軽く指で押し上げてやった。
むぐ、と閉じた所で指を離すと、どうも引き結ぶ力が弱いのだろう、またソラの顎が落ちて口がぱかりと空いてしまった。
子供らしい無邪気で無防備な寝顔に、レオンはくすりと笑みを漏らし、茶色のツンツン頭をくしゃりと撫でる。
レオンは、ベッドを降りて軽く肩を回しながら、小さなキッチンへと向かう。
普段ならトースト一枚とコーヒー一杯で済ませる朝食であるが、ソラがいるならそうはいかない。
育ち盛りで食べ盛りの少年は、朝から胃袋も元気なのだ。
昨日の夕飯にも食べたチキンの残りを冷蔵庫から取り出し、作り置きして置いたソースと絡めながら、じっくりと焼き蒸しを始める。
ソラが来た時には必ず買う、コーンポタージュをマグカップに注ぎ、電子レンジに入れて温めボタンを押した。
温まるのを待つ間に、パンにバターを塗ってトースターにセットし、サラダは昨日の作り置きを取り出して皿に盛る。
チキンもあるしこれ位で良いか、と思ったレオンだが、やはりもう一品と思って卵を取り出した。
手早くスクランブルエッグを作り、サラダの横に盛り付けて、良い色合いに焼き目のついたチキンも並べる。
電子レンジに入れていたコーンポタージュも温まり、あとはパンの焼き上がりを待つだけ。
それも直に終わることなので、レオンは寝室へと戻った。
「ソラ」
「……んぷぅ~…」
「ソラ、飯だぞ。起きろ」
まだまだ寝汚い様子のソラであったが、レオンはベッドの傍に寄ると、少年の肩を緩く揺すった。
ソラは駄々を捏ねるように顔をくしゃくしゃにするが、すん、と一つ鼻を鳴らすと、
「……朝ご飯?」
睡眠欲より食欲が勝つのがソラである。
夏の高い空を思わせる、青い目がぱちりと開いて、眠たそうにレオンを見た。
レオンがソラの言葉に頷くと、ソラは眩しそうに目を細めながら起き上がる。
「んん~……なんか良い匂いする……」
「昨日の晩飯にローストチキンを食べただろう。あのソースが残っていたから、それでまた鶏を焼いたんだ」
「あれ美味しかった」
「なら良かった。ほら、早く顔を洗って来い。熱い内の方が旨いぞ」
そう言ってレオンがベッドを離れると、ソラものろのろと起きる準備を始めた。
ふああぁぁ、と大きな欠伸をしながら体を延ばし、ベッドを降りて、洗面所へと向かう。
朝の水は冷たいもので、それで顔を洗うとよく目が覚める。
洗面所からダイニングへと戻って来たソラも、瞼がしっかりと上がっていた。
その大きな目がテーブルに並べられた朝食を見て、嬉しそうに爛々と輝く。
「美味そう~!って言うか、絶対美味い!昨日も美味しかったもん!」
食べる前から言い切るソラに、レオンは擽ったい気分になる。
ソラは、先に椅子についていたレオンと向かい合う席に座った。
きちんと両手を合わせ、「いただきまーす!」と軽快に言って、フォークを掴むと真っ先にチキンに飛び付く。
パリッと香ばしく焼けた薄皮を破り、ソースの味が染み込んだ肉を、ソラの綺麗に生えそろった歯が噛み千切る。
頬を膨らませてもぐもぐと食べるソラの様子は、見ているレオンにも気持ち良い位の食べっぷりだった。
「うん、ほら!すっごく美味い!」
「ああ、上手く出来たようだ。ソラ、肉ばかりじゃなくて、野菜もちゃんと食べるんだぞ」
「判ってるって。でもこのチキン、すっごい美味いんだよ~」
大きく口を開け、はぐはぐとチキンを頬張るソラ。
口の周りにソースがついて、なんとも豪快で元気な食べ方だ。
チキンを殆ど食べ切ってから、ソラはパンに手を付けた。
バターが染み込んだパンを齧るソラに、レオンが出しておいたリンゴジャムを差し出すと、嬉しそうにそれを受け取る。
甘味の強いリンゴジャムが最近ソラのブームのようで、此処数日、朝には必ずパンに塗って食べていた。
それからソラはスクランブルエッグを食べ、サラダを食べて、コーンポタージュも飲み干す。
レオンよりも多めに盛っていたソラの皿は、レオンよりも先に空っぽになった。
ちゃんと噛んでるんだろうな、とレオンが言うと、ソラはポタージュを飲みながら頷く。
取り敢えず頷いた、と言うのがありありとした反応であったが、まあ良いか、とレオンは苦笑する。
「はぁ~、腹一杯。ご馳走様でした!」
「お粗末様」
「片付け手伝うよ」
「良いか?助かる」
ソラに一拍遅れてレオンも食事を終え、片付ける為に席を立つと、ソラもついて来た。
キッチンは小さなものだが、二人並べる位のスペースはある。
レオンは食器を洗うとソラに渡し、ソラはそれを落とさないように気を付けながら、布巾で丁寧に拭いて行った。
レオンは、チキンを焼くのに使っていたフライパンの焦げ目をスポンジで擦りながら、仕事を待っているソラを見て、
「今日は、もう出発するんだったな」
「あ、うん。そうそう。そうだった」
「忘れていたのか?ドナルド達に怒られるぞ」
「えへへ、忘れてない忘れてない。うん。思い出した」
愛想笑いを浮かべるソラの言葉に、やっぱり忘れていたんじゃないか、とレオンは眉尻を下げて苦笑を浮かべる。
まあこれは言いふらしはすまい、と思いつつ、ようやく焦げつきの落ちたフライパンをソラに渡す。
「今度はさ、ちょっと遠くに行く感じになってるんだ」
「遠く、か」
フライパンを拭きながらのソラの台詞に、レオンは小さく呟く。
遠い昔にこの世界を喪い、追い出されるように通り過ぎた、暗く広い星の海。
辿り着いた常夜の街で、故郷がとてもとても遠くにある事を思う度に、レオンの心は軋んで行った。
その遠い道程を逆に辿り、ようやく故郷に帰って来たレオンにとって、もう“この世界の外”と言うのは、以前よりも遥かに遠いものになっていた。
それは、十数年ぶりに戻った故郷の地に、彼の両足がしっかりと根付いている証でもあった。
その反面、何処までも遠く、何処までも自由に走って行ける傍らの少年を、少し羨ましくも思う。
小さな肩に乗せられる重い命運、其処にはレオンが嘗て抱いていた、失った故郷を取り戻したいと言う期待もあった事は判っているつもりだ。
それでも羨望を抱く事を辞められないものだから、その罪滅ぼしのように、レオンはソラを甘やかしてしまう。
「休みたくなったら、またいつでも戻って来い。お前が来てくれると、ユフィ達も嬉しそうだからな」
彼の旅の終着点が何処にあるのかなど、レオンの知る由もない。
ただ、其処に行くまでに、ソラには沢山の出来事が降りかかるだろう。
それに翻弄されて、疲れて立ち止まりたくなったら、いつでも此処に帰って来て、束の間の休息に浸れば良い。
そんな気持ちで、レオンはソラの髪をくしゃりと撫でた。
ソラは手元のフライパンを綺麗に拭くと、今朝の役目を終えたコンロにそれを置いて、ちらりとレオンを見上げる。
低い位置にあるソラの眼と、見下ろすレオンの瞳とが交わると、ソラはレオンを真っ直ぐに見ながら言った。
「レオンはどう?」
「ん?」
「オレが来るの、どう?嬉しい?」
じっと見つめる澄んだ青の瞳。
ころころと変わる表情を含め、言葉以上にお喋りなソラの眼は、いつでもありのままにその心を映し出す。
自分がこの街にきて、レオンはどう思っているのか、どう感じているのか知りたい───そんな声がレオンの耳には聞こえた気がした。
────大人と言うのは面倒なもので、中々自分の思う気持ちをそのまま口にする事が出来ない。
しかし今はきちんと口にしなくてはと、レオンは気恥ずかしさを隠しながら、ソラの問いに答えた。
「ああ、嬉しいよ。良い気分転換になるしな」
「そう?そっか。じゃあ良かった!」
レオンの答えに、ソラは太陽のようにきらきらと笑う。
その明るい笑顔が、レオンにはとても眩しくて、ついつい双眸を細めてしまう。
「ほら、そろそろ出ないと、皆を待たせるんじゃないか?朝9時に集合だって聞いた気がするぞ」
「え~、もうちょっと。やっぱりレオンと一緒にいたいよー」
そう言って抱き着いて来るソラに、レオンはやれやれと眉尻を下げる。
子犬か子猫が甘えるように、レオンの胸にすりすりと頬を寄せて甘えるソラに、レオンはされるがままだ。
「遅刻と言うのは、中々罪が深いものだぞ」
「遅刻はしないようにするよ。でも良いじゃん、もうちょっとだけ」
「そう言ってる間に、時間は直ぐに過ぎるものだ。ほら、ちゃんと服も着替えて来い」
「うー、判ったよぉ」
促すレオンに、ソラは渋々顔でようやく離れた。
ベッドの横に昨日脱ぎ散らかし、寝る前にレオンが畳んでソファに置いておいた服を取り、忙しなく着換えを済ませる。
忘れ物はないかと指差し確認して、ソラはようやく玄関へ向かった。
行くのなら見送り位はしてやろうと、レオンは靴を履いているソラの後ろに立つ。
ソラは靴の爪先や踵をこつこつと床に当てて、具合を確認してから、くるんとレオンの方へと向き直った。
「レオン、ちょっと屈んで」
「なんだ?」
「また帰って来るからさ。その為におまじないしようと思って」
おまじない───随分と可愛い単語が出て来たな、とレオンは思いつつ、要望に応えて少し背中を丸めて屈む。
と、レオンの頬に、ちゅっと柔らかいものが押し当てられた。
それは触れたと思ったら直ぐに離れ、ぽかんとするレオンを、にっかりと無邪気な笑顔が見上げる。
「へへっ、これでオッケー!じゃあ行ってきまーす!」
「あ───ああ、」
元気も元気に、手を振りながら、ソラはレオンの家を後にした。
彼が開け放ち、潜り抜けて、ゆっくりと締まり行く扉の向こうでは、燦々とした太陽の光が降り注いでいる。
その光に誘われるように、レオンが締まる手前のドアを押せば、もうソラは石畳の向こうを走っていた。
まだ傷の残る、立ち並ぶ建物群の向こうから、ゆっくりと太陽が昇って来る。
光の向こうへ躊躇いなく、真っ直ぐ駆けていく少年の背中に、レオンはまた目を細め、
「……行ってらっしゃい、ソラ」
その足が、一体何処まで行く事が出来るのか、レオンには判らない。
今はただ、彼が行ける所まで行ける事を願って、レオンは遠くなって行く背中を見送るのだった。
ソラがスマブラSPに参戦と言う快挙の記念に。放送での発表見てから勢いで書いてます。
当方、スマブラシリーズは一切触った事がないのですが、それでもタイトルだけは知ってまして。
沢山の枠を越えてこのゲームに参戦する事が出来たのは、本当にすごい事だと思います。
そんな訳で、これから『遠く』で頑張るソラを、レオンさんに見送って貰いました。