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2018年08月
遠くに行きたい、と言ったスコールに、何かあったのだろうな、と思った。
色々と気になる事はあるものの、恐らくは聞かない方が良いのだろう。
その選択が正解かどうかは判らないが、少なくとも、スコールは踏み込んで欲しくないと望んでいる筈だ。
だから何も聞かずに、偶然にも丁度眺めていたバイク雑誌のツーリングコースを見せて、何処に行く?と言った。
スコールはそんな反応が返って来るとは思っていなかったようで、驚いた顔で此方を見ていた。
スコールの家庭環境は複雑だ。
幼少の頃、スコールは孤児院にいて、高校生に上がる前になって、父親が現れた。
父親は傍目に見ても優しい男で、子煩悩で、とても家族を捨てるようには見えない。
スコールが生まれた当時、彼が傍にいなかった事は、様々な不幸が重なっての事であり、恐らく彼自身にも何か事情があったのだろうと想像させるのは簡単だったが、だからと言って、15年近くも顔すら知らなかった父親が突然現れても、受け入れるのは難しいだろう。
しかし、そう言う想像をかなぐり捨ててまで父親を拒否する程スコールも子供ではなくなっていて、折角会えたのだからと言う周りからの奨め───勿論、強制ではなく、スコール自身にきちんと選択させる形で───で父親との生活が始まった。
が、突然現れた父親との距離感はどうにもぎこちない。
どうして良いか判らない、と言う気持ちと、思春期特有の大人への反発心も重なって、二人の仲は荒れてはいないが穏やかとも言い難いそうだ。
クラウドがスコールと出逢ったのは、二年前の事だった。
スコールが父親に引き取られ、今の生活が始まってから、三ヵ月と言った所らしい。
気難しい自分と違い、明るく人懐こい父親を、スコールはどう扱えば良いのか、彼の言葉の一つ一つをどう捉えれば良いのか判らず、家出気味の日々を送っていた。
放課後、夕方の街をふらふらと歩き、性質の悪い連中に絡まれた所を、偶然通りかかったクラウドが見兼ねて助けたのが切っ掛けだ。
それから、何処か危なっかしい印象の抜けないスコールをクラウドが放っておけなくなり、世話を焼いた。
始めこそ反発の強かったスコールだったが、雛が懐くように段々とクラウドに心を開き、今では恋人同士と呼ぶ間柄になっている。
出逢った頃に比べると、スコールと父との蟠りは和らいでいる。
だが、一緒にいるとスコールが息苦しさを感じる事は儘あるようだった。
父親が自分を愛していると判っても、それを受け入れる余裕が少し出来たと言っても、思春期真っ盛りの少年には、それもまたむず痒くて落ち着かない。
何かと声をかけてくる父に対し、彼が期待しているような反応をしなければ───と言うプレッシャーを感じてしまう事もあるようで、彼がそれを強要している訳ではないとしても、息苦しさを感じてしまう事もあるのだろう。
そんな時、スコールは、決まってクラウドの家へと逃げ込んでいた。
遠くに行きたい、と言うスコールの言葉も、きっとそう言った感情から降ってきたものなのだろう。
スコールの家の事情を知っており、スコールの気持ちも汲んでくれる相手と言うのは、少ない。
元々人とのコミュニケーションにやや難のあるきらいのあるスコールは、交友関係と言うものが非常に狭く限定されていた。
だから自分の気持ちを吐露する相手も、慮ってくれる人も少ない。
全くいない訳ではないようだが、同調を求める訳でもなく、理解者と呼ぶ程の共感が欲しい訳でもなく、真っ向から否定されるのも嫌で、と言う複雑な心の在り様を受け止めてくれる相手、と言うのは難しいだろう。
そう言う点に置いて、有体な同調をせず、判った振りをして理解者ぶる事をせず、正面からの否定もしない、寄り添う事を選ぶクラウドの存在は、スコールにとって決して小さくなかった。
世間は夏のバカンスシーズンで、学生は夏休みである。
となれば、出不精なスコールは一日中を家で過ごしているのが常である。
そんなスコールにとって、一日で行って帰れるような道程でも、旅行と言えば確かに旅行と言えた。
クラウドは愛用のバイクにスコールを乗せて、海岸線を走っていた。
日差しは夏真っ盛りと暑いものだったが、都会の真ん中と比べれば、海辺は少し位は涼しく感じるだろう。
ガードレールの向こうに広がる水平線を見るだけでも、気持ちは水分とすっきりするのではないだろうか。
バイクを走らせながら、クラウドは背中に触れる体温を感じていた。
外気の熱と、背中の熱とが合わさって、暑いと言えば暑いのだが、恋人に抱き着かれていると言うのはやはり嬉しい。
始めの頃は、安全の為に確りと捕まる事さえ躊躇っていたスコールが、今は乗ると直ぐに腰に腕を回してくる。
他者との接触を好まないスコールが、こうした事に慣れてくれただけでも、自分への信頼の深さが見えるようで、クラウドは嬉しかった。
生活費から捻出した金で、バイクを単座から複座に替えた甲斐があったと言うものだ。
海岸線を走って行くと、海側にパーキングエリアがあった。
其処から浜辺に降りる事が出来るようだが、遊泳エリアから少しずれている所為か、利用客は少ない。
停まっている車も、釣り客が置いているものばかりのようだ。
「スコール」
「ん」
「其処のパーキングに留めるぞ。休憩にしよう」
「判った」
短い返事を聞いて、クラウドはウィンカーを出す。
一時停止の標識に従った後、角を曲がってパーキングエリアに入った。
二輪用の屋根付きの場所があったが、使っている者は誰もいない。
これなら大型バイクを置いておいても邪魔にはなるまい、とクラウドは其処に滑り込んだ。
バイクのエンジンを切って、「降りて良いぞ」と言うと、スコールがバイクを降りてヘルメットを脱ぐ。
「っふう……これ、やっぱり暑いな」
頭を左右に振って、ぱさぱさと濃茶色の髪を揺らしながら、スコールが言った。
「一応、夏用に通気のあるものでなんだが、お前はヘルメット自体被り慣れてはいないから、やっぱり苦しいか」
「……少し」
「バイクは車と違って日に当たりっぱなしだしな。ああ、自販機があるから、何か買って来よう。水分の補給も大事だぞ」
「水が良い」
「炭酸水もあるようだが」
「……普通の水が良い」
遠慮ではなく、純粋に単純に水が欲しい、と言うスコールに、クラウドは「判った」と頷いた。
自販機で水を二本買って戻ると、スコールは海を眺めていた。
浜辺の向こうにある海を、まるで初めて見たかのように見詰めているスコールに、クラウドの唇が緩む。
少しは気が晴れていると良いが、と思いつつ近付いて、買ったばかりのペットボトルをスコールの頬に当てた。
「冷た……っ」
「よく冷えてる。遊泳エリアじゃなくて良かったな。ああ言う所だと、補給と冷却が追い付かなくて、生温いのが出てきたりするし」
「……確かに、そうだな」
「海の家のものを買っても良いが、割高だしな」
スコールがペットボトルを受け取り、口を開ける。
小さな口でこくこくと水を飲むのを見て、クラウドも喉の渇きを自覚した。
冷たい水を飲みながら、クラウドはジャケットの前を開けながら訪ねる。
「此処からどうする。海に行ってみるか?」
「……行く」
此処まで来たなら、とスコールは頷いた。
パーキングエリアの脇に設置されている階段を使って浜辺に降りると、海との距離が一層近付いた。
空から降り注ぐ太陽の光が、寄せては返す波に反射して、ひらひらと眩しい。
浜一面も白く輝いて、スコールは眩しさに目を細めていた。
海沿いに点々と、釣りを楽しんでいる人の姿がある。
この暑いのによくやる、とスコールが呟いて、俺達もその暑い中をツーリングして来たんだがな、とクラウドは胸中で呟いた。
が、今日の小旅行はスコールにとってイレギュラーだし、ツーリングをして来たからこそ、暑い最中に外でじっと過ごせる事が不思議に見えるのかも知れない。
「スコール。折角だから少し海に入るか?」
「水着なんてないだろ」
「泳ぐとは言っていない。少し足を浸す位だ」
「………」
いつもなら、ズボンが濡れそうだから嫌だ、と言うだろう所を、スコールは熟考した。
波打ち際とは言え海に入るのなら、裸足になって、ズボンは捲らなければいけない。
捲っても裾は濡れるかも知れないし、足が濡れれば浜の砂がついて、後が面倒臭い。
……でも、海に来たのは随分と久しぶりだし、次にいつ来るかは全く見当がつかなかった。
泳ぐのが好きな友人が、プールに行こう、海に行こうと誘ってきたので、割と近い内に行く事になるかも知れないが、その時はこんな風に静かに過ごすのは無理だろう。
嫌だと言っても海へ引っ張られるのが想像できて、ゆっくりと楽しむなら、きっと今しかない。
────スコールが靴を脱ぎ始めたのを見て、クラウドもブーツを脱ぐ。
今日の遠出は所謂デートであったから、少し格好を決めたブーツを履いていたので手間がかかったが、無事に裸足になった。
炎天で熱くなった浜辺を急ぐように歩き、靴は波の届かない場所に置いて、波を踏む。
「冷たい」
「ああ。気持ち良いな」
スコールが零した言葉に、クラウドは頷いて言った。
寄せては返す波に足を浚われないように意識しながら、スコールが波間を歩く。
何処に行く気があるではないのだろう。
彼はただ、波の冷たい感触を楽しみながら、気の向くままに歩いているようだった。
「余り行くと、バイクに戻る時に時間がかかるぞ」
「判ってる」
「クラゲに気を付けろよ。今年は多いらしいから」
「ん」
スコールはきちんと返事をしたが、気もそぞろなのが判る。
ぱしゃ、ぱしゃ、と水を蹴るようにして歩く足元が、彼の心が弾んでいる事を滲ませていた。
そう言う所を見付けると、どんなに大人びた雰囲気を出していても、まだ17歳の少年なのだと判る。
今朝、スコールは父に何も言わずに、こっそりと家を出て来たと言う。
スコールの父は、愛した女性が子供を産んで亡くなった事すら、知り得ない環境にいたらしく、その為に息子の存在も長らく知らなかったそうだ。
そう言った事実からの罪悪感もあるのか、どうしても息子に過保護にしてしまうようで、スコールにはそれも息苦しさの原因となっているのだろう。
何をしてはいけないとか、門限等が定められている訳ではないけれど、真面目な気質のスコールは、どうしても父の反応が気になってしまうらしい。
だが、気にし続けてしまう事も癪に障るようで、反抗するように、家出同然の行動を取ってしまうようだった。
クラウドがスコールと出逢った時も似たような状態で、心配から過干渉になってしまう父と一緒にいるのが嫌で、ふらふらと街を彷徨っていたのだ。
あれから父の方もスコールの気持ちを慮って、過剰な接触は控えるように努めているそうだが、どうやら元々スキンシップが好きで触れ合う事も好きな性質らしく、抑えてもまだまだスコールには多く感じるらしい。
何処かに出掛ける時にも、何処に行くのか、いつ頃帰るのか、と仕切りに訊かれるのが鬱陶しくて、父が起きてくる前に家を出たそうだ。
それでも、父の為の一日分の食事は用意してきたそうなので、邪見に扱うばかりではなくなっているのは確かだろう。
クラウドは携帯電話を取り出して、カメラを起動させた。
波を楽しむスコールの後ろ姿を映して、撮影スイッチを押す。
カシャ、と言う音が鳴って、スコールが振り返った。
「……あんた、撮ったな?」
「ああ。一枚だけ」
「消せ!」
「それは出来ない相談だ」
駆け寄って携帯電話を取り上げようとするスコールに、クラウドは体を捻って避けた。
確認画面が出ている画面をタッチして、メール画面を起動させ、添付をそのままにして送信する。
宛先はスコールの父親だ。
寄越せ、消せ、と追い回すスコールから逃げていると、早々にメールの返事が返ってきた。
追われているので中身は確認できないが、きっと息子の不在を心配し、けれど自分から連絡を取ればまたぎくしゃくしてしまうからと、どうして良いか判らずにいた父にとって、あの写真は色んな意味で安心したのではないだろうか。
一人息子の居場所が分かった事、信頼できる人間と一緒にいる事、海を楽しんでいる事。
それらが伝わっていれば、今夜スコールが家に帰った時、気まずくなる事もないのではないだろうか。
しかし、スコールにとって、周りのこうした気遣いも、見えてしまうと苦しいのだろう。
だからクラウドはメールを送信した事は言わず、「写真の一枚くらい良いだろう」と言ってやった。
そう言われるとスコールは、ムッとした顔でクラウドを睨み、
「俺を撮るなって言ってるんだ。俺じゃなきゃ別に撮ったって良い」
「それじゃ意味がない。俺はお前の写真が欲しい」
「自分の顔でも撮ってろ!」
「ああ、それもアリだな。しかし一人じゃ詰まらないし、」
言いながら、クラウドはスコールの腕を掴んだ。
ぐっと引っ張って、蹈鞴を踏むスコールを引き寄せて、肩を抱いて携帯電話のカメラを起動させる。
「!ちょ、」
「撮るぞ」
「だから、」
俺を撮るな、と言うスコールに構わず、クラウドは撮影ボタンを押した。
カシャッ、とシャッター音が鳴り、液晶画面にプレビュー画面が表示される。
抜けるような青空と海を背景に、二人の顔がしっかりと記録されている。
「うん、中々良いな」
「良くない。消せ」
「そう言うな。お前との思い出が欲しいんだ」
保存ボタンを押しながら言うクラウドに、スコールが顔の顔が赤くなった。
視界の端で捉えたそれに、可愛いものだな、と思いつつ、もう一度カメラを起動させる。
「スコール、もう一枚」
「な……もう良いだろ。一枚あれば十分じゃないか」
「ピンボケしていた。撮り直しだ」
「……もう好きにしろ」
当たり前に肩に回される腕に、スコールは抵抗を止めて身を預けた。
抵抗を止めてくれたので、幸いとクラウドは先よりも肩を強く抱いて体を寄せる。
ピントをしっかり合わせる為に、撮影ボタンを長押しすると、ピピピ、と電子音が鳴った。
指を離す瞬間に、隣を見て少し赤らんだ頬にキスをする。
え、とスコールが目を丸くすると同時に、液晶画面から指を離して、カシャッ、とシャッターが響く。
プレビュー画面に表示された、キスの瞬間の写真を見て、スコールの顔が沸騰した。
流石にこの写真は、彼の父親には見せられない。
真っ赤になって怒る恋人を宥めつつ、クラウドはそんな事を考えていた。
『クラスコ』でリクエストを頂きました。
特にシチュエーションの指定がなかったので、夏!海!バカップル!を目指してみました。
しばらくスコールは怒ってて、バイクに乗る時もブツブツ言ってるけど、くっついて移動している間に段々どうでも良くなって来る。
誰にも見せるなよって釘だけ差して、撮られた事はもう良いかってなるんだと思う。
そんでクラウドは一人で見て楽しんでるけど、その内見ている所をザックスとかに見付かるまでがテンプレートです。
いつから好きだったのかと言われると、正確には判らない。
けれど、自覚するよりも前からだったのだろう、とは思う。
そんな恋が実ったのだから、嬉しくない筈がない。
同時に、望みが薄いとも思っていた反動から、触れたい気持ちを長らく抑制していた事も確かだった。
となれば、実った瞬間から、その抑制は箍が外れて、これから沢山触れる事が出来る、と言う希望も湧いた。
────が、現実は中々冷たい。
好きだ、と言われて、好きだ、と言って、涙が溢れそうな程に嬉しかった。
まさか彼の方から告白して貰えるなんて思っていなかったし、彼が自分にそんな気持ちを抱いてくれているとも思っていなかったから、喜ぶと同時に、怖がりな彼に踏み越える切っ掛けを作らせてしまった事に、少しだけ申し訳なく思った。
だからこそ、これからは此方が目一杯彼を愛してやらなければ、とも思った。
想いが実った瞬間、喜びのままに、彼を強く抱き締めた。
触れ合う事を苦手としている彼が、それを受け入れ、背中に腕を回してくれたのも嬉しかった。
回された腕が少しぎこちなく震えていたが、彼が一所懸命に応えようとしてくれているのだと判ったから、そんな所も愛おしい。
そして、そのままもっと触れたいと言う衝動のままに、唇を重ねようとして、
「……ちょ、っと…待て……っ!」
両手のガードに遮られたのが、今から一ヵ月前の事。
スコールは元々、接触嫌悪に近い程、他者と触れ合う事を苦手としている。
幼い頃から傍でそれを見ている限り、原因らしい原因と言うのは主立って見当たらないので、恐らく生まれついての性格なのだろう。
ごく限られた安心できる人物を除いて、スコールは手を繋ぐのも嫌がる位に、人との触れ合いが苦手だった。
しかし幼い頃は、それでも誰かの温もりを求めている事は他の子供と同じで、家族にはとかくスキンシップ───と言うよりも抱っこをねだる事は多かったそうだ。
隣の家で暮らしていた頃から、近所付き合いで距離が近かったクラウドにも、彼はよく手を繋ぎたがっていた。
だから、全くの赤の他人と比べれば、近い距離である事を許される立場にはいた筈だ、とクラウドは思っている。
しかし、“幼馴染”や“隣に住んでるお兄ちゃん”としての距離には慣れていても、それ以上に近くなるのは、やはり慣れが必要だったらしい。
スコールと恋人関係になって以来、その微妙な距離感と言うものに、クラウドは少し寂しさを覚えていた。
(いや、別に不満な訳じゃないんだ。恋人同士になって、スコールの意識がそう言う風に変化したから、とも思えるし……)
スーパーで今日の夕飯の材料を買い終わったのが、つい先程の事。
その家路で、クラウドはスコールとほんの少し手を繋いでみようとしたのだが、どうにも上手く出来なかった。
と言うのも、クラウドの指先が手に触れただけで、スコールが手を引っ込めてしまうのだ。
判り易く逃げてしまうので、無理に追って掴む訳にも行かず、クラウドの手は何度目か知れず力なく垂れるしかなかった。
子供の頃は何度も手を繋いだ二人だが、今やクラウドは21歳、スコールは17歳だ。
男二人が当たり前に手を繋ぐような年齢ではないし、人目を気にするスコールが繋ぐのを嫌がるのも判る。
しかし、恋人となって以来、触れたいのに中々触れられない日々を送るクラウドとしては、少しでも早くスコールに“恋人として”のスキンシップに慣れて欲しいと言う願望がある。
スコールの逃げていた手が元の位置に戻ったのを見て、クラウドはもう一度チャレンジした。
隣を歩くスコールの手に、手の甲を当てると、スコールの肩がビクッと跳ねる。
赤い顔で蒼い瞳が右往左往するのを横目に見ながら、小指に人差し指を絡めると、スコールの手は判り易く強張るが、今度は逃げなかった。
その事に少し安堵して、辿るようにゆっくりとした動きで、クラウドはスコールの手を握る。
「……おい……っ」
「少しだけだ」
「……っ」
クラウドの言葉に、スコールははくはくと唇を震わせた後、俯いた。
繋いだ手に緩く握り返される感触があって、クラウドの胸がぽかぽかと温かくなる。
堂々と手を繋げない間柄である事は、悲しいが今は致し方のない事だ。
それなのに繋ぐことを許されること、人一倍他人の目を気にするスコールが振り払わない事に、クラウドは感謝する。
だからスコールには余り無理をさせないように、クラウドは10秒きっかりを数えて、そっと繋いでいた手を離した。
離した瞬間にスコールの唇から漏れた息が、安堵の溜息なのか、寂しさなのかは、まだ判らない。
クラウドが一人暮らしをしているアパートに着くと、スコールは早速夕飯の準備を始めた。
いつの間にか持ち込んで置いていくようになったエプロンを身に着けて、手際よく肉野菜炒めを作る。
その間クラウドは特にする事もなく、キッチンに立つスコールの後ろを姿をじっと眺めていた。
程なく出来上がった二人分の食事を、小さな卓上テーブルに乗せて、テレビを眺めながら食べて行く。
スコールが家に来るようになるまでは、カップラーメンばかりで毎日を凌いでいたのが嘘のような、健康的且つボリューミーな夕食に舌鼓を打った。
食べ終わると片付けもスコールが行い、その間にクラウドは風呂に入る。
毎日の習慣で言えば早すぎる入浴時間だが、今日はスコールが泊まる日で、彼は明日は学校があるからと早めに就寝しなければならないので、何事も前倒しになっている。
本当は土日にスコールを泊まらせてやりたかったのだが、色々な都合が重なって平日の今日になったのだ。
クラウドと入れ替わりにスコールが風呂に入っている間に、クラウドは押し入れから予備の布団を出した。
スコールが泊まりに来た時にだけ使われる予備の布団を、自分のベッドの横に並べて敷く。
(さて……)
敷き終わった布団の上に腰を下ろして、クラウドはスコールが戻って来るのを待った。
五分を過ぎ、そろそろ十分になるかと言う所で、風呂のドアが開く音がする。
ぺたぺた、と裸足の足音がして、スコールが寝室に入り、布団の上に座っているクラウドを見てぴたっと固まった。
もう初めての事ではないのに、と思いつつ、クラウドはスコールに手を伸ばし、
「スコール」
おいで、と言うように名を呼べば、スコールは赤い顔を俯けた後、のろのろと歩き出した。
湯に温まって火照った手が、ゆっくりとクラウドの下へと伸ばされる。
指先が触れ合っただけで固まってしまう手を捕まえて、クラウドはスコールの体を自分の方へと引っ張った。
「わ……!」
「おっと」
倒れ込んできた体を受け止めて、クラウドはスコールを自分の膝の上に乗せた。
余りに近い距離に気付いたスコールが顔を真っ赤にして、反射反応のように逃げようとするのを、腰を抱いて捕まえる。
「クラウド……!」
「うん」
「……っ……!」
咎めるように名を呼ぶスコール。
それに短い返事だけを返して、クラウドはスコールの頬に手を当てた。
途端にスコールは耳まで真っ赤になって、耐え切れないと言うように目を閉じる。
膝の上で縮こまって固くなっているスコールに、可愛いな、とクラウドの唇が緩む。
しっとりと水分を含んで額に張り付いている前髪を撫で上げて、露わになった額にキスをした。
すると、スコールはその感触を恥ずかしがって、ぶんぶんと頭を振ってしまう。
(本当に、初心だな)
何をするにも一度は強張ってしまうスコールを見る度、クラウドはそう思わずにはいられない。
時折、可哀想な程に赤くなってしまう事もあり、早く慣れてくれると良いんだが、とクラウドは独り言ちる。
恋人同士となってから、クラウドがほんの少しでも触れる度に、スコールは真っ赤になって恥ずかしがる。
しかしクラウドとしては、やはり好きだからこそ触れたい。
手を繋ぐのは勿論、肩を抱いたり、キスをしたり、もっと先の事もしたかった。
だがスコールを傷つけるのは本意ではないから、こうやって少しずつ少しずつ触れて、スコールに恋人としてのスキンシップに慣れて貰おうとしているのだ。
一ヵ月のクラウドの努力を経て、未だに恥ずかしがってばかりのスコールだが、これでも初めに比べれば随分とマシになった。
手を繋いでも振り払われないし、肩を抱いても逃げないし、キスをするのも拒まない。
触れるだけの柔らかいキスを頬に貰うのなら、段々と気持ち良くなってきたようで、繰り返し口づけている内に、ぼんやりとした瞳を浮かべるようにもなった────丁度、今のように。
「……スコール」
「……ん……っ」
腰を抱いて、手を握って、耳元に触れるだけのキスをする。
かかる吐息がくすぐったいのか、ピクッ、とスコールの体が小さく震えたのが判った。
いつかもっと触れ合いたいからと、慣れて欲しいと言ったのはクラウドだ。
スコールも望んでいない訳ではなかったから、少しずつなら、と頷いた。
それ以来、こうしてささやか過ぎる恋人同士の触れ合いを繰り返している。
腰を抱いていた手を少し滑らせて、背中を撫でた。
と、スコールの体が判り易く強張って、ふるふると頭を振る。
やだ、と言葉なく訴えるスコールに、やはりまだ早いか、と寂しく思いつつもクラウドは手の位置を元に戻した。
詫びの代わりに、スコールが嫌がらないと判っている額、瞼、頬にキスを重ねて行く。
「あ…んん……っ」
(…声が少し…辛いんだが。自覚はないよな)
キスをされる心地良さで、スコールの唇から漏れる声。
クラウドには中々に刺激的な声なのだが、言えばきっと慣れてしまったキスの事までリセットされてしまうので、クラウドは努めて知らない振りをする。
一頻りキスをして、クラウドは───物足りなさには蓋をして───満足した。
ぼんやりとしているスコールの頭を撫でて、抱き上げてベッドへと運んでやる。
「今日は此処までだな」
「……ん……」
「ありがとう、スコール」
「……別に……」
感謝の言葉を告げるクラウドに、スコールは目を逸らしつつ、赤い顔で俯いた。
スコールが泊まる時、ベッドはいつもスコールに譲っている。
明日はスコールの学校の為に早めに起きないといけないな、と思いつつ、クラウドは布団へと戻ろうとしたが、くん、と服を引っ張られる感覚に引き留められた。
「スコール?」
「………」
振り返ると、スコールがクラウドの服の端を掴んでいる。
視線は俯いたままベッドシーツを見詰めていたが、唇が何度か開閉を繰り返した後、蒼灰色がクラウドへと向けられた。
「クラウ、ド」
「なんだ?」
「……あ、……」
意を決した表情をしていたスコールだったが、また直ぐに俯いた。
掴んだ手は離れていないので、何かを言おうとしているのは確かだろう。
クラウドは急かす事なく、スコールの次の反応を待った。
ぎゅ、と服端を握る手に力が込められて、再度スコールが顔を上げる。
「俺も……キス、して…良いか……?」
「……!」
スコールの言葉に、クラウドは目を瞠る。
蒼の瞳が、緊張と不安の混ざった瞳で、それを見返していた。
────クラウドがしてくれるキスは、最初こそスコールを緊張させるばかりだったが、繰り返される内に段々とそれは解けていった。
それから最初に感じたのは、こんな事をしてクラウドは楽しいんだろうか、と言う疑問。
口に出さない疑問に答えは出ないまま、クラウドとのスキンシップは繰り返され、次第に彼に触れられると仄かな安心を感じるようになった。
キスをされるのもそれと同じで、クラウドの唇が触れた所が、ほんのりと温かい。
何度も与えられている内に、次第にその温もりが愛しくなって、心地良くなって、好きになった。
同じものを、クラウドにも与えられたら良いのに、と思う位に。
だからスコールは思い切って、キスをしてみようと思ったのだ。
いつも与えられているばかりのものを、ほんの少しでも良いから、クラウドに返したい。
触れ合う事が苦手な自分に根気強く付き合ってくれる事へ、感謝も込めて。
スコールのそんな気持ちをクラウドが全て読み取る事はなかったが、それでも、思わぬタイミングでの恋人からの言葉に、嬉しくない訳もなく。
「……良いぞ」
それだけ答えて、クラウドはベッド端に腰を下ろした。
少しの間をおいて、ぎし、とベッドの軋む音が鳴り、スコールがクラウドへと近付いていく。
緊張を誤魔化したいのだろう、縋るものを求めるように、スコールの手がクラウドの肩に乗せられる。
僅かに震えているのが判ったが、クラウドは敢えて何もせずにスコールのタイミングを待った。
スコールは小さく息を飲んで、深呼吸をなぞって細く長く息を吐いてから、ゆっくりとクラウドの横顔に自分の顔を近付ける。
─────ふ、と。
本当にほんの一瞬、触れるだけのキスが、クラウドの頬を掠めた。
今したのだろうか、と尋ねたくなるようなバードキスが、今のスコールの精一杯だ。
「……ク、ラ…ウド……」
「……ああ」
反応が気になって、名を呼ぶスコールの声が震えていた。
それを安心させてやる為に、クラウドはスコールの肩を抱き寄せて、耳朶にキスをする。
「ありがとう、スコール」
「……っ……!!」
クラウドの囁く声を聴いて、スコールは完全に沸騰した。
勢いよくクラウドの体を押し退けて、シーツを引っ掴んで包まって、布団の中に逃げ込む。
ミノムシのように真っ白なシーツに包まった恋人に、クラウドはくすりと笑みを漏らした。
『クラスコで恋仲になったばかりでまだキスやら何やら慣れないスコール』でリクエストを頂きました。
鋼の理性でスコールが慣れるまで無理はするまいと頑張ってるクラウド。
でも時々スコールの方から自覚なく理性崩壊させようとして来る。
頑張れクラウド。きっといつか報われる。その時は一杯触れば良いと思います。
「スコールって、案外サイファーの事が好きだよね」
「……は?」
提出された報告書をチェックしている所に、そんな言葉が振ってきて、スコールは頗る不愉快な顔をして見せた。
それを見たアーヴァインは、酷い顔だなぁ、と苦笑する。
「いや、ね。二人って、随分距離が近いなぁと思ってさ」
アーヴァインが指摘したのは、スコールとサイファーの日々の過ごし方の事だ。
スコールは何かとパーソナルスペースが広い為、必要以上に他者と距離を縮める事を嫌う。
その際の物理的な距離は、大体にして彼と相手との精神的距離を映し出しているものだった。
だから幼馴染のメンバーとは比較的距離が近く、ゼルやセルフィが話しかけてきた時に前のめりになってきても気にしないし、リノアが抱き着いて来る事は全く構わない。
イデアが肩に触れたり、手を握ったりする事も、あまり得意ではないが、記憶を取り戻した今は幼い頃の名残もあって、強く嫌がる事もなかった。
しかし他人に対しては、今でも判り易く距離が開き、見えない壁を一枚挟んでいるように見える。
スコール自身は恐らく意識していないのだろうが、彼が心を乱さず相対できる状態、と言うのは、他人に対してはどうしてもそこそこの距離が必要であった。
そして先の話題に上った人物───サイファーであるが、彼も彼で案外縄張りが広い。
スコール程顕著に他者の接近を嫌う事はしないが、己のテリトリーに近付く事を許す相手は選んでいた。
取り巻きの風神と雷神は勿論近いが、それ以上に近い者と言ったら、彼に対して遠慮をしないリノアやセルフィ位ではないだろうか。
最も、リノアは元から割と誰に対しても壁を作らないし、セルフィも同様な上に幼馴染なので、彼女達は一般枠から外しておいた方が良い。
ついでに、サイファーはバラムガーデンで“風紀委員長”として有名なので、周りが怖がって遠巻きにしているので、結果的にサイファーのテリトリーは広く取られてしまうのだ。
危険なものがいると判っているのに、うっかり近付いて蛇に絡まれるのは誰でも嫌なので、サイファーに近付く人間は限られているのである。
こうして考えると、スコールにしろサイファーにしろ、お互いにパーソナルスペースは広いのだ。
それなのに、二人が話をしている時、その距離はいつも必要以上に近い。
そう、必要以上に。
「さっきサイファーが此処にいた時、何か話をしていたけど」
「来週の任務の打ち合わせだ」
「お疲れ様。その時にも凄く近かったじゃない。スコールの肩にサイファーが腕を乗せててさ。顔近付けあってて」
「あいつが俺の持ってる書類を見てただけだ」
「何か確認してたのかな。だけど、それってスコールから書類を借りれば良いだけじゃない。その方が見易いと思うんだよね」
「面倒だったんだろ。横着者だから」
歯に衣着せないスコールの言葉に、アーヴァインはどうかなぁと笑う。
確かにサイファーは細かい事を面倒臭がる所があるが、任務や作戦の事となると、スコールとは違う視点で細かい所を気にする。
任務に関して大事な事だと思っていれば、自分で動くのはそれ程嫌わない。
書類一枚をスコールの手から借りる位、一々厭うような事でもないだろう。
「それでさ。スコールもそれを好きにさせてるじゃない」
「……邪魔だぞ。あいつはデカいから」
「まあね。背も高いし、体も大きいし。幅利かせて立つ癖もあるし」
サイファーは昔から、仁王立ちで立つ癖がある。
両足を肩幅に開いてどっしりと構えた風の立ち姿は、アーヴァインの記憶に残る幼い彼とそっくり重なる。
其処に愛用の白コートの裾が拡がるので、アーヴァインは時々、動物が体を大きく見せる為に飛膜を拡げる光景を思い出していた。
何かと横に立つ事が多いスコールにとっては、己のテリトリーを侵食されるようで、聊か気分は良くないのだろう。
並び立つと彼の体格の所為で、自分が細く見えてしまう───対照的な色による印象の違いもあるが───のも、スコールには少し引っ掛かっているかも知れない。
しかし、だ。
「でも、邪魔とは言うけど、振り払わないだろ?」
仕事の邪魔なら押し退けるが、其処までの場面でもなければ、スコールはサイファーを好きにさせている。
サイファーが何処で何をしていようと、自分のデスクを勝手に占拠しようと、ささくれ立つ事は少なかった。
と、アーヴァインは思うのだが、本人の視点ではまた違う。
「振り払ったとして、あいつが反省すると思うか?」
「思わないなぁ」
「邪魔なものは邪魔なんだ。でも追い払っても、五分後にはまた来るし、俺の部屋にも勝手に入るし。あのデカい図体が同じ部屋にいるって鬱陶しいぞ。あんたも一度味わってみるか」
「それは勘弁かな~。僕もそこそこ大きいし、部屋が小さくなっちゃうよ。おまけにサイファーと二人きりなんて、繊細な僕にはとても耐えられない」
「どうだかな」
あんたは繊細な割に図太いから、と言うスコールの言葉は、誉め言葉として受け取っておこう。
眉尻を下げて困ったように笑いながら、アーヴァインはそう思った。
「と言うか、僕と二人きりなんて、サイファーが絶対嫌がるだろ」
「だろうな。ヘタレが伝染る、とか言って」
「酷いよな~、でも言いそう。すぐ想像できる。ついでに聞くけど、スコールは僕と同室ってどう思う?」
「別に、どうでも」
「僕もサイファーと同じ位には身長あるよ。邪魔にならない?」
「あんたはあいつみたいに煩くないし、ベタベタしないだろ」
「そりゃあね」
君が許してはくれないだろうから、とアーヴァインは胸中で呟いた。
例えば、アーヴァインがサイファーやリノア、セルフィのようにスコールに近付いたとして。
最初の一回目は何かの気まぐれか、セルフィに感化されたかと流すかも知れないが、二回目はきっと許されないだろう。
普段から其処まで距離を近付けて会話をしている訳ではないし、スコールもアーヴァインも、お互いが適度に緊張を持たず過ごせる距離感と言うものを保っている。
それを踏み越えて相手のエリアに侵入した場合、スコールが何事かと身構えるのは間違いないだろう。
アーヴァインとて、スコールが突然ゼロ距離まで近付いてきたら、何があったのかとパニックになるに違いない。
それを思うと、やはりサイファーに対してだけ、スコールは許容範囲が広いのだと判る。
場に応じた適切な距離もありながら、その必要がない場面では、妙に距離感が近い。
それは其処まで近付く必要のある事?と傍目に見て不思議に思う事は少なくないのだ。
そしてサイファーもまた、スコールに対してだけ、距離感が可笑しい。
スコールに対して行っている事を、サイファーは他人には絶対にやらない。
噛みついて来るゼルや、懐いて来るセルフィを適当にあしらう事はあっても、自分からあの二人に積極的に近付く事はないだろう。
サイファーから二人に行く時は、腕一本を伸ばしても余る程度の距離感が保たれている。
風神や雷神はもう少し近かったように思うが、それでも基本的に距離を近付けてきているのは二人の方で、サイファーから密着しに行く事は殆どなかったように思う。
恐らく、あれがサイファーにとっての他者に対する適切な距離なのだろうが、スコールだけはこれがないのだ。
当たり前に隣にいて、遠慮も配慮もせずに寄りかかったり────アーヴァインは、サイファーがスコール以外にそんな事をしている場面は見た事がない。
(うーん。これは……)
少しばかり認識の改定が必要か。
そんな事を考えているアーヴァインの前に、ぴらり、と書類が差し出される。
「え。何、これ」
「暇そうだから」
「え~っ、もう次の任務?ちょっと休ませてよ」
「休む時間ならある。それの出発は明後日だ」
「そう言う事じゃないんだけどなぁ」
「人手不足なんだ」
「だろうね」
人手不足でなければ、ガルバディアガーデンから転入したばかりの人間を、試験抜きでSeeD採用なんてしないだろう。
半ば押し付けられたものとは言え、指揮官職の人間が度々出掛けなければならない位、SeeDは人が足りていない。
過労で倒れたら労災って出るのかなあ、とボヤきつつ、出るとすれば真っ先に使う事になるのは目の前の人物だろうな、と思った。
新たな任務の内容をざっと見て、任務地がティンバーと呼んでホッとした。
ティンバーなら当日の出発でも十分なので、明日一日はのんびり休めるだろう。
折った書類をコートのポケットに入れて、アーヴァインは退室する事にした。
それじゃあ、と言って踵を返したアーヴァインに、スコールからの返事はない。
聞こえているだろうから良いよね、と思いつつ歩き出そうとして、ふと無人のデスク───サイファーのデスクが目に留まった。
「……ねえ、スコール」
「……なんだ」
「今日、仕事が終わるのは遅い?」
「多分な。書類が溜まってる」
「そっか。サイファー、今日は君の部屋にいるかな?」
「…何か用事でもあるのか」
「ううん。ちょっと聞いてみただけ」
「………」
背中に突き刺さる胡乱な視線に、アーヴァインはこっそりと笑う。
自分の部屋にサイファーがいるかどうかについて、いないと否定はしないんだな、と。
「やっぱりスコールってサイファーの事が好きだね」
「なんでそうなる」
「色々考えたら、やっぱりそうなんだろうと思ってさ」
アーヴァインの言葉に、スコールが深い溜息を吐く。
コツ、コツ、とペン先が机を小突く音を聞いて、アーヴァインはなんとなく振り返った。
ペン先の音は幼馴染を振り向かせる意図ではなかったのだが、振り返ったのなら、と蒼がアーヴァインを映す。
「俺がサイファーを好きなんじゃない。あいつが俺を好きなんだ」
「へえ。そうなの」
「ああ。本人がそう言っていた」
スコールの言葉に、それはそれは、とアーヴァインは肩を竦める。
二人の会話は其処までで、アーヴァインは指揮官室を後にした。
……サイファーがスコールの事を好きとするなら、確かにそうなのだろう。
サイファーは明らかにスコールの存在を強く意識しているし、何に置いても無視はしない────出来ない。
しかし、それを言うなら、とアーヴァインは再三思う。
(僕には、どっちもどっちに見えるよ)
あいつが俺を好きなんだ、とスコールは言った。
アーヴァインは頭の中で、その台詞を話題の片割れに置き換えてみた。
そっくりそのまま同じ台詞を同じトーンで返すのが想像できて、堪らず噴き出す。
要するに彼らは、互いが互いを好きなのだ。
羨ましいなあ、と思いつつ、いやそうでもないかな、とアーヴァインは思い直した。
『サイスコで、サイファーがスコールを好きでしょうがない話』のリクエストを頂きました。
肝心のサイファーが不在です、すみません!
傍から見れば見る程、お互いが好きな二人にしてみました。アーヴァインは無自覚の惚気に当てられています。
現代パロディで、フリオニール×スコール→誰か、と言う設定。
どうして、と思わずにいられない。
どうして、そんなに苦しい事を続けているんだろう、と。
自分も同じ事をしていると判っていて、それでも、どうして、と思う。
スコールが彼に好意を寄せている事は明らかだった。
けれど、本人がそれに気付いていない。
元々人と関係を構築する事について、酷く消極的な性格である彼の事だ、自分にそんな感情があるとも思っていないのだろう。
更に言えば、幼い頃から自分に自信が持てない所があるから、自分の好意なんてものは他人にとって迷惑でしかない、と考えていても可笑しくない。
フリオニールにしてみれば、そんな事はないのに、お前に好きだって言われたらきっと誰でも嬉しくて堪らないだろうに、と思う。
けれど、そんなスコールだからこそ、フリオニールは心の何処かで安心していた。
他者と余り密接な関係を持ちたがらないスコールが、幼馴染だからと言う理由で、フリオニールとは距離が近い。
家族以外で、家族と近い、ひょっとしたらそれ以上に距離がないかも知れないポジションを、フリオニールは唯一許されていた。
その事に気付いた時、本当ならもっと沢山の人に愛されている事に気付かないスコールに、勿体ないと思う反面、彼と一番近い場所にいられるのが自分だけだと言う事に、密かな喜びを感じてもいた。
しかし、変化は突然やって来る。
ふらりと現れた人物に、スコールの心は奪われた。
ある意味で、“彼”はスコールの自分自身の理想像に近かったのだろう。
最初は恐らく憧れや羨望から始まったそれは、“彼”との距離が少しずつ近付くにつれ、形を変えて行った。
憧れの気持ちから、近くに行きたいけれど怖い、と言う気持ちで二の足を踏むスコールを、フリオニールは何度も背を押した。
それは純粋な厚意からで、少しでもスコールの喜んだ顔が見たかったからだ。
挨拶どころか、目も合わせられない程の距離から始まった“彼”とスコールの関係は、フリオニールの後押しを受けて、徐々に縮まった。
個人的に連絡を取り合う事も増え、フリオニールが間に入らなくても、会話が成立するようになった。
“彼”から送られてくるメールや電話、逢おうと約束した日が近付くと、そわそわとするスコールは、まるで遠足を前にした子供のように素直で判り易く、フリオニールの笑みを誘う。
スコールは他者との関係を強く求めない気質もあって、スコールの交友関係と言うものは極々限定されていた。
子供の頃からそれは発揮されており、沢山の子供達が遊ぶ公園に行っても、フリオニール一人の傍から離れない。
それも、フリオニールが他の子供達と遊んでいると、自分からフリオニールの下に駆け寄って行く事も出来ない消極さで、二人きりになれる時でなければ、自ら幼馴染に声をかける事さえ出来なかった。
輪に入れて、とも言えず、フリオニールと一緒に遊ぶ、と言う事も人数が多ければ言い出せないスコールに、フリオニールが先回りしてスコールと接触を保つようにしたのは、一体いつからだっただろう。
結構早い内だった、とフリオニールは記憶している。
それ以来、フリオニールは何をするにもスコールの気持ちを確認し、余程の事でなければ彼を優先するようになった。
そうする事でスコールは安心してフリオニールの傍にいる事が出来、フリオニールを介して自分の世界を拡げて行った。
スコールの世界は、隣に必ずフリオニールがいる事で、始まっていたのである。
だが、スコールももう高校生だ。
いつまでもフリオニールばかりにべったりしていられる訳ではないし、学校では同級生と話をしている場面も増えた。
フリオニールが傍にいなくても、彼の世界は確かに外と繋がっているのだ。
それを思えば、スコールが突然現れた“彼”に恋をしたのも、彼の世界がまた一つ広がる切っ掛けになったと言えるだろう。
だからフリオニールは、そんなスコールを見て喜んだ。
彼が夢中になる人が出来た事、恋をしている事、その関係を少しでも良い方向へと向けたいと、少しずつ、自ら動き出している事。
何をするにも、フリオニールの後押しがなければ出来なかった時の事を思えば、これは良い変化だ。
フリオニールとて直に大学に進み、今以上にスコールと過ごせる時間が減るのだから、いつまでも幼馴染同士だけで過ごせる訳ではない。
だから、これは良い事だ。
良い事なのだ。
────そう自分に言い聞かせているけれど、ふとした瞬間に涙を流すスコールを見る度に、胸が痛くて苦しくなる。
嵐でも来るのだろうか、と思うような悪天候の中、バイト終わりの家路を歩くフリオニールは、その途中で公園のベンチに座っているスコールを見付けた。
直に更に雨が激しくなると予報で言っていたのに、スコールは傘も差さずに、ぼんやりと空を見上げている。
そのまま曇天の向こうへ吸い込まれていきそうなスコールを、フリオニールは思わず立ち尽くして見詰めていた。
空を見詰めていた蒼の瞳が、ゆっくりと瞬きをして、頬に雫が伝い落ちる。
それが雨なのか、それ以外のものなのかは判らなかったが、フリオニールを正気に戻すには十分だった。
「スコール!」
水溜まりを跳ねさせて駆け寄り、名前を呼んだ。
降りしきる雨に掻き消されないように大きな声で呼んだお陰で、声は彼に届いたらしい。
スコールは酷く緩慢な動きで、ゆっくりと、茫洋とした瞳を此方へ向けた。
「……フリオ?」
ことん、と首を傾げて、スコールは幼馴染の名を呼んだ。
それきり動く様子のないスコールを、フリオニールは自分の傘の中へと入れる。
「何してるんだ、こんな所で。びしょ濡れじゃないか!」
「……あ」
フリオニールの言葉で、スコールは自分の体を見下ろした。
雨水を吸ってすっかり重くなった服を見て、ようやく自分の状態を認識したような声を漏らす。
これは放っておいてはいけない、とフリオニールは直ぐに判断した。
フリオニールはスコールの手を引き、少し強引に彼を公園から連れ出した。
スコールは特に抵抗する気配もなかったが、歩く事自体が億劫なようで、足取りが重い。
いつもの歩調で行けば、五分とかからない道程を、スコールに合わせてゆっくりと歩いた。
背負った方が早いとは思ったし、何度かそれを伝えて背負うから、と言ったが、スコールは反応しなかった。
フリオニールがしゃがんで促しても、立ち尽くしたまま、動こうとしないのだ。
手を引かれて、雛のように歩く事だけが、今のスコールに出来る事だった。
両親がいないフリオニールは、幼い頃は養護施設で育ち、高校入学と同時期に独り暮らしを始めた。
日々のアルバイトは学費と生活費を賄う為に必要不可欠なもので、これも高校入学以来、スコールと逢える時間が減った理由にもなっている。
それでも、フリオニールの家の鍵はスコールも持っているから、アルバイトから帰ってきたらスコールが家で勉強していた、夕飯を作っていた、と言うのはよくある事だ。
特に最近は、思春期になって過保護な父にスコールが複雑な気持ちを抱いている事や、密かに思う“彼”の話を聞く事もあって、幼い頃程ではないが、逢う時間は頻繁に設けられていた。
築三十年と言うアパートは、壁も薄く、屋根はトタンになっていて、雨が降ると音がよく響く。
しかし、五年前に全部屋の風呂がシステムバスへとリフォームされたお陰で、風呂場だけは綺麗でしっかりしていた。
スコールを連れ帰ったフリオニールは、真っ先にスコールの服を脱がせて、風呂場に入れる。
服を脱がせる時に嫌がるかと思えばそうではなく、スコールは大人しくフリオニールにされるがまま裸になり、湯を貯めている最中のバスタブへと入れられた。
それからフリオニールは、バスタブ横に膝をついて、小さな湯桶で掬った湯をスコールの肩からかけてやる。
「熱くないか?」
「……ん……」
全身を雨に晒していたスコールの体は、かなり冷え切っている。
寒い時期ではないとは言え、あれだけ濡れていたのだから当然だ。
フリオニールは、スコールが心地良く過ごせるよう、熱過ぎず温過ぎずと言う温度で湯を貯めて行く。
フリオニールはタオルを持ってきて湯舟に浸し、絞って余分な水気を切って、スコールの前に差し出した。
「顔、拭いた方が良いぞ」
「……ん……」
「頭も後で洗おう」
「……うん……」
フリオニールに渡されたタオルを、スコールは自分の顔へと押し付けた。
タオルを握りしめるように掴んで、顔を埋めて息を殺している。
「…スコール」
「……っ……」
「スコール。良いから。我慢するなよ」
くしゃ、と濃茶色の髪を撫でると、ひく、と喉が引き攣る音が聞こえた。
本当は声を上げたいのだろうに、上げたくないとも思っていて、押し殺そうとしているのが判る。
きっと自分が此処にいるから泣けないのだ、とフリオニールも判っていたが、今のスコールと一人にする事は出来なかった。
(……“あいつ”と何かあったのか?)
声に出さずに訪ねても、スコールからの返事はない。
しかし、声に出したとしても、きっとスコールは「何もない」と首を横に振るだろう。
そう、何もないのだ。
スコールと“彼”の間に、特別な事は何もない。
スコールが“彼”を特別に思っているだけで、二人の関係は、“彼”がスコール以外のその他大勢と繋がっている事と大差ない。
傍目に見れば、“彼”もまたスコールを少し特別に見ているかも知れないけれど、それはスコールが抱いている感情と同じではないのだ。
それが時折、スコールを酷く苦しめる。
ざぷん、と言う音が鳴って、スコールがたっぷりと溜まった湯の中に頭を沈めていた。
そのまましばらく顔を上げないスコールに、おい、とフリオニールが肩を掴んで引っ張り起こす。
「っぷは……!はっ、は…けほっ、げほっ……!」
「スコール、危ない事するな!」
「…はっ…は……、ふ……っ」
咳き込むスコールを叱り宥めると、スコールはふるふると頭を振る。
いやだ、と駄々をこねているような仕草だったが、何に対して“嫌”と主張したのかはよく判らない。
今は干渉しないでくれ、と言う事だろうか。
恐らくはスコールを落ち着かせるにはそれが一番なのだろうとは思うのだが、余りに不安定な様子のスコールを見た所為か、目を離した瞬間に溺死でも試みそうで、フリオニールは傍を離れてはいけないと思っていた。
湯に沈んでいたタオルを取って絞り、スコールの顔を拭いてやる。
いやいやと逃げようとするスコールの頬を捕まえて、前髪を掻き上げてやった。
湯の熱でほんのりと赤らんだ顔に、珠粒の雫が伝い落ちて、スコールの頬を流れて行く。
涙に似た軌跡を辿るそれを見て、フリオニールは息を詰まらせた。
「……は…う……っ、……ふぅ……っ」
ひっく、ひっく、としゃっくりの音が聞こえる。
スコールは、眦に浮かんだ涙を零すまいと、必死で目を開けていた。
けれども堪え切れずに瞬きをすれば、大粒の雫が溢れ出す。
「ス、」
「見るな……!」
伸ばされたフリオニールの手を、スコールは打ち払った。
顔を背けて涙を隠そうとするスコールの姿に、フリオニールの胸の奥で、ぎりぎりとした痛みが走る。
(なんで、また)
(また泣いてるのに)
(俺じゃ駄目なんだ)
“彼”との関係について、スコールは多くを望んでいない。
自分が“彼”の傍にいても、“彼”の重荷にしかならないと思っているからだ。
しかし、スコールは少なからず、他者に依存してしまう性質を持っている。
幼馴染のフリオニールと言う存在に長らく寄りかかっていた事が当たり前だったように、スコールは自分の身を安心して預けられる存在が欲しいのだ。
好意を持った相手に対しても、そうした感情は芽生えており、出来る事なら自分と一緒にいて欲しいと思っている。
だが、それを望めば相手を自分に縛り付けてしまうから、それは嫌だ、と言うジレンマがあった。
フリオニールがスコールの事を其処まで理解できているのは、スコール自身が“彼”との関係についてフリオニールに相談したから、と言うのも理由の一つだ。
人との付き合い方が判らないスコールは、何をするにもフリオニールに相談していた経験がある。
それと同じ流れで、スコールは“彼”と親しくなりたいと言う気持ちを、フリオニールに吐露していた。
フリオニールもその気持ちを汲み、スコールが喜んでくれるならと、二人の間に立って仲立ちをしていた時期もあった。
けれど、親しくなるにつれ、スコールはもっと“彼”と近付きたいと思うようになった。
しかし、スコールがどんなに望んでも、“彼”はスコールを今以上に特別視はしないだろう。
“彼”にとって特別な人物と言うのは、既に存在しているのだから、スコールがその場所を奪おうとしない限り、現状が変わる事はない。
そしてスコール自身も、これ以上の大きな変化を望める程、強くもなかった。
今の距離感だから“彼”に嫌われる事もなく、逢った時に邪見にされる事もなく、そして今以上に距離が離れる事を怯える必要もない。
今の“彼”との距離感が、スコールが耐えられる───と思っている───距離なのだ。
だが、結局は“耐えている”だけだ。
折々に見てしまう、“彼”と特別な関係を持つ人物との光景を見ては、募る羨望と嫉妬に焦がされる。
「う……うぅ……っ、うぁあ……っ」
堪え切れなくなったのだろう、スコールの喉から痛々しい声が漏れている。
こうして声を上げて泣くスコールを見るのは、フリオニールも久しぶりだった。
幼い頃は泣き虫だったスコールは、成長していくに連れ、感情を素直に吐き出さなくなった。
半分は自分で意識しての事だが、もう半分は、意識して抑え込んでいた事による弊害だろう。
吐き出すべき感情すら、スコールは溜め込んでしまうようになったのだ。
その姿が、フリオニ─ルは痛々しくて苦しくて仕方がない。
スコールをこんなにも涙させる存在を、決して厭ってはいけないと思いながらも、憎まずにはいられない程に。
「……スコール」
「……っ!」
名前を呼んで、フリオニールはスコールの体を抱き寄せた。
濡れたスコールの背中が、フリオニールの胸に触れて、服のじっとりと染みを作って行く。
スコールを腕の中に閉じ込めて、フリオニールはピアスを刺した耳元で囁いた。
「スコール、もう止めよう」
「……は…?」
「あいつを見るのは、もう止めよう。スコール、ずっと苦しそうだ」
見てられない、と言うフリオニールに、スコールの顔がかぁっと紅くなる。
自分のみっともない姿を見られている、と言う事への恥ずかしさもあったが、それ以上に、全てを知っていて「やめろ」と言った幼馴染の言葉が許せなかった。
「あんたに…っ、あんたに何が判るって、」
「判る」
「!」
言葉を遮るように告げられたフリオニールの声に、スコールの動きが止まる。
抱き締める腕の力が強くなるのを感じて、ビクッとスコールの体が震えた。
背中から滲む、常にない雰囲気に、ゆっくりと振り返ってみれば、真っ赤に燃える紅に射貫かれた。
「あいつじゃなくて、俺を見てくれ」
「な……」
「俺は全部判ってる。スコールの事、全部」
「……」
「だから俺なら、スコールを泣かせたりしない」
見開いた瞳に、フリオニールの顔が映り込んでいる。
その目を真っ直ぐに見詰めながら、狡い事をしている、とフリオニールは自覚していた。
スコールは縋れる人が欲しいのだ。
寄りかかっても良いと自分が思える人が欲しくて、それは幼い頃からフリオニールへと向けられていた。
フリオニールなら怒らない、嫌がらない、きっと一緒にいてくれる────培われた経験から、スコールはその対象を無意識に選び、フリオニールへと定めていた。
家路へと向かう路で、スコールがフリオニールの手を振り払う事なく大人しくついて来たのも、フリオニールならどんな自分でも拒否される事はないと思っているからだろう。
情けない姿を晒しても、幻滅される事もなく、無理な発破をかけられる事もない。
弱いままの自分を嫌わずに、見捨てずに、傍にいてくれる人を、スコールはずっと欲している。
────だから、スコールがフリオニールを拒む事はない。
────出来ない。
待て、と言う声が聞こえたけれど、フリオニールは無視する。
重ねた唇が拒否される事は、なかった。
『珍しく嫉妬したフリオなフリスコ』のリクを頂きました。
珍しくと言うか大分拗れた嫉妬話に……あれ……!?
スコールが恋したのは年上の誰かですが、“憧れの人”と“傍にいたい人”は別かも知れない。
憧れの人には近付けないし、一緒にいると自分の劣等感が増すので、多分スコールは見ている位が丁度良い距離感。
でも自分を特別視して欲しい気持ちも少なからずあって、拗らせた。
↑と言うスコールをずっと見ていたので、フリオニールも大分拗らせている。
一家の愛を一身に受ける末っ子が、幼稚園に通う年になった。
大人しい性格で、家族以外に殆ど懐く事がなく、人見知りの激しいスコールが幼稚園に入ると決まった時には、兄と姉は随分と心配したものだった。
元々が弟に対して多分に甘い所のあるレオンとエルオーネである。
生まれてこの方、家族と一時だって離れ離れになった事のない弟が、家族が誰もついて行けない所に行く事が、彼らには酷く不安になったようだ。
エルオーネはともかく、レオンは妹の時にも同じように心配したのだが、結果としてエルオーネは幼稚園と言う場所を初日から存分に楽しんでいたのを見ているのに、やはり不安の種は尽きないらしい。
最も、これについては、エルオーネとスコールの性格の違いがある為、同じように行くだろうとも思えないので、無理はないが。
だが、それはそれとして、入園の準備と言うものは中々楽しく進んだ。
園から規定された事項を守りつつ、必要なものを整えて行く。
用具は卒園まで使えるものが良い、とレインは考えたのだが、エルオーネは可愛いものを(自分がそれを使う訳ではないのだが)探し、レオンはスコールが気に入りそうなものを優先して探した。
父ラグナはと言うと、「俺が選ぶと変なのになるってエルが言うからさ~」と言って、妻と子供達が必要なものを探している間、スコールの遊び相手をしていた。
買い物はレイン、レオン、エルオーネの三人で品物を探し、それをスコールに見せて、気に入ったものを買うと言う形になった。
お弁当グッズ、ハサミや糊の入った道具箱、ハンカチやティッシュ入れも買った。
クレヨンは家で使っているものがあるから───と思ったが、大分使い古していて箱も草臥れてしまっているし、折角なので新しいものを買う事にした。
靴はマジックテープで開閉できるものにし、上履きはキャラクタープリントが不可だったのでシンプルなものに。
大型ショッピングモールでそれらを探し回っている内に、買った荷物はどんどん増えて行く。
レインは、息子娘と一緒に入った店で細々と買えるものを買った後、店舗の前で待っている夫と末っ子の下へ向かった。
両手に荷物を抱えたレインの隣で、レオンがエルオーネと手を繋ぎ、並ぶ商品に誘われそうになる妹を宥めている。
こう言う時、しっかり者で面倒見の良い長男の存在は、母にとって何よりも助けであった。
道具箱と中身一式の入った袋を持ち直しながら、ふう、とレインは溜息を吐く。
(一日で全部揃えようって言うのは、無茶だったかしら)
両手一杯となっている買い物は、まだ終わりではない。
これらを夫に預けたら、最後に残った通園バッグを探しにいかなければいけないのだ。
(お古が使えたら良かったけど、レオンが使っていたものは人にあげちゃったし。エルオーネのは、男の子用って感じじゃないし。割と気にせず使いそうな気はするけど)
年齢が離れていない兄弟ならば、上の子が使ったものを下の子に回すと言う事が出来るのだが、生憎レオンとスコールの間は八歳の差がある。
スコールが生まれた時点で、レオンが幼稚園の時に使っていたものは家に残っていなかった。
エルオーネが入園した時に買ったものは、物持ち良くまだ家に残っているが、好き嫌いのはっきりしたエルオーネが好んで使えるようにと彼女の趣味を重視して選んだものばかりなので、花柄やお姫様モデルと言った風で、女児の為にデザインされたような物が殆どなのだ。
未だに男女の堺が曖昧な節のあるスコールであるが、やはり男の子であるので、あまりに女の子らしい持ち物は───本人が望むなら別だが───どうだろう、と思う。
……姉の事が大好きなスコールだから、エルオーネが使っていたものだと言えば、喜んで受け継ぎそうな気もするが。
とは言え、入園と言えば幼子にとって一つの門出である。
レオンにしろエルオーネにしろ、必要なものはその都度買い揃えているのだし、末っ子だけお下がりと言うのも、なんだか可哀想な気もするのだ。
兄と姉が喜んでスコールの為の買い物に付いて来てくれている訳だから、それを無碍にするのも彼等を悲しませるだろう。
普段は仕事で忙しく、一緒にいる時間が少ない夫も、こうした時間を通じての家族との触れ合いを楽しみにしている。
この為、全員が揃って出かけられる日が今日一日しか確保できず、少々強引な買い物日和となったのだが、こうした家族の協力がなければ、レインが全て一人で整えなければならなくなった訳だから、それを思えば、今日一日の苦労は飲んでも十分お釣りが来ると言うものだ。
大きなスペースを使って学童用品を売っているエリアを出ると、店舗前に設置されたベンチに、ラグナとスコールが座っていた。
ラグナはストロー付きの水筒で、スコールに水を飲ませている。
「ラグナ、スコール」
「おう、お疲れさん。重かっただろ、俺が持つよ」
「ありがとう」
ラグナはスコールに水筒を持つようにと誘導してから、レインが持っていた買い物袋を受け取った。
「レオンやエルの時も思ったけど、結構色々いるよなぁ。後は、えーと……鞄だっけ?」
「そうそう。此処で買っても良かったんだけど、アニメのキャラクター物が多くて。そうじゃない奴は、凄くシンプルだし」
「あのね、あのね。あっちにね、可愛いカバンがあったの!だからあっちで見た方が良いよ」
エルオーネが父の膝に取り付いて、店の方向を指差しながら言う。
きらきらと光る瞳は、もうその店で探す事を決めているのが明らかだった。
行こう行こうと言うエルオーネに、反対する者はいない。
レインは少し休みたい気持ちもあったが、こう言う時は一旦休んでしまうと腰が重くなるものだ。
後は鞄だけなのだし、と自分を奮い立たせつつ、スコールに「次のお店に行くよ」と言って、彼の手から水筒を取る。
ラグナが荷物を全て持ってくれたので、レインはスコールと手を繋いだ。
レオンは、ちょこまかと動き回るエルオーネを宥めつつ、また手を繋いで、彼女が見つけた店に向かう。
エルオーネが見つけた店は、子供用品が集められた店舗だった。
勉強道具らしい品揃えだった学童用品売り場のものよりも、子供が好みそうなデザインの物が並んでいる。
男の子用、女の子用、どちらでも使えそうな物と、サイズも色々あって、選べる幅が広い。
学校から通園バッグの指定については特になかったので、
「ほらほら、あれ。すごく可愛いの!」
「エル、探してるのはスコールの鞄なんだぞ?可愛いより格好良い方が良いんじゃないか」
店の前に陳列されている、きらきらとラメの入った鞄を指差すエルオーネ。
確かに女の子が好きそうなデザインだ、と思いつつ、レオンはやんわりと妹の軌道修正を促した。
「えーっ。可愛いのでも良いよ。スコール、可愛いの似合うもん」
「まあ、確かに似合うけど……」
「あっ、でもあっちのカバンの方が大きい。幼稚園のお道具って一杯あるから、やっぱり大きいカバンの方が良いかな?」
エルオーネがレインを見上げて訊ねる。
自分の視野に夢中になりつつも、決して弟の事を考えていない訳ではないのだ。
自分が通園していた頃の事を思い出し、見た目ばかりではなくて、使い勝手もきちんと考えなければならない事を、エルオーネは判っていた。
レインは娘の質問に、うーんと唸りつつ、
「そうね。あんまり小さいと、入れる物が入りきらなくなっちゃうし」
「じゃああっちで探そう!」
「エル、走っちゃ駄目だぞ」
弟の為の道具選びがすっかり楽しくなったのか、はしゃいだ様子で駆けていくエルオーネ。
直ぐにレオンが追って、うーんうーんと頭を悩ませる妹の隣に立って、自分も弟の為に鞄を探す。
子供達が店に入って行くのを見て、ラグナがレインに言った。
「俺は其処で待ってるよ。荷物も多いし、邪魔になっちまいそうだから」
「ええ、お願いね」
「スコール、お店、ゆっくり見て良いからな」
「んぅ」
小さな頭を父に撫でられ、スコールは気持ち良さそうに目を細めた。
ふにゃ、と笑う息子が可愛くて、ラグナはすっかりでれでれだ。
また後でな、と言うラグナに、スコールはきょとんと首を傾げていた。
そんなスコールの手を引いて、レインは店の奥へと入り、棚に並ぶ鞄を見せてやる。
が、まだ幼いスコールには、目の前に並んでいるものが何であるのかはよく判っていないようで、玩具箱の中に迷い込んだような顔で、きょろきょろと辺りを見回している。
(どうしようかな。スコールは結構小さい方だから、紐の長さが調整できるものがあると良いんだけど)
スコールは兄や姉の幼い頃に比べても、かなり小柄な方だった。
身長の伸びもゆっくりとしたもので、同じ時期に生まれた他家の子供よりも小さい。
レオンが最近ぐんぐん背が伸び始めている事を思うと、スコールもまた伸びしろはありそうだが、子供の成長と言うのは読めないものだ。
何より、成長した後に丁度良くなるかも知れなくとも、先ずは今の状態で問題なく使えるものを選ばねばならない。
レインはキルト生地のトートバッグを取り、スコールに声をかけた。
「スコール、これ持ってみて」
「うん」
差し出されたトートバッグの持ち手を、スコールが握る。
そのまま腕が下ろされると、鞄の底が床についてしまった。
レインは鞄を持ってスコールの腕に通させ、肩に紐を引っ掻ける。
荷物が多くなるからと袋が大きなトートバッグにしてみたが、スコールの体に対して、袋が随分と大きく見える。
スコールが中に入れちゃいそう、と思いつつ、この大きさでは息子が動き回るのには邪魔になりそうだった。
レインはスコールの肩から鞄を外しながら、一回り小さなトートバッグを取る。
「次、これね。手を出して。片方だけ」
母に言われた通り、スコールは右手を前に出した。
其処から持ち手の輪を通して、鞄を肩にかけてやる。
今度は袋の大きさは気持ち大きめな程度で、これ位なら、と思えたが、紐が長くてスコールの肩から直ぐにずり落ちてしまう。
同じサイズで紐の長さが調整できるものはないか、と棚を見ていると、
「スコール、スコール!これ、見て見て!」
急ぎ足で棚の間を駆けてきたのは、エルオーネだ。
その後ろからレオンも付いて来ており、二人の手にはそれぞれ見繕ったのであろう、趣の違う鞄がある。
エルオーネが持ってきたのは、淡い水色のリュックサックだった。
猫の足跡が下部にぺたぺたと描かれており、上部に此方を見ている猫がいる。
ついつい自分の好みを優先してしまうエルオーネにしては大人しいチョイスになったのは、傍らにいる兄のお陰だろう。
レオンが上手く誘導した中で、弟に似合いそうなものを選んだのだ。
「あのね、このカバンだと重くないの。走る時にも、ジャマにならないんだよ」
「ぼく、はしらないもん」
「急ぐ時は走るでしょ?」
「んぅー……」
プレゼンするエルオーネの言葉に反論するスコールだが、直ぐに言い返されて、ぷぅと剥れる。
しかし姉の言う通り、運動が苦手でも、日常生活の中で全く走らない訳ではないのだ。
父や母に駆け寄ったり、トイレに急ぐ時など、スコールなりに一所懸命に走る事はあるのだから。
走る時に邪魔にならない、と言う娘の言葉に、それもありか、とレインは思った。
リュックサックは両肩と背中で持つから、重心の傾きも少ないだろう。
歩いている時、何もなくとも躓いて転ぶ事があるスコールには、バランスを取りつつ、両手が空くと言うのは大きい。
さて兄は何を選んで来たのだろう、と見上げてみると、察したレオンが持っていた鞄をスコールに見せる。
「ライオンの鞄を見付けたんだ。やっぱりスコールが気に入って使えるものが良いかなって」
「らいおんさん!」
レオンが持ってきたのは、ショルダータイプでラミネート加工が施されている鞄だ。
鞄のサイズはエルオーネが持ってきたリュックよりは小さいが、底マチも厚めなので、容量としては十分確保されている。
表の面には、有名なアニメの主人公となったライオンが描かれており、スコールが好きなものを選んだと言うのが判る。
その甲斐あって、案の定、スコールの食い付きは一番だった。
「おかあさん、これ。ぼく、これがいい」
「えーっ。こっちの方が良いよ、スコール」
「こっちがいい」
デザインだの大きさだの、使い勝手と言うのは、まだスコールには判らない。
スコールは鞄にプリントされているライオンに夢中なのだ。
そんな弟の反応に、見付けて来たレオンは嬉しそうに顔を緩めている。
姉の声には構わず、これがいい、と最早心は決まった風のスコールであるが、レインはちょっと待ってねと息子を宥める。
先ずは持たせてみないと、とスコールの肩に紐をかけてみると、紐が長い為に鞄の底がスコールの足元に近くなっている。
紐の長さが調整できたので、体格に合わせて短くして行く。
母の「気を付けして」の言葉で、スコールが両手両足を体に真っ直ぐ揃えて立つと、落ちるかと思った肩紐は幸いきちんと肩の上に乗って止まっている。
(リュックだと両手が空くけど、背負う時にまだ少し難しいかしら。ショルダーなら、物の出し入れも直ぐ出来るし────)
「おかあさん」
(何より、本人がコレだものね)
レインが色々と考えている間にも、スコールは肩にかけた鞄をぎゅっと抱えて離さない。
これがいい、と全身で主張する息子に、これは駄目だと言ったら、泣き出すのが目に見えている。
通園バッグはレオンが選んだものにするとして、エルオーネが持ってきたリュックサックも一緒に購入する事にした。
春には幼稚園の行事で親子遠足があるし、夏になれば家族揃って旅行も計画されている。
普段使いにする物とは別に、予備の鞄としても備えて置いて損はないだろう。
出費としては少し予定外のタイミングだが、いずれ買いに行く事を思えば、今の内に済ませても良い事だ。
レジカウンターで支払いを済ませると、レインはライオンプリントの鞄の入った袋をスコールに見せた。
「スコール。ライオンさんの鞄は、この袋の中ね」
「ライオンさん、ここ?」
「そう。これは、幼稚園に行く日まで、大事に持っておこうね」
「うん」
「それで、こっちの袋は、猫さんの鞄」
「ネコさん」
「私が見つけたやつ!」
「お姉ちゃんのネコさん」
「これは遠くにお出かけする時に使おうね」
「はぁい」
母の言葉に、スコールは聞き分け良く返事をする。
今すぐ使いたい、と言うかと思ったが、その心配はいらなかったようだ。
最後の買い物を終えて、ふう、とレインは一息吐く。
スコールがエルオーネと手を繋ぎたがったので、姉に末っ子の面倒を任せ、レインとレオンがそれぞれ鞄を持って店を出た。
荷物番をしていた父と再会すると、ラグナはにこにこと上機嫌な子供たちを見て、
「格好良い鞄は見付かったか?」
「うん。あのね、ライオンさんとね、ネコさんにしたよ」
「ネコさん、私が選んだの!」
「おお~っ、良いなあ、ライオンさんとネコさんか!良かったなぁ、スコール」
わしわしとラグナが両手でスコールの頭を撫でる。
小さな頭を揺らしながら、スコールは「んふ、ふふ」と嬉しそうに笑っていた。
さあて帰ろう、とラグナが置いていた荷物を両手に提げる。
余る程の量を見たレオンが、直ぐに自分も持つよと言った。
気の利く長男に感謝しつつ、ラグナとレオンで荷物を分け合って、一家は駐車場へと向かう。
車に乗り込むと、レオンはライオンのショルダーバッグの入った袋を、スコールに手渡した。
家へと帰る道すがら、スコールは何度も袋の中身を覗き込んでは、にこにこと楽しそうに笑う。
姉が選んでくれたリュックサックの方も気になるようで、姉の膝にあるそれの中を覗き込んで、エルオーネと目を合わせてにこにことしている。
鞄は幼稚園が始まるまで使われる事はないが、スコールは今からその日が楽しみで仕方がないのだろう。
ぱたぱたと無邪気に弾む足が、幼い末っ子の胸中を表すのを見て、兄と姉も選んで良かったと満足していた。
レオン11歳、エルオーネ7歳、スコール3歳。
末っ子の為に皆でお出かけ、お買い物。
夕飯を食べて家に帰る頃には、皆車の中で寝ちゃってるんだと思います。