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User: k_ryuto
最悪だ────と言うサイファーの呟きを、スコールは否定しなかった。
そりゃあ確かに最悪だろう、と壁の向こうで未だ止まない銃声と、感情任せの男達の怒号に似た声を聴きながら思う。
彼等のお陰で、散々に方々を走らされる羽目になったので、服はあちこち擦り切れて、皮膚も傷んでいる場所が目立つ。
そこまでの目に遭わせられても、事はまだまだ収まらず、二人を追い回す男達は益々熱狂を持って銃口を向けて来る。
これを最悪と言わずしてなんと言おう。
二人を追い回す男達の声が、姿を隠す崩れた壁の間近に迫る。
自然と息を殺し、気配を殺し、歩調の合わない沢山の足音が近付き、遠退いて行くのを待つ。
どこだ、あっちだ、向こうを探せ、と飛び交う声は、とにかく二人を見付ける事に躍起になっていた。
見付かればどうなるか、過激派テロリストの考える事なんて精々知れているもので、碌な事にならないのは想像に難くない。
夜の帷も降りて時間が経った今、外気温は氷点下近くまで落ち込んでおり、乾いた砂塵が微かな風に巻き上げられて、其処に滞在を余儀なくされている者の目をチカチカと晦ませる。
そのお陰か、結局、二人は見付かる事なく、武器を持った男達は、壁の向こうから離れて行った。
研ぎ澄ませた神経で、眼に見えない気配を、その下となる音が近場に潜んでいない事を探りながら、スコールはゆっくりと詰めていた息を吐く。
キンと冷えた空気の中に、僅かに白いものが混じった。
「……行ったか」
「らしいな」
スコールの隣で、ガンブレードの引き金から指を外しながら、サイファーも頷く。
二人の対の傷を抱く眉間には、双方劣らない深い皺が刻まれており、埃塗れの頬に滲む汗もあって、どちらもかなり疲労している事が解る。
それだけ、二人は追い詰められているのだ────表向きは。
壁に背中をぴったりと当て、瓦礫の向こうを覗き、外部の様子を伺いながら、スコールは「……時間は?」と訊ねた。
サイファーも崩れた天井の穴を睨みながら、手探りでコートの中にある懐中時計を取り出す。
チ、チ、チ、とごくごく小さな音を刻む針を確認して、サイファーはもう一度呟いた。
「最悪だ。天辺越えだ」
日付が変わった、とサイファーは言った。
やっとか、とスコールが思っていると、サイファーは憎々しい声で続ける。
「折角の誕生日だってのに、こんな色気もねえ場所で迎えなくちゃならんとは」
「ああ……そう言えばそんな日もあったな」
「おまけに恋人はこの有様だしよ」
スコールの素っ気ない、所か興味もないと言う返しに、サイファーは益々苦い表情を浮かべる。
傷ついたと言わんばかりの声であったが、スコールは気にしなかった。
それより、ぎりぎり聞こえるか聞こえないかと言う場所から聞こえて来る声の方が、スコールには重要な情報源であった。
スコールが聞こえている位の声なのだから、サイファーも聞き留めているだろう。
が、サイファーはその声の気配に構わず、ぶつぶつと苦い言葉を吐き出しながら、手許の愛剣に新たな弾を込めている。
「こっちは色々と計画してたし、少しは期待もしてたんだぜ」
「例えば」
「うちの恥ずかしがり屋の恋人が、人目を忍んでこっそり用意したプレゼントを、何処でスムーズに受け取れるようにしてやろうかとか」
「そんな物好きがいるものなんだな」
「忙しい恋人に期待だけするのも難だろうって、敢えて俺からディナーの招待でもしてやろうかとか」
「ドールのホテルの最上階にあるレストランを勧めておく」
「ああ、良いな。何せあそこは個室もある。そう、そこのスイートルームって案にあったんだぜ」
「じゃあそこのシングルで」
「ダブルに決まってんだろうが。いや、どうせならキングだな。豪華なもんだろ」
「ああ、豪華だ」
「まあ、全部ご破算な訳だが」
見ての通りに、とサイファーは再度穴の開いた天井を仰ぐ。
ミサイルでも落とされたか、或いは爆発物でも放られたか、其処にはぽっかりと穴が開き、満点の星空が見えている。
其処だけ見れば多少ロマンチックに見えなくもないが、散らばる瓦礫と、火薬と灰燼の匂いが充満していては、ロマンなど何処にもありはしない。
色々と計画を立てていたのに、何もかも駄目になった、と呟くサイファーは心底悔しそうだ。
「ったく、テロリスト崩れを捕縛するだけで、こんな面倒な作戦をしなくちゃならねえなんてよ」
「人質がいるんだから仕方がないだろ。そっちの救助が最優先って依頼になってるんだから」
「だからってこんなでかい釣り針を使う必要があるか?」
「お陰であっちは追い回してくれてる。陽動には十分役に立った」
「十分どころか十五分だ。向こうもその程度の連中だってこった」
埃に塗れた顔を、やはり埃に塗れた服の袖で拭いながら、サイファーは忌々しげに呟く。
もっと簡単に済ませてやる方法も、短時間で終わらせる方法もあるのに、それを取れなかった依頼内容が憎い。
それは正直な気持ちも言えばスコールも同じで、こんな回りくどい方法を取るなんて面倒臭い、と思っている。
────バラムガーデンに寄せられた今回の依頼は、緊急に瀕したものであった。
昨今、鎖国を解いたエスタに、外交政策も踏まえて他国の外交官が訪れたり、駐在官を置く機会が増えるようになったのだが、その中に、強い魔女心棒の者がいた。
嘗ては魔女が納めた科学大国、今はバラムガーデンと並んで魔女戦争終結の立役国となったエスタは、魔女心棒の人間にとって、様々な意味で強い懸念と誘惑を齎すものだったらしい。
外交官としてエスタの地を訪れた魔女心棒者は、十七年の鎖国を経て尚、エスタ内でも不穏分子として警戒されていた、嘗てのエスタ大統領であり魔女であったアデルに心酔する者達と、密かにコンタクトを取っていた。
そして再び魔女が全てを支配するべきであると謡い、エスタを訪れていた他国の外交官や、その側近たちを拉致したのである。
拉致された人々を解放して欲しければ、現エスタ大統領のラグナ・レウァールと、“魔女戦争の英雄”であるスコール・レオンハートを処刑せよ、と言うのが彼等の要求だ。
当然ながら、とても応じれる話ではない為、エスタもバラムガーデンも飲む訳がないのだが、人質は救助しなくてはならない。
其処で、スコール自らが彼等の要求に応じる格好で前に出て、人質救出の時間稼ぎをする事になった。
相手が徒党を組んでの集団である事から、流石にスコール一人を行かせる訳にもいかず、かといって大人数で出向くのはあちらの要らぬ刺激になると、最大かつ最低限の戦闘力として、サイファーが駆り出されたのである。
かくして、人質の受け渡し場所として指定された、エスタの都市外周にある既に廃棄された地区にて、スコールはテロリスト達の前に現れた。
その場で銃殺刑を敢行しようとする彼等を、サイファーが乱入する形で阻止。
そのサイファーの乱入の直前には、通信でキスティス達から人質が押し込められていた拠点を制圧したと情報が入っている。
後は人質の安全が確保されるに至るまで、二人はテロリスト達からつかず離れず、且つ大立ち回りで彼等の眼を引く役目を担っていた。
陽動と言うのは、存外と面倒で気を遣わなくてはならない。
不審に思われない程度の損耗を与えながら、必要以上の増援を誘発する事なく、捕まらないが捕まりそうな距離を保つ。
恐らくは人質の救出については、途中であちらにも情報は伝わっている筈なのだが、其処で人質を奪い返されない為にも、人員を割かれないようにもしなくてはならないのだ。
だから余りに派手に暴れると、此方は手が付けられないと判断されてしまい、逃げに徹されるか、人質の再度確保に向かわれると厄介なので、それも加味しての応戦が求められる。
腹を空かせた魔物の大群の相手をするよりも、スコール達にとっては厄介な任務だった。
「お陰で俺の計画が全部台無しだ」
苦々しく吐き捨てるサイファーは、今日と言う日をこんな瓦礫埃の場所で迎えた事を、心底悔しがっている。
こんな風に、彼曰く『ロマンティックな計画』がお流れになるのは珍しい事ではなかったが、こうも愚痴る様子からするに、大分気合を入れていたのだろう。
後で何処かに休みを捻じ込んで、ついでに自分の休みも合わせてやらないと、臍を曲げ続けていそうだな、それはこの任務より面倒だ、とスコールは思った。
「大体、俺まで出張る必要があったか?あんな小物に、大層豪華な餌じゃねえか。飲み込める訳がないだろ」
「大きい方が食い出があるだろう。餌が目立てば遠くからでも寄って来るし」
「川底で苔つついてる奴が、自分よりでかい獲物が食えるかよ」
「時間をかければ食えるかもな。微生物だって大体そうだ」
「こちとらそんなに暇じゃねえ。ったく、さっさと帰ってこの美味い飯を鱈腹食いたいもんだ。そうだろ?」
「一人で食ってろ」
「お許しが出たな。骨までしゃぶりつくしてやる」
サイファーの言葉から滲む暗喩の気配に、スコールは肘で傍らの男の横腹を突いた。
いてぇ、等と欠片も思っていない声が返って来る。
そんなスコールの胸元で、小型の通信機が小さく着信を知らせた。
音声を介する程の精密さを持たないそれを耳に当てると、ツーツツーと言う電子音が聞こえる。
長短の組み合わせで暗号とするその音を聞いて、ふう、と一つ息を吐いた。
「喜べ、サイファー」
「あ?」
「人質救助班が予定通りにラグナロクに搭乗した」
作戦が予定通りに組み上がった。
それを聞いたサイファーは、それまで疲労と苛立ちで萎えていた瞳を、ぎらりと輝かせる。
「なら、もう良いんだな?」
「ああ。好きにやれ」
「お前もだろう」
スコールはシリンダーに込めた弾の数を確認し、サイファーはグリップを握り直して腰を上げた。
遠く聞こえていた男達の声が、また近付いて来る。
乱れた足並みは、彼等の指揮系統が混乱を起こしている事、動揺を隠すこともできない程に慌てている事を示している。
ならば最早単なる掃除にも等しいが、とは言え、姿を見せては隠してと繰り返していたフラストレーションを発散させるには十分だ。
最早逃げる必要もないと、牙を構えた獣が二匹、瓦礫と砂塵の中を真っ直ぐに歩き出す。
いたぞ、と言う声が砂煙の向こうから聞こえた。
ぞろぞろと集まって来る烏合の衆の数を確認しながら、スコールはふと思い出す。
「ああ、そうだ」
「あん?」
「誕生日おめでとう、サイファー」
忘れる前に言っておこう。
そんな気持ちでぽいと投げた言葉を、サイファーは受け止めた後、はああああ、と露骨に溜息を吐いて見せた。
「もっと色気のあるシーンで聞くつもりだったのによ」
「良いだろう、シーンなんて何処でも」
「雰囲気が大事なんだよ」
「じゃあ似合いだろう」
煌びやかな夜景も、見た目も良い豪華な食事も、此処にはない。
汗と蜜を吸い込んでくれるシーツもないし、二人を世界と隔てる壁もない。
瓦礫と塵と、鉄錆と、嗅ぎ慣れた火薬の匂いばかりが流れる戦場が、自分達には一番似合いの風景だ。
サイファーはそれを否定しなかった。
しなかったが、
「後でもう一回、ベッドの上で聞かせて貰うからな」
そう言って、初手を取りに地を蹴ったサイファーに、誰が言ってやるかとスコールも続いた。
サイファー誕生日おめでとう!
なんやかんやでサイファー誕生日を書く時は、ガーデンで過ごしていたり、しっぽりしていたりが多かった気がするので、ちょっと初心に返って戦場に放り出してみた。
戦闘的には余裕なんだけど、作戦の関係上で物陰に身を寄せ合っていつも通りの軽口叩きあってたら良いなって。
帰ったらお互い滾ってるのでそれはそれは盛り上がれば良いと思います。
文化祭でのクラスの出し物が演劇に決まって、スコールはほとほとうんざりとしていた。
元より、何をするにもやる気はなかったし、とは言え決まれば文句は言わずに仕事は熟そうとは思っていた。
あれをやりたい、これをやりたいと言う議題に参加する気すらない分、細々した道具を用意するでも、少々大がかりなセットを組む羽目になろうとも、それは黙ってやって行こうと。
話し合いに欠席していた訳でもなく、目の前でやる気のある面々が銘々と手を上げる中、こっそりと欠伸を我慢していたスコールだから、そう言うつもりでいたのだ。
それは決して嘘ではない。
だが、よりにも寄って自分が舞台に直接立つ事になろうとは。
それも主役級の、狂言回しとして台詞も出番も多い、主人公の敵役なんてものに推薦されようとは。
推挙された時には、「は?」と間の抜けた声が出たものだった。
しかし、それを聞き留めた者は誰もなく、スコールが茫然としている間に、満場一致で勝手に可決されてしまう。
後でクラスの実行委員を引き受けているセルフィに抗議に言ったが、概ね予測できたことではあるが、彼女は「もう決まっちゃったもん」とけろりとしていた。
嫌だと言うなら、話し合いの最中にそれを唱えてくれないと、と言う彼女の言葉は扱く真っ当な指摘である。
おまけに、「クールで知的でぶっきら棒な役なんだよ。スコール、似合うんじゃない?」とまで言われた。
明らかに幼馴染の気質を判っていながら、面白がっているセルフィに、スコールは思わず声を荒げそうになったが、察知したのか彼女は一足先に「委員会の仕事があるから~!」と言って走り去ってしまった。
そんな彼女を追う気力が、スコールにある筈もなく。
端役で終わるとか、それが駄目ならナレーションとか。
とにかく、長々と舞台の上で、観衆の前に立たなければならない事が、目立つ事を極度に嫌うスコールにとっては耐え難いものだった。
しかし、セルフィの言った事も確かではあり、出し物を決める段階から、配役が選ばれていく所まで、スコールが話し合いに参加する姿勢を持っていなかったのも確か。
なるようになれ、と周囲に任せていた身を思えば、この流れに逆らえないのも当然と言えるかも知れない。
────それから一週間後、スコールの手元には、件の演劇の台本が渡された。
有名な舞台演劇からお題を借り、本来なら数時間に及ぶ長丁場となるその内容を、判り易さを重視にアレンジにアレンジを重ね、一時間程度に絞り込んだもの。
圧縮された内容なので、話が疾風怒濤のように、時に都合よく進むのは、学生のお祭りの味と言うことで見逃して貰うとしよう。
しかし、そんな内容でも、狂言回しの役所となるスコールの台詞は多かった。
スコールの役は確かに主役級と言うものであるが、捲る度に自分の台詞があるのを見て、これは本来の主役を食ってないか、と思う。
とは言え、暗記自体はそれ程苦手にはしていない。
まあ覚えるだけならと、真面目振りがひょっこり顔を出して、立ち稽古が始まるまでにはスコールは自分の台詞を凡そ頭に入れ終えていた。
だが、スコールが台詞を完璧に覚えても、それだけで舞台は出来上がらない。
台詞に合わせて動きもついて、感情を表す抑揚をつけ、相手がいればその動きにも合わせねばならない。
演劇部でもないスコールにとって、それらは生まれて初めての経験だった。
その上、台詞と出番が多い所為で、スコールは舞台に殆ど出ずっぱりである。
場面が一つ終われば次、そのまた次と、他の者が順繰りに休む中、スコールは水を一口飲んでは練習に戻ると言うのが精々だった。
(こんなの、演劇部の奴にやらせろよ……!)
素人にやらせて良い役じゃない、とスコールはつくづく思う。
もっと役者として適任がいただろう、とも。
どうして自分が推薦されたんだと、眉間に深い皺を浮かべるスコールは知らない。
スコールにこの配役をやらせたいが為に、複数人の女子生徒が共謀し、クラスの出し物と配役が決まった事を。
長い稽古の時間が続いて、覚えている筈の台詞が飛び始めたスコールに、流石にこれは休ませないといけないと、ようやく監督役の生徒が気付いた。
もっと早くに気付いて欲しかった、とスコールは思ったが、止めてくれただけでもスコールにとっては恩の字だ。
スコールは少しの間、身も心も配役から解放されるべく、稽古用に使っている教室からも離れる事にした。
半分になっていた水の入ったペットボトルを片手に、スコールは何処で過ごそうかと思案しながら廊下を歩いていた。
文化祭の準備が本格化して以来、放課後になると、校舎のあちこちで、設営用や展示用の道具が作られている。
誰それがサボってる、何々が足りないから買って来て、そんな声がよく聞こえる。
賑々しいと言えばそうだし、楽しそうにしている生徒も少なくないが、スコールにとっては騒々しい位にしか聞こえない。
早く文化祭そのものが終わって、いつもの静かな日々が戻ってきて欲しいものだ。
空き教室は大体が何処かのクラスの準備に使われていて、人の出入りが激しい。
校舎の外の方が人は少ないかも知れない───と思ったが、此方も此方で、設置予定の飾りものやら、その材料やらが積まれていた。
どうにか静かに休める場所は見付からないものか、とスコールが暫く歩き回っていると、
「スコールじゃん。劇の練習、終わったのか?」
名を呼ぶ声が背中に聞こえて、振り返ってみると、ヴァンがいた。
両腕には木材と大工道具を抱え、此方も出し物の準備の真っ最中のようだ。
はあ、とスコールは溜息を吐いて、
「終わってない。ただの休憩だ」
「まだ練習はやってるのか?」
「ああ」
ヴァンの言葉に頷きながら、いっそ今日はもう終わりに出来ないだろうか、とスコールは考える。
台詞を言うにも、意識しないと呂律が上手く回らないくらいには、疲れが溜まっているのだ。
それが、他クラスに所属するヴァンから見ても、ありありと判ったようで、
「疲れてるな」
「……」
「保健室行くか?」
「……それ程じゃない」
ヴァンの提案に、スコールは小さく首を横に振った。
ただの疲労と、見栄を張る気力がなくなっただけで、保健室で寝込まなくてはならない程でもない。
とは思っているのだが、気分的には、何処か静かな所でゆっくりと過ごしたい。
しかし、放課後とは言え、近付く文化祭の準備に向けて、校内は何処も人の気配で溢れている。
校舎の外も同様で、偶にスコールが人目を避けて昼休憩を過ごす校舎裏も、今は設営作業のサボタージュ生に占拠されていそうだった。
はあ、と何度目か知れない溜息がスコールの唇から漏れる。
ヴァンはその様子をじっと見つめ、
「俺のとこの教室、来るか?俺の班、今日は皆帰っちゃったから、俺一人だし」
そう言ってヴァンは、廊下の向こうにある教室を指差した。
スコールはその指の先をじっと見つめた後、無言でその方向へと歩き出す。
ヴァンのクラスでの出し物は、隣の教室も借りての迷路になったとか。
脱出ゲームの要素も盛り込んで、色々とギミックも仕込むつもりらしく、早い段階からその為の材料や機材の確保に駆け回っていた。
ヴァンは別段、文化祭に張り切っている訳でもないそうだが、ゲームに必要な道具を作るのが楽しいと言っていた。
ヴァンが言った通り、彼の教室に人の気配はなく、代わりに教室の後ろに沢山の木板や段ボールが納められている。
今日の放課後作業の為か、机は窓際に寄せられて、空いたスペースには大きな模造紙と解体した段ボールが広げられていた。
スコールは適当に椅子を運び出すと、其処に座り、模造紙の大きな絵をカッターでくり貫いているヴァンを見る。
「……あんた以外の奴はどうしたんだ」
「さっきまでいたよ。でも皆、塾とかバイトとかあったし、今日やる事は俺一人で十分だから、先に帰らせたんだ」
「……」
「代わりに、明日は俺が先に帰らせて貰うんだ」
くり貫いた絵をの上にヴァンは段ボールを一枚ずつ重ねる。
絵がすっかり覆われると、段ボールをガムテープで繋げて行き、大きな一枚の厚板にした。
ヴァンの話を聞きながら、役割分担が出来る奴は良いな、とスコールは思った。
演劇の主役級に飾り立てられたお陰で、スコールのその役割は、何処を取っても替えが利かない。
役を降りたいのなら、代わりの人を立てなくてはならないのだが、台詞も出番も多いスコールの役処を、好んで引き受けたがる者はいないだろう。
他クラスの人間も巻き込んで良いのなら、「お前がやれるんなら、俺でも出来る役だろ」等と宣った金髪の幼馴染に早々に押し付けてやれるのに、と何度思ったか知れない。
ボンドとガムテープを使って、絵を板に貼って行くヴァン。
スコールは椅子にすわってそれを眺めながら、ふあ、と欠伸を漏らした。
作業に集中しているとばかり思ったヴァンの視界に、それはしっかり映ったようで、
「眠いのか?」
「……かも知れない」
台詞を覚えて、立ち回りを覚えて、ステージに立ちっぱなしで。
流石にスコールも集中力が切れる位には疲れていたし、人気のない場所を欲しがったのは、体がそう言う休息を欲したからもあるだろう。
相変わらず、教室の外は人の気配が絶えないが、それらが扉一枚、壁一枚向こうであると言うだけで、今のスコールには随分と気分が楽だった。
椅子の背凭れに寄り掛かり、スコールは夕暮れ色の滲む教室の天井を仰ぐ。
───と、その薄くぼんやりとしていた視界に、ふっと褪せた銀色の影が差す。
「……なんだ」
見下ろすヴァンの顔を見つめ返して、スコールが言うと、ヴァンは徐に右手を上げて、ぽんぽん、とスコールのチョコレートブラウンの髪を撫でた。
それを黙って受け止めていると、ゆっくりとヴァンの顔が近付いて来て、スコールの深い谷が出来た眉間に唇が触れる。
「……なんだ、急に」
「大変そうだから、お疲れ様って」
「…そう思うんなら、あんたが代わりに劇に出てくれ」
「スコールの役、台詞一杯だったじゃんか。覚えらんないよ」
労うならいっそ、とスコールの台詞に、ヴァンはきっぱりと返した。
それを聞いて、だろうな、とスコールも思う。
大道具とかなら手伝えるけどなぁ、と呟くヴァンだが、其方はクラス内で十分人手が揃っている。
それより、凝った迷路作りのヴァンのクラスの方が、その類の仕事では大変そうだから、逆に駆り出される人員が出て来るかも知れない。
ともあれ、スコールの為にヴァンが出来る事と言うのは、ないに等しい。
ヴァンはスコールの頭を撫で続けていて、小さな子供じゃないんだが、とスコールは思ったが、一応、彼にとっては労っているつもりなのだ。
それを振り払う気にならないのは、突かれているからだと思う事にする。
「そんなに疲れてるなら、今日はもう帰って良いんじゃないか」
「……練習が進まなくなるだろう」
「でも、今だって皆はやってるんだろ?スコールが抜けた状態で」
確かにヴァンの言う通り、今も教室では演劇の練習が続いている。
スコールの配役の所は、其処に出番のない者が台本を持った状態で立っていた。
本番でそんな状態は勿論できないが、練習位は、そう言う代役が出来るのだ。
でも、だからと言って、先に帰らせてもらう、なんて事はスコールには言い出し難い。
明らかに体調が悪いと言うならともかく、ただ疲れているだけなのだ。
どうせ明日も覚えなくてはいけない事が増えるのなら、後ろ倒しに借金を作らないでおきたい、と言うのがスコールの心中であった。
とは言え、今はまだ自分の教室に戻る気になれない。
ヴァンと二人きり、少しだけ静けさのあるこの閉じた空間の中で、もう少し休んでいたかった。
「……ちょっと寝る」
「起きたら家帰るか?練習戻る?」
「……気分で決める」
「判った。どれ位で起こしたら良い?」
「……二十分で」
スコールの言葉に、ヴァンは頷くと、携帯電話を取り出した。
タイマーアプリでもセットしているのだろう、その間にスコールは仰がせていた頭を俯けて目を閉じる。
本当は横になりたい気分だったが、並ぶ机をベッドにする勇気はスコールにはなかった。
傍らに立っていたヴァンの気配が動いた後、ぱさり、と何かがスコールの肩にかけられる。
薄く瞼を開けてみると、視界の端に、自分のものではない制服の上着が見えた。
それから耳元に柔らかいものが触れたのが判って、此処は学校なのに、と思いながらも、その感触が心地良くて緩やかな微睡に誘われる。
遠ざかる気配にを追うように、視線を少し動かすと、薄着になったヴァンが作業を再開させている。
ぺりぺり、ぺりぺりと、ガムテープを剥がす音を聞きながら、スコールの意識はふわふわと浮いて行くのだった。
12月8日と言う事で、ヴァンスコ。
付き合っているけど、クラスも違うし、多分周りからはそんなに親しいとは思われていない。
なので校内であんまりそう言う事はしたくない、と思っているけど強くは拒否しないし案外吝かでもないスコールと、今なら良いよなって言う気持ちで触れるヴァン。
ヴァンは周りに知られても余り気にしないけど、スコールが気にしそうだから言わないようにしてる感じ。
人目のない所では割とべったりしてそうな二人でした。
あの人形どもはつくづく厄介だ────痛む傷に啼く体を、理性と意地で抑えつけるように、歯を食いしばりながらスコールは苦く舌打ちする。
混沌の軍勢が操る、イミテーションと呼ばれる虚無の人形群。
それによって、圧倒的な物量差で押されようとしている秩序の陣営にとって、それらへの対抗戦力の確保、或いはその物量増加を抑える方法と言うものは、急ぎ探らなければならない問題点だった。
しかし、新たな戦力の確保と言うのは可惜に期待できるものではなかったし、戦況の悪化に伴い、秩序の女神の加護の力も落ちてきている。
いつ得られるか判らないものを期待して待つより、まだ堅実そうな道を探るべきだとスコールは思った。
それがイミテーションが何処からどうやって生み出されているのかを調べることだったのだが、此方も容易に進むものではなかった。
何せイミテーションは、各地に点在する歪から現れるだけでなく、どうやら混沌の大陸側────即ち、混沌の軍勢の心臓部と呼べる奥地で増殖しているようで、その場所に行き付くだけでも秩序の戦士達には簡単な話ではない。
それでも一片の情報だけでも手に入れなければ、現状を引っ繰り返すことは出来ないと、スコールは度々、潜入偵察と言う格好で一人混沌の大陸に足を運んでいた。
その最中に、魔女アルティミシアは現れた。
スコールの宿敵である魔女は、自身の仇敵であるスコールを見付けると、哂いながら人形たちを差し向けた。
意思のない人形たちは、どうやら混沌の戦士達の手駒として操る事が出来るようで、彼等は命令されるがままに秩序の戦士に襲い掛かる。
そのしつこさたるや、己の命を鑑みない人形に相応しいもので、停止命令が出ない限り、何処までもいつまでも追って来るのだ。
生物には限界がある筈の体力や気力と言う概念もないらしく、完全に振り切らない限り、あれらは諦めようとしない。
アルティミシアが人形たちを差し向けた時点で、スコールは転身、逃げに徹した。
アルティミシア本人が戦闘をしかけて来るのならともかく、数としつこさで延々と付き纏う人形の相手を真正直にするのは得策ではない。
碌な情報もなく逃げ帰るのは業腹ではあるが、此方は一つしかない命である。
それを喪う訳にはいかないと、スコールは直ぐ様行動の優先順位を切り替えて、混沌の大陸から離脱すべく走り出した。
案の定、人形はしつこく追いすがり、更にアルティミシアが他の人形を集めて命令を出したか、時間を追うごとに数が増えた。
それらの全てがスコールの足に追いつける訳ではなかったが、流れ弾のように撃ち放たれる魔法のいくつかを喰らう羽目になる。
特にシャントットを模した人形が放った風魔法が痛かった。
踏み込みの軸となる右足を切り裂かれ、否応なく走る速度が落ちてしまい、其処からは追い付かれては斬り捨て、また逃げ、追いつかれては斬る。
その繰り返しを続ける内に、体力は更に削られ、足元は出血で感覚が麻痺して行く。
それでも、諦めに足を止めずに走り続けたことで、スコールはようやくテレポストーンの下へと辿り着く。
転移の力を使って、混沌の大陸から一気に離れたスコールは、疲労と痛みのピークを越えた体をその場で地に下ろした。
倒れ転がることまではしなかったものの、右足は碌に動かなかったし、走り続けた所為で喉も乾いている。
此処から更に聖域までの帰還の道程を考えると、少し休まないと、動く気になれなかった。
テレポストーンを覆うように茂る木々の下で、スコールは束の間の休息を採る。
足の傷は既に痛みを通り越し、熱を持っており、スコールの額からは脂汗が滲んでいた。
これ位なら影響はないだろうと、ケアルを少しだけ消費して治癒行為を行うが、この世界ではスコールの魔力と言うものは余り強くはなく、攻撃魔法でも回復魔法でも、余りその効果の期待は出来ない。
だが、雀の涙でも、応急処置としては使えなくもないから、スコールは魔法の残数を忘れないように確かめながら、僅かばかりに治療を施していた。
────と、そんなスコールの耳に、ガサガサと茂みを掻き分けて来る音が聞こえる。
(……誰だ?)
一瞬、血の匂いに誘われた魔物かと身構えた。
が、近付いて来る音と共に、秩序の女神の加護の気配を感じ取り、少なくとも襲われるような相手ではないと悟る。
混沌の大陸の一端と繋がるテレポストーンは、秩序側の陣営領域と言える南側の大陸の中で、端の沿岸部にぽつんと存在していた。
本陣と言える秩序の聖域からは決して近くはなく、故に秩序の戦士達も気軽に足を運ぶような距離ではない為、彼等が此処に向かうのは、ほぼ必ず混沌の大陸に赴いての斥候が目的となっている。
と言う事は、近付いているのはウォーリア・オブ・ライト、セシル、カイン辺りだろうか。
セシルやカインならともかく、ウォーリアとこの状態で鉢合わせは面倒臭い、と何かと説教をくれる眩しい男の顔を思い出し、移動できないかと体を起こそうと試みた所で、
「あ。お前かぁ」
ひょこ、と茂みの向こうから顔を出したのは、スコールの予想になかった人物───プリッシュだった。
自由奔放に日々を過ごす少女は、スコールとは大した接点もない。
彼女はこの世界を探検する事を楽しんでいるようで、よく一人で冒険だと言って大陸の何処かを散歩混じりに駆け回っている。
バッツやジタン、時にはラグナと言った賑やかしの面々は、其処に一緒になっている事も多いようだが、スコールはその手合いとは距離を置いている(筈なのに、何故か彼方はスコールに構いつけて来るが)。
プリッシュとは秩序の聖域で顔を合わせる以外に過ごすことはなく、天真爛漫、天衣無縫な彼女の言動がスコールはどうにも苦手で、少々意図的に遭遇を避けている所もあった。
苦手と感じている少女と、こんな所で顔を合わせるとは。
スコールの表情に苦いものが滲んだが、プリッシュはそれを気にせず、きょろきょろと辺りを見回し、
「お前一人?」
「……そうだ」
スコールの周りに何故か集まりたがる、ジタンとバッツ、そしてラグナをよく見ているからだろう。
それらの影がない事を端的に訪ねるプリッシュに、スコールは溜息交じりに答えた。
これが相手がウォーリアなら、スコールの単独行動に小言の一つもあったのだろうが、プリッシュは「ふぅん」と大した興味もない反応で終わった。
プリッシュはすんすんと鼻を鳴らしながら、スコールの下まで歩み寄る。
目の前でしゃがんだプリッシュは、スコールの黒を基調にした服のあちこちに、違う色の黒が滲んでいる事に気付いた。
「怪我してんのか」
「……」
「ポーションとかは?」
「…使い切った」
斥候に赴くに辺り、準備して行った傷薬の類は、全て使い切った。
それでもいつまでも追って来た虚無の人形達を心底恨む。
あそこまでしつこくなければ、此処までの傷を負う事はなかったろうに、と。
だからこそ混沌の戦士達にとって、秩序の戦士達をじわじわと疲弊させていくのに最適な駒なのだろう。
苦々しい表情を浮かべているスコールを、プリッシュはじっと眺めた後、徐にその手をスコールの足に置いた。
ぽん、と触られた場所は傷口から遠くはあったのだが、ズボンに血が滲み、傍目には何処が傷のある場所なのか碌に判らない。
ぐっしょりと血の染みた布地の感触に、プリッシュはその傷の具合を想像したか、「うへぇ」と貌を顰めた。
「お前、早く帰ってセシルとかユウナとかに治して貰った方が良いぞ」
「……判ってる」
言われなくても、とスコールは唇を噛んだ。
此方もそのつもり、そうしたい気持ちは山々だが、如何せん疲れているのだ。
せめて歩く体力気力が回復するまでは、此処で休んで行かないと、魔物に襲われた時に抵抗も出来ない。
(とは言え、止血くらいはしたい。あまり血の匂いを振り撒いていたら、魔物が来るかも)
最早痛みらしい痛みも判らなくなり、熱だけを訴えるようになった足を見て、スコールは眉根を寄せる。
魔法で切り裂かれてからも、止める訳にはいかず走り続けて酷使した所為で、すっかり傷口が広がっている。
ジャケットを使って袖で縛れば少しは……と考えていた時だった。
「よっと」
ビリビリ、と言う音がして、スコールは顔を上げる。
其処には、左腕の服の袖を豪快に破り、更にそれを細く引き裂いているプリッシュがいた。
何をしているのかとスコールが目を丸くしている間に、プリッシュは割いた布でスコールの傷のある足を包み始める。
「何を」
「何って、手当だろ。血が止まってねえじゃん。これ位しとかないと、いつまで経っても歩けないって」
「だからって、あんたの服」
「別に良いよ。うん、こんなモンで良いかな」
存外と慣れた手付きで、プリッシュはスコールの足に簡易包帯を巻いた。
元々は丁寧な飾り付けもされていた布地であったことも忘れ、それはあっという間に赤く滲んで行くが、プリッシュは気にした様子はない。
プリッシュはごそごそとポケットやら服の中やらを探る。
どうやらポーションの類を探しているようだが、いつでも手ぶらで駆けまわる癖のある少女に、そう言った荷物はなかったようだ。
うーん、とプリッシュは悩んだ末に、スコールに右手を翳した。
淡い光がその手から生み出され、小さな薄緑色の光を帯びた粒子がスコールの体を包み込む。
それは弱々しい光ではあったが、スコールの体のあちこちに散らばっている傷を僅かながら癒してくれた。
「───こんなモンかな。悪いな、あんまり得意じゃないんだ」
「……いや。助かった」
プリッシュが回復魔法を使えるとは、スコールには知らなかった事だ。
魔物や混沌の戦士、イミテーションを相手に拳で殴りに行く所しか見ていなかったので、少々驚いた位だ。
思いも寄らない事ではあったが、お陰で体の疲労感は軽減され、スコールはほっと息を吐いた。
これなら、ゆっくりではあるが、歩いて帰れる。
そう思って、心持ち出血も宥められた気のする足の傷を庇いながら、立ち上がろうとした時、横からすいっと二本の腕が伸びて来て、
「よっこらせっと!」
「!?」
勢い一つの声と共に、スコールの体がぐんっと強い力で持ち上げられた。
何事、と目を丸くするスコールの眼前には、溌剌とした少女の顔がある。
そして、スコールの背中と膝裏に、細いがしっかりとした腕が回されており、その体は腕に支えられながら浮遊感の中にあった。
詰まる所、スコールはプリッシュの腕に横抱きにして抱えられている訳で。
「───下ろせ!」
「なんで?」
反射的に声を大きくしたスコールの言葉に、プリッシュはきょとんとした顔で返した。
余りにも当然のように問い返してくるものだから、一瞬スコールは虚を突かれた気分で言葉を詰まらせるが、
「こん、な。一々しなくていい。自分で歩ける」
「それじゃ傷が開くじゃん」
「問題ない。あんたの手当てのお陰で、もう十分だから」
「そっか?でもこっちの方が早く着くと思うぞ。お前、足引き摺らないと無理だろ?」
プリッシュの言う通りであった。
スコールの足は彼女の手当てと魔法のお陰で、僅かに出血は治まってくれたが、傷口が熱を持っているのは変わらない。
普段通りに歩くなんて先ず無理だろうし、プリッシュの指摘通り、右足を引き摺りながら進んで行くしかないだろう。
此処から秩序の聖域は決して近い距離ではないし、道中に魔物は勿論イミテーションとの遭遇も有り得る。
今の状態のスコールにとって、それらとの戦闘は出来るだけ避けたいし、また傷が悪化する前に治療の手に肖りたいとも思う。
が、これはない────自分よりも遥かに小柄な少女の細腕に、軽々と抱えられていると言う、プライドも自尊心も砕かれるような状態でスコールは思う。
しかし、暴れようにも動けば傷が痛むし、さっさと歩きだした少女の軽やかな足の方が、自分の歩よりも遥かに早いのも判ってしまう。
だが、それならせめて背負ってくれないか、とスコールは思ったが、プリッシュは抱えた青年の顔を近い距離で捉えて言った。
「怪我してる奴を運ぶ時は、顔が見える方が良いんだってさ。痛いとか辛いとか、そう言うのが顔見て判るから」
「………」
「お前も痛かったら我慢するなよ。俺のケアルで良けりゃ、またかけてやるからさ」
にっかりと、裏も表もない、無邪気な笑みを浮かべるプリッシュ。
その顔にスコールは、どうにも毒気のようなものを抜かれるような気がした。
はあ、と漏れるのは諦念の溜息だ。
どうやってもプリッシュは下ろそうとはしないようだし、運ぶスタイルもこの状態から変えては貰えそうにない。
こうなったら、楽であるのも確かだし、拠点まで運んで貰おうと気持ちを切り替える。
「……聖域が見えたら、下ろしてくれ。其処からは歩く」
「別に最後まで運んでくぞ?お前、重くないし」
「…良いから下ろしてくれ」
この状態を諦めはしても、せめて人目に見られる事だけは避けたくて、スコールはそれだけは強く念を押したのだった。
11月8日と言う事で、プリッシュ×スコール。
意地っ張りスコールと、その意地を気にしないプリッシュでした。
小柄な女子に軽々と抱えられてしまうスコールは好きです。プリッシュならやってくれそうだなと。勿論彼女に揶揄う気も何もないので、スコールは何か言うのもバカバカしくなってされるがままになったら良いな。
プロの水球選手であるジェクトは、学生のうちにその名を広く知らしめ、プロプレイヤーになってからはあっという間にスターへの階段を駆け上がった。
若くして名声を欲しいままにしたジェクトは、その道の真っ只中にファンであったと言う一般人女性と結婚し、一男を儲けるに至る。
しかし、息子の誕生から数年後、病気により妻は急逝───それ以降は、男やもめで一人息子を育てる事となる。
父子二人の生活が始まったジェクトにとって、何よりも援けとなったのは、新しい生活を始めた際に引っ越して出会った、マンションの隣部屋の一家だ。
ジェクト同様、妻を失ったと言うその部屋の住人は、父一人子二人と言う組み合わせ。
幸運だったのは、二人の息子の内、弟の方がジェクトの息子ティーダと同い年だったと言う事だ。
急激な環境の変化と、まだ受け止め難くもあった妻(母)の急逝で、ジェクトとティーダの間はぎこちなさが露わとなり、二人きりでの生活と言うものに、ジェクト自身多くの不安があった。
それを隣家が気遣い、気の良い父と、良く出来た長男が気を配り、引っ込み思案だが思いやりのある次男がティーダの友達になってくれた事で、ジェクトは随分と楽になった。
それから近所付合いは長く長く続き、次第に息子の手を離せるようになって来た。
父親に対して何かと対抗意識が強かった事や、ジェクト自身に生活力が中々乏しい事もあって、ティーダが自立意識を強くするのは早かったと言って良い。
隣家の兄が十代の内に、父の為にと家事全般を引き受け、弟がそれを手伝おうとしていた姿にも刺激されたか、ジェクトが気付いた時には、一人で簡易ながら家事諸々が出来るようになっていた位だ。
ジェクト自身から見ても、あいつの方が余程しっかりしている、と言えるほど、ティーダは立派になっていた。
だが、まだまだ親の庇護が必要な年齢である事には変わりないから、全くの手放しにするつもりもない。
妻が生きていた頃から、水球に心血を注ぐ余りに、家庭と言うものをきちんと見ていなかった罪の意識もあって、ジェクトはティーダが成人するまでは、出来る限り守り養っていくつもりである。
とは言え、息子から常に目を離せない、なんて言う時期が過ぎたのも確か。
息子が成長して行くに連れ、隣家との信頼関係の構築もあり、ジェクトはティーダを隣家に預け、次第に海外遠征で家に帰らない日が増えるようになる。
その内に年の半分は不在、ティーダが高校生になる頃には、彼はほぼ一人暮らし同然と言う環境が定着した。
そして、シーズンオフでも、取材やショーと言った仕事が増えて行くと、いよいよジェクトが母国に帰る時間は減って行く。
こういった環境を鑑みてか、息子は電話越しに「もう平気だよ」と少し素っ気なく言った。
だからアンタは好きにしろよ────と、突き放す形にも似たその言葉が、親離れの始まりだったのだと思う。
同時に息子は、真っ直ぐに父の背中を見て、己の力でそれを追い駆けて行く事を選んだのだとしたら、いつかその背が追い付いて来るまで、ジェクトは誰よりも強く在らねばなるまい。
そう思ったから、ジェクトも不器用に繋ぎ続けていた手を解いたのだ。
そして競技に集中する為に、ジェクトは海外へと己の拠点を移した。
チームが保有する練習施設の近くにあるマンションを一室借り、其処で生活しながらコンディションを整え、試合に出場する。
オフシーズンには取材を受け、市や国が主催するエンターテイメントショーに出演してパフォーマンスを行う。
スター選手として名が知れているジェクトは、テレビ番組への出演を求める依頼も多く舞い込んでおり、時にはシーズン最中の試合に出ている時期よりも忙しく感じる事もある。
ジェクトがサービス精神旺盛にして見せるものだから、ファンは更に増え、彼の豪快で派手なパフォーマンスを見たがる者も増えて行った。
並行して当然ながらジェクトへのイベントやテレビの出演依頼は急増して行き、彼専用のマネージャーが必要とされるようになる。
それが、近所付合いも長くなり、幼い息子を預かる度にしっかりと面倒を見て、躾までしてくれた、隣家の二人息子のうちの兄───レオンであった。
以前は幼い弟達を守り慈しむ為にあったレオンの手は、今現在、ジェクトの為に忙しなく働いている。
ジェクトの仕事のスケジュール管理は勿論のこと、パフォーマンスの質を落とさない為、健康管理を初めてとした生活環境のコントロールを行っているのはレオンなのだ。
酒好きで知られたジェクトが、試合前に無茶な飲み方をしないように、目を光らせるのも彼の役目である。
お陰でジェクトの遅刻癖もなくなり、中々に頭に血が上り易いジェクトを諫める役も果たし、チームの運営陣からは「レオンでなくてはジェクトのマネージャーは務められない」と言う程の有能振りを発揮していた。
実際、ジェクトもレオンを頼りにしている所は多くあり、そして彼だからこそ信じて任せられると思っている自覚もあった。
────そんなレオンとジェクトは、“パートナー”だ。
それはプロスポーツ選手とそのマネージャーとしてだけではなく、密かなプライベートの間柄としても、そう言った名で呼べるものとなっていた。
マネージャーとしてジェクトの身の回りの管理を徹底する、と言う目的もあり、現在レオンはジェクトと共に生活している。
ジェクトが買ったマンションに住み込ませて貰い、食事は勿論、財布の管理も彼の仕事だ。
こう綴るとジェクトには堅苦しい生活をしているように聞こえるが、ジェクトもレオンも大人である。
チームや運営組織内での人付き合いと言うものに必要な費用と言うのも、レオンは判っていた。
また、ジェクトも決して考えなしに散在する訳ではない───酒が入ると、ただでさえ大きな気が更に大きくなる為、店の客全員に奢るなどと言うことをするので、その時はかなりの数字が吹っ飛んでいく為、レオンは少々頭を痛めていたりする───ので、レオンに財布の紐を預ける事も納得している。
そして大会試合が近くなると、ジェクトの生活はストイックになって行く。
練習のメニュー、食事のメニューと言った所から、体調も常に万全に保ちつつ、相手チームの研究も怠らない。
チームミーティングも遅くまで続くし、新たな戦術の考案にも余念がない。
そうした日々が続く内に、いよいよ試合を明日に控えると言う頃になると、やはり彼もピリピリと尖らせた空気を纏うようになる。
緊張している、と言う気持ちも全くないではないが、彼の場合、その緊張は不安よりも興奮から来るものであった。
相手がどんなチームであろうと、どんな作戦手段を使って来ようと、正面から捩じ伏せてやる。
戦闘意欲とも呼べるそのエネルギーを、今にも爆発させそうな程に蓄えて、ジェクトは試合当日を迎えるのだ。
その為に、レオンも試合がスタートする瞬間まで気が抜けない。
「────明日の朝食はこんな所で良いか?」
リビングで今日一日の振り返りを済ませ、いよいよとなった明日の為、最後の調整となるもの。
その日のコンディションの足掛かりとなる朝食メニューについて、レオンがメモに走らせたものをジェクトに差し出すと、ジェクトはそれを受け取って、
「……」
「何か必要なものがあるなら足すが」
「お前の計算なら十分なんだろ?」
「まあ、一応。でもゲン担ぎでもしたいならと思って」
「ンなもん要らねえよ」
「だと思った」
メモをレオンに返しながら、全幅の信頼を寄せたジェクトの言葉に、レオンはくすりと笑う。
「先に寝てくれ。朝の仕込みをしておくから」
朝食に必要となるもので足りないものはないか、冷蔵庫の中身を確認するべく、レオンは腰を上げる。
キッチンに向かうその背中を、ジェクトはじっと見詰めていた。
てきぱきと仕込みを始めた青年は、とことん真面目で、いつでも仕事に手を抜かない。
幼い頃からそうやって父を支え、年の離れた弟を育てたレオンは、ジェクトと知り合った頃から、“しっかりし過ぎている”位の子供だった。
それは母を亡くし、遺された弟を守らねばと言う気持ちと、父を助けるべく、早すぎる自立を目指したが故。
お陰でレオンは、自力で何でも熟す事が出来るほどにしっかりとしたのだが、その反面、大人への甘え方と言うものを忘れていた。
本人でさえ無自覚であったのだろう、その一面を引き出したのは、他でもないジェクトである。
迷惑をかけたくないと、父親にすら覗かせる事を拒否したレオンの深層意識にある甘え心を、ジェクトはいつの間にか見付けていた。
それからふとした瞬間に零れ見える彼の表情が放って置けなくて、不器用なりに少し強引にレオンを甘えさせている内に、二人は今の関係へと至る。
大人同士がそう言う関係になっている訳だから、付き纏うものも当然ある。
同性であってもそれが成り立つ事に初めは少し驚きもしたが、ジェクトも枯れた年齢ではないし、レオンはもっと若い。
盛んと言えば盛んな年齢であるので、二人が体の関係まで持つまで、それ程時間はかからなかった。
───此処しばらく、試合の為に全てを注ぎ込んだ日々を送っているお陰で、其方の方は随分とご無沙汰だ。
それが試合の前日となって、最高潮に達しているのを、ジェクトは自覚していた。
「おい、レオン」
「何だ」
ジェクトが声をかけると、レオンは卵を割りながら振り返らずに返事をした。
菜箸を使い、慣れた手付きで卵を解しているレオンの下に、ジェクトはゆっくりと近付く。
フライパンを取り出して油を引き始めたレオンの体に、ジェクトは覆い被さるように密着した。
薄い腹───と言っても標準以上の引き締まりはあるのだが───に腕を回し、閉じ込めるようにその体を抱いてやる。
そうすると、背中に当たるものに、レオンも背後の男が言わんとしている事を察したようで、
「しないぞ」
「まだ何も言ってねえだろ」
「当ててるだろう」
「じゃあ判んだろ?」
「だからしないって言っただろう」
昂ぶりの有様をありありと示している感触に、レオンは先んじて要求を封じた。
それでもジェクトは諦め悪く食い下がり、レオンの腹を大きな掌でするりと撫でる。
と、その手の甲の皮を思い切り抓られた。
「いっててて!」
「全く……」
筋肉や骨は鍛えて太く出来ても、皮と其処に這う神経はどうしても鍛えられない。
悲鳴を上げてやっと抱く手を放したジェクトに、レオンはやれやれと溜息を吐いた。
「試合は明日だぞ。こんな所で体力を使ってどうする」
「一晩くれえ問題ねえよ」
「持て余してるエネルギーは、明日の試合にぶつける為に取っておけ」
「かかり過ぎるのも良くねえもんだろ。ガス抜きさせてくれよ」
「そう言って“ガス抜き”で終わらなくなるだろう、あんたは」
経験則だと、レオンは言った。
「朝までがっつかれるのは御免だ。俺だって明日も仕事があるんだから」
「そんなにしねえよ。そうだな、日付変わる位まで」
「あんたが止まってくれる気がしない。前もそう言って、結局明け方になったじゃないか。その所為で寝坊はするし、調整の詰めも中途半端になったし。試合は勝ったけど、あんたの動きは酷かったぞ」
忘れたとは言わせない、と蒼の瞳がじろりとジェクトを睨み付ける。
ジェクトはそんな事もあったなと、明後日の方向を見て逃げた。
闘争心の塊になったジェクトは、火が付けば正しく獣のような荒々しさを発揮する。
試合のリズムとそのエネルギーの波長が見事にかち合えば、文字通り、破竹の勢いで相手チームを撃破するに違いない。
圧倒的なフィジカルパワーで試合の流れを作り出し、まるで滝を遡る龍のように、その勢いは凄まじい。
その為にこそ、今くすぶり続けているジェクトのエネルギーの奔流は、無駄遣いする訳にはいかないのだ。
と、言う理由もありながら、レオン個人としては、もう少し別の所に本音がある。
それだけのエネルギーを持て余している訳だから、こんな時のジェクトとセックスをすると、その熱が全て自分に流れ込んで来るのだ。
時に首筋に痕が残る程に噛み付かれ、猛獣に襲われているような錯覚すら覚える程、それは激しいものになる。
当然、その翌日にレオンがまともに動ける筈もなく、仕事に支障が出ないように工夫するのも一苦労。
過去にその経験をしているから、レオンは今日と言う日は絶対にジェクトとセックスはしない、と決めている。
「あんたが本気になると、俺じゃ敵わないんだから、ちゃんと我慢してくれ」
「……へいへい。判ってるよ」
レオンの言葉に、ジェクトは拗ねたように唇を尖らせつつも頷いた。
我儘を言っている自覚はあったし、正論は完全にレオンの方にある。
あまりしつこく食い下がっても、レオンの機嫌を損ねるだけだと、ジェクトも理解していた。
傍にいるとまたムラムラとして来そうで、ジェクトはいそいそとキッチンから離れた。
リビングのソファに戻ったジェクトは、すっかり見慣れた天井を見上げ、「あー……」と気の抜けた声を出す。
レオンの言う通り、明日は大事な試合なのだから、下手な事はしないでさっさと眠り、体力を温存させておくべきだ。
気晴らしにテレビでも見てから寝ようと、ソファ横のテーブルに置いてあったリモコンを手に取る。
そう言えば母国の方はどうなっているだろうと、衛星チャンネルをつけて、恋人の言葉以外で久しぶりに聞く母国語のニュースをぼんやりと眺めていると、
「ジェクト」
「あー?」
呼ぶ声に、ジェクトはテレビを眺めながら返事を投げた。
と、ふっと後ろから影が差して、首を後ろへ傾ける形で視線を上へと上げると、電灯の逆行を受けて見下ろす恋人の貌がある。
「明日の試合、勝つんだろう?」
「当たり前だ」
何を聞くんだ、と言う表情で、ジェクトはレオンの言葉に返す。
するとレオンの双眸が、すぅと細められて笑みを浮かべ、
「じゃあ、明日はあんたの好きにすると良い」
「……ふぅん?」
「勿論、あんたがベストな仕事をして、勝てたらの話だが」
負けたらこの話はナシで、と言うレオンに、ジェクトの口元が笑みに歪む。
ソファの背凭れに乗せていた腕を持ち上げ、見下ろす青年の頬に触れてやれば、レオンの方から猫のように摺り寄せて来るのが判った。
「言ってくれるねえ。俺を誰だと思ってんだ?」
「ケダモノ」
「この」
言ってくれる恋人に、ジェクトはその頬を抓ってやる。
幼い頃はまだ丸みがあったが、今はすっかりシャープな輪郭になったので、レオンの頬は大して伸びない。
母国にいる彼の弟や、息子のティーダなら、まだ摘まむ余裕位はあるだろうか。
そんな事を考えるジェクトの唇に、レオンのそれが落ちて来る。
カサついて罅割れ気味のジェクトの其処を、レオンの舌が潤すように一舐めすると、ジェクトの腕が捕まえようとするのを察したように、レオンはするりと逃げて行った。
「おやすみ、ジェクト」
「寝らんねえよ。どうしてくれんだ」
「一杯くらいなら飲んで良いぞ」
「しゃーねえ、手酌で我慢するかね」
悶々と眠れないまま過ごすのも、時間と体力の無為な浪費だ。
ジェクトは今夜の体温のことは諦めて、適当な手段で睡眠を呼び込もうと、アルコールを準備するべく腰を上げた。
冷蔵庫の横に備えているワインセラーからウィスキーのボトルを取り出し、食器棚から適当にグラスを取る。
一杯だけだぞ、とレオンが釘を刺してきたので、へいへいと返事をしながら酒を作った。
氷の揺れる音がするグラスを手に、付けっ放しのテレビの前へと戻って、ジェクトはソファに腰を沈める。
この国で流れるニュースに比べると、遥かに平和なニュースばかりの母国の時事情報を聞き流しながら、ジェクトはのんびりとグラスを傾けた。
一杯限りのアルコールは、勿体ぶる程の量もなく、程無くグラスは空になる。
それを持ってシンクに行くと、調理の終わった道具を洗っていたレオンが気付き、
「置いておいてくれ。まとめて洗っておく」
「おう」
「明日は7時には出るからな。朝飯は6時頃か」
「判ってる判ってる」
忘れるなと重ねて言うレオンに、ジェクトは濃茶色の髪をぐしゃぐしゃと撫でながら言った。
さて寝るか、と寝室に向かおうとしたジェクトであったが、ふと気になった事を思い出して足を止める。
「おい、レオン」
「なんだ」
「明日、俺の“好きに”して良いんだな?」
聞き間違いではないよな、と確かめる意図で問うてみる。
するとレオンは、手許の洗いものに落としていた視線を持ち上げてジェクトを見た。
蒼の瞳がゆるりと細められて、含みを含んだ笑みが浮かぶ。
それを見るだけで、ジェクトの中で微睡み始めた獣が起きる事を、この青年は知っている。
知っていて、このタイミングでそんな表情を浮かべてくれる恋人に、ジェクトはくっと笑った。
「性悪」
「何の事だか」
白々しい事を言ってくれるレオンに、ジェクトは今日の所は白旗を挙げた。
寝起きの獣が本格的に暴れ始める前に、酒の力でさっさと寝落ちてしまおう。
背を向け、じゃあな、と手を振るジェクトに、おやすみ、と言う声が投げられた。
10月8日なのでジェクレオ。
しっかり手綱を握っているレオンと、そんなのも悪くはないよなと思っているジェクト。
明後日のレオンは起きれないんでしょうね。判ってるからしっかり休みは確保してると思います。
学生二人の生活は、中々快適でもあるし、不便でもある。
監視的な意味を持つ大人が同じ空間にいない為、生活の様式や、日々の暮らし方と言うのは、基本的に気儘な所があった。
スコールはスケジュールを組むとそれを守りたいと思う所はあるが、実の所、彼の実生活と言うのは案外物臭なものだったりする。
生真面目な性質と、相反して何事にも腰が重い性質が同居している為、スコールは自分が気にならない所はルーズになる一面があった。
朝に弱いので、土日や休みの日なんてものは、ずるずるとベッドの中で過ごしているし、食事にもそれ程執着がないから、パン一枚でも齧れば良いだろう、とする事もある。
一方で、真面目な部分と言うものは、勉強の進み具合だとか、学校から帰ったらすぐに課題を広げて片付けてしまうとか、そう言った部分に発揮されていた。
ティーダはと言うと、きっちりかっちりと言う管理が苦手で、予定を立てるのはいつも大雑把だ。
聞こえがよく言えば、何事にも大らかで、ポジティブな言動と相俟って、丼勘定と勢いで乗り切る所がある。
そんなものだから、課題をするのを忘れたり、授業に必要なものを忘れたりと言う事も少なくなく、幼馴染であり同居人であるスコールに、両手を合わせて教材を借りに行く事も頻繁だった。
反面、彼は好きな事については徹底的にストイックになる一面があり、それに関しては、まるでスイッチが切り替わったように管理を怠らない。
朝早くから決まった時間にランニングに行ったり、昼休憩には自主練習、放課後の部活も余程の事がなければ欠かさない。
その努力はしっかりと彼の実力として実を結び、ティーダは二年生にして、水球部のエースの名を欲しいままにしていた。
そんな正反対な二人であるが、生活を始めると、これが存外と上手く噛み合う。
元々付き合いも古く、よく知った仲でもあるし、互いがそれぞれに何を優先しているかも判っている。
且つ共に周りの事が確りと見えていて、自分よりも他者に合わせようとする所もあった。
だからもしも、全く知らない人間との同居であれば、息苦しさを感じる程に遠慮したり、角を立てまいと過剰に相手の都合を優先させてしまった可能性もあったが、幸い、彼等は幼馴染だ。
譲る所と譲らない所、相手が何を一番に考えようとしているかの予測は、遠からず当たる。
その上でそれぞれに折り合いを付けて行く内に、生活の歯車は綺麗に噛み合ったのであった。
二人の生活において、家事雑事は基本的に当番制を取るようにしているが、食事の用意はスコールが担う事になっている。
共に父子家庭と言う背景もあり、幼少期から父───スコールは其処に年の離れた兄も加わる───の手を援ける為に家事に手を出していたので、ティーダも料理が出来ない訳ではないのだが、日々の栄養管理から何から、スコールの方がよく気が回る。
二人の学校では、部活も長い時間が使われているし、食材の買い出しやら何やらと言うのは、放課後がフリーになっているスコールの方が都合がついた。
そう言う訳で、食事に関してはスコールが預かる事になり、ティーダはそれ以外───掃除や洗濯ものの片付けなど───を週の半分以上を引き受ける事で折半とした。
そんな風に二人の生活様式が固まった結果、スコールは、ティーダの毎日の早朝ジョギングに合わせて、きちんと決まった時間に布団を出る。
ティーダが帰って来た時には、バランスの取れた朝食が用意されており、二人揃って食べた後は、ティーダが片付けを請け負う。
それから揃って登校、土日休みの場合は朝に弱いスコールが二度寝しに行くのがパターンだ。
そうなってもスコールは昼にはちゃんと起きて来るし、ティーダも時間が空くとスコールから「課題は終わったのか」と詰められるので、休みだからと遊び惚ける事もない。
生活の流れが“自分一人だけのものではない”と言う環境が、気を抜けば奔放にもなり易いであろう、若者二人の生活にメリハリを作っていた。
案外としっかりとしている生活を送る少年達であるが、その傍ら、大人がいない大変さも理解している。
特に、試験期間に突入すると、少年達はそれを痛感せずにはいられない。
来週に控えた試験の為、言い訳を付けてそれから逃げたがるティーダを捕まえ、スコールはリビングダイニングのテーブルで勉強時間を設けた。
大袈裟な事にも思えるが、こうでもしないとティーダがいつまでも現実逃避をするのだから仕方がない。
前回の試験で、苦手な教科が赤点ギリギリだった事で、ティーダは部活禁止一歩手前のイエローカードが出ている。
学生の本分である勉強が疎かになるのなら、チームのエースと言えど部活はさせない、と言うのが顧問の方針だ。
スコールもそれを知っているから、今回はなんとしてでも逃がさないと、縛る勢いでティーダをテーブルに縫い留めている。
しかし、今回スコールがティーダの為に出来るのは其処までだった。
普段はスコールも自分の理解が深まるからと、ある程度まで彼に勉強を教える事を寛容しているのだが、今回はその余裕がない。
スコール自身の苦手範囲が複数の教科に渡って当たってしまい、人を気にする暇がなくなったのだ。
「うー……」
「……」
「んん~……」
「……」
「ぐぅぅ~~~……!」
ティーダは、鼻と口の間にシャーペンを乗せたり、歯を食いしばって問題文を睨んでみたり。
答えを穿りだそうとするように、金色の髪を両手でぐしゃぐしゃと掻き回したりと、忙しなくしながら、開いた問題集と対峙している。
その唸り声が鳴る度、スコールの眉間には皺が増えていくのだが、今のスコールはそれを煩いと叱る時間も勿体無かった。
また、ティーダが唸っているのはふざけているからではなく、スコールの余裕のなさを理解しているから、その邪魔をしないように、自分でなんとかしようと頑張っているからだ。
スコールもそれが判っているから、唸る位は目くじらを立てまいと思っている。
しかし、ティーダの問題集は勿論のこと、スコールの手元に開いたプリントも、遅々として進まない。
言葉と言うものの不可解さを、幼い頃から感じ続けているスコールにとって、その分野は意識からして気が進まないものだった。
そう言った気持ちの邪魔もあって、プリントに綴られる問題文に対し、重箱の隅を突いてやりたくなる。
「うぐぅ~~~~~!」
「………はあ……」
向かいの席から、今日一番の唸り声が上がって、スコールはそれをちらりと見て溜息を吐いた。
持っていたシャーペンを転がし、席を立ったスコールを見て、ティーダが抱えていた頭を上げる。
「スコール?」
「……休憩だ。コーヒー淹れる」
「俺のも頂戴、砂糖とミルクも」
ねだるティーダに、そのつもりだと、スコールは無言で食器棚からマグカップを二つ取り出した。
コーヒーの淹れ方は、父から兄へ、兄から弟へと受け継がれている。
豆に拘りがある程ではないが、淹れ方は兄から教わったものをそっくり真似ていた。
その甲斐あってなのか、ティーダはスコールが淹れたコーヒーが好きだと言う。
ただし、彼は苦いものが得意ではないので、ブラックではなく砂糖1杯とミルク少々が欠かせない。
コーヒーが出来るのを待つ間に、テーブルに突っ伏したティーダがスコールを見ながら言った。
「なあ、スコール」
「教えるのは無理だぞ。俺も余裕がない」
先に封じる形でスコールが言うと、ティーダは「判ってるって」と言って、
「そりゃ教えてくれたら一番嬉しいけど。そうじゃなくてさ、やっぱりモチベーション上がらないから、ちょっとだけ応援とかしてくれないかなって」
「応援?」
ティーダの言葉に、スコールは分かり易く顔を顰める。
勉強の応援なんて、まさか横で拍子を叩いて笛を吹けとでも言うのか。
スコールの頭の中には、体育祭の時に見た、学ランに鉢巻きスタイルで応援合戦をしている生徒の様子が浮かぶ。
そんな事を想像してしまったものだから、スコールは露骨に顔を顰めていたのだが、ティーダは気にせずに続けた。
「頑張ったらご褒美、みたいなさ。お願い一つ叶えてくれる、とか」
「…言いたい事は判ったけど。テストで頑張るのは、俺もなんだが?」
「判ってるって。だからスコールには、ちゃんと俺からご褒美あげるから」
それなら良いだろ、と言うティーダに、何が良いのか……とスコールは思うが、不公平よりは余程良い。
決して好きでもない勉強に嫌でも齧りつかねばならないのなら、その褒賞を貰う位、願っても罰は当たるまい───と言うティーダの言葉には、スコールも概ね同意であるが、
「……で、あんたは何が欲しいんだ?」
話の主題は、ご褒美云々ではなく其処だろう、とスコールは読んでいた。
確かに勉強へのモチベーションを上げると言う目的もあるのだろうが、ティーダが一番求めているのは、やる気云々ではない。
延々と続く山道を登った先で食べる、美味しい美味しい弁当の中身を、彼は欲しがっているのだ。
それを読んで、スコールは直球に訊ねてやった。
大方、夕飯のメニューか、そうでなければ新作ゲームあたりだろう────と思っていたのだが、
「テストが終わったらさ。色々気にしなくて良くなるだろ」
「……まあな」
「試験が終わればゆっくり出来るし」
「補習もなければな」
「うぐ。うん、そう、それもそう」
痛い所を刺されて、ティーダが一度口を噤む。
じわじわと効いて来るであろうスコールの一言を脇に追い遣りつつ、だからさ、とティーダは言った。
「でさ試験終わった次の日って、土日だろ?」
「ああ」
「だからその時にさ、」
エッチしよ。
ティーダがそう言った瞬間、がちゃん、とスコールの手元でマグカップが音を立てる。
入れたばかりのコーヒーが、シンクの中に茶色い川を作って、排水溝へと流れて行った。
スコールは取り落としてしまったマグカップが、幸運にも罅も入らず無事だったことに安堵しつつ、耳まで赤くなった顔でティーダを睨む。
「何言ってるんだ、あんたは!」
「良いじゃないっスか、ずっと我慢してるんだから!」
「だからってそんな事、試験明けにする事じゃないだろ!」
「じゃあいつなら良いんだよ。スコール、いつもそんな事言って全然やらせてくれないじゃないっスか!」
「でかい声で言うな、そんなこと!」
「スコールの声もでかいっスよ!」
羞恥心から声を荒げるスコールに、負けじとティーダの声も大きくなる。
が、此処はセキュリティこそしっかりとしてはいるものの、そう広くはないアパートマンションの一室だ。
壁の厚みはそこそこあるとは言え、若者二人の腹から出した声を全て防いでくれる程、上等な施工はされていない。
スコールは湯気が出そうな程に赤い顔で、シンクに転がしてしまったマグカップを拾う。
勿体無い、と呟きながら、とソーサーに残っていたお代わり分のコーヒーを注ぎ直していると、
「なあ、スコール。なあってば」
「煩い」
「俺、ちゃんと頑張るから」
ティーダの声は真剣だった。
その声を、もっと違う流れで聞きたかった、とスコールは思う。
淹れ直したブラックコーヒーと、砂糖とミルクを入れたコーヒーを手に、テーブルへと戻る。
ティーダの前に彼のコーヒーを置いて、元の位置へと座り直すと、スコールはプリントを手繰り直す。
転がしていたシャーペンを取って、並ぶ問題群に視線を落としていると、
「スコール。スコールってば」
「………」
「……やっぱ駄目?」
呼ぶ声を無視していると、「だよなぁ」と諦めの混じった笑い声が聞こえた。
ちらとスコールが見遣ってみれば、ティーダは湯気を立てているコーヒーに息を吹きかけて冷ましている。
程好く表面が冷めた所で口を付け、ふう、と一息吐いて、彼も改めてシャーペンを握り直す。
────今回、自分がティーダを援けられない以上、ティーダには自力で頑張って貰わなくてはいけない。
その為に必要不可欠なのは、彼自身の勉強に向ける意欲的エネルギーだ。
普段からそれは半ば枯渇気味ではあるのだが、ティーダは基本的には前向きな思考をしているので、ささやかなご褒美のようなものでもあれば、一応はそれを目標にする事が出来る。
それを考えれば、ティーダが自ら希望した“ご褒美”と言うものは、効果的と言えるだろう。
同時に、ティーダが求める“ご褒美”は、スコールにとっても強ちそうと言えなくもないのも事実で。
「……」
「うーん……」
問題集に向き直ったティーダは、先程よりは落ち着いた様子で、数字の羅列を見つめている。
考えているのか、眺めているのか、微妙な所ではあったが、ご褒美云々とは関係なく、次のテストの対策をしなければと言う気持ちはあるのだ。
コツ、とスコールの手元で、シャーペンが小さく机の天板を鳴らす。
紙に置かれた芯が僅かに黒鉛を滑らせて、芯の触れた痕が小さく残った。
スコールはじっとそれを見つめた後、顔を上げる。
「ティーダ」
「ん?」
名前を呼ばれて顔を挙げたティーダは、いつもの顔をしている。
ついさっき、自分がねだった言葉など忘れたようなその表情に、スコールは一瞬、口を開くのを躊躇ったものの、結局は意を決してそれを告げた。
「頑張るのは、当たり前のことだから、ご褒美とかは関係ない」
「っスよね~」
スコールの言葉に、判ってた、とティーダが表情を崩す。
ちょっとだけ残念───と言う気持ちも滲むその顔を見つめながら、スコールは続ける。
「だから、ご褒美が出るのは、ちゃんと結果が出たらの話だ」
「ん?」
「…全教科でそれぞれ平均点。採れたら……良い」
「え」
「採れたらな」
其処まで言って、スコールは手元のプリントへと視線を戻す。
黙々と問題を解く手を再開させたスコールに、ティーダはぱちぱちと瞬きを繰り返していた。
ええと、と今し方、幼馴染の口から告げられた事を頭の中で再生させ、その意味を考えること数秒。
ようやくその意味を汲み取り始めてから、その内容にまだ頭がついて行かなくて、もう一度聞いて確かめようと見た幼馴染が、伏せた顔を耳まで真っ赤にしている事に気付く。
うずうずと、ティーダは今すぐ目の前の幼馴染兼恋人に抱き着きたかった。
しかしスコールは筋金入りの恥ずかしがり屋で天邪鬼だから、きっと振り払われてしまうだろう。
その上、折角約束してくれた”ご褒美”を反故にされてしまっては勿体ない。
しかし、湧き上がる気持ちまでは誤魔化しきれなくて、せめてそれだけは吐き出さなくては、息が詰まりそうだった。
「スコール!」
「なんだよ」
「俺、絶対良い点採るからな!」
「判ったから集中しろ」
もうこっちを見るな、と苦いものを噛む口でスコールは言った。
それが恥ずかしがっているからだと判っているから、ティーダの口元は緩んでしまう。
ティーダは両手で自分の頬を叩いて、気合を入れ直した。
赤らんだ頬で問題集に臨む幼馴染を、スコールはちらりと見遣って、現金振りに呆れてこっそりと溜息を吐く。
その傍ら、甘やかしてしまった自分の胸の内に燻る期待だけは覚らせないように、努めていつもの仏頂面を浮かべるのだった。
10月8日と言う事で、ティスコ!
お盛んだって良いじゃない、17歳だもの。
試験明けに一杯いちゃいちゃすれば良いと思います。