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2017年08月
少しは洒落た格好をして行ったらどうだ、と言われて、ガラじゃねえよ、とラグナは言った。
が、やはり少しは努力してみるべきだったかも知れない、と今になって思う。
年下の青年と恋人同士と呼ばれる関係になってから、数ヵ月が経つ。
人事異動でラグナの新たな部下となった彼は、真面目で良く気配りの出来る人物で、とても優秀だった。
その優秀さの影には、彼自身の多大な努力と、周囲に対する過剰な程の気遣いがあり、ラグナはそんな彼に少しでも気を楽に過ごしてくれたらと言う気持ちから、交流を深めていた。
それが恋心にまで発展していた事には驚いたが、他の者には一切弱った所を見せない彼が、ラグナにだけは少しずつ甘える様子を見せるようになってから、ラグナの彼への庇護欲は一層増した。
不器用な彼を大事にしたい、甘やかしてやりたいと思ってから、然したる時間は置かず、ラグナは彼と深い関係となった。
が、元々職場が同じである事や、男同士である事、同僚や他の上司に気付かれて妙な噂を立てられる事を嫌って、二人の関係は秘密にされている。
ラグナは周りに何を言われても気にしなかったが、青年の方が酷く気にしていた。
それも、自分に対する噂話云々ではなく、噂によってラグナが誹謗中傷されるのではないか、と言う事を危惧している。
この為、二人は恋人同士となってからも、人前で親密な言葉を交わす事はなく、恋人らしい逢瀬の時間と言うものは、殆ど存在しなかった。
そんな青年を、なんとか宥め説き伏せて、ラグナは彼と一緒に出掛ける日を作った。
所謂、デートと言う奴だ。
浮ついた言葉に夢中になるような年齢ではないが、やはり恋人同士と出掛けると言うのであれば、そう呼ぶのが良いだろう。
青年は友人知人に見付かる事を心配していたものの、ラグナと一緒に出掛けられると決まった時には、仄かに眦を緩めて嬉しそうに笑っていたから、嫌と思ってはいないのだろう。
それさえ判れば十分だ。
そしてデートの当日、ラグナはいつもより早く起きて、しっかりと出掛ける支度を整えた。
いつもなら、ギリギリの時間に起きて、ばたばたと慌ただしく準備をし、パンを齧りながら家を出るラグナが、今日は予定の十分前には身支度を済ませていたのだから、気合の入り様も判ると言うものだろう。
その反面、流行だのお洒落だのと言うものには興味がないから、服装はいつもと大して変わらない。
流石に休日のお決まりになっているチノパンやサンダルは避けたが、シルエットは似たようなものだ。
不格好ではないようにしたから、これで良いよな、とラグナは思ったのだが────待ち合わせ場所を前にして、ラグナはそんな自分に頭を痛めていた。
人の多い所はちょっと、と彼は言ったが、やはり駅前が何処に行くにも便利だろうと、待ち合わせ場所に指定した。
案の定其処は人の波で溢れており、人との待ち合わせに立っている者も沢山いる。
その人込みの中で、埋もれない存在感を持っている人物が一人。
濃茶色の髪、蒼灰色の瞳を持った青年────ラグナの恋人、レオンである。
レオンは、200mlのペットボトルを片手に、太陽の下でぼんやりと立っていた。
ただ立ち尽くしているだけなのに、その姿はとても絵になる。
黒のTシャツに、白のカーディガンと、ボトムはすっきりとしたシルエットのデニムパンツと、服装だけで言えば、何処にでもいる若者と変わらない。
しかし、整った容姿、無駄な肉のない体つき、バランスの取れた長い手足等、まるでモデルのようだ。
それを見て、ラグナは今更ながら、自分の格好を後悔していた。
(あー、もうちょっと頑張るべきだったかなあ…)
余りにもラフな格好は避けたが、彼と並んで歩くには、少々心許ない気がする。
しかし、今から帰って新たに服を選んでいる時間はないし、クローゼットの中にある私服なんて、どれも似たような物しかない。
何より、この夏の炎天の下、日陰にも入らず、律儀に指定した待ち合わせ場所でじっと立っているレオンを、これ以上待たせる訳にはいかない。
周囲の人々が、その容姿に惹かれて、ちらちらとレオンを見ているのが判る。
そんな中で腹を括って、ラグナは恋人の下へと駆け寄った。
「レオン!」
「ラグナさん」
名前を呼べば、振り返った蒼が嬉しそうに窄められて、名を呼び返される。
「悪い悪い、遅れちまったかな」
「いえ、時間ぴったりですよ。俺も今来た所ですから」
レオンの言う通り、時計を見れば、待ち合わせの時間丁度。
しかし、レオンの「今来た」と言うのは嘘だろう。
その証拠に、レオンの顔は強い陽に当てられた所為で、熱を持って赤らんでいる。
ラグナは、遅刻しないなんて話ではなく、もっと早く来るべきだった、と思った。
ラグナはさりげなくレオンを日陰へと誘導した。
木陰へと入ると、やはり暑いのを我慢していたのだろう、レオンが微かにほっとした表情を浮かべる。
「えーと、んじゃ、取り敢えず……昼飯かな」
「そうですね」
「此処ら辺は、店は多いけど、何処も一杯かなあ」
「丁度昼のピークですから、埋まってそうですよね」
交差点の向こうには、ファーストフード店がずらりと並んでいるが、此処から見えるだけでも、何処も人で溢れている。
レオンは人込みはあまり好きではないし、ラグナも食べるのならゆっくりと食べたい。
少し探してみようか、とラグナが言うと、レオンは頷いた。
都心の真ん中にあって、若者たちが集う服飾店が近くにある多いお陰か、食べる場所を探すだけなら事欠かない。
大通りに面した道は勿論、路地を一つ二つ曲がっても、美味しそうな看板を掲げた店は幾らでもあった。
しかし、駅に近い場所は、何処も彼処も満席だ。
食事を終えても、当分はお喋りに費やす者も多く、直ぐに席は空いてくれそうにない。
「悪いなあ、目星つけておけば良かった」
「いえ、そんな。俺の方こそ、何も決めてなくて。食事の後の事も、まるで何も……」
すみません、と申し訳なさそうに詫びるレオンに、ラグナは首を横に振った。
どちらも何も決めずに今日と言う日を迎えたのだから、お互い様だ、と。
しばらく歩き回った末に、ラグナが見付けたのは、小さな雑貨カフェだった。
看板は小さなもので目立つものではなかったが、ランチメニューが書いてあったので、其処に入った。
女性客がターゲットなのか、メニュー表は軽食よりもデザート類が多かったが、肉料理も掲載されている。
ラグナはチキンのプレートを、レオンはサンドイッチプレートを頼み、食後のコーヒーもオーダーした。
「食べ終わったら、何処に行こうか。行きたい所とかある?」
「……ええと……」
食事の傍ら、尋ねるラグナに、レオンは口籠った。
それ見て、何も決めてないって言ったっけ、とラグナは記憶を掘る。
ラグナは味のしみ込んだチキンを齧りながら、この後の予定について考える。
(デートってなると、やっぱり映画館とか?面白そうな奴、やってるかな。でも映画館に入っちまうと、レオンと話が出来ないなあ)
じっと黙って映画を見ると言うのが、ラグナは余り得意ではない。
隣に親しい人がいるなら、ついつい口を回してしまうのがラグナであった。
しかし、映画館で喧しくするのは良くないし、レオンが映画に集中するようなら、邪魔をする訳にも行かない。
他には、と考えて浮かぶのは、デートの定番である水族館だ。
此処は都会の真ん中だが、ビルの屋上に水族館施設があるのは知っている。
「じゃあ、水族館とかどうだ?涼しいし」
「水族館……じゃあ、海の方ですか?」
「いや、近くにあるんだよ」
どうやらレオンは、この都心に水族館がある事を知らなかったようだ。
驚いた顔を浮かべるレオンに、よし、とラグナは決意する。
「水族館に行こう。俺も一回、行ってみたかったし。良いかな?」
「はい。水族館なんて、初めてだから、楽しみです」
嬉しそうに目を細めるレオンの言葉に、ラグナはほっと安堵する。
食後のコーヒーを傾けながら、以前聞いたレオンの過去から、彼が娯楽施設の類に縁がなかった事を思い出す。
となれば、水族館に限らず、動物園にも行った事がないのかも知れない。
今日は暑いので、動物園に行っても日焼けするばかりになりそうだから、また別の日に計画するのが良いだろう。
支払いをどちらが済ませるかで揉める事、しばし。
仕事の絡む飲み会や、同僚がいる場面では上司であるラグナが気前を良くして支払うのがパターンだったが、今日はデートだ。
その所為か、せめて折半で、とレオンが譲らなかった。
此処でレオンの言葉を断るのはラグナには簡単だったが、そうした場合、レオンが後々まで気にするのは目に見えている。
お互いに気兼ねなく過ごす為にも、今日は金銭の類は分け合うのが妥当であった。
水族館があるビルまでの道は、ラグナが覚えていた。
屋上にある水族館の他にも、ショッピングや飲食店、フロアによっては会議場や宴会場など、複合施設となっている為、ラグナは仕事で何度か訪れた事があったのだ。
なんとか迷うことなくビルに辿り着くと、フロアまで直行のエレベーターに乗り込む。
「ビルの屋上の水族館なんて、不思議ですね。海や大きな川の傍にあるとばかり思ってました」
「判る判る。俺もあんな所に水族館があるって聞いた時は、不思議でさ。魚も水も、どうやって持って上がったんだろうって」
エレベーターはぐんぐん昇り、ガラス窓から見える景色は、地上から遠く離れている。
少し離れた場所を見ると、天を突く程の高さを持った高層ビルが見えたが、この水族館を要するビルも相当の高さである。
水族館受付口となっているフロアに下りると、思いの外其処は空いていた。
平日の午後とあって、土日に比べると客足も落ちているのだろう。
ゆっくり見るのならこれ位の方が良いな、とラグナは思った。
大人二枚のチケットを購入し、スタッフに案内されて、もう一つ上のフロアへと昇るエレベーターへ誘導される。
中に乗り込むと、モニターが付いており、ゆっくりと昇る筐体の中で、水族館の案内映像が流れた。
「おっ。見ろよ、レオン。ペンギンの餌やりが出来るぞ」
白黒の体を左右に揺らしながら、ひょこひょこと歩くペンギンの映像。
その傍らに、餌やり体験の時間が表示されているのを見付けて、ラグナは嬉しそうに声を上げた。
レオンが腕時計を確認すると、餌やり体験まではもう五分もない。
「時間、もうすぐですね。エレベーターを降りてから間に合うか…」
「じゃあちょっと急ごう。餌やりしてから、また最初から見て回ろうぜ」
ラグナがそう言った所で、エレベーターがフロアに着いて、ドアが開いた。
急ごう、と言う言葉の通り、ラグナはレオンの手を握って、引っ張るようにエレベーターを降りる。
「え、あ、ラグナさん?」
「こう言うのって先着順だからな。急がないと一番が取られちまう」
「い、一番って」
「ほら、走ろうぜ!」
「こういう所は走っちゃ駄目なんですよ」
咎めるレオンの指摘に、おっとそうか、とラグナは駆け出そうとする足を緩めた。
それでも早歩きである事に変わりはなく、レオンはそんなラグナに引っ張られ、転ばないように急かしく足を動かした。
通路の足元には、それぞれの展示エリアへの誘導ルートが記されている。
人気のペンギンの餌やりが体験できる場所へもきちんとルートが示されており、ラグナはそれを頼りに歩きつつ、路なりの展示をきょろきょろと見回した。
「結構色んなのがいるなあ」
「そう、ですね」
「…やっぱりちょっと見て行くか?」
ペンギンの餌やりが出来るとあって、テンションが上がってレオンを引っ張って来たラグナであったが、肩越しに見たレオンが歩きながら展示を目で追っている事に気付いて、足を止めて尋ねる。
しかし、レオンは小さく首を横に振り、
「……いえ。後でゆっくり見ましょう」
「良いのか?」
「はい。ペンギン、俺も早く見たいですし」
ペンギンの餌やりなんて、レオンも見た事がない。
ラグナ程にはしゃぐ事はなくても、見てみたいし、折角なら体験もしてみたい。
行きましょう、と言ったレオンの手が、捕まえているラグナの手をぎゅっと握る。
それを感じ取って、ラグナは笑顔を浮かべ、またレオンの手を引いて歩き出した。
───通路が微かに暗くて良かった。
握った手の体温を感じながら、幸福に滲む雫をこっそりと拭って、レオンは思った。
ラグレオの初デート。
デートと言うだけでも一杯一杯で、実は手を握られているだけで凄く幸せなレオンでした。
SeeD服を着ている時のスコールは、近付き難い。
華美にならない程度に、しかしパーティのような場面でもそのままの格好で出席できるようにとデザインされた服は、軍人に似た重厚な雰囲気を醸し出している。
セルフィやゼルが着ると、本人の持つ空気故か、式典用の学校制服に見えなくもないのだが、スコールが着るとまた違う。
元々の大人びた雰囲気も相俟って、屹然とした空気を滲ませた。
其処には、魔女戦争を経てスコールがバラムガーデンの指揮官と言う立場になった事も、理由として有るのだろう。
元々、正SeeDのみが着用を許される服である事から、SeeDを目指すバラムガーデンの生徒にとっては、憧れの対象であったと言う。
魔女戦争後、指揮官として矢面に立つことが増えたスコールが、頻繁に着るようになってから、一層憧れの視線は増えたそうだ。
スコールにとっても、SeeDとなる事は自分の目標であり、それを果たした暁に手渡されたSeeD服は、着る度に密かな高揚を齎すものであった。
とは言え、何度も何度も着ていれば、段々とそうした気持ちは薄れ、最近では完全に仕事着としての役目となり、着る事が面倒になる日もあるらしい。
それを小さな声で零したスコールに、判るなあ、とラグナは言った。
ラグナも記者会見など、公的な場ではスーツを着なければならないが、普段はもっと楽な格好をしていたい。
元々スーツのようなカッチリとした格好が苦手なのもあるが、それを着ると、きちんとしなければ、と言う気持ちが働くのだ。
仕事に置いてその意識は良い事なのだろうが、それが何度も、延々と続くと、やはり疲れてしまうものである。
今も、少し疲れているのだろうか。
記者会見に応じるラグナの直ぐ後ろで、硬い表情で記者団を睨んでいるスコールをちらりと見て、ラグナは思う。
今日は朝から忙しく、ラグナはあちこちで取材記者団に囲まれていた。
取材の内容は政治的なものから、割とどうでも良さそうな雑事まで、様々である。
一通り終われば次の視察へ向かい、それを終えると、出口でまた報道陣に囲まれる。
こうした生活はエスタで暮らす内に何度か経験していた事だったが、最近はその頻度と、囲む報道陣の数が増えて来ていた。
と言うのも、以前はエスタ国内の報道関係者のみで完結していたのが、エスタが開国した事で、外国からも記者団がやって来るようになったからだ。
中には強引なやり方で───他国ならば普通の方法なのかも知れないが、少なくとも、エスタの感覚では───取材をしようとするパパラッチもいるので、最近の記者会見では、警備レベルが引き上げられている。
警備任務を依頼したバラムガーデンから、“伝説のSeeD”がわざわざ派遣されて来たのは、そうした事情も加味されていた。
“伝説のSeeD”と言う言葉は、本人の自覚以上に重い文鎮の役割を果たしている。
世界に混沌を齎した魔女を屠った者の睨む眼には、流石に報道陣も尻込みする所があるらしい。
特にデリングシティから来たと言う記者団は、魔女戦争の際の魔女心棒を少なからず記事にして旨味を啜った後ろめたさがあるようで、スコールがいるだけで妙な質問をしてくる輩は格段に減った。
これは副次効果であったが、エスタの大統領府関係者にとっては、有難い事である。
報道陣に応えている間に、時間は刻々と過ぎてゆく。
執政官として後ろに控えていたキロスが、そろそろお時間です、と促すのを聞いて、ラグナは小さく頷いた。
「では、次の仕事の時間がありますので、これで失礼します」
形式ばった言葉で会見を締め括りにし、ラグナは記者団に背を向けた。
まだまだ聞きたい事があるのだろう、槍投げのようにしつこく質問を飛ばして来る記者達を、警備員とSeeD達が止める。
スコールはハンドサインで部下に指示を残すと、ラグナについてその場を後にした。
ウォードがドアを開けて待っていた車に乗り込む。
記者団の塊を避けて、張り込んでいた新しい記者が、今がチャンスと駆け寄ってきたが、スコールがじろりと睨むと足を竦ませた。
記者の足が止まった隙に、スコールはラグナの隣に乗り込み、ウォードが車のドアを閉める。
運転席にはピエットが待機しており、出しますね、と断り一つを入れて、発進させた。
「ふい~……」
記者団の影が遠退いて、ラグナはようやく詰めていた息を吐いた。
首元を締め付けているネクタイを引っ張って緩め、近い位置にある天井を仰ぐ。
「はあ、疲れた……」
「お疲れ様です、ラグナさん」
「んー」
車を運転しながら労うピエットの言葉に、ラグナは浦々とした声で返事をした。
この後は官邸に帰って書類仕事をする予定なので、着いたら着替えて良いかなあ、とラグナは考える。
と、隣できっちりと着込んだ服は愚か、姿勢すら崩そうとせずに窓の外を睨んでいる少年に気付く。
「スコール、もう楽にして良いぜ。後は帰るだけなんだし」
「……いえ、お構いなく。任務中ですので」
固い言葉遣いに、完全に仕事モードである事が判る。
その反応にラグナは少し寂しくなったが、いつもの事と言えばいつもの事だし、スコールが“大統領警護”と言う任務中である事も確かであった。
大統領官邸前には、また別の報道陣が待機していたが、それは官邸の敷地外で事。
どうしましょうか、と判断を仰ぐピエットに、スコールが「そのまま奥まで行って下さい」と言った。
官邸前でのインタビューは仕事の予定に入っていない。
無視して行けと言うスコールに頷いて、ピエットは車に積んでいる通信機で官邸内のスタッフへ連絡を取り、車から降りる事なく、官邸の門を開けさせた。
飯の種を逃がしてなるかとカメラマン達が仕事道具を掲げて、インタビューやらフラッシュ撮影やらと忙しない。
ラグナはカメラ向けに笑顔で手を振る仕草だけを見せ、彼らの前をすーっと通り過ぎて行った。
どうにかして追いかけようとする者は、警備員と門に阻まれる。
後ろで門が閉まる音を聞きながら、車は路なりに進み、官邸玄関へと到着した。
車を降りると、もう騒がしさはなく、いつもの静かな官邸だ。
「今日はもう外には出ないんだっけ」
「そうですね。予定されていた物は終わりましたから」
ラグナの問に答えたのはスコールだ。
そっか、と言って開いた玄関の中へとラグナが入り、スコールも続く。
きょろきょろと辺りを見回したラグナは、記者会見の場に残して来た友人達がまだ帰っていない事に気付く。
何処かで捕まっているのか、彼等を撒く為に適当に時間を潰しているのか。
何れにしろ、心配する必要はないだろうと、特に気にせずに官邸奥へと進んだ。
「書類、何が残ってたっけなあ……」
「……」
「うーん、腹減ったから何か食ってからにしようかな」
ラグナの呟きは、声ばかりが大きい独り言だ。
スコールもそれを判っているようで、半歩後ろを黙ってついて行くのみであった。
17年ですっかり通い慣れた廊下を進み、一番奥の執務室に到着する。
扉を開けると、やはり其処は無人であった。
念の為にとスコールが先に中に入り、室内の安全を一通り確認してから、ラグナに入室を促す。
「お待たせしました。問題ありません。どうぞ」
「うん、ありがとな」
ラグナが執務机を覗いてみると、書類は数枚が重ねられているだけだった。
今日の午前は机につけないからと、昨日の内に殆どの書類を終わらせていたお陰だろうか。
机に座り、書類の内容を確認して、サインと判を押して行く。
キロス達が帰ってきたら、追加の書類を持って来られるかも知れないが、この分ならそれも然程多くはないだろう───希望的観測であるが。
そんなことを考えている間に、少ない書類は片付けられる。
ラグナが書類に視線を落とした時から、スコールは執務机から二メートルの位置にある壁際に立って待機していた。
執務室で警護をしている時のスコールのお決まりの立ち位置だ。
其処なら、仕事をしているラグナの姿も、人の出入りがある扉も一目で確認できる配置になる。
この為、スコールはこの場に立つと、用事がなければ自分から動き出す事はない。
時には数時間に渡って直立不動を貫く時があるので、ラグナは時々、このままスコールがマネキン人形にでもなってしまうのではないかと思う事がある。
書類を終わらせてから、ラグナはじぃっとスコールを見ていた。
その視線に気付いていない訳ではないだろうに、スコールは気に留める様子はなく、沈黙して仕事に従事している。
そんな少年を見る度、真面目だなあ、と思う傍ら、ラグナは細やかな悪戯心を刺激された。
「スコール」
「……はい」
名前を呼ぶと、スコールは一拍置いてから返事をした。
蒼の瞳が向けられる事にラグナは表情を緩め、こっちに、と手招きする。
スコールは眉根を寄せつつも、入口の方をちらりと確認だけ済ませて、執務机へと歩き出した。
机を挟んでラグナの正面に立ったスコールだったが、ラグナはにっこりと笑って、椅子の肘掛をぽんぽんと叩く。
その意図する所を読み取って、スコールの眉間には深い皺が寄せられた。
が、睨んでもラグナが表情を変えないのを見ると、判り易い溜息を吐いて見せ、心なしか遅い足取りで机を回り込む。
「何か────」
御用ですか、と言うスコールの言葉を、ラグナは最後まで聞かなかった。
届く距離になったスコールの腕を捕まえて、ぐいっと引き寄せる。
予想していなかった訳でもないだろうに、何処かで油断しているのか、スコールは踏鞴を踏んでラグナの下へと体を傾けた。
とすっ、とラグナの腕の中へ、スコールが落ちて来る。
目を見開いている少年をそのまま抱き寄せ、ラグナは膝の上にスコールを乗せた。
「な……おい!」
「ほらほら、大きな声出したら人が入って来ちゃうぞ」
それまでの鉄面皮が嘘のように、真っ赤になって声を荒げるスコールに、ラグナはくすくすと笑って言った。
スコールは悔しそうに歯を噛んで、じろりとラグナを睨む。
「あんた、仕事中だろう。ふざけてないで真面目に」
「仕事なら終わったよ。書類、大して数がなかったから。だから今日のお仕事はもうお終い」
「あんたはそうでも、俺はまだ任務があるんだ」
スコールにとって、ラグナの傍にいる限りは、仕事は継続しているのだ。
ラグナの仕事が終わったからと言って、睦言に感けられるような時間はない。
しかし、ラグナは構わず、スコールの唇に己のそれを重ねた。
「んぅっ……!」
予告もなく重ねられた口付けに、スコールが目を丸くする。
突発的な出来事に弱いスコールは、驚いた表情のまま、体を硬直させていた。
それを幸いと、ラグナはスコールの腰に腕を回して、まだ青さの残る細い体をしっかりと抱き締める。
絡めた舌をゆっくりと撫でから、ちゅ、と音を立てて唇を離す。
ほう、と心なしか濡れた吐息が、スコールの唇の隙間から漏れた。
微かに上がった呼吸を整えるように、スコールは少しの間肩を揺らした後、
「……人、来ないんだろうな」
「うん」
スコールの問に、ラグナはきっぱりと頷いた。
何の根拠もなく。
ラグナの返答に根拠がない事はスコールも判っていたのだろう、ちらりと蒼の瞳がドアを見る。
今はまだ帰って来る様子のない執政官達だが、記者団への対応が終わったら、順次引き上げて来るに違いない。
早ければ今からでも戻り始めていても可笑しくない頃だ。
だが、スコールの腰を抱く男の手は、確りとしていて離れそうにない。
「……一回だけだ」
赤い顔で、視線を明後日の方向に逸らしたまま、スコールは消え入りそうな声で言った。
うん、とラグナは頷いて、SeeD服の詰襟に指をかける。
制服を脱がせれば、其処にあるのは発展途上の青い果実。
禁断の園を暴くような背徳感を覚えながら、ラグナはその味をゆっくりと味わったのだった
SeeD服って禁欲的な雰囲気になるのが良いですね。
そしてそれを脱がせたい。
キロスとウォードはその内帰って来るけど、察して中には入って来ないと思います。
これだから夏は嫌いなんだ、とぎらぎらと輝く太陽に照らされ、灼熱になったコンクリートの上を歩きながら思う。
夏期講習なんて申し込むんじゃなかった。
そんな事を思うのも、今回が初めての事ではなく、毎年恒例の事だった。
恒例であるのに、毎年申し込んでしまうのは、休み明けのテストに備えたいからだ。
クラスメイトのティーダやヴァンは、「スコールなら勉強しなくても平気だろ」等と言うけれど、スコールの成績は日々の努力を重ねる事によって得たものである。
何もせずにテストで100点が取れるなら、スコールだってそうしたいし、折角の夏休みを勉強時間で潰すのもバカバカしいと思っている。
それでも、テストの結果や成績の上下と言うものが気になるから、やはり夏期講習は申し込まなければと思う。
夏期講習は午前中に学校の指定教室で行われる。
登校時は日差しがまだ強くはないので───暑い事に変わりはないが───、まだ楽だったが、帰りはそうもいかない。
講習が終わるのは正午前で、太陽が蓄えたエネルギーを発散させている真っ最中だ。
建物による影も短く、ただ只管、焼かれながら帰り道を行くしかない。
校内の自動販売機で買ったペットボトルの水は、初めこそよく冷えていたが、時間経過と共に涼を逃して行く。
中身はもう半分もなく、家に着く前に全てを飲み干してしまいそうだ。
コンビニで冷凍ペットボトルを買った方が建設的だったかも知れない。
でもあれは買った直後は直ぐには飲めないし、水が欲しいと思った時は、その場で直ぐに喉を潤したいものだ。
登校中に立ち寄れば良かったか、と今になって考えつつ、でもそれだと荷物が増えるし、解け始めた時の水滴が、とも考える。
ぐるぐるとそんな事ばかりを考えているのは、勉強疲れと、熱さにやられた意識が現実逃避をしているからだろう。
平時の登下校なら、こんなにも辛い思いはしなくて良い。
スコールの住むマンションから学校までは、バスが通っているから、それに乗っていれば良い。
登校時はラッシュ宜しく混み合うので好きではないのだが、帰りは自分で時間を調整して、空いている時に乗れば良いので楽だった。
しかし、バスの時間は朝夕の本数が多い代わりに、昼は少なく、一本を逃すと次は30分以上は待たなければならない。
こんな炎天下で、日陰もないバス停で棒立ちになっている位なら、歩いて帰った方が良い。
そう判断して、のろのろと歩いていたスコールだったが、既に後悔し始めていた。
(バスが来る時間まで、図書室にでもいれば良かった…)
スコールの学校では、夏休みでも図書室が生徒向けに解放されている。
だから夏期講習が終わった後、其処で自主勉強する者や、読書なりと休憩して行く者も少なくない。
スコールもそうする時があるが、今日は早く帰ってのんびりしたかったので、帰路を急いだのだが、その為の判断を若干誤った気がしないでもない。
とは言え、家路はそろそろ半分になる。
今から戻ると言うのも尚の事バカバカしいので、スコールは残る気力を振り絞って、歩を進めていく────と、ププッ、と短いクラクションが聞こえて、顔を上げる。
「……あ」
横断歩道で信号待ちをしている車の先頭に、見覚えのある色がある。
運転席でハンドルを握り、片手を挙げた男と目が合う────スコールの兄、レオンだ。
気付いた、と片手を挙げて合図すると、レオンは嬉しそうに目を細めた。
レオンは斜向かいの位置にある小さな有料駐車場を指差す。
スコールは頷いて、横断歩道を渡ると、90度向きを変えて、駐車場行きの信号が青に変わるのを待った。
駐車場は近辺の飲食店を使う人向けに整備されている他、30分程度の駐車なら無料で使える。
レオンは其処に車を止めると、追って来る弟の為、助手席のロックを開けた。
運転席側に回ろうとするスコールに、レオンは助手席を指差して、開いてる、と口を動かす。
スコールはほっとした表情を浮かべて、いそいそと助手席側へと移動した。
ドアを開けると、ひんやりとした冷気が、スコールの赤らんだ肌を撫でた。
「夏期講習、お疲れ様」
「ん。レオンも、仕事帰り?」
「ああ。……腕、真っ赤だな。大丈夫か?」
「……あまり」
言葉少なく、大丈夫じゃない、と答えるスコールに、レオンは眉尻を下げて苦笑する。
「バスを待たなかったんだな」
「待つより歩いた方が早いと思ったんだ。でも、こんなに暑いと思わなかった」
赤らんだ肌を摩り宥めながら、スコールは苦い表情で言った。
車内はクーラーのお陰で、快適な温度だ。
外の熱に焼かれていたスコールにとっては、温度差で少し肌寒くも感じる程である。
ヒリヒリと痛むように熱を持つ肌を摩っていると、レオンがグローブボックスに手を伸ばした。
「確か此処に……ああ、残っていたな。使って良いぞ」
そう言ってレオンが差し出したのは、冷感ボディクリームだ。
レオンもスコール同様、熱に弱いので、外歩きの時には必需品となっている。
有難く借りる事にして、スコールはクリームを日に焼けた腕に塗った。
塗り伸ばした所にクーラーの風が当たると、ひんやりとして心地が良い。
その傍ら、ほんのりと甘い香りがスコールの鼻孔を擽り、何処かで感じた覚えのある匂いに、何処だったか、と考えつつ、クリームの蓋を締める。
「助かった。ありがとう」
「ああ。其処に戻しておいてくれ。で、今日はもう帰るのか?」
「そのつもりだった」
それじゃあ、とレオンはスコールにシートベルトを締めるように促した。
スコールがベルトをロックさせると、レオンはサイドブレーキを上げて、ゆっくりと車を発進させる。
炎天下を歩いていた時は散々だと思っていた家路だったが、今はバスを使わないで良かった、とスコールは思った。
図書室で待ち、バスを待っていれば快適だっただろうが、代わりに兄に逢う事はなかっただろう。
進む道の向こうに、陽炎が昇っている。
ラジオから都内の気温が35度を越えていると聞いて、レオンに逢わなかったら熱中症になっていたかも知れない、と思う。
次の講習の時は、無理に帰ろうとはせずに、図書室でバスを待つ事にしよう。
今日は偶然レオンに拾って貰えて助かったが、毎回都合良く彼と合流できるとは限らないのだから。
車を走らせながら、レオンが言った。
「ちょっとドラッグストアに寄るか」
「何かいるのか?」
「ああ、さっきの冷感クリームをな。お前用にも買った方が良いかと思って」
普段、スコールはインドア生活が主であるから、日焼けを気にする事は少ない。
しかし、全く外界に出ない生活と言うのは無理なもので、夏期講習に買い物にと、出掛ける機会は多かった。
大抵は太陽が本気を出す前の午前中か、陽が傾いて気温が下がり始めた頃に済ませるようにしているのだが、毎回都合の良いタイミングで時間が捻出できる訳ではない。
夏本番となって陽が長くなれば尚更で、暑い内から行動しなければならない事も増える。
日に焼けると痛みを発してしまう肌質なので、ケア用品はあるに越した事はない。
「でも、そのクリーム、意外と匂いが強いんだな」
「……そうなのか?」
レオンの言葉に、スコールはクリームを塗った手首を鼻に近付ける。
意識して嗅いでみると、確かに甘い香りはするが、運転席にいるレオンにまで届く程とは感じない。
「……?」
「まあ、俺も普段は気にしていないんだけどな。自分でつけてると判り難いのもあるし」
自分の体から放たれる匂いに、自分自身は鈍いものだ。
況してやレオンは普段、一人で行動している時に使っているから、香料の具合を深く気にする機会もなかったのだろう。
スコールはもう一度手首を鼻に近付けた。
くん、と嗅いでみると、柔らかな甘い匂いがして、スコールの記憶中枢が震えた。
(そう、か。レオンの、匂い……────)
レオンが持っているクリームなのだから、レオンからその匂いがする事があるのは当然だ。
が、それを感じた時の記憶まで思い出すと、スコールの無性にむず痒くなった。
赤信号で車がブレーキを踏み、ゆっくりと停止する。
目的のドラッグストアの看板が見えた所で、レオンはふと、隣に座っている少年の顔が赤らんでいる事に気付き、
「どうした、スコール。暑いのか?」
「い、や、」
なんでもない、と言って、スコールは明後日の方向を向いた。
ドラッグストアの駐車場に車が入り、停止する。
行こうか、と言われて、スコールは赤い貌を必死に戻そうと意識しながら───残念ながら、その努力は然したる効果がないのだが───、車を降りた。
クリームは違う匂いのものか、あれば無香料のものにしよう。
そうしないと、香りを感じる度に思い出してしまいそうで、とてもではないが使っていられそうにない。
────そんなスコールの思いも虚しく、一つだけ残されている商品棚を見て、一人悶える事になるのであった。
結局買って、使う度に色々考えるスコールと、スコールから匂いを感じるようになって後になって色々察するレオン。
お互いに意識し合って使えばよいと思います。
どっちかが先になくなったら、相手のちょっと分けて貰ったりして、それも余計に意識したら良い。