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2025年10月11日

[16/バルクラ]鏡の前で笑顔の練習

お題配布サイト 【シュレディンガーの猫】





鏡には見慣れた顔が映っている。
黒い髪、眼窩の奥に翠、細い鼻柱、髭を蓄えた口元。
目元の下が薄らと昏いのは最早どうしようもないことで、今更にそれの血色を気にすることもない。
何年も、何十年も、見るだに見飽きた、自分の顔だ。

社長室の片隅には、小さな手鏡が諸々の邪魔にならないようにひっそりと置かれていた。
それは来客があった際、迎える前に最低限の身嗜みを確認する為に用意されたもので、それなりの頻度で使うことがある。
あるが、用途としては全くそれだけのことで、必要がないのであれば、視界に入れるものでもなかった。

しかし今、バルナバスはそれを自分の意思で手に取っている。
そして顔の前へと持って行けば、其処には先述の通り、自分自身の顔がそのまま映り込んでいた。

鏡は歪みは勿論のこと、指紋汚れの類もなく、まるで買ったばかりの新品のように綺麗に磨かれている。
お陰で其処に映る自分の顔は、自宅の洗面台に取り付けられた鏡で見た時と何ら変わらない形をしていると、確認することが出来た。
強いて言うなら、洗面台の鏡はそれなりに大きなものであるから、前に立っただけで上半身を一目で概ね確認できるが、此処にあるのは手鏡である。
長辺で精々15センチあるかないかと言う程度のものだから、映るのは首から上、全体を取っても頭いっぱいが限界だ。
棚に置いて遠目に立てば、胸像程度は映るだろうが、結局はそのくらいの物だった。
だから立ち姿でのスーツの皺を直すだとか、ネクタイの歪みがないか確かめるかだとか、そう言った目的でちらと見る以外には無用のアイテムとされている。

それでも鏡は鏡であるから、自分の顔を正確に見ようと思えば、一番手っ取り早い道具だった。
だからバルナバスは、この鏡を手に取った訳だ。
そして其処に映る自分の顔をじっと見つめている。


「………」


鏡に映る自分を眺めることは少ない。

洒落た格好を好み、それを常に整えたがる人間はいるが、バルナバスはそうではなかった。
今でこそ、立場を含めた公人として振る舞う機会が多い故に、見栄えを保つ必要性を理解しているが、そもそもはどちらかと言えば無頓着である。
躾の厳しい母の指導によって、学生時代は制服の襟ひとつと乱さぬように心得てはいたが、では自らがその律を守るべき信念を持つに至ったかと言えば、さて、と肩を竦めるしかない。
ヒトはその立場に応じて着飾るべき衣装があり、それを誰もが無意識的に求めているから、時には武器として時には鎧として、適した格好をするべきである、と言う理屈として、バルナバスは自分の衣服と言うものを選んでいた。

と、服についてはそう言う理由で、個人的なこだわりはなくとも、保つべきラインがあるのだが、此方───顔については尚更どうでも良いと思う。

鏡に映り込んだ男の顔に、バルナバスが何を思うこともなかったが、しかし、一般的には随分と不機嫌に見えるパーツをしているらしい。
例えば眉間の皺、例えば潜めた形の眉、例えば真一文字に噤まれた唇……と、挙げて行けば幾らでもあるだろう。
これで表情が忙しく動けば印象も変わるのかも知れないが、生憎とバルナバスの表情筋は固い。
それは昔からのことで、動的感情は可惜に表に出すものではないと教育されたことに加え、元より外部刺激に対する反応が鈍かったこともあり、幼年の頃からバルナバスは無表情気味であった。
この為、バルナバスの顔と言うのは、専ら不機嫌に見える顔付のまま動かない、と言うのが常態化していると言えた。

それで何が困る訳でもない。
世の中には、経営者はそれなりに愛想が振り撒ける方が良い、と言う節もあるが、かと言って、そうでなければ成功しない訳でもない。
更に言えば、世間がバルナバスの何をどう評価していようと、彼自身には大した価値もない雑言でしかない。

───ないのだが、唯一、バルナバスの耳に届く雑言も、数少ないながらに存在する。
それが零した些細な言葉こそが、今、バルナバスに鏡を覗かせていた。


「………」


そうして、鏡を手に己の顔を見つめて、どれ程時間が経っただろうか。

バルナバスは、自身の左手を目元に口元に遣り、自身の顔パーツの感触を確かめていた。
頬骨を指の腹で押したり、眉間の皺を広げてみたり、最低限に形を整えることだけを保っている髭を少しばかり摘まんで見たり。

一頻りそうして顔に触ってから、この程度の力で人間の頭蓋がどうなる訳でもないことを知る。
頭蓋の形を変えるには、きちんとメンテナンスされた機械の力で掘削しなければならない。
もう少し簡単に動くと言えば、頭蓋骨の上に乗った筋肉や皮膚の方だが、どうもバルナバスは、此処も早々楽には動かないようだ。
普段、滅多に表情を変えないのだから、肉も皮も張り付いて固くなっているのも無理はなかった。

とは言え、バルナバスとて全く表情を持たない訳ではないのだ。
喋れば口や顎が動くし、感情を持てばそれなりに顔に反映される所もある。
そして、意識して動かせば、固く張り付いた顔の筋肉も、少しくらいは形を変えるのである。

鏡の中の男が、口角を上げる。
不慣れな形を作ろうとしている所為か、頬の筋肉が微かに引き攣るように震えるのが分かった。
歯を見せるのが良いらしい、と言われたことを思い出す。
上唇と下唇の隙間を割って、鏡に白い歯がしっかりと映るようにした。

昏い目をした男が、鏡の中で歯を見せて笑っている。
……多分、恐らく、笑っている。
鏡に映る自分と思しき男の顔を見ながら、バルナバスはそう思った。

───直後に、ドアをノックする音がして、其処から間を置かずに扉が開いた。


「ちょいと失礼。社長、さっき届いた資料について確認を───」


許可の断りを待たずに、この社長室に入れる人間は限られる。
その立場を持っているのは、この会社でバルナバスが直に指名して役職を与えた、シドと他僅かな人員のみ。
加えて、本当に許可を待たずに入る度胸と付き合いがあるのは、シド一人であった。

そのシドが、部屋に入って来るなり、ぴたりと動きを止めた。
ドアの袂で停止したまま再起動しない気配に、バルナバスは鏡を見ていた顔を上げる。
その顔は、既にいつもの通りのものに戻っていた。


「……どうした」
「……いや……」


バルナバスの方から声をかければ、シドはやっとドアを潜った。
その表情は、普段は飄々とした昼行燈を装っている彼にしては珍しく、何処となくぎこちない。

シドはデスクへと近付きながら、


「まあ、なんだ。随分真剣に鏡を見てるから、一体どうしたのかと思ったんだ。来客予定でもあるのか?」


そう問いながら、バルナバスの予定はシドも概ね共有しているから、そうした予定がないことは知っているだろう。
しかし、来客の類がないのなら、シドはバルナバスの手に鏡が在る理由が分からない。
……その鏡に向けられたのであろう顔も見てしまったものだから、尚更。

バルナバスは鏡をデスクに置いて、シドの方へと向き直った。
シドが差し出した書類を受け取り、その紙面に視線を落としながら、事の理由を説明する。


「この人相は、どうも悪人面らしい」
「……」


バルナバスの言葉に、シドは「誰がそれを言ったのか」とは問わなかった。
この男に、そんなことを言い放つことが出来る人間を、シドは一人しか知らない。

傍から聞けば、言われて怒りを買う言葉だが、バルナバスの表情にそうしたものは浮かんでいなかった。
実際、バルナバス自身にとっても、この面が人に好かれるような顔でないことは理解している。
愛嬌などと言うものは無縁の人生であったと自覚があるし、それで問題が起きた事もないから、その事実を指摘された所で、バルナバスの琴線が震えることはなかったのだが、


「この顔で仏頂面をしているから、威圧しているように見える。だから人は私を怖がる───らしいな」
「……あー……全面否定は難しいのは、確かだな……」


バルナバスの言葉を、シドは濁すように曖昧な表情を浮かべつつも、否とは言わなかった。
この男が、此処で変に耳障りの良い言葉を使わない所に、バルナバスは信頼を置いている───それはともかく。


「だから、偶には笑た顔を見せた方が良いと言われた」


無表情、仏頂面、とかく感情の見えない顔。
確かにそれは、他者から見れば圧として受け取られ、相手の心理状態によっては、怒りを買ったかと思うこともあるだろう。
顔色を伺う、と言う言葉もあるのだから、其処に好ましいものが感じ取れない顔をしていれば、あるのは負の感情だと考えるのも無理はない。
バルナバスも幼年の頃は、厳しいに母に育てられた経験があるから、そう感じてしまう人間の心理と言うものは少なからず理解できる。

人は、笑顔と言う形を作ることで、緊張を緩和することが出来る。
自分は悲しい、辛い、苦しいのだと感じている時でさえ、嘘でも笑顔を浮かべることで、その精神を僅か奮い立たせることも。

そして人間は、笑顔を浮かべるものに対して、髄反射的に好意的な感情を抱き易い、とされている。


「……成程。それで、真面目に笑う練習をしてたって訳か?」


シドがデスクに置かれた手鏡を見て言えば、そうだな、とバルナバスは頷いた。

バルナバスの手がもう一度鏡を捕まえ、しげしげと鏡に映り込む自分を眺める。
左手で口の端の頬肉を摘まむが、肉は大して挟める程にもついていなかった。
加齢で肉が削げ、顔の形が骨を浮き上がらせるようになっているのも、この人相を作っている理由になるのだろうか。

どうすれば“笑顔”と言うものを意識的に作ることが出来るのか、鏡を睨み続ける上司に、シドはなんとも言い難い表情を浮かべながら、言った。


「……なんというか、な。人には向き不向きってものがあって、顔や表情にもそれはあると思う。それに、無理に作った笑顔って言うのは、取り繕ってて不自然なもんだ」
「……そう言うものか」
「お前が大して笑わなかったからと言って、これまで人がついてこなかった訳でなし。もし笑う機会があるのなら、それは自然に出て来たものだけで十分だと思うね」


シドの言葉を聞きながら、バルナバスはじっと鏡を見つめ続ける。


「お前さんが、存外恋人に甘いのと、真面目な努力でそれに応えようとしてるって所は理解できるが……俺としては、無理はしないことをオススメするかな」


そう言ってシドは、ともすれば逃げるように、回れ右と踵を返した。
書類は後で確認しておいてくれ、と言ってから、部屋を出て行く。

扉が閉じる音を聞きながら、バルナバスは昨晩の出来事を思い出していた。
熱を交えた後で、気怠さの中で過ごしていた時に、戯れのように頬に触れた手。
その存外と心地良い感触に任せていた時に、彼は言った。


『あんたは笑うと、案外優しい顔をしてるんだから。そう言う所を、他の奴にも少しは見せてやれば良いのに』


そうすれば、やたらと怖がられたりしないだろうに。
もっと色んな人に好かれるかも知れないぞ───と。

それでバルナバスが、誰かに好かれる為に笑う必要性を感じることはない。
ただ、彼がそう言うのならば、少し試してみようかと思ったのだ。
呟きながら言った彼の表情が、酷く柔く愛おしいものを見る目をしていたから、彼の言うような顔を作れるようになれば、また同じものを見れるのではないかと思って。

しかし、どうもシドの言う事を鑑みるに、自分の笑顔は不自然なものらしい。
鏡に映る自分の顔を見ても、一般的に愛嬌を覚えるようなものが出来ているとは言い難い。



鏡に映る見慣れた顔を見詰めながら、この顔がどうなれば正解になるのだろうか、と熟考するも、答えは一向に見えないのであった。






【一途に思い続けた先へ5つのお題】
3:鏡の前で笑顔の練習

クライヴが全く出て来てないけど、バルクラなんです。
恋人のクライヴが偶にしか見ることのないバルナバスの笑顔がある訳ですが、クライヴはそれが自分にだけ向けられるものだと気付いてないと言う。
そしてバルナバスも自分がそうことをしている自覚がないので、真面目に笑顔の練習なんてことをしていたら、うっかりシドが目撃してしまったのでした。

バルナバスって根が超真面目な人だと思っている。
なので真面目に“模範的な笑顔”の練習をしていたようですが、クライヴが見たのはもっと自然な、ふっとした時に零れたものなんでしょうね。

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