[スコリノ]あなたの面影
デュエルムファイナルファンタジーの話です。
βテストにて触れた、デュエルムのネタバレを含んでいます。
まだ本稼働ではないこと、βテストに参加した人しか触れていないことなど踏まえ、畳み+スクロールスペースがあります。
ご覧になりたい方のみどうぞ。
サイト更新には乗らない短いSS置き場
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βテストにて触れた、デュエルムのネタバレを含んでいます。
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オペラオムニア第一部9章後
飛空艇の甲板に立って、スコールは長く息を吐いた。
知らず知らずに溜め込んでいたそれを吐くと、胃の中に重く留まっていたものが抜けて行くような感覚がする。
異世界と言うものにこの両足で立ってから、思いの外、長い時間が経った。
その間に既知と遭遇することが出来たのは幸いだ───現時点で、相反する位置に立つ者がいるとしても。
ただ、その“既知”の状態が、今のスコールが思うものと違う状態であることが、彼の表情に翳を差す要因になっている。
一人の女神と、一人の男神によって造られていると言うこの世界には、様々な異世界から召喚された者たちが、戦士としてそれぞれの活動を行っている。
その中で、女神に召喚された戦士たちは、モーグリを指標と舌主立ったひとつのグループとして所帯を形成しつつあった。
スコールは恐らくは比較的早い段階で其処に加わることとなり、後続が随時加入していくのを見ている。
飛空艇の入手により、巡る世界がより一層広くなった今でも、この所帯は拡充しつつあり、それに呼応するように、足となった飛空艇の内部も拡大が続いている。
いつになったら元の世界に帰れるのか、と言うことは、幾ら気を揉んで考えても判らないばかりだ。
そして、それよりもスコールは、目下もっと頭の痛い問題がある。
(ゼルはラグナを知っていた。でも多分、あれは本人に会う前……エルオーネのジャンクションで見たラグナだ。アーヴァインは……何処までだ?あいつは結構、自分の本心を隠すのが上手いからまだ判らない。サイファーの方は、映画の主役としてのラグナで───)
頭の中に浮かぶ、この世界で幸いにも顔を合わせることが出来た幼馴染たち。
その様子を日々見る度に、彼らの言動が齎す“彼らの状態”と言うものが、スコールの溜息を増やす。
(サイファーは魔女アルティミシアを知らなかった。あの分だと、自分が一度は“魔女の騎士”になったか覚えているかも怪しい。確実に言える段階としては、SeeD試験の後か?風神と雷神も似たような所か)
スコールは、元の世界で辿った自分の旅路と言うものを覚えている。
“愛と勇気と友情の大作戦”を終え、魔女アルティミシアを本懐とした魔女戦争は終結した。
その後、戦犯としてガルバディア軍に追われていたサイファーを先んじて捕まえ、未成年の更生期間をもぎ取ってバラムガーデンに連れ帰った。
傍ら、長きに渡って鎖国していたエスタの国際社会復帰に際し、“魔女戦争の英雄”とされたスコールを擁するバラムガーデンが諸々の補佐をすることにもなった。
ともかく、後にも先にも、やる事は多かったのだ。
その間、ゼルを始めとしたスコールの幼馴染の面々も、トラビアガーデンの復興であったり、軍に接収されていたガルバディアガーデンの再校の為の代行手続きであったりと、多忙に振り回されていた。
おまけに“月の涙”の影響で、SeeDの派遣要請依頼も随時届くものだったから、とにかくバラムガーデン全体が大わらわだったのだ。
ガーデン内でマスター派と学園長派の内紛の折より、内職を手掛けていた大人の数まで減っていた中で、よくもやり切ったものだと思う。
────と、それだけ慌ただしかった直近の日々を覚えているのは、スコールだけだ。
それに加えて、どうも時間そのものが随分と違う状態で来てしまった者もいることが、スコールには頭が痛い。
(あのラグナは、昔のラグナだ。俺がジャンクションしていた時の。だから、俺たちの事も知らないし、映画が昔のものになってることも知らない。多分、“魔女”も違う)
スコールと同じ世界から来た者は、押しなべてこうした具合だった。
元の世界から召喚されたタイミングが全員バラバラだと言っても可笑しくないくらいに、記憶に重ねた経過時間が違う。
だから同じ話題を共有している筈なのに、それに対する認識がずれる。
かと思えば、ふとした折に認識がかち合う事もあって、どうにもややこしい。
特にラグナに関しては、過去の人間の前に未来の人間が出逢っている事になる為、何の拍子にタイムパラドックスでも起きてしまう可能性もあって、スコールは彼との会話にはより慎重にならなければならなかった。
これが、決して他者との会話や、その矛先を誘導することが得意ではないなスコールにとって、想像以上に疲れを誘う。
「………はあ………」
スコールは甲板の縁に寄り掛かって、深く息を吐いた。
本音ではこんな場所ではなくて、自分の城である寮部屋のベッドに引き籠りたい位には疲れている。
可能ならばこの飛空艇にもそんなプライベート空間が欲しかったが、残念ながらそれは叶わない。
寝室は様々な形で作られており、スコールも自分の寝所として確保している所はあるが、部屋は病室以外は基本的に大部屋だ。
他者の気配を寸断できる場所と言うのはないも同然で、辛うじて一人になれそうな場所、として妥協できたのが、この甲板の片隅であった。
飛空艇はモーグリが指す方角へ、操舵技術を持つ面々が話し合いで航路を決めて飛んでいる。
目的に着くまで、ただただ待っているしかないのは、いつかの海の上で漂った日々を思い起こさせた。
空に向かって溜息を吐いた所で、何が変わる訳でもない。
それでも、閉じ篭ることが出来ない今、こうしやって僅かに一人に浸れる時間が欲しかった。
そのまま、五分か十分か、スコールはじっと縁に寄り掛かっていた。
飛空艇は東に向かって飛んでいるようで、夜の色が急くように空を染めている。
吹く風にも冷気が混じり、望んで此処に来たとは言え、長居をするには向かなくなっていた。
もう少し、あと少し、気が済む程度に過ごしたら、中に入ろう───と思っていた時だ。
「おっ?」
「………」
スコールの後ろで、甲板を通り過ぎようとしていた足音がぴたりと止まる。
足音はそのままトットッと近付いてきて、スコールの傍で止まった。
スコールは縁に乗せた腕に顔を伏せていたが、その状態でも、近い距離からじいいいっとした視線が刺さるのが判る。
応じる気のないスコールはそのまま黙っていたのだが、視線はスコールの回りをちょこまかと動きながら向けられ続けた。
時にはスコールと縁壁の間から潜り込み、覗き込むようにしてくる無遠慮さだ。
遂には、つんつん、と髪の毛を摘まんでくるものだから、元来短気なスコールが根負けするのは無理もなかった。
「……」
「おっ」
胡乱な目でスコールが顔を上げれば、其処にはプリッシュがいた。
プリッシュは飛空艇の縁の上に登っている。
体を少し横に傾ければ、空の下へと真っ逆さまに墜ち行く場所で、少女は危なげもなくしゃがんでいた。
じとりと睨むも同然に見詰めるスコールを、プリッシュは臆する様子もなく見返して、
「こんな所で寝てたら風邪ひくぞ、スコール」
「……寝ていた訳じゃない」
全く邪気のないプリッシュの言葉に、スコールは急に毒気を抜かれた気分だった。
一人の時間を邪魔された気分は否めないものの、見下ろす少女の瞳には、言葉以上の他意もない。
疲れているとは言え、この少女相手に態度を尖らせるのも違う気がして、スコールは何度目かの溜息を洩らしつつ、寄り掛かっていた縁から体を起こした。
どうにも気分として動きが鈍麻になるスコールに、プリッシュは言った。
「なんか元気ねえなあ。腹減ってるのか?」
「……別に」
「飯食ったら元気出るぞ」
「……結構だ」
プリッシュとしては気遣いなのだろうが、スコールにとっては要らぬ世話だ。
放っておいてくれれば良い、とひらひらと手を払う仕草で「行ってくれ」と示す。
それを見たプリッシュは、ぱちぱちと瞬きをして、ことりと首を傾げる。
「腹が痛いのか?」
「……なんでもない。疲れてるだけだ」
少女を邪険にする気はないが、かと言って相手をする気にもならなかった。
今はただ、一人の時間があれば良い、とそれだけを希望する。
しかし、プリッシュはスコールが予想していない方向へと行動した。
「疲れてるんだったらさ、こっち来いよ」
「は?おい、」
ぐい、とプリッシュはスコールの腕を引っ張った。
小柄な少女にしては存外と力強い手が、スコールの体を遠慮なくその場から連れ出していく。
軽快な足でプリッシュが向かったのは、飛空艇の甲板の前方だ。
空を行く飛空艇が切る風の流れが、直接吹き抜けていく其処は、平時は閉塞を嫌う賑やかな仲間たちが過ごしている。
しかし、夜の帳も広くなったこの時間では、風の温度も下がった所為か、人の気配はない。
プリッシュはスコールを舳先の先端まで連れて来ると、
「ほら。ここ、気持ち良いだろ?」
何故か自慢げに言うプリッシュに、スコールは沈黙した。
どう反応したものか、眉根を寄せて唇を噤むスコールに、プリッシュはやはり気にせず明るく笑う。
「ぱーっと風が吹いてて、今日は天気が良いからずっと向こうまでよく見えるし。もう星も見える」
「……」
両手を空に掲げるように大きく広げ、高い頭上を見上げて言うプリッシュに、スコールも顔を上げた。
少女の言う通り、空は所々に薄く千切れた雲があるだけで、至って快晴だと言える。
薄く紫の混じった宵闇色に染まった天には、小さな光が点々と瞬き始めていた。
「何疲れてたんだか知らないけどさ。下ばっか見てたら、もっと暗くなっちまうぞ。お前、ただでさえいっつも疲れそうな顔してるんだから」
(……悪かったな)
恐らくは悪気はなく、傍目に見ていての単純な感想なのだろうだろうが、必然、この台詞にはスコールの眉間に皺が寄った。
それを見たプリッシュが、「ほら、それだって」と言って、スコールの眉間を突いて来る。
「もうちょっと笑って見ろよ。こういう感じで」
プリッシュは自身の頬を左右から摘まんで、むにぃ、と引っ張った。
頬がよく伸び、引っ張られた口角が緩やかな弧を作って、白い歯を見せて笑う。
くるくると忙しく表情を変え、いつも楽しそうに笑ってあちこちを駆けまわる少女の顔は、随分と柔らかいらしい。
スコールはそれを、いつもと変わらない表情で、ただただ見つめるのみである。
「……そう言うのは、パスだ」
「えー。良いから一回やってみろって」
やはり遠慮も躊躇いもなく、少女の手は伸びて来る。
低い位置から迫るその腕を、流石にスコールは拒否した。
振り払う仕草で伸びる手を嫌うスコールだが、少女はめげずにスコールの頬を捕まえようとする。
「やめろ」
「ちょっとだけ。お前の笑った顔って見た事ないし」
「必要もないのに笑える訳がないだろう」
「楽しかったら笑ってるもんだよ」
(しつこいな。と言うか、面倒だ)
プリッシュは諦めないぞとばかりに、スコールの顔を狙って手を伸ばしてくる。
これがプリッシュなりの気遣いだとしても、そろそろスコールは面倒が勝って来た。
一応は仲間だし、子供ではないようだが小柄な少女であるしと、手荒は避けたいスコールだったが、そうも言っていられる気分ではない。
ああもう、とスコールは半ば自棄になって、プリッシュの両の手首をそれぞれ捕まえた。
おっ、と言う顔で動きが停まったプリッシュを、そのまま身長差に物を言わせて持ち上げてやると、プリッシュは万歳した状態で爪先立ちになった。
「うぉ、とっとっと」
「もうやめろ」
「ええ~」
睨むスコールの一言に、プリッシュはまるで不満そうな声を出す。
うーうーと唸ってスコールの拘束から逃れようと、スコールの足を蹴ってきた。
プリッシュの言動はまるで幼い子供のそれだが、しかし、とスコールは思う。
この異世界で戦線を共有するに当たり、プリッシュはこの小さな体格からは想像も出来ない程の脊力を持っており、ベヒーモスのような超大型の魔物さえ平然と投げ飛ばす事もある。
それだけの怪力を有している戦士が、ただ掴んで釣り上げているだけのスコールの手から逃げられない訳がないのだ。
蹴る足とてそれは同様で、その気になれば、スコールの膝を蹴り割る位のことは容易いだろう。
────結局の所、これはじゃれているだけなのだ。
何処までがプリッシュの本位の行動かは判らないが、悪意もなければ、きっと悪気もない。
強いて言うなら、落ち込んでいるように見える仲間に、気分転換を試みているようなもの。
(………はあ)
零れた吐息は、ごくごく短く小さいものだった。
さっきまで壁縁に寄り掛かっては繰り返し漏らしていた溜息とは、少し違う。
現状への疲れから鬱々としていた気分は、いつの間にか薄れていた。
掴んでいた細い手首を離すと、プリッシュは「ありゃ?」と気の抜けた声を漏らす。
プリッシュは自由になった両手をしげしげと見つめた後、スコールの顔を見上げて来る。
宝石のように円らな紫電色の瞳が、じいっとスコールを見詰めた後、
「へへ」
「………」
にっかりと笑うものだから、スコールはやはり毒気を抜かれる気分だった。
舳先の向こうから冷たい風が吹いて、流石に甲板にいることに寒気を感じると、プリッシュも同様だったのか二の腕を摩る仕草をして、
「うわ、なんか急に冷えたな。本当に風邪引きそうだし、もう中に入ろうぜ」
言うなり、スコールの反応を待たずに駆け出していくプリッシュ。
返事くらい聞けよ、とスコールは思ったが、プリッシュを相手に今更と言えば今更だ。
やれやれ、と緩く頭を振る仕草をして、スコールは歩き出した。
先に船内へと向かう階段の前に到着したプリッシュが、早く来いよ、と言わんばかりに手を振っている。
寒いのなら直ぐに下りてしまえば良いだろうに、どうしてもプリッシュはスコールを放っておく気がないらしい。
「なあなあ、寒くなったし、何か温かいもの食いに行こうぜ」
(それは俺も付き合わないといけないのか?)
「一人で食ってもつまんないしさ」
(……食堂なら誰かいそうだが。まあ、いいか、もう)
どうでも、と半ばこれも投げやりになった気分で、スコールはプリッシュに付き合うことへの抵抗を辞めた。
まわりのことで気を揉む所為か、最近は疲労感が強くて、あまり食事に意義を見出せなかった。
食べることは食べていたが、日々の消費カロリーとのバランスを考えると、足りていない。
この世界は奇妙なもので、食事は摂らなくても死にはしないようだが、習慣からの体の反応なのか、食べない日々が続くと空腹感のようなものが付きまとう。
夕食も済ませた今の時間から、然程の量を食べようとは思わないが、プリッシュの言う温かいものくらいは食べてから、寝床に行っても良いかも知れない。
前を歩く少女は、まるでスコールがついてくることを確認するように、何度も振り返りながら細い通路を進んで行く。
まるで親がついて来るのを確かめる動物の子供みたいだ───とスコールは思うのだが、傍から見るとどちらかと言えば親子の立場が逆のように見えたと言うのは、当人の知らぬ話である。
11月8日と言うことでプリスコ。
オペラオムニアなら、二人は第一部から参入しているので、結構長いこと一緒にいるんだなと思いまして。ストーリーの時系列を断章含めまとめて下さった方に感謝。
オペラオムニアのスコールは、自分が全て覚えているのに、仲間たちはまちまち。
アーヴァインとはお互いに、第一部10章(サイファー加入前のタイミング)で、スコール・アーヴァインともに「アルティミシアを覚えている」と確信するまで、誰が何処までの出来事を覚えているのか探り探りしていたようですね。
此処に至るまで、スコールは「自分以外、元の世界で起きた出来事を覚えていない」と言う前提で考えていて、ひやひやしてただろうなと。
胃をキリキリさせてそうな頃のスコールに、案外面倒見の良いプリッシュがじゃれてたら良いな、と思ったのでした。
お題配布サイト 【シュレディンガーの猫】
ジルがミドの秘密基地に下りて来た時、其処にはこの場所の主であるミドと、カローンの姿があった。
珍しいと言えば珍しい取り合わせで話をしている様子から、邪魔になるかしら、と足を止めたジルの耳に、二人の会話が届いて来る。
「だから、あたしはそう言うのはいらないってば」
「何言ってるんだ。こういう所に気が回らないと、みすぼらしくなるよ」
「大丈夫だよ。あたし、結構カワイイらしいから」
「そんなこと言ってられるのも今のうちだ。少しは父親を見習いな、あれで昔から洒落っ気には気を遣う男だったんだから」
「父さんを引き合いに出すのはずるいって」
リズムの良い遣り取りは、どちらともはきはきとして、声もよく届いた。
言い合いをしているようにも聞こえるが、剣呑な気配はない。
ただ会話の応酬は途切れなく続いていて、ジルは入り口の階段の下で、割り入って良いものかをじっと考えていた。
会話の終了を待っている内に、蒸留器の前に立っていたミドが、新たな来訪者に気付く。
ミドはぱっと表情を明るくすると、此方に背を向けて話しているカローンとの会話から逃げるように、ジルの下へと駆け寄ってきた。
「ジル!なんとかしてよ、カローンがしつこいんだ」
「人聞きの悪い娘だね。たまには紅のひとつくらい覚えてみろって言ってるんだ」
ミドはジルを盾にするように、背中に回り込んで隠れた。
カローンはそんなミドに、眉を釣り上げ、手に持っていた小瓶を見せる。
小瓶は陶器製で、真っ白な外観をしており、側面に小さな花が薄紅色の花が描かれている。
瓶口に乗った蓋もデザインが合わせて作られたと分かる、一見すると白一色ンシンプルなものだ。
隠れ家ではまず見ることのない代物であるから、カローンが何処かで仕入れて来たのだろう。
ジルはミドを宥めながら、背中にくっついている少女を見遣り、
「どうしたの、ミド。カローンも、貴方が此処にいるのは珍しいわね」
「何、野暮用だよ。大した事じゃない」
「じゃあもう良いじゃん、あたしはそう言うの興味ないんだよ」
「二人とも、一体何の話をしていたの?」
肝心の要点が見えなくて、ジルはもう一度、何があったのかを尋ねてみる。
ミドは拗ねたように唇を尖らせながら、カローンの手に握られているものを睨むようにして言った。
「急に此処に来て、あたしに化粧しろって言うんだよ」
「化粧……?」
ミドの言葉に、ジルが首を傾げると、カローンは小瓶をひらりとかざすように見せ、
「良い年頃の娘が、毎日油にまみれてばかり。少しは身嗜みに気を遣いな。香油は嫌だって言うから、これにしてやったんだよ。質の良いものだから、悪い匂いもしないし、皮膚を傷めることもない」
「お気遣いどうも!でもあたしはいらない!」
「落ち着いて、ミド。カローンも少し待って」
ずいずいと近付いて来るカローンと、やだやだと背に隠れるミドに挟まれ、ジルは眉尻を下げて二人を宥める。
カローンもミドも、頼りになると同時に、中々に我の強い人たちだから、どちらをどう宥めたものか。
クライヴを連れて来た方が良いかしら、それともオットーを、と仲裁に入ってくれそうな人を頭に浮かべるが、生憎とクライヴは出掛けていてまだ戻っていないし、オットーも忙しそうだった。
折の悪いタイミングに来てしまったな、と困り顔をしているジル。
そんなジルを、ふとカローンがじいっと見つめ、
「そう言えば、ジル。あんたもこういうものを使っていないね」
「えっと……それは?」
「唇に塗る紅だ。見た事くらいはあるだろう?」
「ええ、まあ……」
「使ったことは?」
「それは、ないけど……」
片義眼のカローンの目が、まじまじとジルの顔を検分する。
その様子を背中に隠れてみていたミドが、ぴん、と良案を思い付いたとばかりに顔を出した。
「じゃあさ、じゃあ。その紅、あたしじゃなくてジルにあげなよ」
「えっ?」
「色が綺麗だからさ、あたしよりジルの方が似合うよ!絶対!」
「ふむ……」
ミドの提案に、カローンは真剣な様子で考え始める。
それを見たジルは、慌てて二人の間からすり抜け逃げた。
すかさずその手をミドが捕まえ、蒸留器の傍に置いてあった椅子へと引っ張って行く。
「まあまあ、ちょっと寄ってって」
「え、え、ミド、待って。化粧なんて私、したことがなくて……」
「だったら良い機会だ!試してみようよ」
ミドにしてみれば、面倒の矛先がジルに向いたことが、これ幸いに違いない。
そしてカローンも、ミドの提案を一蹴しない所から見て、存外乗り気であるらしい。
ミドがジルを椅子に座らせると、早速カローンが瓶の蓋を開ける。
瓶の中には、樹脂に色粉を練り混ぜた粘土状の物が入っている。
カローンが指先にそれを付け、瓶は傍に立っているミドに押し付けるように預けて、空いた手でジルの顎を捕まえた。
「動くんじゃないよ。そのままじっとしてるんだ」
「え、ええ……」
カローンの醸し出す“動くな”と言う空気と、その向こうでは何故かわくわくと瞳を輝かせているミドに見詰められ、ジルはすっかり流れに飲み込まれていた。
カローンの指先が、ジルの唇に触れる。
指はするりと唇の形に沿ってなぞり、元より薄淡色をしていたジルのそれを、そっと、微かに、彩った。
他人が唇に触れていると言うのは、なんとも不思議な感覚で、ジルは戸惑いながら、カローンの作業が終わるのを待つ。
しばしの沈黙の後、カローンは「……こんなものだね」と言って唇から指を離す。
ミドが、壁にかけている布巾をカローンに渡して、ジルの正面に来てまじまじと顔を覗き込んだ。
「ほぉ~……」
「えっと……」
「うん、良いじゃん良いじゃん!やっぱり似合う!」
ミドはまるで子供のように喜んでいた。
その向こうでは、カローンも指に残った紅を拭きながら、
「元々素材は悪くないんだ。ちゃんと手入れをして整えれば、もっと見栄えも良くなる。偶にはこういうものを使って、自分を磨いてみるんだね。女の顔は武器になるよ」
「婆ちゃんが言うと説得力あるね。でもホント、ジル、綺麗だよ!」
「あ、ありがとう……でも、なんだか、落ち着かないわね。……取っても良いかしら」
褒めてくれる二人の言葉は嬉しかったが、口元に違和感があるような、ないような───とジルは戸惑う。
普段はないものが其処に在る、と言う感触もあって、ジルは自身の唇に触れた。
その手をミドが素早く捕まえ、
「ダメダメ!今日一日はそれつけてようよ。そうだ、クライヴにも見せよう!」
「えっ」
「さっき帰ってきた声が聞こえたよ。このまま行こう!」
言うが早いか、ミドはジルの手を引いて歩き出した。
「待って、ミド」とジルは呼びかけるも、ミドは気持ちが既に向こう側へ行っているらしい。
急いで急いで、と小走りに階段を上がって行くミドに、ジルも成すがままだ。
基地に残されたカローンを見遣れば、彼女はやれやれと呆れた表情で肩を竦めたのみで、ジルとミドを見送った。
サロンを通り、デッキへと抜けた所で、昇降機が巻き上げられる音が聞こえた。
隠れ家のリーダーであるクライヴが帰ってきたことで、皆が彼を迎えに出て、賑やかな声が聞こえる。
お帰りなさい、と弾む声が重なる向こうに、数日離れていた人が帰ってきたのだと悟ると、俄かにジルの胸の奥で鼓動が跳ねる。
ジルは前を歩くミドの手を引っ張って、足を止めた。
「待って、ミド。その、私、えっと……」
なんとなく、いつものように出迎える顔が作れなくて、ジルは俯いた。
ミドも振り返ってそんなジルを見る。
「大丈夫だよ。ちゃんと似合ってるし」
「そ、そう言うことではなくて……忙しそうだから、私、後で───」
「おーい、クライヴ!」
無性に湧き上がる気恥ずかしさに、ジルが迷う暇と言うものを、ミドは与えなかった。
皆の向こうにいるクライヴに向かって、背伸びしながら大きく手を振る。
仲間たちが元気なミドの声に振り返れば、当然、その向こうにいた人も、同じように此方を見た。
「ミドか。相変わらずみたいだな」
「うん!ね、ね、ちょっとこっち来て!」
ミドの呼ぶ声に、クライヴは「ちょっと待ってくれ」と言いながら足を向けてくれる。
囲む仲間たちに、持ち帰った物資の確認と運搬を頼みながら、クライヴはミドの下へとやってきた。
そしてクライヴは、ミドの後ろに隠れるように、俯き背中を縮こまらせている幼馴染の姿を見付ける。
「ジル?どうしたんだ?」
「えへへ。ちょっとね。ほら、ジル、大丈夫だって」
隠れたがるジルを、ミドは手を引いて前へと進ませる。
自分の気持ちの整理も儘ならない内に、クライヴの前へと立つことになって、ジルは益々焦った。
右手が口元を隠してしまうのは、やはり其処がいつもと違うからで、これを目の前にいる人に見せて良いのか、覚悟が決まらない。
第一、ミドの基地には鏡と言うものがなかったから、ジルは今の自分の顔が、普段どどう違うのかも分からないのだ。
せめて自分の顔の状態をきちんと確認して、自分なりに「おかしくはない」と思う事が出来れば、覚悟の決めようもあるのだが。
俯き加減になっているジルを、クライヴはことんと首を傾げて見つめる。
「ジル?……気分でも悪いのか?」
「い、いいえ。大丈夫、大丈夫なんだけど……その……」
ジルが口元を隠しているのを、吐き気を堪えていると思ったのだろう。
クライヴの声は如実に心配を含んでいて、ジルはなんと答えれば良いか思案する。
いつまでもこうしてクライヴを拘束している訳にもいかない。
ジルは口元に当てていた手を、そろりと放して、胸の上で緩く握り締めた。
それでも俯けた顔を上げるのは、なんだか無性に恐ろしい気がして、───更に言えば、ミドに言われるままに引っ張って来られたので、ジルの方からクライヴに特別用事がある訳でもない。
何を言えば、どうすれば良いだろう、とにかく何か言わなければ、と思った末、
「えっと……お帰りなさい、クライヴ」
「ああ、ただいま」
「ダルメキアの方に行っていたんでしょう。怪我はない?」
「群れからはぐれた魔物が襲って来たくらいだな。負傷者もいないし、大丈夫だ」
「そう。良かった」
当たり障りのないことを尋ねるしか出来なくて、ジルはこれではいけない、と思う。
もう少し何か、けれど隠れ家の方も何事もなく平穏であったし、と考えあぐねていると、
「……ジル?」
じっと見つめる青の瞳に名を呼ばれ、どきりとジルの鼓動が跳ねる。
瞳は何処か不思議そうにジルの顔を見つめて、
「なんだか、いつもと少し違うか?」
「……!」
「顔色が良いと言うか───なんと言うのか……」
感じることを上手く形容する言葉が見付からないのか、ううむ、と唸るように首を捻るクライヴ。
そんなクライヴに、ジルの後ろからひょこりとミドが顔を出し、
「な、クライヴ。今日のジル、何かいつもと違う気がしないか?」
「うん……そうだな」
「いつもと比べて、変?」
「それはないだろう。ふむ……少し顔色が明るく見える。何か良い事があったのか」
「うーん、惜しい?って言うか、もう一声欲しい!」
「どうしたんだ、一体」
ジルの背中で、ミドが地団太を踏むようにして、もうちょっと、もうちょっと言って!とねだる。
クライヴはミドが何を要求しているのか、具体的に読めない事でまた首を傾げていたが、
「────ひょっとして、紅を差しているのか?」
「!」
「お!」
まじまじとジルの顔を見詰めながら言ったクライヴに、ジルは勿論、ミドも目を輝かせた。
「珍しいな」
「え、ええ。その、カローンが仕入れて来てくれたものを、塗ってくれて」
「な、な、どう?クライヴから見て、どう?」
気付いたのなら、とミドがここぞと感想を尋ねる。
クライヴは、見慣れている筈の女性から醸し出される、普段と違う雰囲気の理由を得心して、柔い笑みを浮かべる。
「似合うよ、ジル。初めて見たような気がするな」
「そう、ね。私も初めてだわ。子供の頃も、こういう事はしていなかったし」
ロザリア公国にいた頃は、まだジルも幼かった。
城使えの女性の中には、唇や頬に何某かの化粧を施していたのを見た事はあったが、少女であった時分のジル自身がそれを試してみたことはない。
あの頃はまだ幾らかの興味があったと思うが、ロザリア崩壊から此処まで、それを思い出す余裕もなかった。
そんなジルにとって、これは降って沸いたような機会であった。
カローンとミドの勢いに流されるようにして、生まれて初めて差した紅は、どうやら、ちゃんとジルに合うものだったらしい。
クライヴから「似合うよ」と言われて、ジルはようやく、胸の奥で幼い少女が笑うのを感じた。
波止場の方からクライヴを呼ぶ声が聞こえ、クライヴはそちらに応えている。
それを見たジルは、もう十分ね、と思った。
「引き留めてごめんなさい、クライヴ。忙しいのに。怪我がなくて良かったわ」
「ああ、悪いな、ジル。後でまた話そう」
「ええ」
呼ぶ声の方へと向かうクライヴを見送って、ジルはほうっと胸を撫で下ろす。
それを見たミドと目が合って、にっかりと笑う彼女に、ジルも頬を緩めるのだった。
【一途に思い続けた先へ5つのお題】
4:気付いてくれた?
ジルのちょっとした変化にも気付くクライヴとか良いなあと思いまして。
ただクライヴって良くも悪くも朴念仁な所もあると思うので、「何かいつもと違うな」って所は感じ取っても、じゃあ具体的にそれは何処かと言われると、しばらく考え込みそう。
クライヴがそんな感じで気付かなくても、ジルは「いつもと違うと感じてくれた」だけで十分と思いそう。
でもやっぱりクライヴからの「似合う」とか「可愛い」がジルは一番嬉しいんだろうなと思いました。
お題配布サイト 【シュレディンガーの猫】
鏡には見慣れた顔が映っている。
黒い髪、眼窩の奥に翠、細い鼻柱、髭を蓄えた口元。
目元の下が薄らと昏いのは最早どうしようもないことで、今更にそれの血色を気にすることもない。
何年も、何十年も、見るだに見飽きた、自分の顔だ。
社長室の片隅には、小さな手鏡が諸々の邪魔にならないようにひっそりと置かれていた。
それは来客があった際、迎える前に最低限の身嗜みを確認する為に用意されたもので、それなりの頻度で使うことがある。
あるが、用途としては全くそれだけのことで、必要がないのであれば、視界に入れるものでもなかった。
しかし今、バルナバスはそれを自分の意思で手に取っている。
そして顔の前へと持って行けば、其処には先述の通り、自分自身の顔がそのまま映り込んでいた。
鏡は歪みは勿論のこと、指紋汚れの類もなく、まるで買ったばかりの新品のように綺麗に磨かれている。
お陰で其処に映る自分の顔は、自宅の洗面台に取り付けられた鏡で見た時と何ら変わらない形をしていると、確認することが出来た。
強いて言うなら、洗面台の鏡はそれなりに大きなものであるから、前に立っただけで上半身を一目で概ね確認できるが、此処にあるのは手鏡である。
長辺で精々15センチあるかないかと言う程度のものだから、映るのは首から上、全体を取っても頭いっぱいが限界だ。
棚に置いて遠目に立てば、胸像程度は映るだろうが、結局はそのくらいの物だった。
だから立ち姿でのスーツの皺を直すだとか、ネクタイの歪みがないか確かめるかだとか、そう言った目的でちらと見る以外には無用のアイテムとされている。
それでも鏡は鏡であるから、自分の顔を正確に見ようと思えば、一番手っ取り早い道具だった。
だからバルナバスは、この鏡を手に取った訳だ。
そして其処に映る自分の顔をじっと見つめている。
「………」
鏡に映る自分を眺めることは少ない。
洒落た格好を好み、それを常に整えたがる人間はいるが、バルナバスはそうではなかった。
今でこそ、立場を含めた公人として振る舞う機会が多い故に、見栄えを保つ必要性を理解しているが、そもそもはどちらかと言えば無頓着である。
躾の厳しい母の指導によって、学生時代は制服の襟ひとつと乱さぬように心得てはいたが、では自らがその律を守るべき信念を持つに至ったかと言えば、さて、と肩を竦めるしかない。
ヒトはその立場に応じて着飾るべき衣装があり、それを誰もが無意識的に求めているから、時には武器として時には鎧として、適した格好をするべきである、と言う理屈として、バルナバスは自分の衣服と言うものを選んでいた。
と、服についてはそう言う理由で、個人的なこだわりはなくとも、保つべきラインがあるのだが、此方───顔については尚更どうでも良いと思う。
鏡に映り込んだ男の顔に、バルナバスが何を思うこともなかったが、しかし、一般的には随分と不機嫌に見えるパーツをしているらしい。
例えば眉間の皺、例えば潜めた形の眉、例えば真一文字に噤まれた唇……と、挙げて行けば幾らでもあるだろう。
これで表情が忙しく動けば印象も変わるのかも知れないが、生憎とバルナバスの表情筋は固い。
それは昔からのことで、動的感情は可惜に表に出すものではないと教育されたことに加え、元より外部刺激に対する反応が鈍かったこともあり、幼年の頃からバルナバスは無表情気味であった。
この為、バルナバスの顔と言うのは、専ら不機嫌に見える顔付のまま動かない、と言うのが常態化していると言えた。
それで何が困る訳でもない。
世の中には、経営者はそれなりに愛想が振り撒ける方が良い、と言う節もあるが、かと言って、そうでなければ成功しない訳でもない。
更に言えば、世間がバルナバスの何をどう評価していようと、彼自身には大した価値もない雑言でしかない。
───ないのだが、唯一、バルナバスの耳に届く雑言も、数少ないながらに存在する。
それが零した些細な言葉こそが、今、バルナバスに鏡を覗かせていた。
「………」
そうして、鏡を手に己の顔を見つめて、どれ程時間が経っただろうか。
バルナバスは、自身の左手を目元に口元に遣り、自身の顔パーツの感触を確かめていた。
頬骨を指の腹で押したり、眉間の皺を広げてみたり、最低限に形を整えることだけを保っている髭を少しばかり摘まんで見たり。
一頻りそうして顔に触ってから、この程度の力で人間の頭蓋がどうなる訳でもないことを知る。
頭蓋の形を変えるには、きちんとメンテナンスされた機械の力で掘削しなければならない。
もう少し簡単に動くと言えば、頭蓋骨の上に乗った筋肉や皮膚の方だが、どうもバルナバスは、此処も早々楽には動かないようだ。
普段、滅多に表情を変えないのだから、肉も皮も張り付いて固くなっているのも無理はなかった。
とは言え、バルナバスとて全く表情を持たない訳ではないのだ。
喋れば口や顎が動くし、感情を持てばそれなりに顔に反映される所もある。
そして、意識して動かせば、固く張り付いた顔の筋肉も、少しくらいは形を変えるのである。
鏡の中の男が、口角を上げる。
不慣れな形を作ろうとしている所為か、頬の筋肉が微かに引き攣るように震えるのが分かった。
歯を見せるのが良いらしい、と言われたことを思い出す。
上唇と下唇の隙間を割って、鏡に白い歯がしっかりと映るようにした。
昏い目をした男が、鏡の中で歯を見せて笑っている。
……多分、恐らく、笑っている。
鏡に映る自分と思しき男の顔を見ながら、バルナバスはそう思った。
───直後に、ドアをノックする音がして、其処から間を置かずに扉が開いた。
「ちょいと失礼。社長、さっき届いた資料について確認を───」
許可の断りを待たずに、この社長室に入れる人間は限られる。
その立場を持っているのは、この会社でバルナバスが直に指名して役職を与えた、シドと他僅かな人員のみ。
加えて、本当に許可を待たずに入る度胸と付き合いがあるのは、シド一人であった。
そのシドが、部屋に入って来るなり、ぴたりと動きを止めた。
ドアの袂で停止したまま再起動しない気配に、バルナバスは鏡を見ていた顔を上げる。
その顔は、既にいつもの通りのものに戻っていた。
「……どうした」
「……いや……」
バルナバスの方から声をかければ、シドはやっとドアを潜った。
その表情は、普段は飄々とした昼行燈を装っている彼にしては珍しく、何処となくぎこちない。
シドはデスクへと近付きながら、
「まあ、なんだ。随分真剣に鏡を見てるから、一体どうしたのかと思ったんだ。来客予定でもあるのか?」
そう問いながら、バルナバスの予定はシドも概ね共有しているから、そうした予定がないことは知っているだろう。
しかし、来客の類がないのなら、シドはバルナバスの手に鏡が在る理由が分からない。
……その鏡に向けられたのであろう顔も見てしまったものだから、尚更。
バルナバスは鏡をデスクに置いて、シドの方へと向き直った。
シドが差し出した書類を受け取り、その紙面に視線を落としながら、事の理由を説明する。
「この人相は、どうも悪人面らしい」
「……」
バルナバスの言葉に、シドは「誰がそれを言ったのか」とは問わなかった。
この男に、そんなことを言い放つことが出来る人間を、シドは一人しか知らない。
傍から聞けば、言われて怒りを買う言葉だが、バルナバスの表情にそうしたものは浮かんでいなかった。
実際、バルナバス自身にとっても、この面が人に好かれるような顔でないことは理解している。
愛嬌などと言うものは無縁の人生であったと自覚があるし、それで問題が起きた事もないから、その事実を指摘された所で、バルナバスの琴線が震えることはなかったのだが、
「この顔で仏頂面をしているから、威圧しているように見える。だから人は私を怖がる───らしいな」
「……あー……全面否定は難しいのは、確かだな……」
バルナバスの言葉を、シドは濁すように曖昧な表情を浮かべつつも、否とは言わなかった。
この男が、此処で変に耳障りの良い言葉を使わない所に、バルナバスは信頼を置いている───それはともかく。
「だから、偶には笑た顔を見せた方が良いと言われた」
無表情、仏頂面、とかく感情の見えない顔。
確かにそれは、他者から見れば圧として受け取られ、相手の心理状態によっては、怒りを買ったかと思うこともあるだろう。
顔色を伺う、と言う言葉もあるのだから、其処に好ましいものが感じ取れない顔をしていれば、あるのは負の感情だと考えるのも無理はない。
バルナバスも幼年の頃は、厳しいに母に育てられた経験があるから、そう感じてしまう人間の心理と言うものは少なからず理解できる。
人は、笑顔と言う形を作ることで、緊張を緩和することが出来る。
自分は悲しい、辛い、苦しいのだと感じている時でさえ、嘘でも笑顔を浮かべることで、その精神を僅か奮い立たせることも。
そして人間は、笑顔を浮かべるものに対して、髄反射的に好意的な感情を抱き易い、とされている。
「……成程。それで、真面目に笑う練習をしてたって訳か?」
シドがデスクに置かれた手鏡を見て言えば、そうだな、とバルナバスは頷いた。
バルナバスの手がもう一度鏡を捕まえ、しげしげと鏡に映り込む自分を眺める。
左手で口の端の頬肉を摘まむが、肉は大して挟める程にもついていなかった。
加齢で肉が削げ、顔の形が骨を浮き上がらせるようになっているのも、この人相を作っている理由になるのだろうか。
どうすれば“笑顔”と言うものを意識的に作ることが出来るのか、鏡を睨み続ける上司に、シドはなんとも言い難い表情を浮かべながら、言った。
「……なんというか、な。人には向き不向きってものがあって、顔や表情にもそれはあると思う。それに、無理に作った笑顔って言うのは、取り繕ってて不自然なもんだ」
「……そう言うものか」
「お前が大して笑わなかったからと言って、これまで人がついてこなかった訳でなし。もし笑う機会があるのなら、それは自然に出て来たものだけで十分だと思うね」
シドの言葉を聞きながら、バルナバスはじっと鏡を見つめ続ける。
「お前さんが、存外恋人に甘いのと、真面目な努力でそれに応えようとしてるって所は理解できるが……俺としては、無理はしないことをオススメするかな」
そう言ってシドは、ともすれば逃げるように、回れ右と踵を返した。
書類は後で確認しておいてくれ、と言ってから、部屋を出て行く。
扉が閉じる音を聞きながら、バルナバスは昨晩の出来事を思い出していた。
熱を交えた後で、気怠さの中で過ごしていた時に、戯れのように頬に触れた手。
その存外と心地良い感触に任せていた時に、彼は言った。
『あんたは笑うと、案外優しい顔をしてるんだから。そう言う所を、他の奴にも少しは見せてやれば良いのに』
そうすれば、やたらと怖がられたりしないだろうに。
もっと色んな人に好かれるかも知れないぞ───と。
それでバルナバスが、誰かに好かれる為に笑う必要性を感じることはない。
ただ、彼がそう言うのならば、少し試してみようかと思ったのだ。
呟きながら言った彼の表情が、酷く柔く愛おしいものを見る目をしていたから、彼の言うような顔を作れるようになれば、また同じものを見れるのではないかと思って。
しかし、どうもシドの言う事を鑑みるに、自分の笑顔は不自然なものらしい。
鏡に映る自分の顔を見ても、一般的に愛嬌を覚えるようなものが出来ているとは言い難い。
鏡に映る見慣れた顔を見詰めながら、この顔がどうなれば正解になるのだろうか、と熟考するも、答えは一向に見えないのであった。
【一途に思い続けた先へ5つのお題】
3:鏡の前で笑顔の練習
クライヴが全く出て来てないけど、バルクラなんです。
恋人のクライヴが偶にしか見ることのないバルナバスの笑顔がある訳ですが、クライヴはそれが自分にだけ向けられるものだと気付いてないと言う。
そしてバルナバスも自分がそうことをしている自覚がないので、真面目に笑顔の練習なんてことをしていたら、うっかりシドが目撃してしまったのでした。
バルナバスって根が超真面目な人だと思っている。
なので真面目に“模範的な笑顔”の練習をしていたようですが、クライヴが見たのはもっと自然な、ふっとした時に零れたものなんでしょうね。
冷蔵庫を開けて、ああしまった、とレオンは眉根を寄せた。
箱の中身は色々と詰め込まれた状態ではあるのだが、今日の主食に使えそうなものがない。
既に調理済みのものが入っているタッパーを取り出し、その中身を確認してみるが、どれも同居人を満足させる程の品にはならなかった。
ありものを掻き合わせて量を嵩増しさせることは出来るが、野菜ばかりで彼の胃袋は満足しないだろう。
動物性タンパク質の塊がひとつは欲しい、と思うが、何度冷蔵庫の中身を探っても、それを補ってくれるものは見付からなかった。
仕方がない、とレオンは冷蔵庫の蓋を閉じる。
ないものを幾ら探した所で、結局ないのなら見付かる訳もない。
時刻は直に毎日の夕食時間だが、今日は少し遅れるものと割り切って、今から何か買いに行こう。
レオンはそう決めて、リビングで新聞を読んでいるジェクトに声をかけた。
「ジェクト、すまない。買い物に行ってくるから、夕飯が少し遅くなる」
「今から行くのか?珍しい」
「此処しばらく、買い物に行き損ねていたからな。主菜に出来るものが残っていなかった」
財布を取りに行こうと自室へ向かおうとするレオンに、ジェクトがもう一度「珍しいな」と呟いてから、
「どうせ出るなら───おい、レオン。折角だ、食いに行こうぜ」
「え?」
財布と上着を取って、玄関へ向かおうとした足を止め、レオンはリビングを振り返った。
ジェクトもソファから腰を上げ、リビングの隅のチェストに置いていた折り畳み財布を取る。
それを色落ちしたジーンズのポケットに捻じ込みながら、ジェクトはレオンを追い抜いて、玄関へと向かった。
後を追う形でレオンが玄関前に立っていると、靴を履き終えたジェクトがドアノブに手をかけながら言う。
「毎日栄養管理してくれるのは有難いが、偶にはサボっても良いじゃねえか。一日くらい平気だろ?」
「それは、まあ……あんたも此処しばらくは、飲み会も控えているようだし」
「偶にはお前に楽に飯食わせてやりたいしな。奢りだ、行こうぜ。で、帰りについでにマーケット寄って、足りないもの買い足して置けば良い」
レオンの是非の返事を待たず、ジェクトは玄関を潜った。
行く気満々、仮にレオンが断ったとて聞かないだろうと判るその様子に、レオンはくすりと笑みを浮かべて、靴を履いた。
マンションを出たジェクトが、そのまま足で街へと向かうのを、レオンは並んで追う。
「ジェクト。何処に行くつもりなんだ?」
「さぁて。お前さんは何処に行きたい?」
「俺は何処でも構わないが───折角だから、あんたの行きつけを覗いてみたいかな」
ジェクトのマネージャーとして傍につき、仕事の効率も含め、レオンが彼と同居生活をするようになってからそれなりの時間が経っている。
その間に、レオンとジェクトは人目を憚るようにして関係を深め、今では密かに恋人同士となった。
しかし対外的には、ジェクトは水球選手として、レオンはその活躍を下支えすることを仕事とする、ビジネスパートナーとしての域は出ない事にしている。
世界的な水球選手として有名なジェクトにとって、漏れてしまえばスキャンダルとして大騒ぎになることは勿論のこと、何より、まだ二人はそれぞれの家族に関係を打ち明けることに躊躇いがあった。
その躊躇いは、家庭環境から来る相手への家族への若干の後ろめたさもありつつ、「まだ二人きりでいたい」と言う、秘密の共有による特別感を味わっていたかったからだ。
対外的には秘密の関係である為、二人がプライベートな時間を共に過ごすと言うのは、存外と少ない。
ジェクトはシーズン中は練習と調整、試合に明け暮れており、レオンもジェクトの生活管理やスケジュールの調整に追われている。
私的な時間がそもそも少ないこともあり、忙しい時には、同居していながら朝晩の挨拶くらいしか会話をしない、と言うのも珍しくはなかった。
飲み会も、ジェクトは選手同士で、レオンは所属チームスタッフと行くことが多いから、人付き合いも行く先もバラバラである。
お互いに良い年齢をした大人なのだから、余程のトラブルでもない限り、お互いの私生活には触れないのが暗黙の了解だった。
だからレオンは、ジェクトが好んでいく店と言うものを、詳しくは知らない。
どこそこの店に行ったとと言う報告や、あそこでジェクトを見かけたと言う目撃談は聞くので、街のどのあたりに好んで出没するのかは凡そ把握しているが、その程度だ。
「俺の行きつけねえ……」
「あんたが俺に店を知られたくないなら、無理にとは言わないけど」
「お前に隠し事する必要が何処にあるよ」
「身内にだって隠し事がしたいことはあるだろう。誰にも知られない隠れ家がひとつくらいは欲しい、って」
「お前も欲しいのか?」
「さあ。今も隠れ家生活してるようなものだからな、俺は。随分大きな隠れ家だけど」
秘密の関係性であることを暗に滲ませながら、笑みを浮かべて言うレオンに、ジェクトは読み取ったようでにやりと笑う。
「デカいから良いんだろ?」
「まあな。でも苦労する事も多い」
「感謝してるよ。お、其処の店にするか」
道すがらに看板を吊るした店を見付けて、ジェクトの足が其方へ向いた。
誘われるままにレオンも其処へと入る。
店の中はがやがやと賑やかな声が犇めいており、店員が忙しなく歩き回って食事を提供している。
どうやら大衆食堂のようで、アルコールの提供も多く、ご機嫌な歌を歌っている人が其処此処にいた。
ジェクトは勝手知ったる場所なのか、店員の案内を待たず、空いている席を探して、隅にあったテーブル席へと腰を下ろした。
レオンも向かい合う椅子に座りながら、辺りを見回してみる。
「よく来る店か?」
「まあな。カツとパスタが旨いんだ、食うか?」
「そうだな。何が良いのか判らないし、あんたのオススメがあればそれにしよう」
レオンの言葉を聞いて、ジェクトは満足そうに笑う。
右へ左へ忙しくしている店員を一人捕まえたジェクトは、メニュー表も見ずに注文を通す。
店員は相手がジェクトである事に気付きつつも、特段のリアクションはせず、注文をメモして厨房へと消えていった。
この街では知らない者はいない、と言っても過言ではない程のジェクトが入店しても、店員は勿論、客も強く気にする様子がない。
客の中には声を潜めながら此方を見ている者もいるが、それだけだ。
成程、これならジェクトもゆっくり飲める、とレオンも悟る。
十分もしない頃に、ウェイターが料理を運んできた。
先ずはジョッキのビールに、大きなカツレツにソースとマッシュポテトが添えられ、オレンジ色のスープが並ぶ。
更にトマト色に煮込まれた野菜に、大きなポークソーセージ。
太い筒状のショートパスタには、魚介のクリームソースがかかっていた。
そのどれもが、特にはカツレツが皿をはみ出る程にサイズも量も大きいものであったから、レオンは眉尻を下げて苦笑する。
「ジェクト。頼み過ぎじゃないか?」
「いつもこんなモンだよ」
ジェクトはそう答えながら、カツレツにナイフを入れている。
レオンは、食べきれるだろうか、と戸惑いつつ、ショートパスタの皿を傍へ寄せた。
レオンがパスタを食べている間に、ジェクトは料理を平らげていく。
昔からよく食べる方だったとレオンは覚えているが、もう中年の年齢になっても、ジェクトの胃袋は衰えを見せない。
カツや唐揚げと言った油ものは今でも好物で、母国に帰った折には、息子と大人げない争奪戦を繰り広げている光景もよく見る。
毎日の水泳練習や筋肉トレーニングも欠かさないから、食べ物の消化は勿論、代謝率も下がらないのだろう。
それを思うと───と、レオンはポークソーセージを齧るジェクトを見ながら、
「なあ、ジェクト。あんた、ひょっとして俺の作るものだと、物足りなかったりしないか?」
「ん?」
ビールを流し込みながら、ジェクトはぱちりと瞬きをひとつ。
「突然なんだよ」
「いや……こうしてあんたが食べている所を見ると、もっと量があった方が良いんじゃないかと思って。食べる量が足りないのなら、あんたのパフォーマンスにも影響するかも知れないし、メニューの基準を変える必要があるかと……」
ジェクトが日々を試合の為に集中できるように、彼の生活まわりのことは、レオンが管理している。
栄養管理はその最たるものとも言え、効率的に体作りの下となる食材を選び、疲労回復にも秀でた物も取り入れていた。
レオンは長い間、早逝した母に代わり、働き盛りであった父と、年の離れた弟の面倒を看ていたから、こうした知識や技術を取り込むことには積極的である。
しかし、単純なカロリー摂取量と言う点で言うと、レオン含めた家族がそれほど量を摂るタイプではなかったこともあって、やや控えめになっている所は否めない。
ジェクトとその息子の面倒を看るようになってからは、彼らの為に量を増やすようになったが、根本的には健康志向と言って良い範疇だ。
テーブルに重ねられていく空の皿を、真面目な表情で見つめているレオン。
何処まで増やすべきだろう、と真剣に考えている様子のレオンに、ジェクトはくっと喉を鳴らして笑う。
「良いよ、別に。お前の作る飯に不満なんかねえしな」
「……本当か?あんたの身の回りの管理は、あんたの為のもので、それは俺が整えるのが仕事だ。不満、と言うか、改善した方が良い点があるのなら、それは遠慮なく言って欲しい」
「真面目な奴だな、ホントに」
レオンの言葉に、ジェクトは苦笑を交えて言った。
「お前はお前なりに、ちゃんと計算して飯作ってくれるだろ。それで物足りなきゃその時に言うし、追加も出してくれるじゃねえか。十分だ」
「……」
「飲みの後には楽に食えるモン作ってくれるし。そりゃあ、偶にもうちょっと濃いモンが食いてえなって思うことは、まあ、あるけどよ」
「やっぱり」
「偶にだ、偶に。大体、毎日それをやるのも良くないもんだろ?」
「それは、な。摂った分、それ以上に消費しているなら、問題はないかも知れないが……長い目で見ると、歓迎は出来ない」
「そう言う所をお前が全部やってくれてるんだ。それで、俺の好みに合わせた飯を作って貰ってる。腹持ちも十分良い。贅沢なもんだ」
そう言ってジェクトは、ジョッキに残っていたビールを一気に煽る。
そして、空になったジョッキをテーブルに置くと、
「それより、食う量ならお前だ、お前」
「ん?俺?」
突然に矛先が向いて来たものだから、今度はレオンが目を丸くする。
何を言い出すのだろうと首を傾げるレオンに、ジェクトは続けた。
「うちのガキより食わねえじゃねえか。そんなだから細いんだよ」
「細くはない。あんたを基準にしないでくれ」
「細いだろーが、腰なんかこう……」
「だから、それもあんたの手がでかいから」
両手でレオンの腰のサイズ感について表すジェクトに、レオンは眉根を寄せて言い返す。
ジェクトにとって自分自身が基準になるのは無理もないが、決してそれは一般的な規格サイズではないのだと、レオンは繰り返し主張するのであった。
10月8日と言う事で、ジェクレオ。
今年もプロスポーツ選手×マネージャーです。周りを気にしてるようで気にしていない生活をしている二人のいちゃいちゃ。
レオンに胃袋を掴まれているジェクトですが、毎日作るのは大変だよなと言うのは判っているので、偶にはこんな日もあるかも知れない。
体格ではレオンは標準よりも上、しっかり締まった筋肉質だと思うんですが、ジェクトからすると細いと良いなと。そもそも体幹や骨の作りの基準が違うと言う。あとジェクトの手が大きいので、大体の人の腰は両手で覆えてしまう感じ。