陽が消える朝(三&空)
太陽が、なくなる。
それを見た瞬間、世界が壊れて行く音が聞こえた気がした。
目が覚めて、なんだかとても寒い気がした。
もう五月になり、日によっては暑く感じる日もあると言うのに、まるで真冬のように寒い、気がした。
目を擦りながら起き上がると、寒さの次は、静けさが気になった。
朝を告げる鳥の声も、木々のさざめきを鳴らす風も、何も聞こえて来ない。
不思議に思って外を見て─────空の光が、消えていくのを見付けた。
「三蔵!」
ベッドで丸くなっている保護者に跳び付いて、揺さぶった。
昨夜、三蔵が遅くまで仕事をしていた事も、後で絶対に怒られる事も、気にせずに。
「三蔵、三蔵!三蔵、起きて!起きてってば!」
「……るせぇ……」
繰り返し耳元で呼べば、三蔵の眉間に皺が寄る。
それも構わず呼び続けて、ようやく、紫電が悟空を見る。
「なんなんだ、朝っぱらから…」
「三蔵、変。空が変」
「あぁ?」
意味が判らない、と三蔵は顔を顰め、悟空が窓の向こうを指差すと、ベッドを下りて其方へ向かう。
悟空はそれについて行き、三蔵の腰にぎゅっとしがみついた。
薄らと雲のかかる、静かな朝の空を見上げれば、其処に在るのは、穴の開いた太陽。
一瞬、眉を潜めた三蔵だったが、直ぐに得心が行った。
それから、傍らの子供が酷く焦燥した表情である理由にも。
「……慌てるな。ただの日食だ」
「…に、しょく……?」
何ソレ、と問う金色の瞳には、不安が滲み、薄らと涙が浮かんでいる。
殊更に“太陽”を特別視する傾向のある子供にとって、太陽に穴が空いている現象は、この世の終わりも同然であった。
知識を知っていれば特に慌てる事もないが、常識的な物事さえろくろく整っていない子供に、それは無理な注文だろう。
三蔵は太陽を直接視した所為で痛む目を摩りながら、空に背を向けた。
しがみ付いて来る子供の背中を押して、ベッドに戻って腰を下ろす。
「三蔵、日食って何?あれ、どうなってんの?太陽、なくなるの?」
煙草を取り出す三蔵の隣で、悟空が矢継ぎ早に問う。
三蔵は煙草に火を点け、一つ煙を吐き出した後で、なあなあ、と揺さぶる子供の頭を掴んだ。
「静かにしろ。別になくなりゃしねえよ」
「…本当?」
「ああ」
「………」
三蔵の言葉を聞いても、悟空は未だに不安の滲む顔をしている。
あれはただの自然現象だ、と三蔵は言おうかと思ったが、どうせ長々と説明しても悟空が理解できる筈もあるまい。
時間が経てば元に戻るとだけ言うと、悟空は「うん……」と沈んだ表情のままで頷いた。
紫煙が揺れて空気に溶ける。
重役出勤が常の三蔵にとって、この時間から起きているのは予定外の事だ。
かと言って、今から仕事に向かう程真面目な性分ではないので、二度寝するか、とも考える。
しかし、ぎゅう、と自分の腕にしがみ付いて来る子供に気付いて、三蔵は溜息を吐いた。
三蔵に縋る丸みのある手が、小さく震えているのが判る。
「どうした」
「…………」
単純に怯えていると言うには、反応が大袈裟に見えて、三蔵は問うた。
悟空は暫く耐えるように唇を噛んでいたが、我慢できなくなったのだろうか。
三蔵の襦袢の袖を引っ張って顔を埋め、呟いた。
「…なんか、ね。なんか、…寒くて、」
「寒い?」
「……うん……」
震えているのは、恐怖心だけではなく、言いようのない底冷えを感じるから。
それが動物の本能的な感覚からくるものなのか、見たことのない現象への無知故の畏怖か。
三蔵には判るべくもないが、青白くも見える子供の顔を見れば、悟空の心中がどれだけ怯えているのかは判る。
三蔵は何度目かの溜息を紫煙に交えて吐き出すと、震える子供の襟首を掴んだ。
ふえ、と驚いた声が漏れたのも聞かず、ベッドに転がしてやる。
その上に覆いかぶさるように横になれば、体の下でもぞもぞと暴れる小柄な体があって、
「じっとしてろ、猿。ったく、下らんことで起こしやがって」
「だって、太陽が」
「知らん。寝ろ。起きれば元に戻ってる」
日食など、起きているのは精々一時間から二時間程度。
もう既に殆どが影になっている今からなら、二度寝して坊主達が起こしにくる頃には、既に影も消えているだろう。
それまで、延々と怯える子供の聲を聞き続ける程、三蔵は気が長くない。
下敷きにした子供は、しばらく唸って暴れていたが、一分もすると静かになった。
代わりにぎゅう、と三蔵にしがみ付いて、熱を欲しがるように密着する。
大丈夫、大丈夫。
世界の太陽が隠れても、たった一人の太陽は、ずっとずっと此処にいる。
だから世界は、まだ壊れない。
日食とか月食って、100年に一度とか、珍しくて凄い現象だって言われても、知識がないと天変地異の前触れに思えるんだろうなあ。“太陽”に特に思い入れのある悟空なら、尚更。
成長して八戒に色々教わった後なら、もうちょっと落ち着いてるかも知れない。でも、寺院時代はやっぱり怖いと思う。
……岩牢に500年もいたんだから、一回二回ぐらい日食や月食見てそうだな、悟空って。
手が届かないものでも、光を運んで来てくれる太陽が目の前で消えて言ったら、怖い所の話じゃなかったかも。