[ラグレオ]泡沫の夢
ラグナ←レオンの現代ものです。二人の間に血縁関係はありません。
誰にも心を預けないように、誰にも寄り掛からないように生きて来たつもりだ。
それが、邪魔にしかならない存在である自分の、精一杯の他者への気遣いだから。
物心がついて間もなく、両親が離婚した。
一人息子だった自分の行先について、両親が延々と言い争っていた事を覚えている。
幼い耳に聞こえてきたのは、どちらが引き取るか、と言う言葉ではなく、貴方がお前が引き取れと言うもの。
何が原因で両親が離婚に至ったのかは、今となっても判らない。
ただ何となく、自分が原因だったのではないかと感じ、それを否定する者もいなかったから、きっとそれで正解なのだろうと自己完結した。
押し付け合いは決着を着かず、一先ずは母の下に引き取られる事となったが、母子の暮らしは長くは続かなかった。
夏の暑い日、大きな駅に連れて行かれ、母は此処で待っていなさいと言って、何処かに行った。
母の背が遠退くのを見詰めながら、ああ自分はやっぱり要らない子だったんだと知るまで、それ程時間はかからなかった。
駅の待合ベンチに子供が一人、いつまで経っても其処から動かないとなれば、流石に周りも怪しむ。
駅員が来てお父さんは?お母さんは?と聞いたので、初めは母に言われた言葉を繰り返し、母を待っている子供を演じ続けていたが、判っていた。
母は自分を迎えに来る事はない、母にとって自分は要らない存在なのだと。
何時間が経っても迎えが来ないのだから、駅員も流石に察したのだろう、やがて警察がやって来た。
母は息子に、身分証明になるものは一つも持たせず、三日分の着替えと水筒とお菓子だけをリュックに詰めて背負わせていた。
子供がそれ以外に持っていたのは、自分の名前一つだけ。
行く宛てのない子供は、養護施設に入る事になった。
同じような境遇の子供達が集められた中、彼は少しだけ、異質だった。
頭が良く、よく気が付く性格で、甘え下手だが年下をあやすのは上手かった。
そんな子供を引き取りたいと言う大人は数知れなかったが、子供は一度として首を縦には振らず、かと言って施設で過ごす事に執着している訳でもない。
彼が目指していたのは、一刻も早く自立する事で、一人で生きる術を身に付ける事。
率先して施設員の手伝いを買って出ていたのは、少しでも早く、自分一人で生活する術を得る為であった。
彼は、誰にも心を許していなかった。
優しい職員にも、懐いてくれる年下の子供達にも、誰にも。
それは、彼自身が、“要らない子”として生まれた自分に課した、二度と捨てられない為の防衛手段であった。
────それでも、やっぱり。
意識していない心の深い場所では、寂しかったのだろう、と他人事のように自分の胸中を分析する。
大人数でわいわいと飲むのが好きだと言う彼が、自分を酒宴に誘う時は、決まって静かなバーを選ぶ。
それは、人が多いのが苦手だと零した自分の愚痴を覚えていて、こっそり気遣ってくれているからだ。
気にしなくて良いのに、と言っても、彼は「俺がお前と飲みたいの」と言って笑う。
その笑顔が、少しずつ少しずつ、甘い果実酒の杯を重ねるように、レオンの内側に沁み込んで残って行く。
今日もまた、ラグナはレオンを連れてバーに入った。
出張先のホテルの地下一階に設けられた、ダウンライトに照らされたシックな空間で、二人静かにグラスを傾ける。
「んでさぁ、スコールも試験前で忙しいだろうから、俺が代わりに部屋の掃除してやろうと思って」
愛する一人息子について語るラグナの顔は、熟れた林檎のように赤い。
すっかり酔いが回っている横顔を眺めながら、レオンはくすりと小さく笑って、
「掃除をしたら、後でしこたま怒られた、と」
「そうなんだよぉ。勝手に俺の部屋に入ったな!?って」
ありがとうって言って貰えると思ったのに、とさめざめと泣くラグナ。
ラグナの愛息子であるスコールを、レオンはよく知っていた。
出逢った頃には、まだランドセルを背負っていた子供は、今では思春期真っ盛りの高校生になっている。
父に対して厳しい態度を取る事が増え、息子を溺愛して止まないラグナは、度々寂しい寂しいと言って泣いていた。
とは言え、スコールが父を本気で毛嫌いしているかと言えば、そうではない。
父には素直に言えない事も、兄代わりのように接しているレオンには零せるようで、気難しい少年の本音はそんな所にぽろりと出て来る。
今日の議題についても、スコールは「一応、感謝はしてる…」とレオンに伝えており、試験期間が終わったら、出張から帰った父の為に好きな料理を作ってやると言っていた。
これを伝えればラグナが泣く事もないのだろうが、言うとまたスコールが恥ずかしがって怒ってしまい、料理も作らなくなってしまうのが予想に難くないので、レオンは口が堅い男を守っている。
その後もラグナは、泣いたと思ったら笑い、惚気話を思わせるような表情で、息子について語り続けた。
しっかり者に育ってくれて嬉しい、でも偶には昔に見たいにパパ~って呼んで甘えて欲しい。
最近は段々レインにも似て来て……と語るラグナに、レオンは相槌を打ちながら、聞き手に終始した。
グラスの中を何度目かの空にして、そろそろ頃合いか、とレオンはバーのマスターを呼ぶ。
「会計を」
「かしこまりました。少々お待ちを」
「え~?もう終わりかぁ?」
まだ飲みたい、と言うより、まだ喋りたい、と言う表情でレオンを見るラグナ。
殆どテーブルに突っ伏し、上目遣いでねだる彼の顔は、すっかり赤らみ、眦も緩んでいる。
「駄目ですよ。明日の朝も早いんだから、この辺りでお開きにしないと、起きられなくなります」
「俺は平気だよ~。レオンがいつも起こしてくれるもんなっ」
「その為にも、お開きで。俺もあまり酒には強くないって知ってるでしょう?」
起きて下さい、と肩を揺すり、ラグナはようやく渋々と起き上がった。
マスターが差し出した伝票を見て、レオンは足下に置いていた鞄から財布を取り出す。
と、その間に、ラグナが背広のポケットから財布を取り出し、紙幣をマスターに渡していた。
「あ、ちょ……」
「ん?あ~、いいからいいから」
「でも、」
「俺の方が年上なんだし。じょーしだし。遠慮せずに甘えなさい!」
言いながら、ラグナはマスターから釣銭を受け取り、財布をしまう。
ごちそーさま!と無邪気に笑って店を出て行く彼を、レオンも追った。
エレベーターへ向かうラグナの足取りは、ふらふらと踊っていて危なっかしい。
通路に人気がないのが幸いだ、と思いつつ、レオンはラグナの背を追いながら言った。
「あの、ラグナさん。飲み代、俺も出します」
「いーっていーって。気にすんなって」
「……でも……」
どうにも気が引けて、レオンは口籠る。
エレベーターの扉が開いて、二人で箱の中に乗る。
何階だっけ、と訊ねるラグナに代わり、レオンが部屋のあるフロアのボタンを押した。
唐突に、レオンは甘えるのヘタだなぁ、とラグナが言った。
昔からそう言われます、と返せば、そうだろうなあ、とラグナは笑う。
莫迦にしている訳ではない、そうした意図はラグナの声には微塵もなく、純粋に思った事を呟いただけだろう。
そして、もっと甘えって良いんだぞ、と言って、ラグナがレオンの頭を撫でるのが、お決まりの流れだった。
くしゃりと頭を撫でられた所で、エレベーターが停止する。
エレベーターからそう遠くないツインの部屋に入ると、ラグナは真っ直ぐベッドに向かって倒れ込んだ。
「あー、なんかきもちいー」
「上着、脱がないと皺になりますよ」
良い具合にアルコールが回っているのだろう、幸せそうなラグナに、レオンは忠告する。
が、そのまま反応しなくなったラグナに、やれやれ、と溜息を吐いて、レオンはベッドに近付いた。
「ほら、上着脱いで。明日も着るんですから」
「んぁ~」
「ネクタイも。楽にしておいた方が良いですよ」
言いながら、レオンはラグナのジャケットを脱がせる。
全く、と言いながら、脱がせたそれをハンガーにかけていると、
「レオンは、世話焼きだなぁ」
「……否定はしません」
「いい嫁さんになるなー」
ふわふわと楽しそうな声には、他意は感じられなかった。
エレベーターで会話をしていた時と同じで、思った事が口を突いて出ただけだろう。
レオンも上着を脱いでハンガーにかけ、ネクタイの結びを緩めながら、ラグナの下に戻る。
「俺は男ですよ」
「あはは、そうだった。───そういやレオン、お前、結婚とかしねえの?」
「…藪から棒ですね」
レオンはそう言ったが、自身の年齢を考えれば、何処かで出る話題であったと言える。
二十代の半ばで、仕事は順調、社交性も決して低くはないレオンだから、社内の女性達からは頗る人気である。
バレンタインデー等は箱単位のチョコレートを貰うし、積極的な女性から食事に誘われる事も少なくない。
が、レオンはそれらを受け流してばかりで、バレンタイン等は全員に平等のお返しを配る程だから、社内に特に気になる女性はいないと思われていた───実際、その通りである。
そもそも、レオンに結婚であるとか、恋人を作る意識があるかと言われれば、否だ。
レオンは誰にも寄り掛かるつもりはないし、誰かの心の中に居場所を作るつもりもない。
そうする事は許されない人間なのだと、レオン自身が思っていた。
レオンの表情が微かに影を深めている事に、ラグナは気付かない。
なあ、と無邪気に見上げて問うラグナに、レオンは喉奥に詰まった物をゆっくりと吐き出すように息を吐き、
「当面、予定はありません。相手もいないし」
「なんで?勿体ないな。俺ならお前みたいないい男、ほっとかないのになぁ」
ああ、高見の花って思われてるとか?
そんな事を言う相変わらずの上司に、高嶺の花です、そんな大層なものじゃありません、と言った後、────ぎしり、とベッドが軋む音が鳴る。
暗く深い蒼灰色と、宝石のような眩しい碧が、ごく近い距離で交差して、
「そんなに言ってくれるのなら、貴方が俺を貰ってくれますか?」
しっとりとした唇に、何処か歪な笑みを浮かべて、レオンは言った。
細められた眦が、獲物を吟味する猫のように、見上げる男を見詰めている。
ゆっくりと近付いて来る青年の顔を見詰めて、あれ、とラグナは瞬きを繰り返す。
普段、彼との物理的距離はあってないようなもの───だが、それはラグナがスキンシップを好むからだ。
レオンの方はと言うと、自ら他人に触れる事は勿論、近付く事もせず、しかし他人行儀にはならない微妙な距離感を保っているのが常であった。
ラグナに対してだけは、繰り返されるスキンシップの中で慣れたのか、比較的近い距離を許してくれるようになったが、それでもレオンから訳もなく近付いて来る事はない。
ふ、とアルコールの匂いが、ラグナの鼻腔をくすぐった。
近付く蒼灰色の宝玉は、綺麗な筈なのに、何か薄暗いものを滲ませているように見えて、ラグナは密かに息を飲む。
「貴方は、俺を、」
鼓膜を震わせた声に、ラグナの意識が戻る。
眠っていた訳でもないのに、白昼夢でも見ていたような、そんな気分だった。
改めて眼前の青年との距離感に気付いて、目を瞠る。
「え、あ、…おぉ?」
「………」
「れ、れおん、くん?」
名前を呼ぶと、ぴたり、と近付く蒼が止まった。
ラグナは、どくどくと心臓の音が煩く打ち鳴るのを聞きながら、じっと青年の挙動を見守る。
それから幾許か、数秒か、数分か────判然としない時間が経った後、す、と蒼が瞼の下に隠れ、
「なんて顔してるんですか」
くすくすと笑う声に、ラグナはぱちくりと瞬きを一つ。
離れて行く顔を目線で追ってみれば、レオンはすっくと立ち上がり、悪戯が成功した子供のように口角を上げて笑っていた。
「本気にしましたか?冗談ですよ」
「あ……うん、そう、だな。そうだよな」
「驚きました?」
「そりゃまぁ。なんつーか、らしくない冗談って感じだったし」
「そうですね……結構酔ってるのかも知れません」
言いながら、レオンはアメニティのグラス二つを持って洗面所に入り、浄水を注ぐ。
部屋に戻って、グラスの一つをラグナに差し出すと、ラグナは呆けた表情のままでそれを受け取った。
ちびちびとグラスを傾けるラグナの目が、伺うようにレオンに向かう。
レオンはそれに気付かない振りをして、自分のグラスを空にした。
「じゃあ、俺、先にシャワー頂きますね」
「あー……って、酔ってるのに大丈夫か?」
「直ぐに出ますから」
何かあったら直ぐに呼べよ、と言うラグナの言葉に頷いて、レオンは風呂場へ向かう。
脱いだ服を乱雑に籠に入れて、微かに冷えた空気に支配された浴室に入る。
シャワーの温度を確かめずにコックを捻ると、水とも湯とも言えない温度の雨が降り出した。
高い位置に設置されたシャワーから降り注ぐ雨を、レオンは頭から受け止める。
不精に伸ばしていた前髪が、額に、頬に張り付いて、水滴がレオンの頬から顎へ伝って落ちて行く。
────酔っていたのか否かと聞かれれば、酔っていた。
では、自分の行動に抑制が効かない程に酩酊していたのかと聞かれれば、そうではない。
意識ははっきりしているし、自分が何をしているのか、何を言っているのかも判っていた。
だから、「冗談です」と言って離れる事が出来た。
肩から背中に流れ落ちて行く水は、体温よりも低い所為で、表記されている温度よりも冷たく感じられた。
だが、今はそれが心地良い。
(……馬鹿な事をした)
間近で見た透明な碧を思い出しながら、レオンは独り言ちる。
呆けた貌で、信じられない物を見る目で此方を見詰める男の顔が、脳裏に浮かぶ。
(俺は、あの人の幸せを壊したいのか?)
彼がどんな人なのか知っている。
彼が、どんなに家族を愛しているのか知っている。
そんな彼の幸せを、自分なんかが壊して良い訳がない。
それは判り切っている事だった。
だから、どんなに彼と繋がる事を望んでも、その願いは決して口にしてはいけない。
危うく禁忌を破る所だった、と自身の行動を後悔しながら、─────それでも、と思う。
(……振り払われなかった)
あんなに距離を近付けても、押し退けられなかった事が、レオンの胸を微かに温かくさせていた。
単に、彼が驚いて身動きできなかっただけだと判っていても、嬉しかった。
(……それに)
レオンの脳裏に、ラグナの言葉が蘇る。
『俺ならお前みたいないい男、ほっとかないのになぁ』
(あんたがそう言ってくれるだけで、俺は、)
幸せを望んでも良いんじゃないかと、そう思えるだけで、幸せになれるんだ。
ラグナ×レオンで不倫ネタを頂いたので。
不倫ネタから始まった筈なのに、設定広げてる間にレオンさんの切ない大人の片恋物語になったので、その片鱗を書き散らしてみた。
段々日常でこんなモーションかけるようになって、ラグナに露骨に拒否されない事だけに幸せを感じてたら、ラグナもレオンを気にし始めて、レオンの方が怖くなって逃げ出したりとか。そんな話でした。
しっかり者で通してるレオンが誰かに甘える図が可愛い。
あと、頭からシャワー被ってぼんやり考え込んでるレオンは色っぽい。
誰にも心を預けないように、誰にも寄り掛からないように生きて来たつもりだ。
それが、邪魔にしかならない存在である自分の、精一杯の他者への気遣いだから。
物心がついて間もなく、両親が離婚した。
一人息子だった自分の行先について、両親が延々と言い争っていた事を覚えている。
幼い耳に聞こえてきたのは、どちらが引き取るか、と言う言葉ではなく、貴方がお前が引き取れと言うもの。
何が原因で両親が離婚に至ったのかは、今となっても判らない。
ただ何となく、自分が原因だったのではないかと感じ、それを否定する者もいなかったから、きっとそれで正解なのだろうと自己完結した。
押し付け合いは決着を着かず、一先ずは母の下に引き取られる事となったが、母子の暮らしは長くは続かなかった。
夏の暑い日、大きな駅に連れて行かれ、母は此処で待っていなさいと言って、何処かに行った。
母の背が遠退くのを見詰めながら、ああ自分はやっぱり要らない子だったんだと知るまで、それ程時間はかからなかった。
駅の待合ベンチに子供が一人、いつまで経っても其処から動かないとなれば、流石に周りも怪しむ。
駅員が来てお父さんは?お母さんは?と聞いたので、初めは母に言われた言葉を繰り返し、母を待っている子供を演じ続けていたが、判っていた。
母は自分を迎えに来る事はない、母にとって自分は要らない存在なのだと。
何時間が経っても迎えが来ないのだから、駅員も流石に察したのだろう、やがて警察がやって来た。
母は息子に、身分証明になるものは一つも持たせず、三日分の着替えと水筒とお菓子だけをリュックに詰めて背負わせていた。
子供がそれ以外に持っていたのは、自分の名前一つだけ。
行く宛てのない子供は、養護施設に入る事になった。
同じような境遇の子供達が集められた中、彼は少しだけ、異質だった。
頭が良く、よく気が付く性格で、甘え下手だが年下をあやすのは上手かった。
そんな子供を引き取りたいと言う大人は数知れなかったが、子供は一度として首を縦には振らず、かと言って施設で過ごす事に執着している訳でもない。
彼が目指していたのは、一刻も早く自立する事で、一人で生きる術を身に付ける事。
率先して施設員の手伝いを買って出ていたのは、少しでも早く、自分一人で生活する術を得る為であった。
彼は、誰にも心を許していなかった。
優しい職員にも、懐いてくれる年下の子供達にも、誰にも。
それは、彼自身が、“要らない子”として生まれた自分に課した、二度と捨てられない為の防衛手段であった。
────それでも、やっぱり。
意識していない心の深い場所では、寂しかったのだろう、と他人事のように自分の胸中を分析する。
大人数でわいわいと飲むのが好きだと言う彼が、自分を酒宴に誘う時は、決まって静かなバーを選ぶ。
それは、人が多いのが苦手だと零した自分の愚痴を覚えていて、こっそり気遣ってくれているからだ。
気にしなくて良いのに、と言っても、彼は「俺がお前と飲みたいの」と言って笑う。
その笑顔が、少しずつ少しずつ、甘い果実酒の杯を重ねるように、レオンの内側に沁み込んで残って行く。
今日もまた、ラグナはレオンを連れてバーに入った。
出張先のホテルの地下一階に設けられた、ダウンライトに照らされたシックな空間で、二人静かにグラスを傾ける。
「んでさぁ、スコールも試験前で忙しいだろうから、俺が代わりに部屋の掃除してやろうと思って」
愛する一人息子について語るラグナの顔は、熟れた林檎のように赤い。
すっかり酔いが回っている横顔を眺めながら、レオンはくすりと小さく笑って、
「掃除をしたら、後でしこたま怒られた、と」
「そうなんだよぉ。勝手に俺の部屋に入ったな!?って」
ありがとうって言って貰えると思ったのに、とさめざめと泣くラグナ。
ラグナの愛息子であるスコールを、レオンはよく知っていた。
出逢った頃には、まだランドセルを背負っていた子供は、今では思春期真っ盛りの高校生になっている。
父に対して厳しい態度を取る事が増え、息子を溺愛して止まないラグナは、度々寂しい寂しいと言って泣いていた。
とは言え、スコールが父を本気で毛嫌いしているかと言えば、そうではない。
父には素直に言えない事も、兄代わりのように接しているレオンには零せるようで、気難しい少年の本音はそんな所にぽろりと出て来る。
今日の議題についても、スコールは「一応、感謝はしてる…」とレオンに伝えており、試験期間が終わったら、出張から帰った父の為に好きな料理を作ってやると言っていた。
これを伝えればラグナが泣く事もないのだろうが、言うとまたスコールが恥ずかしがって怒ってしまい、料理も作らなくなってしまうのが予想に難くないので、レオンは口が堅い男を守っている。
その後もラグナは、泣いたと思ったら笑い、惚気話を思わせるような表情で、息子について語り続けた。
しっかり者に育ってくれて嬉しい、でも偶には昔に見たいにパパ~って呼んで甘えて欲しい。
最近は段々レインにも似て来て……と語るラグナに、レオンは相槌を打ちながら、聞き手に終始した。
グラスの中を何度目かの空にして、そろそろ頃合いか、とレオンはバーのマスターを呼ぶ。
「会計を」
「かしこまりました。少々お待ちを」
「え~?もう終わりかぁ?」
まだ飲みたい、と言うより、まだ喋りたい、と言う表情でレオンを見るラグナ。
殆どテーブルに突っ伏し、上目遣いでねだる彼の顔は、すっかり赤らみ、眦も緩んでいる。
「駄目ですよ。明日の朝も早いんだから、この辺りでお開きにしないと、起きられなくなります」
「俺は平気だよ~。レオンがいつも起こしてくれるもんなっ」
「その為にも、お開きで。俺もあまり酒には強くないって知ってるでしょう?」
起きて下さい、と肩を揺すり、ラグナはようやく渋々と起き上がった。
マスターが差し出した伝票を見て、レオンは足下に置いていた鞄から財布を取り出す。
と、その間に、ラグナが背広のポケットから財布を取り出し、紙幣をマスターに渡していた。
「あ、ちょ……」
「ん?あ~、いいからいいから」
「でも、」
「俺の方が年上なんだし。じょーしだし。遠慮せずに甘えなさい!」
言いながら、ラグナはマスターから釣銭を受け取り、財布をしまう。
ごちそーさま!と無邪気に笑って店を出て行く彼を、レオンも追った。
エレベーターへ向かうラグナの足取りは、ふらふらと踊っていて危なっかしい。
通路に人気がないのが幸いだ、と思いつつ、レオンはラグナの背を追いながら言った。
「あの、ラグナさん。飲み代、俺も出します」
「いーっていーって。気にすんなって」
「……でも……」
どうにも気が引けて、レオンは口籠る。
エレベーターの扉が開いて、二人で箱の中に乗る。
何階だっけ、と訊ねるラグナに代わり、レオンが部屋のあるフロアのボタンを押した。
唐突に、レオンは甘えるのヘタだなぁ、とラグナが言った。
昔からそう言われます、と返せば、そうだろうなあ、とラグナは笑う。
莫迦にしている訳ではない、そうした意図はラグナの声には微塵もなく、純粋に思った事を呟いただけだろう。
そして、もっと甘えって良いんだぞ、と言って、ラグナがレオンの頭を撫でるのが、お決まりの流れだった。
くしゃりと頭を撫でられた所で、エレベーターが停止する。
エレベーターからそう遠くないツインの部屋に入ると、ラグナは真っ直ぐベッドに向かって倒れ込んだ。
「あー、なんかきもちいー」
「上着、脱がないと皺になりますよ」
良い具合にアルコールが回っているのだろう、幸せそうなラグナに、レオンは忠告する。
が、そのまま反応しなくなったラグナに、やれやれ、と溜息を吐いて、レオンはベッドに近付いた。
「ほら、上着脱いで。明日も着るんですから」
「んぁ~」
「ネクタイも。楽にしておいた方が良いですよ」
言いながら、レオンはラグナのジャケットを脱がせる。
全く、と言いながら、脱がせたそれをハンガーにかけていると、
「レオンは、世話焼きだなぁ」
「……否定はしません」
「いい嫁さんになるなー」
ふわふわと楽しそうな声には、他意は感じられなかった。
エレベーターで会話をしていた時と同じで、思った事が口を突いて出ただけだろう。
レオンも上着を脱いでハンガーにかけ、ネクタイの結びを緩めながら、ラグナの下に戻る。
「俺は男ですよ」
「あはは、そうだった。───そういやレオン、お前、結婚とかしねえの?」
「…藪から棒ですね」
レオンはそう言ったが、自身の年齢を考えれば、何処かで出る話題であったと言える。
二十代の半ばで、仕事は順調、社交性も決して低くはないレオンだから、社内の女性達からは頗る人気である。
バレンタインデー等は箱単位のチョコレートを貰うし、積極的な女性から食事に誘われる事も少なくない。
が、レオンはそれらを受け流してばかりで、バレンタイン等は全員に平等のお返しを配る程だから、社内に特に気になる女性はいないと思われていた───実際、その通りである。
そもそも、レオンに結婚であるとか、恋人を作る意識があるかと言われれば、否だ。
レオンは誰にも寄り掛かるつもりはないし、誰かの心の中に居場所を作るつもりもない。
そうする事は許されない人間なのだと、レオン自身が思っていた。
レオンの表情が微かに影を深めている事に、ラグナは気付かない。
なあ、と無邪気に見上げて問うラグナに、レオンは喉奥に詰まった物をゆっくりと吐き出すように息を吐き、
「当面、予定はありません。相手もいないし」
「なんで?勿体ないな。俺ならお前みたいないい男、ほっとかないのになぁ」
ああ、高見の花って思われてるとか?
そんな事を言う相変わらずの上司に、高嶺の花です、そんな大層なものじゃありません、と言った後、────ぎしり、とベッドが軋む音が鳴る。
暗く深い蒼灰色と、宝石のような眩しい碧が、ごく近い距離で交差して、
「そんなに言ってくれるのなら、貴方が俺を貰ってくれますか?」
しっとりとした唇に、何処か歪な笑みを浮かべて、レオンは言った。
細められた眦が、獲物を吟味する猫のように、見上げる男を見詰めている。
ゆっくりと近付いて来る青年の顔を見詰めて、あれ、とラグナは瞬きを繰り返す。
普段、彼との物理的距離はあってないようなもの───だが、それはラグナがスキンシップを好むからだ。
レオンの方はと言うと、自ら他人に触れる事は勿論、近付く事もせず、しかし他人行儀にはならない微妙な距離感を保っているのが常であった。
ラグナに対してだけは、繰り返されるスキンシップの中で慣れたのか、比較的近い距離を許してくれるようになったが、それでもレオンから訳もなく近付いて来る事はない。
ふ、とアルコールの匂いが、ラグナの鼻腔をくすぐった。
近付く蒼灰色の宝玉は、綺麗な筈なのに、何か薄暗いものを滲ませているように見えて、ラグナは密かに息を飲む。
「貴方は、俺を、」
鼓膜を震わせた声に、ラグナの意識が戻る。
眠っていた訳でもないのに、白昼夢でも見ていたような、そんな気分だった。
改めて眼前の青年との距離感に気付いて、目を瞠る。
「え、あ、…おぉ?」
「………」
「れ、れおん、くん?」
名前を呼ぶと、ぴたり、と近付く蒼が止まった。
ラグナは、どくどくと心臓の音が煩く打ち鳴るのを聞きながら、じっと青年の挙動を見守る。
それから幾許か、数秒か、数分か────判然としない時間が経った後、す、と蒼が瞼の下に隠れ、
「なんて顔してるんですか」
くすくすと笑う声に、ラグナはぱちくりと瞬きを一つ。
離れて行く顔を目線で追ってみれば、レオンはすっくと立ち上がり、悪戯が成功した子供のように口角を上げて笑っていた。
「本気にしましたか?冗談ですよ」
「あ……うん、そう、だな。そうだよな」
「驚きました?」
「そりゃまぁ。なんつーか、らしくない冗談って感じだったし」
「そうですね……結構酔ってるのかも知れません」
言いながら、レオンはアメニティのグラス二つを持って洗面所に入り、浄水を注ぐ。
部屋に戻って、グラスの一つをラグナに差し出すと、ラグナは呆けた表情のままでそれを受け取った。
ちびちびとグラスを傾けるラグナの目が、伺うようにレオンに向かう。
レオンはそれに気付かない振りをして、自分のグラスを空にした。
「じゃあ、俺、先にシャワー頂きますね」
「あー……って、酔ってるのに大丈夫か?」
「直ぐに出ますから」
何かあったら直ぐに呼べよ、と言うラグナの言葉に頷いて、レオンは風呂場へ向かう。
脱いだ服を乱雑に籠に入れて、微かに冷えた空気に支配された浴室に入る。
シャワーの温度を確かめずにコックを捻ると、水とも湯とも言えない温度の雨が降り出した。
高い位置に設置されたシャワーから降り注ぐ雨を、レオンは頭から受け止める。
不精に伸ばしていた前髪が、額に、頬に張り付いて、水滴がレオンの頬から顎へ伝って落ちて行く。
────酔っていたのか否かと聞かれれば、酔っていた。
では、自分の行動に抑制が効かない程に酩酊していたのかと聞かれれば、そうではない。
意識ははっきりしているし、自分が何をしているのか、何を言っているのかも判っていた。
だから、「冗談です」と言って離れる事が出来た。
肩から背中に流れ落ちて行く水は、体温よりも低い所為で、表記されている温度よりも冷たく感じられた。
だが、今はそれが心地良い。
(……馬鹿な事をした)
間近で見た透明な碧を思い出しながら、レオンは独り言ちる。
呆けた貌で、信じられない物を見る目で此方を見詰める男の顔が、脳裏に浮かぶ。
(俺は、あの人の幸せを壊したいのか?)
彼がどんな人なのか知っている。
彼が、どんなに家族を愛しているのか知っている。
そんな彼の幸せを、自分なんかが壊して良い訳がない。
それは判り切っている事だった。
だから、どんなに彼と繋がる事を望んでも、その願いは決して口にしてはいけない。
危うく禁忌を破る所だった、と自身の行動を後悔しながら、─────それでも、と思う。
(……振り払われなかった)
あんなに距離を近付けても、押し退けられなかった事が、レオンの胸を微かに温かくさせていた。
単に、彼が驚いて身動きできなかっただけだと判っていても、嬉しかった。
(……それに)
レオンの脳裏に、ラグナの言葉が蘇る。
『俺ならお前みたいないい男、ほっとかないのになぁ』
(あんたがそう言ってくれるだけで、俺は、)
幸せを望んでも良いんじゃないかと、そう思えるだけで、幸せになれるんだ。
ラグナ×レオンで不倫ネタを頂いたので。
不倫ネタから始まった筈なのに、設定広げてる間にレオンさんの切ない大人の片恋物語になったので、その片鱗を書き散らしてみた。
段々日常でこんなモーションかけるようになって、ラグナに露骨に拒否されない事だけに幸せを感じてたら、ラグナもレオンを気にし始めて、レオンの方が怖くなって逃げ出したりとか。そんな話でした。
しっかり者で通してるレオンが誰かに甘える図が可愛い。
あと、頭からシャワー被ってぼんやり考え込んでるレオンは色っぽい。