[レオスコ]甘い香りと銀色と
この時期、チョコレート一枚を買うだけで、酷く緊張しなければならないのは理不尽だと思う。
スーパーに置かれているものは、誰が買っても良い筈なのに、この時期だけは、其処に結界のようなものが張られている気がする。
だからなんだと言えばそれまでなのだが、全ては菓子会社の陰謀と、それに流されてゆく人間社会の所為だ。
あからさまに女性向けを意識したPOP看板や、ピンクやらハートマークやらが飛び交う一角に、男はどうしても入って行き辛いものがある。
其処に近付くと、「男なのに」とか「自分で買うなんて可哀想」なんて目で見られているような気がする。
それが単なる被害妄想であると判っていても、そう考えずにはいられないのだ。
人一倍、人目を気にする性質であるスコールなら、尚更。
それをなんとか乗り越えて、スコールは目当てのチョコレートを手に入れた。
と言っても、凝った形や包装紙に包まれているような代物ではなく、何処にでも言っているような板チョコレートだ。
ついで小麦粉や卵、砂糖を買い込み、卵は不自然にならないように冷蔵庫にストックとして並べ、小麦粉や砂糖は自分の部屋に隠しておいた。
普段、自分で買う事のないチョコレートは、何処に置いても不自然になりそうで、悩んだ末、卵パックの下に下敷きにして隠す事にした。
レオンは普段、充実を覘けば料理をする時間がないので、卵パックに触る事はないだろうと踏んでの事だ。
普段、日曜日は家にいるレオンだが、今日は何か用事があると言っていた。
スコールにとっては好都合な事だ。
彼がいない間に、やる事を全て済ませて置きたかった。
「メレンゲ…8分……?どれ位なんだ?」
一週間前、生まれて初めて買った菓子のレシピ本を見ながら、スコールは眉根を寄せた。
兄と二人暮らしの生活の中で、食事用の料理はほぼ毎日作っているので慣れたものだったが、菓子作りはこれが初めてだ。
レシピに記されている用語に、聞き慣れないものが現れる度、スコールは顔を顰めている。
スコールは卵白の入れたボウルを横目に、携帯電話を取り出した。
インターネットに接続して単語を検索すると、メレンゲの泡立て具合について写真つきで表示されたページが見付かった。
書かれている通りのものが出来上がるように、逐一確認しつつ、卵白を泡立てて行く。
「結構面倒だな……」
事前に動画で勉強していた時のように、簡単には泡立ってくれない卵白に、愚痴が零れる。
ハンドミキサーを使えばもっと早いのかも知れないが、今日だけの為に買うのは躊躇われた。
動画では泡立て器を使っていたので、自分でも出来るだろうと思ったのだが、やはりプロと素人とでは話が違うようだ。
それでも、なんとか目標の固さになるまで卵白を泡立てると、スコールは先に作って置いたチョコレート生地のベースに流し込む。
木ベラを使って生地とメレンゲを混ぜ、メレンゲの白がすっかり見えなくなると、今度は12㎝のホール型に生地を流し込む。
型をトントンと軽く作業台に落とすと、生地の表面がすっきりと平らに慣らされた。
「……よし、」
此処まで来れば、とスコールは型を持ってオーブンレンジへ。
事前に余熱を入れて置いたオーブンの中に型を入れ、レシピ通りの時間を設定して、スタートボタンを押す。
これで後は焼き上がりを待つだけだ。
ふう、と一つ息を吐いて、スコールはキッチンに向き直る。
チョコレートを溶かす、卵白を泡立てる為に使った、複数のボウルを流し台に移し、水道から湯を出した。
洗剤をつけたスポンジで、こびり付いたものを洗い落とし、乾燥機に入れて、最後に布巾でキッチンを綺麗に拭いて、掃除も終了。
まるで手を付けていないかのように綺麗になったキチンを見て、ふう、ともう一度息を吐いた。
時計を見ると、時刻は午後三時を過ぎている。
レオンが外出したのは午前中の事で、昼は帰って来なかった。
(遅いな……いや、こんなものか)
慣れない事をしていた所為か、もう三時か、と言う思考から、レオンが長らく出ているように感じたが、思い直せばそれ程でもないと気付く。
レオンが何の為に出掛けたのかは知らないが、午前から午後~夕方まで帰って来ないのはよくある事だ。
オーブンの中のものが焼き上がるまで暇を潰そうと、スコールは自室から本を持ち出し、キッチンの隅に置いていた椅子に腰かけた。
のんびりと本を読んでいると、段々と甘く香ばしい香りがキッチンに漂ってくる。
熱が入って温まったチョコレートの匂いに、スコールはちら、とオーブンを見る。
オーブンの中では、庫内灯で照らされたケーキ型が映っていた。
「……」
徐に席を立って、オーブンの中を覗き込む。
型の中で、トロトロに蕩けていた生地が、焼色を付けて微かに膨らんでいるのが見えた。
恐らく、順調に焼けているのだろうと、スコールの唇が微かに緩む。
焼き上がりの時間まであと少し、とスコールが椅子に戻ろうとした時だ。
ガチャ、と玄関の方から鍵を外す音がして、兄が帰って来た事を知る。
スコールは落としかけていた腰を浮かせ、オーブンレンジを見る。
(……まだ出来てない…)
帰ってくるまでに完成させておく予定だったのに、とスコールは眉根を寄せた。
不慣れな作業で、上手く出来ない事ばかりで、時間がかかったのがいけなかった。
そう思っている間にも、「ただいま」と言う声がする。
漂う匂いか、帰って来た兄───レオンがひょこりとキッチンに顔を出した。
「ただいま、スコール」
「……お帰り」
「良い匂いだな」
「……そう、か?」
「ああ」
そう言いながら、レオンはスコールの下へ向かう。
スコールは本を片手に持ったまま、近付く兄の顔が見れなくて、視線を逸らして立っていた。
レオンの手には、何処かで何か買って来たのだろう、紙袋がある。
小さく記されたロゴは、兄弟が気に入っているシルバーアクセサリーのブランドが入っていた。
そう言えば、バレンタイン限定で発売されるアクセサリーがあった。
予約が出来ず、店頭販売で個数限定で売られるので、きっと自分は手に入れられないもの───そもそも値段も頭一つ飛び出していて、学生には高嶺の花だ───だったと思い出していると、
「スコール。これをお前に」
「……え?」
差し出された紙袋に、スコールはぱちりと目を丸くした。
ほら、と促され、ぼんやりとしながら袋を受け取って覗き込むと、シルバーグレイのリボンでラッピングされた、黒いボックスが入っている。
え、とスコールが顔を上げると、レオンは笑みを浮かべてから、スコールの傍らを通り過ぎた。
レオンは、タイマーを動かしているオーブンレンジを覗き込んだ。
つい昨日まで家には見なかった筈の小さなケーキ型の中で、ケーキ生地がふっくらと膨らんでいる。
「チョコレートケーキか」
「あ……あの、ガ、ガトーショコラ……」
「うん。美味そうだ」
「は、初めて作ったから、その、味は…あまり……」
自信がない、とか細い声で呟いたスコールに、レオンはくすりと笑う。
「大丈夫、良い匂いだ。これならきっと美味いよ」
「……」
「楽しみにしてる」
そう言って、レオンはスコールの頭を撫でて、キッチンを後にした。
甘い匂いで一杯になったキッチンで一人佇んでいたスコールだった、ふと我に返って、紙袋からボックスを取り出す。
リボンの端を摘まんで解き、蓋を開けると、傷のない真っ新な銀色のリングが納められていた。
例の、バレンタイン限定で発売されたシルバーアクセサリーだ。
ケーキが焼き上がったと、オーブンレンジから音がする。
しかしスコールは、当分の間、真っ赤な顔で座り込んだまま動けなかった。
レオンをびっくりさせたくて頑張ってたスコール。でも不意打ち食らいましたw
レオンが出掛けたのは、勿論スコールへのプレゼントを買う為です。多分前々から目を付けてた。