[ジタスコ]この小さな屋根の下
外で降り出した雨に気付いた時には、通り雨だろうと思っていた。
昨日の天気予報でも、今日は晴れ空が続くと言っていたし、実際、振り出すほんの数分前まで、真っ青な空がよく見えていたのだ。
長雨など誰も予想も考えもしておらず、放課後、帰る頃にはもうこの雨は止んでいるものだとばかり。
だが、天気予報と言うのは刻一刻と変わるものだ。
特に季節の変わり目ともなると、何かにつけて大気は不安定になり易く、不意の悪天候がやってくる事もある。
実際に、インターネットなどで公開されている雨雲レーダーを終始眺めていれば、ばらばらと斑な雨雲がランダムに浮かんでは消えていく様子を確認できるだろう。
だが、航空関係の仕事をしているだとか、海なり山なり、天気に左右されることの多い仕事をしている者ならともかく、平地の都会の真ん中で暮らしている学生が、そんな事を逐一確かめる訳もない。
皆が昨日の天気予報、若しくは今朝のそれを見て、今日の空模様の予定を思う位だろう。
だから俗にゲリラと呼ばれる急な豪雨がやって来ても、何ら誰の責任と言うものでもないのだ。
天気予報士に文句を言えども、彼等とて完璧な未来が予測できる訳ではないし、そもそも「大気が不安定な状態が続いています」とは言っているのだから、彼等はきちんと仕事を熟している。
単にそれを見る者が、自分が確認した時から現在に至るまでの変化を見ていないだけなのだ。
とは言え、誰も彼もが情報を常に最新版に更新できる筈もないので、“自分が見ていた天気予報”の情報から外れた空を見ると、溜息なり愚痴なりと出て来るものであった。
予報になかった今日の雨は、午後の授業が始まった頃に降り出した。
急速に空が暗くなって行くのが見えて、嫌だなあ、と誰かが呟く位には、青空からの急転直下振りは大きかった。
それでも、午後の体育の授業が屋内に切り替わる位で、さっさと通り過ぎるだろうと思っていた者は少なくない。
そうすれば、放課後の寄り道なり、部活なりと、楽しむ事は出来るだろうと。
しかしこれもまた予想を外れて、雨は長々と降り続けた。
一番の大粒の土砂降りだったのが、振り始めてほんの数分のみであったのは幸いだが、その後も空は分厚い暗雲に覆われたまま。
少しずつ雨の勢いは失われてはいるものの、まだ十分に“雨降り”と言って良い具合だった。
多くの生徒は晴れ空の天気予報を信じていたから、どうやって帰ろう、と頭を悩ませている。
そんな中、ジタンは悠々としたものだ。
鞄の中に入れっぱなしにして忘れていた折り畳み傘は、こんな時にこそ役に立つ。
それがある事を、授業の隙間の休憩時間に改めて確認しておいたので、残る一時間の授業は心穏やかに過ごすことが出来た。
本音を言えば、綺麗さっぱり雨が止んでくれる方が良いのだが、どうも雨雲はこの街の上空に留まったまま動くつもりがないらしい。
放課後を迎えても相変わらず淀んだ空は続き、グラウンドは水を含んでぬかるみを増やしていた。
今日の最後の授業が終わり、ホームルームもそこそこに、生徒たちは帰路に就くべく昇降口へ向かう。
その間、廊下のあちこちでは、友人同士で傘の貸し借りを求める声があった。
ジタンのように折り畳み傘を常備している者もいれば、置き傘があると言う者、仕方がないから濡れて返る者など様々である。
中には、学校から家が近い者の家に転がり込んで、其処で傘を借りるだとか、最寄のコンビニでビニール傘を買うだとか、皆色々と手段を考えているようだ。
ジタンはと言うと、今日は本屋に寄って漫画雑誌を買う予定だったのを、どうしようかと考えている。
当初の予定通りに動いても構わないのだが、雨の中を行くのが聊か面倒臭い。
別に冊数限定の特装版が欲しい訳ではなかったし、雑誌のように次号が出ると置き場が更新される訳でもないし、明日以降、天気が安定した時に行っても構わなかった。
そうするか、と言う所まで至った所で、昇降口に到着し、ジタンは上履きをスニーカーへと履き替える。
思い思いのスタイルで雨の家路に向かう少年少女達を尻目に、ジタンは鞄から折り畳み傘を取り出した。
早速それを開こうとした所で、ふと、あと一歩で外と言う軒の下に立っている人物を見付ける。
濃茶色の髪に、すらりとしたシルエットは、恨めしいものを見るように曇天の空を睨んでいた。
「スコールじゃん。どうしたよ」
一つ上の学年に在籍する青年───スコールの名を呼ぶと、気怠げな蒼灰色が此方を見た。
スコールは其処にいるのが見知った後輩であると気付き、はあ、と溜息を吐いて視線を空へと戻す。
言うのも面倒、見れば判るだろうと言う仕草に、ジタンは唇を苦笑に緩めつつ、彼の傍へと行ってみる。
「雨だな~」
「……」
「傘ないクチ?」
「……」
じと、と蒼い瞳がまたジタンを見た。
真面目な気質である事、余計な荷物を増やしたがらないスコールだから、必要もないのに折り畳み傘を鞄に常備することはあるまい。
生徒の中には学校に置き傘を備えて───放置とも言うか───いる者もいるが、スコールはそれもしていない。
こんな急な雨の日に、労を凌ぐ手段は持っていないのだ。
スコールが見ているのは、ジタンの手に握られた、開きかけの折り畳み傘だ。
ジタンは、傘があって良いよな、と言う声を聴いた気がした。
「まあ仕方ないよな。天気予報じゃ晴れるって言ってたし」
「……」
「こんなにいつまでも降るとは思わなかったし」
「……」
誰もが口々にしていたことを言ってみれば、スコールは益々うんざりとした表情を浮かべる。
二人の脇を、男子生徒が鞄を軒替わりにして走って行った。
鞄なんてもので降り頻る雨から幾らも体を守れる訳もなく、男子生徒はあっという間に全身を濡らして、止まらず肛門に向かって駆ける。
家が近いのか、とにかく急いで帰らなければならないのかは判らないが、彼は覚悟を決めて、この雨空に挑んだようだ。
降り頻る雨がいつ晴れるとも知れないと思えば、あれ位に思い切り良く生きた方が良いのかも知れない。
だが、スコールの足は軒下から根が張ったように動かず、彼は雨の中に飛び出していく気はないようだ。
焦るような用事もないなら、のんびりと雨が上がるのを待つのも、選択肢の一つだろう。
問題は、何度天気予報を見ても、向こう数時間はこの雨が止んでくれる様子がないと言うことだ。
そんな空を見つめるスコールの表情からは、急いで帰る必要もないが、いつまでも此処で佇み待ち続けるのも面倒と言う内心がありありと表れていた。
ふむ、とジタンは手元の雨具を見て、
「折角だし、入ってくかい?」
傘を軽く掲げて示してやると、スコールの目がぱちりと瞬きを一つ。
じっと物言いたげにしながらも噤まれた唇の奥では、色々な言葉が零れているのだろうが、ジタンは敢えて気にせずに、折り畳み傘を開いた。
「サイズはこんなもんだけど、二人ならギリギリ入れるだろ」
「……いや、俺は……」
「止むかも判りゃしないし、逆に激しくなるかも知れないし。これ位の雨になってる内に、帰った方が良いと思うぜ」
「………」
「途中でコンビニ寄る?傘買うんならその方が良いよな」
スコールの家は、ジタンの家とは途中で反対方向に別れる事になる。
その時、雨がもう少し弱まってくれていたら、傘もいらないかも知れないが、それは皮算用だ。
帰宅まで無事に過ごしたいと思うのであれば、道中にあるコンビニによって、適当な雨具を調達するのが良いだろう。
それまで束の間、ジタンの傘下を借りれば良い。
スコールはしばらく考える様子を見せていたが、ジタンはそれを、開いた傘を肩に乗せてのんびりと待った。
一人でその場を離れようとはしないジタンに、スコールの方が根負けした様子で、溜息を一つ。
「……邪魔する」
「あいよ、いらっしゃい」
ジタンは腕を少し上に伸ばして、スコールの頭に傘が当たらないように補った。
と、その傘を持つ手に、スコールの手が重ねられ、
「俺が持つ」
「いや、良いよ。オレが」
「……俺の方が身長が高い」
「そーだな、悔しい事にな。やれやれ、仕方ないからお願いするよ」
確かに、ジタンよりもスコールが傘を持った方が、その軒下は快適だろう───主にはスコールが。
あと10cm伸びてくれたら、と思うジタンであったが、兄クジャが自分とほぼ変わらない身長(彼の方が少し高いが)であると思うと、打ち止めなのかも知れない。
いや、まだ伸びしろはある筈だと自分に言い聞かせつつ、スコールの手に傘の持ち手を預けた。
ぬかるむ地面を踏みながら、グラウンドを真っ直ぐに正門へと向かう。
「本屋行こうかと思ってたけど、もう面倒臭いんだよな」
「……俺も」
「あ、なんか買いたいものあったか?どうする、行く?」
「…いや、良い。それよりコンビニで傘を買う」
「無難だな。オレはついでに何か食い物でお買おうかな」
「買い食いは校則で禁止だぞ」
「誰も守っちゃいないって、そんなの。お前だって時々コーヒー買って行ってるじゃん」
「飲むのは帰ってからだから、買い食いには当たらない」
「いやどうだろ、そんな理屈あるかね」
スコールが何処まで本気で言っているにせよ、確かに買い食いの制限はあれど、実際にはそれは形骸化された校則であった。
放課後にコンビニに寄ったり、ファーストフードを食べたり、大通りの出店屋台に誘われる生徒は少なくない。
今時の学生と言うのは忙しくて、学校が終わったら、家にも帰らず直ぐ塾だ習い事だと向かう事も多かった。
そうして夕飯も遅くなってしまう事も珍しくない訳で、このタイミングで軽く腹拵えをしておかなければ、習い事にも身が入らない。
教員たちもそれは理解しているので、精々が「迷惑かけるんじゃないぞ」と釘を刺しておく程度だ。
校門を抜けて間もなく、生徒達が寄り道の定番にしているコンビニが見えて来る。
傘を持たずに学校を飛び出した生徒の殆どは、まず此処を目指し、雨具の調達を狙っていたのだろう。
一人、また一人と制服姿の少年少女が現れては、購入したばかりの傘を開いて、改めて家路に着いて行く様子を見る事が出来た。
二人はコンビニの入り口脇の軒下へ入り、ジタンは傘を閉じた。
どうせまた直ぐに使うのだがとは思いつつ、濡れた傘をそのままに持つ訳にも行かないので、仕方なくきちんと閉じてカバーに入れて置く。
湿ったそれを鞄の中に入れる気にはならなかったので、ジタンはそれを手に持ったまま、店内へと入った。
雨に濡れた若者達が転がり込んで来る所為だろう、店の中はじっとりと湿気が多い。
長居は無用だなと、ジタンは商品棚から袋菓子、レジ横のホットスナックから肉まんを頼んで、支払いを済ませた。
その後ろに並んでいたスコールは、予定通りにビニール傘と、いつもの缶コーヒーを買っている。
と、
(────あ)
鞄から財布を取り出しているスコールの肩を見て、ジタンは其処が水染みに濡れている事に気付いた。
折り畳み傘は、どうしてもサイズとしては小さいもので、一人用と言って良い。
其処に二人で収まっていたのだから、肩が食み出てしまうのは仕方がない。
しかし、ジタンの体は、足元の水溜り跳ねを除けば濡れた所はなく、傘を持っていたスコールの肩だけが不自然に濡れているのは、つまり。
なんとなく悔しい気持ちが立って、ジタンは鞄の中を探った。
其処へ支払いを終えたスコールが戻って来て、
「何してるんだ、あんた」
「ん。いや、ちょっとな。取り敢えず、店出るか」
大して広くもないコンビニの一角を占拠していては、買い物客の邪魔になる。
ジタンが促すと、スコールは素直にその後ろをついて、店の外へと出た。
スコールが購入したばかりの傘を開き、ジタンも折り畳み傘をもう一度開き直した。
一人一つ分の傘の下で、ようやく遠慮もしなくて良いと、スコールがほうっと息を吐き、
「助かった」
その言葉は、此処に来るまで束の間の軒下を貸してくれた友人への感謝のものだろう。
律儀なそれに、ジタンは真面目な奴だなと思いつつ、
「スコール、ちょっと屈んでくれ」
「……?」
ジタンの言葉に、スコールは訝しむ表情を浮かべながらも、背中を丸めて見せる。
身長差で少し遠かったスコールの肩が目線の高さに来て、改めて近くで確認すると、其処はぐっしょりと濡れている。
ジタンは鞄から取り出したハンカチタオルで、スコールのその肩を拭いてやった。
「折角傘持ってたのに、濡れてるじゃねーか」
「……傘、小さいんだから仕方がないだろう」
「だからってお前が濡れる事ないだろ」
「あんたの傘を借りたんだ。あんたを濡らす方が、気が悪い」
「ま、気持ちは判んなくもないけどさ。首んとこまで濡れてんじゃん、殆ど背中出てたんじゃないか?」
やはり、折り畳み傘では二人を庇うのは限界だったと言うことだろう。
とは言え、こうも背中が濡れている所を見るに、スコールが持っていた傘は、彼自身よりもジタンを庇う為に構えられていたことが判るもの。
ジタンはハンカチでスコールの首の後ろをしっかりと拭いてやった。
意外と柔らかい毛質なんだなと思いつつ、大方の水分を吸い取ってやった所で、手を放す。
「こんなもんか」
「……ああ、悪い」
「どうせなら詫びじゃなくて感謝が聞きたいトコだな」
「………」
ウィンクをして見せるジタンに、スコールは相変わらず胡乱げな視線を向ける。
心持ち尖った小さな唇が、やはり色々と物言いたげにはしていたが、それが音になる事は滅多にない。
いつものスコールの表情と言えばそうなので、ジタンは深くは気にせず、タオルハンカチをズボンのポケットに突っ込んだ。
スコールは拭かれた感触が残っているのか、首の後ろを気にして手を遣っている。
その眦が、不快に歪んでいる訳ではない事だけを確認して、ジタンは「行こうぜ」と言った。
傘の下が自分専用の空間となって、歩き易さは勿論のこと、密着によるじっとりとした湿り気からも解放されて、快適度が増した。
いつも通りに傘を持っていれば、背中や肩、脇に抱えた鞄が濡れる事もない。
折り畳み傘でさえそうなのだから、普通のビニール傘を使っているスコールは言わずもがなだろう。
────でも、とジタンは思う。
(なんとなく、あのまんまでも、あんまり悪くはなかったな)
小さな折り畳み傘の下に、二人で寄り添うように収まっていた一時。
結局スコールの肩や背中は濡れているし、歩調を合わせて歩いていたので、ジタンも歩き難さはあった。
それでも不思議と嫌な感覚はなく、傘の中でだけ完成されたような緩やかな空気感に、また同じような言があっても良いかも知れない、等と思っていた。
こんな事もあるのなら、不意の雨も悪くはないかも知れない。
またの機会に備えて、折り畳み傘もまた、鞄の底に仕舞われる事になるのだろう。
9月8日と言うことでジタスコ!
なんとも不安定な天気が続いているので、二人で相合傘して貰ってみた。
身長が足りないことがなんとも悔しいジタンと、軒を借りているのは自分なので、密かに遠慮していたスコール。
でもジタンはジタンで、自分が濡れる位なんともないと思っているので、スコールに遠慮すんなよと思っている。
ちゃんとハンカチを持っているのは紳士の嗜み。
拭かれている間、スコールも大人しくしていたので、結構気を許しているんだと思います。