[16/バルクラ]朝の戯れ
クライヴが緩やかに微睡みながら目を開けると、ブラインドの隙間から差し込む光が目元に当たった。
瞼の向こう側に透けていた光を直に見て、乾いた眼球が隠れろと訴える。
その命令はなんとも惰性の心地良さを誘うが、さりとて身を任せる訳にも行かなかった。
少年の頃はとかく模範的である事に努力していた所為か、今でもその癖は抜けない。
余程の疲れがあれば別だが、決まった時間に目を覚ますのは、体が記憶したバイオリズムであった。
しかし昨日は、その“余程の疲れ”があった日なので、時計を見れば午前八時を越えている。
ああやってしまったと思った所で、今日の予定は特段急ぐものもない訳で、それを思えば惰眠を貪っていても良かったのだろうが、目が覚めた以上は起きなければ。
腹も減っている訳だし、二度寝をしたとて、どうせ胃袋が鳴いて起きる羽目になるだろう。
栄養を摂ればもう少し目も覚める筈だと、ベッドから抜け出す決意をした。
────筈なのに、その行動を起こし始めてから約十分、クライヴは未だベッドの中にいる。
クライヴは、起き上がってはいるものの、半身はまだシーツの中に埋もれていた。
腰にまとわりついているものが、どうやっても重い。
あからさまにクライヴの起床を阻害しているそれは、振り払おうと思えば出来る筈だが、案外とそれに多大な労力を必要とすることを知っている。
その労力を使うには、まだ頭が目覚め切っていなかったから、まあ良いかとそれが自然と外れるのをのんびりと待ちながら、聊か遅い朝食メニューについて考えていた。
……のだが、既にメニューは決まり(そもそも然程選ぶ幅もない)、時間が経つに連れて、脳もしっかりと覚醒して来た。
流石にこれ以上の引き延ばしは、時間の無駄にしかならないだろう。
何より、まとわりつくものの持ち主は、恐らく、きっと、起きている。
振り払われないことを良いことに、存外と図太い神経で今の状態を続けていることを、クライヴは経験から学んでいた。
「……バルナバス」
寝床からの脱皮を引き留める者の名を呼ぶが、返事はない。
代わりに腰を捕まえる太い腕に、分かり易く力が籠ったのを感じた。
「そろそろ離せ。朝飯を作るから」
「……必要ない」
興味がない、と言わんばかりに、平坦な声が返って来た。
それと一緒に背中の腰のあたりに触れるのは、微かな吐息と、髭の感触。
やっぱり起きてるじゃないかと呆れつつ、クライヴは「そう言う訳にはいかない」と反論した。
「あんたはただでさえ飯を食わないんだ。朝食は一日のエネルギーだぞ」
「摂らなくとも問題はない」
「駄目だ。あんたにちゃんと人間らしい生活をさせるという条件で、あんたの秘書から目溢しされてるようなものなんだから」
言いながらクライヴは、腰を捕まえる腕に触れた。
離れろ、と案外と太い骨の感触のある手首を握ると、抗議のようにまた力が籠ったが、遠慮せずに抓ってやれば渋々に離れて行った。
やっと自由になった体をベッドから下ろし、クライヴは床に落ちている服を拾う。
体を包んでいた布地と、密着していた体温がなくなった所為で、朝の冷え込みに冴えた空気が、一段と冷たく感じられた。
それから身を守る為に手早く着換えを済ませ、ベッドに部屋の主を残して、寝室を後にした。
独り暮らしで使うには余る広さの2LDKは、質の良い家具こそ揃えられているが、あまり使われた形跡がない。
と言うのも、この部屋の主───今はベッドの主───が滅多に帰って来ないものだから、生活臭と言うのが碌に染み付かないのである。
その傍らハウスキーパーは定期的に出入りして行くので、埃も塵も見付からなくて、尚更人が過ごしている気配がなかった。
稀に帰ってきたとて、使うのはシャワーと寝室くらいのもので、生活の営みの中心とも言えるキッチンなんて、それこそ稀に飲むワインを楽しんだ後くらいしか使わない。
その話を聞いた時、朝飯はどうしているんだとクライヴが聞いたら、「食べない」と言う答えが帰って来て、呆れたものだった。
多忙であるが故に偏った生活スタイルになるのは止むを得ないとしても、せめてもう少し体を鑑みた食生活は考えるべきだ。
平時、雇用主の意向には余計な感情を挟まない有能な秘書が、眉尻を下げて閉口する訳だ、とクライヴは思った。
そんなバルナバスの仕事はと言うと、新進気鋭と名高い、大手企業の社長である。
一代で企業から頂点まで上り詰めたと名高い彼と、ただのしがないサラリーマンであるクライヴが、朝露を共にするような間柄になったのはどういう訳だか。
クライヴは未だに疑問が尽きないが、ごくごく簡素に言ってしまえば、“見初められた”と言うのか。
共通の知り合いを介して顔を合わせたのは仕事の時で、プロジェクトを進めている内に、多少なりと身内話をするような間柄になった。
それから閨まで共に過ごす事になったのは、クライヴにしてみれば酒に酔った弾みのことだったが、どうやら向こうはそうではなかったらしい。
無表情とばかり思っていた顔が、いやに真摯な目をして真っ直ぐに近付いて来るのを、素面で押し返す事が出来なかった。
流された、と思わないでもないが、存外とその腕に包まれていると居心地が良い。
まあ良いか───などと言い方をすると随分と不誠実な気がしたが、さりとて悪感情がないのも事実。
何故かすべてを知っていた秘書(多分、雇用主から直に説明でもあったのではないかと思う。そう言う男だ)からは、「貴方に悪意はないでしょうから」とあっさりとしたものだった。
秘書にとっては雇用主である男の意思が重要で、クライヴがどう思うか、倫理的、道徳的、常識的な話だとかは、どうでも良いことと言い切った位だ。
秘書の言葉については、此方の人間性を信頼して貰っているものとして受け取って、こうしてクライヴとバルナバスの関係は、カテゴリーとして『恋人同士』と言うものに納まったのであった。
とは言え、甘い甘い恋人生活と言うほど、二人の生活は密接してはいない。
社長として国内外問わずに顔を使うバルナバスは勿論のこと、クライヴもサラリーマンとして、相応に忙しい日々を送っている。
こうして閨を共に過ごすのは、週に一度もあれば十分で、後は偶に夜にかかってくる電話くらいのもの。
それもバルナバスが海外にいれば、時差を慮ってかないことも多く、傍目に見れば二人の関係は酷く淡白にも見えただろう。
実際、こんなものか、とクライヴも付き合い始めの初期は思ったものだった。
────だから、と言うと聊か話が飛ぶ気もするが、そんな反動のように、週に一度の逢瀬の夜は濃いものになる。
今日のクライヴが平時に比べて遅くに目が覚めたのも、そのお陰であった。
週に一度とは言え、クライヴが泊まり、その翌日には朝食を作るので、キッチンも少しばかり生活感が出て来た。
まるでモデルルームのように水気もなく綺麗だったシンクには、三角コーナーが置かれ、壁には調理器具がかけられ、引き出しを開ければピーラーやら菜箸やら。
大きいばかりで中身がないも同然だった冷蔵庫は、昨日の夜に買って帰った食材が入っている。
野菜はカットされたもの、ドレッシングや調味料は使い切りのポーションタイプ、卵は三つ入りのパック。
牛乳は500mlでも朝食だけでは余ってしまうものだから、200mlをふたつ買うようになった。
水垢もないキッチンを使うことに、初めこそ良いのだろうかと躊躇ったクライヴであったが、流石にもう慣れた。
綺麗に使うことは心掛けつつも、勝手知ったる台所と、コンロも電子レンジも使い分け、てきぱきと朝食を整えて行った。
ダイニングテーブルに二人分の朝食が揃った所で、クライヴの視線は寝室のドアへと向かう。
(さて……まだ出て来そうにないな)
仕様がない、と存外と手のかかる社長様の為、クライヴは寝室へ戻った。
案の定、バルナバスはまだベッドの中にいる。
外では完璧を体現したような男が、プライベートがそれなりに寝汚いことを知る者は少ない。
色々知ったら幻滅するかも知れんぞ、とクライヴに言ったのは、バルナバスとも付き合いが長い上司だ。
その言葉の通り、まさかこんな人間だったとは、と思った事は幾つもあるのだが、不思議と愛想は尽きていない。
「バルナバス、起きてるだろう」
「……」
「朝飯が出来たから、ちゃんと食べろ」
ベッドに近付きながら声をかけてみるが、返事はない。
低血圧が酷いことは知っているから、朝のエンジンがかからないのはいつもの事だ。
ベッドの端に片手をついて、クライヴはシーツの波に埋もれている男の顔を覗いてみる。
眉間に癖のように強い皺が寄っているのを見て、起きているな、と確信した。
「バルナバス」
「……」
「あんたに起きて貰わないと、俺がスレイプニルに怒られるんだが?」
「……好きに言わせておけ」
「あんたはそれで良いだろうけど」
バルナバスにとっては、秘書から偶に貰う小言程度なのだろうが、クライヴにとってはそうではない。
別段、彼とクライヴの仲が悪い訳ではないのだが、秘書はあくまで社長の味方である。
クライヴの所為でバルナバスが堕落しようものなら、勿論それはクライヴの所為であり、排除すべきと断ずるだろう。
流石にそれで恋人との仲を引き裂かれるのは悲しいもので、クライヴはそれなりに、周囲とは穏健な関係を育んでおきべきであると思っている。
その為にも、取り敢えず、バルナバスには起きて食事をして貰わなければならない。
「恋人の手作りなら、あの人も少しは食べますかね」等と真剣な顔で言っていた秘書にとって、これは割と真面目な問題であるらしい。
週に一度程度のことでも、重ねて行けば、バルナバスの食事への意識が改善されるのでは、と。
それに応じてと言う訳ではないが、ともあれ案外と年嵩であるバルナバスの健康管理は大事なことだから、クライヴもこうして食事を用意している訳だ。
しかし、当人に全く起きる気がないのではどうしようもない。
かと言って、折角作った朝食を無駄にしたくはないもので、さてどうやって食わせようかと考えていると、ぬっと太い腕が伸びて来た。
無造作に胸倉を掴んだそれにぐいっと引っ張られて、上体を落としたと思ったら、唇が塞がれる。
ぬるりとしたものが咥内に入って来て、ぞくりと首の後ろに官能の兆しが奔った。
「っ……こら、おい」
「来い」
「んむ……っ!」
唇が離れた一瞬、抗議するクライヴだが、今度は頭を掴まれた。
捕えた獲物を逃がすまいと籠る力に、クライヴは眉根を寄せながらも、舌をなぞられる感触に、くぐもった吐息が漏れる。
「む……ん、ん……っ」
昨日も散々したのに、と地味に痛みを訴える腰があることを、この男は知っているだろうか。
知った所で、きっと大して気にはしないのだろうと思いながら、ベッドの中へと連れ戻される。
ああくそ、とクライヴは心中に吐きながら、すぐ其処にある顔を両の手で包み込み、口付けをより深くする。
此方から舌を絡めてやれば、満足そうに厚みのある手がクライヴの頬を滑った。
ちゅくちゅくと耳の奥で鳴る音に、昨夜もずっと感じていた熱の重みが腹の中で目覚めるのを感じる。
────が、そこまでだ。
「っは……、は……」
クライヴは強い理性でもって、繋いでいた唇を離した。
舌と舌の間を唾液が糸になって引き、ぷつりと切れる。
「……続きは後だ、バルナバス」
とにかくノルマは済ませろと、睨むように至近距離で言って、クライヴは頭を抱える手を解かせた。
その手は今一度獲物を捕まえようと伸ばされるが、すいと避けてベッドを逃れる。
速足に寝室を出たクライヴを見送って、バルナバスはようやく起き上がったのだった。
バルクラを書いてみた。
クライヴにしてみればバルナバスに振り回されている気分だけど、バルナバスの方もクライヴに結構翻弄されている感じ。
大体自分の好きにさせてるクライヴが、急に反撃してきてびっくりする(顔は無表情)バルナバスはありなんじゃないかと思いました。
後でちゃんと抱き潰されると思います。