[絆]小さな約束、甘い未来
オーブンが音を鳴らして、焼き上がりの合図。
それを聞いたレオンは、明日が提出期限の課題を解く手を止めて、腰を上げた。
キッチンからは甘くて香ばしい匂いが漂っている。
余り甘いものが得意でないレオンだが、こうした匂いは決して嫌いではなかった。
ピーッピーッと急かすように音を鳴らすオーブンの蓋を開けると、其処には丸いホールの型がある。
ミトンを手に嵌めて型を取り出したレオンは、調理台の上にそれを置いて、竹串を取り出す。
竹串は表面で軽い抵抗感を見せた後、サクリと刺さると、後はすぅ、と底の方まで落ちて行った。
「……よし」
抜いた竹串の先には、茶色の生地が少しくっついていたが、それはベトついたり、ドロリと溶けたりはしていない。
どうやら、上手く焼き上がってくれたようだ。
周りの大人達からは器用で通っているレオンだが、彼とて何事も失敗しない訳ではない。
初めて作ったものは、ちゃんとレシピ通りに作っても、オーブンの温度が足りなかったり、メレンゲの泡立てが足りなかったりと、そうした事はままあるものであった。
一つのものに集中していれば、多少の失敗も取り戻す事は出来るのだが、レオンは決して暇ではない。
今日も朝から忙しなく、朝食の用意をして、妹と弟達を起こし、洗濯物やら掃除やらを済ませたと思ったら、今度は昼食の用意をして……と言う具合に、同じ年頃の少年少女達に比べると、非常に多忙な身だ。
だから時々、パンを焦がしたり、服を一つ洗濯機の中から取り忘れていたり、と言う事が起きてしまう。
菓子作りなんて尚の事で、夕飯の準備と同時進行で作っている時などは、うっかりバニラエッセンスを入れ忘れたり、ブランデーの量を間違えたり、と言う事は少なくなかった。
今日も今日とて、そんな忙しい時間の中で、レオンは合間を縫って菓子作りに精を出していた。
全ては、もう直ぐ帰って来るであろう、妹弟達の為に。
粗熱が取れるのを待って、型から中身を取り出す。
底が外れるタイプの型なので、引っ繰り返す必要がないのは助かる。
チョコレート色の生地の横側に指先を軽く当ててみる。
これも指に付着するものがなかったので、上手く行った、とレオンは口元を綻ばせた。
────ガチャガチャ、バタン。
賑やかな音が玄関から聞こえたのを耳に留めて、レオンはキッチンからリビングに顔を出した。
「レオン、ただいまー!」
「ただいま、レオン」
「お兄ちゃん、ただいま」
元気な声をあげるティーダと、持っていた買い物袋をテーブルに置くエルオーネ。
スコールは三十分振りの再会に、早速甘えるようにレオンの下に駆け寄って、ぎゅっと兄の腰に抱き着いた。
さらさらとしたダークブラウンの髪を撫でる。
すると、抱き着いたままスコールがくんくんと鼻を鳴らした。
「お兄ちゃん、いい匂いする」
「ああ。お菓子、作ってたからな」
「お菓子?」
ぱっと表情を明るくしたのはティーダだ。
わくわくとした顔で見上げて来る蒼と青に、レオンはくつくつと笑う。
「もう少しで出来るから、良い子にしてろよ?」
「うん」
「レオン、買ったもの、冷蔵庫に入れておくね」
「ああ……いや、俺がやろう。エルは二人を見ていてくれ」
そう言うと、エルオーネは「判った」と言って、買い物袋をレオンに手渡した。
レオンはキッチンに戻ると、明日以降の献立になる食材を冷蔵庫に詰めていく。
それが終わると、調理台に置いていたお菓子の表面に、茶漉しを使って粉糖を振りかける。
チョコレート色と対照的な白が鮮やかに映えた。
少し熱した包丁で綺麗に切り分けて、デザート皿に乗せ、ホイップクリームを添える。
これでよし────と思った所で、視線を感じて振り返る。
すると其処には、キッチンの入り口でひょっこり顔だけを覗かせている子供達がいて。
「出来たぞ」
くすりと笑ってそう言うと、ぱぁあ、と二人の顔が輝いた。
レオンがジュースとコーヒーを準備している間に、二人はリビングに戻り、「出来たってー!」とエルオーネに報告する。
良い子で待ってなきゃ、と言うエルオーネの声に、二人の返事が重なるが、その声さえも待ち遠しそうに聞こえるのは、気の所為ではあるまい。
レオンがリビングに入ると、三人は窓辺のテーブルに行儀よく座っていた。
「今日のおやつ、何?」
「ガトーショコラだ。チョコレート生地のケーキみたいなものかな」
「お姉ちゃんの、おっきいね」
「……うん。レオン、どうして?」
それぞれ並べられたケーキの大きさを見たスコールの言葉に、エルオーネも頷いて、首を傾げる。
いつもはティーダとスコールのケーキの方が、気持ち大き目になっているからだ。
間違えた?と不思議そうに見上げて来るエルオーネに、レオンは微笑む。
「今日はホワイトデーだろう」
「……あ。え、ちょっと待って、私、先月何も渡してないよ」
「ほわいとでー?」
「ほわいとでーって何?」
慌てるエルオーネと、そんなエルオーネにホワイトデーについて訊ねる弟達。
レオンは自分の椅子に座って、コーヒーを一口飲んでから、言った。
「ホワイトデーと言うのは、そうだな……男の人が好きな女の人に贈り物をする日、だな」
その前にバレンタインデーと言うものがあって、とはレオンは言わなかった。
この前提があろうとなかろうと、レオンは今日はガトーショコラを作るつもりだったし、エルオーネには大き目のカットを渡すと決めていた。
レオンの言葉を聞いたスコールが、すきなひと、と小さく反芻して、
「お兄ちゃん、お姉ちゃんのこと、好き?」
「ああ」
「僕もお姉ちゃん、好き」
「オレもー!」
「あ、ありがとう」
突然の告白ラッシュに、エルオーネは顔を赤くする。
その傍ら、困ったように眉尻を下げている彼女を見て、レオンはくすりと笑った。
「エル、来年は少し期待していても良いか?」
何を、とはレオンは言わなかったが、利発な妹はきちんと察してくれたらしく。
待っててね、と笑ってくれた妹を見て、レオンは来年の冬が今から待ち遠しくなるのを感じた。
こんな事言ってるレオンですが、バレンタインはバレンタインで、何か用意してるんですね。
ってかバレンタインでもホワイトデーでもクリスマスでも、何もなくてもレオンはこんな調子です。イベントに感けて妹弟を可愛がりたいだけです。このお兄ちゃんは。
お菓子作りは分量を間違えると、中々修正が効かないので大変です……