[16/シドクラ]合図の指先
シドはよく他人の頭を撫でる。
それが彼にとってコミュニケーション術のひとつであり、信頼の証であり、情の示し方なのだろう。
だから、娘のミドはとくにそれを表現されるし、ハグやじゃれあいのキスもよくある。
ミドの方もそれを判っているし、父に愛されていると体感できるからか、彼女自身もスキンシップは好きだから、余すことなくそれを受け止めていた。
年齢上、立場上とあってだろう、シドは大抵の人の頭を撫でる。
女性に対しては、礼儀として、其処まで気安くすることはないが、空気や場面として問題ないと見做した時には、軽くぽんと撫でたり、肩を一瞬軽く叩いたりと言うことがある。
その時には決して過度ではなく、また相手の反応もよく見ているから、平時は専ら紳士的な距離感を保っているし、その信頼感あっての行為だ。
故に相手が不快になったり、不信感を持つことは先ずないと言って良い。
男に対してはもっと気安く、社の部下の殆どは、彼に頭を撫でられたことがあるだろう。
古くからの友人に対しては、肩を組んだり、酒を飲み交わしたりと言う具合だ。
クライヴも、よくシドから頭を撫でられる。
仕事で少々失敗してしまって落ち込んでいたり、悩ましい案件で頭を抱えている時など、「ちょっと気を紛らわせろよ」と言うように、クライヴの頭を撫でた。
その時のシドは、幼い子供を慰めると言うよりは、叱られた犬猫をあやすような風があった。
実際、シドにとってはそう言う感覚なのかも知れない。
お前は仕方のない奴だな、と言うように、苦笑しながらぐしゃぐしゃと頭を掻きまわすものだから、クライヴはシドから頭を撫でられるというのは、そう言う“あやす”時のものだと言う認識がある。
とは言っても、シドがクライヴを全くの子供扱いしている訳でもない。
会社での扱いはれっきとした社会人を相手にするそれだし、任される仕事については、それなりに責任を伴うものである。
色々と手をかけて貰った経緯があるものだから、手のかかる奴だ、と思われているのは否定するまい。
だが、それはそれと言うもので、だから簡単な仕事しか任せない、と言うことはないのだ。
十年以上もブラック会社に勤めていたという経緯を持ち、思考停止気味だったとはいえ、其処で有能ぶりを発揮しながら働いていたクライヴだ。
能力についてはシドから見ても申し分のないものであり、クライヴ自身、そうと思っている訳ではないが、生来の真面目ぶりで手を抜かない性分だから、幸いにも相応の結果はついてきた。
そうすればきちんと給料にもその結果は繁栄されるし、案件終了の祝いと言ってシドが持ってくるのはアルコールの類だ。
その酒の席から、同じベッドに入ることも含めて、シドはクライヴをちゃんと“大人”としても扱っている。
だからシドが他人の、クライヴの頭を撫でると言うのは、一番はやはり、信頼と情の証なのだ。
よくやった、と褒めるように、或いは労うように、彼の手は人の頭を撫でる。
それで良い顔で笑ってくれるんだから、誑しだよなぁ、と言ったのはガブである。
クライヴも、全く同感だ、と頷いたのを覚えていた。
年相応に皺も浮かび始めたシドの手は、存外と大きくて温かい。
手のひらの温度が高い人間は心が冷たい───元々はその逆の人を慰める言葉だったのだろうが、じゃあ逆に、と広がった言葉のなんと身勝手なものか───と言うらしいが、シドを見ていたら、それのなんとバカバカしいことか。
道端で倒れていた男を拾って面倒を見たり、職にあぶれて食うに困った男をその場で即会社に引き入れたり、酷い環境にいた者を強引にでも其処から離して守ったり。
それのサポートを昔から続けているオットーには、ご苦労様と苦笑を送るしか出来ないが、とは言えオットーの方も、シドがそう言う人間だと判っているから、長年付き合っているのだろう。
この馬鹿みたいに懐が大きくて優しい男のやる事を、無駄にはさせるまいと思う程の人望が、このシドと言う男にはあるのだから。
だから多くの人は、シドに触れられる事、頭を撫でられることを嫌がりはしない。
始めこそ大なり小なりの戸惑いの反応はあるが、他者にも分け隔てなく行われるそれに、慣れもあって段々と拒否する意味もなくなるのだ。
クライヴも、やたらと頭を掻き撫ぜられるのを「やめろ」と言いはするものの、実際の所、其処に嫌悪感がある訳でもなかった。
どちらかと言えば、子供扱いされることへの反発、と言うのが正しい。
その癖、くしゃくしゃと撫でる手は温かくて、なまじ滅多にそう言うことをされた経験もなかったものだから、どうにも離れがたい心地良さと言うか、安心感のようなものを感じてしまう。
そう言うものを自分が感じていると、とかく敏い男に気付かれたくなくて、辞めろとその手を振り払う仕草をするのも、クライヴの本音にあることだった。
そして、クライヴに限っては、もっと別の理由でその手を振り払えない時がある。
夜になっても気温が下がらない、湿度も高いというものだから、空調はフル稼働させないとやっていられない。
風呂で一日の汗で汚れた身体を洗い流し、すっきりさっぱりとした気分で涼しい部屋に戻ってきて、ふう、と一息。
まだ水分を含む髪を、肩にかけたタオルで気持ちの作用程度に拭きながら、クライヴは水分を摂りキッチンへと向かった。
冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのペットボトルを片手に寝室へ入ると、シドがベッドで本を読んでいる。
ベッドヘッドに背中を預け、少し絞ったスタンドライトの灯りを頼りに、少し厚みのある専門書を読んでいるのは、本の虫であるシドのよく見る姿だ。
じぃっと本を見つめる目は真剣で、また何かの技術書かな、とクライヴは思った。
娘のミドにも受け継がれている事だが、シドは何かと新しいもの好きで、その中でも特に、機械系の技術の進化に目がない。
その技術進化に関する本とは、何も新しい記述に限らったものではなく、古くからあったものについても貪欲で、何処からか古書を手に入れては延々と読み耽っているものだった。
どうして古いものまで調べるのかと尋ねれば、「技術は歴史の積み重ねだ。何の機能がどうして求められたのか、それを良くする為にどう改良されていったのか、知るのは面白いもんだ」とのこと。
元が勤勉な質でもあるだろうし、趣味に関しては凝り性な所もあるから、この類のものは、時代や種類を問わずに掻き集めるので、本棚はその手のもので溢れている。
この手のものにのめり込んでいる時、邪魔をするのは良くないとクライヴは知っている。
(……今日はなしかな)
明日は会社が休みの日だ。
当然、社長であるシド含め、其処で働く者も休みであるから、詰まる所、クライヴは今夜を少々期待していたのだ。
まだ知って間もない、共有する熱の心地良さと言うものは、どうにも忘れ難くて、日に日に焦がれて欲してしまう。
しかしそれに感けて夜更かしをし過ぎる訳にもいかないから、それを求められる日と言うのは限られていた。
だから、明日が休みなら、と言う期待が少しばかりあったのだが、
(これを邪魔するのは悪い)
じっと本を見つめるシドの横顔を見ながら、クライヴは眉尻を下げて苦笑する。
会社の立場もあり、人望もありで、どうやってもシドは忙しいのだ。
読書が好きなのに、こうした隙間の時間くらいしか耽る事が出来ない訳だから、クライヴは諦めと共に恋人の趣味の時間を壊すまいと思い直した。
とは言え、クライヴ自身、このまま寝てしまうには少々時間が早い。
クライヴも読書は嫌いではなかったから、部屋の隅の本棚から適当に物を取った。
シドのように難しい本は無理だが、小説だとか、物語を綴られた類なら、暇潰しには使える。
熱は諦めはしたものの、自分のベッドに入る気にはならなくて、クライヴはシドのベッドの端に座った。
きしりと小さな音が鳴ったが、シドは何も言わなかったので、気付かなかったか、許されているという事だろう。
クライヴは其処で本を開いた。
ファンタジーな世界で繰り広げられる、壮大なドラマを綴る文字を、じっと見つめる時間。
それが一時間程度は過ぎた頃に、クライヴはふと、項のあたりを何かがくすぐっている事に気付いた。
「────?」
文字へと集中していた意識が完全に削がれ、首の後ろのくすぐったさに引っ張られる。
其処に右手をやってみれば、くすぐったさの元に、人の指が遊んでいた。
振り返れば、当然ながら、唯一の同居人がいる。
ずっと本を見ていた筈のヘイゼルの瞳がクライヴを映し、何処か楽しそうな表情を浮かべながら、彼の指がクライヴの首筋にかかる黒髪を遊ばせていた。
本に没頭しているとばかり思っていたシドの突然の戯れに、クライヴの眉間に皺が寄る。
「なんだ?」
「いやあ、何ってことはないんだがな」
項を擽る指を払うクライヴだが、そうすると今度は、後頭部をわしっと掴まれた。
うわ、と急なことに声を上げるクライヴに構わず、シドはぐしゃぐしゃとクライヴの髪を掻き乱す。
「濡れてるぞ。お前、そこそこ髪の量多いんだから、ちゃんと乾かさないと風邪引くぞ」
「別に、放っておけば乾くだろう。おい、こら」
「タオルあるならもうちょっとまともに拭いておけ」
シドはそう言うと、クライヴが肩にかけていたタオルを取って、しっとりとした黒髪を拭き始めた。
「おい。子供じゃないんだ、自分で出来る」
「子供じゃないなら、最初からきっちりやって来い」
尤もな事を言われて、クライヴは唇を尖らせた。
その表情は、クライヴから見て後ろにいるシドには見えていない筈だが、この男はとにかく敏い。
クライヴは努めて表情を隠すように意識して、下唇を軽く噛んで堪えていた。
抵抗を辞めて大人しくなったクライヴに、シドは悠々とした手付きで、髪を拭く作業を続ける。
本はもう良いのかとクライヴが視線だけを動かしてみると、ベッド横のチェストの上に、彼が開いていた本が栞を挟んで閉じてある。
更にその横には時計があり、もうそろそろ日付を越える頃だと言う事が判った。
(……髪を拭くのが終わったら、寝るか)
熱の期待もない代わりに、ゆったりと静かな時間だった。
存外これも悪くはない、と頭を拭いている恋人の手に、現金な気持ちも沸いていた。
────と、すっかり油断していたクライヴの耳の後ろを、するりと滑る指があって、思わずクライヴの肩が跳ねる。
其処は常時の際に何かとシドが触れる場所だから、その感覚を体が覚えているのだ。
思いもよらぬタイミングでやって来たそれに、クライヴが感覚の残る耳を手で庇いながら振り返れば、
「おう、どうした?」
にやついた顔が其処にあって、明らかに動揺しているクライヴを見て面白がっているのが見て取れる。
それがクライヴの、聊かプライドのようなものを刺激するのだが、またそれを宥めるように、シドの手はくしゃくしゃとクライヴの頭を撫で、
「大分乾いたな」
手指に絡む髪の毛に、先とは違う感触や湿度を確かめて、シドは満足そうに言った。
それからその手は、一頻りクライヴの頭を撫でた後、また耳朶の裏側へと滑って行く。
「シド、待て」
「なんだ、今日は気分じゃなかったか」
「いや、そう言う訳、でも、」
なかったけど、と言いかけて、クライヴの顔が赤くなって詰まる。
自分が期待して待っていたこと、その名残で此処に座ったことを、自分から白状してしまった。
正直に自分が熱に餓えていた事を告白したクライヴに、シドはくつくつと喉を鳴らす。
シドはいつもクライヴの頭を撫でている、その手指で、クライヴの燻ぶる熱を煽る。
耳朶の形を撫でた指が、無精髭を生やした頬を伝って、小さな唇の端を掠めた。
もう完全にこの男が“その気”なのだと言う事は、クライヴにも分かる。
しかし、他人への世話気質については多少強引にでもそれを押し通す男だが、懐に入れた者に対して、無理強いの類は絶対に良しとしない。
だからクライヴが此処で嫌だと主張すれば、いつものようにクライヴの頭を撫でて終わりにしてくれるのだろう。
この、唇を掠め、耳朶の裏側を擽って合図を送った、この指で。
紅い顔で視線を彷徨わせ、なんとも言い難い赤い顔のクライヴの米神に、シドの唇が柔く触れ、
「で、どうする?」
あくまで選択権は委ねる男に、クライヴは苦虫を放り投げて、その首に腕を絡みつかせた。
『お付き合いしてしばらく経ってから、シドからのお誘いがどんな感じか』のリクを頂きました。
日々のスキンシップからの、クライヴに対してだけやる仕草みたいな。
頭を撫でるのは色んな人にやるけど、耳を触ったり、口の周りに触れたりとかはクライヴだけ。
そう言う所を触り始めたら合図、と言う感じの二人になりました。