[16/シドクラ]包まれたいのはただ一つの
ふ、と嗅ぎ慣れない匂いを感じた。
職場で香ったそれは、幼馴染が身に着けていた香水で、珍しいこともあるものだと思った。
ジルは花の香りが昔からよく似合う。
彼女の家の庭には、よく手入れされた庭園があり、彼女もよく其処で過ごしていたから、季節ごとに咲く花の香りが彼女を包んでいた。
クライヴ自身は花に詳しいことはなかったが、彼女と一緒に花に水やりをした事もある。
その時、このお花はね、とその特徴や花言葉についてジルが話してくれるのを、弟と一緒に聞いていたものだった。
成人し、クライヴが実家を出てから、ブラック会社の激務もあって、段々と連絡も途切れがちになり、二人の間は必然的に疎遠になった。
しかし偶然とはあるもので、クライヴが拾われた会社に、追うようにしてジルもやって来ることになったのだ。
彼女は彼女で、中々大変な環境にあったらしく、再会した時には、綺麗な銀色の髪が煤けて見える程だった。
環境がすっかり変わった今、ジルはクライヴと共に、シドの会社の事務員として働いている。
労働環境と言うのは全く大事なもので、ひと月もする頃には、彼女は柔らかな笑顔を取り戻していた。
実家にいた頃と違い、花の世話をする暇もなかったジル。
当然、いつかの頃にまとわせていた花の香りも縁遠くなっていたのだが、同じ事務員であり会社の先輩にあたるタルヤから、気分転換にもなるから、と香水を貰ったそうだ。
女性に似合う、洒落た造りの香水瓶に、ジルは勿体なさもあって中々手が出なかったが、とは言え一度も使わずにしまい込むのもどうかと、試しに一吹きしてみたらしい。
その柔らかくて優しい香りが、今日一日、彼女を包み込んでいたのだ。
それに気付いて、「良い匂いだな」と言ったクライヴに、ジルは嬉しそうに微笑んだ。
強すぎず、主張することもなく、近くを通った時にふわりとさり気無く香る、控えめながら芯がしっかりとした性格のジルに似合う香りだ。
「クライヴがそう言ってくれるなら、またつけても良いかも」とはにかんだジルに、是非また、とクライヴは言った。
香水が齎してくれる効果と言うのは、色々とある。
古くは不快な匂いを消す、と言った目的であったものが発展し、今ではリラクゼーション効果や、おしゃれの一種として幅広く嗜まれている。
クライヴはと言うと、母が日常的に身に着けていた事から、それそのものは身近だったが、自身が利用したことはなかった。
好奇心の強かった幼い時分の弟と一緒に、父が稀に身に着ける香水を借りてつけて貰った事がある。
その時、弟のジョシュアは「良い匂いだね」と言い、クライヴもそれに頷きはしたが、正直に言うと、あまりはっきりとは判っていなかったりする。
馴染みのない匂いがする事はするが、それが快いかどうかは、あまり琴線に触れなかったのだ。
父が愛用していたものは、母のものと違って強い芳香がするものでもなかったから、余計にピンとは来なかったのかも知れない。
しかし、大人になって改めて、幼馴染が身に着けていたそれは、クライヴにもささやかな安らぎを与えてくれた。
それがジルが相手だったからなのか、香水の匂いがクライヴの鼻に合っていたのかは判らないが、ともかく、成程香水とはこうやって楽しむものなのだ、とようやく知れた気がした。
一日の仕事を無事に終えて、いつものように帰宅する。
普段は二人で使っているマンションの一室は、此処三日ほど、クライヴの一人天下だ。
同居人のシドが出張に出ているので、一人で使うには聊か持て余す空間を、のんびりと使っている。
そんな天下も今日で終わりだ。
何時になると正確に聞いてはいなかったが、今夜、シドが帰ってくる。
夕飯をどうするかも確認してはいないが、取り合えず二人分の食事を用意し、余ってしまえば明日の晩に温めて出せば良いだろう。
その傍ら、夕飯は済ませてくるかも知れないが、ワインは飲みたがるかも知れないと、つまみになるものを用意しておく事にした。
これも残れば冷蔵庫に入って、明日の晩飯か晩酌か、いずれにしろそう言った調子で消えるに違いない。
気ままなもので、クライヴは夕飯をいつものダイニングテーブルではなく、リビングのソファ前のコーヒーテブルへと持ってきていた。
テレビを見ながら食事をすると言うのは、少々躾やマナーに厳しい環境にいたクライヴにはあまり馴染みがなかったが、シドと同居するようになってからするようになった。
楽にするのが良いだろう、と言っていたシドに、一緒に過ごすにつれ、段々と感化されてきたのだろう。
人目があればクライヴはなんとなく背筋を伸ばさなくてはと思うが、時折こうして、今くらいはと肩の力を抜けるようにもなっている。
若者が好んでいるのだろう、テンポの速いダンスミュージックを流すテレビを、眺めるともなしに過ごしながら、夕飯を終えた。
風呂の準備をしておく傍らに、空になった食器を洗っていると、玄関の鍵が外れる音が聞こえる。
濡れた手を軽く拭いて玄関を覗けば、思った通り、同居人の帰宅だ。
「お帰り、シド」
「ああ。大分遅くなっちまったな」
「飯は?」
「まだだ。何かあるか?」
「夕飯、あんたの分も作ってある」
「そりゃ有難い」
靴を脱ぎながら言ったシドは、普段の仕事着に比べると、随分と洒落の効いた服装だ。
今回の遠出が単なる出張ではなく、箇所箇所でシド曰く“お偉いさんのご機嫌伺い”があったのだとか。
服装にこれと言った決まりがあった訳ではないが、身に着けるもの一つ一つに洗練が必要だった。
無論、トータルコーディネートも大事な訳で、シドはネクタイピンやハンカチーフなど、細々した所まで気を付けて、数日分の服装を整えて行った。
しかし、それも家に帰れば必要のないこと。
リビングに入ると、早々に上着を脱いでネクタイを緩め、ふう、と一つ長い息を吐く。
その手が何を求めているのか、クライヴは直ぐに察して、この数日間、コーヒーテーブルの端でぽつんと待ち惚けにされていた、真新しい煙草とライターを差し出した。
「ほら、これだろう」
「気が利くね」
クライヴの手から煙草の箱を受け取って、シドは早速その封を切る。
それを横目に、さて夕飯を出さないと、と彼の後ろを横切ったクライヴだったが、
「……?」
ふと鼻腔を擽った、花の匂いに眉根を寄せる。
少しばかりつんと刺さるような匂いは、この部屋でまず嗅ぐことのないものだ。
シドはソファに座って、煙草の火をつけた。
出先で切らせたか、移動中は我慢していたのか、シドは肺一杯に煙を堪能してからそれを吐き出した。
少し疲れの見える眦が微かに緩んで、シャツをボタンを外す仕草と合わせ、ようやく息が吸えたと言っているよう。
そんな仕草の傍らで、クライヴは漂う花の香りが気になって仕方がない。
「シド」
「ん?」
「……何か匂うんだが」
眉間に皺を浮かべて言ったクライヴに、シドは腕を鼻に寄せ、
「臭いか?」
「いや、そう言う訳じゃないんだが。その……強めの花の匂いのようなものがする」
「────ああ。成程な」
クライヴの言葉に、シドはしばし考える仕草をしてから、気付いた。
「香水だ。俺のじゃないがな。今日会った社長が使ってたものだろう」
「移り香か……こんなに強い匂いがするものを使ってたのか?」
「そんなに強いか?向こうさんも程度は判ってる奴だと思うが。まあ、何度も使ってると、鼻も慣れて麻痺することはあるかもな」
言いながらシドは、自分の手首や掌を何度も嗅いで確認している。
「ああ、確かに匂うな」と小さく呟いたので、彼も感じない訳ではないようだが、クライヴほどはっきりとは嗅ぎ取れないらしい。
クライヴは引っかかる感覚を思いながらも、取り合えずは夕飯の支度だと切り替えた。
まだ鍋に残っていたスープを少し温め直して、味をしみこませて寝かせていた肉を焼く。
疲労感もあるのだろう、ソファから動く気のないシドの為、コーヒーテーブルの方へと皿を並べた。
ワインの摘まみもあると言うと、それは食事の後で、とのことだ。
シドは煙草を一本、吹かし終えてから、夕食を食べ始めた。
灰皿で名残を燻らしている煙草は、クライヴにもすっかり馴染みのある匂いを立ち昇らせている。
が、どうにもクライヴは、その匂いが混じりのあるものに感じられて、落ち着かない気分になっていた。
(……変な匂いだな)
この部屋で花の匂いがしているのも先ずないことで、其処にシドの煙草の匂いが混じると、なんとも妙だ。
花の匂いが嫌いな訳ではないし、それが多少癖のあるものだと感じても、それがクライヴの神経に障る事はない筈───少なくとも、今まではなかった筈だ。
香水の匂いなど、職場でも身に着けている人は少ないながらにいるし、街を歩いていても、香水でも街路樹でも、触れない訳ではないのだ。
それなのに、今、此処で香る花の匂いは、なんとなく気に入らない。
普段はしないからなのか、それとも────
と、思考の海に沈んでいるクライヴに、シドがフォークを片手に眉尻を下げて笑う。
「なんて顔してるんだ、お前」
「……?」
「眉間の皺が酷いぞ。鏡でも見て来い」
くつくつと笑って言ったシドに、クライヴは唇を尖らせる。
シドが言うほど、酷い顔をしているつもりはないが、反面、渋面になっている自覚はあった。
「変な匂いがするからだ」
「さっきも言ったが、そんなに匂うもんかね」
「あんたが気にしていないのが不思議なくらいだ」
「自分の匂いってのは分からないものだからな。とは言っても、よっぽど強ければ分かるつもりだが…」
シドはもう一度、手首を鼻に寄せてみる。
しばらく匂いを確かめてみるが、やはりクライヴが言うほどには感じないようで、首を傾げるばかり。
得心の行かない顔をするシドに、クライヴは変わらない渋面でぼそりと言った。
「歳で鼻も鈍ったんじゃないか」
「言ったな、若造。お前よりは鼻は鍛えてあるつもりだぞ」
「どうだか」
「やれやれ、やけに突っかかるな。久しぶりに帰ってきたってのに」
つんとした表情を見せるクライヴに、シドは眉尻を下げて肩を竦める。
ご機嫌斜めだな、と言ったシドに、確かにそうだとクライヴも思った。
どうしてだか、気分と言うか神経と言うか、ピリピリとした感覚が萎えなくて、香る匂いが文字通りに鼻につくのが気に入らない。
早く消えれば良いのに、飯の前に風呂にでも突っ込めば良かったか、とまで思う。
そんなやり取りをしている間にも、シドの夕飯は綺麗に平らげられ、クライヴはそれを片付ける為に席を立った。
シドはと言うと、普段ならば食後の一服と煙草に手が伸びるものであったが、
「風呂、入れるか?」
「ああ、用意はしてある」
「じゃあ先に浴びるか」
そう言って席を立つシドに、珍しい、とクライヴが思っていると、
「落とせる匂いはさっさと落としておこうと思ってな。鼻の良い誰かさんが、これ以上拗ねない内に」
「誰が拗ねてるって?」
「おっと、自覚があったらしいな」
くつくつと喉を鳴らしながら、シドはさっさとリビングダイニングを退散する。
揶揄われた、とクライヴは唇を尖らせた。
一人残ったクライヴは、カーテンの隙間から覗く窓を、ほんの少しだけ開けておく。
部屋の中に残っていた煙草の煙と匂いと一緒に、それと混じって漂っていた花の匂いも、外へと流れ逃げていった。
その夜、殊更匂いを確認したがるクライヴを、シドは気の澄むまで好きにさせていた。
いつもの匂いじゃないのと、何処かの他人がつけた匂いが気に入らなかったクライヴでした。
香水とかは嗜むもの、楽しむものなので、周りに迷惑がかからないくらいの匂いなら気にすることはない。
ジルがつけていたら似合うとか良い香りとか思うし、ジョシュアがつけていてもそうだと思う。
シドも場面によっては身につける事もあるだろうし、理解はしている。
しているが、家に帰ったら自分の縄張りみたいなもので、其処にいるシドは自分のものなので、意図されていないものだとしても、他人の気配が感じられるのが嫌だった訳ですね。独占欲です。