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Category: FF16

[16/シドクラ]包まれたいのはただ一つの



ふ、と嗅ぎ慣れない匂いを感じた。
職場で香ったそれは、幼馴染が身に着けていた香水で、珍しいこともあるものだと思った。

ジルは花の香りが昔からよく似合う。
彼女の家の庭には、よく手入れされた庭園があり、彼女もよく其処で過ごしていたから、季節ごとに咲く花の香りが彼女を包んでいた。
クライヴ自身は花に詳しいことはなかったが、彼女と一緒に花に水やりをした事もある。
その時、このお花はね、とその特徴や花言葉についてジルが話してくれるのを、弟と一緒に聞いていたものだった。

成人し、クライヴが実家を出てから、ブラック会社の激務もあって、段々と連絡も途切れがちになり、二人の間は必然的に疎遠になった。
しかし偶然とはあるもので、クライヴが拾われた会社に、追うようにしてジルもやって来ることになったのだ。
彼女は彼女で、中々大変な環境にあったらしく、再会した時には、綺麗な銀色の髪が煤けて見える程だった。
環境がすっかり変わった今、ジルはクライヴと共に、シドの会社の事務員として働いている。
労働環境と言うのは全く大事なもので、ひと月もする頃には、彼女は柔らかな笑顔を取り戻していた。

実家にいた頃と違い、花の世話をする暇もなかったジル。
当然、いつかの頃にまとわせていた花の香りも縁遠くなっていたのだが、同じ事務員であり会社の先輩にあたるタルヤから、気分転換にもなるから、と香水を貰ったそうだ。
女性に似合う、洒落た造りの香水瓶に、ジルは勿体なさもあって中々手が出なかったが、とは言え一度も使わずにしまい込むのもどうかと、試しに一吹きしてみたらしい。
その柔らかくて優しい香りが、今日一日、彼女を包み込んでいたのだ。

それに気付いて、「良い匂いだな」と言ったクライヴに、ジルは嬉しそうに微笑んだ。
強すぎず、主張することもなく、近くを通った時にふわりとさり気無く香る、控えめながら芯がしっかりとした性格のジルに似合う香りだ。
「クライヴがそう言ってくれるなら、またつけても良いかも」とはにかんだジルに、是非また、とクライヴは言った。

香水が齎してくれる効果と言うのは、色々とある。
古くは不快な匂いを消す、と言った目的であったものが発展し、今ではリラクゼーション効果や、おしゃれの一種として幅広く嗜まれている。
クライヴはと言うと、母が日常的に身に着けていた事から、それそのものは身近だったが、自身が利用したことはなかった。
好奇心の強かった幼い時分の弟と一緒に、父が稀に身に着ける香水を借りてつけて貰った事がある。
その時、弟のジョシュアは「良い匂いだね」と言い、クライヴもそれに頷きはしたが、正直に言うと、あまりはっきりとは判っていなかったりする。
馴染みのない匂いがする事はするが、それが快いかどうかは、あまり琴線に触れなかったのだ。
父が愛用していたものは、母のものと違って強い芳香がするものでもなかったから、余計にピンとは来なかったのかも知れない。

しかし、大人になって改めて、幼馴染が身に着けていたそれは、クライヴにもささやかな安らぎを与えてくれた。
それがジルが相手だったからなのか、香水の匂いがクライヴの鼻に合っていたのかは判らないが、ともかく、成程香水とはこうやって楽しむものなのだ、とようやく知れた気がした。

一日の仕事を無事に終えて、いつものように帰宅する。
普段は二人で使っているマンションの一室は、此処三日ほど、クライヴの一人天下だ。
同居人のシドが出張に出ているので、一人で使うには聊か持て余す空間を、のんびりと使っている。

そんな天下も今日で終わりだ。
何時になると正確に聞いてはいなかったが、今夜、シドが帰ってくる。
夕飯をどうするかも確認してはいないが、取り合えず二人分の食事を用意し、余ってしまえば明日の晩に温めて出せば良いだろう。
その傍ら、夕飯は済ませてくるかも知れないが、ワインは飲みたがるかも知れないと、つまみになるものを用意しておく事にした。
これも残れば冷蔵庫に入って、明日の晩飯か晩酌か、いずれにしろそう言った調子で消えるに違いない。

気ままなもので、クライヴは夕飯をいつものダイニングテーブルではなく、リビングのソファ前のコーヒーテブルへと持ってきていた。
テレビを見ながら食事をすると言うのは、少々躾やマナーに厳しい環境にいたクライヴにはあまり馴染みがなかったが、シドと同居するようになってからするようになった。
楽にするのが良いだろう、と言っていたシドに、一緒に過ごすにつれ、段々と感化されてきたのだろう。
人目があればクライヴはなんとなく背筋を伸ばさなくてはと思うが、時折こうして、今くらいはと肩の力を抜けるようにもなっている。

若者が好んでいるのだろう、テンポの速いダンスミュージックを流すテレビを、眺めるともなしに過ごしながら、夕飯を終えた。
風呂の準備をしておく傍らに、空になった食器を洗っていると、玄関の鍵が外れる音が聞こえる。
濡れた手を軽く拭いて玄関を覗けば、思った通り、同居人の帰宅だ。


「お帰り、シド」
「ああ。大分遅くなっちまったな」
「飯は?」
「まだだ。何かあるか?」
「夕飯、あんたの分も作ってある」
「そりゃ有難い」


靴を脱ぎながら言ったシドは、普段の仕事着に比べると、随分と洒落の効いた服装だ。
今回の遠出が単なる出張ではなく、箇所箇所でシド曰く“お偉いさんのご機嫌伺い”があったのだとか。
服装にこれと言った決まりがあった訳ではないが、身に着けるもの一つ一つに洗練が必要だった。
無論、トータルコーディネートも大事な訳で、シドはネクタイピンやハンカチーフなど、細々した所まで気を付けて、数日分の服装を整えて行った。

しかし、それも家に帰れば必要のないこと。
リビングに入ると、早々に上着を脱いでネクタイを緩め、ふう、と一つ長い息を吐く。
その手が何を求めているのか、クライヴは直ぐに察して、この数日間、コーヒーテーブルの端でぽつんと待ち惚けにされていた、真新しい煙草とライターを差し出した。


「ほら、これだろう」
「気が利くね」


クライヴの手から煙草の箱を受け取って、シドは早速その封を切る。
それを横目に、さて夕飯を出さないと、と彼の後ろを横切ったクライヴだったが、


「……?」


ふと鼻腔を擽った、花の匂いに眉根を寄せる。
少しばかりつんと刺さるような匂いは、この部屋でまず嗅ぐことのないものだ。

シドはソファに座って、煙草の火をつけた。
出先で切らせたか、移動中は我慢していたのか、シドは肺一杯に煙を堪能してからそれを吐き出した。
少し疲れの見える眦が微かに緩んで、シャツをボタンを外す仕草と合わせ、ようやく息が吸えたと言っているよう。

そんな仕草の傍らで、クライヴは漂う花の香りが気になって仕方がない。


「シド」
「ん?」
「……何か匂うんだが」


眉間に皺を浮かべて言ったクライヴに、シドは腕を鼻に寄せ、


「臭いか?」
「いや、そう言う訳じゃないんだが。その……強めの花の匂いのようなものがする」
「────ああ。成程な」


クライヴの言葉に、シドはしばし考える仕草をしてから、気付いた。


「香水だ。俺のじゃないがな。今日会った社長が使ってたものだろう」
「移り香か……こんなに強い匂いがするものを使ってたのか?」
「そんなに強いか?向こうさんも程度は判ってる奴だと思うが。まあ、何度も使ってると、鼻も慣れて麻痺することはあるかもな」


言いながらシドは、自分の手首や掌を何度も嗅いで確認している。
「ああ、確かに匂うな」と小さく呟いたので、彼も感じない訳ではないようだが、クライヴほどはっきりとは嗅ぎ取れないらしい。

クライヴは引っかかる感覚を思いながらも、取り合えずは夕飯の支度だと切り替えた。
まだ鍋に残っていたスープを少し温め直して、味をしみこませて寝かせていた肉を焼く。
疲労感もあるのだろう、ソファから動く気のないシドの為、コーヒーテーブルの方へと皿を並べた。
ワインの摘まみもあると言うと、それは食事の後で、とのことだ。

シドは煙草を一本、吹かし終えてから、夕食を食べ始めた。
灰皿で名残を燻らしている煙草は、クライヴにもすっかり馴染みのある匂いを立ち昇らせている。
が、どうにもクライヴは、その匂いが混じりのあるものに感じられて、落ち着かない気分になっていた。


(……変な匂いだな)


この部屋で花の匂いがしているのも先ずないことで、其処にシドの煙草の匂いが混じると、なんとも妙だ。
花の匂いが嫌いな訳ではないし、それが多少癖のあるものだと感じても、それがクライヴの神経に障る事はない筈───少なくとも、今まではなかった筈だ。
香水の匂いなど、職場でも身に着けている人は少ないながらにいるし、街を歩いていても、香水でも街路樹でも、触れない訳ではないのだ。

それなのに、今、此処で香る花の匂いは、なんとなく気に入らない。
普段はしないからなのか、それとも────

と、思考の海に沈んでいるクライヴに、シドがフォークを片手に眉尻を下げて笑う。


「なんて顔してるんだ、お前」
「……?」
「眉間の皺が酷いぞ。鏡でも見て来い」


くつくつと笑って言ったシドに、クライヴは唇を尖らせる。
シドが言うほど、酷い顔をしているつもりはないが、反面、渋面になっている自覚はあった。


「変な匂いがするからだ」
「さっきも言ったが、そんなに匂うもんかね」
「あんたが気にしていないのが不思議なくらいだ」
「自分の匂いってのは分からないものだからな。とは言っても、よっぽど強ければ分かるつもりだが…」


シドはもう一度、手首を鼻に寄せてみる。
しばらく匂いを確かめてみるが、やはりクライヴが言うほどには感じないようで、首を傾げるばかり。
得心の行かない顔をするシドに、クライヴは変わらない渋面でぼそりと言った。


「歳で鼻も鈍ったんじゃないか」
「言ったな、若造。お前よりは鼻は鍛えてあるつもりだぞ」
「どうだか」
「やれやれ、やけに突っかかるな。久しぶりに帰ってきたってのに」


つんとした表情を見せるクライヴに、シドは眉尻を下げて肩を竦める。

ご機嫌斜めだな、と言ったシドに、確かにそうだとクライヴも思った。
どうしてだか、気分と言うか神経と言うか、ピリピリとした感覚が萎えなくて、香る匂いが文字通りに鼻につくのが気に入らない。
早く消えれば良いのに、飯の前に風呂にでも突っ込めば良かったか、とまで思う。

そんなやり取りをしている間にも、シドの夕飯は綺麗に平らげられ、クライヴはそれを片付ける為に席を立った。
シドはと言うと、普段ならば食後の一服と煙草に手が伸びるものであったが、


「風呂、入れるか?」
「ああ、用意はしてある」
「じゃあ先に浴びるか」


そう言って席を立つシドに、珍しい、とクライヴが思っていると、


「落とせる匂いはさっさと落としておこうと思ってな。鼻の良い誰かさんが、これ以上拗ねない内に」
「誰が拗ねてるって?」
「おっと、自覚があったらしいな」


くつくつと喉を鳴らしながら、シドはさっさとリビングダイニングを退散する。
揶揄われた、とクライヴは唇を尖らせた。

一人残ったクライヴは、カーテンの隙間から覗く窓を、ほんの少しだけ開けておく。
部屋の中に残っていた煙草の煙と匂いと一緒に、それと混じって漂っていた花の匂いも、外へと流れ逃げていった。



その夜、殊更匂いを確認したがるクライヴを、シドは気の澄むまで好きにさせていた。






いつもの匂いじゃないのと、何処かの他人がつけた匂いが気に入らなかったクライヴでした。

香水とかは嗜むもの、楽しむものなので、周りに迷惑がかからないくらいの匂いなら気にすることはない。
ジルがつけていたら似合うとか良い香りとか思うし、ジョシュアがつけていてもそうだと思う。
シドも場面によっては身につける事もあるだろうし、理解はしている。
しているが、家に帰ったら自分の縄張りみたいなもので、其処にいるシドは自分のものなので、意図されていないものだとしても、他人の気配が感じられるのが嫌だった訳ですね。独占欲です。

[16/シドクラ]ホット・ショコラ・ショー



世の中が甘い匂いで溢れているような気がする。
それを実際に鼻孔で確認する程ではないのだが、なんとなく、雰囲気がそう感じさせるのだ。
街のあちこちに散りばめられた、チョコレートの祭典を公告するポスターや電子パネルは、昨今、老若男女の垣根を越えて効果を出している。
元々は製菓会社の陰謀だとも言うこの習慣は、今や海を越え、世界中に有名になった。
となれば、その腕を競い合う者たちも、この期がチャンスと一堂に会する事も増え、最早見逃せないシーズン行事として成長している。

お陰で今日のクライヴの鞄には、チョコレート菓子がいっぱいに詰め込まれることになった。
同じ職場で働くことになった幼馴染のジルを皮切りに、同僚たちがこれもどうぞと続々と詰め掛けた。
古くからの慣習に倣えば、それは女性から男性にと言う流れがあったが、近年ではそう言った枠もじわじわと失せつつあり、ガブやオットーからも労いの菓子を貰った。
クライヴの方はと言えば、忙しさに感けてすっかりそんな事は忘れていて、貰う一方になったことに申し訳なさを感じる。
となれば、ジルは「気にしないで」と気遣い、ガブは「来月のお返しが楽しみってもんだな!」と笑う。
有り難いもので、それなら一ヶ月後の今日には、きちんと礼を尽くさねばと思った。

名の知れたパティシエの店のものから、コンビニで売っている駄菓子まで、頂き物は種々様々。
行く先々で沢山のチョコレートが販売されていたことを思うと、これと決めるまでの選ぶ時間も、楽しんだ人々もいるだろう。
自分も偶にはそう言うものに参加しても良かったかも知れないな、と、帰り道の店先にあった、今日までのセールを報せる看板が仕舞われて行くのを見ながら思った。

家への最寄り駅から、いつものスーパーに立ち寄って、一通りのものを買い揃える。
と、会計レジの傍に、カートに乗せられた商品が、ふと目に着いた。
何気ない気持ちで手に取ったそれは、牛乳に溶かして飲む、ショコラドリンクだ。
普通の商品棚とは違う場所に置いてある其処には、今日と言う日を彩るポップが飾られ、成程これも確かにチョコレートの類だと納得する。


「……ふむ」


甘いものは特別好む訳ではないが、嫌いと言う事もない。
疲労を労う時、考え事で脳のエネルギーを入れたい時、何はなくとも欲しくなる時もある。
6袋入り一箱のそれを、クライヴは買い物籠の中へと入れた。

暦としては冬も終盤に近付いているようだが、空気はまだまだ冷たく、吐く息にも白が混じる。
悴む感覚を訴える両手をダウンジャケットのポケットに突っ込んで、クライヴの歩く足は早くなった。

帰宅すれば、自分よりも一足遅く会社を出た筈の同居人が、買い物をしている間にでも抜かれたか、先に帰っていた。
リビングダイニングの方から漂う匂いは、火を入れた特製ソースのもの。
なんでもさり気無く人に仕事を振る傍ら、当人も何につけても器用だから、キッチンに立った時には中々凝った料理が出て来る。
本人は「適当に放り込んでるだけだよ」と嘯くが、娘の為に栄養管理を怠らず、且つ新し物好きな父子が揃って飽きないようにと、手を変え品を変えて二十年近くも暮らして来た訳だから、この手のものは得意なのだ。
平時はクライヴの方が先に帰ることが多く、それで家事を引き受けているから、シドの手料理に与れるタイミングと言うのは、案外と限られている。
久しぶりにそれが楽しめそうだな、とクライヴは少々浮いた気分で靴を脱いだ。

リビングダイニングへの扉を開けると、食欲をそそる匂いが一層深く鼻孔を刺激する。


「ただいま」
「おう、お帰り」


じゅう、と言う焼き物の音と同時に、シドの声が聞こえた。
対面式のキッチンを見れば、思った通り、シドが今日の夕飯を作っている。
キッチンへと回り込んでみれば、既に幾つかの料理は完成しており、二人分の皿に盛り付けが成されていた。
今作っているのは、メインのポークカツレツの最後の一焼きだろう。

買い付けたものを必要な場所に収め、クライヴは私室に入って部屋着へと着替えると、シドが整えた料理皿を食卓へと運んだ。
シドも席へと着いて、いつも通りの夕食が始まる。
その最中に、シドがふっと思い出したように言った。


「お前、来月は大変だぞ」
「なんだ、藪から棒に」


話の切り出し方の唐突さに、クライヴが詳細を求めて返せば、シドはカツレツにフォークを刺しながら、


「バレンタインだよ。随分貰っただろう」
「ああ。ジルと、タルヤと、オルテンスと───ガブも。他にも沢山。俺も来年は用意していくべきかな」
「そりゃあ好きにすれば良い。だが、貰った分くらいは、来月はちゃんと答えてやれよ。あいつらもせがむ性質じゃないが、ま、円滑なコミュニケーションの一環って奴だ」


シドの言葉に、クライヴは「ああ、分かっているよ」と口元を緩める。

以前は、会社の中で、人同士のコミュニケーションなど、あってないようなものだった。
仕事に必要な連絡事項は行うものの、事務的なものばかりで、それも上からの無茶な打診の横行で、滞る事も多かった。
とても“円滑なコミュニケーション”だとか、“信頼関係の構築”などと言うものに、意識も時間も割けるものではなかったのだ。
長い間、そんな場所にいたものだから、そう言うものだとクライヴは諦めにも似た享受さえしていた。

あの頃に比べると、今はまるで別世界に来たような感覚で、ちょっとした時間の隙間に交わす、仲間達との何気ない会話が心地良い。
クライヴが受け取った沢山のチョコレートも、そう言う空気が成り立っているから出来る事だ。
くれた人の数、そのお返しの準備に必要な数を思うと、一人一人に品を選ぶのは聊か難しいが、せめて皆に配れるくらいのものは用意したい。
甘いものが好きな者、得意でない者、酒を好むメンバーと、さてどううするのが一番良いかと巡らせつつ、クライヴは夕食を平らげた。

夕飯を作ったのがシドなら、片付けるのはクライヴだ。
余程に疲れていると言う時でもなければ、家事はこうやって分担と交代で担う事にしている。
効率を上げる事で余暇を楽しむシドは、料理をしながらも手すきを見付けては調理器具の片付けも行うから、洗い物の数は食事に使った食器くらいのもの。
クライヴ自身も長い一人暮らしで───その内半分は、生活様式は聊か崩壊気味だったが───家事は慣れたものであるから、手早く洗い物は終わった。

さて、とクライヴはシンク下の収納からミルクパンを取り出し、冷蔵庫から牛乳を。
マグカップ一杯分の牛乳をパンに移して、弱火でじっくりと温める。
鍋の縁からふつふつと煮立った気配がした頃に、スーパーで買ったものを開けて、小分け袋が入ったその一つの封を切った。
ぱらぱらと零れ出すのは小さな粒のチョコレートだ。
温まったミルクの中で、チョコレートはとろとろと溶けて行き、クライヴはヘラを使ってそれをくるりと優しく混ぜた。

カカオとミルクが溶け合い、柔らかな茶色みに染まった液体を、スプーンで掬って一口舐めてみる。


(甘いな。でも、こんなものか?)


普段、あまり口にしないものであるから、良し悪しの基準はよく判らない。
とは言え、飲めないことはないだろうと、クライヴは出来上がったショコラドリンクをマグカップへと移した。

片付けをしている間に、シドはリビングのソファで寛いでいる。
テレビは流行の曲を生放送スタイルで送る音楽番組が流れているが、シドは興味があるのかないのか、その手元には本がある。
BGMに聞いてるだけなんだろうな、と思いつつ、クライヴはソファ前のコーヒーテーブルにマグカップを置いた。
ことん、と言う小さな音が鳴ると、シドが顔を上げる。


「ん?なんだ、こりゃあ」
「食後の一服かな」
「珍しいサービスじゃないか」


稀にシドが食後のコーヒーを嗜むことはあるが、クライヴはあまりそう言ったことをしない。
偶にあるとすれば、それは仕事を持ち帰っている時だが、近頃はその頻度も減っていた。

シドは、さて何の気紛れかねと思いつつ、先ずは有り難く貰おうと、マグカップに手を伸ばした。
口元までそれを持って行けば、鼻孔を擽るものが、想像と真逆の甘い香りである事に気付く。
クライヴは、シドの眉尻が微かに上がったのを確認したが、気にせずキッチンの残りの洗い物を片付けることにした。

シドは一口、マグカップの中身を飲んでみる。


「へえ。お前にしちゃ珍しいものを出してくれたな」
「まあ、そうだな」
「これがお前からの贈り物か?」


そう言ったシドの口元には、にんまりと楽し気な笑みが浮かんでいる。
今日が何の日だと言う事かは、彼も部下同僚から揃って沢山の贈り物をされたから、理解していた。
それでいてこの飲み物となれば、と言うシドに、クライヴは「さあ?」と肩を竦めて見せた。


「売っていたからさ。ついでに買ってみたんだ。偶には悪くはないだろ?」
「そうだな。悪くはないが────」


其処まで行って、シドは席を立つ。
おや、とクライヴが見守っていると、シドはリビングの棚の隅に置いていた、自分の鞄を開けていた。

シドが取り出したものを見せると、其処には、クライヴが購入したものと全く同じパッケージの箱がある。


「あ」
「煙草を買いに行ったら、売っててな。ついでに買ってみたんだよ」


今し方、自分が言ったものと同じ事をそっくりに言われて、クライヴは眉尻を下げて噴き出した。

シドはパッケージをダイニングのテーブルに置いて、どうするかねえ、と苦笑する。
一箱6本入りのこのショコラドリンクは、確かに手軽に作れるだろうが、シドとクライヴではそう進んで飲むことも少ないだろう。
今日は特別だから、シドもクライヴの入れてくれたものは喜んで頂くつもりだが、明日以降はどうしたものか。


「───まあ、保存期間もそこそこ長いものだし。糖分が欲しくなったら飲むよ。案外、どうにでもなるだろう」
「そんなもんだな。なんなら、幾つかミドにやれば良い。あいつは甘いものなら幾らでも飲むぞ」


言いながらシドはキッチンにやって来て、クライヴが片付けようとしていたミルクパンを取り上げる。
おい、とクライヴが言う間に、シドはそれをコンロに戻して、冷蔵庫からも牛乳を取り出した。


「折角だから、お前も飲め。開いてる方を使うけどな」


そう言って、調理台に置いたままにしていた箱から一袋、ショコラの素を取り出す。
牛乳をミルクパンに注ぎ、慣れた手つきで温め始めたシドに、クライヴも柔く唇を緩めて、完成を待つことにしたのだった。




大分遅れましたが、バレンタインのシドクラが書きたかった。
お互いにチョコレートを用意して、と言うほどの事はしないけど、今日に肖るちょっとした変化を。
と思ったら、同じような流れで同じようなことをしていた二人とか良いなあと思ったのでした。

[16/シドクラ]変わらぬ日々に特別を



いつからソリを引いてやって来る白髭の存在を信じなくなったのかと言われると、さて、と思う。
そもそも、初めから信じていたのかさえ、思い返してみると曖昧であった。
ただ、それを真っ向から否定するような言を使った事もなかった筈だ。
それは一重に、5歳年下の弟の存在があったからで、彼がそれを信じている間は、決して否定はすまいと思っていた。
素直な弟は随分と長い間それの存在を信じ、今年は来てくれるかな、と無邪気な表情で兄に聞いていた。
その度に、お前は良い子だから来てくれるよ、と答えるのが常だった。

もう随分と昔のことだ。
弟も今では大学院生で、流石にあの頃のように無邪気な年齢ではないし、街の軒先を飾るリースを見て、夢物語に思いを馳せることもない。
自分に至ってはそろそろ三十路になる歳で、世間の其処此処で華やぐムードがある今日も、相も変わらず仕事をしている。
今日と言う日でも止まる事のない公共交通機関であったり、人々の生活を明るく照らす電気であったり、そう言うものに従事している人間は案外と何処にでもいるものだった。
それでも赤白緑と、この時期特有のカラーに飾られ、七色に光るイルミネーションに飾られた街の浮かれ振りを見る度に、ああなんでこんな日にまで、と憂う声も聞こえて来る気がした。

クライヴはと言うと、いつも通りに定時に上がって、会社を出た。
幾つか前倒しに終わらせようとしていた案件はあったのだが、社長であり、同居人であるシドから、「クリスマスだぞ。帰って美味い飯でも作っといてくれ」と追い出されたのである。

帰り道にある行きつけのスーパーで、普段よりも少しばかり豪華な買い物をして、自宅に帰る。
夕飯の準備をしていると、携帯電話が鳴ったので確認してみると、メールが二通。
一通は弟から、「プレゼントをありがとう」と言う一文と共に、新品のマフラーの画像が添えられている。
今日と言う日の為に、クライヴが彼に当てて送ったクリスマスプレゼントだ。
それから、年末までに何処かでディナーでも行こう、と言う誘いがあって、都合の良い日を教えて欲しいとあった。
本来ならば今日、と言う予定があったのだが、お互いに上手く都合がつかなくて先延ばしになった。
クライヴは改めて日程を確認し、返信メールを送っておく。

それからもう一通は、動画付きのグリーティングメッセージで、再生ボタンを押してみると、同居人の娘───ミドがクラッカーを鳴らして「メリークリスマス!」と高らかに謳った。
動画に映るミドが着ているカーディガンが、シドが唸りながら選んで贈ったものだと気付いて、クライヴの唇が緩んだ。
ミドのメールは、きっと同じものが同居人の元にも届いているだろう。
今日と言う日を祝う言葉と共に、返信のメールを送信した。

夕食を作る手を再開させ、二品目、三品目と出来た所で、ちょっと量が多いか、と気付いた。
クライヴはそれなりに食べる方だが、シドはと言うと、摘まみになるものはそこそこ食べるが、重くなるものは得意ではない。
それをぼやいていた時、歳か、と言ったら、お前も直にそうなるぞ、と脅して来た。
いずれは辿る道かも知れないが、今の所はそう言う気配もないので、その時の遣り取りは、クライヴが肩を竦めて終わった。
と言った会話も思い出したのだが、


(まあ良いか。クリスマスだし)


パーティを開く程にはしゃぐことはないが、さりとていつも通りの夕飯と言うのも詰まらない。
これ見よがしな鶏の丸焼きを出す訳でなし、品数が多い位は構うまい。
偶には華やかに見える食事を用意するのも楽しいものだと、開き直ることにした。

折角だからワインでも開けようか、と考えていると、玄関から家主の帰宅の音が鳴る。
キッチンからひょいと顔を覗かせてみれば、寒さに赤らんだ顔がクライヴを見付け、


「おう、帰ったぞ」
「ああ」
「良い匂いがしてるな。美味そうだ」
「あんたが作れって言ったからな」


シドはマフラーを解きながらダイニングに入り、其処に並んだ料理を見て苦笑した。


「お前、張り切り過ぎじゃないか?」


バジルソースを添えたトマトとチーズのカプレーゼ、バゲット入りのオニオンスープ、スーパーで今日の為とばかりに売られていた厚みのあるローストビーフに、ミートソースのパスタ。
加えてデザートにと、ヨーグルトにブルーベリーソースとシリアルを添えて並べた。
普段は主食に沿えてサラダとスープ、あとはもう一品軽いもの、と言う具合だが、今日は随分と賑やかな食卓だ。

呆れ気味の表情を向けて来るシドに、クライヴは開き直って、


「良いだろう、クリスマスだし」
「だからってな。ミドがいるならともかく、食い切れんだろう」
「明日も食えば良いさ」
「やれやれ。作るのが楽しかったんだな。仕方ない、無駄にならんようにするか」


眉尻を下げて笑いながら言うシドに、是非そうしてくれ、とクライヴも言った。

折角だから開けよう、とシドがセラーから出して来たワインを開けて、のんびりとした夕食の時間。
特別なのは並ぶ料理が少しばかり豪華と言うくらいで、其処で交わす内容が何か特別になる訳でもない。
それでもなんとなく、満足感と言うのか、幸福感と言うのか、そう言うものをじんわりと感じる。
くすぐったさまで感じさせるそれを、目の前にいる男に悟られないように、クライヴはいつも通りに食事を進めた。

食べ切れないと言った割りには、シドはそこそこ食べてくれた。
パスタは一人分よりも少なめに、あとは食べたい分だけ摘まめるようにしたのと、ワインのお陰だ。
余った分はタッパーに移し、冷蔵庫に入れて、明日の夕飯にすれば綺麗になくなるだろう。

さて、とクライヴが食器を片付けようとキッチンに向かおうとした所で、


「クライヴ。片付けなら俺が引き受けるから、お前はあっちだ」
「あっち?」


呼び止めたシドの言葉に、クライヴはことんと首を傾げる。
あっち、と言ってシドが指差した先には、リビングソファに置いたシドの鞄がある。
それはクライヴにも見慣れたものであったが、その傍らに、小さな白い袋が置かれていた。

シドがさっさとキッチンに行ってしまったので、クライヴは首を傾げつつ、袋を手に取った。
赤いリボンで封をされた袋には、薄い金のインクで『merryXmas』と印字されている。
クライヴはしばらくそれを眺めていたが、


「シド。これ、開けて良いのか」
「ああ」


一応の確認に訊ねてみれば、思った通りの返事があった。

リボンを解いて中のものを取り出すと、シンプルな黒の長方形のジュエリーボックス。
手触りの良い箱に、そこそこ良いものなんじゃないか、とクライヴは眉根を寄せた。
蓋を開けてみれば、鈍銀色のチェーンに、赤紫色に光る石が連なっている。
アクセサリーとしては渋い色合いだが、派手にならずに落ち着いた品位を漂わせたそれは、ファッションとしてもそれなりに上級者向けのデザインをしていた。
当然、クライヴにとっては馴染もないものであったが、決して安い値段でないことは分かってしまう。


「シド」
「お前に合いそうなモンを探してみた。ま、気が向いた時にでもつけてみろよ」
「それは───その、ありがたい、が。急にこんなもの」


戸惑う表情を浮かべるクライヴに、シドはくっと笑う。


「おいおい、クリスマスだぞ。恋人ヽヽにプレゼントを渡すのに、これ以上の理由はないだろう」
「……!」


シドの言葉に、クライヴの存外と幼さの残る顔に朱色が差す。
あ、う、と返す言葉に詰まって口籠る青年に、シドはくつくつと笑いながら、手許の食器の泡を流していた。

クライヴは赤らんだ顔をどうにか宥めて(それでもまだ赤かったが)、ふう、と一つ息を吐く。
落ち着いて手元の宝玉を見て、また別の理由で眉根を寄せた。


「俺、あんたに何も用意していない」
「ああ、気にするな。そいつも、俺の気紛れみたいなもんだからな」
「……だが……」


宥めるシドであったが、クライヴの表情は晴れない。
そんなパートナーに、大方の予想はしていたが、やっぱり律儀な奴だなとシドは呟いて、


「良いさ。お前からの分は、あとで貰うつもりだからな」
「あと?……だから、俺は何も───」
「別に物を渡すだけがプレゼントってもんでもない。色々あるだろ、色々な」


念を入れるように重ねて繰り返すシドに、クライヴはぱちりと瞬きを一つ。
それからしばらくの沈黙の後、シドの“あと”と“色々”の意味を理解して、収まりかけていた頬の熱が一気に再燃した。

沸騰したように赤くなった顔で、じろりと睨んで「……スケベ親父」と憎まれ口を叩くクライヴに、シドは理解したのならお互い様だと返したのだった。


クリスマスと言うことで。

基本的に家族を大事にする二人なので、それぞれジョシュアやミドと何か約束とかしてそうだなーと思いつつ。
それはまたの機会に書ければなと、今回は二人で過ごすクリスマスを書きたかった。
あと顔真っ赤にしたクライヴに「スケベ親父」って言わせたかった。察してしまったのでお互い様。

[16/バルクラ]朝の戯れ



クライヴが緩やかに微睡みながら目を開けると、ブラインドの隙間から差し込む光が目元に当たった。
瞼の向こう側に透けていた光を直に見て、乾いた眼球が隠れろと訴える。
その命令はなんとも惰性の心地良さを誘うが、さりとて身を任せる訳にも行かなかった。

少年の頃はとかく模範的である事に努力していた所為か、今でもその癖は抜けない。
余程の疲れがあれば別だが、決まった時間に目を覚ますのは、体が記憶したバイオリズムであった。
しかし昨日は、その“余程の疲れ”があった日なので、時計を見れば午前八時を越えている。
ああやってしまったと思った所で、今日の予定は特段急ぐものもない訳で、それを思えば惰眠を貪っていても良かったのだろうが、目が覚めた以上は起きなければ。
腹も減っている訳だし、二度寝をしたとて、どうせ胃袋が鳴いて起きる羽目になるだろう。
栄養を摂ればもう少し目も覚める筈だと、ベッドから抜け出す決意をした。

────筈なのに、その行動を起こし始めてから約十分、クライヴは未だベッドの中にいる。

クライヴは、起き上がってはいるものの、半身はまだシーツの中に埋もれていた。
腰にまとわりついているものが、どうやっても重い。
あからさまにクライヴの起床を阻害しているそれは、振り払おうと思えば出来る筈だが、案外とそれに多大な労力を必要とすることを知っている。
その労力を使うには、まだ頭が目覚め切っていなかったから、まあ良いかとそれが自然と外れるのをのんびりと待ちながら、聊か遅い朝食メニューについて考えていた。

……のだが、既にメニューは決まり(そもそも然程選ぶ幅もない)、時間が経つに連れて、脳もしっかりと覚醒して来た。
流石にこれ以上の引き延ばしは、時間の無駄にしかならないだろう。
何より、まとわりつくものの持ち主は、恐らく、きっと、起きている。
振り払われないことを良いことに、存外と図太い神経で今の状態を続けていることを、クライヴは経験から学んでいた。


「……バルナバス」


寝床からの脱皮を引き留める者の名を呼ぶが、返事はない。
代わりに腰を捕まえる太い腕に、分かり易く力が籠ったのを感じた。


「そろそろ離せ。朝飯を作るから」
「……必要ない」


興味がない、と言わんばかりに、平坦な声が返って来た。
それと一緒に背中の腰のあたりに触れるのは、微かな吐息と、髭の感触。

やっぱり起きてるじゃないかと呆れつつ、クライヴは「そう言う訳にはいかない」と反論した。


「あんたはただでさえ飯を食わないんだ。朝食は一日のエネルギーだぞ」
「摂らなくとも問題はない」
「駄目だ。あんたにちゃんと人間らしい生活をさせるという条件で、あんたの秘書から目溢しされてるようなものなんだから」


言いながらクライヴは、腰を捕まえる腕に触れた。
離れろ、と案外と太い骨の感触のある手首を握ると、抗議のようにまた力が籠ったが、遠慮せずに抓ってやれば渋々に離れて行った。

やっと自由になった体をベッドから下ろし、クライヴは床に落ちている服を拾う。
体を包んでいた布地と、密着していた体温がなくなった所為で、朝の冷え込みに冴えた空気が、一段と冷たく感じられた。
それから身を守る為に手早く着換えを済ませ、ベッドに部屋の主を残して、寝室を後にした。

独り暮らしで使うには余る広さの2LDKは、質の良い家具こそ揃えられているが、あまり使われた形跡がない。
と言うのも、この部屋の主───今はベッドの主───が滅多に帰って来ないものだから、生活臭と言うのが碌に染み付かないのである。
その傍らハウスキーパーは定期的に出入りして行くので、埃も塵も見付からなくて、尚更人が過ごしている気配がなかった。
稀に帰ってきたとて、使うのはシャワーと寝室くらいのもので、生活の営みの中心とも言えるキッチンなんて、それこそ稀に飲むワインを楽しんだ後くらいしか使わない。
その話を聞いた時、朝飯はどうしているんだとクライヴが聞いたら、「食べない」と言う答えが帰って来て、呆れたものだった。
多忙であるが故に偏った生活スタイルになるのは止むを得ないとしても、せめてもう少し体を鑑みた食生活は考えるべきだ。
平時、雇用主の意向には余計な感情を挟まない有能な秘書が、眉尻を下げて閉口する訳だ、とクライヴは思った。

そんなバルナバスの仕事はと言うと、新進気鋭と名高い、大手企業の社長である。
一代で企業から頂点まで上り詰めたと名高い彼と、ただのしがないサラリーマンであるクライヴが、朝露を共にするような間柄になったのはどういう訳だか。
クライヴは未だに疑問が尽きないが、ごくごく簡素に言ってしまえば、“見初められた”と言うのか。
共通の知り合いを介して顔を合わせたのは仕事の時で、プロジェクトを進めている内に、多少なりと身内話をするような間柄になった。
それから閨まで共に過ごす事になったのは、クライヴにしてみれば酒に酔った弾みのことだったが、どうやら向こうはそうではなかったらしい。
無表情とばかり思っていた顔が、いやに真摯な目をして真っ直ぐに近付いて来るのを、素面で押し返す事が出来なかった。
流された、と思わないでもないが、存外とその腕に包まれていると居心地が良い。
まあ良いか───などと言い方をすると随分と不誠実な気がしたが、さりとて悪感情がないのも事実。
何故かすべてを知っていた秘書(多分、雇用主から直に説明でもあったのではないかと思う。そう言う男だ)からは、「貴方に悪意はないでしょうから」とあっさりとしたものだった。
秘書にとっては雇用主である男の意思が重要で、クライヴがどう思うか、倫理的、道徳的、常識的な話だとかは、どうでも良いことと言い切った位だ。
秘書の言葉については、此方の人間性を信頼して貰っているものとして受け取って、こうしてクライヴとバルナバスの関係は、カテゴリーとして『恋人同士』と言うものに納まったのであった。

とは言え、甘い甘い恋人生活と言うほど、二人の生活は密接してはいない。
社長として国内外問わずに顔を使うバルナバスは勿論のこと、クライヴもサラリーマンとして、相応に忙しい日々を送っている。
こうして閨を共に過ごすのは、週に一度もあれば十分で、後は偶に夜にかかってくる電話くらいのもの。
それもバルナバスが海外にいれば、時差を慮ってかないことも多く、傍目に見れば二人の関係は酷く淡白にも見えただろう。
実際、こんなものか、とクライヴも付き合い始めの初期は思ったものだった。

────だから、と言うと聊か話が飛ぶ気もするが、そんな反動のように、週に一度の逢瀬の夜は濃いものになる。
今日のクライヴが平時に比べて遅くに目が覚めたのも、そのお陰であった。

週に一度とは言え、クライヴが泊まり、その翌日には朝食を作るので、キッチンも少しばかり生活感が出て来た。
まるでモデルルームのように水気もなく綺麗だったシンクには、三角コーナーが置かれ、壁には調理器具がかけられ、引き出しを開ければピーラーやら菜箸やら。
大きいばかりで中身がないも同然だった冷蔵庫は、昨日の夜に買って帰った食材が入っている。
野菜はカットされたもの、ドレッシングや調味料は使い切りのポーションタイプ、卵は三つ入りのパック。
牛乳は500mlでも朝食だけでは余ってしまうものだから、200mlをふたつ買うようになった。
水垢もないキッチンを使うことに、初めこそ良いのだろうかと躊躇ったクライヴであったが、流石にもう慣れた。
綺麗に使うことは心掛けつつも、勝手知ったる台所と、コンロも電子レンジも使い分け、てきぱきと朝食を整えて行った。

ダイニングテーブルに二人分の朝食が揃った所で、クライヴの視線は寝室のドアへと向かう。


(さて……まだ出て来そうにないな)


仕様がない、と存外と手のかかる社長様の為、クライヴは寝室へ戻った。

案の定、バルナバスはまだベッドの中にいる。
外では完璧を体現したような男が、プライベートがそれなりに寝汚いことを知る者は少ない。
色々知ったら幻滅するかも知れんぞ、とクライヴに言ったのは、バルナバスとも付き合いが長い上司だ。
その言葉の通り、まさかこんな人間だったとは、と思った事は幾つもあるのだが、不思議と愛想は尽きていない。


「バルナバス、起きてるだろう」
「……」
「朝飯が出来たから、ちゃんと食べろ」


ベッドに近付きながら声をかけてみるが、返事はない。
低血圧が酷いことは知っているから、朝のエンジンがかからないのはいつもの事だ。

ベッドの端に片手をついて、クライヴはシーツの波に埋もれている男の顔を覗いてみる。
眉間に癖のように強い皺が寄っているのを見て、起きているな、と確信した。


「バルナバス」
「……」
「あんたに起きて貰わないと、俺がスレイプニルに怒られるんだが?」
「……好きに言わせておけ」
「あんたはそれで良いだろうけど」


バルナバスにとっては、秘書から偶に貰う小言程度なのだろうが、クライヴにとってはそうではない。
別段、彼とクライヴの仲が悪い訳ではないのだが、秘書はあくまで社長の味方である。
クライヴの所為でバルナバスが堕落しようものなら、勿論それはクライヴの所為であり、排除すべきと断ずるだろう。
流石にそれで恋人との仲を引き裂かれるのは悲しいもので、クライヴはそれなりに、周囲とは穏健な関係を育んでおきべきであると思っている。

その為にも、取り敢えず、バルナバスには起きて食事をして貰わなければならない。
「恋人の手作りなら、あの人も少しは食べますかね」等と真剣な顔で言っていた秘書にとって、これは割と真面目な問題であるらしい。
週に一度程度のことでも、重ねて行けば、バルナバスの食事への意識が改善されるのでは、と。
それに応じてと言う訳ではないが、ともあれ案外と年嵩であるバルナバスの健康管理は大事なことだから、クライヴもこうして食事を用意している訳だ。

しかし、当人に全く起きる気がないのではどうしようもない。
かと言って、折角作った朝食を無駄にしたくはないもので、さてどうやって食わせようかと考えていると、ぬっと太い腕が伸びて来た。
無造作に胸倉を掴んだそれにぐいっと引っ張られて、上体を落としたと思ったら、唇が塞がれる。
ぬるりとしたものが咥内に入って来て、ぞくりと首の後ろに官能の兆しが奔った。


「っ……こら、おい」
「来い」
「んむ……っ!」


唇が離れた一瞬、抗議するクライヴだが、今度は頭を掴まれた。
捕えた獲物を逃がすまいと籠る力に、クライヴは眉根を寄せながらも、舌をなぞられる感触に、くぐもった吐息が漏れる。


「む……ん、ん……っ」


昨日も散々したのに、と地味に痛みを訴える腰があることを、この男は知っているだろうか。
知った所で、きっと大して気にはしないのだろうと思いながら、ベッドの中へと連れ戻される。

ああくそ、とクライヴは心中に吐きながら、すぐ其処にある顔を両の手で包み込み、口付けをより深くする。
此方から舌を絡めてやれば、満足そうに厚みのある手がクライヴの頬を滑った。
ちゅくちゅくと耳の奥で鳴る音に、昨夜もずっと感じていた熱の重みが腹の中で目覚めるのを感じる。

────が、そこまでだ。


「っは……、は……」


クライヴは強い理性でもって、繋いでいた唇を離した。
舌と舌の間を唾液が糸になって引き、ぷつりと切れる。


「……続きは後だ、バルナバス」


とにかくノルマは済ませろと、睨むように至近距離で言って、クライヴは頭を抱える手を解かせた。
その手は今一度獲物を捕まえようと伸ばされるが、すいと避けてベッドを逃れる。

速足に寝室を出たクライヴを見送って、バルナバスはようやく起き上がったのだった。



バルクラを書いてみた。
クライヴにしてみればバルナバスに振り回されている気分だけど、バルナバスの方もクライヴに結構翻弄されている感じ。
大体自分の好きにさせてるクライヴが、急に反撃してきてびっくりする(顔は無表情)バルナバスはありなんじゃないかと思いました。

後でちゃんと抱き潰されると思います。

[16/シドクラ]熱に隠したこころの



情に厚いと言うよりかは、情に深いと言う人間なのだと思う。
そうでなければ、道端で斃れている見ず知らずの男を拾い、甲斐甲斐しく面倒を看ることもあるまい。
言えば当人からは「厄介と天秤にかけただけさ」と言うが、それでも大抵の人間は、自らが落ち者を拾って帰りはしないだろう。
精々、警察に電話をするだとか、アパートの大家や管理会社に連絡するとか、その程度だ。
わざわざ自分から面倒を背負い込むようなことをして、それについては“厄介”には入らない辺り、世話好きと言うか、人好きと言うか。

彼に拾われ、半ば強引に会社を其処へ転職させられると、いよいよその世話焼きは本領を発揮した。
元より、彼の会社で働く人々が、そう言った面倒見から端を発する、拾われ者の集まりである事を知る。
古株の面々は、彼が独立する以前からの付き合いだと言うが、そんな人々から見ても、彼は本当に“なんでも”拾って来たのだとか。
故にこそ彼は腕も頭もその人格も信頼され、社員からは須く尊敬を向けられている。

そんな彼が一等に愛を注ぐのは、血の繋がらない一人娘であった。
どう言った経緯かクライヴは聞いた事がない───可惜に踏み込んで良いとも思えないので───のだが、この親子は血の繋がり以上に強い絆で結ばれている。
存外とスキンシップが好きなのは父子揃ってのことで、今は離れて暮らしている所為か、偶に遭うとハグやキスは見慣れた光景だ。
娘は大学生で、異性親には色々と感ずるものも多い年頃だと人は言うが、お互いに気質が似ているのと、よくよく見ると父親の方がきちんと節度を取っているからか、二人は本当に仲が良い。
それはクライヴにとって少々羨ましくもある程で、どちらも真っ直ぐに愛情を向けあう姿は、見ていて微笑ましくなるものだった。

シドのそうした一面は、一年近くを同じ空間で過ごしたクライヴにも、よく分かっていることだ。
私生活が崩壊を通り越して黒塗りされていた自分を、見ていられないからと言うような理由で、現状の生活に至るまで面倒を看た。
時折、呆れた顔をしながらも、決してクライヴの考え方や感じ方を否定せず、広い懐で受け止めてくれた彼の情の深さは、パートナーと言う関係になると尚更、よく見える。
閨に感じる耳心地の良い声であったり、ゆったりと触れる手のひらだったり、眦や口端に浮かぶ皺の数であったり。
ひとつひとつはごく些細なものだが、それでも意識の中に積み重ねられて行けば、そう言ったものにこそ彼の言動の意味が汲み取れるようになる。
そう言った、あからさまにならない中で、少しずつ滲む愛情が、クライヴを安心させていた。

────のだが。

今日は馴染の面子と飲む約束がある、と聞いていた。
当人のシドと、会社の最古参メンバーであるオットーと、今は競争相手にもなった元同僚(今は同じ社長業らしく、シドは元はと言えばそこから独立したそうな)と、久しぶりの会食だったとか。
シドにしろオットーにしろ、そして其処に加わる人間にしろ、毎日を多忙にしているから、こうやってそれぞれの都合がついたのは、随分と久しぶりのことらしい。
人とコミュニケーションをするのが好きな男が、案外とそれを楽しみにしているのが見て取れた。

だから多分、良い酒を飲んだのだろうと思う。
其処で交わされる会話や委細を、クライヴが知る由はないが、少なくとも帰って来た彼の機嫌は良かった。
千鳥足と言うことはなかったが、顔が細やかながら紅い所や、笑った顔が常より二割増しに柔く見えた。
肩の力が抜けている、と言うのも見て分かったから、楽しかったのだろうな、とクライヴは思った。


(────だからって、どうしてこうなってる?)


玄関とリビングを繋ぐ廊下の真ん中で、寄り掛かるようにして抱き締める男の腕の中で、クライヴは呆けた顔で疑問を呈す。
呈すが、口にも出ないそれに答えを寄越してくれる者はなく、その疑問の出所はと言うと、さっきからずっと、クライヴを抱き締めてあやすように頭を撫でたり、背中を叩いたりしている。

シドが帰って来たのはつい先程のことで、時刻は日付が変わる前。
タクシーで帰って来たのであろう彼をクライヴが出迎えたのは、偶々風呂を上がった所だったからだ。
玄関で丁度靴を脱いでいる所を迎えて、「お帰り」と声をかければ、「おう、ただいま」といつもの挨拶があった。
それから、風呂を奨めるか、でも飲んでるなら危ないかな、と思った数秒の間に、抱き込まれてしまった。
前触れもなかったその出来事に、クライヴは混乱も混じって立ち尽くすしかない。

そんな状態になってから、一分は経っただろうか。
クライヴの頭はようやくの再起動がかかり、寄り掛かってくる男が存外と酒臭いことを感じ取る。


「おい、酔っ払い」
「なんだ?」
「……大分気分が良いみたいだな」
「そうだな。ま、そこそこ良い酒にありつけたから」
「それは良かったな。所で、重いんだが」
「いつもお前を受け止めてやってるんだ。偶にはお前が受け止めろよ」


軽口めいた口調で言いながら、シドは更に寄り掛かって来る。
上体にわざと体重を乗せて来る男に、何がしたいんだ、とクライヴは眉根をハの字に寄せていた。

そんなクライヴの頭を撫でていた手が、するりと滑って耳朶を擽る。
いつもイヤーカフをしている耳は、風呂上がりなので今は肌が晒されていた。
其処の感触で遊ぶように、器用な指先が耳朶を掠めるのが妙にむず痒くて、クライヴは頭を振ってそれから逃げる。
と、今度はその手はクライヴの頬に触れて、こっちを向け、と言うように正面へと向き直された。


「クライヴ」
「何────」


呼ぶ声に返事をしようとして、その唇を塞がれる。
突然のことに青の瞳が見開かれるのも構わず、ぬるりとしたものが咥内に滑り込んで来た。
予想もしていなかったことに驚いて強張るクライヴを、背中を抱いていた腕が宥めるようにぽんぽんと叩く。

口付けは徐々に深くなり、侵入した舌が、クライヴのそれを絡め取る。
ゆっくりと舌の表面をなぞられ、じわりと滲みだした唾液が混じり合って、クライヴの耳の奥で水音が鳴る。
ぬるついたものが咥内を丁寧に嘗め回すのを、クライヴは戸惑いつつも、当たり前に受け止めていた。


「ん、ふ……ふ、ぅん……」


もう寝るつもりだったのに、だから風呂も済ませたのに、首の後ろにぞくぞくとした感覚が走る。
覚えのある感触に、それを丁寧に教え込まれた躰は勝手に熱を思い出し、目の前の男の全てを欲しがってしまう。

ゆっくりと唇が離れて、はあ、と熱を孕んだ吐息が漏れた。
とろんと蕩けた青の瞳を、ヘイゼル色の瞳がじっと見つめ、何処か嬉しそうに細められる。
クライヴの足元が緩く脱力して、僅かに蹈鞴を踏めば、シドはクライヴを傍にある壁へと寄り掛からせた。
自分の体と壁とで挟んで、腕の檻で閉じ込めてしまえば、クライヴはもうされるがままだ。

口端に、頬に、首筋に。
一つずつ確かめるようにキスが降りて来るのを、クライヴは受け止めながら、


「あんた、キス魔だったのか」


いつになく増えるキスの数に、クライヴはそんな事を思った。
呟きに零れたそれは、直ぐ其処にあるシドの耳にちゃんと聞こえたようで、


「まさか。誰にでもする程軽かない」
「どうだか。あんたはたらしだから」
「そりゃお前だろう」


言いながらシドは、クライヴの衿の隙間に覗く鎖骨に唇を寄せる。
風呂を終えたばかりだから、肌は火照りを残して、少しばかり汗ばんでいた。

ちゅう、と吸われる感覚に、ひくっ、とクライヴの肩が震える。


「ん……する、のか……」
「そうだな。お前が嫌じゃなけりゃ」
「……別に、それは……もう寝るだけだったし。明日も休み、だし……」
「じゃあ遠慮しなくて良さそうだな」
「いつも遠慮なんかしてないだろう」
「伝わってないってのは悲しいもんだ」


何やら含みのありそうなシドの台詞に、クライヴは首を傾げたが、目の前の顔は笑みを浮かべているばかりだ。

クライヴは簡素な夜着だったから、脱ぐのも脱がされるのも簡単だった。
シドはと言うと、それなりに洒落た格好をしている上、首元のストールこそ解けているものの、他はきっちりと着込んでいる。
その上、場所が場所───すぐ其処に玄関もある廊下でなんて、とクライヴは思ったが、気分の良い酔っ払いは止まってくれそうにない。
時折羞恥心から抵抗の欠片でも示すと、宥めるように、すぐ其処にある皮膚にキスをされた。
胸でも、腹でも、臍でも、太腿でも、何処でも愛おしいと言わんばかりに触れて来るから、どうにもくすぐったくて堪らない。

後でもう一回風呂に入らないといけない、と思いながら、クライヴは緩やかに立ち上る熱に身を任せた。



実はクライヴのことが滅茶苦茶大事だし愛してるから、これでもかと甘やかしてやりたいけど、クライヴの方がそう言うのに慣れてないから普段は自制しているシド(言わないと分からない前提)。
気持ち良く飲んで良い機嫌で帰ったら、恋人が出迎えてくれたので(偶々だけど)、あーなんか可愛いなこいつとか思ったらしい。
クライヴはシドが愛情深い人だとは思っているけど、それは一番は家族であるミドにだけ向いていて、自分もそんなに愛されていると自覚がないと楽しいなって。

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