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Category: FF16

[16/シドクラ]巡りに乗せて



どうだ、と言ってシドが見せて来たのは、彼お気に入りの銘柄のワインだった。

気軽に飲むならビールだが、一人嗜むのならワインが良い、と彼は言う。
確かに、飲み屋で皆と一緒に賑やかに過ごす時はビールを注文しているが、部屋で考え事をしている時だったり、寝酒に一杯飲むのならば、持ち込んでいるワインを愛飲していた。
だからシドがワインを人に勧める時と言うのは案外と限られている、らしい。
“らしい”と言うのは、存外とクライヴがシドにワインを勧められる機会があるからで、そんなに珍しいことなのか、と言う感覚があるからだ。
ガブにしてみれば、「シドがワインを勧めるなんて、そいつのことが気に入ったって言ってるようなものなんだぜ」だとか。

とは言え、シドの中でも色々とランク付けはあるのだろう。
ワインセラーに収められている酒の中でも、自分用、来客用、特に重要な賓客用と、その時々で彼が出してくるものは適宜変わる。
クライヴの場合は、同居していると言う関係故か、少しばかり特殊で、シドの自分用のワインを時々貰うことがあった。
後は、何某か景品だとか、貰い物だとか、余り名を聞いたことのないワインを手に入れた時の試飲感覚で、シドと一緒に瓶を開ける作業に加わらせて貰う。

クライヴ自身はと言うと、それ程酒に拘りはない。
そもそもが飲食の類にあまり執着がなかったので、シドと同居するまでは、ワインなんて赤ワインと白ワインがあることくらいしか覚えていなかった。
遠い昔、家族が寝静まったダイニングで、父がワインを飲んでいたこともあったが、クライヴにとってワインに関する思い出と言えばそれだけだ。
その頃、分かり易く優等生らしい生活をしていたクライヴであるから、父のワインを飲みたいなどと強請ったこともない。
成人してからは、折々に飲み会に出席する事も増えて、それなりに酒の味を覚えはしたが、それだけのことだ。
今でこそクライヴは幾つかの酒の銘柄を覚えているが、その切っ掛けを与えたのは、専ら周囲の言があっての話で、彼の中での酒の区分は、大雑把に“美味いか否か”と言った具合だった。

それでも、シドが勧めてくれるなら、それは良い酒だと言う事は知っている。
そして、拘りがないとは言っても、美味い酒と言うのはやはり味わえれば嬉しいものであった。

どうだ、と誘ってきたシドの手には、既にワイングラスがふたつある。
断ることを考えていないと言うか、断らせる気がないと言うか。
そんな同居人兼職場の上司に片眉を寄せて笑いつつ、クライヴは「良いな」と言った。


「初めて見るラベルだ。何処のワインなんだ?」
「まあそこそこの有名処だよ」
「あんたがそう言うと怖いんだよな」


クライヴがワインに詳しくないこともあってか、シドは余りそれの詳細を語らない。
しかし、安価なものならそう言うし、貰い物で一切の詳細が知れないのならそれも言う。
だが、値段が上がって来ると、今度は言わなくなる傾向があった。
宅飲みに付き合わせるクライヴが遠慮するのを嫌ってか、構えて飲むのが好きではないのか、そんな所だろうか。
だから、すっかり飲み明かした後で、クライヴが気まぐれにラベルの記載を頼りに調べてみると、結構な金額のものだと発覚することも儘あった。
本当は上客に出す為のものだったんじゃないか、とクライヴが言うと、シドは「良いんだよ」とからからと笑うばかりだ。

結局の所はシドが購入、或いは誰かから貰ったとかの代物であるから、それをいつ開けようと、それはシドの自由だ。
相手も勿論シドが選んでの事だから、クライヴが畏まった所で、大した意味もないのだろう。
ただ、高いものと言うのはやはり、それなりに分かった上できちんと楽しみたい、とクライヴは思う事もあった。

テーブルに置かれたグラスに、とくとくと注がれる白ワイン。
甘い香りがほんのりと漂うのを感じ取りながら、クライヴはパントリーを覗く。


「摘まみでも。何かあったか」
「冷蔵庫の中に用意してある。出してくれ」


シドの指示を受けて、クライヴは冷蔵庫を開けた。
棚の一番下に、スライスされたチーズとパストラミが並べられた皿を見付ける。
夕飯の時にでも作っておいたのか、準備の良いことだ。

摘まみの乗った皿をテーブルに持って行くと、シドはもう席に着いていた。
向かい合う席にクライヴが座り、それぞれグラスを手に取って、軽く当て合う。


「今日もお疲れ様」
「ああ。お前さんもな」


乾杯の代わりの労いは、今日も今日とて忙しかったことへ。
特段、何か事件があった訳ではないが、シドは社長業であちこちに顔出ししていたし、クライヴも営業として足を棒にしていた。
それを無事に終えての一杯と言うのは、やはり、身に染みるものがある。

まずは一口、とシドもクライヴも軽くグラスに口をつける。
淡色の液体はするりと優しい口当たりで、すっきりとした味わいの中に、ほんのりと甘味が感じられた。
美味いな、とクライヴが呟くと、シドの口角が分かり易く上がる。
飲み易さにつられて早々にグラスを空ければ、シドが直ぐに二杯目を注いでくれた。


「随分、機嫌が良いじゃないか」
「そうだな」


クライヴの言葉に、シドはグラスを傾けながら小さく笑う。
普段から気前良く振る舞うことはあるが、こう積極的に酒を勧めてくれるのは珍しい。
大抵は、お互いに自由なペースで飲んでいるから、合判している席であっても、それぞれ手酌で楽しんでいる事が多かった。

二杯目をそれ程間を置かずに飲み開けると、またシドがワインを手に取って、クライヴに差し出して見せる。
どうだ、と言う無言の問いかけに、クライヴはグラスを差し出して答えた。
やはり今日は特別に気前が良い。

クライヴは三杯目のワインに口をつけながら、冗談気分で言った。


「あんた、俺を酔わせたいのか?」


酒を注ぐペースは、クライヴのそれをみだりに乱すつもりはないようだが、シドの目は逐次、クライヴの手元のグラスに向けられている。
飲め飲めと無茶な絡みをする訳ではないが、クライヴのグラスを空かさないように意識しているのが伺えた。
気配りの細やかさはシドの染み付いた癖のようなものだが、それは職場であるとか、仕事付き合いの会食の席ならばともかくとして、自宅で同居人相手にまで発揮する必要のないものだ。
それが今日は随分とまめまめしく自分の世話を焼いてくれる上、美味い酒まで飲ませてくれるものだから、なんだかつられるようにして、クライヴも少しばかり気分が浮ついて来る。

そんな気持ちから言ったクライヴの言葉に、シドは「さてね」とまた口角を上げる。


「お前が本当に酔ってくれるんなら、それもありだろうけどな」


蟒蛇(うわばみ) だからなあ、とシドは付け足して言った。
クライヴはチーズを齧りながら、


「俺だって全く酔わない訳じゃない」
「そうかね。何処でどれだけ飲んでも、ケロッとしてるだろう。ガブみたいにフラフラになった事あるか?」
「どうだったかな。昔はあったかも知れない。覚えていないけど」
「忘れたって訳でもなさそうだがな」


シドの言葉に、クライヴは肩を竦めて返しつつ、


「確かに、余り酔ったことはないけど。この酒は美味いから、若しかしたら酔うかも知れない」
「上等な酒なら酔えるって?贅沢者め」
「やっぱり高いんだな?」
「さあな」


皮肉るように揶揄うシドの言葉に、クライヴがずっと気になっている点を突いてやれば、また躱される。

シドの表情は柔らかく、酒が入っていることもあるだろうが、分かり易く上機嫌であった。
相応の年輪が刻まれた顔が、ほんのりと赤みを浮かせて、グラスを持つ手もゆらゆらと液体を揺らして楽しそうにしている。
彼もそれなりにアルコールには強い筈だが、ひょっとしたら酔い始めているのかも知れない。
シドが酔うと言う事は、そこそこ度数が高いのかも知れないが、相変わらず、クライヴの意識はくっきりさっぱりとしたものであった。
だが、意識の酩酊はなくとも、クライヴも常よりも自分の機嫌が良くなっている自覚はあった。

シドのグラスが空いたので、クライヴは腕を伸ばして、ワインを手に取る。
察したシドがグラスを差し出し、とくとくと二杯目の酒精が注がれた。


「シド。この酒、今日で全部飲むつもりか?」
「なんだ、惜しいか?」
「まあ、少し。気軽に手に入るものでもなさそうだし」
「お前が気に入ったのなら、また手に入れるさ。そうだな、一年後くらいに」
「そんなに手の入り難いのか」
「伝手はあるから、どうにかなる。だが、そうしょっちゅう飲めるんじゃ、有難みも減るだろう」
「随分勿体ぶるじゃないか。でも、確かにそうだな。偶に飲むから沁みるものか」


美味い酒への名残はありつつも、その美味さのスパイスには、確かに希少性も関係するか。
そして、飲める時には、美味い内にそれをたっぷりと堪能するのが良いのだろう。

これを再び楽しめるのは、一年後。
そんなつもりでグラスを傾けると、喉に通って行くとろりとした液体が、酷く恋しいものに感じられる。
ボトルの中身はもう半分まで減っていて、今晩中に空になってしまうのは間違いなく、それは酷く惜しいのだが、また次回があると思えば喉が閊えることもなかった。

機嫌良くグラスを明かしてい恋人を、シドは終始、口元を緩めた顔で眺めている。
これなら、少々手間をかけてでも、用意した甲斐があると言うものだ。
そして今から一年後、今日と言う日がまた迎えられるようにと、今から算段を巡らせるのであった。




大分遅刻ですが、FF16発売から一周年を迎えられたと言う事で、シドクラでお祝いに飲んで貰いました。
この後は二人とも良い感じに気分良くなって、しっぽりしてたら良いと思います。

[16/シドクラ]宥めるてのひら、その温度を



一人暮らしが長かった上に、ブラック企業で歯車と化していた訳だから、多少の無理を押すのが癖になっていた事は、仕方がないとしよう。
良くも悪くも、自分よりも他者を優先する、良く言えばお人好しな性格も手伝って、益々そうした行動が増えていた事も。
とは言え、明らかに体調不良で顔色も蒼いと言うのに、「平気だ」と繰り返すのには呆れた。

同居を始める以前から、そう言った部分は零れ見えていた。
毎日、未明から夜半と言える時間まで、会社で働き詰めであったようだし、寝に帰るだけの家でも、本当に寝ていたのかも怪しい。
目元に酷い隈を作って、とても健康とは言えない顔をしながら、ふらふらと仕事に出ては帰ってくる様子を、いつしか観察するようになった。
その末に、こいつは放っておいたら文字通り駄目になる、と我慢の限界になって、半ば強引に彼を前の職場から引き剥がし、同居まで至ったのである。

そうして一緒に暮らし始めると、益々彼────クライヴの歪な生活が見えるようになった。
此処までの環境の所為で、厭世的な思考になるのは仕方がないが、その癖、他者を見捨てられない人の好さがある。
両手を埋め尽くす仕事が常にないと不安になる、と言い出す位だったから、とにかくシドは、まずはその感覚からこの青年を脱出させなければならないと思った。
先ず限界いっぱいまで仕事は持つものではないこと、誰かを頼るのは決して迷惑ではないこと、睡眠は8時間きっちり摂ること────等々。
良い年をした、一人暮らしも長い男にあれこれと口を出すのはどうかと思わないでもなかったが、引き取った以上は真っ当な人間に戻してやらねばなるまいと、シドは性分もあって根気良く付き合った。
その甲斐あって、同居して一年が経つ頃には、クライヴも大分“普通の暮らし”と言うものが出来るようになっていた。

だが、十年近くも歪な環境にいた訳だから、それにより蓄積された膿は簡単には排出できないのだ。

二日前から少し食欲が落ちている様子はあった。
シドがそれを見逃す訳もなく、大丈夫か、と問えば、「大丈夫だ」と言う返事があった。
その時は確かに顔色もそれ程悪くはなかったし、端に腹が減っていないだけと言われれば其処までのものだったから、シドも注視はすれどもそれ以上のことはしていない。
それから昨日、やはり食欲は普段の半分程で、試しに夕飯をわざと少ない量で皿に盛ると、それを食べきるのもやっとと言う状態。
ついでに、自分が食べている食事が、常より少なかったことについて、彼が気付いているかは微妙な所だ。
皿の上は綺麗に片付いたが、彼の食欲や、恐らくは胃腸の方も不調であることは明らかで、しかし本人はそれを隠したがっている節もあり、さてどうやって切り崩そうかと思っていた。

結局、今朝になって明らかな発熱症状が出た事で、回りくどい事はやめにした訳だが。

食卓につけど、ぼんやりとテーブルの上の料理を見詰めるだけだったクライヴに、シドは体温計を渡した。
計らずとも症状がある事は明らかだったが、此処までの様子からして、クライヴ自身の自覚の有無に関わらず、自分が体調不良であることを認めはするまいと思ったのだ。
判り易く数字が出てくれる方が、妙な所で頑固で意地を張る男を説得するには楽だと踏んだ。

ピピピ、と電子音が鳴って、クライヴが脇に挟んでいた体温計を取る。


「何度だ?」
「……38.9度」
「立派な高熱だ。消化の良いもんだけ食って寝るのが一番だな」


一応の体として並べていた、クライヴの朝食のトーストとスクランブルエッグを取り上げる。
代わりに先んじて用意しておいた、細く切った林檎を置いた。

クライヴは、じっと体温計を見詰めた後、


「……まだ大丈夫だ。仕事も行かないと」
「39度で大丈夫なんて言う奴の台詞に信用性があるとは思わんね」
「解熱剤を飲んでおけば」
「薬ってのは症状を緩和させるだけだ。治す魔法じゃない」
「休んだら皆に迷惑がかかるだろう」
「そんな状態で出勤する奴の方が迷惑だ。移されても困る。お前の今日の仕事は、薬を飲んだら寝て休むことだ」


きっぱりと言い切ってやれば、クライヴは酷くやるせない表情を浮かべる。
まるで小さな子供が叱られたような横顔に、シドはこっそりと嘆息した。

林檎のみの朝食を終えたクライヴに、常備している薬を飲ませて、寝床へと押し込んだ。
これだけの高熱となれば、病院に連れて行くべきだが、生憎とまだ朝早い。
早くてもあと一時間は待たないと、病院に入る事も出来ないだろう。
一人で行かせられる状態でもないし、とシドは先ずは旧友に連絡し、今日の所はクライヴと共に休む旨を伝える事にした。


「────そういう訳だから、少なくとも午前中は出られんな。で、クライヴは今日一日休み」
『分かった。諸々調整と埋め合わせはこっちで片付けて良いな?』
「ああ、任せる」


旧友のオットーは、会社を立ち上げる以前からの長い付き合いだ。
彼に任せておけば心配はないと、シドは今日の代理を全面彼に預けることにした。

通話を切って、朝食の片付けを手早く済ませた後、病院に行くのに必要なものを確認していると、きしり、と蝶番の鳴る音が小さく聞こえた。
音のした方を見れば、寝室のドアが開いて、ぼうっとした表情の男が立っている。
熱に浮かされているのか、青の瞳は彷徨い気味で、何処か心許ない様子が感じられた。

ついさっき、ベッドに戻したばかりだと言うのに、早々に抜け出してくるとは。
呆れた表情を意識して隠しつつ、シドの方から声をかけてやる。


「どうした、クライヴ」


名前を呼ぶと、体格の良い肩がぴくりと震えたように見えた。
クライヴは、まるで悪いことを見付かった子供のような表情で、


「……あんた、仕事は……」
「休んだ。お前を病院に連れて行かなきゃならんしな」
「……それなら俺一人で行けるから、あんたは会社に」
「俺がいなくても会社はどうにでもなるさ。でも、今のお前はそうじゃないだろう」
「……そんな、ことは……」


クライヴは口籠った。
体温計が示した数字や、最低限しか口に出来なかった朝食など、クライヴとしても反論の余地がないことは分かっているようだ。
それならベッドからも抜け出さないで欲しいものだが、とシドは思いつつ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。


「お前、かかりつけの病院はあるか?」
「いや……此処数年は、あまり病院に行った事はなかったから」


クライヴの言うその言葉が、彼が健康優良児だったからではなく、疲弊する中でその選択肢が削られただけだと言う事は、シドにも分かった。
シドが漏れかける溜息を飲み込んで、「じゃあ俺の行き付けでいいな」と言った。
クライヴから示される場所と言うのもなさそうだったので、それで良しと思う事にする。

シドは所在なさげに佇むクライヴを、回れ右させて寝室へと押し戻した。
抜け殻の後だけが残っているベッドに座らせて、取り合えず水分を摂らせる為に、ミネラルウォーターを渡す。
クライヴは透明な水が入ったグラスを見詰めた後、そろりと唇を近付けて、ほんの少し、喉を潤した。
それきり、それ以上は飲む様子のないクライヴに、シドはグラスを取ってベッド横のサイドチェストに置いておく。


「何か必要なものはあるか?」
「……必要な…もの……」


尋ねるシドに、クライヴは反芻するものの、其処から先が出てこない。
熱も高いし、頭が回らないのも無理はないな、とシドが思っていると、


「……よく、分からないんだ。体調が悪い時に、どうしていたら良いかって言うのが」
「子供の時くらい、寝込んだ事があるんじゃないのか」
「……さあ、どうだったか。ジョシュアが寝込んでいるのは、よく面倒を見たこともあったけど」


ぼうとした表情で遠い記憶を辿るクライヴに、シドはひそかに眉を寄せた。

クライヴの昔の話については、本人から僅かに零れ聞く他、その弟であるジョシュアからも聞いている。
シドの会社で働いているジルからも、クライヴ達の幼馴染として、思い出話を聞いたこともあった。
それによれば、幼少の頃の兄弟は、体の弱い弟が度々体調を崩していた事で、兄がそれを甲斐甲斐しく面倒を見ていたと。
兄弟の仲の良さを示すエピソードとしては良いものだが、その反面、クライヴは自分自身が他者の手を煩わせる事のないように努めるのが当たり前になっていた節がある。
両親も───と言うよりは、母親の方らしいが───弟にかかりきりであり、仕事も忙しかった為、よくよく周りを見ていたクライヴは、そんな父母を困らせないようにしてきた。
その為、幼年の頃からクライヴは他人に対して甘える事も少なく、小さな怪我は隠したり、体調不良も人知れず我慢する癖がついたようだ。

幼年の頃から培われた、自分の無理を隠す癖に加えて、長い歯車生活のお陰で、益々自分をあやすことにクライヴは鈍くなった。
シドは、一緒に暮らすようになり、深い仲とも言える今になっても、やはりその歪みは簡単には戻らないものだと実感する。
平時はそれなりに落ち着いたとは言え、こうした綻びが見えると、やはり人とは簡単には変われないのだと思う。

ベッドの端に座ったクライヴは、薄いカーテンを引いた窓の向こうをぼんやりと見ている。
放っておけば、このまま何時間でも過ごしていそうな青年に、シドは癖のついた黒髪をかきあげて、ぐしゃぐしゃと撫ぜ回した。


「……シド?」


普段ならば振り払うものだったが、今日はそんな気力もないのか、クライヴの不思議そうな瞳がシドを見上げる。
シドは一頻り、自分の気が済むまでクライヴの頭を撫でてから、言った。


「病人ってのは、とにかくベッドで大人しくしているのが良い。発熱は体がウィルスに抵抗している証だが、やっぱり体力を奪うからな。とにかく寝て休んで、出来るだけエネルギーの消耗を抑える事だ」
「……ああ」
「と言う訳で、まずは横になれ。熱を逃がさないように布団も被れ」
「……ん」


シドの言葉に、クライヴは大人しく従う。
抜け出したばかりのベッドに改めて横になり、布団を肩まで引き上げた。

横になると手持無沙汰なのか、この状態に慣れていない事への不安か、青い瞳が落ち着きなく彷徨う。
そんなクライヴの頬に、シドが手の甲を当ててみると、赤らんだ頬は案の定熱かった。
そのまま掌で頬を撫でてみれば、彷徨っていた瞳がシドを見上げる。


「……シド。あんた、本当に休むのか」
「ああ」
「……悪い。俺の所為で……」


気まずさに瞼を伏せるクライヴに、シドは彼の高い鼻をつまむ。
んむ、と間の抜けた声が漏れて、シドはくつりと笑った。


「最近、真面目に働き過ぎたからな。丁度良い休憩さ」
「……」
「お前の看病は、そのついでだ」


無論、それは方便の言葉だったが、今のクライヴにはそれ位の方が気が休まるだろう。
それが通用したかは判らないが、クライヴが微かにほうっと息を吐くのが聞こえた。

薬の副作用か、クライヴの躰からは段々と力が抜けて、瞼が重くなっていく。
高く昇って行く太陽の日差しが窓から差し込み、眩しいだろうとその目元をシドの手が隠すと、程なく、緩やかな寝息が零れ始める。
シドは音を立てないように一度立って、厚みのあるカーテンを半分閉めた。
それでクライヴの枕元に届く光は途切れ、当面、彼の睡眠を妨げることもないだろう。



ふと時計を見ると、直に病院が開く時間が近付いていたが、ようやく寝付いた子供を起こすのは気が引ける。
もうしばらくは、ゆっくり寝かせてやろうと、シドは眠るクライヴの頭を柔く撫でてやった。





ブラックな環境から脱出して、ようやく落ち着いて来た位のところ。
クライヴはジョシュアがいたので、子供の頃からそれなりに看病し慣れている所はありつつも、反面、自分が看病されることには慣れてなさそう。原作でも現パロでも。
28歳だと色んな感覚が麻痺している状態だから、無理を無理と思わずゴリ押ししそう。そして周りに心配させたことを怒られてほしい。33歳だともうちょっと落ち着く(でもゴリ押しはするんだと思う)。
そう言うクライヴにあーあーあーって思いながら放っておけずに世話を焼くシドが好き。

[16/バルクラ]ブラインド・マーキング



仕事をしていれば色々な所に出向くもので、其処には様々な匂いが存在しているものだ。
工業製品を扱っている工場に行けば、鉄の匂い、それが溶ける炉の匂い、製糸工場に行けばそれを染める薬品の匂い、食品加工工場に行けば、当然食べ物の匂い。
人と人が集まる場所においてもそれは同様で、生鮮食料品店に行けば野菜や生魚や出来立ての総菜の匂いがするし、スポーツジムにでも行けば、運動する人々の汗や体臭を感じるだろう。
洗濯に使われる洗剤だって、無香料を謡ってはいるが、それにも少なからず匂いと言うものは存在するのだ。
それは洗剤内に使われている薬品や、それの化学反応が作る匂いで、人の快不快に判ずるほど強いものではないので、指標にされる必要がない、と言う程度。
だから体質として、どうしても薬品類にアレルギーが出てしまう人間は、僅かでもそれが感じられると忌避反応を起こしてしまう。
世の中に、本当の意味で無臭と言うのは、まず滅多に存在しないと言って良いだろう。

匂いと一言で言っても、その中身は何万何億と言う種類がある。
人間は動物に比べると鈍い質ではあるが、それでも訓練次第で、その匂いを一つ一つ別のものと判別する事も出来る。
匂いは生き物にとって危険を察知する為の一つの指標であるから、その機能は決して馬鹿にして良いものではない。
野生動物は今もそれを頼りに身を守る術とし、特に目の見えない暗黒で生きる種にとっては、何よりも活かさなくてはならない感覚器官なのだ。

さて、人間は生物の中で匂いに鈍感なものだが、存外と繊細な匂いの差異を気付く事も出来る。
例えばコーヒー豆の違いであるとか、カレールーに使われたスパイスの種類であるとか、煙草のフレーバーの違いであるとか────日常に溶け込むそれらを、人間はきちんと振り分けられるのだ。
嗅ぎ慣れない匂いがするものであれば、それは「知らないもの」として日常的に触れているものとは別物だと判じる。
それは、毎日触れているものである程、敏感に感じる取る事が出来るだろう。

電車に乗っていつものように恋人の自宅へと向かう途中のことだ。
帰宅ラッシュの時間から少し外れて乗った車両の中は、椅子こそ埋まってはいたものの、通路はすいすいと歩ける程度に空いていた。
どうせそれ程間もなく降りるのだからと、吊革に捕まって立っていたクライヴだったが、その後ろから、突然甘い匂いが襲い掛かった。
人工的に強いそれが、香水の類だと悟るのには時間はかからず、ちょっと強いな、と思いはしたものの、気分を害すようなものでもない。
深くは気にせず目的駅への到着を待っていたら、電車が大きく揺れて急停止した。
踏切を越えて自殺をしようとした人間がいたらしく、幸いにも電車の急ブレーキは間に合ったが、お陰で電車の運行は大きく後れることとなる。
巻き込まれた人間は溜息を吐いて待つ他なく、結局、小一時間ほど車内に閉じ込められていた。

予定は狂ってしまったが、最中に恋人に連絡をしたので、あちらは止むを得ないと受け取ってくれた。
それから電車がようやく動き出し、やっと恋人の家に着くと、いつもの渋面に迎えられる。


「悪いな、電車が遅れて……」
「既に聞いた。ニュースにもなっている」


詫びるクライヴに、端的に答えるバルナバスは、到着の遅れを特に気にしてはいないらしい。
拗ねると後を引くんだよなと、そうはならなかったことに安堵しつつ、クライヴは靴を脱いだ。

到着したら先ずはやる事をやらねばと、クライヴは早速キッチンに入る。
二日前に詰め込んだ冷蔵庫の中身を確認すると、予想の通り、作り置きに使ったタッパーのみが消え、食材諸々はそのまま綺麗に残っていた。

電車に閉じ込められている間、時間を持て余すのも勿体ないと、考えておいたレシピに必要な材料を取り出す。
バルバナスはと言うと、対面式キッチンの向こうで、パソコンを開いてじっと液晶画面を睨んでいた。
普段と変わりないその横顔を見ながら、どうせ昼も碌に食っていないのだろうと、まともな食生活意識のない恋人のパターンを思い描きつつ、まずは栄養値の高いものを食わせようと決める。
野菜をヘタや芯まで無駄なく使い、タンパク質の豊富な鶏肉をメインにして、味付けについては簡素に。
何を食べるにしても大して表情が変わる所は見ないのだが、油ものと味の濃いものはあまり得意ではないらしい事は、色々と食べさせている内に分かったことだ。
薄味が良いのは健康を思えば良いことで、とは言え飽きないように───そもそも食に飽きると言う程、彼に執着もないのだが───工夫しながら調理をしていく。

鍋の中でスープをくつくつと似ていると、かたり、と音がした。
見ればバルナバスが席を立っている。
仕事をしていると、数時間でも微動だにせず座っている彼にしては珍しいことだったが、クライヴは特に気にはしなかった。
息抜きか気分転換か、偶にはそんな事もあるらしいと言う事は、極稀に見ることがあるので知っている。
そう言うものだとう、と思ったのだ。

───が、流石に後ろから伸びて来た腕が腹に巻き付いたのには驚いた。


「っバルナバス、」


他に誰がいる訳でもないこの場所で、そんな触れ方をしてくる人間は一人しかいない。
思いもよらなかった密着感が背中にやってきて、クライヴは一瞬動揺した。
背中に重なった男はと言うと、クライヴのそんな様子は気にも留めず、黒髪の隙間から覗く項に唇を押し付けている。


「おい、危ない」
「……」
「聞いてるのか、こら」


調理中に悪戯は怪我の下にしかならないのだから、勘弁してほしい。
図に乗せてはいけない、とクライヴは肘で背中の男の腹を押す。
しかしバルナバスと言う男は、そんな叱る声を気にもせず、ぬるりと生温い舌を項に当てて来た。


「ん……っ」
「……クライヴ」


低く耳に心地の良い声で名前を呼ばれると、否応なくスイッチが入りそうになる。
が、クライヴはぐっと歯を噛んで堪えると、腕を使って振り向きながら、密着する男を押し剥がした。


「料理中だ。危ないだろう」
「後にすれば良い」
「それこそそっちが後にしろ」


聞き分けのない子供を相手にしている気分で、クライヴはじろりと男を睨む。
と、男の方もクライヴに負けず劣らず、渋い表情で睨むように此方を見ていた。
どうも機嫌を損ねているらしいバルナバスに、クライヴは溜息を交えて、


「……一体なんだ。何か用でもあるのか?」
「………」


大概、この男はマイペースで此方の都合を考えない所があるが、幾つかのルールは順守してくれている。
調理中に邪魔をするのも、基本的にはしない事だ。
じゃれあいにしても程度は加減しており、精々甘えてくる所までだったのに、今日は明らかにその先を匂わせている。
ルール違反は明らかなので、仕方なしに理由を問うてみれば、バルナバスはまたも不満げに眉間の皺を深くした。

じっと睨む碧眼に、言葉が少ない男である事は重々承知しているクライヴだったが、やはり言うものは言ってくれないと分からない。
此方から切り崩しにいった方が早いかと思案していると、思っていたよりも早く、バルナバスの方が口火を切った。


「……貴様、何処をうろついて来た」
「何処って───別に、いつも通りに来たつもりだが」


最寄り駅から此処に来るまで、クライヴは特に寄り道した覚えはない。
まさか到着が遅れた事を指しているのかと思ったが、電車の遅れは先に伝えてあったし、事の次第はニュースにもなっていたとバルナバスが言っていた。
妙な疑いをかけられるような覚えはない、とクライヴが眉根を寄せていると、バルナバスは深々と溜息を吐く。


「気付いていないのか。自分自身の事だろう」
「意味が分からない。ちゃんと説明してくれ」


やはりこの男は言葉が足りない。
出会って何十回目になるか、そんな事を改めて実感しながら、クライヴはかみ砕いた説明を要望した。

バルナバスは、この男にしては珍しく呆れた表情を浮かべ、


「妙な匂いがしている。何処でつけてきた?」
「匂い?」


見るからに不快と言わんばかりに、眉間どころか鼻先まで皺を寄せそうなバルナバスに、そうも強い匂いがついているのかとクライヴは首を傾げる。
汗臭いのか、でも今日は汗を掻くほど暑くはなかったし、来るのは遅れたが走った訳でもないし、と腕の匂いを嗅いでみるが、特に感じるものはない。

バルナバスの言う“妙な匂い”を探してみるクライヴだったが、腕も襟も、シャツの胸元も確認してみるが、それらしいものは判らなかった。
そんなクライヴに、バルナバスは「鈍い奴め」と忌々しくも聞こえそうな声色で呟いて、


「背中だ。酷い匂いがする」
「其処まで言うか……でも、背中なんて別に────」


思い当たる節もない、と言いかけて、ふとクライヴは思い出す。
事故未遂で緊急停止した電車の中で、偶々後ろに立っていた乗客が、強い香水の匂いを振りまいていたことを。
その人物は、電車が急ブレーキをした際に、バランスを崩してクライヴの背中にぶつかっていた。
無論意図した事ではないし、ぶつかった本人からも詫びを貰ったし、突然のことだったのだからクライヴも気に留めていない。
だが、おそらくその時、擦れあった服に香水の匂いが移ってしまったのだろう。
それから小一時間は一緒にいたから、距離の近さも相まって、匂いが残ったのかも知れない。


「……電車の中で、近くに香水をつけていた人がいた。それだけだ」
「匂いがそうも移る程に密着していたとでも?」
「密着なんてしていないが……ぶつかったのはある。その後は閉じ込められていたからな。その所為だろう」


クライヴの言葉に、バルナバスはじっと睨むばかり。
心なしかその唇が尖っているようにも見えるが、そんな顔をされてもな、とクライヴは思う。
匂いの下となったであろう人とは、ぶつかった詫びと合わせて、お互いの不運に一言二言交わした覚えはあるが、その程度のことだ。
電車が動き出してからは背中合わせで立っていて、降りたのはクライヴが先で、その後の事は知らない。
その程度でしかないのに、疑うような顔をされても、弁明も説明もこれ以上するものはなかった。

クライヴは、それまでなんともなかった背中が、急にむず痒くなるのを感じた。
バルナバスの舌が触れた項も、心なしか擽る後ろ髪がくすぐったく思う位には、薄らとした熱が宿っている。


(これは、要するに……あれなんだろうな。縄張り意識と言うか)


この家の中は、バルナバスの為に誂えられたものしかない。
寝室、リビング、ダイニングに置かれた調度品は勿論、クライヴが来るまで碌に使われた形跡もなかったキッチンでさえ、バルナバスの為のもの。
クライヴが来るようになるまでは、主であるバルナバスの他は、秘書のスレイプニルくらいしか入った事がないのだ。
旧知だと言うシドでさえ、顔を合わせるのは専ら外で、十数年の付き合いで此処に入ったのは片手で数えて足りると言う。
そうまで徹底されていれば、此処に他人の匂いや気配が微塵のほどに感じられないのも無理はない。

其処にクライヴは他人の匂いをつけてやって来た訳だ。
クライヴ自身は特別に此処に来ることを許容されているが、かと言って、それ以上のものをまとわせて来ることを許可した覚えはあるまい。
“酷い匂い”とも言っていたし、種類問わずに香水の類を嫌う人間もいるものだから、バルナバスにとって余計に不快であったとすれば、意図していないとは言え、悪いことをした。


「悪かったな。飯を作ったら風呂を借りるよ」
「……」
「ついでに着替えも借りる。匂いはそれで少しはマシになるだろう」


これ以上の地雷を避けるなら、それが無難だろうとクライヴは思った。

取り合えずは、夕飯の支度だけは先に済ませておかなくては。
メインの下拵えが済んで、オーブンに入れたら、その間にシャワーを浴びよう────と思っていたクライヴだったが、その腰に太い腕がしっかと回る。


「バル、」


拘束される感覚に、まだ何か怒っているのかと名前を呼ぼうとして、塞がれた。
瞬きをすれば睫毛が擦れあうほどに近い距離で、碧眼が薄暗く熱の籠った色を灯している。
無防備にしていた唇の隙間から、ぬるりとしたものが侵入してきて、クライヴのそれを絡め取った。

耳の奥で唾液の交じり合う音がする。
それはしばらく続いた後、クライヴの呼吸も飲み込んで、ようやく離れて行った。


「っは……なんだ、急に」


足りなくなった酸素を取り込みながらクライヴが抗議すれば、腰を捕まえる腕が益々力を籠める。
離すものかと言わんばかりのその力に、これはもうこっちの話は聞かないな、と悟った。

後ろ手でコンロのスイッチを探り、火を消す。
近い距離にある緑の瞳が、ようやくほんの僅かに機嫌を直して、眉根の皺が緩んだ。
背中を滑る手が、其処にある目に見えないものを拭い取ろうとしているかのようで、少し擽ったかった。





これは多分匂いでマーキングしてた王。

ボディソープだったりシャンプーだったり、部屋のアロマとかだったり(用意したのは全部スレイプニル)を共有してる状態になっているので、知らず知らずにバルナバスと同じ匂いがするようになってたクライヴ。
なのにクライヴが自分のじゃない匂いをつけて来たので、ちょっとお怒りしたらしい。と言う話。

[16/シドクラ]包まれたいのはただ一つの



ふ、と嗅ぎ慣れない匂いを感じた。
職場で香ったそれは、幼馴染が身に着けていた香水で、珍しいこともあるものだと思った。

ジルは花の香りが昔からよく似合う。
彼女の家の庭には、よく手入れされた庭園があり、彼女もよく其処で過ごしていたから、季節ごとに咲く花の香りが彼女を包んでいた。
クライヴ自身は花に詳しいことはなかったが、彼女と一緒に花に水やりをした事もある。
その時、このお花はね、とその特徴や花言葉についてジルが話してくれるのを、弟と一緒に聞いていたものだった。

成人し、クライヴが実家を出てから、ブラック会社の激務もあって、段々と連絡も途切れがちになり、二人の間は必然的に疎遠になった。
しかし偶然とはあるもので、クライヴが拾われた会社に、追うようにしてジルもやって来ることになったのだ。
彼女は彼女で、中々大変な環境にあったらしく、再会した時には、綺麗な銀色の髪が煤けて見える程だった。
環境がすっかり変わった今、ジルはクライヴと共に、シドの会社の事務員として働いている。
労働環境と言うのは全く大事なもので、ひと月もする頃には、彼女は柔らかな笑顔を取り戻していた。

実家にいた頃と違い、花の世話をする暇もなかったジル。
当然、いつかの頃にまとわせていた花の香りも縁遠くなっていたのだが、同じ事務員であり会社の先輩にあたるタルヤから、気分転換にもなるから、と香水を貰ったそうだ。
女性に似合う、洒落た造りの香水瓶に、ジルは勿体なさもあって中々手が出なかったが、とは言え一度も使わずにしまい込むのもどうかと、試しに一吹きしてみたらしい。
その柔らかくて優しい香りが、今日一日、彼女を包み込んでいたのだ。

それに気付いて、「良い匂いだな」と言ったクライヴに、ジルは嬉しそうに微笑んだ。
強すぎず、主張することもなく、近くを通った時にふわりとさり気無く香る、控えめながら芯がしっかりとした性格のジルに似合う香りだ。
「クライヴがそう言ってくれるなら、またつけても良いかも」とはにかんだジルに、是非また、とクライヴは言った。

香水が齎してくれる効果と言うのは、色々とある。
古くは不快な匂いを消す、と言った目的であったものが発展し、今ではリラクゼーション効果や、おしゃれの一種として幅広く嗜まれている。
クライヴはと言うと、母が日常的に身に着けていた事から、それそのものは身近だったが、自身が利用したことはなかった。
好奇心の強かった幼い時分の弟と一緒に、父が稀に身に着ける香水を借りてつけて貰った事がある。
その時、弟のジョシュアは「良い匂いだね」と言い、クライヴもそれに頷きはしたが、正直に言うと、あまりはっきりとは判っていなかったりする。
馴染みのない匂いがする事はするが、それが快いかどうかは、あまり琴線に触れなかったのだ。
父が愛用していたものは、母のものと違って強い芳香がするものでもなかったから、余計にピンとは来なかったのかも知れない。

しかし、大人になって改めて、幼馴染が身に着けていたそれは、クライヴにもささやかな安らぎを与えてくれた。
それがジルが相手だったからなのか、香水の匂いがクライヴの鼻に合っていたのかは判らないが、ともかく、成程香水とはこうやって楽しむものなのだ、とようやく知れた気がした。

一日の仕事を無事に終えて、いつものように帰宅する。
普段は二人で使っているマンションの一室は、此処三日ほど、クライヴの一人天下だ。
同居人のシドが出張に出ているので、一人で使うには聊か持て余す空間を、のんびりと使っている。

そんな天下も今日で終わりだ。
何時になると正確に聞いてはいなかったが、今夜、シドが帰ってくる。
夕飯をどうするかも確認してはいないが、取り合えず二人分の食事を用意し、余ってしまえば明日の晩に温めて出せば良いだろう。
その傍ら、夕飯は済ませてくるかも知れないが、ワインは飲みたがるかも知れないと、つまみになるものを用意しておく事にした。
これも残れば冷蔵庫に入って、明日の晩飯か晩酌か、いずれにしろそう言った調子で消えるに違いない。

気ままなもので、クライヴは夕飯をいつものダイニングテーブルではなく、リビングのソファ前のコーヒーテブルへと持ってきていた。
テレビを見ながら食事をすると言うのは、少々躾やマナーに厳しい環境にいたクライヴにはあまり馴染みがなかったが、シドと同居するようになってからするようになった。
楽にするのが良いだろう、と言っていたシドに、一緒に過ごすにつれ、段々と感化されてきたのだろう。
人目があればクライヴはなんとなく背筋を伸ばさなくてはと思うが、時折こうして、今くらいはと肩の力を抜けるようにもなっている。

若者が好んでいるのだろう、テンポの速いダンスミュージックを流すテレビを、眺めるともなしに過ごしながら、夕飯を終えた。
風呂の準備をしておく傍らに、空になった食器を洗っていると、玄関の鍵が外れる音が聞こえる。
濡れた手を軽く拭いて玄関を覗けば、思った通り、同居人の帰宅だ。


「お帰り、シド」
「ああ。大分遅くなっちまったな」
「飯は?」
「まだだ。何かあるか?」
「夕飯、あんたの分も作ってある」
「そりゃ有難い」


靴を脱ぎながら言ったシドは、普段の仕事着に比べると、随分と洒落の効いた服装だ。
今回の遠出が単なる出張ではなく、箇所箇所でシド曰く“お偉いさんのご機嫌伺い”があったのだとか。
服装にこれと言った決まりがあった訳ではないが、身に着けるもの一つ一つに洗練が必要だった。
無論、トータルコーディネートも大事な訳で、シドはネクタイピンやハンカチーフなど、細々した所まで気を付けて、数日分の服装を整えて行った。

しかし、それも家に帰れば必要のないこと。
リビングに入ると、早々に上着を脱いでネクタイを緩め、ふう、と一つ長い息を吐く。
その手が何を求めているのか、クライヴは直ぐに察して、この数日間、コーヒーテーブルの端でぽつんと待ち惚けにされていた、真新しい煙草とライターを差し出した。


「ほら、これだろう」
「気が利くね」


クライヴの手から煙草の箱を受け取って、シドは早速その封を切る。
それを横目に、さて夕飯を出さないと、と彼の後ろを横切ったクライヴだったが、


「……?」


ふと鼻腔を擽った、花の匂いに眉根を寄せる。
少しばかりつんと刺さるような匂いは、この部屋でまず嗅ぐことのないものだ。

シドはソファに座って、煙草の火をつけた。
出先で切らせたか、移動中は我慢していたのか、シドは肺一杯に煙を堪能してからそれを吐き出した。
少し疲れの見える眦が微かに緩んで、シャツをボタンを外す仕草と合わせ、ようやく息が吸えたと言っているよう。

そんな仕草の傍らで、クライヴは漂う花の香りが気になって仕方がない。


「シド」
「ん?」
「……何か匂うんだが」


眉間に皺を浮かべて言ったクライヴに、シドは腕を鼻に寄せ、


「臭いか?」
「いや、そう言う訳じゃないんだが。その……強めの花の匂いのようなものがする」
「────ああ。成程な」


クライヴの言葉に、シドはしばし考える仕草をしてから、気付いた。


「香水だ。俺のじゃないがな。今日会った社長が使ってたものだろう」
「移り香か……こんなに強い匂いがするものを使ってたのか?」
「そんなに強いか?向こうさんも程度は判ってる奴だと思うが。まあ、何度も使ってると、鼻も慣れて麻痺することはあるかもな」


言いながらシドは、自分の手首や掌を何度も嗅いで確認している。
「ああ、確かに匂うな」と小さく呟いたので、彼も感じない訳ではないようだが、クライヴほどはっきりとは嗅ぎ取れないらしい。

クライヴは引っかかる感覚を思いながらも、取り合えずは夕飯の支度だと切り替えた。
まだ鍋に残っていたスープを少し温め直して、味をしみこませて寝かせていた肉を焼く。
疲労感もあるのだろう、ソファから動く気のないシドの為、コーヒーテーブルの方へと皿を並べた。
ワインの摘まみもあると言うと、それは食事の後で、とのことだ。

シドは煙草を一本、吹かし終えてから、夕食を食べ始めた。
灰皿で名残を燻らしている煙草は、クライヴにもすっかり馴染みのある匂いを立ち昇らせている。
が、どうにもクライヴは、その匂いが混じりのあるものに感じられて、落ち着かない気分になっていた。


(……変な匂いだな)


この部屋で花の匂いがしているのも先ずないことで、其処にシドの煙草の匂いが混じると、なんとも妙だ。
花の匂いが嫌いな訳ではないし、それが多少癖のあるものだと感じても、それがクライヴの神経に障る事はない筈───少なくとも、今まではなかった筈だ。
香水の匂いなど、職場でも身に着けている人は少ないながらにいるし、街を歩いていても、香水でも街路樹でも、触れない訳ではないのだ。

それなのに、今、此処で香る花の匂いは、なんとなく気に入らない。
普段はしないからなのか、それとも────

と、思考の海に沈んでいるクライヴに、シドがフォークを片手に眉尻を下げて笑う。


「なんて顔してるんだ、お前」
「……?」
「眉間の皺が酷いぞ。鏡でも見て来い」


くつくつと笑って言ったシドに、クライヴは唇を尖らせる。
シドが言うほど、酷い顔をしているつもりはないが、反面、渋面になっている自覚はあった。


「変な匂いがするからだ」
「さっきも言ったが、そんなに匂うもんかね」
「あんたが気にしていないのが不思議なくらいだ」
「自分の匂いってのは分からないものだからな。とは言っても、よっぽど強ければ分かるつもりだが…」


シドはもう一度、手首を鼻に寄せてみる。
しばらく匂いを確かめてみるが、やはりクライヴが言うほどには感じないようで、首を傾げるばかり。
得心の行かない顔をするシドに、クライヴは変わらない渋面でぼそりと言った。


「歳で鼻も鈍ったんじゃないか」
「言ったな、若造。お前よりは鼻は鍛えてあるつもりだぞ」
「どうだか」
「やれやれ、やけに突っかかるな。久しぶりに帰ってきたってのに」


つんとした表情を見せるクライヴに、シドは眉尻を下げて肩を竦める。

ご機嫌斜めだな、と言ったシドに、確かにそうだとクライヴも思った。
どうしてだか、気分と言うか神経と言うか、ピリピリとした感覚が萎えなくて、香る匂いが文字通りに鼻につくのが気に入らない。
早く消えれば良いのに、飯の前に風呂にでも突っ込めば良かったか、とまで思う。

そんなやり取りをしている間にも、シドの夕飯は綺麗に平らげられ、クライヴはそれを片付ける為に席を立った。
シドはと言うと、普段ならば食後の一服と煙草に手が伸びるものであったが、


「風呂、入れるか?」
「ああ、用意はしてある」
「じゃあ先に浴びるか」


そう言って席を立つシドに、珍しい、とクライヴが思っていると、


「落とせる匂いはさっさと落としておこうと思ってな。鼻の良い誰かさんが、これ以上拗ねない内に」
「誰が拗ねてるって?」
「おっと、自覚があったらしいな」


くつくつと喉を鳴らしながら、シドはさっさとリビングダイニングを退散する。
揶揄われた、とクライヴは唇を尖らせた。

一人残ったクライヴは、カーテンの隙間から覗く窓を、ほんの少しだけ開けておく。
部屋の中に残っていた煙草の煙と匂いと一緒に、それと混じって漂っていた花の匂いも、外へと流れ逃げていった。



その夜、殊更匂いを確認したがるクライヴを、シドは気の澄むまで好きにさせていた。






いつもの匂いじゃないのと、何処かの他人がつけた匂いが気に入らなかったクライヴでした。

香水とかは嗜むもの、楽しむものなので、周りに迷惑がかからないくらいの匂いなら気にすることはない。
ジルがつけていたら似合うとか良い香りとか思うし、ジョシュアがつけていてもそうだと思う。
シドも場面によっては身につける事もあるだろうし、理解はしている。
しているが、家に帰ったら自分の縄張りみたいなもので、其処にいるシドは自分のものなので、意図されていないものだとしても、他人の気配が感じられるのが嫌だった訳ですね。独占欲です。

[16/シドクラ]ホット・ショコラ・ショー



世の中が甘い匂いで溢れているような気がする。
それを実際に鼻孔で確認する程ではないのだが、なんとなく、雰囲気がそう感じさせるのだ。
街のあちこちに散りばめられた、チョコレートの祭典を公告するポスターや電子パネルは、昨今、老若男女の垣根を越えて効果を出している。
元々は製菓会社の陰謀だとも言うこの習慣は、今や海を越え、世界中に有名になった。
となれば、その腕を競い合う者たちも、この期がチャンスと一堂に会する事も増え、最早見逃せないシーズン行事として成長している。

お陰で今日のクライヴの鞄には、チョコレート菓子がいっぱいに詰め込まれることになった。
同じ職場で働くことになった幼馴染のジルを皮切りに、同僚たちがこれもどうぞと続々と詰め掛けた。
古くからの慣習に倣えば、それは女性から男性にと言う流れがあったが、近年ではそう言った枠もじわじわと失せつつあり、ガブやオットーからも労いの菓子を貰った。
クライヴの方はと言えば、忙しさに感けてすっかりそんな事は忘れていて、貰う一方になったことに申し訳なさを感じる。
となれば、ジルは「気にしないで」と気遣い、ガブは「来月のお返しが楽しみってもんだな!」と笑う。
有り難いもので、それなら一ヶ月後の今日には、きちんと礼を尽くさねばと思った。

名の知れたパティシエの店のものから、コンビニで売っている駄菓子まで、頂き物は種々様々。
行く先々で沢山のチョコレートが販売されていたことを思うと、これと決めるまでの選ぶ時間も、楽しんだ人々もいるだろう。
自分も偶にはそう言うものに参加しても良かったかも知れないな、と、帰り道の店先にあった、今日までのセールを報せる看板が仕舞われて行くのを見ながら思った。

家への最寄り駅から、いつものスーパーに立ち寄って、一通りのものを買い揃える。
と、会計レジの傍に、カートに乗せられた商品が、ふと目に着いた。
何気ない気持ちで手に取ったそれは、牛乳に溶かして飲む、ショコラドリンクだ。
普通の商品棚とは違う場所に置いてある其処には、今日と言う日を彩るポップが飾られ、成程これも確かにチョコレートの類だと納得する。


「……ふむ」


甘いものは特別好む訳ではないが、嫌いと言う事もない。
疲労を労う時、考え事で脳のエネルギーを入れたい時、何はなくとも欲しくなる時もある。
6袋入り一箱のそれを、クライヴは買い物籠の中へと入れた。

暦としては冬も終盤に近付いているようだが、空気はまだまだ冷たく、吐く息にも白が混じる。
悴む感覚を訴える両手をダウンジャケットのポケットに突っ込んで、クライヴの歩く足は早くなった。

帰宅すれば、自分よりも一足遅く会社を出た筈の同居人が、買い物をしている間にでも抜かれたか、先に帰っていた。
リビングダイニングの方から漂う匂いは、火を入れた特製ソースのもの。
なんでもさり気無く人に仕事を振る傍ら、当人も何につけても器用だから、キッチンに立った時には中々凝った料理が出て来る。
本人は「適当に放り込んでるだけだよ」と嘯くが、娘の為に栄養管理を怠らず、且つ新し物好きな父子が揃って飽きないようにと、手を変え品を変えて二十年近くも暮らして来た訳だから、この手のものは得意なのだ。
平時はクライヴの方が先に帰ることが多く、それで家事を引き受けているから、シドの手料理に与れるタイミングと言うのは、案外と限られている。
久しぶりにそれが楽しめそうだな、とクライヴは少々浮いた気分で靴を脱いだ。

リビングダイニングへの扉を開けると、食欲をそそる匂いが一層深く鼻孔を刺激する。


「ただいま」
「おう、お帰り」


じゅう、と言う焼き物の音と同時に、シドの声が聞こえた。
対面式のキッチンを見れば、思った通り、シドが今日の夕飯を作っている。
キッチンへと回り込んでみれば、既に幾つかの料理は完成しており、二人分の皿に盛り付けが成されていた。
今作っているのは、メインのポークカツレツの最後の一焼きだろう。

買い付けたものを必要な場所に収め、クライヴは私室に入って部屋着へと着替えると、シドが整えた料理皿を食卓へと運んだ。
シドも席へと着いて、いつも通りの夕食が始まる。
その最中に、シドがふっと思い出したように言った。


「お前、来月は大変だぞ」
「なんだ、藪から棒に」


話の切り出し方の唐突さに、クライヴが詳細を求めて返せば、シドはカツレツにフォークを刺しながら、


「バレンタインだよ。随分貰っただろう」
「ああ。ジルと、タルヤと、オルテンスと───ガブも。他にも沢山。俺も来年は用意していくべきかな」
「そりゃあ好きにすれば良い。だが、貰った分くらいは、来月はちゃんと答えてやれよ。あいつらもせがむ性質じゃないが、ま、円滑なコミュニケーションの一環って奴だ」


シドの言葉に、クライヴは「ああ、分かっているよ」と口元を緩める。

以前は、会社の中で、人同士のコミュニケーションなど、あってないようなものだった。
仕事に必要な連絡事項は行うものの、事務的なものばかりで、それも上からの無茶な打診の横行で、滞る事も多かった。
とても“円滑なコミュニケーション”だとか、“信頼関係の構築”などと言うものに、意識も時間も割けるものではなかったのだ。
長い間、そんな場所にいたものだから、そう言うものだとクライヴは諦めにも似た享受さえしていた。

あの頃に比べると、今はまるで別世界に来たような感覚で、ちょっとした時間の隙間に交わす、仲間達との何気ない会話が心地良い。
クライヴが受け取った沢山のチョコレートも、そう言う空気が成り立っているから出来る事だ。
くれた人の数、そのお返しの準備に必要な数を思うと、一人一人に品を選ぶのは聊か難しいが、せめて皆に配れるくらいのものは用意したい。
甘いものが好きな者、得意でない者、酒を好むメンバーと、さてどううするのが一番良いかと巡らせつつ、クライヴは夕食を平らげた。

夕飯を作ったのがシドなら、片付けるのはクライヴだ。
余程に疲れていると言う時でもなければ、家事はこうやって分担と交代で担う事にしている。
効率を上げる事で余暇を楽しむシドは、料理をしながらも手すきを見付けては調理器具の片付けも行うから、洗い物の数は食事に使った食器くらいのもの。
クライヴ自身も長い一人暮らしで───その内半分は、生活様式は聊か崩壊気味だったが───家事は慣れたものであるから、手早く洗い物は終わった。

さて、とクライヴはシンク下の収納からミルクパンを取り出し、冷蔵庫から牛乳を。
マグカップ一杯分の牛乳をパンに移して、弱火でじっくりと温める。
鍋の縁からふつふつと煮立った気配がした頃に、スーパーで買ったものを開けて、小分け袋が入ったその一つの封を切った。
ぱらぱらと零れ出すのは小さな粒のチョコレートだ。
温まったミルクの中で、チョコレートはとろとろと溶けて行き、クライヴはヘラを使ってそれをくるりと優しく混ぜた。

カカオとミルクが溶け合い、柔らかな茶色みに染まった液体を、スプーンで掬って一口舐めてみる。


(甘いな。でも、こんなものか?)


普段、あまり口にしないものであるから、良し悪しの基準はよく判らない。
とは言え、飲めないことはないだろうと、クライヴは出来上がったショコラドリンクをマグカップへと移した。

片付けをしている間に、シドはリビングのソファで寛いでいる。
テレビは流行の曲を生放送スタイルで送る音楽番組が流れているが、シドは興味があるのかないのか、その手元には本がある。
BGMに聞いてるだけなんだろうな、と思いつつ、クライヴはソファ前のコーヒーテーブルにマグカップを置いた。
ことん、と言う小さな音が鳴ると、シドが顔を上げる。


「ん?なんだ、こりゃあ」
「食後の一服かな」
「珍しいサービスじゃないか」


稀にシドが食後のコーヒーを嗜むことはあるが、クライヴはあまりそう言ったことをしない。
偶にあるとすれば、それは仕事を持ち帰っている時だが、近頃はその頻度も減っていた。

シドは、さて何の気紛れかねと思いつつ、先ずは有り難く貰おうと、マグカップに手を伸ばした。
口元までそれを持って行けば、鼻孔を擽るものが、想像と真逆の甘い香りである事に気付く。
クライヴは、シドの眉尻が微かに上がったのを確認したが、気にせずキッチンの残りの洗い物を片付けることにした。

シドは一口、マグカップの中身を飲んでみる。


「へえ。お前にしちゃ珍しいものを出してくれたな」
「まあ、そうだな」
「これがお前からの贈り物か?」


そう言ったシドの口元には、にんまりと楽し気な笑みが浮かんでいる。
今日が何の日だと言う事かは、彼も部下同僚から揃って沢山の贈り物をされたから、理解していた。
それでいてこの飲み物となれば、と言うシドに、クライヴは「さあ?」と肩を竦めて見せた。


「売っていたからさ。ついでに買ってみたんだ。偶には悪くはないだろ?」
「そうだな。悪くはないが────」


其処まで行って、シドは席を立つ。
おや、とクライヴが見守っていると、シドはリビングの棚の隅に置いていた、自分の鞄を開けていた。

シドが取り出したものを見せると、其処には、クライヴが購入したものと全く同じパッケージの箱がある。


「あ」
「煙草を買いに行ったら、売っててな。ついでに買ってみたんだよ」


今し方、自分が言ったものと同じ事をそっくりに言われて、クライヴは眉尻を下げて噴き出した。

シドはパッケージをダイニングのテーブルに置いて、どうするかねえ、と苦笑する。
一箱6本入りのこのショコラドリンクは、確かに手軽に作れるだろうが、シドとクライヴではそう進んで飲むことも少ないだろう。
今日は特別だから、シドもクライヴの入れてくれたものは喜んで頂くつもりだが、明日以降はどうしたものか。


「───まあ、保存期間もそこそこ長いものだし。糖分が欲しくなったら飲むよ。案外、どうにでもなるだろう」
「そんなもんだな。なんなら、幾つかミドにやれば良い。あいつは甘いものなら幾らでも飲むぞ」


言いながらシドはキッチンにやって来て、クライヴが片付けようとしていたミルクパンを取り上げる。
おい、とクライヴが言う間に、シドはそれをコンロに戻して、冷蔵庫からも牛乳を取り出した。


「折角だから、お前も飲め。開いてる方を使うけどな」


そう言って、調理台に置いたままにしていた箱から一袋、ショコラの素を取り出す。
牛乳をミルクパンに注ぎ、慣れた手つきで温め始めたシドに、クライヴも柔く唇を緩めて、完成を待つことにしたのだった。




大分遅れましたが、バレンタインのシドクラが書きたかった。
お互いにチョコレートを用意して、と言うほどの事はしないけど、今日に肖るちょっとした変化を。
と思ったら、同じような流れで同じようなことをしていた二人とか良いなあと思ったのでした。

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