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Category: FF16

[16/クラジル]気付いてくれた?

お題配布サイト 【シュレディンガーの猫】






ジルがミドの秘密基地(ダンジョン)に下りて来た時、其処にはこの場所の主であるミドと、カローンの姿があった。
珍しいと言えば珍しい取り合わせで話をしている様子から、邪魔になるかしら、と足を止めたジルの耳に、二人の会話が届いて来る。


「だから、あたしはそう言うのはいらないってば」
「何言ってるんだ。こういう所に気が回らないと、みすぼらしくなるよ」
「大丈夫だよ。あたし、結構カワイイらしいから」
「そんなこと言ってられるのも今のうちだ。少しは父親を見習いな、あれで昔から洒落っ気には気を遣う男だったんだから」
「父さんを引き合いに出すのはずるいって」


リズムの良い遣り取りは、どちらともはきはきとして、声もよく届いた。
言い合いをしているようにも聞こえるが、剣呑な気配はない。
ただ会話の応酬は途切れなく続いていて、ジルは入り口の階段の下で、割り入って良いものかをじっと考えていた。

会話の終了を待っている内に、蒸留器の前に立っていたミドが、新たな来訪者に気付く。
ミドはぱっと表情を明るくすると、此方に背を向けて話しているカローンとの会話から逃げるように、ジルの下へと駆け寄ってきた。


「ジル!なんとかしてよ、カローンがしつこいんだ」
「人聞きの悪い娘だね。たまには紅のひとつくらい覚えてみろって言ってるんだ」


ミドはジルを盾にするように、背中に回り込んで隠れた。
カローンはそんなミドに、眉を釣り上げ、手に持っていた小瓶を見せる。

小瓶は陶器製で、真っ白な外観をしており、側面に小さな花が薄紅色の花が描かれている。
瓶口に乗った蓋もデザインが合わせて作られたと分かる、一見すると白一色ンシンプルなものだ。
隠れ家ではまず見ることのない代物であるから、カローンが何処かで仕入れて来たのだろう。

ジルはミドを宥めながら、背中にくっついている少女を見遣り、


「どうしたの、ミド。カローンも、貴方が此処にいるのは珍しいわね」
「何、野暮用だよ。大した事じゃない」
「じゃあもう良いじゃん、あたしはそう言うの興味ないんだよ」
「二人とも、一体何の話をしていたの?」


肝心の要点が見えなくて、ジルはもう一度、何があったのかを尋ねてみる。
ミドは拗ねたように唇を尖らせながら、カローンの手に握られているものを睨むようにして言った。


「急に此処に来て、あたしに化粧しろって言うんだよ」
「化粧……?」


ミドの言葉に、ジルが首を傾げると、カローンは小瓶をひらりとかざすように見せ、


「良い年頃の娘が、毎日油にまみれてばかり。少しは身嗜みに気を遣いな。香油は嫌だって言うから、これにしてやったんだよ。質の良いものだから、悪い匂いもしないし、皮膚を傷めることもない」
「お気遣いどうも!でもあたしはいらない!」
「落ち着いて、ミド。カローンも少し待って」


ずいずいと近付いて来るカローンと、やだやだと背に隠れるミドに挟まれ、ジルは眉尻を下げて二人を宥める。

カローンもミドも、頼りになると同時に、中々に我の強い人たちだから、どちらをどう宥めたものか。
クライヴを連れて来た方が良いかしら、それともオットーを、と仲裁に入ってくれそうな人を頭に浮かべるが、生憎とクライヴは出掛けていてまだ戻っていないし、オットーも忙しそうだった。

折の悪いタイミングに来てしまったな、と困り顔をしているジル。
そんなジルを、ふとカローンがじいっと見つめ、


「そう言えば、ジル。あんたもこういうものを使っていないね」
「えっと……それは?」
「唇に塗る紅だ。見た事くらいはあるだろう?」
「ええ、まあ……」
「使ったことは?」
「それは、ないけど……」


片義眼のカローンの目が、まじまじとジルの顔を検分する。
その様子を背中に隠れてみていたミドが、ぴん、と良案を思い付いたとばかりに顔を出した。


「じゃあさ、じゃあ。その紅、あたしじゃなくてジルにあげなよ」
「えっ?」
「色が綺麗だからさ、あたしよりジルの方が似合うよ!絶対!」
「ふむ……」


ミドの提案に、カローンは真剣な様子で考え始める。
それを見たジルは、慌てて二人の間からすり抜け逃げた。
すかさずその手をミドが捕まえ、蒸留器の傍に置いてあった椅子へと引っ張って行く。


「まあまあ、ちょっと寄ってって」
「え、え、ミド、待って。化粧なんて私、したことがなくて……」
「だったら良い機会だ!試してみようよ」


ミドにしてみれば、面倒の矛先がジルに向いたことが、これ幸いに違いない。
そしてカローンも、ミドの提案を一蹴しない所から見て、存外乗り気であるらしい。

ミドがジルを椅子に座らせると、早速カローンが瓶の蓋を開ける。
瓶の中には、樹脂に色粉を練り混ぜた粘土状の物が入っている。
カローンが指先にそれを付け、瓶は傍に立っているミドに押し付けるように預けて、空いた手でジルの顎を捕まえた。


「動くんじゃないよ。そのままじっとしてるんだ」
「え、ええ……」


カローンの醸し出す“動くな”と言う空気と、その向こうでは何故かわくわくと瞳を輝かせているミドに見詰められ、ジルはすっかり流れに飲み込まれていた。

カローンの指先が、ジルの唇に触れる。
指はするりと唇の形に沿ってなぞり、元より薄淡色をしていたジルのそれを、そっと、微かに、彩った。
他人が唇に触れていると言うのは、なんとも不思議な感覚で、ジルは戸惑いながら、カローンの作業が終わるのを待つ。

しばしの沈黙の後、カローンは「……こんなものだね」と言って唇から指を離す。
ミドが、壁にかけている布巾をカローンに渡して、ジルの正面に来てまじまじと顔を覗き込んだ。


「ほぉ~……」
「えっと……」
「うん、良いじゃん良いじゃん!やっぱり似合う!」


ミドはまるで子供のように喜んでいた。
その向こうでは、カローンも指に残った紅を拭きながら、


「元々素材は悪くないんだ。ちゃんと手入れをして整えれば、もっと見栄えも良くなる。偶にはこういうものを使って、自分を磨いてみるんだね。女の顔は武器になるよ」
「婆ちゃんが言うと説得力あるね。でもホント、ジル、綺麗だよ!」
「あ、ありがとう……でも、なんだか、落ち着かないわね。……取っても良いかしら」


褒めてくれる二人の言葉は嬉しかったが、口元に違和感があるような、ないような───とジルは戸惑う。
普段はないものが其処に在る、と言う感触もあって、ジルは自身の唇に触れた。
その手をミドが素早く捕まえ、


「ダメダメ!今日一日はそれつけてようよ。そうだ、クライヴにも見せよう!」
「えっ」
「さっき帰ってきた声が聞こえたよ。このまま行こう!」


言うが早いか、ミドはジルの手を引いて歩き出した。
「待って、ミド」とジルは呼びかけるも、ミドは気持ちが既に向こう側へ行っているらしい。
急いで急いで、と小走りに階段を上がって行くミドに、ジルも成すがままだ。
基地に残されたカローンを見遣れば、彼女はやれやれと呆れた表情で肩を竦めたのみで、ジルとミドを見送った。

サロンを通り、デッキへと抜けた所で、昇降機が巻き上げられる音が聞こえた。
隠れ家のリーダーであるクライヴが帰ってきたことで、皆が彼を迎えに出て、賑やかな声が聞こえる。
お帰りなさい、と弾む声が重なる向こうに、数日離れていた人が帰ってきたのだと悟ると、俄かにジルの胸の奥で鼓動が跳ねる。

ジルは前を歩くミドの手を引っ張って、足を止めた。


「待って、ミド。その、私、えっと……」


なんとなく、いつものように出迎える顔が作れなくて、ジルは俯いた。
ミドも振り返ってそんなジルを見る。


「大丈夫だよ。ちゃんと似合ってるし」
「そ、そう言うことではなくて……忙しそうだから、私、後で───」
「おーい、クライヴ!」


無性に湧き上がる気恥ずかしさに、ジルが迷う暇と言うものを、ミドは与えなかった。
皆の向こうにいるクライヴに向かって、背伸びしながら大きく手を振る。
仲間たちが元気なミドの声に振り返れば、当然、その向こうにいた人も、同じように此方を見た。


「ミドか。相変わらずみたいだな」
「うん!ね、ね、ちょっとこっち来て!」


ミドの呼ぶ声に、クライヴは「ちょっと待ってくれ」と言いながら足を向けてくれる。
囲む仲間たちに、持ち帰った物資の確認と運搬を頼みながら、クライヴはミドの下へとやってきた。

そしてクライヴは、ミドの後ろに隠れるように、俯き背中を縮こまらせている幼馴染の姿を見付ける。


「ジル?どうしたんだ?」
「えへへ。ちょっとね。ほら、ジル、大丈夫だって」


隠れたがるジルを、ミドは手を引いて前へと進ませる。

自分の気持ちの整理も儘ならない内に、クライヴの前へと立つことになって、ジルは益々焦った。
右手が口元を隠してしまうのは、やはり其処がいつもと違うからで、これを目の前にいる人に見せて良いのか、覚悟が決まらない。
第一、ミドの基地には鏡と言うものがなかったから、ジルは今の自分の顔が、普段どどう違うのかも分からないのだ。
せめて自分の顔の状態をきちんと確認して、自分なりに「おかしくはない」と思う事が出来れば、覚悟の決めようもあるのだが。

俯き加減になっているジルを、クライヴはことんと首を傾げて見つめる。


「ジル?……気分でも悪いのか?」
「い、いいえ。大丈夫、大丈夫なんだけど……その……」


ジルが口元を隠しているのを、吐き気を堪えていると思ったのだろう。
クライヴの声は如実に心配を含んでいて、ジルはなんと答えれば良いか思案する。

いつまでもこうしてクライヴを拘束している訳にもいかない。
ジルは口元に当てていた手を、そろりと放して、胸の上で緩く握り締めた。
それでも俯けた顔を上げるのは、なんだか無性に恐ろしい気がして、───更に言えば、ミドに言われるままに引っ張って来られたので、ジルの方からクライヴに特別用事がある訳でもない。
何を言えば、どうすれば良いだろう、とにかく何か言わなければ、と思った末、


「えっと……お帰りなさい、クライヴ」
「ああ、ただいま」
「ダルメキアの方に行っていたんでしょう。怪我はない?」
「群れからはぐれた魔物が襲って来たくらいだな。負傷者もいないし、大丈夫だ」
「そう。良かった」


当たり障りのないことを尋ねるしか出来なくて、ジルはこれではいけない、と思う。
もう少し何か、けれど隠れ家の方も何事もなく平穏であったし、と考えあぐねていると、


「……ジル?」


じっと見つめる青の瞳に名を呼ばれ、どきりとジルの鼓動が跳ねる。
瞳は何処か不思議そうにジルの顔を見つめて、


「なんだか、いつもと少し違うか?」
「……!」
「顔色が良いと言うか───なんと言うのか……」


感じることを上手く形容する言葉が見付からないのか、ううむ、と唸るように首を捻るクライヴ。

そんなクライヴに、ジルの後ろからひょこりとミドが顔を出し、


「な、クライヴ。今日のジル、何かいつもと違う気がしないか?」
「うん……そうだな」
「いつもと比べて、変?」
「それはないだろう。ふむ……少し顔色が明るく見える。何か良い事があったのか」
「うーん、惜しい?って言うか、もう一声欲しい!」
「どうしたんだ、一体」


ジルの背中で、ミドが地団太を踏むようにして、もうちょっと、もうちょっと言って!とねだる。
クライヴはミドが何を要求しているのか、具体的に読めない事でまた首を傾げていたが、


「────ひょっとして、紅を差しているのか?」
「!」
「お!」


まじまじとジルの顔を見詰めながら言ったクライヴに、ジルは勿論、ミドも目を輝かせた。


「珍しいな」
「え、ええ。その、カローンが仕入れて来てくれたものを、塗ってくれて」
「な、な、どう?クライヴから見て、どう?」


気付いたのなら、とミドがここぞと感想を尋ねる。
クライヴは、見慣れている筈の女性から醸し出される、普段と違う雰囲気の理由を得心して、柔い笑みを浮かべる。


「似合うよ、ジル。初めて見たような気がするな」
「そう、ね。私も初めてだわ。子供の頃も、こういう事はしていなかったし」


ロザリア公国にいた頃は、まだジルも幼かった。
城使えの女性の中には、唇や頬に何某かの化粧を施していたのを見た事はあったが、少女であった時分のジル自身がそれを試してみたことはない。
あの頃はまだ幾らかの興味があったと思うが、ロザリア崩壊から此処まで、それを思い出す余裕もなかった。

そんなジルにとって、これは降って沸いたような機会であった。
カローンとミドの勢いに流されるようにして、生まれて初めて差した紅は、どうやら、ちゃんとジルに合うものだったらしい。
クライヴから「似合うよ」と言われて、ジルはようやく、胸の奥で幼い少女が笑うのを感じた。

波止場の方からクライヴを呼ぶ声が聞こえ、クライヴはそちらに応えている。
それを見たジルは、もう十分ね、と思った。


「引き留めてごめんなさい、クライヴ。忙しいのに。怪我がなくて良かったわ」
「ああ、悪いな、ジル。後でまた話そう」
「ええ」


呼ぶ声の方へと向かうクライヴを見送って、ジルはほうっと胸を撫で下ろす。
それを見たミドと目が合って、にっかりと笑う彼女に、ジルも頬を緩めるのだった。





【一途に思い続けた先へ5つのお題】
4:気付いてくれた?

ジルのちょっとした変化にも気付くクライヴとか良いなあと思いまして。
ただクライヴって良くも悪くも朴念仁な所もあると思うので、「何かいつもと違うな」って所は感じ取っても、じゃあ具体的にそれは何処かと言われると、しばらく考え込みそう。
クライヴがそんな感じで気付かなくても、ジルは「いつもと違うと感じてくれた」だけで十分と思いそう。
でもやっぱりクライヴからの「似合う」とか「可愛い」がジルは一番嬉しいんだろうなと思いました。

[16/バルクラ]鏡の前で笑顔の練習

お題配布サイト 【シュレディンガーの猫】





鏡には見慣れた顔が映っている。
黒い髪、眼窩の奥に翠、細い鼻柱、髭を蓄えた口元。
目元の下が薄らと昏いのは最早どうしようもないことで、今更にそれの血色を気にすることもない。
何年も、何十年も、見るだに見飽きた、自分の顔だ。

社長室の片隅には、小さな手鏡が諸々の邪魔にならないようにひっそりと置かれていた。
それは来客があった際、迎える前に最低限の身嗜みを確認する為に用意されたもので、それなりの頻度で使うことがある。
あるが、用途としては全くそれだけのことで、必要がないのであれば、視界に入れるものでもなかった。

しかし今、バルナバスはそれを自分の意思で手に取っている。
そして顔の前へと持って行けば、其処には先述の通り、自分自身の顔がそのまま映り込んでいた。

鏡は歪みは勿論のこと、指紋汚れの類もなく、まるで買ったばかりの新品のように綺麗に磨かれている。
お陰で其処に映る自分の顔は、自宅の洗面台に取り付けられた鏡で見た時と何ら変わらない形をしていると、確認することが出来た。
強いて言うなら、洗面台の鏡はそれなりに大きなものであるから、前に立っただけで上半身を一目で概ね確認できるが、此処にあるのは手鏡である。
長辺で精々15センチあるかないかと言う程度のものだから、映るのは首から上、全体を取っても頭いっぱいが限界だ。
棚に置いて遠目に立てば、胸像程度は映るだろうが、結局はそのくらいの物だった。
だから立ち姿でのスーツの皺を直すだとか、ネクタイの歪みがないか確かめるかだとか、そう言った目的でちらと見る以外には無用のアイテムとされている。

それでも鏡は鏡であるから、自分の顔を正確に見ようと思えば、一番手っ取り早い道具だった。
だからバルナバスは、この鏡を手に取った訳だ。
そして其処に映る自分の顔をじっと見つめている。


「………」


鏡に映る自分を眺めることは少ない。

洒落た格好を好み、それを常に整えたがる人間はいるが、バルナバスはそうではなかった。
今でこそ、立場を含めた公人として振る舞う機会が多い故に、見栄えを保つ必要性を理解しているが、そもそもはどちらかと言えば無頓着である。
躾の厳しい母の指導によって、学生時代は制服の襟ひとつと乱さぬように心得てはいたが、では自らがその律を守るべき信念を持つに至ったかと言えば、さて、と肩を竦めるしかない。
ヒトはその立場に応じて着飾るべき衣装があり、それを誰もが無意識的に求めているから、時には武器として時には鎧として、適した格好をするべきである、と言う理屈として、バルナバスは自分の衣服と言うものを選んでいた。

と、服についてはそう言う理由で、個人的なこだわりはなくとも、保つべきラインがあるのだが、此方───顔については尚更どうでも良いと思う。

鏡に映り込んだ男の顔に、バルナバスが何を思うこともなかったが、しかし、一般的には随分と不機嫌に見えるパーツをしているらしい。
例えば眉間の皺、例えば潜めた形の眉、例えば真一文字に噤まれた唇……と、挙げて行けば幾らでもあるだろう。
これで表情が忙しく動けば印象も変わるのかも知れないが、生憎とバルナバスの表情筋は固い。
それは昔からのことで、動的感情は可惜に表に出すものではないと教育されたことに加え、元より外部刺激に対する反応が鈍かったこともあり、幼年の頃からバルナバスは無表情気味であった。
この為、バルナバスの顔と言うのは、専ら不機嫌に見える顔付のまま動かない、と言うのが常態化していると言えた。

それで何が困る訳でもない。
世の中には、経営者はそれなりに愛想が振り撒ける方が良い、と言う節もあるが、かと言って、そうでなければ成功しない訳でもない。
更に言えば、世間がバルナバスの何をどう評価していようと、彼自身には大した価値もない雑言でしかない。

───ないのだが、唯一、バルナバスの耳に届く雑言も、数少ないながらに存在する。
それが零した些細な言葉こそが、今、バルナバスに鏡を覗かせていた。


「………」


そうして、鏡を手に己の顔を見つめて、どれ程時間が経っただろうか。

バルナバスは、自身の左手を目元に口元に遣り、自身の顔パーツの感触を確かめていた。
頬骨を指の腹で押したり、眉間の皺を広げてみたり、最低限に形を整えることだけを保っている髭を少しばかり摘まんで見たり。

一頻りそうして顔に触ってから、この程度の力で人間の頭蓋がどうなる訳でもないことを知る。
頭蓋の形を変えるには、きちんとメンテナンスされた機械の力で掘削しなければならない。
もう少し簡単に動くと言えば、頭蓋骨の上に乗った筋肉や皮膚の方だが、どうもバルナバスは、此処も早々楽には動かないようだ。
普段、滅多に表情を変えないのだから、肉も皮も張り付いて固くなっているのも無理はなかった。

とは言え、バルナバスとて全く表情を持たない訳ではないのだ。
喋れば口や顎が動くし、感情を持てばそれなりに顔に反映される所もある。
そして、意識して動かせば、固く張り付いた顔の筋肉も、少しくらいは形を変えるのである。

鏡の中の男が、口角を上げる。
不慣れな形を作ろうとしている所為か、頬の筋肉が微かに引き攣るように震えるのが分かった。
歯を見せるのが良いらしい、と言われたことを思い出す。
上唇と下唇の隙間を割って、鏡に白い歯がしっかりと映るようにした。

昏い目をした男が、鏡の中で歯を見せて笑っている。
……多分、恐らく、笑っている。
鏡に映る自分と思しき男の顔を見ながら、バルナバスはそう思った。

───直後に、ドアをノックする音がして、其処から間を置かずに扉が開いた。


「ちょいと失礼。社長、さっき届いた資料について確認を───」


許可の断りを待たずに、この社長室に入れる人間は限られる。
その立場を持っているのは、この会社でバルナバスが直に指名して役職を与えた、シドと他僅かな人員のみ。
加えて、本当に許可を待たずに入る度胸と付き合いがあるのは、シド一人であった。

そのシドが、部屋に入って来るなり、ぴたりと動きを止めた。
ドアの袂で停止したまま再起動しない気配に、バルナバスは鏡を見ていた顔を上げる。
その顔は、既にいつもの通りのものに戻っていた。


「……どうした」
「……いや……」


バルナバスの方から声をかければ、シドはやっとドアを潜った。
その表情は、普段は飄々とした昼行燈を装っている彼にしては珍しく、何処となくぎこちない。

シドはデスクへと近付きながら、


「まあ、なんだ。随分真剣に鏡を見てるから、一体どうしたのかと思ったんだ。来客予定でもあるのか?」


そう問いながら、バルナバスの予定はシドも概ね共有しているから、そうした予定がないことは知っているだろう。
しかし、来客の類がないのなら、シドはバルナバスの手に鏡が在る理由が分からない。
……その鏡に向けられたのであろう顔も見てしまったものだから、尚更。

バルナバスは鏡をデスクに置いて、シドの方へと向き直った。
シドが差し出した書類を受け取り、その紙面に視線を落としながら、事の理由を説明する。


「この人相は、どうも悪人面らしい」
「……」


バルナバスの言葉に、シドは「誰がそれを言ったのか」とは問わなかった。
この男に、そんなことを言い放つことが出来る人間を、シドは一人しか知らない。

傍から聞けば、言われて怒りを買う言葉だが、バルナバスの表情にそうしたものは浮かんでいなかった。
実際、バルナバス自身にとっても、この面が人に好かれるような顔でないことは理解している。
愛嬌などと言うものは無縁の人生であったと自覚があるし、それで問題が起きた事もないから、その事実を指摘された所で、バルナバスの琴線が震えることはなかったのだが、


「この顔で仏頂面をしているから、威圧しているように見える。だから人は私を怖がる───らしいな」
「……あー……全面否定は難しいのは、確かだな……」


バルナバスの言葉を、シドは濁すように曖昧な表情を浮かべつつも、否とは言わなかった。
この男が、此処で変に耳障りの良い言葉を使わない所に、バルナバスは信頼を置いている───それはともかく。


「だから、偶には笑た顔を見せた方が良いと言われた」


無表情、仏頂面、とかく感情の見えない顔。
確かにそれは、他者から見れば圧として受け取られ、相手の心理状態によっては、怒りを買ったかと思うこともあるだろう。
顔色を伺う、と言う言葉もあるのだから、其処に好ましいものが感じ取れない顔をしていれば、あるのは負の感情だと考えるのも無理はない。
バルナバスも幼年の頃は、厳しいに母に育てられた経験があるから、そう感じてしまう人間の心理と言うものは少なからず理解できる。

人は、笑顔と言う形を作ることで、緊張を緩和することが出来る。
自分は悲しい、辛い、苦しいのだと感じている時でさえ、嘘でも笑顔を浮かべることで、その精神を僅か奮い立たせることも。

そして人間は、笑顔を浮かべるものに対して、髄反射的に好意的な感情を抱き易い、とされている。


「……成程。それで、真面目に笑う練習をしてたって訳か?」


シドがデスクに置かれた手鏡を見て言えば、そうだな、とバルナバスは頷いた。

バルナバスの手がもう一度鏡を捕まえ、しげしげと鏡に映り込む自分を眺める。
左手で口の端の頬肉を摘まむが、肉は大して挟める程にもついていなかった。
加齢で肉が削げ、顔の形が骨を浮き上がらせるようになっているのも、この人相を作っている理由になるのだろうか。

どうすれば“笑顔”と言うものを意識的に作ることが出来るのか、鏡を睨み続ける上司に、シドはなんとも言い難い表情を浮かべながら、言った。


「……なんというか、な。人には向き不向きってものがあって、顔や表情にもそれはあると思う。それに、無理に作った笑顔って言うのは、取り繕ってて不自然なもんだ」
「……そう言うものか」
「お前が大して笑わなかったからと言って、これまで人がついてこなかった訳でなし。もし笑う機会があるのなら、それは自然に出て来たものだけで十分だと思うね」


シドの言葉を聞きながら、バルナバスはじっと鏡を見つめ続ける。


「お前さんが、存外恋人に甘いのと、真面目な努力でそれに応えようとしてるって所は理解できるが……俺としては、無理はしないことをオススメするかな」


そう言ってシドは、ともすれば逃げるように、回れ右と踵を返した。
書類は後で確認しておいてくれ、と言ってから、部屋を出て行く。

扉が閉じる音を聞きながら、バルナバスは昨晩の出来事を思い出していた。
熱を交えた後で、気怠さの中で過ごしていた時に、戯れのように頬に触れた手。
その存外と心地良い感触に任せていた時に、彼は言った。


『あんたは笑うと、案外優しい顔をしてるんだから。そう言う所を、他の奴にも少しは見せてやれば良いのに』


そうすれば、やたらと怖がられたりしないだろうに。
もっと色んな人に好かれるかも知れないぞ───と。

それでバルナバスが、誰かに好かれる為に笑う必要性を感じることはない。
ただ、彼がそう言うのならば、少し試してみようかと思ったのだ。
呟きながら言った彼の表情が、酷く柔く愛おしいものを見る目をしていたから、彼の言うような顔を作れるようになれば、また同じものを見れるのではないかと思って。

しかし、どうもシドの言う事を鑑みるに、自分の笑顔は不自然なものらしい。
鏡に映る自分の顔を見ても、一般的に愛嬌を覚えるようなものが出来ているとは言い難い。



鏡に映る見慣れた顔を見詰めながら、この顔がどうなれば正解になるのだろうか、と熟考するも、答えは一向に見えないのであった。






【一途に思い続けた先へ5つのお題】
3:鏡の前で笑顔の練習

クライヴが全く出て来てないけど、バルクラなんです。
恋人のクライヴが偶にしか見ることのないバルナバスの笑顔がある訳ですが、クライヴはそれが自分にだけ向けられるものだと気付いてないと言う。
そしてバルナバスも自分がそうことをしている自覚がないので、真面目に笑顔の練習なんてことをしていたら、うっかりシドが目撃してしまったのでした。

バルナバスって根が超真面目な人だと思っている。
なので真面目に“模範的な笑顔”の練習をしていたようですが、クライヴが見たのはもっと自然な、ふっとした時に零れたものなんでしょうね。

[16/シド]三回、深呼吸する

お題配布サイト 【シュレーディンガーの猫】






ああ、まただ。
どうにもならない遣り切れなさと、此処まで走ったなら十分だろうと、無理やりに自分を納得させる為の思考を反復する。
体を否応なしに苛む感覚が響く度、そんなことを繰り返す。

それなりに人生経験は豊富だと自負している。
それは生きて来た流れでそうなったとも思っているし、単純に、生きた年数からそう思う所もある。
長い間剣を握って生きる者のうち、自分の年齢まで生き長らえた者は、相当な幸運持ちに違いない。
流れの傭兵をしていた時も、分不相応な立場に祀り上げられていた時も、それらを全て捨ててからも、死神はいつだって隣にいた。
雷帝の力に目覚めたとてそれは変わらず、寧ろ、その負荷によって死神がけたけたと笑う聲が酷くなったように思う。
さあお前はいつまで持つかな、とでも謡うように。

左腕が軋むようになった。
左手の感覚が鈍くなった。
左肩が上がらなくなった。
少しずつ少しずつ、確実に、この身を蝕む毒は拡がっていく。
お前の理想など叶うことはない、叶えるまでにその身は砂になって崩れるのだと、笑う死神の聲がする。

この現象は、逆転することはない。
様々な文献を紐解いて記録を漁ってみたが、治療の方法は何処にもなく、今の所、新たにそれが見付かりそうな気配もない。
腕の良い医者が仲間になってくれたから、彼女に協力を仰いで色々と研究して貰ってはいるが、何にせよ、こうした研究は一朝一夕で叶うものでもなかった。
医者故にその進行度の重要性をよくよく知っている彼女には、本当に、厭なことに付き合わせていると思うが、彼女は「私は医者だから、これは私がやるべきこと」と言ってくれる。
強い仲間がいてくれることが嬉しかった。

その傍ら、一人、また一人、静かに朽ちていく仲間を見送る。
静かな寝床で眠るように逝けた者が、一体何人いただろうか。
呻き声を仲間に聞かせたくないから、子供たちを怖がらせたくないからと、調合した()で最後の眠りに就く者を見る度に、また救えなかったと歯を噛む。
自分の意思で、自分が最後に眠る場所を選べるのだから幸福だと、そう言ってくれる仲間の言葉が、せめてもの慰めだった。

そしていつか、自分も其処へ行くのだろう。
皮膚を白むものが拡がっていくのを見る度に、その現実を目に焼き付ける。

ただ、それでもまだ、止まれないのだ。

黒の一帯の只中にひっそりと作った、隠れ家の一番奥の部屋。
商売っ気の強い仲間のお陰で手に入った、丈夫で質の良いデスクは、こんな環境でも光沢を失わない、上等な代物だ。
その天板に広げた地図は、ある一地域を広く記したものから、誰も知らない密かな地下道まで綴られている。
部屋の主が思考の為に広げたものだが、今その人物───シドはそれを見ていない。


(……くそ。まだ痛む)


右手で握り潰すように掴んだ左腕は、鈍く重い痛みを発している。
痛み止めを使えば多少は柔らぐだろうが、手持ちのものは使い切っていた。
タルヤの下に貰いに行くのは難しくないが、最近、それの消費が激しいことを知られれば、彼女にどんな顔をさせてしまうか、想像は易い。
頻度が増えていること、痛みの度合いが酷くなっていること、それを軽減する方法が殆どないこと───どれもが彼女にとっては悔しいに違いない。

そして隠れ家の長たるシドの不調が続けば、その事実は次第に隠れ家全体に広がって、此処で生活している者たちに不安を覚えさせてしまう。
この場所以外で、ヒトとして生きていくことが出来ない者たちにとって、それは換え難い恐怖になるだろう。
彼らが安心して日々を過ごせるように、シドは出来るだけ、この痛みを隠し通さねばならなかった。

懐から愛用の煙草を取り出して、口に咥える。
いつものように指先で火をつけようとして、痛む体がそれを妨害した。


「……煙草も満足に吸えんか。いよいよかもな、これは」


小さく呟けば、虚しい声音が冴えた空気に溶けるように消えていく。
苦い表情に笑みが浮かぶのは、そんな顔でもしなければやっていられない、意地と自嘲によるものだ。

そもそも、煙草なんてものは、痛む体に鞭を打つようなものだ。
だからタルヤは毎度顔を顰めてくれるのだが、数少ない趣向品であることと、言っても聞かないと言う諦めか、取り上げることはしなかったし、カローンに仕入れてくれるなとも言わない。
それは恐らく、“煙草を吸うシド”と言う姿が、隠れ家で暮らす人々にとって、一種の安心材料として受け入れられているからだろう。
何でもない日常の中に溶け込むその風景の為に、タルヤはあくまで医者として、苦言を呈す以上のことはしなかった。

───ふう、とシドは意識して細い息を吐き出す。
そうしてもう一度、指先に燈した魔力で、煙草の火をつけた。


「………ふーーー……」


煙をたっぷりと肺に送り込んで、薄暗く高い天井に向かって吐き出す。
燻る紫煙はゆらゆらと波打つように揺らめいて、洞窟特有の冷たい空気の中に混じって見えなくなった。

咥え煙草のまま、シドは自身の左手を見た。
指先を動かすと、まだ其処に神経が通っている感覚がある。
手のひらを握り、開き、と繰り返しながら、じんじんとした重い痛みが体にかける負荷の具合を確かめた。


(……まだ動く)


全くの健全にと言う訳ではなかったが、感覚はあるし、思った通りに指も動く。
この手で剣を握れと言うのは聊か厳しいが、精密な操作をしない魔法を撃つなら問題ないだろう。
まだ前線に立つことは出来る。

だが、鬱陶しいことに、痛みの感覚は未だ治まる様子はなかった。
表面に見えるだけでなく、皮膚の内側、肉の内部でも、浸食が進んでいるのだろう。
こうなってくると、内側から訴える痛みが簡単に止んでくれることはない。

……がやがやと、ドアの向こうから遠く賑やかな声がする。
耳を欹ててみれば、どうやら魔物の討伐に出ていた仲間たちが戻ってきたらしい。
ついでに何か良い収穫が手に入ったのか、何処かはしゃぐように高い声も聞こえてくる。
今日の厨房はいつもよりも忙しく、ラウンジは賑やかになるかも知れない。

────と、言うことは、とシドが考えると同時に、足音と声がこの部屋へと近付いて来るのが分かった。


「だからよ、あそこの道は結構厳しいんだって」
「でも越えられるなら、あそこを通った方が効率的だろう」
「そりゃそうだけど、魔物だって多いんだぜ。安全取るなら、迂回した方が良かったよ。まあ、何もなかったけどさ」
「迂回ルートは落石があるだろう。魔物なら俺が切れば済む」


言い合う会話が聞こえてきて、随分仲良くなったもんだ、とシドは小さく笑う。

その傍ら、煙草を指に挟んで、煙のない呼吸を一回、二回と繰り返した。
意識して深く吸い込んだ空気を、ゆっくり、途切れないように意識しながら細く長く吐き出す。
体が訴える鈍い痛みを、静かに蓋をするように、体の奥底へと押し込んでいく。

最後の一息は、煙を飲んでから。
口元に当てた煙草から、重石を乗せるように、腹の底に己が抱えるものを閉じる。

ゴツゴツ、と固い感触のノックがドアの向こうから聞こえて来た。
来たぞと報せる為だけの音に、シドが返事をしなくても、扉は向こう側から開かれる。


「戻ったぞ、シド」
「聞いてくれよ、シド。こいつまた無茶してさあ」


部屋にやってきたのは、クライヴとガブだった。
その顔は分かりやすく疲労が滲んでいるが、ともかく報告だけは先にしておこうと、帰った足で此処まで来たのだろう。

報告よりも何よりも、先ずは相方がまたしても無茶をしてくれたことに、ガブの愚痴が始まった。
なんとか言ってやってくれ、と顔を顰めて言うガブに、クライヴは物言いたげに眉根を寄せているが、未だ口数ではガブの方が分があるらしい。
ああでこうでと身振りに説明するガブを、時折反論するように何某か挟むクライヴだが、ガブはお構いなしに喋り続けた。

ガブの愚痴は止まらないが、そんな話が報告代わりに出て来ること、それをクライヴが制止しない所からして、今日の魔物討伐は無事に終わったと言う事だろう。
若しも深刻な負傷者がいるのなら、ガブもこうは言わないし、クライヴの表情ももっと昏い。
だからシドは、ガブの気が済むのを十分に待ちながら、肺の中に取り込んだ煙をゆっくりと吐き出してから、いつものように「ご苦労さん」と笑うのだった。



あと少し、もう少し。
その少し先に行き付くまで、煙に隠した深呼吸を繰り返す。






【一途に思い続けた先へ5つのお題】
2:三回、深呼吸する

恐らく、シドとクライヴが出逢った時点で、シドの体の石化は既にそこそこ進んでると思うんです。
石化すると動かないのは勿論、痛みを発する他、感覚神経の鈍麻もあるんじゃないかなと。
でもシドはドレイクヘッドに向かう時も、クライヴに自分の体がそうであるとは言わないし。
タルヤを筆頭に、付き合いの長い面々には石化のことは知られていても、それが内包的に何処まで進行しているかと言うのは、大分隠していたんじゃないかと思っています。
自分がいなくなっても大丈夫、と思える環境が出来るまで、自分の後を託せる人を得られるまで(結果的に最期まで)、シドは隠れ家に置ける自分の存在の重要性を鑑みて、結構色んな事を秘密にしてたんじゃないかなあ……

[16/ジョシュクラ]ぼくの心音が聞こえますか

お題配布サイト 【シュレディンガーの猫】





互いの存在を確かめ合うように肌を重ねた後は、その名残の余韻に酔いながら、ゆっくりと眠りの沼に落ちて行く。
兄と言う存在をこの腕に抱くことへの罪悪感や、不謹慎にも背徳に興奮が混じる感覚は、もう遠退いた。
今はただ、彼と言う存在が傍にあるという現実と、彼が自分に身を委ねてくれることを嬉しく思う。

この隠れ家の長として、皆の好意から特別に誂えられた兄の部屋は、夜半になれば人の気配が随分と遠い。
それが皆からの配慮による遠慮なのか、偶々、この隠れ家がそう言う構造で出来上がった結果なのかは、つい最近此処に来たばかりのジョシュアには判らない。
訊ねれば、兄にせよ幼馴染にせよ、この隠れ家が完成するまでの経緯を教えてくれそうだが、どうしても知りたいと言う訳でもない。
その内、話の種にでも出来る機会があれば尋ねてみても良いとは思うが、今の所、そう言うタイミングは回っていなかった。

ともあれ、そのお陰で、こうして自分は兄を抱くことが出来るのだ。
聞きたいのに声を抑えてくれる兄に、少し勿体なくは思うけれど、隙間風も多い環境だから仕方がない。
以前の隠れ家が敵の急襲によって悲惨な最後となったのは聞いている。
あの時のことも鑑みて、また“石の剣”と名を冠したベアラーたちによる戦闘可能なメンバーを起用したことにより、其処から隠れ家には常に見張り役が立つようになった。
夜になってもいくつかの篝火は灯されており、何某かあればすぐに兄の部屋へと報告が来るように手筈を整えているから、───つまるところ、あられもない兄の声なんて大っぴらに聞かせる訳にはいかないのである。
また、兄が声を抑えるのは、過去の経験に因る所も多く、此方に関してはジョシュアはそれこそ悔しい砌であったが、それを口に出せば彼を困らせるのも分かっている。
だから幾つかの不満と言うのは、根本的にジョシュアの気持ちとして片を付けるしかない。
それでいて、そんな環境でも抱きたいと願う弟の気持ちを、兄が汲んでくれての行為なのだから、これ以上を望むのは至極贅沢なのだ。

子供の頃よりもずっと体力がついたとは言え、やはり、性行為と言うものは多量のエネルギーを消費してしまうものだ。
胸の痛みも堪えながらに没頭していることも少なくはなく、それを打ち消す為により一層熱を追うこともある。
そして、何より、兄の体が持つ体温が、その内側の熱が心地良くて、理性と言うブレーキを飴蜜のように溶かしてしまう。
人の体とは、その内側とは、こんなにも心地の良いものだったのか。
いや、これは他でもない兄だからこそ、得られるものに違いない。
重ね合う度、まるで元々ひとつであったものが分かたれていた、それが元に戻ろうとしているかのような感覚は、他の何かで得られるようなものではないのだから。

今日もまた。ベッドの軋む音が終わって、ジョシュアは程なく意識を飛ばしていた。
ゆるゆるとした感覚で目を覚ました時には、もう部屋の中はすっかり静まり返っていて、湖面の微かな小波の音が聞こえてくるほど。
どれくらい寝ていたのだろう、と時間の導に枕元の蝋燭を見遣れば、記憶よりも随分と短くなっていた。
最後にそれを見たのは、事を始める前だったから、最中に半分は消費していたとして───あと一時間もしない内に蝋の殆どが形を失くすだろう。
と言うことは、一刻程度もすれば未明にはなるだろうか。

そんな事を薄ぼんやりと眠気の残る頭で考えていると、きしり、と小さくベッドの軋む音がした。

寝台は決して上等な代物ではなく、木箱を幾つか並べ、その上に板を据え付け、厚めの布や綿材をリネンで包んだ、簡素な代物だ。
それでも病人用の救護所にあるベッドを除けば、この隠れ家では上等な部類ではあるらしい。
資金も資材も限られた環境にあって、「シドには出来るだけ良いものを」と皆の好意で誂えられたそれを、兄は十分に気に入っている。
そこで弟と熱を交えることに対する罪悪感は、聊か否めない所はあるようだが。

決して大きくはないベッドの上で身動ぎをすると、自然と音が鳴るし、マット替わりのリネンが体重の移動で少し傾く。
ジョシュアは、隣にいる男───兄クライヴが目を覚ましていることに気付いた。
彼はジョシュアの隣で片膝を抱えるような格好で、部屋の格子の隙間に覗く夜の湖畔を眺めているようだった。
ジョシュアが目を覚ましていることには、どうやら、気付いていない。


(……寒くはないのかな……)


差し込む月明かりが、兄の裸身を柔く映し出している。
今日の湖畔は風も少ないから、身震いするようなことはないだろうが、熱を交えたばかりなのだ。
ジョシュアは体にその名残もあって、時折湖面から昇って来る冷気との温度差を感じていた。

均整の取れた体躯は、外界で過ごすに当たり、傭兵だと言えば十分に通用するものだった。
その立派な体躯を駆使すれば、組み敷くジョシュアを投げ飛ばすのも簡単だろうに、彼は決してそうしない。
弟に抱かれながら、何処か嬉しそうにはにかんだ笑みを浮かべてくれることを、ジョシュアがどんなにか嬉しく思っているか、彼は知っているだろうか。
知らなくて良い、と思いつつ、こんなに嬉しいんだ、と言うことを知っても欲しいと、ジョシュアは密かな我儘を抱いている。

触れたいな、とジョシュアは唐突に思った。
直ぐ其処にいる、兄の体に、その心に、触れたい。
少しくらいなら良いだろうか、と投げ出している右手を持ち上げようとした所で、また、きし、とベッドが鳴った。

透明な青い瞳が此方へと向くのを見付けて、反射的に目を瞑る。
今、彼と目を合わせてはいけない。
合わせず、このまま、自分は眠っていることにした方が良いと言うことを、ジョシュアは経験で知っていた。


「………ジョシュア」


名を呼ぶ兄の声にも、努めて反応しない。
眠っている、と言う格好を崩さないように、ジョシュアは規則正しく、呼吸していた。

夜の闇色に閉じた視界の代わりに、聴覚が情報を集めている。
ベッドが静かに、ゆっくりと、出来るだけ音を立てないように、軋んでいるのが聞こえた。
それが、疲れているであろう弟の眠りを妨げないようにと言う、クライヴの気遣いであることは知っている。

ジョシュアの手に、大きくしっかりとした、温かい手が重ねられる。
クライヴの手だ。
反射的にそれを握り返そうとして、ジョシュアはその衝動を抑えた。

クライヴの手がゆっくりと、ジョシュアの手首、腕、肩を辿って行く。
起こさないように、と隠れ祈るように兄が触れているのを感じながら、ジョシュアは静かに息を吐いた。
鳴る心臓の波が平静になるように、努めて、努めて。

そして肩を、鎖骨を辿ったクライヴの手は、やがてジョシュアの胸へと辿り着く。
其処には忌々しいものを封じ込めた軌跡の石が根を張り、今も蠢くそれが血管を侵食するようにして息衝いている。
今この時は大人しく静かなそれも、ふとした時にジョシュアの体を奪い取らんとばかりに喚き出すから、鬱陶しいばかりだ。
だが、これがあるから、兄は今、兄として存在している。
嘗て守られるばかりだったジョシュアにとって、この身を持って兄を守っている証明とも言えるそれは、誇りのひとつにも思えた。

その歪な誇りに、そっとクライヴの手が重ねられる。


(ああ────其処には、触れないで欲しい、のに)


其処にいるのは、他の誰でもない、貴方を蝕もうとしているものだ。
だから、万が一にも其処から浸食を受けない為にも、貴方には触れないで欲しいのに。

ジョシュアの祈りが、兄に届く事はない。
その傍ら、この痛々しい痕跡があることが、兄を守ると言うことを文字通りに体現していることが、誇らしくもあるのだ。
その誇りに兄が優しく、労わるように触れてくれることへの喜びもまた、誤魔化せない自分がいた。

そしてクライヴは、ゆっくりと、ジョシュアの胸に頭を乗せる。
癖のついた、この環境では仕方もあるまいに、碌に手入れもされていないのだろう伸ばしっぱなしの黒髪が、ジョシュアの胸元をくすぐるように掠める。
ジョシュアが、今ならきっと大丈夫、とこっそりと目を開けてみれば、思った通り、弟の胸元に耳を当ててじっと鼓膜を潜めている兄の姿が見える。


「………」
(……兄さん)
「………」
(……兄さん……)


声になく呼ぶジョシュアに、クライヴが答えてくれることはない。
きちんと呼べば直ぐにクライヴは返事をしてくれるだろうが、その代わり、直ぐに跳び起きてしまうだろう。
彼はきっと、今自分がやっていることを、ジョシュアに知られたくはないだろうから。

胸に押し付けられた、クライヴの耳の凹凸の感触。
目を閉じた兄が何に意識を研ぎ澄ませているのか、ジョシュアは痛いほどに分かる。


(兄さん……聞こえている?)
「………」
(僕の心臓は、まだ……音がする?)


クライヴの耳元で、その密着したジョシュアの皮膚と肉の奥で、息衝く臓器。
生命のあるものならば須らく存在し、脈を打っている筈の、心の臓。
それをなくして人は生きていることにはならないから、それが動く音を発し続けていることが、ジョシュアが生きている証になる。

嘗てジョシュアは、肉体の殆どを喪う程の傷を負った。
その時の自分自身をジョシュアは認識してはいなかったが、目覚めた時、体が指一本と動かすことも出来ず、フェニックスの力による傷の修復と、その力の負荷とそもそもの損傷による肉体の崩壊が、同時進行で進むと言う状態にあった。
傷みか熱かも分からない感覚に、何年苛まれたのか分からない。
その間、其処にない兄に援けを求め、脳裏に浮かぶ父の最期の夢を繰り返し、フェニックスゲートで起こった出来事の顛末を聞いてからは、兄が死んだと言う絶望感に生きる気力すら喪った。
それでも生きて貰わねばならないと、傅く者たちに根の国へ渡ることを阻止され続けていたけれど、心のどこかで思っていた。
自分はとっくの昔に死んでいて、大事なものを何もかも失ったのに、自分一人だけが持ち得る力によって活かされていると言う、罰の夢を見続けているのではないかと。

ようやく体が動かせる程度になって、兄が生きていたと言う報告を聞いた。
同時に知った、あの異形の炎の怪物が兄であったと、自分を半死半生の身にしたのが彼であったと知って、愕然とした。
だが、兄が本当に、その意思でジョシュアを手にかけるとは思えない。
そう言う人ではない、とジョシュアは知っていた。
だから騎士団にも、彼を伏すべしと言う者たちを黙らせて、作為は他にあると信じたのだ。

真実を探して、生き延びた意味を探して、いつかもう一度兄と再会できる日を夢見た。
果たして幸運なことにそれは叶い、今こうして、ジョシュアは兄と共に過ごす夜を得ている。
これ以上の僥倖があろうか───そう思うからこそ、尚更、今この時間があることが、文字通りの夢であるような気がしてならない。
今と言うこの瞬間が、とうに果てた死人が、己が死んだと忘れる為の、都合の良い夢なのではないか、と。

そんな途方もない不安に支配される度、ジョシュアは兄を求めた。


(兄さん。兄さん。貴方が、僕が生きていると、そう思ってくれるなら)
「………」
(僕はまだ……きっと、生きているんだ)


身を寄せ、胸の鼓動を聞くことに意識を集中している兄。
彼もまた、嘗て弟を守れなかったと、喪ったと思い、途方もない自責に駆られていたと言う。
いや、今もその自責の念は彼の中で消えた訳ではなく、時折、こうして弟の生存が現実であることを確かめる時間を欲している。

そうして、やがてクライヴは、ほう……とゆっくりと息を吐き、


「……ジョシュア」


安堵したように弟の名を呼び、その手がジョシュアの頬へと触れる。
するりと滑る手のひらの感触に、ジョシュアは目を開けようとして、堪えた。
まだ、起きてはいけない。

ベッドの軋む音がしばらく続いた後、それは静かになる。
ジョシュアがようやくに目を開けると、格子窓の向こうから、差し込み始めた光が見えた。
隣で息衝く気配が規則正しいものであることを確かめてから、ジョシュアはそっと起き上がる。


「……兄さん」
「……」


此方を向いたまま、目を閉じている兄に呼び掛けても、返事はない。
すぅ、すぅ、と繰り返される小さな寝息に、兄が短く深い眠りに就いていることが分かった。

ジョシュアはそっとクライヴの首筋に触れ、其処で血脈がとうとうと流れていることを確かめる。
兄が自分の胸元で、その鼓動を感じていたのと同じように、ジョシュアも彼が生きていることを感じたかった。
そうして兄の生を確かめては、ジョシュアもまた、ほうと安堵の息を漏らす。

何度こうして確かめても、きっとまた、兄弟はそれぞれの生の証を確かめるのだろう。
鼓動の途絶えた夢に苛まれた十数年と言う月日は、余りに長く、余りに強い。
それはジョシュア自身の力で拭うには余りに根付き過ぎているから、ジョシュアは兄に確かめて貰う他に、自分の生と言う現実を受け止めきれない。


(兄さん……また、聞いてね。僕が今、生きているってことを)
「……」
(生きて、貴方の傍にいられるんだって言うことを……確かめたいから)


祈りのように思いながら、ジョシュアは眠るクライヴの唇に、そっと己のものを重ねる。



────もしもいつか、心音を確かめるクライヴの唇から、安堵が零れることがなくなったら。
名を呼ぶ声が微かな喜びの音ではなく、嗚咽を押し殺したものになったとしたら、きっとその時、自分は遂に死んだのだろう。
その時から、この柔くて温かい感触は、夢の泡になって終わるに違いない。

自分自身の心臓が、確かに動いていることを、誰よりも信じているクライヴに確かめて欲しい。
此処に在るのが、夢の産物ではないことを。
此処にいる兄が、自分にとって都合の良い幻ではないことを。
生きて、再会して、熱を交え合っていることが、現実であると言うことを。

何度でも、何度でも────





【一途に思い続けた先へ5つのお題】
1:ぼくの心音が聞こえますか

お互い生きて再会できたことを嬉しく思っているけど、都合の良い夢幻じゃないかと不安になってる二人。
クライヴはそもそも十年以上、死んだ、殺したと思っていたジョシュアが生きていたと言うことに。
ジョシュアは兄と再会できたことも勿論ですが、フェニックスゲート事変で普通なら死んでいる状態まで陥ったことから、自分自身が生きて兄の傍にいられると言う現実そのものに。

知られていないつもりで、何度も相手が生きてることを確かめていたりするかも知れないな、と思ったのでした。

[シドクラ]零れる心を紐解いて



外での用事を済ませて会社に戻ってくると、ロビーに見知った顔がふたつ、その繋がりから知るに至った顔がひとつ。
黒、金、銀と揃った光景は、実の所、シドが見たのは初めての事だった。

紆余曲折の末、シドが引き取る形で面倒を見るようになった、クライヴ・ロズフィールド。
その弟であり、世界でも有名なロズフィールド家の現当主である、ジョシュア・ロズフィールド。
そして二人の幼馴染であり、偶然の事ではあったが、此方もまたシドの下で事務員として籍を置いている、ジル・ワーリック。

三人は、遡れば幼少の頃からの付き合いで、クライヴがロズフィールド家を実質放逐される形で出て行くまでは、よく一緒に過ごしていたのだとか。
クライヴが実家を出た後、ジルも大学卒業を機に一人立ちしたそうだが、その後がクライヴ同様に良くなかった。
ジョシュアはと言うと、彼は彼で己の意思とは関係なく、実家を支えねばならない立場にあった。
それぞれの道が大きく異なってしまったことにより、三人は長らく互いの連絡さえも取れず、疎遠な状態になったと言う。

それが、シドがクライヴを拾った頃から、星の巡りは再び彼らを引き合わせた。
当分は各々の事情もあり、長らく離れていた故の気まずさがあったようだが、今となっては昔話だ。
クライヴとジルは職場で毎日のように顔を合わせ、時折一緒に出掛けに行くこともある。
其処にジョシュアも加わるようになって、懐かしく親しい顔が揃い、三人で食事の予定を立てることも。
生憎とジョシュアの予定がよく変わるので、三人揃って楽しめるタイミングと言うのは限られているそうだが、それでも逢える機会があると言うのは嬉しいことであった。

シドの会社が事務所として所有しているビルは、それ程大きくはない。
ロビーは受付窓口を設置している他は、待合用のテーブルとソファが一揃いしている位で、後は階段とエレベーターと、自販機が設置されている。
待合スペースには一応のプライバシーとして、簡素な衝立を設けているが、人の気配を遮る程のものではない。
だからシドが帰ってきた時、其処に誰かがいることは、話し声が聞こえた事ですぐに判った。
次いで、記憶力の良いシドだから、聞こえる声が誰のものかと言うのも、直に確かめなくても察しがついた。


(曲りなりにも上司が割って入るのは、野暮ってものだな)


ジョシュア・ロズフィールドは、世に名を知られるロズフィールド家の筆頭だ。
ビジネス的なことを言えば、他愛のないことでも挨拶だけでも、と思う所だが、今待合室にいる彼はそう言うつもりで此処に来た訳ではないだろう。
もしもジョシュアが公人として此処に来るなら、事前に社長であるシドにアポイントメントを取る筈だ。
それがなかったと言うことは、今日此処にいる彼は、一介の私人である。
しかし、それでもシドがあの空間に入れば、ジョシュアは“ロズフィールド家代表”としての顔を作るだろう。
彼の背負う立場がそう言うものであることを、シドは理解していた。

今日のジョシュアは、ただ兄の顔を見に来たのだろう。
時間は正午を過ぎていて、業務も昼休憩を迎えた所だから、この時間なら兄や幼馴染の邪魔にならないだろうと計算して来たのだ。
それなら、今日はこのまま上がってしまおう、とシドはエレベーターのボタンを押した。



シドが仕事を終えて家に帰ると、一足先に帰宅したクライヴが夕食を作っていた。
二人揃って食事を摂り、シドが片付けを引き受けた間に、クライヴが風呂に入る。
それからシドも湯を貰った。

のんびりと少しばかりの長湯をして、ビールの一杯でも飲んでから寝室に行こうとダイニングに入ると、テレビの前のソファにクライヴが座っている。
その手には携帯が握られ、どうやら弟と話をしているらしかった。


「ああ、俺の方は大丈夫だ。ジルも問題ない。……それなら、21日にしよう。お前もその方がゆっくり時間が取れるんじゃないか?」


何やら、兄弟幼馴染の三人で、予定を擦り合わせているようだ。

クライヴは実の母とは折り合いが悪いが、他の家族───弟ジョシュアや父とは良好な間柄だ。
実家を出て以来、疎遠になってしまった兄弟だが、再会の機会に恵まれて以来、折々に二人で出掛ける時間を作っている。
其処へジルも誘い、積もる話を重ねたり、仕事について相談したりと、良い過ごし方が出来ているらしい。

クライヴは「じゃあまたな」と小さな笑みを浮かべて言った。
携帯電話の通話を切ると、メッセージアプリを開いて、誰かにメールを送っている。
恐らく、一緒に出掛ける予定のジルに、決まったスケジュールについて連絡を送っているのだろう。

シドはビールを片手にソファに座った。
風呂で温まった身体に、よく冷えたビールを流し込む。

クライヴはしばらく携帯電話を触り続けた後に、満足げな表情でその画面を閉じた。
喜びを隠せない様子の横顔に、相変わらず弟に関しては分かりやすい、とシドは思う。


「家族サービスか?」
「ジルとジョシュアと食事に行く。21日の昼に決めた」
「了解。のんびりやって来い」


カレンダーを見ると、二週間後になっている。
恐らく、その日が最もジョシュアの時間が取れる日だったのだろう。
世界に名だたる大企業を幾つも抱える、ロズフィールド家筆頭と言う立場を持つジョシュアは、中々プライベートな時間を確保するのも難しい。
それでも、長い音信不通の末にようやく再会できた兄と会うことは、吝かではないようだ。
元々、兄弟仲も良いものだと言うから、離れていた時間を取り戻す感覚なのかも知れない、とはジルの言葉である。

家族と過ごす時間が取れたからだろう、クライヴは上機嫌だった。
ビールを傾けているシドを見て、俺も貰おう、と言って席を立つ。
キッチンに行き、戻ってきた彼の手には、ビールと作り置きの摘まみがあった。


「あんたも食べるか」
「貰おう」


寝る前のささやかな晩酌は、テレビを眺めながらのんびりとしている。
シドはそれを見るふりをしながら、ちらと隣を覗いてみた。

ビールを飲むクライヴの口元は、すっかり緩んでいる。
余程に気に入らないことでもなければ、基本的に温厚な質であはるが、顔の筋肉はそれ程動く方ではない。
鉄面皮とまでは行かないが、長らく真っ黒な環境で過ごしていた名残が抜け切らないのか、ともすれば仕事中は顰め面に受け取られることは儘あった。
ただ目元によくよく感情が映るので、機嫌の良い時と言うのは分かりやすい。
特に家族にまつわるものは、その理由が良かれ悪しかれ、明け透けにその時の感情が見えるものだった。

其処までクライヴが感情を露わにする相手と言うのは、限られている。
そして、クライヴが穏やかに和やかに話が出来る相手と言うのは、彼が家族と想っているジョシュアやジル以外にはまずいない。


(この顔は、俺には向けるものじゃないからな)


シドのこの分析は正確だ。
クライヴ自身に人との接し方に分け隔てを作っている意識はないだろうが、それでも彼にとって家族は特別である。
それは、シドが娘のミドを大切に想っていることと違いはない。

そもそもがシドとクライヴは、数年前に逢ったばかりの間柄だ。
どうにも放っておけずに、あれこれと面倒を見る内に、一日の殆どを共に過ごす、パートナーと呼べる関係になったが、付き合いの時間はまだまだ浅い。
クライヴは実家を出て以来、家族とは長らく疎遠になっていたが、彼自身はずっと家族のことを愛していた。
そしてジョシュアやジルも、クライヴのことを昔と変わらず愛している。
共に過ごして培ってきた時間や、心の繋がりの長さ深さと言うものは、シドは勿論、他者と比べるべくもない。
元々彼らは特別な間柄なのだから、シドが割って入れるものではないのだ。

───そう分かっている癖に、どうにも口の中が苦くなって、シドは誤魔化すようにチップスを噛む。
塩気が舌の上で目立つほど、喉の奥で中途半端に詰まるものがあるのが判った。


(どうやったって、こいつにとって一番特別なのは、あの二人だ)


理屈ではなく、当たり前にそうなのだろう、とシドも分かっている。
そしてシドも、どんなにクライヴと一緒に過ごし、彼が特別な存在になるとしても、最も大事で守りたい存在が、一人娘であることにも変わらない。
それを差し置いて、クライヴがこと大事にしている者たちがいる事に対して、羨望するなど図々しい。

今夜は、らしくもない方向に思考がよく転がるようだ。
あまり飲み続けると悪酔いするかも知れないな、と思いつつも、開けたビールを中途半端に捨てるのも少々勿体なかった。


「……クライヴ。飲むか?」
「急だな。もういらないのか」
「そんな気分らしい」


飲みかけになるがと差し出したビールを、クライヴは受け取った。
クライヴが自分で持ち出してきたビールは、既に空になっている。
追加になったシドのビールもまた、クライヴはそれ程時間を置かずに飲み干した。

空になった缶ビールと摘まみを持って、クライヴは片付ける為に腰を上げる。
キッチンシンクから水が流れる音が聞こえるのを、シドはソファに座ったまま聞いていた。

しばらくして、片付けを終えたクライヴがダイニングに戻ってくると、動いた様子のないシドを見て首を傾げる。


「シド、大丈夫なのか。寝るならちゃんとベッドに行った方が良い」
「ああ。ちょっとな、考え事をしてただけだ」


クライヴの声に、確かにこのまま過ごすのは良くない、とシドは体を起こす。
アルコールも入った事だし、酔う程の所まで言っていなくても、ぼうっとしていると寝落ちてしまいそうだった。

クライヴは心なしか心配そうな顔で、じっとシドを見詰めている。
シドはそれを見付けて、そんな顔をさせる程に見えるか、と苦笑した。


「問題ない。寝れば忘れるような考え事だ」
「……」
「信用ないか?」
「……ないな。あんたはそうやって、大概、肝心なことを誰にも相談しないと、オットーが言っていた」
「手厳しいな。まあ、あいつには色々押し付けてるからなぁ」


無茶振りもしてるしな、と自覚していることを呟けば、クライヴはなんとも言えない顔で溜息を吐く。
その溜息は、付き合いの長い旧友への同情か、考え事云々をはぐらかすシドの態度に対してか。
後者の方が大きそうだな、とシドは立ち尽くす青年の顔を見ながら思った。


「ちょっと酒が回っただけだよ」
「……なら、良いが」


言及した所で、シドが仔細を口にしない事を、クライヴも分かっている。
だからか、クライヴは納得の行かない、少し拗ねたようにも見える表情を浮かべている。

それはきっと、彼が家族に対して見せることのない顔だろう。
ジョシュアにしろ、ジルにしろ、ひょっとしたら実家にいる父母にしろ、クライヴにとっては自分を律する理由になる。
それは自分を育ててくれた父母の期待に応える為であったり、敬愛の念を向けてくれる弟や、慈愛を寄せてくれる幼馴染に対する、クライヴ自身の矜持なのだ。
幼い我儘は早い内に卒業し、模範的な兄になるべく、研鑽して来た積み重ね。
元々が責任感の強い性格をしているから、彼らが思う自分自身であれるようにと、幼い頃から繰り返し身に沁みついた意識に違いない。

家族以外が相手でも、クライヴの拗ねた顔や、弱った表情を晒す相手は少ない。
それは、自分の事で他人に迷惑をかけてはならないと思うからだ。
根本的に隠し事は上手くないクライヴだが、些細な体調不良や戸惑いは、大抵は相手に察させまいとする。


(……だが、俺には随分、分かりやすい)


少なくとも、シドから見たクライヴは、大体どんな時でも判りやすかった。
シドが他者への観察眼に慣れているのもあるが、クライヴはシドの前では、何処か子供っぽい様子を露骨に晒すのだ。
一番最初に、ブラック企業で歯車と化していた、二進も三進もならない所を拾ったからだろうか。
今更、シドに対して取り繕う意味もないのか、或いは家族や仲間とも違う枠にあるからか。
不満の滲む顔や、嫌味を交えた返し言葉なんてものも、向けに行くのはシドくらいのものだ。

そう思った途端に、口の中の苦いものが消えていく。
存外自分は現金だと自嘲しつつ、シドは訝しむ顔を浮かべているクライヴに手を伸ばし、


「クライヴ」
「何────」


呼んだ名前に、律儀に返事をしようとしたクライヴの唇を、シドの唇が掠める。
不意打ちに触れたそれは僅か一瞬のことで、クライヴは先ずその距離感にシドがいた事に驚いていた。
丸く見開かれた目が、存外と幼い顔立ちをしているクライヴの、不意打ちへの無防備さを物語る。

ぽかんと立ち尽くすクライヴの、ハトが豆鉄砲を食らった顔を見て、シドはくつくつと笑った。


(この顔は、あいつらには見せられるもんじゃないだろうな)


そう思うと、ほんの僅かに、優越感が浮かぶ。
そんな自分に、随分現金だなと思いつつ、「いきなり何をするんだ」と紅くなって怒るクライヴに、降参ポーズで宥めるのだった。




『シドクラで嫉妬するシド』のリクエストを頂きました。

うちのシドがクライヴ絡みで嫉妬するのって誰だろう、と考えてみた所、クライヴの根幹にいて絶対に切り離せないジョシュアかな、と思いました。
かと言って二人の関係性や絆を羨むのも筋違いであることは、シドも重々承知している訳でして。シドも自分にとって家族は大事なものですし。
その辺りを判っているけど、培ってきた時間の長さだとか、クライヴから向けられる無二で無心の愛情深さとか。
自分がどんなにクライヴと近しい関係になっても、同じ位置へは踏み込むことが出来ない場所にいる“クライヴの家族”に、大人気ないけどちょっと妬いた、と言う感じになりました。

でも考えてみたら、クライヴはシドに対してする顔(拗ねたりムキになったり、恋人として見せる顔だとか)を、彼らに向けることはないんだよなと思って、じゃあ良いか、と自己完結した模様です。

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