[16/クラジル]気付いてくれた?
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ジルがミドの秘密基地に下りて来た時、其処にはこの場所の主であるミドと、カローンの姿があった。
珍しいと言えば珍しい取り合わせで話をしている様子から、邪魔になるかしら、と足を止めたジルの耳に、二人の会話が届いて来る。
「だから、あたしはそう言うのはいらないってば」
「何言ってるんだ。こういう所に気が回らないと、みすぼらしくなるよ」
「大丈夫だよ。あたし、結構カワイイらしいから」
「そんなこと言ってられるのも今のうちだ。少しは父親を見習いな、あれで昔から洒落っ気には気を遣う男だったんだから」
「父さんを引き合いに出すのはずるいって」
リズムの良い遣り取りは、どちらともはきはきとして、声もよく届いた。
言い合いをしているようにも聞こえるが、剣呑な気配はない。
ただ会話の応酬は途切れなく続いていて、ジルは入り口の階段の下で、割り入って良いものかをじっと考えていた。
会話の終了を待っている内に、蒸留器の前に立っていたミドが、新たな来訪者に気付く。
ミドはぱっと表情を明るくすると、此方に背を向けて話しているカローンとの会話から逃げるように、ジルの下へと駆け寄ってきた。
「ジル!なんとかしてよ、カローンがしつこいんだ」
「人聞きの悪い娘だね。たまには紅のひとつくらい覚えてみろって言ってるんだ」
ミドはジルを盾にするように、背中に回り込んで隠れた。
カローンはそんなミドに、眉を釣り上げ、手に持っていた小瓶を見せる。
小瓶は陶器製で、真っ白な外観をしており、側面に小さな花が薄紅色の花が描かれている。
瓶口に乗った蓋もデザインが合わせて作られたと分かる、一見すると白一色ンシンプルなものだ。
隠れ家ではまず見ることのない代物であるから、カローンが何処かで仕入れて来たのだろう。
ジルはミドを宥めながら、背中にくっついている少女を見遣り、
「どうしたの、ミド。カローンも、貴方が此処にいるのは珍しいわね」
「何、野暮用だよ。大した事じゃない」
「じゃあもう良いじゃん、あたしはそう言うの興味ないんだよ」
「二人とも、一体何の話をしていたの?」
肝心の要点が見えなくて、ジルはもう一度、何があったのかを尋ねてみる。
ミドは拗ねたように唇を尖らせながら、カローンの手に握られているものを睨むようにして言った。
「急に此処に来て、あたしに化粧しろって言うんだよ」
「化粧……?」
ミドの言葉に、ジルが首を傾げると、カローンは小瓶をひらりとかざすように見せ、
「良い年頃の娘が、毎日油にまみれてばかり。少しは身嗜みに気を遣いな。香油は嫌だって言うから、これにしてやったんだよ。質の良いものだから、悪い匂いもしないし、皮膚を傷めることもない」
「お気遣いどうも!でもあたしはいらない!」
「落ち着いて、ミド。カローンも少し待って」
ずいずいと近付いて来るカローンと、やだやだと背に隠れるミドに挟まれ、ジルは眉尻を下げて二人を宥める。
カローンもミドも、頼りになると同時に、中々に我の強い人たちだから、どちらをどう宥めたものか。
クライヴを連れて来た方が良いかしら、それともオットーを、と仲裁に入ってくれそうな人を頭に浮かべるが、生憎とクライヴは出掛けていてまだ戻っていないし、オットーも忙しそうだった。
折の悪いタイミングに来てしまったな、と困り顔をしているジル。
そんなジルを、ふとカローンがじいっと見つめ、
「そう言えば、ジル。あんたもこういうものを使っていないね」
「えっと……それは?」
「唇に塗る紅だ。見た事くらいはあるだろう?」
「ええ、まあ……」
「使ったことは?」
「それは、ないけど……」
片義眼のカローンの目が、まじまじとジルの顔を検分する。
その様子を背中に隠れてみていたミドが、ぴん、と良案を思い付いたとばかりに顔を出した。
「じゃあさ、じゃあ。その紅、あたしじゃなくてジルにあげなよ」
「えっ?」
「色が綺麗だからさ、あたしよりジルの方が似合うよ!絶対!」
「ふむ……」
ミドの提案に、カローンは真剣な様子で考え始める。
それを見たジルは、慌てて二人の間からすり抜け逃げた。
すかさずその手をミドが捕まえ、蒸留器の傍に置いてあった椅子へと引っ張って行く。
「まあまあ、ちょっと寄ってって」
「え、え、ミド、待って。化粧なんて私、したことがなくて……」
「だったら良い機会だ!試してみようよ」
ミドにしてみれば、面倒の矛先がジルに向いたことが、これ幸いに違いない。
そしてカローンも、ミドの提案を一蹴しない所から見て、存外乗り気であるらしい。
ミドがジルを椅子に座らせると、早速カローンが瓶の蓋を開ける。
瓶の中には、樹脂に色粉を練り混ぜた粘土状の物が入っている。
カローンが指先にそれを付け、瓶は傍に立っているミドに押し付けるように預けて、空いた手でジルの顎を捕まえた。
「動くんじゃないよ。そのままじっとしてるんだ」
「え、ええ……」
カローンの醸し出す“動くな”と言う空気と、その向こうでは何故かわくわくと瞳を輝かせているミドに見詰められ、ジルはすっかり流れに飲み込まれていた。
カローンの指先が、ジルの唇に触れる。
指はするりと唇の形に沿ってなぞり、元より薄淡色をしていたジルのそれを、そっと、微かに、彩った。
他人が唇に触れていると言うのは、なんとも不思議な感覚で、ジルは戸惑いながら、カローンの作業が終わるのを待つ。
しばしの沈黙の後、カローンは「……こんなものだね」と言って唇から指を離す。
ミドが、壁にかけている布巾をカローンに渡して、ジルの正面に来てまじまじと顔を覗き込んだ。
「ほぉ~……」
「えっと……」
「うん、良いじゃん良いじゃん!やっぱり似合う!」
ミドはまるで子供のように喜んでいた。
その向こうでは、カローンも指に残った紅を拭きながら、
「元々素材は悪くないんだ。ちゃんと手入れをして整えれば、もっと見栄えも良くなる。偶にはこういうものを使って、自分を磨いてみるんだね。女の顔は武器になるよ」
「婆ちゃんが言うと説得力あるね。でもホント、ジル、綺麗だよ!」
「あ、ありがとう……でも、なんだか、落ち着かないわね。……取っても良いかしら」
褒めてくれる二人の言葉は嬉しかったが、口元に違和感があるような、ないような───とジルは戸惑う。
普段はないものが其処に在る、と言う感触もあって、ジルは自身の唇に触れた。
その手をミドが素早く捕まえ、
「ダメダメ!今日一日はそれつけてようよ。そうだ、クライヴにも見せよう!」
「えっ」
「さっき帰ってきた声が聞こえたよ。このまま行こう!」
言うが早いか、ミドはジルの手を引いて歩き出した。
「待って、ミド」とジルは呼びかけるも、ミドは気持ちが既に向こう側へ行っているらしい。
急いで急いで、と小走りに階段を上がって行くミドに、ジルも成すがままだ。
基地に残されたカローンを見遣れば、彼女はやれやれと呆れた表情で肩を竦めたのみで、ジルとミドを見送った。
サロンを通り、デッキへと抜けた所で、昇降機が巻き上げられる音が聞こえた。
隠れ家のリーダーであるクライヴが帰ってきたことで、皆が彼を迎えに出て、賑やかな声が聞こえる。
お帰りなさい、と弾む声が重なる向こうに、数日離れていた人が帰ってきたのだと悟ると、俄かにジルの胸の奥で鼓動が跳ねる。
ジルは前を歩くミドの手を引っ張って、足を止めた。
「待って、ミド。その、私、えっと……」
なんとなく、いつものように出迎える顔が作れなくて、ジルは俯いた。
ミドも振り返ってそんなジルを見る。
「大丈夫だよ。ちゃんと似合ってるし」
「そ、そう言うことではなくて……忙しそうだから、私、後で───」
「おーい、クライヴ!」
無性に湧き上がる気恥ずかしさに、ジルが迷う暇と言うものを、ミドは与えなかった。
皆の向こうにいるクライヴに向かって、背伸びしながら大きく手を振る。
仲間たちが元気なミドの声に振り返れば、当然、その向こうにいた人も、同じように此方を見た。
「ミドか。相変わらずみたいだな」
「うん!ね、ね、ちょっとこっち来て!」
ミドの呼ぶ声に、クライヴは「ちょっと待ってくれ」と言いながら足を向けてくれる。
囲む仲間たちに、持ち帰った物資の確認と運搬を頼みながら、クライヴはミドの下へとやってきた。
そしてクライヴは、ミドの後ろに隠れるように、俯き背中を縮こまらせている幼馴染の姿を見付ける。
「ジル?どうしたんだ?」
「えへへ。ちょっとね。ほら、ジル、大丈夫だって」
隠れたがるジルを、ミドは手を引いて前へと進ませる。
自分の気持ちの整理も儘ならない内に、クライヴの前へと立つことになって、ジルは益々焦った。
右手が口元を隠してしまうのは、やはり其処がいつもと違うからで、これを目の前にいる人に見せて良いのか、覚悟が決まらない。
第一、ミドの基地には鏡と言うものがなかったから、ジルは今の自分の顔が、普段どどう違うのかも分からないのだ。
せめて自分の顔の状態をきちんと確認して、自分なりに「おかしくはない」と思う事が出来れば、覚悟の決めようもあるのだが。
俯き加減になっているジルを、クライヴはことんと首を傾げて見つめる。
「ジル?……気分でも悪いのか?」
「い、いいえ。大丈夫、大丈夫なんだけど……その……」
ジルが口元を隠しているのを、吐き気を堪えていると思ったのだろう。
クライヴの声は如実に心配を含んでいて、ジルはなんと答えれば良いか思案する。
いつまでもこうしてクライヴを拘束している訳にもいかない。
ジルは口元に当てていた手を、そろりと放して、胸の上で緩く握り締めた。
それでも俯けた顔を上げるのは、なんだか無性に恐ろしい気がして、───更に言えば、ミドに言われるままに引っ張って来られたので、ジルの方からクライヴに特別用事がある訳でもない。
何を言えば、どうすれば良いだろう、とにかく何か言わなければ、と思った末、
「えっと……お帰りなさい、クライヴ」
「ああ、ただいま」
「ダルメキアの方に行っていたんでしょう。怪我はない?」
「群れからはぐれた魔物が襲って来たくらいだな。負傷者もいないし、大丈夫だ」
「そう。良かった」
当たり障りのないことを尋ねるしか出来なくて、ジルはこれではいけない、と思う。
もう少し何か、けれど隠れ家の方も何事もなく平穏であったし、と考えあぐねていると、
「……ジル?」
じっと見つめる青の瞳に名を呼ばれ、どきりとジルの鼓動が跳ねる。
瞳は何処か不思議そうにジルの顔を見つめて、
「なんだか、いつもと少し違うか?」
「……!」
「顔色が良いと言うか───なんと言うのか……」
感じることを上手く形容する言葉が見付からないのか、ううむ、と唸るように首を捻るクライヴ。
そんなクライヴに、ジルの後ろからひょこりとミドが顔を出し、
「な、クライヴ。今日のジル、何かいつもと違う気がしないか?」
「うん……そうだな」
「いつもと比べて、変?」
「それはないだろう。ふむ……少し顔色が明るく見える。何か良い事があったのか」
「うーん、惜しい?って言うか、もう一声欲しい!」
「どうしたんだ、一体」
ジルの背中で、ミドが地団太を踏むようにして、もうちょっと、もうちょっと言って!とねだる。
クライヴはミドが何を要求しているのか、具体的に読めない事でまた首を傾げていたが、
「────ひょっとして、紅を差しているのか?」
「!」
「お!」
まじまじとジルの顔を見詰めながら言ったクライヴに、ジルは勿論、ミドも目を輝かせた。
「珍しいな」
「え、ええ。その、カローンが仕入れて来てくれたものを、塗ってくれて」
「な、な、どう?クライヴから見て、どう?」
気付いたのなら、とミドがここぞと感想を尋ねる。
クライヴは、見慣れている筈の女性から醸し出される、普段と違う雰囲気の理由を得心して、柔い笑みを浮かべる。
「似合うよ、ジル。初めて見たような気がするな」
「そう、ね。私も初めてだわ。子供の頃も、こういう事はしていなかったし」
ロザリア公国にいた頃は、まだジルも幼かった。
城使えの女性の中には、唇や頬に何某かの化粧を施していたのを見た事はあったが、少女であった時分のジル自身がそれを試してみたことはない。
あの頃はまだ幾らかの興味があったと思うが、ロザリア崩壊から此処まで、それを思い出す余裕もなかった。
そんなジルにとって、これは降って沸いたような機会であった。
カローンとミドの勢いに流されるようにして、生まれて初めて差した紅は、どうやら、ちゃんとジルに合うものだったらしい。
クライヴから「似合うよ」と言われて、ジルはようやく、胸の奥で幼い少女が笑うのを感じた。
波止場の方からクライヴを呼ぶ声が聞こえ、クライヴはそちらに応えている。
それを見たジルは、もう十分ね、と思った。
「引き留めてごめんなさい、クライヴ。忙しいのに。怪我がなくて良かったわ」
「ああ、悪いな、ジル。後でまた話そう」
「ええ」
呼ぶ声の方へと向かうクライヴを見送って、ジルはほうっと胸を撫で下ろす。
それを見たミドと目が合って、にっかりと笑う彼女に、ジルも頬を緩めるのだった。
【一途に思い続けた先へ5つのお題】
4:気付いてくれた?
ジルのちょっとした変化にも気付くクライヴとか良いなあと思いまして。
ただクライヴって良くも悪くも朴念仁な所もあると思うので、「何かいつもと違うな」って所は感じ取っても、じゃあ具体的にそれは何処かと言われると、しばらく考え込みそう。
クライヴがそんな感じで気付かなくても、ジルは「いつもと違うと感じてくれた」だけで十分と思いそう。
でもやっぱりクライヴからの「似合う」とか「可愛い」がジルは一番嬉しいんだろうなと思いました。