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Category: FF16

[スコール&クライヴ]過ぎたる日々が見た色は



その日、スコールは、何処からともなくか細い猫の鳴き声を聞いた。
皆が元気に遊ぶ声が響く庭で、どうしてスコールにだけその声が聞こえたのかは判らない。
みー、みー、と酷く悲しそうな声は、他の誰も知らないまま、スコールの耳だけに届いたのだ。

どうしても気になったスコールは、皆がめいめい元気に遊んでいる輪を抜けて、声のする方へ行ってみた。
孤児院園舎の裏庭に来ると、さっきよりも声が近くなって、きょろきょろと首を巡らせる。
とことこ歩きながら辺りを見回し続けていると、小さな畑の傍に佇む木の上から、その声が聞こえて来た。
見上げれば、一本の木の上で、一匹の黒猫が小さく蹲っている。
黒猫はスコールと目を合わせると、みー、みー、と泣いた。

下りられなくなったんだ、とスコールも直ぐに理解した。
何が理由か判らないが、黒猫は一匹で木の上に行って、そのまま下り方が判らなくなった。
だから、誰か助けて、誰か下ろして、とずっと鳴いて呼んでいたのだ。

スコールは少し戸惑った。
決して運動神経が良くはない自覚があったから、誰か、木登りが出来る人を呼んだ方が良いと思ったのだ。
しかし、スコールがその場を離れようとすると、子猫はみぃい、みぃい、と声を大きくする。
置いて行かないで、と訴える黒々とした円らな眼に、スコールは悩んだ末に、意を決した。
ぼくがのぼってたすけなきゃ、と。

木の幹を直接上るのは難しかったが、幸い、傍には金網フェンスがあった。
スコールはそれに手足を引っ掛けて、うんうん頑張りながら、体を上へと持ち上げて行く。
フェンスの上まで辿り着くと、すぐ其処にしっかりとした木の枝があった。
其方に捕まり直して、フェンスを踏みながらよいせと身体を上げることに成功し、其処から更にもう一つ、二つと枝を上り渡る。
其処まで行って、ようやくスコールは黒猫のいる場所まで辿り着いた。


「もう大丈夫だよ。おいで」


枝に掴まりながら、黒猫の傍までゆっくり近づく。
幹に近い位置まで来て、そうっとスコールが手を伸ばすと、黒猫は大人しく撫でさせてくれた。
くりくりとした目がスコールを見上げ、みぃ、と嬉しそうに鳴いた。

懐に潜り込んできた子猫を抱え、よし、とスコールは達成感を感じていた。
助けて、と自分を呼んだ子猫を、自分で助けることが出来たのだ。
良かった、あとは降りるだけ───と思って地面を見て、スコールは初めて、自分がとても高い場所にいる事を知った。

瞬間、スコールの身体は凍り付く。
落果の恐怖と言うものは、生まれて間もない赤子でも、本能的に持っていると言われている。
当然、スコールもそれを持ち得ているから、高い場所と言うのは、好んで上ることはしなかった。
黒猫を助ける為に鼓舞した気持ちで一所懸命に上ってきたが、こんなにも高い場所だったなんて、幼い子供は知らなかったのだ。


(これ───落ちたら、ぼく、どうなっちゃうの……?)


思った瞬間、遠い遠い地面が、更に遠く遠くに見えて、スコールははしっと枝にしがみついて掴まった。
背中が急激に冷たくなって、体がかたかたと震え出す。

こうなってしまっては、スコールは最早、動けなかった。
とにもかくにも下りなくちゃ、と下を見れば、地面があんなにも遠い。
木を登っている時は、黒猫がいる上ばかりを見ていたから、足元がこんなに離れていたなんて、ちっとも気付かなかったのだ。
そして、下りる時にどうすれば良いのかも、幼い子供は全く考える余裕を持っていなかった。

どうしよう、どうすればいいんだろう、と考えている間に、時間はどんどん過ぎていく。
庭で元気に遊んでいた子供たちの声が聞こえなくなり、休憩時間が終わったことを知った。
きっと皆、おやつを食べて、午後のお勉強の時間の準備をしている。
スコールが帰って来ない事に、ママ先生やシド先生は、気が付いてくれるだろうか。
気が付いてくれたとして、探してくれたとして、こんな高い場所に上ってしまったスコールのことを、見つけ出してくれるのだろうか。
考える程、このまま一生、この木にしがみついて待ち過ごさなくてはいけないんじゃないかと思えてきて、絶望感が幼い心を塗り潰していく。

みぃ、みぃ、と黒猫がまた鳴き始めた。
助けてくれると思ったのに、助けに来た子供がちっとも動かなくなってしまったのだから無理もない。
黒猫が鳴く度に、この子の為にも下りなくちゃ、と思うのに、ちょっとでも枝が揺れるのが怖い。

じわじわと、スコールの視界が水に溺れて歪んでいく。
遠い地面もよく判らない形になって、スコールは喉と鼻がつんと痛くなるのを感じていた。
声を上げたら、誰かが飛んできてくれるだろうか。
ママ先生とか、シド先生とか、お姉ちゃんとか────そう思って、出ない声を頑張って出そうと、精一杯の努力をしていた時だった。


「君、大丈夫か?」


聞こえた声が、自分に向けられたものだと、最初は気付かなかった。
「君だ。其処の、木の上の───」とまで言われて、ようやく、自分が誰かに見つけられたことを理解する。

スコールが涙でぐにゃぐにゃになった目できょろきょろきょろと見回すと、フェンスの向こうの道に、一人の少年が立っている。
綺麗に撫でつけられた黒髪に、スコールの瞳とはもう少し明瞭な青色の目。
きちんと着つけられた襟のある服が、この近くにある高等学校の制服だと言うことは、幼子の知らない話である。

少年は、木の枝にしがみ掴まっているスコールを見つめ、


「下りられなくなったのか?」
「……ふぇ……」


少年の言葉に、スコールははっきりと自分の状態を自覚する。
我慢の限界を超えた涙が、大きくて丸い目から、ぼろぼろと零れ始める。


「ひっ、ひっく……ねこ……ねこが……」
「猫……ああ、成程。その子を助けようとして」
「えっ、えく、えっく……でも、でも……お、おりかた、わかんな……うえ……」
「うん、分かった。ええと、此処は───確か大人の人がいる筈だな」
「うえ、えう、えうぅ……ふえぇえ……!」
「すぐに誰か呼んで来るから、もう少しだけ頑張って───」
「うえぇぇえん!」


その場を離れようとする少年を見て、スコールは遂に大きな声を上げて泣き出した。
それを見た少年は、ああ、と眉尻を下げて、二人を隔てるフェンスを見上げ、


「……仕方がないか。大丈夫だ、直ぐに行く」
「えっ、ふえっ、うえええん!まませんせえぇぇ……!」
「そのままじっとしているんだぞ。俺が行くまで、動かないで」
「ひっ、ひっく、ひっく、うぇええ、うぇえええん……!」


泣きじゃくるスコールの声に混じって、黒猫までもが、みぃい、みぃい、と鳴き始める。

少年は手に持っていた鞄を地面に置いて、フェンスに両手をかけた。
がしゃ、とフェンスが重みに音を鳴らす中、少年はあっという間にフェンスを上り、伸びた木の枝に手をかけた。
スコールは其処から枝をひとつふたつ、体ごと持ち上げて登ったが、スコールよりもずっと背が高い少年は、枝に乗るのは危険だと判断した。
フェンスの細い足場に乗ったまま、少年は枝には手で捕まって、じりじりと位置を動かす。

程なく少年は、スコールが捕まっている枝の袂に辿り着いた。
少年の腕がスコールの前に伸ばされて、捕まれ、と彼は言う。


「俺の手を握るんだ」
「ふっ、ふえ、うえええ……やあ……おちるのやだぁあ……!」
「大丈夫、落ちないよ。俺がちゃんと捕まえてる」


その言葉の通り、少年はスコールの蹲る背中に腕を回している。
スコールの肩に触れるその手は、しっかりと温かかった。
ひっく、と涙に濡れた目で見上げるスコールに、少年は努めて優しく笑いかける。

枝に掴まるスコールの手に、少年の手が重なった。
スコールがそろり、そうっと、枝に掴まる手を解いて、少年の手を握る。
よし、大丈夫、と励ます少年の声を聞きながら、スコールはとにかくゆっくりと、恐怖と精一杯に戦いながら、少年の体に身を寄せた。

スコールの重みをしっかりと腕に抱えた少年の肩に、黒猫が乗り移る。
少年は黒猫を捕まえると、スコールにそれを預けた。


「しっかり抱いてるんだぞ」
「……うん」
「行くぞ。せえ、のっ」


子猫をスコールがしっかりと抱き占めるのを見てから、少年は勢いの合図をつけて、フェンスから飛び降りた。

フェンスの際まで伸びていた枝葉を、制服の端に引っ掛けながら、少年は地面へと着地する。
縋る小さな子供を着地の衝撃から庇った反動で、少年は着地の直後に姿勢を崩して、尻餅をついた。
いたた、と軽く打った臀部を摩りながら、少年はしがみつくスコールを見て、その身体に目立った怪我の類がない事を確かめる。


「怪我は───一先ずは、ないみたいだな。良かった」


少年の手が、ぽんぽん、とスコールの頭を撫でる。
ママ先生やシド先生、大好きな姉と同じ、優しいその手のひらの感触に、スコールは安心したと同時に、大きな声を上げて泣き出したのだった。





スコールが通う高校に、新しい教師が赴任した。
夏休みが開けて間もなく、急遽退職する事が決まった、スコールのクラスの担任教師に変わってやって来たのだ。

クラス担任の退職と、それによる交代の旨については、それが決まった時から生徒に通達されている。
クラス担任はそれなりに生徒から支持が厚かったので、残念に思う生徒は少なくなかったが、スコールにはどうでも良い事だった。
そして存外、生徒たちも、担任教諭が変わったからと言って、前の人をいつまでも惜しむ事もない。
新たな教員が生徒たちにとって余程に折り合いが悪いタイプでもない限り、彼らは新しい教員にも程なく懐いていた。

そしてクラス担任が変わってから、そろそろ一ヵ月が経とうとしている。
休み明けテストの返却も終わり、新しいクラス担任についても、生徒の多くが馴染んでいた。
着任から一週間のうちに、彼は好奇心旺盛な生徒たちに囲まれて、あれやこれやと質問されたり、校内を案内されて回っていた。
其処から出回った噂によれば、彼は随分前にこの学校を卒業したとかで、どうやらスコールたちにとっては大先輩にあたるらしい。
在校中は生徒会長を務めた経験もあると言うから、校長室にある各期の卒業アルバムでも探ったら、写真の一枚くらいは残っているかもしれない、とか。
そんな話で生徒たちが盛り上がる位だから、件の新担任は、生徒たちの間ではそれなりに好評価な印象で通っていた。

だが、スコールはどうにも彼が苦手だった。
何がどう、と言われるとよく判らないが、なんとなく目を合わせるのが嫌だ。
そう思うのは、妙に彼と視線が合う瞬間があるからだろう。


(……見られている気がする)


スコールは、件の教員に対して、そんな風に感じていた。

クラス担任であるから、朝のホームルームを筆頭に、毎日顔を合わせる時間がある。
そしてその都度、ぱちりと真っ直ぐ、透明な青を捉える瞬間に見舞われるのだ。
こんな話をすると、サイファーあたりから「自意識過剰な奴だな」と鼻で笑われるのだが、スコールは間違いないと思っている。
何せ、ホームルーム然り、休憩時間の廊下であったり、彼の担当授業の時だったりと、ふとした時に視線を感じて顔を上げると、ばっちりと目が合うのだ。
その都度、彼は少し気まずげに視線を彷徨わせる仕草があるので、スコールは彼が自分を見ていることを確信した。

だからと言って、教師に向かって「不愉快なので見ないで下さい」とは言わないスコールである。
教師と揉めると言うのは大体面倒な事だし、何より、今の所は見られているだけなのだ。
それが視線の類に敏感なスコールにとっては不快を誘うが、では直接的な実害があるのかと言われれば、ない。
どちらかと言えば、面と向かって会話をする機会すらないので、遠巻きに見られている感覚があるだけなのだ。
これで「見るな」と言ったとしても、スコール自身、言いがかりの印象を出ないことは感じていた。

そんな訳で、最近のスコールは、休憩時間はぎりぎりまで教室から離れることにしている。
人気の少ない学校の校舎裏に逃げ込んで、遅刻だけはしないように努めていた。


(教師に目を付けられると、どんな厄介を押し付けられるか判らない。このまま距離は置いていよう)


そう思いながら、スコールは校舎裏で一人のんびりと過ごしていた。

校舎裏は野良猫たちが溜まり場にしていて、毎日何匹かの猫が日向で丸くなって微睡んでいる。
いつから彼らが此処にいるのかは判らないが、大体は人慣れした個体だ。
スコールは、時折そんな猫たちがじゃれて来るのをあしらいながら、午後の予鈴が始まるのを待っていた。
昼食を平らげて膨れた腹が、木漏れ日の心地良さと相俟って、気だるげな睡魔を誘う。
それに欠伸を漏らしていれば、連鎖するように傍らの猫たちも欠伸をして、もう寝てしまえと抗いがたい誘いをしているようだった。

とは言え、スコールに授業をさぼるつもりはない。
予鈴を聞き逃すことのないように、念を入れて携帯電話のアラーム機能を決まった時間にセットする。
制服のブレザーの胸ポケットにそれを仕舞って置けば、万一、寝落ちたとしても起きれる筈だ。

そうして習慣にした、アラーム機能のセットをしていた時のこと。


「───と……、君は確か───」


零れた風に聞こえた声に、スコールは誰か来た、と眉間に皺を寄せた。
此処はスコールの避難所なので、あまり人が集まることは望ましくない。
面倒な奴じゃないなら良いんだが、と仕方なく振り返って、まだ更に眉間の皺が深まった。


「……ロズフィールド先生」
「ああ、やっぱり。スコールか」


一ヵ月前にやって来た、スコールのクラスの新しい担任。
クライヴ・ロズフィールドと言う名のその人物は、クラスの生徒の名前を概ね覚えたらしい。
……スコールは二年生になって半年が経った今でも、曖昧な人物がいると言うのに、生真面目な事だと思う。

クライヴは木漏れ日の下で、スコールの周りを囲うように丸くなっている猫たちを見て、目を細める。


「此処は猫の集会場だったんだな」
「……そうですね」
「逃げないな。人に慣れているのか」


クライヴが近付いて来ると、猫たちは各々顔を上げたが、すぐにまた寝る体勢に戻った。
声を荒げる訳でも、煩い足音を立てるでもないクライヴを、どうやら猫たちは危険人物ではないと判じたらしい。

人懐こい一匹が、体を伸ばして起き上ると、「な~お」と鳴きながらクライヴの足元へやって来る。
猫はクライヴの足に体を擦り付けると、その場にごろりと転がって腹を見せた。
さあ撫でろ、と言わんばかりの猫の姿に、クライヴはくすりと笑って膝を曲げ、大きな手でふわふわとした腹を撫でる。

クライヴは猫の腹を撫でながら、校舎の壁に寄り掛かっているスコールを見て、


「君は、よく此処で過ごすのか」
「……偶には」


ほぼ毎日のように入り浸っていることを、なんとなくスコールは隠した。
隣の猫が、嘘ばっかり、と言いたげに鳴き声を上げている。

猫が腹を隠さないので、クライヴはじっと猫の腹を撫でている。
青の瞳が、何処か興味深そうに猫の様子をしげしげと眺め、撫でる手付きも、これはどうか、これは、と試すように変えている。
猫は時に、それは良い、それは嫌、と言うように、体を揺らしては自分の心地良いポイントへとクライヴの手を誘導した。

一頻り猫を撫でた後、気が済んだ猫がクライヴの手からするりと滑るようにして逃げる。
たっぷり撫でて貰って満足した猫は、もう此処に用はないと、手近な木の上へとするすると上って行った。
クライヴはそんな猫の姿を見上げている。
そのままじっと動かなくなったクライヴに、いつまで此処にいるんだ、とスコールはひっそりと眉根を寄せていた。


「……ロズフィールド先生は、猫が好きなんですか」


尋ねたのは、そうだとしたら、この避難所はもう使えない、と思ったからだ。
教室から少し遠いが、それ故に人があまり来ない為、スコールにとっては丁度良い休憩場所だったのだが、他の誰かが来るならもう仕方がない。
一人の時間を好むスコールにとって、それが確約できない場所は、もう使う気にはなれなかった。

スコールの問いに、クライヴは「どうかな」と曖昧に眉尻を下げている。


「猫とはあまり馴染みがないんだ。犬なら実家にいるんだが」
「……はあ」
「猫に触ったのは随分久しぶりだな。多分、子供の頃以来だ」
「……そうですか」


クライヴの言う事に、スコールは大した興味もなく、適当な相槌で返す。
それでもクライヴにしてみれば、普段あまり会話をしない生徒との、交流の切っ掛けと捉えられたのか。
彼は木の上で尻尾を揺らす猫を見詰めたまま、話を始めた。


「木の上に登って、下りられなくなった猫と子供を見付けたことがある。俺は敷地の外から見付けたから、家の人を呼んで来ようと思ったんだが……」
(……)
「怖かったんだろうな。子供が随分泣くから、早く助けた方が良いと思って。理由を話すのは後にして、まず助けようと思って、急いで木に登ったんだ」
(……ん……?)
「どうにか助けられて良かった。その時に猫も一緒に助けたから────それ位だろうな、猫に触った事があるのは。まだ俺がこの学校にいた頃だったから、もう何年前になるか」


クライヴの語るものは、彼のごく個人的な思い出話だ。
スコールからすれば、知りもしない人の過去など聞いた所で、どうしろと言うのだろう、と思うものだった。

しかし、今の話の中で、スコールの記憶の琴線が震えた。

それはもう随分と遠い日の出来事で、スコールがまだ十歳にもならない時のことだ。
何が原因だったか、同じ孤児院で過ごす子供たちの輪から離れて木に登り、下りられなくなって固まっていた。
どうにもならないままに過ごしていた所で、誰かが其処へやって来て、助けて貰った事がある。
後はその人に手を引かれ、わんわん泣きながらママ先生に迎えられ、泣き止むまであやして貰った後に、一人で木登りをしたことについて、こってりと絞られた。
そんな経緯でスコールは、元々苦手意識のあった木登りを、何が何でもやらない、と決めている。

結果、スコールが一番記憶として鮮やかに思い出せるのは、孤児院の母役であるママ先生に叱られたことだ。
どうして一人で木登りなんてしたのか、幼かったこともあって、既に記憶の海に埋もれて取り出せない。
だが、誰かに抱えて助けて貰ったことは、辛うじて掘り出せた。


(……まさか……)


スコールは、じっと木の上の猫を見詰めている男を見た。
しかし、幾ら考えてみても、あの日あの時、誰が自分を助けてくれたのかは、はっきりと出て来ない。
とにかく木の上から下りられなくて怖かった、そしてママ先生に叱られたのも怖かった───スコールが思い出せるのはそれが精一杯だった。

沈黙しているスコールに、クライヴは眉尻を下げて振り返る。


「すまないな、俺の昔話なんて聞いても、面白くないか」
「……」
「だが、どうしてだろうな。なんとなく、君を見ていると思い出すんだ。似たような目の色だったからなのか……」


クライヴのその言葉に、ぐ、とスコールは喉の奥を噛む。

蒼い目は、特段、珍しいものでもない筈だ。
目の前の男の目だって青いし、幼馴染の中にも、似たような色は少なくない。
だが、先のクライヴの思い出話を聞いてしまえば、彼の言う“子供”が誰を指すのか、スコールは完全に符合した。

────子供の頃の出来事なんて、今のスコールにとっては、黒歴史のようなものだ。
特に、あの日あの頃の自分は泣き虫の盛りで、なんでもないことでも、毎日のようによく泣いた。
幼馴染のサイファーなどは、今でもその頃を引き合いにだして、スコールを揶揄ってくる。
やり返してやれる位には強気になったスコールであるが、それでも幼い頃の泣き虫ぶりは、今のスコールにとって他人に知られたくない過去となっていた。

だが、どうやら幸いな事に、自分を助けてくれた嘗ての少年は、思い出話の張本人がスコールであるとは気付いていないらしい。
確か五つか六つになるかと言う時だったから、流石にスコールの顔立ちも、その頃とは変わっていた。
スコールも今の話を聞かなければ、クライヴが件の少年だったとは気付かなかっただろう。
まさか十年以上も経って、こんな形で再会していた等とは、夢にも思わぬ出来事であった。

胡乱な表情を浮かべてじっと見つめるスコールに、クライヴはことんと首を傾げる。


「どうした?何か────」
「なんでもないです」


スコールは、クライヴの言葉を遮るようにして言った。

気付いていないなら、知られていないのなら。
このまま、知らない振りをしていよう。
幼い頃の失態は、思春期真っ盛りの少年にとって、掘り返されたくない痴態に等しい。
例え記憶を共有する相手が、微笑ましそうにその出来事を語ってくれたとしても。



これまでじっと黙していた生徒の、急に食い込むようにして入った反応に、クライヴはぱちりと目を丸くしたが、スコールにとっては幸いなことに、それ以上に彼が何かを尋ねて来ることはなかったのだった。





『スコールとクライヴ、ほのぼの』のリクエストを頂きました。
弟属性のスコールと、兄属性のクライヴ。並べるのが楽しかったです。

クライヴが青年期(28歳)ならスコールとは11歳差、クライヴ壮年期(33歳)なら、スコールとは16歳差。
と言うことで、青年期クライヴなら、スコールが5歳の時にはクライヴが高校生!と言うことで、子供の頃に会ってた二人を後に再会させてみました。
でもクライヴが落ち着いているので、立ち振る舞いは壮年期かも。現パロなので、ベアラー兵時代みたいに擦れてた時代がなく済んでると言うのもある。

この場は黙して逃げたスコールですが、一応「あの時助けてくれたお兄ちゃん」なので、なんとなく避けることはしなくなると思います。
ただ「あの時助けた子供」とバレた時に何か言われやしないだろうかと思っている。バレたらクライヴは「大きくなったんだな」って言うと思う。遠戚のお兄さん??

[16/バルクラ]燻べる熱に情合いを

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この男が存外と、他者に触れる事───とりわけ、奉仕することに熱心であると言うことは、体を重ね合う関係になってから知った。
良く言えばストイック、或いは無欲にも受け取れるような見た目をしているのに、触れる手は酷く恭しい。
大事にしている、と言った枠を越えて、それは最早、篤信だ。
そして、奉仕している時の此方を見る目は、酷くうっとりと、幸福の中に揺蕩っているようだった。

そんな風に触れて来る男だとは、正直な話、微塵も思っていなかったものだから、初めは随分と戸惑った。
触れる相手が華奢な人間ならばともかく、自分はそれなりに男らしい体格をしていると認識している。
それが万が一にも間違ったことでなければ、こうも丁寧な触れ方をされなくても、まず無体になることはないだろう。
貫く痛みが無体と言えば無体なのかも知れないが、それに耐えられない程、軟でもない。
だからもっと、何なら多少雑なくらいでも、別に問題はないのだ。
寧ろこうも丁寧にされる事の方が慣れないから、もっと簡素で良いのに、と何度か訴えもした。
とは言え、結局の所、丁寧に解されておいた方が後が楽であるのも確かで、最中にいちいち手を止めさせてこの押し問答をするのも飽きて、彼の希望を汲むことで決着した。

ナイトボードを定位置にしているシェードランプの灯りは、暗すぎず、眩しすぎず、情事の始まりの雰囲気を邪魔しない。
クライヴの本音で言えば、真っ暗にしてくれた方が色々と気が散らなくて済むのだが、バルナバスが譲らなかった。
曰く、暗闇にしてしまえば傷がついても見えない、とのことだ。
バルナバスも夜目が利かない訳ではないのが、多少の灯りはあった方が助かる、だとか。
お陰で身体が反応する様を具に見られているのが判るので、クライヴはいつも落ち着かない。

開いた足の狭間に、バルナバスの体がある。
足の爪先からゆっくりと上って来る手は、今ようやく、クライヴの膝裏を通過した。
するすると柔衣の上を滑るように辿る手のひらが、どうにもくすぐったくて堪らない。
身動ぎすると叱るようにぐっと太腿を押される。
検分している所なのだから、大人しくしていろ、と言われたような気がした。

だが、今夜は熱がもう溜まっている。
いつものバルナバスの丁寧な愛撫を、最後まで大人しく受けていられるか、自信はなかった。


「バルナバス……っ」
「……」


名前を呼んでも、返事はない。
バルナバスはクライヴの太腿に唇を押し付けて、小さな鬱血跡を残した。
吸われた感触だけで、足の付け根がじんじんとして、いつも彼を咥えている場所が疼き出す。
まだことは何も始まっていない、前戯どころか愛撫では口火を切ってすらいないのに。

はしたのない願いをするのは、理性の釘が僅かに抵抗したが、それも長くは続かなかった。
じわりじわりと這い進むように、バルナバスの唇が何度もクライヴの太腿に落ちて、少しずつ位置を上げていく。
それはやがてはクライヴの中心部へと辿り着くのだろう。
創造するだけで、芯が熱を持つのが判って、クライヴははぁっと重い息を吐いた。


「バルナバス、今日はもう……」
「嫌か」


赤らんだ顔のクライヴの言葉に、今夜は拒否したいのだとバルナバスは受け取った。
だが、そう言う訳ではない、寧ろ逆なのだとクライヴは首を横に振る。


「そうじゃない。ただ、その、もう……待って、いられない……」


バルナバスの緩やかで真綿で包み締めて行くような、時間をかけた前戯は耐えられない。
それより早く、彼が欲しい。

迎える場所を差し出すように、クライヴは足を大きく開いた。
酷くはしたないことをしている自覚はあったし、羞恥心も叫んでいるが、欲の方が勝った。

だが、バルナバスは訝しげに眉根を寄せる。


「駄目だ。まだ解してもいない」
「昨日もしたんだから、今日くらいそんなことしなくても大丈夫だ」
「根拠はあるまい。お前の中は狭い。それは私の方がよく知っている」
「それは───そう、なんだろうけど」


自分の体のことでも、“其処”がどうなっているのかは、確かにクライヴ自身も及び知らないことである。
ほぼ毎日のように重ねる行為の中、都度に触れているバルナバスの方が理解しているのも確かだろう。
それを認めさせられるのもまた、クライヴの羞恥心を刺激することであったが。

しかし、だ。
解す為の前戯については、執拗な程に丁寧にされることは、仕方のないものであるとして。
それ以前の、今正に触れている、緩やかなスキンシップについては、出来れば飛ばして貰いたい。
肉体表面を覆う皮膚に傷のひとつでもあることを恐れるように、あればそれを奇跡の手のひらで癒そうとでもするかのように、バルナバスはクライヴの躰に触れる。
それが普段はくすぐったくも心地良い事は確かだが、今日は生憎、それに付き合ってやれる気分ではなかった。

太腿から昇ってきたバルナバスの唇が、足の付け根の皺に触れる。
そのまま中央へ向かってくれれば良いのに、当然、バルナバスはそうしてはくれなかった。
まるで大事な儀式の手順を確かめるように、バルナバスはクライヴの腹部を辿って行く。


「ん、ふ……」


窮鼠のすぐ近くにキスが落ちて、吸われる感触が判った。
筋肉の発達によって、皮膚表面と神経の隙間が狭いお陰で、クライヴの躰は感度が良い。
だから余計に、ゆるゆると、スローセックスのように触れるバルナバスの手の感触が、もどかしさを助長させる。


「なあ、バルナバス……」
「なんだ」
「頼むから」
「くどい」


ぴしゃりと跳ねのけられて、あんたも大概くどい、とクライヴは口の中で文句を零す。
クライヴとて恥ずかしさを堪えて誘っているのだ。
恋人が偶に積極的な誘いを見せた時くらい、其処に至るまでの葛藤を察して、応じてくれても良いだろう。
どうあっても望むようにはしてくれそうにない男の、無碍と言えば無碍な反応に、クライヴはそんなことを思う。

では応じてくれない男に怒って、今日はもうなしだと言えるかと言われれば、それは無理だ。
強請らずにはいられなかった位に、体は熱を欲している。
これでバルナバスをベッドから蹴落とし、今日は寝る、などと言った所で、眠れる訳がない。
こうなってしまっては、欲しいものを直に与えて貰えるまで、クライヴは大人しくしているしかなかった。

肌を上って行く唇と、掌の感触に、何度も体を捩る。
時折、バルナバスが不機嫌に眉根を寄せるのが見えたが、そうやって体を動かさなければ、腹の中の疼きが耐えられない。


「っは……う……ん、ん……」
「……そうも熱いか」
「……う、あ……」


苦し気に天井を仰いで声を漏らすクライヴに、バルナバスは問う。
普段ならば、其処でクライヴは羞恥から首を横に振っただろうが、今日はそんな余裕はなかった。

熱に浮かされた青の瞳が、じっとバルナバスを見つめる。
こもった呼吸を零す唇が、はやく、と何度目かに急かした。
それを見詰めた翠の瞳はようやく細められ、やれやれ、と仕方なさげに───けれども何処か嬉しそうに───溜息をひとつ。


「堪え性のない」
「……あんたが、いつも焦らすから……」
「お前の体の為に配慮している」
「判ってるけど。今日は……」


そう言うのはいらないんだ、とクライヴは赤らんだ顔で呟いた。

クライヴの横腹を伝い、背中を抱いていたバルナバスの腕が、するりと下に降りて行く。
ベッドシーツと皮膚の間で、しっかりとした形の臀部を撫で、中心部の窄まりへと手指が辿った。

夜毎の繰り返しの中で、窄まりは慎ましさと言うものをとうに忘れている。
そう言う風にクライヴを作り替えた男は、今夜ようやく其処に触れてくれた。
ああこれでやっと、と身体が安心したようにじわりと膿んだ熱を疼かせるが、


「……っバル、ナバス……早く……っ」
「入り口が一番狭い。此処だけは済ませておく必要がある」


縁の形を確かめるように辿る指。
早く中に入れて、内側を掻きまわしてくれれば良いのに、それはしない。
あくまで何処までも献身的に、バルナバスはクライヴの躰を慮る。

ひくつく秘部の口を指先で軽くノックし、其処が迎えに拓いたのを確かめて、ようやく指が入って来る。
ああ、とあえかな声がクライヴの喉から押し出るように零れた。
背筋を撓らせ、腰を突きだす格好になるクライヴの腹に、バルナバスはキスをする。


「ふ、く……っあ、あ……!」


ゆっくりと、じっくりと、中へと進入される感覚。

仕事以外にはまるで何も興味のない顔をしているのに、彼の爪はいつも丁寧にやすり掛けされて整えられている。
元より身嗜みを無精にするほど怠惰ではないが、必要な事ならばなんでも完璧に熟すことが出来る男だ。
クライヴと付き合うようになり、体の関係を持ってから、いつの間にか彼はそう言う風に指の先まで管理を怠らなくなった。
それが、何度目かの夜、僅かに尖った爪が内側を引っ掛ける痛みにクライヴが顔を顰めてからだと言うことを、クライヴは彼自身から聞き及んだ訳ではなかったが、なんとなく悟っている。

男の指を受け入れ、まさぐられる感触で、徐々に体の強張りが解かれていく。
びく、びく、と勝手に足が反応を示し、感じていることを露骨に示してしまうのが恥ずかしかった。
それなのに、熱に膿んだ瞳で、首筋に唇を寄せて来る男を見れば、翠の瞳が幸福そうに細められている。
クライヴが恥ずかしくて葛藤で堪らない時、この男はいつも嬉しそうだ。
じわじわと、自分の手指によってクライヴが体を拓き、迎える準備を整えていく様を見ているのが楽しい───のかも知れない。

内側でくちくちと言う音が鳴っている。
此処までしてくれたなら、もう十分で良い筈だ、とクライヴは熱に浮かされた意識の中で思った。


「ナルバナス……もう、良い……っ」
「奥は足りんが……そうだな。お前が限界だと言うのは、よく判った」


解したばかりの場所が、ぎゅう、と締め付けるのを指先で感じて、バルナバスは薄く笑う。
自分を見るブループラネットが、赤い顔をしながら恨まんばかりに見ているのを見付けて、これ以上は確かに無体になるのだろうと、ようやく察してくれたらしい。

意識に関わらず吸い付く場所から指が出て行く。
此処から先の流れを覚えた身体は、咥えるものを失うと、反って熱を再発させる。
本当に、これ以上は持たない。
熱髄を貰っただけで果ててしまいそうな程、クライヴの躰は火照っていた。

クライヴは重い体をどうにか寝返りさせて、バルナバスに背中を晒した。
ひくつく秘孔を差し出す格好を取れば、するりと尻を撫でられる。
ぞくぞくとしたものが腰から背筋にかけて駆け抜けて、待ち遠しさに涙が滲むほどだった。


「バルナバス……────」


自ら下肢に手を遣って、男を迎える場所を広げる。
はやく、と今夜は何度目になるか急かして、ようやく、待ちわびたものが入って来るのが判った。





『クライヴ受で、現パロでえってぃ雰囲気のもの』のリクエストを頂きました。
お相手が指定されていなかったので、一番そういう雰囲気になりそうなのはバルナバスかな……と思ってバルクラで書かせて頂きました。

バルナバスって奉仕する側に回るの好きそうだな、と思いまして。
とにかく丁寧にクライヴの躰の準備を徹底的にやってから、もう問題ないと思ってようやく次のステップに進んでくれる、みたいな。
クライヴからすると、大事にしてくれようとしてくれるのは理解できるけど、余りにやり方が丁寧に時間をかけてくれるので、余裕のない時は焦らされてるみたいになる。

[16/シドクラ]油桃果



シドと共に、トルガルを伴って、魔物討伐を終えた時には、随分と陽が傾いていた。
このまま隠れ家に戻ろうとしたとて、道程の半分を行かない内に夜が来る。
夜の山野は、如何にドミナントが同行しているとて危険なものであることに変わりはなく、適当な所で野営をしてから、明日の帰路とした方が無難だと言う判断になった。

そんな訳で野営に適した場所を探しているシドとクライヴだが、街道沿いは彼らにとっては反って危ない。
お尋ね者も同然のシドは勿論、クライヴも脱走兵として目を付けられている節があったし、見回りのザンブレク兵に見つかっても面倒なことだ。
少し身を隠すことが出来るような、多少なりと視界が遮られる鬱蒼とした場所の方が、彼らにとっては都合が良かった。
少し山寄りに目星をつけ、魔物の気配も少なく、火を起こしてもあまり人目に付きそうにない場所───そんなポイントを探していると、とある木を見付けたシドが目を輝かせた。


「良いものを見付けたぞ、クライヴ」
「……なんだ?」


言われて辺りを見回して見るクライヴだが、特に変わったものは見付からない。
きょろきょろと首を巡らせていると、シドは「上だ、上」と言って指差した。

促されるままにクライヴが視線を上へと傾けてみると、少し急勾配になった斜面から、迫り出すように幾本かの木が伸びている。
ただの木だが、とクライヴは思ったが、よくよく見れば、その広がった枝に点々と赤いものが生っていた。
折り重なる葉の隙間から落ちる木漏れ日を受け、それはきらきらと艶を持って光っている。
林檎だろうか、と思ったクライヴだが、それはもっと寒い頃に実を成すものだった気がする。

首を傾げて斜面を見上げるクライヴに、シドは生え延びる木々の幹を伝うように斜面を登りながら言った。


「この時期なら美味いものがある筈だ。少し獲って行こう」
「食べられるものなのか。毒性は?」
「ない。ものによっちゃ酸っぱいだろうが、まあ、よく選べば食えない程のものには当たらないだろう」


木に近付いて行くシドを、クライヴも追って見ることにする。
もう少し近くに行けば、あの木に成っている実が何なのか知れるかも、と言うささやかな好奇心があった。
今日一日を共にしていたトルガルも、鼻をすんすんと鳴らしながら、相棒の後を追う。

斜面の中腹から、空に向かって斜めに伸びた木。
それは感覚を開けて、他の低木を間に挟みながら、幾本か立っていた。
どれもが同じ色の実をつけており、鮮やかな赤色に見えたが、やはり林檎ではないようだ。
形状が林檎のものとは少し違う、もう少し楕円形をしていて、曲線はつるんとしているように見える。

シドは幹がしっかりしている木を選んで、するりとそれを上り始めた。
クライヴはその下まで辿り着くと、木登りしていくシドを見つめる。


「食糧になるか?持って帰るのか」
「さて、どうかな。こいつはあまり日持ちが長くないんだ。固いものがあれば、持って帰ってる内に熟して良い食べ頃にはなるかも知れんが。良い奴なら今日中に食った方が美味いだろうな」


言いながらシドは、幹の先についている実に手を伸ばす。
指先で包むように触れて、その感触を確かめた後、軽く捻ってもいだ。
鼻先を寄せて匂いを確認すると、うん、と頷いて、


「中々良さそうだ。ほら、落とすぞ。上手く取れよ、落とすと傷がつく」
「ああ」


どうやら、随分と繊細な果物らしい。
そう言うものは、落果して傷がついてしまうと、あっと言う間に傷んでしまうこともある。
クライヴはシドの真下に移動して、落とされた木の実を受け取った。

腰の皮鞄から適当に使えそうな布を取り出して、クライヴはそれで木の実を包むことにした。
続けてシドが落とした実も、ひとつ、ふたつ、みっつと受け止めて、一緒にまとめておく。
ひとつの木に成っていた、丁度良さそうな実を選別して採取し、シドは「こんなものか」と言って木を下りた。

それから野営地は程なく決まり、川の袂を見付けた所で、陽が沈んだ。
手近な場所から燃料に出来る薪を拾い集め、焚火を燃やす。
太陽が沈むとじんわりとした冷気が川辺から滑って来るのを感じながら、取り合えずはこれでゆっくり出来る、とクライヴはひとつ息を吐いた。

さて、一息ついたのならば、腹拵えだ。
シドは早速、採取して置いた実を取り出した。


「どうやって食べるんだ」
「まるごと齧っても良いが、種は取った方が楽だな。半分に割るからちょっと待っていろ」


シドは荷物の中から果物ナイフを取り出した。
実の中心辺りに刃を入れると、そこから縦に一周する形で、実に一巡りの切り込みを入れる。
筋の入った実を両手でそれぞれ持つと、捩じるように左右を反対へと回した。
みち、と繊維の連結が千切れる音が小さく聞こえた後、実は切り込みを入れた真ん中からちょうどぱっかりと二つに割れる。

実の中にオレンジがかった黄色だが、中央の大きな種がひとつ入った所は、濃い赤色に染まっている。
シドは「持つなら装備は外した方が良いぞ」と言ってから、種のない方をクライヴに差し出し、手元に残った方の種をナイフで穿って取り出す。
その間にクライヴは、素手の手元に渡された実に鼻を寄せ、くん、とその匂いを嗅いでいた。


「……酸っぱい匂いがする」
「酸味は少し強い。果肉は食べると甘味もある」
「皮ごと食べれるのか」
「そのままいける。まあ、好みはあると思うがな」


シドの言葉に、ふうん、と言って、クライヴは口を開けた。
綺麗に半分に割れた果肉の端を齧って見ると、じゅわり、と果肉から溢れんばかりに蜜が出る。
口端から零れる程に出て来た蜜が、クライヴの顎を伝って喉を滑って行った。


「んぐ、」
「この水分だからな。傷がつくと其処から一気に駄目になるんだ」


喉を伝う雫を手甲の腕で拭うクライヴに、シドがくつくつと笑いながら言った。


「凄い果汁だ。水分補給に良さそうだな」
「ああ。一部の地域じゃ薬効果としても珍重されてるものだと聞く」
「それなら、持ち帰れれば色んな役に立ちそうだが……傷むのが早いのか。残念だな……」


薬効としての効能が期待できる程の、瑞々しく甘い果実。
酸味と、ほんのりとした甘みもあって、果肉は歯で軽く噛めば良い程度の固さだから、病人食に良いだろう。
しかし、傷が付けばあっと言う間に傷んでしまう、そもそも日持ちも良くないとなれば、中々こうした代物は難しい。
長期保存の方法もあるとは言うが、それだと水分を蒸発させた欲し果実にせざるを得ないし、作っている最中に変色も始まるから、あまり薦められない。
採ったらその日のうちに、長く見積もっても翌日中が限界だろう、とシドは言った。

致し方のないこととは言え、持ち帰りが効かないことは、少し残念だな、とクライヴは思う。
隠れ家で新鮮な果物と言うのは非常に貴重だ。
だからこそ、持ち帰ることが出来れば皆も喜ぶだろうと思うのだが、それは叶わない。

クライヴの横で丸くなっていたトルガルが、すんすんと鼻を鳴らして、クライヴの手元に寄って来る。


「食べるか、トルガル」
「種も取ってあるし、ま、ひとつくらい大丈夫だろう」
「───と言うことだ。良かったな」


クライヴはトルガルの頭を撫でて、果実をその口元に寄せてやった。
トルガルは果実の表面をぺろりと舐めると、尻尾をふさりと揺らす。
半分の実を地面に置いてやれば、トルガルは直ぐにそれに喰いついて、滴る果汁ごとごくりと飲み込んだ。

今日のシドとクライヴの食料は、この果実だ。
シドはもう一つ、実を先と同じように二つに割って、種のない方をクライヴに渡す。
クライヴはさっきのように果汁を垂らさないよう、手の中で実を水平にして、端から蜜を啜るように口をつけた。
それでも水分いっぱいの果肉に歯を立てれば、千切れた繊維の隙間からジューシーな果汁が溢れ出し、クライヴの口まわりや手のひらをしとどに濡らす。
クライヴはそれらを適当に拭いながら、瑞々しい果肉に尚も被り付いた。

その様子を見ていたシドが、自分の果肉を齧りながらくつりと笑う。


「随分、気に入ったようだな」
「……んぐ……こういうのは、久しぶりだったから」
「まあ滅多に見付かるものでもないしな」
「それもあるが……」


確かに、野生の実で、こうも美味いタイミングで手に入れられる果実に出会えることは貴重だ。
だが、クライヴの“久しぶり”と言うのは、それだけが理由ではない。

十三年間をザンブレク軍のベアラー兵として過ごした中で、質の良い食糧にあり付けたことは先ずない。
使い切りの駒として扱われるベアラー兵には、危険な任務が回って来るが、それを熟す為の物資に碌なものは用意されなかった。
装備でさえも下げ渡しか、使い古しを無理やり継ぎ接ぎにしたものだから、食糧の類なんてもっと酷い。
用意して与えられるならまだマシで、現地で自力調達せねばならなかった事も多い。
それも現地と言うのが、大抵は戦の最前線であったり、黒の一帯を始めとした不毛な地に赴く場合が多いから、見付かる食べ物なんてたかが知れている。
緑豊かな場所なら、まだ木の実でも動物肉でも望むことは出来たが、そんなものを望む気にもならないのが当たり前だった。
ネズミ一匹だって貴重な食材だったことも少なくない。

そんな環境が十年以上も当たり前だったクライヴにとって、今手の中にある瑞々しい果実は、まるで夢のような代物だった。
よく熟した果実は甘くて美味い、と言うことを、まるで初めて体験したかのように、体が喜んでいる。

存外と子供のように正直に感情を表す青の瞳に、シドの喉がくつりと笑う。
しようがない、と言う何処かおおらかな気分で、シドは三つ目の果実にナイフを入れた。


「どうせ日持ちしない代物だ。食べたいだけ食べろ。腹を下さんようには気を付けろよ」
「ん」


口の中に果肉が入っているので、クライヴの返事は端的だった。
そんな彼に果実を差し出せば、濡れた手がそれを受け取る。

クライヴは先ず、果物の果汁を啜った。
半分に切り分けられた果肉の表面からして、水分が表面に膜を作るように艶やかだ。
切り口の端からじわじわと染み出してくるそれを吸い取って、こく、こく、と喉仏が動く。
蜜の一滴も無駄にしないように啜って、それから果肉に齧りついた。
しかし果肉は齧るほどに奥からじゅわりと多量の蜜が溢れ出し、クライヴの口元を濡らす。

────その夢中で蜜を啜る様子が、なんとも。
夜の秘め事に、熱を啜る姿をほうふつとさせて、シドは意識して明後日の方向を見た。


「う、ん。んっぷ……本当に、凄い果汁だな。幾らでも出て来る」
「あー……そうだな。だから沢山食っても、半分は水っ腹だ」
「ああ、だから下ることもあるのか」
「果肉がある分、マシとは思うがな」


持ち帰りの効かない果実なら、隠れ家で過ごす人々が食べるのは難しいだろう。
最近、隠れ家の皆から頼まれごとを引き受ける事が増えてきたようで、クライヴは多くの人に慕われつつある。
きっと彼らも嬉しいだろうに、と呟くクライヴに、そうだな、とシドは頷いた。

そんなクライヴの口元は、すっかり蜜で濡れている。
手許の果実はもう幾らもなく、クライヴなら一口で食べきってしまえる程度しか残っていない。
それでも果汁はやはり多く、クライヴの手のひらは果汁と果肉の欠片ですっかり濡れていた。
その果汁を、勿体ない、とクライヴの舌が舐めるを見て、シドは片眉を潜めた。


「行儀の悪い」
「なんだ、急に。そんな事気にした事もない癖に」


行儀云々など、子供の日々の躾に言うか言わないか、そんな程度だ。
手掴みで果物を食べるこの環境で、小奇麗にナイフで一切れずつ切り分けて食べる方が面倒だ。

そんなことはシドも分かり切っている癖に、急に妙なことを言い出したものだから、クライヴは眉根を寄せる。
それから、シドが浮かべる表情と、目の奥に燈るものに気付いて、口端が珍しく悪戯に笑う。


「……勿体ないだろう。こんな美味いもの、無駄にしたら」


そう言ってクライヴは、指を濡らす果汁に舌を当てる。
果肉を持って食べていたその右手は、焚火の照明を受けて、艶を持って光っている。
水とは違って、少しばかりの粘りを持った蜜は、クライヴの手をつやつやと飾って見せる。

クライヴは濡れた手のひらを口元に寄せて、ぢゅ、と蜜を啜る。
青の瞳はじっと目の前にいる男を見つめ、何処か挑発的な気配を滲ませていた。

───判ってやっているな、とシドも口の片端を笑むように歪ませる。


「生意気なことをするなよ」
「別に。何もしてない」


食べ物を粗末にしないようにしてる、それだけだ、とクライヴは言う。
しかし、向けられる青の瞳には、明らかな意図があった。
クライヴもそれを意識していることを隠さずに、蜜に濡れた手のひらを唇に当てて、音を立てて吸う。

今ならその手は、甘く滴る甘露の味がするだろう。
窄めた唇が必死に蜜を啜る様子と言うのを、シドはよく覚えていた。
搾り取るまで啜るのは得意な男だから、其処に甘露があれば、存分に味わい尽くして舐め取る。
そして顎を伝って落ちる雫は、掌に掬って、見せつけるように舐めて見せる。
それは目に見える服従の証でありながら、翻弄する側であろうとする、彼の意識的な挑発行為だ。

シドはクライヴの手首を掴んで、自分の方へと引き寄せた。
抵抗もなくされるがままに持って来たクライヴの手は、思った通り、蜜と唾液で濡れている。
その手のひらの中央に舌を這わしてやれば、自分で遊ぶのとは違う感覚に、ぴくりと指先が震えるのが分かった。


「……良く熟してるな」
「……ああ」
「で、こっちはどうなんだ?」


掴んだ手首を離さずに、目を見て問えば、クライヴは「さあ?」と含みを持った笑みで首を傾げた。





『シドに拾われてからまだ日が浅い頃、久しぶりに果実を口にしたクライヴに、ムラっとしたものが掻き立てられるシドクラ』のリクを頂きました。

零さないように啜ってる様子ってなんかえっちじゃないですか、と言う心。
かぶりつきで食べるのも良いですが、クライヴってなんだかんだ根っこの育ちが良いので、綺麗に食べそう。
指舐めたりはやっぱり環境が環境だったので、貴重な食料や水分は無駄には出来ない勿体ない精神。
しかしそう言う所から出て来る仕草のちょっとした所が、やらしく見えるものですね。

[16/シドクラ]森月の夜



この辺りだな、と目星をつけた場所に極簡素な野営地を作り、数泊。
拠点とした位置から、周囲の様子をよくよく観察しながら探索し、幾つかの場所から土壌を採取した。
それ程遠くない位置に湿地帯が拡がっているお陰か、この辺りの土はどこも柔らかく、水分を多く含んでいる。
水持ちが良い代わりに、水分が多量である為に、水捌けを必要とする植物は根付く前に腐ってしまうのだろう、種類は苔の類が一番数が多いようだった。
とは言え山脈沿いから流れて来る水は栄養分が豊富なようで、川には水棲生物も多く、生き物の生態系は多様だ。
この一帯は、恩恵の元としては、海を挟んだ火山島にあるマザークリスタル・ドレイクブレスになるだろう。
だから北部に比べればまだ豊かさがあり、水も土も、其処に生きる動植物も、元気なものだ。

しかし、その恩恵も果たしていつまで続くだろうか。
大陸北方は黒の一帯が拡がりつつあり、じわじわとこの国の領域にも浸食しつつある。
約80年前にマザークリスタル・ドレイクアイが消滅したと言う事実は、北方で生きていた人々にとって、悲劇と言う他ない。
その為に北部領域にあった国は、隣接するロザリア公国と度々の戦を起こし、結局は投降併合される形となったが、その後も北部難民によって公国側も環境を逼迫されている。

国の立地によって、北部の難をロザリア公国が受け取ることとなったが、これは何処で起きても可笑しくはない出来事だ。
シドが身を置く灰の大陸にあるウォールード王国も、大陸南部側のマザークリスタルが消滅した時代から、常に戦乱が続いて来た。
今は不老の王によって灰の大陸は統治されている形ではあるが、それも南部が黒の一帯で覆われ、人が食うに食えなくなり、残った人口が北側に密集せざるを得なかったからだ。
ヴァリスゼアの三分の一にあたる灰の大陸全土を統治、とは言え、実体としては黒の一帯を放棄したに等しい。
そして残った北側をなんとか開墾し、残ったマザークリスタルの恩恵に縋って生き延びているのだ。

このままでは、遅かれ早かれ、ヴァリスゼアは命が生きていけない場所になる。
大陸を脱出し、外で生きるには、余りにもリスクが高い。
シドは何度か外大陸への出征を経験しているが、海を渡るだけで数ヵ月、それも安穏とした波の中を行く訳ではない。
訓練された兵士でも、時には海に落ちて死ぬこともある。
そして、外大陸に無事に到着しても、其処にはまた別の試練が待っている。
そもそも、マザークリスタルが齎し、クリスタルと言う奇跡の資源があることで生活を賄っているヴァリスゼアの人々にとって、その恩恵から脱して生きるということ自体が、不可能に近いものであった。

だから何とかしなければならない、とシドはこうして歩き回っている。
灰の大陸の半分を覆い尽くす黒の一帯そのものを研究し、枯れた土にもう一度命を芽吹かせることは出来ないか。
棄てた土地を今一度拓くことが出来なければ、この大地はゆっくりと死に向かうだけだ。

灰の大陸については、逐次に資料となるものを集めて、研究を続けている。
その傍ら、シドは風の大陸についても調べるべきだと思った。
各地の土の状態、茂る植物や動物の生態系を調査し、水源地を記録する。
黒の一帯については、それが何処から発生しているのか、発生源には何があるのか、他の土地に同様の条件が合致するような場所はないか───など、調査対象は多岐に渡る。
一人で調べるには余りに広大な事柄ばかりだが、シドは常に一人でこの研究を行っている。
途方もない話に他人を付き合わせる気にならなかった、と言うのもあるが、シド自身、こうした研究が果たして実になるものかと言う確信がないのも大きかった。
黒の一帯については、誰もが棄てるしかない土地だと認識しているし、実際、今までの研究成果から見ても、もう一度開墾が望めるような環境ではない。
せめて、クリスタルや魔法と言う恩恵を使わなくても生きていける環境づくりが可能になるまでは、何もかもが霞を掴むような曖昧な話でしかなかった。

今日も足が棒になるまで歩き回って、手に入れたのは、土と草と水。
それらを何処で採取したのか、地図にマークを記す作業をしていた所で、ふと奇妙な音を聞く。
鬱蒼とした森の向こうに響くそれは、金属音のようだった。


(……野盗の縄張り争いか?)


場所はロザリア公国の郊外にある森の中だ。
この森を北に抜ければロザリア城下町へと続く街道へと出る為、旅人を狙った賊が幾つか徒党を組んで縄張りを持っている。

シドは噛んでいた干し肉を口の中に押し込んで、小さな焚火に砂をかけて消した。
少ない手荷物を片手に掴み、音の出所を探る。
拠点とする為に周囲の安全確認は初日に済ませているが、野盗と言うのは幾らでも移動するし、獲物がなければ縄張り外にも出て来るものだ。
襲われるのも面倒だし、寝るのなら場所を変えた方が良い。

しかし、現場を離れる前に、音の出所について調べてみようと思った。
縄張り争いならば好きにさせれば良いが、ひょっとしたら商人か旅人か、襲われている可能性もある。
善行に勤しむような敬虔さは特段持ち合わせてはいなかったが、無視する気にもなれなかった。

時間は夜、空には満月に満たない程度に丸い月がある。
辺りの木々は鬱蒼と茂っているが、針葉樹の隙間から月明かりが落ちているお陰で、それ程視界は悪くない。
身を隠す程度の影を作ってくれる木々の隙間を伝って、シドは音の発信源へと辿り着いた。


(───やっぱりな。野盗か)


林立した木々の隙間から見えたのは、顔をフードやマスクで隠した三人の野盗だ。
それと相対しているのは、軽鎧をまとい、剣を握った細身の少年。


(……商人の子供、と言う訳でもなさそうだが……?)


少年は背後の襲撃を厭ってだろう、木に背中を預けるようにして剣を構えている。
三人の野盗はじりじりと距離を詰め、飛び掛かれる隙を探していた。

見る限り、少年の持ち物は、両手に握った剣のみ。
金目のものを持っているようには見えないが、軽鎧は遠目にも仕立ての良い代物だ。
身包みをはいで、適当な金物屋にでも売り飛ばせば、さぞかし良い値の鉄になるだろう。

ともあれ、状況としては、一人の少年が三人のごろつきに囲まれていると言うものだ。
シドはやれやれと言う表情を浮かべつつ、足元に落ちていた石を拾った。

少年の視線が、三人の野盗を見据えている。
しかし、視野と言うものには限界があるから、野盗は三方向にそれぞれ広く配置を取り、少年の死角を狙う作戦に出た。
正面左右にそれぞれ展開した野盗たちに、少年の眼球は大きく動かざるを得なくなり、見る方向の反対側が死角となってしまう。
当然、それを狙った一人の野盗が飛び掛かろうと地面を蹴った瞬間、シドは手のひらに構えていた石礫を、魔力を込めた指で弾き撃った。

薄く雷のエーテルを帯びた石礫が、少年にサーベルを振り被っていた男の後頭部にヒットする。
微弱な電流が後頭部から脳へと走り、う、と目を瞠った野盗を、少年の剣が薙ぎ払った。
少年は返す切っ先で、逆側から襲い掛かってきた野盗を打ち払う。
正面に立っていた野盗が、掌に魔力を集中させていることに気付いたのはシドだ。
足元に落ちていた小枝を蹴り上げて掴み、振り被り、一投。
矢のように空気を切り裂いた枝が、今正に圧縮した風を打ち出そうとしていた野盗の手に突き刺さった。


「ぐああああっ!」
「!」


悲鳴を上げた野盗の隙を、少年は逃さなかった。
細身の体には聊か重いであろう大剣を、両手で掴み、振り被る。
おうん、と風を割く低い音と共に、大剣の峰が野盗の横腹を強かに殴りつけた。

ぐえあ、と不格好な呻きを零しながら、野盗は横向きに吹き飛んで、木の幹に体を叩きつける。
そのまま崩れ落ちて動かなくなった野盗たちを、少年は息を詰まらせ、緊張した眼差しでじっと睨んでいた。

それから、数秒。
はっ、はっ、と切れる少年の呼吸が少しずつ落ち着いた後、彼はほうっと安堵の息を吐いた。
疲れ切った様子で膝が崩れかけるのを、少年は剣を地面に突き立てて支えている。
そして少年は、汗ばむ額を手甲で拭いながら、シドが身を隠している方を見た。


「……其処の───どこの誰かは、判らないが。助けてくれてありがとう」


其処に自分を助けた人間がいる、と少年は分かっていた。
ならば隠れていても意味はないな、とシドは腰の剣には手を置かないようにと意識して、木陰から出る。


「何、ちょっと余計なお節介をしただけだ。礼には及ばんよ」
「いや、あのままだと危なかった。貴方のお陰だ」


少年は剣を背中に納めながら、シドに改めて礼を言う。
その物の言い方を聞いて、随分と育ちが良いな、とシドは思う。

地面で微かに呻く声が漏れるのを聞いて、少年ははたと辺りを見回す。
転がる野盗たちを見た少年は、手持ちの少ない荷から縄や布を取り出して、気を失っている野盗たちを縛り始めた。
シドもそれに手を貸せば、少年はもう一度「ありがとう」と言った。

慣れた手付きで野盗に縄をかけ、それが解けないようにしっかりと結ぶシドに、少年が言った。


「随分と手際が良いな。見ない顔だが……何処かの警邏隊にでも所属しているのか?」
「いや、ただの流れ者だよ」
「……」


縛り縄の具合を確かめながら答えたシドに、少年は首を傾げた。
腑に落ちない様子ではあったが、助けられたと言う手前だろうか。
少年はそれ以上を問うことはしなかった。

そしてシドの方も、野盗に縄をかける傍ら、少年の井出達を確認して、彼の正体に気付いた。
分かってしまえば、彼の喋り方、立ち振る舞いに品と威があるのも理解できる。
となれば、自分は佇まいを正すべきなのだろうが、敢えて今は触れまいと、素知らぬ顔で流れ者らしく振舞う。


「今日はこの辺りで野宿かと思っていたんだが、野盗がいるような場所なら、辞めた方が良さそうだな」
「ああ。この野盗たちは、先達て討伐された一団の残党なんだ。報告によればこいつらが最後の筈だけど、念の為、此処は離れた方が良い」
「ふむ。忠告は有難いんだが、生憎とこの辺りの地理に疎くてな。何処まで行けば安全だ?」
「……そうだな……」


少年は手袋をはめた手を顎に当てて、考える仕草をしながら辺りを見回す。
木々に覆われた空を見上げ、覗く月の角度を確かめてから、おおよその時間帯と方角を計算して、


「北西の方に抜ければ、野原に出られる。街道沿いにも近いから、その辺りまで行けば、警邏の巡回もあるから野盗の類はまず出ない」


そう言って、少年はシドに行くべき方角を指差し示した。

森さえ抜ければ安全な筈だ、と言う少年に、シドは短い感謝を述べて、荷物を持ち直した。
この辺りの森のことは、出来ればもう少し調査に時間を割きたかったのだが、こうして人目に着いた以上、長居は出来ない。
この地については後日、また改めて足を運ばせるしかないだろう。
取り合えず採取は済んだ事だし、当面はそれを当てに研究していくことにしよう。

此方を見つめる青の瞳が、不審を見るものになる前に退散させて貰おう───と思った時だった。
つん、と鼻腔に触れた鉄錆に似た匂いに、シドは眉根を寄せて少年を見る。


「お前、何処か怪我でもしてるのか」
「!」


シドの言葉に、少年はぎくりとした様子で肩を揺らした。
やれやれ、とシドは溜息交じりに荷物を下ろす。


「ちょっと見せてみろ。切り傷に効く薬がある」
「い、いや。大したものじゃない。そんな───」
「まだ残党が他にもいるかも知れないだろう。そのままにしておくと、つけ込まれるかも知れないぞ」


諫める声で脅すように言ってやれば、少年はぐっと口を噤んだ。
ばつの悪い、叱られることに怯える子供のような光が、青の瞳の隅に浮かんでいた。

少年の右手が、隠すように左腕に触れる。
成程そこか、とシドは荷物袋の中から薬瓶を取り出すと、少年の前に立つ。
発展途上の身長は、シドの胸のあたりに頭の位置があって、丁寧に撫でつけられた髪が月光を反射して艶を浮かせていた。


「見せてみろ」
「……」
「別に毒を塗ろうって訳じゃない。何の薬か信用ならないって思うのも、分かるがな」
「そう言う、訳では……ない、けど……」


シドからすれば、何処の誰とも分からない人間が差し出す薬など、と疑う方が理にかなっているとは思う。
しかし、少年にとっては、曲りなりにも自分の危機を救った相手を疑うことも、ばつの悪さを誘うらしい。

少年はしばらく戸惑いに立ち尽くしていたが、シドに譲る気がないのも察したのだろう。
のろのろとした様子で、左手に嵌めていたグローブを外し、服の袖を捲った。
肘の手前から皮膚にはべったりと赤い絵の具が拡がっている。
傷を負ってから時間は経っているようだが、出血も止まり切ってはおらず、真新しい切り傷からはじわじわと赤い粒が浮き出ていた。

薬瓶の中身は、薬草を潰して練り込んだ軟膏だ。
傷のある場所に塗り広げてやれば、皮膚に沁みる感触に少年が眉根を寄せる。
唇を噛んで唸る声を殺しているうちに、シドは手早く薬を塗り終えた。
それから荷袋から適当に布を切り裂いて、包帯替わりに少年の腕に巻き付ける。


「こんな所か」
「……すまない。此処までして貰って……」
「こっちが勝手にしたことだ。そう気負った顔するようなことじゃない」


じんわりと赤い色を滲ませている布を見下ろして、詫びるように首を垂れる少年に、シドは肩を竦めた。
しかし、シドの言葉は少年の内側にはあまり響いていないらしい。
気まずい表情で腕を見つめる少年の頭を、シドは余計なお節介だったなと、今更と知りつつ苦笑する。

───と、遠くから人の声が聞こえてくる。
何かを探しているように大きなその声が、近付いて来るにつれて、人の名を呼んでいるのが分かった。


「あ───」


声のする方向を見た少年を見て、迎えだな、とシドは察する。


「それじゃ、俺はこの辺でお暇させて貰うとしよう」
「ちょっと待ってくれ。助けて貰ったのと、これと、礼がまだ……」


荷物を持ち直して踵を返したシドを、少年が引き留めようとする。
しかしシドは足を動かしながら、振り返らずにひらひらと手を振って、


「言っただろう、ただの勝手なお節介だ」
「しかし」
「どうしても礼をしてくれるなら、次に会った時で良い。何か頼み事ひとつでも聞いてくれれば十分だよ」


森の中へと姿を晦ますようにして潜って行くシドを、追う足はない。
程なく少年の迎えが合流することを思えば、彼がシドを追い駆けて来ることはないだろう。
捕縛した野盗のこともあるし、彼が忙しい立場であることは想像に易い。

気配が遠退いた所で、シドが振り返ってみると、茂る木々草の向こうに、思った通り、ロザリア公国軍の装備を身に付けた男たちが、少年を囲うように話していた。
既に少年の表情も見えない程に距離が開いているが、彼は野盗征伐の仕上げに取り掛かっているらしい。
シドもこうなったのならと、森の探索もすっぱり諦め、帰路へと向かうことにした。
今のうちに森を離れ、港のあるポートイゾルデ方面へと向かえば、城へと戻るであろう、彼と鉢合わせすることもあるまい。

手許の磁石で方角を確認しながら進む。
その傍ら、シドは透明な青の瞳が円らに見上げて来る様子を思い出していた。


「次に会った時────か」


人気のない林の中で一人呟いて、シドは苦く笑う。

シドの立場と、あの少年の立場。
それを理解した上で、再び邂逅することがあるとすれば、それは凡そ今夜のような穏やかなものにはならないだろう。
シドが籍を置くウォールードと、彼が身を置くロザリア公国は、直接の睨み合いこそないものの、手を取り合うには難が多い。
今後のヴァリスゼアの行先を思えば、不穏な時流の時こそが、再会の機となり得るだろう。

灰の大陸も、風の大陸も、マザークリスタルの恩恵を奪い合って戦乱が絶えない。
それを思えば、穏やかな再会など望むべくもないのだ。



密集していた木々が途切れ、視界が広がると、白い月明かりが野を照らしている。
今頃はあの少年も、この月の下を歩いているのだろう。
その道中がせめて無事に終われば良いと、シドは灯台の方へと歩きながら祈った。





『シドと15歳のクライヴ』のリクエストを頂きました。
ifでもパロでも良いとのことでしたので、ifです。若シドと15歳クライヴの偶然の出会いを考えるのが楽しかったです。

この頃だとシドは三十路の頃ですが、アルティマニアの年表を見ると、この時分にベネディクタを拾ってるみたいですね。人のことを放っておけない性分を発揮している。
クライヴはフェニックスの騎士になるべく修行中。実力と実戦経験を積む為に、兵士数名を伴って野盗の残党退治に出ていた、と言う感じでした。
この頃のクライヴは、魔物討伐等や、王族皇族列席の場には警備としてなら参加していそうだけど、あまり自国を出る機会はなさそうだなぁ……と思っている。想像ですが。

[16/シドクラ]それは当て所もなく大きな



剣先からまるで針の穴を通すようにして突き通された刃が、クライヴの剣を絡め取るように巻き上げる。
しまった、と思った瞬間に武器を手放すのが、恐らくベターな選択だった。
だがこうした場面でおいそれと無手になる訳もにかないと、柄を握る手に力を籠める。
それをにやりと笑う目に見られて、もう一度、しまった、と思った。
ぐんっと肩ごと捻るようにして、剣が大きく上を向き、そのまま手首も捩じられて、腕の健が耐えかねて武器が零れる。
くそ、と歯を噛んでせめてもの抵抗に左手に魔力を握るが、それがまともな形を取るより早く、相手の空の左手がクライヴの顔面に突き付けられた。

しん、と鎮まること数秒。
それで決着がついたことは十分に分かった。

完全に動きを止めたクライヴの目が、掌の向こうで笑う男を見る。
苦々しいものが口の中に籠るのを堪えられず、眦が尖るのが自分でも分かった。
それが悔しさを表すものだと、目の前の男に見通されるのは分かっていたが、さりとて隠した所でどうせこの男は全てを知っているのだろう。
そう言う、腹立たしい程の察しの良い観察眼を、この男───シドは持っているのだから。

噤んだ唇の中で歯を噛んでいるクライヴを見て、シドはくつりと笑った。
突きだしていた手を引っ込めて、右手に握っていた剣も鞘に納める。


「此処らで終いにしよう」
「……ああ」


溜息を抑えながら、クライヴは頷いた。

黒の一帯の只中にある隠れ家の中は、“空の文明”の遺跡を土台にして作られているから、スペースには限りがある。
しかし、かつての文明の繁栄ぶりを示すかのように、遺跡の中は存外の広い。
半分は土の中に埋まっているから、恐らくは全体のスペースではないのだろうが、それでも隠れ家に身を寄せる人々が、窮屈さを感じる程のことはない。
その多くは居住区として利用されているが、其処から少し離れた一画には、鍛錬用の場所も設けられていた。
印を焼いて外で活動可能となったベアラーたちが、野盗や魔物から身を守る為に、武器を使った鍛錬をする為に用意された場所だ。

その鍛錬上から出て来るシドとクライヴに、仲間たちから「お疲れ様」と声がかけられる。
水を差しだしてくれた女性から、シドは一杯受け取って、ぐいっと一気に飲み干した。
続けてクライヴにも差し出してくれたが、クライヴはどうにも受け取る気になれなくて、やんわりと辞退する。
欲しくなったら言ってね、と言ったその女性は、エントランスの入り口の方へと向かい、外回りから帰ってきた仲間たちに水の配給をし始めた。

エントランスを歩くシドの元に、子供たちが駆け寄って来る。


「シド、シド。ねえ、勉強で分からない所があるの。教えてくれる?」
「ああ。何処だ?見せてみろ」


早速屈んで子供たちと目線を合わせるシド。
使い古したと分かる本を開き、ここが分からないの、と指差す子供。
どれどれと覗き込むシドの丸めた背中を見ながら、クライヴはふう、と嘆息する。


(忙しない人だ。疲れていない訳じゃないと思うが)


子供の質問に応えてやるシドの周りには、他にも彼に用事のある人々がちらほらと集まっている。
子供が満足して、「ありがとう!」と駆け戻って行くと、直ぐに大人の相手を始めた。

鍛錬を終えて、一分と間のない内に、隠れ家の人々から頼りにされるシド。
彼はいつもこうした調子で、常に人に囲まれている。
彼自身は決して自分がこの隠れ家の長であるつもりはないと言うが、事実上の形として、この隠れ家を率いているのはシドだ。
誰もが彼を当てにして、精神的な支柱として頼りにしている。
シド自身も、自分のことを言うのはどうであれ、そうやって当てにしてくれる仲間に応えることは吝かではないようだった。

そんな訳だから、次から次へと、シドを頼る声は止まない。
外回りからの報告だったり、菜園の研究の進捗だったり、資材の在庫の塩梅だったり───とにかく、忙しない。
それを疲れた顔のひとつも見せずに応対しているのだから、クライヴは感心するばかりであった。

その上、彼は戦闘にも長ける。
つい先程、不意を衝く角度からの絡め手に、文字通り持って行かれてしまったことを思い出して、また苦いものが滲んだ。


(敵わない。年の功だとシドは言うが……それだけでこうも……)


聞けば───凡そだとは言われたが───シドとクライヴの間には、一回りほどの年齢差がある。
それだけ生きて来た長さが違えば、積んだ経験も差があるものだ。
況してやシドは、嘗てはウォールードで騎士長などと言う地位にいたと言うから、それもまた彼の豊富な経験値の裏付けになるだろう。
そしてそれらの経験があるから、隠れ家の人々も、彼を芯から頼る程の器を持っているのだ。

大してクライヴ自身はと言えば、故郷を失ったあの日から、ただただ戦場で生き延びることに尽くしてきた。
それは目的があり、その為には死ぬ暇などないと、救われた命を可惜に潰す訳にはいかなかったから、我武者羅に生を掴んできたに過ぎない。
常に生死の境に立っているような環境だったから、其処で十三年と言う短くない時間を生きて来れたことは、運もありながら、クライヴの実力が相応に成長したことも確かにあるだろう。
だが、ただ死ぬわけにいかないから生きて来た男と、志を持って過酷な環境に身を置きながら、人を導き生きて来た男とでは、やはり、培ってきたものが違うのだ。


(……悔しいな)


こんな気持ちは、今に始まったことではない。
シドに拾われる形で隠れ家に身を寄せた時から、折々に感じるものだ。
特に、シドと手合わせをして、しっかりやり込められる度に、その気持ちは膨らむ。

これは、ただの意地のようなものだ。
正面から戦うことになれば、恐らく、無為に負けはするまいとクライヴは思う。
それは単純に、年齢の差から現れる、純粋な身体能力───腕力や脚力、持久力、扱える魔法の一発に放てる威力───から測った場合だ。
シドの体を蝕む石化症状によって、彼の動きに少なくない制約が齎せる事も含めれば、クライヴの方に分があるとも言って良い。
しかし、それはシドも分かっていることだ。
そして戦場でわざわざ正面突撃ばかりを敢行する、馬鹿正直な戦い方で制することが出来る訳もなく、シドは幾らでも絡め手を使ってくる。
かと思えば、フェイントを警戒するクライヴの隙をついて、正面から大胆な戦略で押し込んでくる事もあるから、その判断の早さと、巡らせる計略の数は、底知れないものがあった。

培ってきた経験値、頭の中に詰め込まれた知識の量、其処から必要な情報を精査して選択する判断力。
何もかもがクライヴは敵わない。

───ふう、とクライヴは短く息を吐いて、詮無い思考を振り切るように、緩く頭を振った。




鍛錬で隙間の出来た胃袋を慰める為にラウンジに行くと、ケネスから「歓迎会をしよう」と提案された。
何のことかと目を丸くするクライヴに、シドから簡潔に説明が来る。

なんでも、隠れ家の一員として身を置く仲間が増えたら、なべて歓迎会なるものが催されるらしい。
とは言っても、然程特別なことを仰々しく行う訳ではなく、ケネスが少々手の込んだ料理を用意して、カローンに請うて少し良い酒を仕入れて貰う。
それらを主役となる当人は勿論のこと、出来るだけ多くの隠れ家の仲間たちに振る舞うことで、ちょっとしたパーティを開くのだとか。

物資の調達先が限られる生活だから、食糧も酒も貴重なものだ。
さりとてそれを勿体ぶるばかりと言うのもさもしい気持ちが募るもので、時には賑やかに豪勢に楽しみたい、と言う欲も浮かぶ。
そう言う時、仲間の歓迎会を開く、と言うのは、そう頻繁に出来るものではない事も含め、良い理由付けになっているのだとシドは笑う。

クライヴとジルが隠れ家の一員として身を置く事を選んだのは、フェニックスゲートへの旅路から戻ってのこと。
それ以前は、クライヴはこの隠れ家に馴染むつもりがなかったし、ジルは目覚めて間もなく、クライヴと共に旅立った。
先の頑ななクライヴの態度も含めて、歓迎会なんてものを開く空気でもなかったから、誰もそれを言わなかったのだ。
しかし、今となればそれももう気にしなくて良いだろう、と言うことになったのだろう。

クライヴにしろジルにしろ、歓待なんてものを受けることに、抵抗───と言うよりは気恥ずかしきもの───はあったが、これは仲間たちの厚意だ。
必要ない、と無碍にするのも悪い気がしたし、やる事と言えばラウンジでの飲み食いぐらいのことだから、普段の食事の延長とも言える。
何より、調理場担当のケネスがやる気満々で、もうカローンから諸々を仕入れたよ、とも言うものだから、歓迎会が開くのは決定事項のようなものだった。

かくして準備は着々と進んで、夕食の席が一時の宴会場となる。
外回りをしていた者たちも折よく帰ってきた所で、各自の仕事をしていた人々も手を止めて、ラウンジには普段よりもずっと多い人の気配が溢れていた。


「────新たな仲間に、乾杯!」


そんな声がグラスを打ちあう音と共に其処此処で上がる。
クライヴとジルも、ラウンジ一階の奥の席に座って、お互いのグラスをこつりと当てた。

わいわいと賑やかな声が重なる中、ガブが「よーし」と意気込んだ様子で言った。


「クライヴ、飲み比べしようぜ!」
「お、良いな。俺もやるぞ」
「俺も俺も」


ガブの一声を切っ掛けに、近いテーブルに座っていた酒豪たちが参加表明を上げる。
これはやらないと言っても聞いては貰えないだろうな、とクライヴは苦笑しつつ、「良いぞ」と言った。

クライヴの前に、たっぷりとワインの注がれたマグが運ばれてくる。
飲み比べに参加表明した面々の元にも、同じものが並べられた。
それを見ていたシドが、やれやれと言う様子で覗き込んでくる。


「なんだ、いつもの奴か?」
「ああ。そうだ、シド、あんたも飲めよ」
「やっても良いが、勝ったら何かご褒美でもあるか?」
「んん?うーん」


飲み比べに誘うガブに、シドがにやりと口角を上げて言った。
自ら提案する所からして、自信を匂わせるシドだが、ガブはその様子には気にも留めない様子で、顎髭に手を当てて考える仕草をする。


「そうだなぁ。優勝した奴が、皆からの奢りで、一番上等な一杯を飲む権利を持てる、とか。飯でも良いぞ」


隠れ家では、限られた食糧事情の中で、創意工夫を凝らして美味いものを提供しようと言うケネスの気概に支えられている。
野菜の皮から葉までくまなく、根も生薬として使うことは勿論、薬味としても役に立つから、何ひとつ無駄にはしない。
が、それはそれとして、一等質の良い肉が手に入った時には、それを豪快に食べさせてくれることもあった。
ただし、それはタイミングも量も限られるので、外回りを仕事にしている健啖家などは、時によっては見ることも出来ずに、食べる機会を逃がしてしまうことも珍しくない。
クライヴも、シドと同等に戦える程の実力を持つこと、当人も戦うことが自分の役割であると自負していることもあって、隠れ家の外で活動していることが多かった。
ケネス自慢の、腕によりをかけた手の込んだ料理と言うのは、中々お目にかかれる機会がないのである。

それを優先的にありつける機会が出来ると言うなら、誰も悪い気はしない。
ガブの提案に、それにしよう、と皆が頷いたので、これで優勝賞品は決まった。


「じゃあ皆、準備は良いか?行くぞ」


発案者のガブが音頭を取って、飲み比べ大会が始まる。
クライヴも合図に合わせてマグを運び、ごっ、ごっ、ごっ、と喉を鳴らした。
酒の楽しみに溺れた男たちが、こぞって酒豪ぶりを見せつけようと競争する様子を、ジルを始めとした女性陣たちは、「楽しそうねえ」とくすくすと笑いながら眺めている。

こうして賑々しい空気の中で、酒を傾ける楽しさと言うものを、クライヴは隠れ家に来て知った。
ザンブレク軍のベアラーとして生きていた時は、酒なんて上等なものにあり付ける訳もなかったし、稀にその運に恵まれたとて、楽しむ気など微塵も沸かなかった。
更に記憶を遡れば、こうした賑々しい酒宴の場と言うのは、少々苦手にも感じていたように思う。
それは自身の立場と言うものがあって、其処での立ち振る舞いは意識しなくてはならなかったから、こうも気安く酒を飲むことが出来なかったからだろう。
何もかもを持たなくなった今だから、こうして気楽に飲めると言うのは、皮肉のようにも思えるのも否めない。
が、それはクライヴの胸中にあるごく個人的な感情で、この場で表に出すものでもなかった。

カローンが歓迎会の為と聞いて仕入れてくれた酒は、それなりの度数もあるものだった。
無茶な飲み方をするんじゃないよ、と彼女は釘を差してくれたが、飲み比べとなればそんな事は忘れられてしまうもである。
ぐびぐび、ぐびぐびと景気良く盃を開けていく男たちに、ラウンジ二階からそれを見ていた女商人は、まあ分かりきっていた事だと呆れ気味に、自分もマグを傾けた。

そうして行く内に、許容量を超えた者から、一人、また一人と脱落者が出て来る。
ガブもそれなりに酒には慣れ親しんでおり、随分と粘ったが、しかし。


「大丈夫か?ガブ。随分顔が赤い……と言うか、少し青いぞ」
「うぐぅ……まだまだぁ……」


クライヴは、隣席で今にも潰れ落ちそうなガブに声をかけた。
口端から飲み込み切れずに滴る雫を手の甲で拭いながら、ガブは手元のマグの中身を煽る。
その向かいの席では、普段を思えば随分と赤ら顔になったシドが座っていた。


「無理はするなよ、ガブ。明日に響くぞ」
「んっぐ……まだまだ……今度こそ、シドに勝ってやる……!」


据わった目がシドを睨むように見る。
シドはくつくつと笑いながら、自分のマグを傾けた。
それを見て、クライヴもやれやれと息を吐き、


「シド、あんたも随分回ってるんじゃないのか」
「あ~……まあ、否定は出来ないな。だが、まだ落ちる程じゃないぞ」
「そうか……?」


確かにシドはガブよりも酩酊してはいない。
いないが、目は半開き気味に見えるし、首筋まで赤らんでいるように見える。
見た目で言えば、ガブにも負けず劣らず、十分酔いが回っている印象があった。

ラウンジのあちこちでは、限界を超えて寝潰れている男たちの姿がちらほらと増えている。
呆れ気味に傍観していた女性たちが、いそいそとブランケットなどを持ってきて、テーブルの上で放置される事になった食器を片付けていた。
こうなれば、このまま酒宴もお開きになるだろう。

どさ、と言う音が聞こえて、クライヴは隣を見た。
椅子に座っていた筈のガブが、床にひっくり返って大の字で寝ている。
遂に落ちたのだ。


「おい、ガブ。おい。……やれやれ」


声をかけても反応しない様子のガブに、クライヴは肩を竦めた。
そんなクライヴを、シドのヘーゼルがじぃっと見詰め、


「お前は随分、平気そうだな」
「ん?……ああ、そうだな」
「酔わない質か」
「さあ、どうだろう」
「ちゃんと飲んでたか?」
「不正をしたつもりはないぞ」


疑われる謂れはない、と睨むクライヴに、シドは本気に取るなよと苦笑する。
実際、クライヴのマグが毎回すっかり空になっていた事は、酒を運んでくれたモリーやオルタンスが証明してくれるだろう。

クライヴは、地面に転がったガブの体を起こして、よいせと背負った。
肩に乗ったガブの頭からは、ぐうぐうと寝息が聞こえている。


「もう起きてるのも俺とあんただけだ。歓迎会もこれで終わりでも良いよな」
「そうだな。ケネス、そろそろ終わりだ。飲み比べの優勝は……ま、クライヴだな」
「あいよ、覚えておく」


飲み比べの優勝賞品は、ケネスが作る数限定のスペシャル料理。
そう言う話だったので、優勝者の決定を伝えておけば、ケネスは片手を挙げて返事をした。

酒をそれ程飲んでいなかった女性たちが、食器類の片付けに勤しむ傍ら、クライヴは潰れている者たちに声をかける。
何人かは目を覚ましたので、自分の足で寝床へ戻るようにと促した。
動かない者は、ガブも含めて、ラウンジの隅にまとまって貰うことにする。
その内に起きて、酒が抜ければ、各々自分の寝床に戻るだろう───何人かはこのまま朝を迎えそうだが。

そしてラウンジが夜の静けさに包まれ、ケネスを始めとした厨房を預かる面々が、終わった終わったとようやくの夕食を始めた頃に、クライヴはシドに声をかけた。


「あんたも部屋に戻って寝ろよ」
「……そうだな。そうした方が良い」


促すクライヴに同意したシドだが、中々動く様子がない。
テーブルに乗せた頬杖に顎を置き、そのままゆっくりと寝に落ちそうなシドに、やれやれとクライヴは手を伸ばす。


「ほら、ちゃんと立ってくれ」
「なんだ、連れて行ってくれるのか。優しい奴だな」


片腕を引っ張り、肩を貸すクライヴに、シドはくつりと笑って、癖のある黒髪をぐしゃぐしゃを撫でる。


「っおい。やめろ、酔っ払い」
「可愛がってやってるんだ」
「そう言うのは必要ないから、歩いてくれ」


マイペースなシドの構い様に、クライヴは頭を振って拒否を示すが、相手は全く気にしない。
トルガルを褒める時のように、わしゃわしゃ、ぐしゃぐしゃと何度も頭を撫でるものだから、クライヴは歩き難くて仕方がなかった。

ラウンジから上へと向かう階段を上る間に、シドは調子はずれな鼻歌を歌い始める。
随分とご機嫌だ、とクライヴは思った。
何にしても飄々とした態度を崩さないことが多いが、こうも判りやすく浮かれているのは初めて見る。
それだけ、今日の酒が美味かった、と言うことなのだろうか。
実際、悪い味ではなかったな───とクライヴも思う。

シドの私室のドアを開けて、ベッドまで連れて行くかどうするか、とクライヴはしばし考えた。
結局、手近な所でソファへと座らせて、部屋の棚にある水瓶を取る。


「これだけ飲んで寝ろよ」
「どうも。お前も大概、世話焼きだな」
「……あんた程じゃない」


差し出した水をシドが受け取り、口元へ運ぶ。
その顔はまだ赤みが強く浮かんでいた。


(弱い、訳ではないと思うけど。そんな風に酔うこともあるんだな……)


出先で何度か、情報収集の為に立ち寄る酒場で、シドが酒を飲むのを見た事はある。
その時は一杯、多くて二杯で終えるから、飲めない訳ではないし、弱いこともないのだろう。
今日はクライヴを除けば最後まで飲んでいたから、強い方と言って良い。
ガブが提案した優勝賞品も、手に入れる自信はあったのではないか。

けれども結局、優勝したのはクライヴと言うことになった。
クライヴはその結果については、正直な所、然程興味を持ってはいないのだが、


(……俺の方が酒に強いのか)


昔から───少年の頃はまた違った気がするが───クライヴはあまり酩酊しない。
ベアラー兵として過ごしていた頃、稀に手に入った猿酒の類を、部隊で寝酒にする者はいた。
中には妙に人懐こい者もいて、クライヴにも酒を進めてきて、仕方なくそれを飲んだこともある。
その時、相手は早々に酔いを回して気を良くしていたが、クライヴは随分と冴え冴えとしたもので、その日の見張り番も恙なく熟している。

そんな事をぼんやりと思い出していると、


「クライヴ。ちょっと来い」


シドの呼ぶ声に、「なんだ?」と言えば、彼は無言で手招きする。
用事があるなら言えば良いものをと思いつつ、取り合えず応じて近付いて見ると、屈め、と言われた。
これもまた言われるままに応じると、ソファに座ったシドと目線が近くなる。
床にしゃがむ形になったクライヴの方が、気持ち程度、シドを見上げる位置になった。

と、ぬぅ、とシドの両手が伸びてきて、クライヴの頭を左右からわしっと掴む。
そのまま、またぐしゃぐしゃと両手で頭を掻き撫ぜられて、クライヴは眉根を寄せた。


「おい。だから辞めろと言ってるだろう、この酔っ払い」
「可愛がってやってるんだ、大人しく受け止めろ」
「この……」


まるでトルガルをあやすように、わしゃわしゃと妙に豪快に撫でまくられて、クライヴは顔を顰める。
やっぱり酔っ払いじゃないか、と上目に睨めば、随分と機嫌の良い眦が此方を見ていた。

───思えば、こうも機嫌の良いシドを見るのは、初めてのような気がする。
出逢ってしばらくは、どちらともに張りつめた所があったし、何よりクライヴはシドを信用していなかった。
シドの方も、目的のあるクライヴを有用に使って、彼は彼の目的があった。
あれから長くはないが、短くはない時間も経って、一緒に行動する事も増えたが、こうも屈託なく笑っているのは珍しい。
これもまた、アルコールの作用によるものだろうか。
そんな姿をクライヴに見せる程に、少しはこの男も、自分を信用か、或いは信頼してくれる位には、なれたのだろうか。


(……ああ、もう。これだから、本当に)


そう思うと、結局は酔っ払いの戯れだと、何処か諦めも混じって、クライヴは抵抗するのを辞めた。
そんなクライヴの様子がおかしかったのか、シドの喉がくつくつと笑う。

結局、シドが一頻り満足するまで、クライヴは彼のされるが儘に任せるのだった。





シドに敵わないことを、年季も含めて仕方ないとは思いつつも、やっぱり何処か悔しいクライヴとか。
28歳のクライヴは、成熟と未熟の中間にいると思っている私です。

何にしてもシドに敵わないと思っているクライヴだけど、酒の耐性についてはクライヴの方がありそう。
でもシドは自分の許容量を把握した上で、完全につぶれない所でセーブしそう。分別のつく内に、あとは飲むふりだけしてる感じかなあとか思ったりした。

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