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Category: FF16

[16/シドクラ]合図の指先



シドはよく他人の頭を撫でる。
それが彼にとってコミュニケーション術のひとつであり、信頼の証であり、情の示し方なのだろう。
だから、娘のミドはとくにそれを表現されるし、ハグやじゃれあいのキスもよくある。
ミドの方もそれを判っているし、父に愛されていると体感できるからか、彼女自身もスキンシップは好きだから、余すことなくそれを受け止めていた。

年齢上、立場上とあってだろう、シドは大抵の人の頭を撫でる。
女性に対しては、礼儀として、其処まで気安くすることはないが、空気や場面として問題ないと見做した時には、軽くぽんと撫でたり、肩を一瞬軽く叩いたりと言うことがある。
その時には決して過度ではなく、また相手の反応もよく見ているから、平時は専ら紳士的な距離感を保っているし、その信頼感あっての行為だ。
故に相手が不快になったり、不信感を持つことは先ずないと言って良い。
男に対してはもっと気安く、社の部下の殆どは、彼に頭を撫でられたことがあるだろう。
古くからの友人に対しては、肩を組んだり、酒を飲み交わしたりと言う具合だ。

クライヴも、よくシドから頭を撫でられる。
仕事で少々失敗してしまって落ち込んでいたり、悩ましい案件で頭を抱えている時など、「ちょっと気を紛らわせろよ」と言うように、クライヴの頭を撫でた。
その時のシドは、幼い子供を慰めると言うよりは、叱られた犬猫をあやすような風があった。
実際、シドにとってはそう言う感覚なのかも知れない。
お前は仕方のない奴だな、と言うように、苦笑しながらぐしゃぐしゃと頭を掻きまわすものだから、クライヴはシドから頭を撫でられるというのは、そう言う“あやす”時のものだと言う認識がある。

とは言っても、シドがクライヴを全くの子供扱いしている訳でもない。
会社での扱いはれっきとした社会人を相手にするそれだし、任される仕事については、それなりに責任を伴うものである。
色々と手をかけて貰った経緯があるものだから、手のかかる奴だ、と思われているのは否定するまい。
だが、それはそれと言うもので、だから簡単な仕事しか任せない、と言うことはないのだ。
十年以上もブラック会社に勤めていたという経緯を持ち、思考停止気味だったとはいえ、其処で有能ぶりを発揮しながら働いていたクライヴだ。
能力についてはシドから見ても申し分のないものであり、クライヴ自身、そうと思っている訳ではないが、生来の真面目ぶりで手を抜かない性分だから、幸いにも相応の結果はついてきた。
そうすればきちんと給料にもその結果は繁栄されるし、案件終了の祝いと言ってシドが持ってくるのはアルコールの類だ。
その酒の席から、同じベッドに入ることも含めて、シドはクライヴをちゃんと“大人”としても扱っている。

だからシドが他人の、クライヴの頭を撫でると言うのは、一番はやはり、信頼と情の証なのだ。
よくやった、と褒めるように、或いは労うように、彼の手は人の頭を撫でる。
それで良い顔で笑ってくれるんだから、誑しだよなぁ、と言ったのはガブである。
クライヴも、全く同感だ、と頷いたのを覚えていた。

年相応に皺も浮かび始めたシドの手は、存外と大きくて温かい。
手のひらの温度が高い人間は心が冷たい───元々はその逆の人を慰める言葉だったのだろうが、じゃあ逆に、と広がった言葉のなんと身勝手なものか───と言うらしいが、シドを見ていたら、それのなんとバカバカしいことか。
道端で倒れていた男を拾って面倒を見たり、職にあぶれて食うに困った男をその場で即会社に引き入れたり、酷い環境にいた者を強引にでも其処から離して守ったり。
それのサポートを昔から続けているオットーには、ご苦労様と苦笑を送るしか出来ないが、とは言えオットーの方も、シドがそう言う人間だと判っているから、長年付き合っているのだろう。
この馬鹿みたいに懐が大きくて優しい男のやる事を、無駄にはさせるまいと思う程の人望が、このシドと言う男にはあるのだから。

だから多くの人は、シドに触れられる事、頭を撫でられることを嫌がりはしない。
始めこそ大なり小なりの戸惑いの反応はあるが、他者にも分け隔てなく行われるそれに、慣れもあって段々と拒否する意味もなくなるのだ。
クライヴも、やたらと頭を掻き撫ぜられるのを「やめろ」と言いはするものの、実際の所、其処に嫌悪感がある訳でもなかった。
どちらかと言えば、子供扱いされることへの反発、と言うのが正しい。
その癖、くしゃくしゃと撫でる手は温かくて、なまじ滅多にそう言うことをされた経験もなかったものだから、どうにも離れがたい心地良さと言うか、安心感のようなものを感じてしまう。
そう言うものを自分が感じていると、とかく敏い男に気付かれたくなくて、辞めろとその手を振り払う仕草をするのも、クライヴの本音にあることだった。

そして、クライヴに限っては、もっと別の理由でその手を振り払えない時がある。



夜になっても気温が下がらない、湿度も高いというものだから、空調はフル稼働させないとやっていられない。
風呂で一日の汗で汚れた身体を洗い流し、すっきりさっぱりとした気分で涼しい部屋に戻ってきて、ふう、と一息。
まだ水分を含む髪を、肩にかけたタオルで気持ちの作用程度に拭きながら、クライヴは水分を摂りキッチンへと向かった。

冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのペットボトルを片手に寝室へ入ると、シドがベッドで本を読んでいる。
ベッドヘッドに背中を預け、少し絞ったスタンドライトの灯りを頼りに、少し厚みのある専門書を読んでいるのは、本の虫であるシドのよく見る姿だ。

じぃっと本を見つめる目は真剣で、また何かの技術書かな、とクライヴは思った。

娘のミドにも受け継がれている事だが、シドは何かと新しいもの好きで、その中でも特に、機械系の技術の進化に目がない。
その技術進化に関する本とは、何も新しい記述に限らったものではなく、古くからあったものについても貪欲で、何処からか古書を手に入れては延々と読み耽っているものだった。
どうして古いものまで調べるのかと尋ねれば、「技術は歴史の積み重ねだ。何の機能がどうして求められたのか、それを良くする為にどう改良されていったのか、知るのは面白いもんだ」とのこと。
元が勤勉な質でもあるだろうし、趣味に関しては凝り性な所もあるから、この類のものは、時代や種類を問わずに掻き集めるので、本棚はその手のもので溢れている。

この手のものにのめり込んでいる時、邪魔をするのは良くないとクライヴは知っている。


(……今日はなしかな)


明日は会社が休みの日だ。
当然、社長であるシド含め、其処で働く者も休みであるから、詰まる所、クライヴは今夜を少々期待していたのだ。
まだ知って間もない、共有する熱の心地良さと言うものは、どうにも忘れ難くて、日に日に焦がれて欲してしまう。
しかしそれに感けて夜更かしをし過ぎる訳にもいかないから、それを求められる日と言うのは限られていた。
だから、明日が休みなら、と言う期待が少しばかりあったのだが、


(これを邪魔するのは悪い)


じっと本を見つめるシドの横顔を見ながら、クライヴは眉尻を下げて苦笑する。
会社の立場もあり、人望もありで、どうやってもシドは忙しいのだ。
読書が好きなのに、こうした隙間の時間くらいしか耽る事が出来ない訳だから、クライヴは諦めと共に恋人の趣味の時間を壊すまいと思い直した。

とは言え、クライヴ自身、このまま寝てしまうには少々時間が早い。
クライヴも読書は嫌いではなかったから、部屋の隅の本棚から適当に物を取った。
シドのように難しい本は無理だが、小説だとか、物語を綴られた類なら、暇潰しには使える。

熱は諦めはしたものの、自分のベッドに入る気にはならなくて、クライヴはシドのベッドの端に座った。
きしりと小さな音が鳴ったが、シドは何も言わなかったので、気付かなかったか、許されているという事だろう。
クライヴは其処で本を開いた。

ファンタジーな世界で繰り広げられる、壮大なドラマを綴る文字を、じっと見つめる時間。
それが一時間程度は過ぎた頃に、クライヴはふと、項のあたりを何かがくすぐっている事に気付いた。


「────?」


文字へと集中していた意識が完全に削がれ、首の後ろのくすぐったさに引っ張られる。
其処に右手をやってみれば、くすぐったさの元に、人の指が遊んでいた。

振り返れば、当然ながら、唯一の同居人がいる。
ずっと本を見ていた筈のヘイゼルの瞳がクライヴを映し、何処か楽しそうな表情を浮かべながら、彼の指がクライヴの首筋にかかる黒髪を遊ばせていた。

本に没頭しているとばかり思っていたシドの突然の戯れに、クライヴの眉間に皺が寄る。


「なんだ?」
「いやあ、何ってことはないんだがな」


項を擽る指を払うクライヴだが、そうすると今度は、後頭部をわしっと掴まれた。
うわ、と急なことに声を上げるクライヴに構わず、シドはぐしゃぐしゃとクライヴの髪を掻き乱す。


「濡れてるぞ。お前、そこそこ髪の量多いんだから、ちゃんと乾かさないと風邪引くぞ」
「別に、放っておけば乾くだろう。おい、こら」
「タオルあるならもうちょっとまともに拭いておけ」


シドはそう言うと、クライヴが肩にかけていたタオルを取って、しっとりとした黒髪を拭き始めた。


「おい。子供じゃないんだ、自分で出来る」
「子供じゃないなら、最初からきっちりやって来い」


尤もな事を言われて、クライヴは唇を尖らせた。
その表情は、クライヴから見て後ろにいるシドには見えていない筈だが、この男はとにかく敏い。
クライヴは努めて表情を隠すように意識して、下唇を軽く噛んで堪えていた。

抵抗を辞めて大人しくなったクライヴに、シドは悠々とした手付きで、髪を拭く作業を続ける。
本はもう良いのかとクライヴが視線だけを動かしてみると、ベッド横のチェストの上に、彼が開いていた本が栞を挟んで閉じてある。
更にその横には時計があり、もうそろそろ日付を越える頃だと言う事が判った。


(……髪を拭くのが終わったら、寝るか)


熱の期待もない代わりに、ゆったりと静かな時間だった。
存外これも悪くはない、と頭を拭いている恋人の手に、現金な気持ちも沸いていた。

────と、すっかり油断していたクライヴの耳の後ろを、するりと滑る指があって、思わずクライヴの肩が跳ねる。
其処は常時の際に何かとシドが触れる場所だから、その感覚を体が覚えているのだ。
思いもよらぬタイミングでやって来たそれに、クライヴが感覚の残る耳を手で庇いながら振り返れば、


「おう、どうした?」


にやついた顔が其処にあって、明らかに動揺しているクライヴを見て面白がっているのが見て取れる。
それがクライヴの、聊かプライドのようなものを刺激するのだが、またそれを宥めるように、シドの手はくしゃくしゃとクライヴの頭を撫で、


「大分乾いたな」


手指に絡む髪の毛に、先とは違う感触や湿度を確かめて、シドは満足そうに言った。
それからその手は、一頻りクライヴの頭を撫でた後、また耳朶の裏側へと滑って行く。


「シド、待て」
「なんだ、今日は気分じゃなかったか」
「いや、そう言う訳、でも、」


なかったけど、と言いかけて、クライヴの顔が赤くなって詰まる。
自分が期待して待っていたこと、その名残で此処に座ったことを、自分から白状してしまった。
正直に自分が熱に餓えていた事を告白したクライヴに、シドはくつくつと喉を鳴らす。

シドはいつもクライヴの頭を撫でている、その手指で、クライヴの燻ぶる熱を煽る。
耳朶の形を撫でた指が、無精髭を生やした頬を伝って、小さな唇の端を掠めた。

もう完全にこの男が“その気”なのだと言う事は、クライヴにも分かる。
しかし、他人への世話気質については多少強引にでもそれを押し通す男だが、懐に入れた者に対して、無理強いの類は絶対に良しとしない。
だからクライヴが此処で嫌だと主張すれば、いつものようにクライヴの頭を撫でて終わりにしてくれるのだろう。
この、唇を掠め、耳朶の裏側を擽って合図を送った、この指で。

紅い顔で視線を彷徨わせ、なんとも言い難い赤い顔のクライヴの米神に、シドの唇が柔く触れ、


「で、どうする?」


あくまで選択権は委ねる男に、クライヴは苦虫を放り投げて、その首に腕を絡みつかせた。





『お付き合いしてしばらく経ってから、シドからのお誘いがどんな感じか』のリクを頂きました。

日々のスキンシップからの、クライヴに対してだけやる仕草みたいな。
頭を撫でるのは色んな人にやるけど、耳を触ったり、口の周りに触れたりとかはクライヴだけ。
そう言う所を触り始めたら合図、と言う感じの二人になりました。

[16/シドクラ]信護の先



ことに無茶をする奴なのだと言うことは、長くはなくても分かるほど、無茶をする人間だと思った。
そうでもなければ、十三年と言う時間の中を、泥の中で生き続けることは出来なかったのだろうし、そうさせる程に、彼が抱えた闇は昏かったのだ。
死すら安いと思う程、己の罪を深く深くその根に刻んだ男は、泥から解放されて尚、タールのように淀んだ世界を掻き分け続けている。

その割に、性根は全くと言って良い程、擦れていない。
根本的に育ちが良いからなのか、それにしたって真っ直ぐ過ぎるな、とシドは折々に思う。
亡国となったがそれなりに影響力の大きかった国の下、嫡子として生まれた以上、決してその環境は、手放しに良かったとは言えまい。
勿論、食うに不自由のない環境と言うのは、この大陸に置いて、数多の人間が喉から手が出る程に欲しがるものだ。
ただ、その代償と言うのか、それが約束されていた代わりに、普通の人間が望まれる筈もないことを望まれ続けていたと言う事を、シドは読み取ることが出来る。
ある意味、その時点でもっと歪みが出ていても可笑しくなかったと思うのだが、敢えて幸いと言うべきか、彼────クライヴ・ロズフィールドはそう言ったこととは無縁だったようだ。

彼は騎士だ。
それは彼自身の骨格そのものになって、彼自身を真っ直ぐに鍛え上げて行ったのだろう。
弱きを、君主を、その身を持って守るものとして、彼と言う剣となった。
それは環境を、人生を捻じ曲げられて尚、折れる事も枯れる事もなく、クライヴ・ロズフィールドと言う人間を作り上げている。

……とは言え、それを理由に度々の無茶を許しておく訳にもいかない。
一応は彼を手元に引き入れる切っ掛けを与え、仮宿に過ぎなかった筈の巣に戻ってきたのを受け入れた者として、これは指導が必要だと思ったことがある。



ダルメキア方面から運び込む予定を組んでいた物資の運搬の護衛に、クライヴを指名したのはシドだ。
ダルメキアは商業が盛んな地であり、其処からクリスタルロードや海を使って、同盟国であるウォールードとの交易も盛んである。
この為、様々な物資───鉱物、香辛料、クリスタル、ヒト即ちベアラーなど───の移動が多く、それを狙った野盗も砂漠のあちこちに隠れている。
勿論、餓えた獰猛な魔物もいるので、護衛なしに砂漠越えをするのは全くの悪手と言うものであった。
シドとオットーもその事はよくよく知っているから、其方の方面から荷の回収を予定する際には、必ず腕の立つ者が同行できるように調整している。

その甲斐あって、荷物は無事に隠れ家まで到着したのだが、どうもその道中、厄介な魔物に襲われたらしい。
報告によれば、種類としてはパンサーだが、異常なほどに大きな個体が群れを引き連れて襲ってきたのだと言う。
どうも砂漠の奥地の方から移動してきた群れのようで、最近、その地域周辺を急速に荒らしまわっていたものだとか。
一行は運悪くそれに鉢合わせてしまい、クライヴがそれと応戦することで、何とか逃げ果せて来たのだそうだ。

そのような事態に見舞われながら、全員が欠ける事なく隠れ家に帰ってきたことは、シドにとっては不幸中の幸いだ。
荷物は、食料の類が少々齧り取られたが、これは別の方法で補えば何とかなるだろう。
だが、換えの利かない要因がしばらく療養を余儀なくされたことは、痛手と言えば痛手であった。


(ま、それ自体は仕方がない。働き過ぎも確かだし、こうでもなけりゃ休まんだろう、あいつは)


そう考えるシドの頭に浮かんでいるのは、クライヴの顔だ。

フェニックスゲートから隠れ家へと戻ってきて以来、存外と面倒見の良い性格と、根の素直さに人望を見出されることが増えて、クライヴは隠れ家の仲間たちから、よく頼まれごとをされている。
以前はベアラーとして長らく過ごしていた為、命令から逃れられない思考と、惰性めいた生き方から、断るのが面倒、と言った雰囲気もあったが、近頃はそれもない。
困っているなら手助けしよう、と言う、お人好しぶりが滲み出るようになって、方々から良い意味で頼られることが増えていた。
それ自体は、彼と、その傍にいる事の多いジルにとっても、良い変化と言えるだろう。

ただ、それはそれとして、クライヴは何かと無茶をするのが良くない。
頼まれごとを存外と気軽に引き受ける傍ら、其処で起こる魔物や野盗との遭遇で、一番危険な場所を買って出る。
それは彼自身が“自分のやれることはこれだ”と見極めているからなのだろうが、如何せん、彼が挑む戦闘に着いていける者が少ない。
それこそ、同じドミナントとしての力を持つシドやジル、相棒として彼を追い続けるトルガル位しかいないのである。
今回はジルの同行もなかったので、クライヴは件の魔物の群れを、ほぼ一人で与ることになったのだ。


(昔からのことだが、人手の問題はいつまでも尽きないな)


燻らせていた煙草を吐いて、シドは短くなったそれの火を消した。
灰皿に押し付けた火が完全に消えて、シドは自室を後にする。

シドの足が向かうのは、医務室だ。
一昨日、件の荷運びの護衛から帰ってきたクライヴは、帰還して直ぐに怪我人の確認をしようと現れたタルヤに見つかり、そのまま医務室へと連行された。
大丈夫だと本人は訴えたそうだが、周囲の誰もが止めなかったのは正解だし、タルヤが強引に連れて行ったのも当然。
目に見えて解る傷と、赤と黒の旅装でも分かるほどの() が浮き出ていたのだから無理もない。

其処から二日が経ったのだが、クライヴはまだ医務室で過ごすことを余儀なくされている。
外に出ると、隠れ家を回って何くれと仕事を探そうとするので、タルヤの許可が出るまでは医務室に軟禁することになったのだ。

だから今日も、行けばその顔が見れるだろうと扉を開ければ、思った通り。


「よう、クライヴ。具合はどうだ」


其処には、診察用の椅子に座り、ロドリグに新しい包帯を巻かれているクライヴがいる。
クライヴはシドがやって来た事に気付くと、首だけを動かして此方を見て、


「問題ない」
「あるわよ」


さらりといつもの顔で言ったクライヴに、部屋の奥から険の滲む声が飛んできた。
無論、タルヤのものである。

タルヤは赤髪を掻き揚げながら、呆れを隠さない溜息を吐いた。


「縫合が必要な傷だったのよ。二日三日で治るものじゃないわ」
「同感だ。痛みも熱もないのは良いが、楽観するなよ」


釘を差すシドとタルヤに加えて、クライヴの隣では、ロドリグが包帯を変えながらうんうんと頷いている。


「フェニックスの祝福なのかしら、貴方は確かに、治りも早いけど。それでも深手を負って死なない体って訳じゃないのよ」
「ああ。すまない、タルヤ。その、ロドリグも」


顔を顰めて言うタルヤに、軽率な負傷患者への怒りを感じたのだろう。
眉尻を下げて詫びるクライヴは、その態度だけ見れば、真面目な患者と言える。
タルヤの方も、彼が判っていない訳ではない、と感じているのか、ひとつ溜息を吐いて話は此処までとした。


「それで、シドはどうして此処に?何かあった?」
「いや。こいつにちょっとお説教をと思ってな」


ぽん、とシドはクライヴの頭に手を置いて言った。
それを聞いたクライヴが、「説教?」と判りやすく顔を顰める。
面倒くさいと言わんばかりの表情は、クライヴがシドにのみ向ける、やや子供じみた表情であった。

タルヤは手短にねと言って、ロドリグを呼び、薬棚のチェックを始めた。
処置が一通り済んだクライヴは、聊か腑に落ちない表情をしながら、病衣代わりの絹服に袖を通している。
その動きは特に傷を庇っている様子もなく、あれだけ酷い傷を負っていた割りに、もう何ともなさそうだった。
実際、彼自身の基準で言えば最早問題のないレベルなのだろうが、それこそが過信と言うものだと言うことを、シドもいつか言わねばならないとは思っていた所だ。


「さて、クライヴ。座ってで良いから聞いとけ」
「……なんだ?」


渋々と言う顔で、クライヴはベッドの端に座ってシドを見上げた。
シドは適当に壁に寄り掛かって、クライヴを見て言う。


「お前の腕は確かに買ってるし、頼りにしてる。お前もそれなりに自負はあるんだろう。だから色々と、厄介な敵の方を引き受けようってしてるのも、俺としても助かってる」
「……それは、別に。俺にはこういう事しか出来ないから、やれることをやってるだけだ」
「ああ、それで良いさ。適材適所は俺も反対しないし、お前に厨房に入れってことも言わんよ」


ただな、とシドは続けた。


「誰かを守るとか、逃がす為に、お前が死んじゃ意味がない。お前はもっと自分を大事にする癖をつけるんだな」
「………」
「お前がいなくなれば、悲しむ奴も、困る奴もいる。今なら少しは分かるだろう?」
「……それは、……ああ」


シドの言葉に、クライヴは何も抵抗はしなかった。
クライヴの頭には良く知る顔が浮かんでいることだろう。
それだけでなく、この隠れ家で共に暮らすことを受け入れた人々の事も。

隠れ家で過ごす者の中には、刻印を除去し、外で魔物退治や荒事を引き受けて皆を守ることを仕事にしている者もいるから、そう言った者を始めとして、時には死に別れる者もいる。
ザンブレクの皇都や、マーサの宿や───一見すれば安全と思われる場所ですら、不慮の事故や、何らかの悪意によって、突然身近な人が喪われることもある。
この優しくはない世界で生きていく中で、それは逃れようのない事実だ。
その優しくない事実から、知り合えた人々を守る為に剣を取り、危険を承知でそれを引き受けてくれるクライヴの存在は、シドにとっても、隠れ家の仲間たちにとっても、有難いものだった。

かと言って、クライヴが傷付いて良いとか、若しかしたら死んでも良い、なんて事はない。


(だが、他人を守るって事は多分、こいつにとっては矜持なんだろうな)


心持ち俯いて、少し気まずそうに、膝に置いた拳を見詰めているクライヴを見て、シドはそう考える。

元々、クライヴは“フェニックスの騎士(ナイト) ”なのだ。
騎士の名の通り、主君であるフェニックスのドミナントは勿論、そのドミナントが帰属するもの───失われた公国ロザリアとその民───を守るのが、クライヴに課せられた役目であった。
それを少年の頃に失い、挙句に自分自身が主君であり何より大事な存在であった弟を手にかけた現実が、クライヴが握り締め続けて来た“騎士(ナイト) ”の誇りを黒く塗り潰した。
既に過去となったその出来事は、クライヴに重い事実と罪を課し、恐らく、一生晴れる事はないだろう。
それを忘れたり、なかったことにしたり、或いは済んだことと置いていくことは、クライヴ自身が許すまい。

そして、大事なものを守れなかった傷は、今もクライヴ自身を膿んでいる。
恐らくは、それもまた、クライヴが何かを無茶をする要因にもなっているのだろう。


(守りたい。失いたくない。守り切ってみせる、今度こそ────そんな所か)


これはシドの想像ではあるが、概ね大きく外れてはいまい。
騎士(ナイト) であるクライヴにとって、“護る”と言うことはそもそもの本懐なのだ。
崩れてしまったその本懐を、今再び彼は己の信のひとつとして、積み上げ直している真っ最中。
その為に、無理をしてでも何でも、“護ろう”とするのだろう。

クライヴがそう自覚しているか、何処までシドの想像が当たっているかは、本人にしか分からないことだ。
シドは敢えて其処を確かめようとはしなかった。
代わりに、俯き気味になってしまったクライヴの黒髪を、ぐしゃぐしゃと掻き撫ぜてやる。


「頼りにはしてるんだ。だから、出来るだけ長いこと、頼らせて貰う為にも、無茶は程ほどにしておけ」
「……ああ。努力しよう」
「返事だけは良いんだがなぁ」


相変わらず、返事だけは真っ当な優等生だ。
だと言うのに、土壇場になると無茶も無謀も厭わないのだから、全く困るとシドは苦く笑う。
クライヴの方はと言えば、そんな反応をされるのは心外だ、と言わんばかりに眉根を寄せている。

ともあれ、言うべきことは言ったし、伝えておけば、彼の頭の端に少しくらいは意識が芽生えるだろうと期待して。
シドはもう一度、クライヴの頭をくしゃっと撫ぜて、


「お説教は以上だ。後はお大事にな」


そう言うと、流石に何度も頭を撫でられて癪に障って来たか、クライヴは唇を尖らせてシドの手を振り払った。
シドは空になった手をひらひらと遊ばせながら、医務室を後にする。

ついでにラウンジにでも寄って行こうと、下り階段へと伸びる道へと進みながら、シドはやれやれと肩を竦める。


(当分は、こっちで大事にしてやるしかないんだろうな)


十三年間、自分を大事にすることは勿論、誰の何も持たないようにしてきたクライヴだ。
自分自身すら捨て鉢に使えた時間が長いものだから、身を守る為のブレーキ意識と言うものは、本当に最低限しか働いていない。
ベアラーとして長らく使い潰されてきたのだから、それで此処まで生きてきただけでも大したものだが、人生はまだまだ続く、続いていかなくてはならない。
ドミナントとして目覚めた彼の生が、何処まで進んでいけるのかはシドにも分からないが、


(俺より先には、逝かせてやりたくはないもんだな)



胸の内にのみ留めるその呟きを、シド以外の人間が知る事はない。





自分で自分を大事に出来ない(やり方が分からない、すっぽり抜けてる)クライヴと、年長者として見てられんなあと思いつつ放っておけないシド。

シドはキングスフォールでドミナントであるとクライヴに明かした時点で「老兵」と自虐混じり、アルティマニアから18歳で覚醒して既に40代後半なので、体の負担としてもクリスタル破壊の目的としても、先が長くないのは分かってたんだろうなあと思ってます。
そんなシドから見て、確かに波乱の人生してるけど、クライヴはまだ若い(FF16の世界観だとこの歳で死ぬことも多そうだけど)んだから、自分より先はやめろよなって思ってる。と良いなと言う妄想。

[16/シドクラ]巡りに乗せて



どうだ、と言ってシドが見せて来たのは、彼お気に入りの銘柄のワインだった。

気軽に飲むならビールだが、一人嗜むのならワインが良い、と彼は言う。
確かに、飲み屋で皆と一緒に賑やかに過ごす時はビールを注文しているが、部屋で考え事をしている時だったり、寝酒に一杯飲むのならば、持ち込んでいるワインを愛飲していた。
だからシドがワインを人に勧める時と言うのは案外と限られている、らしい。
“らしい”と言うのは、存外とクライヴがシドにワインを勧められる機会があるからで、そんなに珍しいことなのか、と言う感覚があるからだ。
ガブにしてみれば、「シドがワインを勧めるなんて、そいつのことが気に入ったって言ってるようなものなんだぜ」だとか。

とは言え、シドの中でも色々とランク付けはあるのだろう。
ワインセラーに収められている酒の中でも、自分用、来客用、特に重要な賓客用と、その時々で彼が出してくるものは適宜変わる。
クライヴの場合は、同居していると言う関係故か、少しばかり特殊で、シドの自分用のワインを時々貰うことがあった。
後は、何某か景品だとか、貰い物だとか、余り名を聞いたことのないワインを手に入れた時の試飲感覚で、シドと一緒に瓶を開ける作業に加わらせて貰う。

クライヴ自身はと言うと、それ程酒に拘りはない。
そもそもが飲食の類にあまり執着がなかったので、シドと同居するまでは、ワインなんて赤ワインと白ワインがあることくらいしか覚えていなかった。
遠い昔、家族が寝静まったダイニングで、父がワインを飲んでいたこともあったが、クライヴにとってワインに関する思い出と言えばそれだけだ。
その頃、分かり易く優等生らしい生活をしていたクライヴであるから、父のワインを飲みたいなどと強請ったこともない。
成人してからは、折々に飲み会に出席する事も増えて、それなりに酒の味を覚えはしたが、それだけのことだ。
今でこそクライヴは幾つかの酒の銘柄を覚えているが、その切っ掛けを与えたのは、専ら周囲の言があっての話で、彼の中での酒の区分は、大雑把に“美味いか否か”と言った具合だった。

それでも、シドが勧めてくれるなら、それは良い酒だと言う事は知っている。
そして、拘りがないとは言っても、美味い酒と言うのはやはり味わえれば嬉しいものであった。

どうだ、と誘ってきたシドの手には、既にワイングラスがふたつある。
断ることを考えていないと言うか、断らせる気がないと言うか。
そんな同居人兼職場の上司に片眉を寄せて笑いつつ、クライヴは「良いな」と言った。


「初めて見るラベルだ。何処のワインなんだ?」
「まあそこそこの有名処だよ」
「あんたがそう言うと怖いんだよな」


クライヴがワインに詳しくないこともあってか、シドは余りそれの詳細を語らない。
しかし、安価なものならそう言うし、貰い物で一切の詳細が知れないのならそれも言う。
だが、値段が上がって来ると、今度は言わなくなる傾向があった。
宅飲みに付き合わせるクライヴが遠慮するのを嫌ってか、構えて飲むのが好きではないのか、そんな所だろうか。
だから、すっかり飲み明かした後で、クライヴが気まぐれにラベルの記載を頼りに調べてみると、結構な金額のものだと発覚することも儘あった。
本当は上客に出す為のものだったんじゃないか、とクライヴが言うと、シドは「良いんだよ」とからからと笑うばかりだ。

結局の所はシドが購入、或いは誰かから貰ったとかの代物であるから、それをいつ開けようと、それはシドの自由だ。
相手も勿論シドが選んでの事だから、クライヴが畏まった所で、大した意味もないのだろう。
ただ、高いものと言うのはやはり、それなりに分かった上できちんと楽しみたい、とクライヴは思う事もあった。

テーブルに置かれたグラスに、とくとくと注がれる白ワイン。
甘い香りがほんのりと漂うのを感じ取りながら、クライヴはパントリーを覗く。


「摘まみでも。何かあったか」
「冷蔵庫の中に用意してある。出してくれ」


シドの指示を受けて、クライヴは冷蔵庫を開けた。
棚の一番下に、スライスされたチーズとパストラミが並べられた皿を見付ける。
夕飯の時にでも作っておいたのか、準備の良いことだ。

摘まみの乗った皿をテーブルに持って行くと、シドはもう席に着いていた。
向かい合う席にクライヴが座り、それぞれグラスを手に取って、軽く当て合う。


「今日もお疲れ様」
「ああ。お前さんもな」


乾杯の代わりの労いは、今日も今日とて忙しかったことへ。
特段、何か事件があった訳ではないが、シドは社長業であちこちに顔出ししていたし、クライヴも営業として足を棒にしていた。
それを無事に終えての一杯と言うのは、やはり、身に染みるものがある。

まずは一口、とシドもクライヴも軽くグラスに口をつける。
淡色の液体はするりと優しい口当たりで、すっきりとした味わいの中に、ほんのりと甘味が感じられた。
美味いな、とクライヴが呟くと、シドの口角が分かり易く上がる。
飲み易さにつられて早々にグラスを空ければ、シドが直ぐに二杯目を注いでくれた。


「随分、機嫌が良いじゃないか」
「そうだな」


クライヴの言葉に、シドはグラスを傾けながら小さく笑う。
普段から気前良く振る舞うことはあるが、こう積極的に酒を勧めてくれるのは珍しい。
大抵は、お互いに自由なペースで飲んでいるから、合判している席であっても、それぞれ手酌で楽しんでいる事が多かった。

二杯目をそれ程間を置かずに飲み開けると、またシドがワインを手に取って、クライヴに差し出して見せる。
どうだ、と言う無言の問いかけに、クライヴはグラスを差し出して答えた。
やはり今日は特別に気前が良い。

クライヴは三杯目のワインに口をつけながら、冗談気分で言った。


「あんた、俺を酔わせたいのか?」


酒を注ぐペースは、クライヴのそれをみだりに乱すつもりはないようだが、シドの目は逐次、クライヴの手元のグラスに向けられている。
飲め飲めと無茶な絡みをする訳ではないが、クライヴのグラスを空かさないように意識しているのが伺えた。
気配りの細やかさはシドの染み付いた癖のようなものだが、それは職場であるとか、仕事付き合いの会食の席ならばともかくとして、自宅で同居人相手にまで発揮する必要のないものだ。
それが今日は随分とまめまめしく自分の世話を焼いてくれる上、美味い酒まで飲ませてくれるものだから、なんだかつられるようにして、クライヴも少しばかり気分が浮ついて来る。

そんな気持ちから言ったクライヴの言葉に、シドは「さてね」とまた口角を上げる。


「お前が本当に酔ってくれるんなら、それもありだろうけどな」


蟒蛇(うわばみ) だからなあ、とシドは付け足して言った。
クライヴはチーズを齧りながら、


「俺だって全く酔わない訳じゃない」
「そうかね。何処でどれだけ飲んでも、ケロッとしてるだろう。ガブみたいにフラフラになった事あるか?」
「どうだったかな。昔はあったかも知れない。覚えていないけど」
「忘れたって訳でもなさそうだがな」


シドの言葉に、クライヴは肩を竦めて返しつつ、


「確かに、余り酔ったことはないけど。この酒は美味いから、若しかしたら酔うかも知れない」
「上等な酒なら酔えるって?贅沢者め」
「やっぱり高いんだな?」
「さあな」


皮肉るように揶揄うシドの言葉に、クライヴがずっと気になっている点を突いてやれば、また躱される。

シドの表情は柔らかく、酒が入っていることもあるだろうが、分かり易く上機嫌であった。
相応の年輪が刻まれた顔が、ほんのりと赤みを浮かせて、グラスを持つ手もゆらゆらと液体を揺らして楽しそうにしている。
彼もそれなりにアルコールには強い筈だが、ひょっとしたら酔い始めているのかも知れない。
シドが酔うと言う事は、そこそこ度数が高いのかも知れないが、相変わらず、クライヴの意識はくっきりさっぱりとしたものであった。
だが、意識の酩酊はなくとも、クライヴも常よりも自分の機嫌が良くなっている自覚はあった。

シドのグラスが空いたので、クライヴは腕を伸ばして、ワインを手に取る。
察したシドがグラスを差し出し、とくとくと二杯目の酒精が注がれた。


「シド。この酒、今日で全部飲むつもりか?」
「なんだ、惜しいか?」
「まあ、少し。気軽に手に入るものでもなさそうだし」
「お前が気に入ったのなら、また手に入れるさ。そうだな、一年後くらいに」
「そんなに手の入り難いのか」
「伝手はあるから、どうにかなる。だが、そうしょっちゅう飲めるんじゃ、有難みも減るだろう」
「随分勿体ぶるじゃないか。でも、確かにそうだな。偶に飲むから沁みるものか」


美味い酒への名残はありつつも、その美味さのスパイスには、確かに希少性も関係するか。
そして、飲める時には、美味い内にそれをたっぷりと堪能するのが良いのだろう。

これを再び楽しめるのは、一年後。
そんなつもりでグラスを傾けると、喉に通って行くとろりとした液体が、酷く恋しいものに感じられる。
ボトルの中身はもう半分まで減っていて、今晩中に空になってしまうのは間違いなく、それは酷く惜しいのだが、また次回があると思えば喉が閊えることもなかった。

機嫌良くグラスを明かしてい恋人を、シドは終始、口元を緩めた顔で眺めている。
これなら、少々手間をかけてでも、用意した甲斐があると言うものだ。
そして今から一年後、今日と言う日がまた迎えられるようにと、今から算段を巡らせるのであった。




大分遅刻ですが、FF16発売から一周年を迎えられたと言う事で、シドクラでお祝いに飲んで貰いました。
この後は二人とも良い感じに気分良くなって、しっぽりしてたら良いと思います。

[16/シドクラ]宥めるてのひら、その温度を



一人暮らしが長かった上に、ブラック企業で歯車と化していた訳だから、多少の無理を押すのが癖になっていた事は、仕方がないとしよう。
良くも悪くも、自分よりも他者を優先する、良く言えばお人好しな性格も手伝って、益々そうした行動が増えていた事も。
とは言え、明らかに体調不良で顔色も蒼いと言うのに、「平気だ」と繰り返すのには呆れた。

同居を始める以前から、そう言った部分は零れ見えていた。
毎日、未明から夜半と言える時間まで、会社で働き詰めであったようだし、寝に帰るだけの家でも、本当に寝ていたのかも怪しい。
目元に酷い隈を作って、とても健康とは言えない顔をしながら、ふらふらと仕事に出ては帰ってくる様子を、いつしか観察するようになった。
その末に、こいつは放っておいたら文字通り駄目になる、と我慢の限界になって、半ば強引に彼を前の職場から引き剥がし、同居まで至ったのである。

そうして一緒に暮らし始めると、益々彼────クライヴの歪な生活が見えるようになった。
此処までの環境の所為で、厭世的な思考になるのは仕方がないが、その癖、他者を見捨てられない人の好さがある。
両手を埋め尽くす仕事が常にないと不安になる、と言い出す位だったから、とにかくシドは、まずはその感覚からこの青年を脱出させなければならないと思った。
先ず限界いっぱいまで仕事は持つものではないこと、誰かを頼るのは決して迷惑ではないこと、睡眠は8時間きっちり摂ること────等々。
良い年をした、一人暮らしも長い男にあれこれと口を出すのはどうかと思わないでもなかったが、引き取った以上は真っ当な人間に戻してやらねばなるまいと、シドは性分もあって根気良く付き合った。
その甲斐あって、同居して一年が経つ頃には、クライヴも大分“普通の暮らし”と言うものが出来るようになっていた。

だが、十年近くも歪な環境にいた訳だから、それにより蓄積された膿は簡単には排出できないのだ。

二日前から少し食欲が落ちている様子はあった。
シドがそれを見逃す訳もなく、大丈夫か、と問えば、「大丈夫だ」と言う返事があった。
その時は確かに顔色もそれ程悪くはなかったし、端に腹が減っていないだけと言われれば其処までのものだったから、シドも注視はすれどもそれ以上のことはしていない。
それから昨日、やはり食欲は普段の半分程で、試しに夕飯をわざと少ない量で皿に盛ると、それを食べきるのもやっとと言う状態。
ついでに、自分が食べている食事が、常より少なかったことについて、彼が気付いているかは微妙な所だ。
皿の上は綺麗に片付いたが、彼の食欲や、恐らくは胃腸の方も不調であることは明らかで、しかし本人はそれを隠したがっている節もあり、さてどうやって切り崩そうかと思っていた。

結局、今朝になって明らかな発熱症状が出た事で、回りくどい事はやめにした訳だが。

食卓につけど、ぼんやりとテーブルの上の料理を見詰めるだけだったクライヴに、シドは体温計を渡した。
計らずとも症状がある事は明らかだったが、此処までの様子からして、クライヴ自身の自覚の有無に関わらず、自分が体調不良であることを認めはするまいと思ったのだ。
判り易く数字が出てくれる方が、妙な所で頑固で意地を張る男を説得するには楽だと踏んだ。

ピピピ、と電子音が鳴って、クライヴが脇に挟んでいた体温計を取る。


「何度だ?」
「……38.9度」
「立派な高熱だ。消化の良いもんだけ食って寝るのが一番だな」


一応の体として並べていた、クライヴの朝食のトーストとスクランブルエッグを取り上げる。
代わりに先んじて用意しておいた、細く切った林檎を置いた。

クライヴは、じっと体温計を見詰めた後、


「……まだ大丈夫だ。仕事も行かないと」
「39度で大丈夫なんて言う奴の台詞に信用性があるとは思わんね」
「解熱剤を飲んでおけば」
「薬ってのは症状を緩和させるだけだ。治す魔法じゃない」
「休んだら皆に迷惑がかかるだろう」
「そんな状態で出勤する奴の方が迷惑だ。移されても困る。お前の今日の仕事は、薬を飲んだら寝て休むことだ」


きっぱりと言い切ってやれば、クライヴは酷くやるせない表情を浮かべる。
まるで小さな子供が叱られたような横顔に、シドはこっそりと嘆息した。

林檎のみの朝食を終えたクライヴに、常備している薬を飲ませて、寝床へと押し込んだ。
これだけの高熱となれば、病院に連れて行くべきだが、生憎とまだ朝早い。
早くてもあと一時間は待たないと、病院に入る事も出来ないだろう。
一人で行かせられる状態でもないし、とシドは先ずは旧友に連絡し、今日の所はクライヴと共に休む旨を伝える事にした。


「────そういう訳だから、少なくとも午前中は出られんな。で、クライヴは今日一日休み」
『分かった。諸々調整と埋め合わせはこっちで片付けて良いな?』
「ああ、任せる」


旧友のオットーは、会社を立ち上げる以前からの長い付き合いだ。
彼に任せておけば心配はないと、シドは今日の代理を全面彼に預けることにした。

通話を切って、朝食の片付けを手早く済ませた後、病院に行くのに必要なものを確認していると、きしり、と蝶番の鳴る音が小さく聞こえた。
音のした方を見れば、寝室のドアが開いて、ぼうっとした表情の男が立っている。
熱に浮かされているのか、青の瞳は彷徨い気味で、何処か心許ない様子が感じられた。

ついさっき、ベッドに戻したばかりだと言うのに、早々に抜け出してくるとは。
呆れた表情を意識して隠しつつ、シドの方から声をかけてやる。


「どうした、クライヴ」


名前を呼ぶと、体格の良い肩がぴくりと震えたように見えた。
クライヴは、まるで悪いことを見付かった子供のような表情で、


「……あんた、仕事は……」
「休んだ。お前を病院に連れて行かなきゃならんしな」
「……それなら俺一人で行けるから、あんたは会社に」
「俺がいなくても会社はどうにでもなるさ。でも、今のお前はそうじゃないだろう」
「……そんな、ことは……」


クライヴは口籠った。
体温計が示した数字や、最低限しか口に出来なかった朝食など、クライヴとしても反論の余地がないことは分かっているようだ。
それならベッドからも抜け出さないで欲しいものだが、とシドは思いつつ、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出す。


「お前、かかりつけの病院はあるか?」
「いや……此処数年は、あまり病院に行った事はなかったから」


クライヴの言うその言葉が、彼が健康優良児だったからではなく、疲弊する中でその選択肢が削られただけだと言う事は、シドにも分かった。
シドが漏れかける溜息を飲み込んで、「じゃあ俺の行き付けでいいな」と言った。
クライヴから示される場所と言うのもなさそうだったので、それで良しと思う事にする。

シドは所在なさげに佇むクライヴを、回れ右させて寝室へと押し戻した。
抜け殻の後だけが残っているベッドに座らせて、取り合えず水分を摂らせる為に、ミネラルウォーターを渡す。
クライヴは透明な水が入ったグラスを見詰めた後、そろりと唇を近付けて、ほんの少し、喉を潤した。
それきり、それ以上は飲む様子のないクライヴに、シドはグラスを取ってベッド横のサイドチェストに置いておく。


「何か必要なものはあるか?」
「……必要な…もの……」


尋ねるシドに、クライヴは反芻するものの、其処から先が出てこない。
熱も高いし、頭が回らないのも無理はないな、とシドが思っていると、


「……よく、分からないんだ。体調が悪い時に、どうしていたら良いかって言うのが」
「子供の時くらい、寝込んだ事があるんじゃないのか」
「……さあ、どうだったか。ジョシュアが寝込んでいるのは、よく面倒を見たこともあったけど」


ぼうとした表情で遠い記憶を辿るクライヴに、シドはひそかに眉を寄せた。

クライヴの昔の話については、本人から僅かに零れ聞く他、その弟であるジョシュアからも聞いている。
シドの会社で働いているジルからも、クライヴ達の幼馴染として、思い出話を聞いたこともあった。
それによれば、幼少の頃の兄弟は、体の弱い弟が度々体調を崩していた事で、兄がそれを甲斐甲斐しく面倒を見ていたと。
兄弟の仲の良さを示すエピソードとしては良いものだが、その反面、クライヴは自分自身が他者の手を煩わせる事のないように努めるのが当たり前になっていた節がある。
両親も───と言うよりは、母親の方らしいが───弟にかかりきりであり、仕事も忙しかった為、よくよく周りを見ていたクライヴは、そんな父母を困らせないようにしてきた。
その為、幼年の頃からクライヴは他人に対して甘える事も少なく、小さな怪我は隠したり、体調不良も人知れず我慢する癖がついたようだ。

幼年の頃から培われた、自分の無理を隠す癖に加えて、長い歯車生活のお陰で、益々自分をあやすことにクライヴは鈍くなった。
シドは、一緒に暮らすようになり、深い仲とも言える今になっても、やはりその歪みは簡単には戻らないものだと実感する。
平時はそれなりに落ち着いたとは言え、こうした綻びが見えると、やはり人とは簡単には変われないのだと思う。

ベッドの端に座ったクライヴは、薄いカーテンを引いた窓の向こうをぼんやりと見ている。
放っておけば、このまま何時間でも過ごしていそうな青年に、シドは癖のついた黒髪をかきあげて、ぐしゃぐしゃと撫ぜ回した。


「……シド?」


普段ならば振り払うものだったが、今日はそんな気力もないのか、クライヴの不思議そうな瞳がシドを見上げる。
シドは一頻り、自分の気が済むまでクライヴの頭を撫でてから、言った。


「病人ってのは、とにかくベッドで大人しくしているのが良い。発熱は体がウィルスに抵抗している証だが、やっぱり体力を奪うからな。とにかく寝て休んで、出来るだけエネルギーの消耗を抑える事だ」
「……ああ」
「と言う訳で、まずは横になれ。熱を逃がさないように布団も被れ」
「……ん」


シドの言葉に、クライヴは大人しく従う。
抜け出したばかりのベッドに改めて横になり、布団を肩まで引き上げた。

横になると手持無沙汰なのか、この状態に慣れていない事への不安か、青い瞳が落ち着きなく彷徨う。
そんなクライヴの頬に、シドが手の甲を当ててみると、赤らんだ頬は案の定熱かった。
そのまま掌で頬を撫でてみれば、彷徨っていた瞳がシドを見上げる。


「……シド。あんた、本当に休むのか」
「ああ」
「……悪い。俺の所為で……」


気まずさに瞼を伏せるクライヴに、シドは彼の高い鼻をつまむ。
んむ、と間の抜けた声が漏れて、シドはくつりと笑った。


「最近、真面目に働き過ぎたからな。丁度良い休憩さ」
「……」
「お前の看病は、そのついでだ」


無論、それは方便の言葉だったが、今のクライヴにはそれ位の方が気が休まるだろう。
それが通用したかは判らないが、クライヴが微かにほうっと息を吐くのが聞こえた。

薬の副作用か、クライヴの躰からは段々と力が抜けて、瞼が重くなっていく。
高く昇って行く太陽の日差しが窓から差し込み、眩しいだろうとその目元をシドの手が隠すと、程なく、緩やかな寝息が零れ始める。
シドは音を立てないように一度立って、厚みのあるカーテンを半分閉めた。
それでクライヴの枕元に届く光は途切れ、当面、彼の睡眠を妨げることもないだろう。



ふと時計を見ると、直に病院が開く時間が近付いていたが、ようやく寝付いた子供を起こすのは気が引ける。
もうしばらくは、ゆっくり寝かせてやろうと、シドは眠るクライヴの頭を柔く撫でてやった。





ブラックな環境から脱出して、ようやく落ち着いて来た位のところ。
クライヴはジョシュアがいたので、子供の頃からそれなりに看病し慣れている所はありつつも、反面、自分が看病されることには慣れてなさそう。原作でも現パロでも。
28歳だと色んな感覚が麻痺している状態だから、無理を無理と思わずゴリ押ししそう。そして周りに心配させたことを怒られてほしい。33歳だともうちょっと落ち着く(でもゴリ押しはするんだと思う)。
そう言うクライヴにあーあーあーって思いながら放っておけずに世話を焼くシドが好き。

[16/バルクラ]ブラインド・マーキング



仕事をしていれば色々な所に出向くもので、其処には様々な匂いが存在しているものだ。
工業製品を扱っている工場に行けば、鉄の匂い、それが溶ける炉の匂い、製糸工場に行けばそれを染める薬品の匂い、食品加工工場に行けば、当然食べ物の匂い。
人と人が集まる場所においてもそれは同様で、生鮮食料品店に行けば野菜や生魚や出来立ての総菜の匂いがするし、スポーツジムにでも行けば、運動する人々の汗や体臭を感じるだろう。
洗濯に使われる洗剤だって、無香料を謡ってはいるが、それにも少なからず匂いと言うものは存在するのだ。
それは洗剤内に使われている薬品や、それの化学反応が作る匂いで、人の快不快に判ずるほど強いものではないので、指標にされる必要がない、と言う程度。
だから体質として、どうしても薬品類にアレルギーが出てしまう人間は、僅かでもそれが感じられると忌避反応を起こしてしまう。
世の中に、本当の意味で無臭と言うのは、まず滅多に存在しないと言って良いだろう。

匂いと一言で言っても、その中身は何万何億と言う種類がある。
人間は動物に比べると鈍い質ではあるが、それでも訓練次第で、その匂いを一つ一つ別のものと判別する事も出来る。
匂いは生き物にとって危険を察知する為の一つの指標であるから、その機能は決して馬鹿にして良いものではない。
野生動物は今もそれを頼りに身を守る術とし、特に目の見えない暗黒で生きる種にとっては、何よりも活かさなくてはならない感覚器官なのだ。

さて、人間は生物の中で匂いに鈍感なものだが、存外と繊細な匂いの差異を気付く事も出来る。
例えばコーヒー豆の違いであるとか、カレールーに使われたスパイスの種類であるとか、煙草のフレーバーの違いであるとか────日常に溶け込むそれらを、人間はきちんと振り分けられるのだ。
嗅ぎ慣れない匂いがするものであれば、それは「知らないもの」として日常的に触れているものとは別物だと判じる。
それは、毎日触れているものである程、敏感に感じる取る事が出来るだろう。

電車に乗っていつものように恋人の自宅へと向かう途中のことだ。
帰宅ラッシュの時間から少し外れて乗った車両の中は、椅子こそ埋まってはいたものの、通路はすいすいと歩ける程度に空いていた。
どうせそれ程間もなく降りるのだからと、吊革に捕まって立っていたクライヴだったが、その後ろから、突然甘い匂いが襲い掛かった。
人工的に強いそれが、香水の類だと悟るのには時間はかからず、ちょっと強いな、と思いはしたものの、気分を害すようなものでもない。
深くは気にせず目的駅への到着を待っていたら、電車が大きく揺れて急停止した。
踏切を越えて自殺をしようとした人間がいたらしく、幸いにも電車の急ブレーキは間に合ったが、お陰で電車の運行は大きく後れることとなる。
巻き込まれた人間は溜息を吐いて待つ他なく、結局、小一時間ほど車内に閉じ込められていた。

予定は狂ってしまったが、最中に恋人に連絡をしたので、あちらは止むを得ないと受け取ってくれた。
それから電車がようやく動き出し、やっと恋人の家に着くと、いつもの渋面に迎えられる。


「悪いな、電車が遅れて……」
「既に聞いた。ニュースにもなっている」


詫びるクライヴに、端的に答えるバルナバスは、到着の遅れを特に気にしてはいないらしい。
拗ねると後を引くんだよなと、そうはならなかったことに安堵しつつ、クライヴは靴を脱いだ。

到着したら先ずはやる事をやらねばと、クライヴは早速キッチンに入る。
二日前に詰め込んだ冷蔵庫の中身を確認すると、予想の通り、作り置きに使ったタッパーのみが消え、食材諸々はそのまま綺麗に残っていた。

電車に閉じ込められている間、時間を持て余すのも勿体ないと、考えておいたレシピに必要な材料を取り出す。
バルバナスはと言うと、対面式キッチンの向こうで、パソコンを開いてじっと液晶画面を睨んでいた。
普段と変わりないその横顔を見ながら、どうせ昼も碌に食っていないのだろうと、まともな食生活意識のない恋人のパターンを思い描きつつ、まずは栄養値の高いものを食わせようと決める。
野菜をヘタや芯まで無駄なく使い、タンパク質の豊富な鶏肉をメインにして、味付けについては簡素に。
何を食べるにしても大して表情が変わる所は見ないのだが、油ものと味の濃いものはあまり得意ではないらしい事は、色々と食べさせている内に分かったことだ。
薄味が良いのは健康を思えば良いことで、とは言え飽きないように───そもそも食に飽きると言う程、彼に執着もないのだが───工夫しながら調理をしていく。

鍋の中でスープをくつくつと似ていると、かたり、と音がした。
見ればバルナバスが席を立っている。
仕事をしていると、数時間でも微動だにせず座っている彼にしては珍しいことだったが、クライヴは特に気にはしなかった。
息抜きか気分転換か、偶にはそんな事もあるらしいと言う事は、極稀に見ることがあるので知っている。
そう言うものだとう、と思ったのだ。

───が、流石に後ろから伸びて来た腕が腹に巻き付いたのには驚いた。


「っバルナバス、」


他に誰がいる訳でもないこの場所で、そんな触れ方をしてくる人間は一人しかいない。
思いもよらなかった密着感が背中にやってきて、クライヴは一瞬動揺した。
背中に重なった男はと言うと、クライヴのそんな様子は気にも留めず、黒髪の隙間から覗く項に唇を押し付けている。


「おい、危ない」
「……」
「聞いてるのか、こら」


調理中に悪戯は怪我の下にしかならないのだから、勘弁してほしい。
図に乗せてはいけない、とクライヴは肘で背中の男の腹を押す。
しかしバルナバスと言う男は、そんな叱る声を気にもせず、ぬるりと生温い舌を項に当てて来た。


「ん……っ」
「……クライヴ」


低く耳に心地の良い声で名前を呼ばれると、否応なくスイッチが入りそうになる。
が、クライヴはぐっと歯を噛んで堪えると、腕を使って振り向きながら、密着する男を押し剥がした。


「料理中だ。危ないだろう」
「後にすれば良い」
「それこそそっちが後にしろ」


聞き分けのない子供を相手にしている気分で、クライヴはじろりと男を睨む。
と、男の方もクライヴに負けず劣らず、渋い表情で睨むように此方を見ていた。
どうも機嫌を損ねているらしいバルナバスに、クライヴは溜息を交えて、


「……一体なんだ。何か用でもあるのか?」
「………」


大概、この男はマイペースで此方の都合を考えない所があるが、幾つかのルールは順守してくれている。
調理中に邪魔をするのも、基本的にはしない事だ。
じゃれあいにしても程度は加減しており、精々甘えてくる所までだったのに、今日は明らかにその先を匂わせている。
ルール違反は明らかなので、仕方なしに理由を問うてみれば、バルナバスはまたも不満げに眉間の皺を深くした。

じっと睨む碧眼に、言葉が少ない男である事は重々承知しているクライヴだったが、やはり言うものは言ってくれないと分からない。
此方から切り崩しにいった方が早いかと思案していると、思っていたよりも早く、バルナバスの方が口火を切った。


「……貴様、何処をうろついて来た」
「何処って───別に、いつも通りに来たつもりだが」


最寄り駅から此処に来るまで、クライヴは特に寄り道した覚えはない。
まさか到着が遅れた事を指しているのかと思ったが、電車の遅れは先に伝えてあったし、事の次第はニュースにもなっていたとバルナバスが言っていた。
妙な疑いをかけられるような覚えはない、とクライヴが眉根を寄せていると、バルナバスは深々と溜息を吐く。


「気付いていないのか。自分自身の事だろう」
「意味が分からない。ちゃんと説明してくれ」


やはりこの男は言葉が足りない。
出会って何十回目になるか、そんな事を改めて実感しながら、クライヴはかみ砕いた説明を要望した。

バルナバスは、この男にしては珍しく呆れた表情を浮かべ、


「妙な匂いがしている。何処でつけてきた?」
「匂い?」


見るからに不快と言わんばかりに、眉間どころか鼻先まで皺を寄せそうなバルナバスに、そうも強い匂いがついているのかとクライヴは首を傾げる。
汗臭いのか、でも今日は汗を掻くほど暑くはなかったし、来るのは遅れたが走った訳でもないし、と腕の匂いを嗅いでみるが、特に感じるものはない。

バルナバスの言う“妙な匂い”を探してみるクライヴだったが、腕も襟も、シャツの胸元も確認してみるが、それらしいものは判らなかった。
そんなクライヴに、バルナバスは「鈍い奴め」と忌々しくも聞こえそうな声色で呟いて、


「背中だ。酷い匂いがする」
「其処まで言うか……でも、背中なんて別に────」


思い当たる節もない、と言いかけて、ふとクライヴは思い出す。
事故未遂で緊急停止した電車の中で、偶々後ろに立っていた乗客が、強い香水の匂いを振りまいていたことを。
その人物は、電車が急ブレーキをした際に、バランスを崩してクライヴの背中にぶつかっていた。
無論意図した事ではないし、ぶつかった本人からも詫びを貰ったし、突然のことだったのだからクライヴも気に留めていない。
だが、おそらくその時、擦れあった服に香水の匂いが移ってしまったのだろう。
それから小一時間は一緒にいたから、距離の近さも相まって、匂いが残ったのかも知れない。


「……電車の中で、近くに香水をつけていた人がいた。それだけだ」
「匂いがそうも移る程に密着していたとでも?」
「密着なんてしていないが……ぶつかったのはある。その後は閉じ込められていたからな。その所為だろう」


クライヴの言葉に、バルナバスはじっと睨むばかり。
心なしかその唇が尖っているようにも見えるが、そんな顔をされてもな、とクライヴは思う。
匂いの下となったであろう人とは、ぶつかった詫びと合わせて、お互いの不運に一言二言交わした覚えはあるが、その程度のことだ。
電車が動き出してからは背中合わせで立っていて、降りたのはクライヴが先で、その後の事は知らない。
その程度でしかないのに、疑うような顔をされても、弁明も説明もこれ以上するものはなかった。

クライヴは、それまでなんともなかった背中が、急にむず痒くなるのを感じた。
バルナバスの舌が触れた項も、心なしか擽る後ろ髪がくすぐったく思う位には、薄らとした熱が宿っている。


(これは、要するに……あれなんだろうな。縄張り意識と言うか)


この家の中は、バルナバスの為に誂えられたものしかない。
寝室、リビング、ダイニングに置かれた調度品は勿論、クライヴが来るまで碌に使われた形跡もなかったキッチンでさえ、バルナバスの為のもの。
クライヴが来るようになるまでは、主であるバルナバスの他は、秘書のスレイプニルくらいしか入った事がないのだ。
旧知だと言うシドでさえ、顔を合わせるのは専ら外で、十数年の付き合いで此処に入ったのは片手で数えて足りると言う。
そうまで徹底されていれば、此処に他人の匂いや気配が微塵のほどに感じられないのも無理はない。

其処にクライヴは他人の匂いをつけてやって来た訳だ。
クライヴ自身は特別に此処に来ることを許容されているが、かと言って、それ以上のものをまとわせて来ることを許可した覚えはあるまい。
“酷い匂い”とも言っていたし、種類問わずに香水の類を嫌う人間もいるものだから、バルナバスにとって余計に不快であったとすれば、意図していないとは言え、悪いことをした。


「悪かったな。飯を作ったら風呂を借りるよ」
「……」
「ついでに着替えも借りる。匂いはそれで少しはマシになるだろう」


これ以上の地雷を避けるなら、それが無難だろうとクライヴは思った。

取り合えずは、夕飯の支度だけは先に済ませておかなくては。
メインの下拵えが済んで、オーブンに入れたら、その間にシャワーを浴びよう────と思っていたクライヴだったが、その腰に太い腕がしっかと回る。


「バル、」


拘束される感覚に、まだ何か怒っているのかと名前を呼ぼうとして、塞がれた。
瞬きをすれば睫毛が擦れあうほどに近い距離で、碧眼が薄暗く熱の籠った色を灯している。
無防備にしていた唇の隙間から、ぬるりとしたものが侵入してきて、クライヴのそれを絡め取った。

耳の奥で唾液の交じり合う音がする。
それはしばらく続いた後、クライヴの呼吸も飲み込んで、ようやく離れて行った。


「っは……なんだ、急に」


足りなくなった酸素を取り込みながらクライヴが抗議すれば、腰を捕まえる腕が益々力を籠める。
離すものかと言わんばかりのその力に、これはもうこっちの話は聞かないな、と悟った。

後ろ手でコンロのスイッチを探り、火を消す。
近い距離にある緑の瞳が、ようやくほんの僅かに機嫌を直して、眉根の皺が緩んだ。
背中を滑る手が、其処にある目に見えないものを拭い取ろうとしているかのようで、少し擽ったかった。





これは多分匂いでマーキングしてた王。

ボディソープだったりシャンプーだったり、部屋のアロマとかだったり(用意したのは全部スレイプニル)を共有してる状態になっているので、知らず知らずにバルナバスと同じ匂いがするようになってたクライヴ。
なのにクライヴが自分のじゃない匂いをつけて来たので、ちょっとお怒りしたらしい。と言う話。

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