[ロクスコ]レンティニュラ・エドーダス
ロックが散策から帰った時、キッチンから胃袋を刺激する匂いが漂っていた。
空き腹だった訳ではないが、一仕事した後の匂いとしては中々魅力的で、ロックの足はふらふらと其方へ向かう。
キッチンはロックにとっては聊か見慣れないものが多い。
スイッチ一つで火が付くだとか、氷もないのに常に冷気を生み出し食材の鮮度を保つ冷蔵庫だとか、水だって蛇口を捻って幾らでも出るなんて、まるで神々の所業だ。
ロックは神など信じていないが、彼の世界の常識からは余りにも逸脱していて、戸惑いも少なくない。
だから料理に覚えがない訳ではないが、使い勝手と言う点で慣れないので、ロックはあまり其処に立ちいることはしなかった。
精々、アルコール類をちょっと失敬する時と、そのついでに摘まめるものを漁る位だ。
そのキッチンに立っていたのは、スコールだった。
料理の出来るもの、このキッチンに慣れている者で回る、夕食当番のルーティンが回って来たのだろう。
スコールは刻んだ食材をまとめて鍋に入れ、火にかけたそれをくつくつと煮ていた。
ロックが帰った時に嗅いだ匂いは、その鍋からのものだ。
「美味そうだな」
ロックが言うと、蒼の瞳がちらと此方を見た。
仲間の帰投を確認したスコールは、直ぐに視線を鍋へと戻す。
「夕飯ならまだ出来てない」
「良い匂いしてると思うけど。ま、確かに時間としては早いよな」
飾り棚の上に置かれた時計は、まだまだ昼日中と言うもので、外も夕方にもなっていなかった。
そんな時間から夕飯づくりをしていると言う事は、時間のかかるものを作っているのだろうか。
ロックは邪魔にならないようにスコールの隣に行き、鍋の中を覗き込んでみた。
薄琥珀色の液体が少しとろみを持って、レードルでゆっくりと掻き回されている。
人参や火の通った玉葱、大きく切ったじゃがいも等々、様々な食材が鍋の中を悠々と泳いでいた。
スープかな、と夕飯を楽しみに眺めていたロックだったが、ふと食材の中にあるものを見付けて、眉間に皺が寄る。
「スコール、これ……」
「?」
「キノコ入ってるのか」
「ああ」
ロックの問いに、何が可笑しいのかと、スコールは表情を変えずに答える。
うう、と小さく唸る声を聴いたスコールが、訝しんだ顔でロックを見た。
「良い出汁が出るんだ」
「う、ああ、うん。それは判るけど。この後、これ取ったりはしないよな……?」
「そんな面倒臭いことはしない。食べるものだし」
スコールの言葉に、そうだよなあ、とロックは溜息が漏れた。
鬱々とした空気を振り撒いて隠さないロックに、スコールは眉根を寄せ、
「……あんた、まさかキノコが嫌いなのか?」
「……察しが良くて助かるよ」
言い当てられて、ロックは多少の恥ずかしさと共に、素直に肯定する。
さっきまであんなにも美味しそうな夕飯だと楽しみに思っていたのに、其処に大嫌いなものが入っていると知った瞬間、気持ちは一気に急降下した。
作ったのがスコールなら、まず味は良いものだと判るし、変に冒険的な味付けに挑戦する事もあるまい。
味付けの調整もある程度個人の好みになるように、まずは薄味として、食卓に並べる調味料で各自が好きに味替えも出来る。
何も心配する事はない────と判ってはいるのだが、どうにもロックは、キノコだけは食べれる気がしなかった。
これは料理をしているのがスコールでなくても同じ事だ。
渋い顔で鍋を見ているロックに、スコールがはあと溜息を吐く。
「好き嫌いがあるなんて、あんたも大概、子供みたいだな」
「これだけだよ。後は何でも食べる。だけどこいつだけは駄目なんだ、昔、毒キノコに当たった事があったからな」
キノコはロックの世界でも食用として親しまれている。
何処でも採取できるような身近な種から、森を分け入って魔物が根城にしているような場所にしか生えない貴重なものまで、幅広く食卓で重用されていたものだ。
しかしキノコはその知識に精通している筈の人間でも、見分けを間違えてしまう程、種が全く違うのに見た目は似ているものがある。
食用として安全なものに混じって、危険な毒キノコが採取され、うっかり酒場で提供されて大事件、なんて事もあった。
一般家庭にもそれは起こり得ていた事で、腹痛や嘔吐、中には幻覚症状を見る者もいる。
ロックは昔から、キノコの匂いや嵩の見た目など、苦手としてはいるのだが、それでも堪えて食べられない程ではなかった。
食卓の友としては余りに身近だったから、避けようとしてもそれが難しい事もあったし、調達が比較的容易なものも多く、当たり前に世話になっていた。
しかし、トレジャーハンターの旅を初めて幾何だったか、山野の中で食糧が尽きてしまった時のこと。
山菜類が豊富な場所だったので、飢えを覚悟する必要はなかったが、その時に調達した食材の中に、毒キノコが混じっていたのだ。
ロックも一応、危険な種類の知識は持ってはいたが、図鑑で見ていたものや、調理場で見るような形とよくよく似通っていたから、間違えてしまった。
それを食べた日の夜は、腹痛と嘔吐で酷い有様になり、一睡もできなかった。
恐らくは幻覚症状も見えていたし、ふらふらと森を歩き回り、魔物の目を避け休める場所を辛うじて見つけた後は、只管腹痛に耐えて過ごすしかなかった。
あれ以来、キノコはどうしても駄目なのだ。
一度でもあんな経験をすれば、安全なものだと判っていても、トラウマが掘り起こされて苦い顔にもなると言うもの。
────と、キノコを食べたくない理由を切々と語ったロックであったが、
「あんたがキノコを嫌いな理由は判った。でも、これは別に、毒キノコじゃない」
「……判ってるけどさぁ」
「キノコは食物繊維が豊富で、人間の体に必要な栄養素を多く含んでいる。食べて損になることはない」
「……」
ロックの世界よりも、遥かに科学的な技術が進んだ世界から来ているスコールだ。
キノコがどうして食べ物として薦められるか、きちんと検証された見地から説明されて、そうなんだろうなあ、とロックも思う。
滋養に良いとされる薬の成分にされるキノコも確かにあるし、食べない方が損、と言われれば否定は出来ない。
しかし、やはり拗ねた顔は消えないロックに、スコールは小さく嘆息する。
鍋を掻き混ぜていたレードルを持ち上げ、掬った具と一緒に、スープを味見用の小皿に注ぐ。
「ん」
「え?」
ずい、と差し出された小皿に、ロックはぱちりと目を丸くする。
ぽかんとした様子のロックを見て、スコールは表情を変えずに言った。
「味見だ。俺はもう何回もしてるから、他人の意見が聞きたい」
「ああ、うん。それは良いけど────」
このキッチンで作られる夕飯は、仲間達に振る舞われるものだ。
舌の趣向もバラバラな面々が集まるから、スコールとしては無難に食べれるようにはしておきたいもの。
自分の舌だけでは偏るし、何度も味見していると感覚も麻痺してくるので、他人にも確認して貰いたいと言うスコールの考えは判る。
判るのだが、とロックが視線を落とした皿には、小さなキノコが浮いている。
恐らくはシイタケだと思うが、それを薄切りにしたものだ。
一口で飲み込めてしまうようなサイズであっても、ロックは中々手を伸ばす気になれなかった。
分かり易い葛藤の中にいるロックに、スコールも気付いたらしく、
「食わないと、大きくなれないぞ」
真面目な顔から飛び出して来た、存外と可愛らしい叱り文句に、ロックは思わず噴き出した。
くくく、と喉が笑うのを押さえられないまま、見た事もない目の前の青年の幼年期を思い描いてしまう。
「お前、そう言われて嫌いなもの食べさせられてた口なんだろ」
「……良いからさっさと味見してくれ」
ロックの言葉に、スコールが見るからに不機嫌に眉間に皺を寄せた。
ずいっと突き出される小皿に、まだ決心のつかないロックは、どうにか躱せないかと頭を巡らせてみたが、そんなロックを見たスコールの表情がふっと陰が付き、
「俺が作ったものが信用できないのか」
「いや、そう言う訳じゃないんだけど」
「アレルギーでもあるのか」
「そうでもないと思う。昔は普通に食ってたし。出汁の入ったスープは平気だし」
「じゃあ一口くらい食べてくれ。それで駄目だったら、夕飯はあんたの皿には入れないから」
だから食べてくれ────と、まるで懇願するような瞳で言うスコールに、これは判ってこの顔をしているな、とロックは思った。
人目を隠れて何度か肌を重ねる間柄になってから、この少年は時々、大胆なお願いをしてくれる事がある。
それは閨の中で、何もかも判らなくなってから見せてくれるものなのだが、それがロックには頗る効果があるのだ。
それを昼日中の台所で見る事があるなんて、不意打ちを喰らった気分だった。
惜しむらくは、それが可愛らしいおねだりではなく、キノコを食べさせることに利用されている事だが。
それはそれとして、目の前のキノコである。
浮かんでいるのは小さな切れ端だが、鍋の中には肉厚のものもあった。
あれを食卓で出されても、ロックは十中八九、手を付けないだろうし、選り分けて残すのが関の山だ。
勿体無いと言えば勿体無いので、そんな残し方をする前に、この切れ端で手を打って貰うのが無難か。
唸りながらロックは小皿を受け取った。
どうやっても渋い顔が消えないロックに、そんなに嫌か、とスコールも思う傍ら、子供の頃の自分も人参嫌いで随分と姉に対して抵抗していた事を思い出す。
結局、スコールの好き嫌いと言うのは、成長の過程でほぼ克服されているが、偶に出先でバッツが調達して来るゲテモノ類は、それしかないと判っていても胃が拒否したがる。
ロックにとって、キノコ類と言うのは、それらと同等の価値なのだろう。
ロックは一つ呼吸を整えてから、勢いよく皿を煽った。
元より大した量ではないので、スープは一口で彼の口の中へと納められ、一緒にあった具も流し込まれる。
スパイスの溶け込んだブイヨンのスープは、程好く塩味が効き、野菜の旨味が染み込んでいて良い味わいを出している。
……のだが、舌に乗ったキノコの感触と味がどうにも苦々しく思えて、ロックの渋面は最後まで解けなかった。
「……食べた」
「どうだ」
「……美味い、と、思う。スープは」
「キノコは」
「……食べれない事は、ない……」
実際、吐き出しはしなかった。
液体を飲み込むのと一緒に、苦い薬を飲むような気持ちで飲み下したので、噛んだ際の味わいは知らない。
それでも食べることは食べたので、最低限の感想だけで許して貰いたかった。
スコールに負けず劣らずの眉間の皺を寄せながら、ロックは手の甲で口元を拭う。
不味いものを食べたとは思わないが、やはり苦手なものは苦手なのだ。
スコールの料理の腕も、このキノコが安全なものだと判っていても、体が本能のように強張るのだから仕方がない。
空になった皿を返され、スコールはやれやれと肩を竦める。
「味はこの辺で良いとしよう。約束だから、あんたのスープにキノコは入れない」
「そうして貰えると助かる」
小皿をキッチン台に置いて、スコールはまたレードルで鍋をくるりと掻き混ぜた。
はあ、とロックは深い溜息を吐いて、大きく息を吸った。
喉の奥に中途半端な閊えがあって、其処に嫌いなものが張り付いているような感覚がある。
恐らくは気の所為なのだと思うが、舌の上にもまだキノコの感触がある気がして、どうにも落ち着かない。
水でも飲んで口直ししようか、と思ったロックだったが、そうだ、と思い付く。
「なあ、スコール。口直ししたいんだけど」
「好きにしたら良い。昨日ジタンが作ったデザートなら、冷蔵庫の中にまだ残ってる」
好きに食べれば良い、と言いながら、スコールは冷蔵庫に向かう。
次の料理に使う食材を取り出す傍ら、彼は冷蔵庫の奥に仕舞ってあった、昨晩の残り物であるパンナコッタのカップを取り出す。
「これで良いか」
「ああ、うん。それも貰うけど」
差し出されたものは厚意であるから、ロックは遠慮なく受け取った。
けれども、ロックが欲しい“口直し”は、これではない。
冷蔵庫の蓋を閉じて、キッチン台に戻ろうとしたスコールの腕を掴む。
まだ何かあるのか、と振り返ったスコールの目の前に、ヘーゼルカラーがあって、スコールは思わず息を飲んだ。
その無防備に薄く開いた唇へ、ロックは自分のそれを押し付ける。
見開かれた蒼灰色が混乱している隙に、ロックの舌がその中へと侵入した。
「んん……!?」
ぬるりとしたものに咥内を弄られ、びくりと細身の肩が跳ねる。
反射的に逃げを打とうとする腰に腕を回して、しっかりと捕まえ、呆然としている舌を絡め取った。
たっぷりと唾液を塗しながら舐ってやる内に、スコールもパニックから状況を理解するまでに意識を取り戻す。
言葉にならない抗議が上がっているのを知りながら、ロックはたっぷりと甘露を堪能させて貰った。
時間にすればそれ程長いものではなかったが、された側にとっては違うのだろう。
ロックがゆっくりと唇を離すと、スコールの足元が蹈鞴を踏んだ。
崩れ落ちそうなその体を、腰を抱いた腕で支えながら、冷蔵庫へと寄り掛からせる。
は、は、と小さな吐息を零す薄淡色の口端からは、飲み込み切れなかった唾液が一筋零れていた。
「……っあんた……!」
「ご馳走さん」
睨む瞳に笑みを交えてそう返せば、スコールの顔が首筋まで真っ赤になった。
「出てけ!」と怒鳴る声を背中に聞きながら、ロックはそそくさとキッチンを退散する。
一瞬、夕飯のスープに大量のキノコが盛られる可能性を考えたが、案外と律儀で人の好い少年は、約束を守ってくれるのだろう。
嫌いなものを頑張って食べたご褒美には十分だと、口元に残る感触を思い出しながら、夕飯を楽しみに自分の部屋へと戻るのだった。
『ロクスコ』のリクエストを頂きました。
ロックってキノコが嫌いな訳でして。
大人になっても嫌いなものって、栄養価が高いとか、安全だとか、理屈は判っていても進んで口にしたくはないものですね。
でも健康には良いものなのでどうにか食べて欲しかったスコールだけど、死ぬほど嫌そうな顔してるから勘弁してあげたらしい。
そしてご褒美も(勝手に)持って行かれたのでした。